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(本編)(楽屋)
Episode6
Chapter2










ドアより響く鍵音。
カチリと伝わる確かな金属音。
結局聞くことになるその騒音には苛立ちの針が一瞬振り切れ、
半ば力任せに2つ目の鍵を押し回しては物音もいとわずドアをこじ開けていく。
スニーカーを脱ぎ捨て玄関を這い上がり、ジャケットやリュックの類も廊下の途中にて次々とかなぐり捨てていく。
そうして最後には自分の体をもまたソファへと投げ出してしまう。
時計を見れば深夜も3時を過ぎていた。
迂闊な物音は家族に迷惑だし、ともすれば近所にさえ響くだろう。




「はぁ…はぁ…はぁ…」


訳もなく心臓がうるさい。
額の汗は不快なほどで、溜め込んでいた苛々に拍車がかかる。




いたたまれず立ち上がると、無造作にコーヒーを淹れつつハーゲンダッツを取り出す。
さらにBGMでも流せばいつものリラクゼーションコースなのだが、
生憎ここは自室ではないし、分量を違えたのかコーヒーの味も微妙におかしい。
かと思えば、たったいま口にしたはずのアイスクリームの味を覚えていない。
慌ててラベルを確かめるも、手元の光景にはただただ愕然とするばかりで。
ハーゲンダッツではなかったのだ。
一体誰が買ってきたのか、全く別ブランドのアイスクリームだった。




「はぁ…はぁ…はぁ…」




気が付けば、先ほど投げ捨てたばかりのリュックを求め廊下へと駆け出していた。
ジッパーをむしり取るかのようにすると、中身をひっくり返し必死に携帯を探す。
財布やポーチに紛れて転がる、パール色の携帯電話。
両手でしっかりと捕まえ、咽元を震わせつつアドレスを検索する。






あ、か、さ行。
さ、し、す、せ…。


…… 『関川恭一』 。










「恭一くん…! 私を…、私を繋ぎ止めて…っ!」




発信ボタンを、押す。








…………。


…………。


…………。








「…………はぁ」


深いため息と共に、手首の力をふっと緩める。
固く握り締めていた携帯を、ゆっくりそっと手放していく。






液晶の向こうに取り残された、恋人の名前。
押されぬままに終わってしまった、受話器マークの発信ボタン。
押すことはなかった。
辛うじて踏み止まれたのは、それこそ最後のひと欠片の分別だった。
時計の方は軽く3時を回っている。
土曜の夜とも日曜の朝ともつかないそんな夜更けに、何らの用件も定まらず携帯を呼び鳴らすなど。
最近の彼はただでさえ激務続きなのに。
昨日の土曜とて朝から出勤だったというのに。
そんなこと、誰より一番よくわかっているはずなのに……。






「……ごめんね、恭一くん…」


薄暗い廊下のもと、ひとり膝を抱えながら。






「本当に私…、どうかしちゃってるよね……」




背中を丸めるように顔をうずめていく。
何の宛てもないまま、ただ沈みゆく気持ちと共に。





























◇     ◇     ◇






翌朝の寝覚めはさすがに芳しくなかった。
『朝』 でないことはすでにお約束のうえ枕元のアラームも12時近いけれど、
それでも夜遊び明けにしては早過ぎるくらい、ツーリングの方も久々で体の節々が微妙に痛む。
普段であればそのまま2度寝していてもおかしくはなかった。
いや、そもそもいつも通りならこうも中途半端に目を覚ますことなどあり得なかった。




「はぁ…」


ここ最近、少しため息が増えたような気がする。
決して切実ではないものの、ふとした時に少しずつ吐き溜めてきているものがある。




「…恭一」




うとうとしてなどいられなかった。
お昼を過ぎればさすがに起きているはず、ならば昨晩果たせなかったあの想いを。
先週末より、いや、暗黙の台詞を含めればもう長らく保留のままにし続けていたあの宿題の答えを、今日こそ。
と、そう心に決めると、体温を測りがてら少しずつ気力を取り戻し、朝ならぬ昼の一歩を踏み出していく。
心持ちを強く保つこと。
それひとつさえあれば、もう何も怖くはないのだから。




















「お、昭乃か。 おはよう」
「うん。 って、もうお昼だけど…」


父だった。
キッチンにて何やら野菜を刻んでいるのが見える。




「昭乃も食べる?」
「なに?」
「オムライス」
「ほんと!?」
「デミグラスソース付き」
「頂きま〜す!」




昼間からそんなに重たくていいのか。
という突っ込みはさておき、こちらはこちらで食器やら卵やらとサポートに回る。
父のオムライスはとにかく絶品なのだ。
デミグラスソースこそ昨晩の残り物とはいえ、ハヤシライスのルーはそれだけでも十分立派なソース。
どうやら起床のタイミングは間違っていなかったらしい、と思ううちにもフライパンの音が鳴りはじめ、
肉や野菜の類を強火で豪快に煽っては同じく残り物のライスと合わせチキンライスへと仕上げていく。
ずしりと重いパンを片手で振るいながら、鼻歌交じりでさも楽しげに。




我が家の父は何気にパワフルである。
日頃からしてナイトタイムにはテニスへと通い、週末ともなれば朝一番からジョギング三昧、
納豆味噌汁卵焼きとしっかり朝ごはんを食べてはガーデニングに日曜大工と午前中を過ごし、
かと思えばお昼過ぎにはもう車を運転してどこかへと出かけて行ってしまう。
実際あの背丈と体格とを見ればそういった暮らし振りも十分納得できそうなものだが、
ところが中身の方は一転してマイペースかつ天然風味ときているのでどうしても枕詞が付いて回る。
片や近所の野良猫たちと井戸端会議をする姿と、片やスポーツ選手もさながらにコートを駆け巡る姿。
両者の同一性は身内の目からしてもちょっとしたカルチャーショックで、それこそまさに 『何気にパワフル』 。







「はい、昭乃の分」
「え……?」




一通り手伝いを済ませ、スプーン片手にお行儀を良くしていた私。
そこへ差し出されてきたその物体には思わず絶句してしまった。
これって……。
…………ラグビーボール?





「ちょ、ちょっとお父さん。 こんな、食べられない…」
「ん? しっかり食べないと病気になっちゃうぞ?」
「えっと、そうじゃなくって……」
「…あ、ちょっと待って? 先に悦子の分、渡してくるから」





と言って、和室の方へと足を向けていく。
お盆の上の小さなお皿には、これまた丸くて可愛らしいオムライスが。
一体どこにあったのか旗までちゃんと付いている。
改めて手元のボールと見比べてみると……。
……さすがにため息が出た。







「な、なんで私だけ…、いつも大盛り……」




と黄昏るのも束の間、空になったお盆を手に父が戻ってくる。
どうやら無事に受け取ってもらえたらしく、無邪気に笑いながら特大のオムライスを切り崩していくのだった。






「う〜ん、今日のは特に美味しくできてる。 この半熟加減とか最高ー!」




うん。
私もそう思うよ。
思うんだけどね…?
お父さん……。

























炬燵の上に残された1枚の食器。
先ほど父が差し入れていた、お子様ランチ仕様のオムライスの小皿。
あの小さな旗は変わらず刺さったままになっていた。
母が口にしたのはわずか半分程度で、その少し手前にてスプーンの切り口は止まっていた。






『お父さんの、美味しくなかった?』


内心では髪が逆立ちかけていた。




『ううん、まぁまぁ美味しかったわ』


顔にも声にも表情が見て取れなかった。
ただひとり黙々と本を読み耽っては、果てしなくコーヒーを消費していくばかり。






人間誰しもが持ち合わせている、生理的欲求。
いわゆる1次的欲求だけれど、少なくとも食欲に限っては我が家の母には当てはまらない。
朝はコーヒーしか飲まないし、昼もコーヒーばかりだというし、そうなれば夜もまた然り。
気分や体調によってミルクを足したりビスケットを添えたりといくつかパターンこそあるものの、
何事もなければまずコーヒー以外に口にするものはなく、まとまった形での食事などはほぼ皆無なのである。
そんな母のことを、父は昔からよく気遣っていた。
先ほどのオムライスとて、半分も手を付けてもらえればむしろ御の字なのかも知れなかった。
……ただ、私の気持ちとしては。
せっかく腕を振るってくれた父の姿を思うと、やはり面白いものではない訳で。






何がよかったのだろう。
あの母の一体どこに惚れて込んで、父は結婚なんてしたのだろう。
あんなに優しくて、力持ちで、今でも十分魅力的なあの父が、どうしてああも無口で無愛想な母と……。






『結婚』


わからない。
いまの私には、まだ……。




『関川恭一』


わかりきっていた。
いまの私には、もう……。






『片桐奈菜』


…………。







まるで仕掛けの入ったルーレットのよう。
何をしたところで、結局最後には彼女のもとへ辿り着いてしまう。
そんな自分にほとほと嫌気が差すと、おもむろに携帯を閉じながら枕元へと背中を預けていく。




認めざるを得なかった。
学生時代に半ば一方的に別れてから3年。
その間約2年にも渡る音信不通を挟み、昨年秋に突然再会して以来半年とちょっと。
時間的猶予はそれこそいくらでもあった。
にもかかわらず私は、この期に及んでなお自らの想いを拭い去れずにいる。
時折海辺の方角を眺めては決まって心に描いていた。
あの勇壮なベイブリッジを超高速で駆け抜けていく、彼女の後姿を……。






『うまくいってないんじゃないの?』




一部ではその通りかも知れない。
学生の頃とは違い、何かと立ちはだかる社会的障壁に歯痒い思いをしているのは事実だ。






『シックリきてないんじゃないの?』




それもまた一理はあるかも知れない。
いまの私たちは半ば遠距離も同然で、実質1時間程度の距離が逆に虚しさを誘うこともある。








……ただ。
それで彼との関係がどうにかなるかといえば。
その答えは全くもって “No” な訳であって。










『代役の野郎がどうにもダメっぽいんでね』




それは違う。
むしろ現時点において最も理想的かつ有望な相手こそ、 『彼』 こと関川恭一その人なのである。
思えばもう3年の付き合いになる。
3年続けば何とやらという言葉もある。
このままの流れで自然と結ばれていくなら、それは人並みの幸せを手にする上でまさに最善の道筋といえよう。
さらにいえば。
そもそもそこに、 『彼女』 の入り込む余地などは残されているのだろうか。
ともすれば人生を占うであろうそんな選択の場に、よもや性別を同じくする人物の名が公然と連ねられるなど。
答えは一言、 「あり得ない」 。
気持ちがあろうとなかろうと、そのような事態だけは決してあり得はしない。
ただ好きであるというのみで全てが許された時期など、いまとなってはもう遥か昔に過ぎ去ってしまっている。






「好きよ。 貴女のことは昔から好き。 ……だからどうしたの?」




結婚出来なければ家庭も築けない。
将来への青写真がまるで描けない。
だとすればそこに選択の余地はない。






なぜ言えないのだろう。
こうもわかり切っていて、なぜ彼女の前では決まって自らを逸してしまうのだろう。
昔からそうだった。
最初に出会ったあの時から、あの瞬間から、今日に至るまでずっと胸の内を掻き乱されてきた。
そしていざ、自律の糸を見失った自分自身の何と脆いことか。
日常の些細な物事にさえ逐一心を揺さぶられ、その度に内面の平衡感覚を余計に狂わされていく。
……昨夜のことにしても、そう。
あれからしばらくの間も薄暗い廊下のもとひとり膝を抱えていた私は、
それでもわずかな気力を掻き集め少しずつ手足の力を取り戻していった。
床に散らばった財布やらポーチやらを適当にリュックのなか押し込むと、
同じく投げ捨てられていたジャケットを脇に2階への階段を上りはじめる。
今度はしっかりと電気を点け、1段1段まるで確かめるかのように。
それでいてなお、自室のドアノブを握る際には背筋全体がズシリと揺れた。
ドアの音が2つ聞こえるような気がした。
すぐ背後にあるもうひとつのドアが、こちらの動きに合わせ突然開くような気がした。






突き飛ばされる感覚。
押し倒される感覚。
締め付けられる感覚。






立て続けにショートしていくその強烈な体感に、半ば反射的にノブを押し回しては体ごと雪崩れ込んでいく。
そしてすぐにもロックをかけると、足腰の力が抜け落ちるまま再びドアを背に深々と座り込んでしまった。
何という有様だろう。
いまだ年端もいかない弟相手に、ああも無様に髪を乱して。
しかも蓋を開けてみれば昨晩を通じて留守だったといい、さすがにここまで来ると思い返すのも嫌気が差す。
最初から誰の影もありはしなかったのだ、あのドアの向こう側には。
そんな無人の部屋にさえあらぬ気配を見立ててしまうほど、昨夜の私は正気の在りかというものを見失っていた。






「それならもう、私は……」


ベッド脇に腰かけ、再び携帯の画面を開く。






様々な意味で潮時なのかも知れなかった。
言うなれば、いまの私などは親離れし損ねた子供のようなもので、
一方ではそれらしい台詞を並べつつも結局は居心地に任せて実家を出られずにいる。
生活には困らないし、余暇もそれなりにあるし、隙を見ては父の車を乗り回すことだって出来るけれど、
そんな一見優雅な暮らし振りとて所詮は成り行きに過ぎず、裏を返せば単なる自堕落というのもまた事実なのだ。
私自身は何ひとつ決断してきてはいない。
従来の居場所に引き続き収まっているという、ただそれだけのこと。






だからこそ、揺らぐ。






ことある毎に揺れ動くのは、自身の立ち位置が不安定だから。
ここへ来てなお揺さぶられるのは、確固たる拠り所が何もないから。
…そう。
いまの私に足りないのは、 “決意” などではなく、 “証拠” 。
論より証拠とはよく言ったもので、私にしろ彼女にしろいい加減あり得ないことばかりにこだわり過ぎなのだ。






「恭一くん…!」


発信ボタンを、押す。






トゥルルルル…。
トゥルルルル…。
トゥルルルル…。




耳元で繰り返される規則的な電子音。
時間的には頃合のはずだが、携帯を持つ手には汗をもまた握り締めていた。






トゥルルルル…。
トゥルルルル……。
トゥルルルル………。








「…はい、もしもし」


寝起きの声色ではない。
それだけでもほっと一息ついてしまう自分がいた。




「もしもし、恭一くん?」
「あぁ、昭乃」
「おはよう。 起きてた?」
「あぁ、お昼前には一応」
「そう」
「昭乃は?」
「ちょうど同じ頃かな?」
「それでおはようなのか」
「ふふふ…♪」




もうすっかり普段のペースだった。
心なしか機嫌もいいようで、挨拶代わりの談笑にも小さな花が咲く。




「そう。 それじゃぁ昨日は早かったんだ?」
「あぁ。 おかげで9時前にはもう寝てた」
「よく眠れた?」
「さすがにな」
「15時間だもんね?」
「軽く3日分だよ」
「ふふふ、お疲れ様」
「あぁ、ありがとう。 …それで?」




そろそろ本題の頃合。




「…うん。 ちょっと話したいこと、あって」
「あぁ、話なら俺の方にもな……」
「え?」
「いや、先に聞くよ」
「ううん、恭一くんから」
「いいのか?」
「うん」
「それじゃ言うけど。 …しばらくの間、飛ばされることになった」






……え?






「飛ばされる…?」
「あぁ」
「どこ?」
「デトロイトだ」
「…アメリカ!?」
「あぁ。 ちょうど来月からで、ゴールデンウィーク前にはもう」
「ちょ、ちょっと。 それって今月中ってこと?」
「あぁ。 それで期間の方なんだが」
「うん」
「少なくとも半年は確実と聞いてる」
「半年…!?」
「それも予定だから。 実際行ってみないと何とも言えない」






う…、そ……。






「…ごめん。 ちょっと前から話はあったんだけど」
「うん…」
「確定してからと思って、そしたら昨日、正式に辞令が出て」
「うん…」
「昭乃の方には、今晩にも連絡しようと思ってた」
「…そう、なんだ……」






…………。






「…それじゃ、次は昭乃の番」
「え…?」
「ほら、何か話したいことって」
「あ、それは…、えっと……」












――貴方と一緒に。
あの部屋で暮らしていこうと思うの――。












「……ううん、何でもないの」
「え?」
「別に大したことじゃないの。 ちょっと声が聞きたくて、…それだけ」
「そう、なのか…?」
「うん」
「そう、か…」
「うん…」
「……」
「……」








…………。












「…ごめん、昭乃」




何かを悟ったような、そんな声色。






「ここ最近、全然余裕なくて」


「今日もこれからすぐ、実家に顔出しにいく予定で」


「でもまだ、時間はあるから。 来週にでも一度会って、ちゃんと話そう」




小声で頷き返すので精一杯だった。
突然の喪失感に目の前が真っ白に染まり、彼の声だけを頼りにひたすら携帯を握り締めていく。
しかしその音源までも次第に遠のきはじめると、最後にはプツリと途切れその行方を見失ってしまった。




――ツー、ツー、ツー。




余韻にしてはあまりに無機質な電子音。
抜けゆく力に携帯を取り落とし、焦点もおぼつかないまま呆然と沈み込んでいく。
何も考えられなかった。
考えるべきことはすでに尽くされていた。
……それなのに。






見詰められる感覚。
抱き寄せられる感覚。
重なり合う、唇の感触。






昨晩の弟に続き、半ば持病と化したもうひとつのイメージがここぞとばかりに込み上げてくる。
感触生々しい記憶の数々が、粘液もさながらに全身の至るところへと絡み付いてくる。
恐怖であるのか、嫌悪であるのか。
その嘔吐感にも似た発作的な衝動に内蔵を揺さぶられた私は、
咄嗟に口を押さえ悶えるようにして自らの体をくの字に折り曲げていく。






その時だった。
枕元に落ちた携帯が突然鳴りはじめる。






「恭一くん…!?」




藁にもすがる思いで再びつかみ取る。
……しかし。
液晶へと映るその名は、全く予想だにしないものだった。


















『岸本香澄』




音もなく息を飲む。
波打つ横隔膜が瞬時に硬直し、3度4度と呼出音ばかりが繰り返されていく……。


















































次回、後編をお送り致します。
ご期待ください。








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