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ミスキャスト (中編) Episode4 |
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Chapter2 |
「それで奈菜。 あなたの方はどう?」
信号のせいか、不意に沈黙する背後のバイパス。
視線の向こうぼんやりと浮かぶ米軍基地の姿もまた同じく静止画と化していて、
その白熱灯が描きだす光沢の揺らめきを除いては、あるいは時間の流れを見失ってしまったかも知れない。
黄金色に煌めく漆黒の海と、鼓膜を撫でゆく淑やかな潮の気配。
唐突に訪れたそんな静寂のなか、私はふとそう尋ねていた。
「誰かいい人、見つかった?」
問いかけの内容自体に意味はない。
それについての回答なら、もう1週間も前に彼女自身の行動をもって為されている。
しかし、その答えでは駄目なのだ。
その選択肢の末路には何らの展望もない。
仮にも同性同士のふたりに、まともな将来などあろうはずもない。
「男? 男なら別に不自由してないけど? くく♪」
「奈菜」
「ん?」
「さっき、ナギくんのこと言ってたでしょう?」
「うん」
「それってもしかして、見つかったってことなのかな」
いい人。
「…って、女子高生が? くっ、くくっ…♪」
「……奈菜。 その話はもういいの」
「え?」
「本当に大事なのはナギくんのことなんかじゃない。 そうでしょう?」
「は? 何の話?」
……。
この期に及んでなお白を切るつもりか。
ご苦労様なこと。
しかし貴女の態度がどうであれ、あの晩の出来事をこのままうやむやにしてしまうつもりはない。
「私たちもそろそろ、そういう歳なんじゃないかってことよ」
25歳。
もうそろそろ、誰かいい人が側にいてもいい。
単に好き合うだけではなくて。
先の見えない関係ではなくて。
共に将来を描けるような、そんな人がすぐ側にいてもいい。
「トシ…? って、あぁ、歳のことか。 オトシダマのトシ」
「そっちでもいいけど」
「あれぇ? 昭乃っていまイクツだっけ? まだオトシダマとか、もらってるんだったっけ?」
「あなたと同い年よ、奈菜」
「…そっか。 そういやそうだった。 そうだった、ね……」
すると彼女は、生返事と共にジャケットの懐から煙草を取り出す。
日の丸によく似たロゴを刻む、ラッキーストライク11mg。
丸みを帯びた光沢を放つ、ワインレッドのオイルライター。
髪型や服装がどれだけ変わっても、例えバイクを何台乗り換えても、
この組み合わせだけは決して変わることのない彼女のトレードマークだった。
そうして無造作に火を点けると、いつものようにまた白く濁った煙を吐息に混ぜ吐き出していく。
つい先程までの愉快な雰囲気と無邪気な笑顔とを道連れに、闇夜の澄んだ空気のもと溶かし込んで消し去っていく。
「今はね、まだこんなこと言うのは全然早いと思う」
口火を切ったのは、私の方。
「でも20台はあっというまっていうし、そしたらもうすぐに30でしょう?」
「それで気が付いたら周りに誰も……なんてことにはなって欲しくないの、あなたには」
「私、あなたにだけはちゃんと幸せになって欲しい。 将来のこととか、ちゃんと考えていて欲しいの」
一体何様のつもりなのだろう、私は。
よりにもよってこんな台詞を、ましてや彼女相手に面と向かって。
彼女をここまで本気にさせたのは、誰あろう私。
そんな彼女を一方的に捨てたのも、誰あろう私。
そう。
全ての原因は、私自身にこそある。
学生時代のさなか幾度となく重ねてきたあの無責任な行動の数々が、
今頃になって彼女の身の上のもと暗い影を落としはじめてきているのだ。
……でも。
だからこそ、私は……。
「……く、くくっ…」
……?
「くくっ、くくくくくっ…」
……何?
何を笑っているの?
思わず振り返りその表情を確かめる。
するとそこには、ベンチの背に片腕を回しながら額に手を当て天を仰ぎ、
大きく肩を震わせるまま笑い声を漏らしはじめている彼女の姿があった。
そしてそれはみるみるうちに声量を増し、いよいよ奇声にも似た高笑いへとその様子を変えていく。
「はははははははははははははははははははは!」
まともな笑い方ではない。
それこそ半ば狂気じみたものさえ感じるほどに。
「何が可笑しいの?」
「ああ可笑しいね!」
釈然としないまま抗議の視線を送るも逆にその身を乗り出すように鼻先を突き付けられ、
怒っているのか笑っているのかわからない独特な表情にて至近距離から睨み付けられた。
大きく見開かれた両の目に、嘲笑的なまで歪められた口元。
思わず絶句する。
こうも強烈な表情を見せる彼女は実に久しぶりだった。
少なくとも私自身に対しては、かつて向けられたことのない類のものだった。
「昭乃。 アンタいつのまにそんなシアワセになってたわけ?」
目付きや表情から、声の抑揚に至るまで。
「アンタにはいるの? そのナンタラって王子サマがすぐ側に? くくくくっ!」
彼女の存在全てが、見る影もなく好戦的な嘲りへとすり替わっていく。
……が。
問いかけの内容自体は全くの愚問でしかない。
私にはすでに恭一がいる。
そんなことは彼女自身の記憶にもまた浅からず刻み込まれているはずで、
反面、その実態はもはや彼女の知る頃のものとは大分移り変わってきている。
そう。
いつまでも変わらずにいるのは、貴女ひとりだけ。
貴女がなお、それら “危ないオモチャ” の類に持てる限りの資財と情熱とを捧げ続けていた間にも、
私達ふたりの関係は、すでに結婚というそんな言葉さえ半ば暗黙の了解というところにまできていたのだから。
「あっそ。 じゃ、この前のあの態度は一体何?」
……?
……この前?
「先週飲んだ時の話。 まさかスッカラカンとか言わないでよ?」
まさか。
あの晩のことは忘れもしない。
1度に2人もの相手に寝首を掻かれたあの日の記憶を、よもや忘れることなどあろうはずもない。
そもそも、その台詞は貴女の方から口にするべきものではないでしょう?
泥酔した隙にまんまと連れ込んだうえ、未遂にまで及んだのは一体どこの誰だったと…っ!?
「そっか。 何も覚えてないんだ」
……?
それだけを口にすると、一瞬目を伏せながら私の間近より引き下がっていく。
そしてベンチの端っこで足を投げ出すようにしては、またも明後日の方へと向かい白い煙を吐き出していった。
すぐ足元に目をやれば、薙ぎ払われ中身を失ったペットボトルと、無造作に散乱し踏み躙られたスナック菓子。
にわかに廃墟と化したそんな光景の下、明滅する煙草の灯が周囲に漂う潮の気配を音もなく掻き消していく。
それはあたかも、暗示か何かのように。
「……あの日。 ちょっと早めに切り上げようとしてたら、急にミドリの奴に誘われてね」
『 ミドリ 』 。
私や森嶋さんらと部署を同じくする3つ年上の先輩で、
以前より奈菜にご執心だったあのセミロングの女性の下の名である。
……そうか。
それがあの晩あの席に奈菜の姿があった脈絡であり、
その先輩の目論見を見事お釈迦にしたのが私自身という……。
「正直、あんまり乗り気じゃなかったんだ。 最近寝不足だったし、バイクの面倒も見たかったし」
「でも行けば行ったでまた面白い娘がいるじゃない? 何てったっけほら、あのやたらキャピキャピした」
「これがまた喋る端から色んなボロが出るわ出るわ。 墓穴だって掘り放題でさ。 もう面白くなっちゃってね」
さすがというべきか。
あれほど親しげにして、名前のひとつも覚えていない。
「そしたらほら、誰かさんがダウンしちゃって」
……。
「アレには笑ったよ。 一体どこの学生かって。 くくっ…♪」
……。
それはまぁ、確かに、その通りだけど…。
でもそれは、それこそ誰かさんが森嶋さんに手を出しやしないかと神経を尖らせていたからで……っ!
「何もなかった。 あの晩あたしは、見ての通りただ飲んでダベってただけ」
「店を出た後もまっすぐ帰るつもりだった。 幸いミドリの奴にも捕まらずに済んだことだし」
「だからあのままいけば普通に終わってたんだよ。 はい皆さんまた来週さよーならー、って何事もなくね」
しかし、実際には。
「そう。 終わるどころか、あの展開と来たもんだ」
あの展開。
「さすがに予想外だったよ。 あれから1週間経つけど、いまだに訳がわからない」
……。
……違う。
違うでしょう。
『予想外だった』?
『訳がわからない』?
貴女この期に及んでまだそんな台詞を口にして、いい加減にしなさいよ。
あの晩の出来事にいまさら疑いの余地などありはしない。
あるのはただ事実だけよ。
酩酊をいいことに連れ込んだという、あの非常識極まりない客観的事実だけ。
……そう!
あの晩貴女は、親友であるはずの私を!
せっかく再会できて、ずっとうまくやってこれていたのに、それをなりふり構わず……っ!
「誘ってきたのは昭乃、あんたの方だった」
その台詞は、いまにも食ってかかろうかという私を他所に。
崩れかけの吸殻を退屈そうに眺めながら、表情ひとつ変えず、視線さえ合わせぬまま淡々と。
「あんたが先にキスしてきたの。 あたしの名前を何度も、何回も繰り返して」
思考より先に平手が飛んでいた。
が、呆気なく手首を制されると、逆に吸殻を手放した方の手で胸ぐらをつかまれ強引に引き寄せられる。
「何よそれっっっ…!!!」
怒号がすぐ後を継いでくるも、目と鼻の先の彼女は瞬きもしない。
喧嘩慣れしているのは百も承知だが、その平静ぶりにはこちらの方が正気を失いそうになる。
「何よそれ…っ!? 何なのよそれ…っ!?」
「何って。 ちょうど抜け落ちてるんじゃないの? この辺りのピースが」
「嘘っ…!」
「嘘じゃないって」
「嘘よっ!」
途端に彼女の目がギラついた。
「……嘘? このあたしが? 本気でそう思ってんの?」
……。
……思わない。
自身に纏わる嘘は決してつかない。
しかしそれでは。
それでは……!
「ねぇ昭乃。 あんた本当は、キョウの奴とうまくいってないんじゃないの?」
――――っ!
不意に湧き起こる、目も眩むような強烈なフラッシュバック。
頭の奥の方で真っ白なストロボを連続して焚かれると、その度に何かしらの像が網膜へと映し出されてくる。
この人は……。
このスーツの男の人は…………。
……斎藤君?
どうしたの…?
そんな、心配そうな顔をして……?
『片桐さ…、でし…っけ? 僕ちょ……冷た……のでも買っ……ますん…』
『ちょっ……丈夫? 君だっ…かなり回っちゃっ……んじゃな……?』
『大丈…で…。 …ぐ戻っ…きま……で、ここで待……いてく……い』
『わかっ…。 そこの角を……っと行けばす…コンビニだか…』
それはまるで、ポラロイド写真か何かのように。
一部欠落していたあの晩の記憶が、少しずつ鮮明な像として脳裏へと浮かび上がってくる。
『本当…大丈夫な…ですか? 片桐さ…ひとりだけ…?』
『あたしんちすぐそ…なのよ。 これ飲んだらすぐ連れて…から、大丈夫大丈…』
『あ、そうな…ですか。 それじゃぁ藤崎さ…のことよろ…くお願いします』
『君の方こそ……の? ほらそんなに足元ふら…いて、飲めないのに無理す…から……』
『はっ、ははは! 藤崎さん相手で…たら本望ですよ! はははは!』
『そっかそっか。 それなら送り狼になら…いうちに帰った帰った』
……そうだ。
あれから店を出たところまではよかったのだけれど、少し行くと突然歩けなくなってしまって。
2人に片方ずつ肩を貸してもらっては、その辺りのビル陰にて少し休むことにしたのだった。
そこで一通り世話をかけていた斎藤君には先に帰ってもらうことにし、それから、その後は……。
『お〜い昭乃ー。 ジュースだよジュースー。 美味しいよ〜♪』
『……ナナ……ナナ……どこ……?』
『はいはい、ちゃんといるから大丈夫大丈夫。 ほら、冷たいジュースでも飲んで……』
『…………ナナ…………好き…』
『は?』
『ナナ……ナナ……、…………大好き…』
『……あーあー、ちょっとあんた。 何そんな馬鹿なこと言ってないで………………って、んむ!?』
半ば呆れたような表情にてこちらを覗き込んでいた彼女。
その張りのある首筋のもと両腕を絡めるようにすると、少しだけ力を入れて抱き寄せる。
彼女がバランスを崩すにはそれで十分だった。
手元から滑り落ちたアルミ缶が、乾いた音と共にタイルの上を転がっていく……。
「昭乃。 あんたもしかして、いまだに迷ってるんじゃないの?」
はっとして目を見開くと、その瞬間ふたつの視線に網膜を射抜かれていた。
ひとつは、彼女の瞳が刹那引き絞って放つ鋭利な白刃。
そしてもうひとつは。
瞳孔の向こうよりじっとこちらを見定める、私自身の静かな眼差し。
「アレからもうずいぶんになるけど、それでもアンタ、ほんとはまだシックリきてないんじゃないの?」
奈菜の視線はまだよかった。
少し目線を逸らせば、それだけで済む。
瞼を閉じてしまえば、もう目に付くこともない。
ただ。
その瞳の奥にある “彼女” の眼差しには、抗いようがなかった。
いくら目線を逸らしても、例え目を瞑っていたとしても。
それから逃れることは決してできないような、そんな気が自ずとしていた。
金縛りのように息が詰まる。
背筋を伝う汗に唇が震える。
奪われた瞳を取り戻そうにも、すでに瞬きひとつ適わない。
「まぁいいや、別にどっちでも」
打って変わって投げやりな口調だった。
「どっちにしろ、あたしの腹はもう決まった」
唐突に手首と襟首とを手放すと、一度視線を外し胸元の煙草へと指先を伸ばす。
年季の入ったオイルライターの奏でる、甲高くも丸みのある音色。
途端に立ち上るオイル臭に、煙草の葉の燻り出すわびしげな気配。
そうしてまた同じように白い煙をひと吐きすると、抜殻よろしく呆然と座り込む私を上から覗き込みながら、
普段と何ら変わらない、いかにも彼女らしいひょうきんな笑顔をしてこう言ったのだった。
「一度は降りた舞台だけど、代役の野郎がどうにもダメっぽいんでね。 悪いけど復帰させてもらうわ」
◆ ◆ ◆
「いい加減にしろ山名っ…! お前には関係ないだろっ…!?」
初めてだった。
こんなにイライラしている翔先輩を見るのは。
「関係ありますよっ! 関係おおありですよっ!!」
普通に怖いと思った。
怖い顔をした翔先輩は、ただそれだけでショックだった。
でもあたしは、そんなプレッシャーにも負けずどこまでも喰らい付いていく。
もう決めたのだ。
今夜のうちにハッキリさせるんだって、いい加減にケリをつけるんだって。
そう心に、決めたんだから。
細かな路地の多い西口の繁華街は、ちょっと奥に入るだけですっと人気がなくなったりする。
雑居ビルの合間に飲食店やゲームセンターが立ち並ぶ路上には人足もまばらで、
昼間からしてそんなものだから夜も10時とか過ぎるとかなり薄気味悪げになることも。
ま、実際にはそんな路地裏の事情なんか全然お構いなしで、あたしたち2人はまさに対決の時を迎えていたんだけどね。
「ちゃんと言ったじゃないか、お前とは付き合えないって…っ! 何度言えばわかるんだっ…!?」
ここへきてまだ人目が気になるのか、いかにも落ち着かない様子で声を押し殺す翔先輩。
その中途半端に散漫な態度が、余計にあたしの燃える闘魂へとガソリンを注いでいく。
もう怒った。
ていうかマジでキレそう。
1,2,3……っ!
「付き合ってるじゃないですかっっ!!」
大きな体をびくりと震わせ絶句する。
その一瞬の硬直を見逃すことなく、ここぞとばかりに一気に畳み込んでやった。
「毎回毎回ふたりっきりで出かけてっ、映画見てっ、ケーキ食べてっ! どこが付き合ってないんですかっ!?」
「あたしがどんな気持ちで先輩のこと誘ってたと思ってるんですかっ!? ただ遊びたかったからですかっ!?」
「先輩の方こそ、こうやってゆわないとわからないんですかっ!? あたしのこと、バカにしてるんですかっ!?」
見れば見るほどタジタジだった。
その顔からしてもうシドロモドロなのがバレバレで、1歩にじり寄ればそれだけで2,3歩は後ずさりそうな勢い。
色んな意味で、押しに弱いところは相変わらずだと思った。
いかにも先輩らしいといえばその通りなんだけど、それだけに胸の痛みも大きくて奥歯を噛みながらぐっと我慢した。
「な、なんだよそれっ…! バカにするって…、俺はただ、いつもお前が誘ってくるからっ…!」
「誘われたら誰でも付いて行くんですかっ!? そんなの無神経ですっ! 迷惑ですっ!」
「迷惑!? なんだお前、せっかく都合付けてやってたのにそれならもう付き合わないからなっ!」
そう。
翔先輩はいつだって、断らなかった。
忙しそうな時でも、疲れていそうな時にでも、あたしが誘えば必ず付き合ってくれた。
それが許せないんだ。
他に好きな人がいるくせに。
あたしが好きなのを、知ってるくせに。
「なんでっ、どうしていつまでも、あたしなんかと遊んでるんですかっ!?」
昂ぶる感情を、抑えられない。
「好きな人がいるって、そうゆってたじゃないですかっ!」
「あたしのことなんか構ってないで、その人と一緒にどこでも行けばいいじゃないですかっ!」
「どうして、なんでいつもあたしなんかと…っ! あたしがなりたいのは、あたしがなりたかったのはっ…!」
……。
仲のいい友達。
ちょっと仲良しなだけの、友達。
そんなキャラなんて大嫌いだった。
ずっと一緒にいるのに、本当に好きな人はどこか違うところにいる。
いつだって同じ舞台を踏んできたはずなのに、どこかあたしの知らない場所に本物のヒロインがいる。
嫌だった。
そんなのだけは、絶対に嫌だった。
だけど。
今のあたしにこれ以上どうしろって言うんだろう。
毎日のように顔を合わせて。
凸凹コンビと呼ばれるくらい一緒にいるのが当たり前で。
春休み中なんて、それこそ学校で会えないぶん余計にコンタクト取ってきてたのに。
それなのに。
フタを開けてみたら、結局ただ “仲良くなった” だけ。
“仲良く” なりたいだなんてそんなこと、全然考えてなんかいなかったのに……。
「……香澄先輩の時も、そうだったんですか?」
瞬間、先輩の視線が止まる。
「香澄先輩の時も、そうやって都合よく付き合ってたんですか……?」
息を飲む音が、ここまで聞こえてくるような気がした。
……。
…何だろう。
何だろう、コレ。
体の奥の方から、何かドス黒いものがすごい勢いで溢れ出してきてるのがわかる。
あの人なんか、香澄先輩のことなんかあたしたち2人には全然関係ないのに。
あたしはただ、いまのこのキャラがどうしても嫌で。
嫌なら嫌で、脚本をまるごと書き換えるか舞台そのものを降りるかしか思い付かなくて。
だけどやっぱり、お話自体はどうにもならなくて、それならもういっそあたしの方からって。
そう考えて……。
「気付いてましたよ、香澄先輩。 付き合ってた時からも、ずっと」
やめて。
いまさらそんなこと、言わなくてもいい。
「何で付き合ってたんですか? ずっと好きな人、いたのに」
そんな人、あたしには関係ない。
わざわざ訊いたのは、こうやって啖呵を切る口実が欲しかっただけ。
「何でゆわなかったんですか? 付き合ってたのに。 彼女だった人なのに」
元カノだって関係ない。
あたしが決着をつけられるのは、結局あたし自身のことだけなんだから。
わかってた。
頭では全部、わかってた。
だけど。
一体どこから湧いてくるのか、その真っ黒いコールタールみたいなドロドロに手も足も縛られて身動きが取れない。
自分がいまどんな目付きをしているのか、わからない。
自分の口がいま何を喋っているのか、自分でわからない。
あたしがあたしを、止められない。
「先輩がゆわないからっ…!」
「最後までちゃんとゆわないからっ…!」
「だから香澄先輩っ、ひとりで勝手にっ……!!」
どんどん青ざめていくのが自分でわかる。
顔の汗はまんま冷汗で、それでもまだ口の方が止まってくれない。
そしてとうとう、その時が来た。
「…………言えるわけないだろう…っっ!!!」
聞いたことのない声。
翔先輩の、怒鳴り声。
怖かった。
もう耐えられそうになかった。
目を瞑って身をすくめるだけで、もう精一杯。
これ以上何か言われたら、あたしは……。
…………。
…………。
…………?
恐る恐る、顔を上げてみる。
するとそこには、口元を歪めながら無言でうつむく翔先輩の姿があって。
目をぱちくりさせて下から覗き込むと、その濁ったような視線に一瞬はっとする。
「翔、せんぱい……?」
先輩の顔は、相変わらず怖いままだった。
だけど、なぜだかあたしの目には。
まるでいまにも泣き出しそうな、そんな顔のようにも見えていた。
次回、後編をお送り致します。
ご期待ください。
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