休日の微睡み
(前編)
Episode2
()()(楽屋)
Episode1
(目次)()(楽屋)
Episode2
()()(楽屋)
Episode3
Chapter2










白い、白い光。
カーテンの隙間より差し込む、さわやかな朝の光。
暖かい、暖かい温もり。
柔らかな寝具のなか篭めれらた、潤いのある優しい温もり。
そんな朝の風景の下、休日の喜びに寝返りを打ちながらこの身を震わせていた。
しかし目覚し時計とはそれ自体無粋なものらしい、沈黙を命じられていてなお無機質に時を刻み続ける。
12時35分。
朝どころか、すでに午前ですらない。




「まったくもう……」




夢心地も束の間、開口一番からしてため息が混じる。
何もまるまる寝過ごしてしまった休日の朝をいまさら惜しもうというのではない。
熟睡だった。
熟睡、してしまったのだ。
たった一夜にして、2度も襲われたというのに。
片や同性の親友に。
片や血を分けた、実の弟に。
力任せに組み敷かれるまま唇を貪られるという、そんな戦慄の夜だったというのに。
それでいてなおこの熟睡ぶり、我ながら一体どんな神経をしているのかと真剣に疑ってしまう。
かくしてようやく半身を起こし伸びをすると、サイドテーブルの引出しより体温計を取り出し口へと咥える。
通常品よりもひと回り大きいそれは起床時間や精神状態に一定の条件こそあるものの、
測定から記録までと自動でしてくれる上に大まかな体調まで知らせてくれる優れ物である。
もちろん今日に限ってはそれら条件などすでにあったものではないのだが、
昨晩のあの怒涛極まる展開に夜中も3時を過ぎての就寝ときてはさもありなん。
きしむ体に鞭を入れての雑務をこなし、入浴の後にはまぶたをこすりながらドライヤーを当てたのを覚えていた。




…にもかかわらず、この体温計の示す全く正常な測定結果は一体どういうことなのだろう。
基礎体温の方は高温期も7日目を数え、十分な睡眠からくる良好な体調に清々しいことこの上ない朝。
ではなくて、昼。
心身共に消耗甚だしいという自覚に反してこの有様、その主観と客観の相違には改めてため息を重ねてしまう。
もしかすると私は、自覚する以上に神経の図太い女なのかも知れない。








……本当にもう。























軽く手足を伸ばし布団を整えると、薄手のニットに袖を通しながらドアの方へと向かう。
ノブに手を触れた瞬間、思わずはっとする自分に気が付いた。
半身の動きが、止まる。




「…………」




こんなことは初めてだった。
この家に越してきて以来、ドアに鍵をかけて眠りに就いたことなどはかつて1度もなかった。
確かに昨晩の状況からすればあらぬ錯乱に陥ってしまってもそれは仕方のないことかも知れないが、
しかし例えそうであったとしても、これは。
昨夜の自分を虜にしてやまなかった、あの感情を。
あの2文字の存在を、何より確かな証として裏付けていた。






“ 恐怖 ”






何ということだろう。
あの圧倒的な体格と腕力とをして有無を言わさず迫り寄って来た弟の姿も、
わななく四肢に声すら失った自分自身の有様も、全ては昨晩、この部屋のもと確かに実在したものなのだ。
これまでずっと一緒に過ごしてきた、大切な家族なのに。
この世にたった2人だけの、かけがえのない姉弟だというのに。
それなのに今の私は、このドアの向こうにある “家族の空間” を前に一抹の不安を拭い去れずにいた。






『気持ちいい』


気持ち悪い。
同性相手のキスだなんて、そんなもの気持ち悪いに決まっている。






『私、わかってるから』


わかるはずがない。
家族相手に恋愛感情を抱くだなんて、そんなこと理解できる訳がない。






行き場のない苛々が募る。
その一方で、ノブを握る手には早くも汗がにじみはじめていた。
互いに顔見知りでもないあの2人が、たった一夜にして揃いも揃って何事だというのだ。
親友なら親友として、弟なら弟として、それぞれに歳月をかけ培ってきた距離感というものがあるだろう。
それが何を血迷ったか手の平を返したように好きだの愛してるだのと口々に騒ぎはじめ、
挙句の果てには実力行使にさえ及んでみせるところなど、言語道断にもほどがある。
これまで大切に築き上げてきた親友関係は、姉弟関係は、一体何だったというのか。
そのような背信が、裏切りが、今頃になって許されるとでも思っているのだろうか。






――もう、いい加減にしてっ……!






声ならぬ声にて短くそう叫ぶと、そのままの勢いでドアを開け放ち廊下へと足を踏み出していく。
向かいのドアはすでに開いていたが、部屋の中を一瞥しても弟の姿は見られなかった。
ならば、下か。
正午も過ぎたこの時間のこと、テレビをBGMにランチでも頬張っているのかも知れない。
そうでもなければ、いまだ眠たげな表情のまま呑気に湯飲みでも啜っているのかも知れない。
どちらにしろ、これからすぐにでも側へ行って頭でも撫でてやることにしよう。
次いで傍らへと腰をかけ、コーヒー片手に過ぎ去りし大学受験の思い出話でも存分に聞かせてやろう。
私たちは同じ家族なのであり、ひとつ血を分けた姉弟なのだということを。
そしてその絆はこれまでも、そしてこれからも決して変わることはないのだという、事実を。
忘れていると言うのなら、今日この場にて改めて思い出させてやろう。























◇     ◇     ◇






「……よしっと」


メイクの方はポイントを押さえたナチュラル仕上げ。
若干明度を上げたルージュをブラシで丁寧に引けば、準備はもう万端である。
リビングの時計は3時を少し回る頃合で、ブーツに足を通すとトートバックを脇に意気揚々と玄関を後にする。




日差しの柔らかい、暖かな春の昼下がりだった。
薄手のニットにロングスカート、あとは軽く羽織れば十分な陽気で、時折吹くそよ風に後ろ髪を遊ばれるのも心地いい。
外出するにはそれこそ打ってつけの日和だと思う。
ところが肝心の恭一は土曜出勤ときていて、早くとも夕方過ぎの帰宅になることは確実だった。
昨日といい今日といい、ここ最近の私はいまひとつ運勢がよくない。




『もしもしお母さん? 私だけど』
『なに?』
『ううん。 私今晩友達のところに泊まりに行っちゃうからって、それだけ』
『あらそう』
『うん。 って、今どこにいるの?』
『横浜よ』
『ふーん。 お父さんも一緒?』
『そうよ』
『あらら、ちょっとお邪魔だったかしら? んふふふ♪』
『……切られたいの?』
『あーちょっと待って! 翔はどうしたの? 家にいないんだけど』
『翔? 翔なら模擬試験がどうのって』
『あ、そうなんだ、ふーん。 それじゃわかったからどうぞ2人きりで仲睦まじくごゆっくりー♪』




冗談と冗長とを好まない性格だけに何かと絡んでやりたくなるのだが、電話越しではさすがに分が悪い、
起き抜けに母へとかけた電話はこちらが言い終わらないうちにブチリと切られてしまった。
なるほど道理で誰の姿も見えないはずだ、両親はデートで横浜、弟も予備校で横浜だったのか。
せっかく姉弟関係の何たるかを見せ付けてやるべく鼻息を荒げながら階段を下りてきたというのに。
まったくとんだ肩透かしもいいところである。
そしてそんなやり場のない鬱憤をそのままフライパンへとぶつけてしまったものだから、
結果として見るも不恰好なベーコンエッグにありつく羽目になったのも当然と言えば当然か。






……ただ。
いま思えばその方がよかった。
弟が家にいなくて、本当によかった。
仮にリビング辺りで顔を合わせていたとして、これまで通り変わらぬ家族を演じられていたかどうか。
私の唇を力ずくで奪いにきたような弟を前に、なお姉という立場を何事もなく演じ続けられていたかどうか。
…あの日。
そう、2月の末のあの日からというもの、つい昨晩に至るまで私たちの関係は平穏だった。
私としても崩さぬよう意識してきたつもりだし、3月一杯はそれで上手くやってこれていたはずだった。
でも、結局は同じだった。
すでに壊れているのかも知れないと思うと、その度に唇を噛まずにはいられない。
実の弟に対しどう接っしていけばいいのか、そんな当たり前のことすら今の私にはもうわからなくなっていた。



















駅までの道のりを迂回し行きつけのスーパーへと立ち寄ると、そこでワインを1本だけ選ぶことにする。
フルーティで渋みの少ないチリ産の白ワインで、価格の割に味わい深いことから父と共にお気に入りの銘柄だった。
ワインを選ぶのは難しい。
大抵の酒類とは異なり値段と飲み応えとが必ずしも一致せず、当たり外れの大きいところが難しい。
そういう訳でことワインに限っては飲み慣れた銘柄を雰囲気に合わせて選ぶのが無難だと思うし、
家族相手であれば多少冒険的なティスティングも辞さないところだけれど今夜の場合は相手が違う。
『友達のところ』 とはよく言ったものだが、実際には男の部屋である。
そう。
今夜は久しぶりに2人きりなのだ。
本当に2人だけの、貴重な夜なのだ。
そんな夜に限って、敢えてハズレくじを引くような危険を冒したくはない。




買い物を済ませスーパーを出ると、散歩気分のまま線路を越えて東口方面へと向かっていく。
そこから数分も歩けばもう東戸塚の駅が見えてくる頃合だ。
横浜市戸塚区のこの地域は南北を貫くJR東海道線・横須賀線にて東西を二分されており、
その路線のすぐ両脇を横浜新道と環状2号線とがそれぞれ並走する構図となっている。
それら都市を中継する基幹路線が3本縦列するなかJR東戸塚駅を中心に栄える新興住宅地、
というのがこの街の一般的素性だった。
事実、いま歩いている環状2号線側の東口方面は90年代を通じて目覚しい発展を遂げ、
高層住宅街や企業ビルの進出に街の様相は一転、人と車の流れは日々その密度を増してきている。
駅前中央に鎮座するのは開発の象徴たる存在、ショッピングモール “オーロラシティ” 。
2大店舗であるオーロラモールと西武デパートは地上7階の高さで左右対称に配置され、
中央を一直線に抜くウォークを軸にひとつの建造物をなすという印象的で量感のあるデザインを持つ。
そんなシティの一画にはさらに数本の高層マンションが新築予定で、見慣れた重機の姿は今もなお健在だった。






「まもなく、1番線に、電車がまいります」




停車間隔の広い東海道線は、ひとつ前の戸塚駅を出ると東戸塚に保土ヶ谷と2駅通過して横浜まで止まらない。
そんなこんなで線路の向こうを通過していくオレンジとダークグリーンの電車をぼんやりと眺めながら、
あの旧式の車輌は一体いつまで現役を張り続けるのだろう、とそんなことを思いつつ我が家のPCと重ね合わせていた。
古い物には何かと造りのいいものが多い。
多少無骨で使い勝手に欠けても、込められた手間暇の分だけ長持ちし深みを帯びてくる。
一方、こちらのホームへと滑り込んでくる横須賀線にはすでにあの形式の車輌は使われていない。
銀色の車体に横須賀線カラーのラインを引いただけの簡素なデザインに統一されて久しく、
クリームとダークブルーで塗装されたあの昔ながらの車輌を見かけることはもうなくなっていた。
思い起こせば懐かしい、あの旧式の横須賀線。
新しい物はみなコスト性に優れるもそれだけに耐用年数はずっと短いと聞き、
この地に長く住む者としてはやはり旧車輌の印象が根強く、色違いの東海道線と共に昔の思い出が多く結び付いていた。








『お姉ちゃん!』


『お姉ちゃん大好き!』


『ごめんなさい、お姉ちゃん……』




あの頃の翔はまだこんなに、今ではもう想像もできないくらいに小さくて。
恥ずかしがり屋で泣き虫で、私が側にいないとすぐに落ち着きを失ってしまうようなそんな子で。
……それなのに。








『姉さんなんだ』


『姉さんのことが、好きだったんだ』


『……ごめん、姉さん』






それでこれから先、私たちは……。























◇     ◇     ◇






横浜にて東海道線へ乗り換えると、下車駅の川崎まではわずか1駅である。
Suicaの差額を清算し改札を抜けると、今夜の食材を求め駅前を散策することにする。
スモークサーモンとモッツァレラチーズ、野菜に牛乳に、それからフランスパン。
ついつい余計なお店まで覗いてしまうのはお約束としてもさすがに5時を過ぎては頂けない、
再開発の進む西口駅前を後にしながら奥へと広がる住宅地方面に足を向けていく。




多摩川の広大な河川敷を県境に東京都大田区と接するこの地域は、神奈川県内でも有数の大都市である。
そんな都会のさなか、恋人の恭一は学生時代より変わらずマンション暮らしをしていた。
現在の実家は埼玉県にあるもののそちらに移り住む以前は家族3人こちらにて暮らしていたそうで、
学生生活を送るに際し都合よく借り手の途切れていたかつての部屋を頼りにひとり戻ってきたのだという。
年代を感じさせるその6階建ての物件にはセキュリティゲートもオートロックも見当たらず、
駅前から少し離れた住宅地ということで男性の足でも20分程度はかかりそうなものだが、
それでもバストイレ別々の2LDKに家賃免除で住めるとあれば全くもって御の字だろう。
ゲートのポストにはDMとチラシを合わせて4,5通ほど。
それらをまとめて手に取ると、エレベーターへと乗り込み3階のボタンを押す。
主な情報源をインターネットに依存する彼は、これといって新聞の類を取るようなこともなかった。















深めの鍋に薄く油を引くと、まずはスライスにしたニンニクを炒めるところからはじめる。
途端に凝縮された香りが咲き乱れ、キッチンの周りを濃厚に包み込んでいく。
こうしてベースに使うのは本来イタリアンの手法なのだけれど、そのスパイシーな味と香りは
シチューやカレーといった煮込み料理から各種のスープ料理にまでと幅広く使え、
それぞれの料理に応じた独特な個性を様々に演出することができるのだ。
自分にとってはお袋の味ならぬ親父の味で、ポイントはニンニクを焦がさないよう気を付けること。
頃合を見ながらタマネギを加え、火力を抑えてゆっくりと丁寧に炒めていく。
さらにニンジンとジャガイモに下ごしらえをした鶏肉も足して中火で転がせば炒めの段階はそれで一区切り、
ほどよく水を加えると今度は煮込みの段階へと移っていく。
ここまで来てほっと一息つくと、あらかじめ沸かしておいた手鍋の方でコーヒーを一杯淹れた。




ひとり暮らしの長い恭一と比べれば、包丁さばきひとつにしてもだいぶ見劣りするものがある。
実際彼の料理はシンプルながらも手早くて美味しいし、作り終わった後にもキッチンが汚れないのだ。
それでいてなお自らの手によって料理を振舞いたいと思うのはどうしてなのだろう。
最近はお互いにゆとりがなく、余裕を持って逢える機会が少なくて。
こうして彼の部屋を訪れるのも、実は結構久しぶりだったりして。
だからこそ、真心を込めて料理を作りたいと思う。
そしてその味と温もりを、彼と一緒に心行くまで楽しみたいと思う。
今夜のメインはクリームシチュー。
土曜出勤で疲れた体には、ニンニクの力がきっとよく効いてくれるはず。
だから、早く。
早く、帰って来て欲しい。






沸騰した鍋よりこんこんと湧き出る、野菜の煮える豊かな匂い。
丁寧に灰汁を取りジャガイモの具合を確かめると、濡れ布巾の上に鍋を移し粗熱を取る。
こうしておけばシチューの素を加えても玉になることがなく、さらりとなめらかに仕上げることができるのだ。
あとはミルクを加え馴染ませればそれでお終い、特製クリームシチューの出来上がりである。
我ながら納得の味加減に気を良くすると、続いて取りかかるのはサイドメニューのカルパッチョ。
瑞々しいばかりのレタスとトマトに、スモークサーモンとモッツァレラチーズのスライスを綺麗に盛り付けていく。
塩水と共に密封され売られているという一風変わった外見のこのチーズはなるほどその味わいもまた独特で、
一般的なチーズに見られるようなこってり感が少なく、さっぱりとしたクリーミーな食感がお気に入りの逸品だった。
濃厚なスモークサーモンとの組み合わせはそれこそ絶妙で、和風ドレッシングともきっとよく合うだろう。
そうしてフランスパンと白ワインボトルの他、各種の食器にグラスも用意すれば準備は万端。
あとはもう、恭一の帰りを待つばかり。




最後に携帯が鳴ったのは6時を少し回った頃。
ようやくと仕事を終え東京駅に向かっているとのことだった。
予想以上のずれ込みに彼自身気持ちが焦っていたようで十分注意しての帰宅を促したのだけれど、
東京からでは新橋・品川を挟んだ3駅目で30分もかからないし、駅からの距離を考えてもそろそろ頃合だと思う。
気紛れにテレビをつければ “6:56” の表示が見え、天気予報を最後に6時台の番組も終わりを告げようとしていた。

















――ピンポン。




唐突な呼鈴の音に、はっとして目を覚ます。
ニュースの音声がBGMか何かのように聞こえ、どうやらソファへと腰をかけるまま少し微睡んでいたようだ。
続いてドア音が聞こえてくると、すぐにも立ち上がって玄関へと駆け寄ってゆく。
直前に見た時計では7時も半時が過ぎようとしていた。
…遅いぞ、もう。






「…ただいま、昭乃」
「お帰りなさい、恭一」




表情は疲れていても、その口元はほころんで見えた。




「遅くなって、ごめん。 ウィスキー買ってきたから、あとで飲もう」
「それは楽しみね。 お腹空いたでしょう? すぐ食事にする?」
「あぁ、そうしてくれると嬉しい。 もう何か食べないと動けないよ」
「んふふふ、本当にお疲れ様。 ほら、荷物持つから……」




















こうして始まる、2人きりの夜。
そんな夜を温かい料理とお酒とで彩れば、それはきっと。
きっと……。











































次回、後編をお送り致します。
ご期待ください。








()()(楽屋)
Episode1
(目次)()(楽屋)
Episode2
()()(楽屋)
Episode3