近 |
約 束 の 唇 (特別後編) Episode6 |
Episode5
Episode6
(目次)
Chapter3 |
親 | ||
相 | ||
愛 | ||
Chapter2 |
「…バイバイ。 翔くん…」
「うん…」
すれ違うホームの雑踏に、何度となく繰り返されるメロディー。
それは来年の今頃も、きっと多分、変わらない光景なのかも知れない。
「またいつか。 …ね?」
「…うん。 先輩も、元気で…」
最後に別れを告げると、ふたり繋いだ掌をそっとほどいていく。
後ろ足で降り立つのを見送れば、あとはもうメロディーが鳴り止むのを待つばかり。
長いようで、短いような。
もう少し続きそうで、いまにも途切れてしまいそうな、そんな時間のなか。
ただ閉まりゆくドアを、待つばかり。
◇ ◇ ◇
『翔んち、くっか?』
相変わらずの一行メール。
『……行くっ』
『返事早すぎ』
『今日っ?』
『明日だ。 焦んな』
――ツー、ツー。
携帯を閉じる。
気が付けば、お箸片手にひとり立ち上がっていた。
『…なに?』
『どうかしたの?』
『ううんっ? 別にっ』
そそくさと座り直し、改めてお弁当箱のおかずに箸を付けていく。
仲間内のふたりが怪訝そうに顔を見合わせると、
『香澄ちゃん?』
『え?』
『ごはん粒、ついてるよ?』
『わぁっ! ほ、ほんとっ!?』
……。
…何やってんだろ、私。
きっとこんなんだから、まーくんにまで子供扱いなのに……。
何もかもが灼熱だった、あの夏。
ようやくと落ち着く頃には9月までとうに過ぎていた。
いまではもう手首で汗を拭う必要はなく、ホームへと降りるたび熱気にむせ返るようなこともまたなくなっていた。
横浜駅にて、電車をひとつ乗り換える。
2駅目とすぐだけれど、意外なまでの空き具合にそのまま座ることにした。
土地柄なのだろう、戸塚方面への東海道下り線では車窓の景色が動的なほど移ろう。
急カーブに沿ってすぐ目の前を流れていく民家のたたずまい。
高低差から視界が開けてくると、小高い丘と丘との間に気持ち郊外の住宅地が裾野を広げ、
さらにそうした斜面のもとまるで立て掛けられるようにして腰を下ろす階段状の大型マンションたち。
同じ横浜市内にしてなお新鮮なもので、やはり手持ちの定期券では少なからず馴染みの薄い部分だったのかも知れない。
ふと、一段高いところを走る線路の、そのまたさらに上を大きな高架線がかすめていく。
高速道路か何かだろうか。
と、わずかに目を遣るうちにも、横須賀線の車両は丘の稜線を緩やかになぞり、やがてトンネルへと差しかかっていった。
土曜のお昼時に、まーくんとふたり待ち合わせ、翔君ちへ。
仲間内が聞いたらにわかに首を傾げそうな話だけれど、それは当の私にとってもまた同じで。
実はあのふたり、意外に仲良かったりするのだ。
キャラが違うのはもちろん、クラスも部活も全然バラバラで日頃これといった絡みも見られなかったはずが、
ふたを開けてみれば中学校からの付き合いで同じ下車駅、家も近所でそれこそ勝手知ったるものなのだという。
その割に登下校を共にするようなことはめったになく、交友の輪の重なりも思いのほか少なく、
かくして翔君の存在を最初に見知ったのは夏休みも半ばまで過ぎてようやくのことだった。
あの夏の日の、3on3。
ことさらな容姿の反面、周りの個性もあってか印象に乏しいものがあったけれど。
でも、まーくん主催のイベントを何度となく重ねるうちに、少しずつ。
ひと夏を通じて次第に話すように、新学期が回りはじめる頃にはもうだいぶ会話も弾むようになってきていた。
ホームへと滑り込む電車に、ブレーキを待ちきれず席を立つ。
約束の時間にはまだ少しあるものの、ドアが開くやステップを踏み、待ち合わせの改札までを一息に駆け上がっていった。
『あれ? 女の子は待たせないんじゃなかったっけ?』
きっかり5分前、姿を見せるや無邪気に迎え撃つ。
『はあ? つーかオンナノコとかマジどっかいんのかよ?』
わざとらしく辺りを見回したりして。
軽く小突けばまた大げさな反応で、片手でもって頭をクシャクシャにしてくる。
『あーいたいた! こんなとこにオンナのオコサマ!』
『お子様いうなー! 私よりトシシタのくせにー!』
確かに年下なのだけれど。
その割にはずいぶんと生意気で、それでいて垢抜けた物腰だと思う。
今日にしてもそう、Tシャツとジーンズのみのシンプルな着こなしにも自然と冴えがあるし、
無造作ながら清潔感のあるヘアスタイル、左手にはベルト状の皮製ブレスレット、それと肉厚のリング。
ことさらな様子も見せることなく、無理なく、普通に、カッコイイ。
慣れない芸にまで自然とカッコの方が付いてきてしまうのだから、まーくんは。
…と、そんな思いの矢先。
『にしても、なんつーか』
『え?』
何のことか、一瞬わからなかった。
『いや、なんつーか』
『もちっとこう、気合とか入れてくんのかって』
……。
薄手のパーカーに膝丈のジーンズ、それとスニーカー。
髪こそ下ろしているものの、後ろ手に結んでキャップを被ればすぐにも元通りだった。
ホームの階段にしたって一息に駆け上がってきた。
階段とは走って登るものだと、足腰の方がそう覚え込んでいた。
『いいじゃん。 好きなんだから』
別段の素振りではなく、こちらの相槌にも棘という棘はない。
色気や素っ気などいまさらの話で、ただ、まーくんと一緒にいると、どうしても。
私服のバリエーションが少なく、日頃からしていつものスタイルしか持ち合わせていない自分自身の姿を、
ふとした時、ちょっとした合間に少なからず思い知らされてしまうようなことが今までにも、結構あって。
もう慣れっこだけれど、とはいえ、拭い切れず滲んでしまうところもあったりして。
そんなこんなで無難に受け流すようにすると、気を取り直し待ち合わせの改札から西口方面へと繰り出していく。
見どころの “オーロラモール” とは逆方向にしろ、その手の観光についてはそもそも興味は薄く。
空は青々と澄んでいるか、風は涼しげに吹いているか。
これから訪れるあの子は、今日も元気な笑顔を見せてくれるのか。
と、気に懸かることなんて、概ねそんなところがせいぜいなものだった。
……ところが、その日に限っては。
『こんにちは、はじめまして』
『姉の昭乃です。 弟がいつもお世話になっています』
『岸本香澄さん? そう。 弟と仲良くしてあげてくださいね? ふふふふ…♪』
それはもう、本当に息を飲むような印象だった。
挨拶も片言にして、見蕩れるとはあのことかと思った。
差入れにと煎れてくれた、紅茶の香り。
…なんだろう。
これってほんとに、紅茶なのかな…。
銘柄も何もわからないまま、それでいて最初の一口だけは不思議なほど鼻腔に残っていた。
その人の気配と結び付くかのように、ずっと、ずっと……。
季節は紅葉を迎え、色付きはじめる銀杏並木のもと、街や人の景色が日々夕焼け色に移ろいでいく。
朱みの折り重なるそんな放課後のさなか、ふたり写し取る色合いもまた、少しずつ。
それはそう、知らぬ間にひとえ滲み合う、淡い水彩のように。
自覚はそれなりにあった。
けれど確信のほどはなお持てずにいた。
ひとつは誰あろう、 “先輩” こと芹沢さんの存在。
“それ以上” の間柄では決してないにしろ、その距離感は疑いようもなかった。
『いいな藤崎? 叩き潰すぞ』
『だから先輩、遊びなんですから…!』
『だから遊んでやるんだろ? 藤崎?』
『意味違いますって!』
『ふふっ…♪』
あの笑い方。
あの無邪気なほどの不敵さが、どうにも慣れなくて。
『ははっ。 そんなことないですよ』
『ああ見えて結構ひとみしりとかするんです、芹沢先輩』
『でも一度慣れちゃえば、もう。 咬まれるとちょっと痛いですけど。 はははっ』
なるほど言葉の通り、よく慣れていると思う。
日頃一方的に見えて、なかなかどうして互いによく手綱を引き合えている。
それとなく触れてみたのは、私の方から。
手応えのほどは案の定で、うっすらと目に憂鬱なものがあった。
足並み揃えば都度持ちきりのふたり。
居合わせずとも気の置けないふたり。
横目でそれとなく垣間見るたび、どこかしら気持ち内向的な心許なさを抱いてしまう自分がいた。
芹沢さんに岩田君、そして翔君と、こちら側の3人も含め夏以来すっかり顔見知りにしてお馴染みのはずが、
私自身の立場は相変わらず、まーくんなしではいまひとつ拠り所を得られないような、そんな日々が続いていた。
『自信? 強気? んなもんどっかにあんのかっつの』
概ね定番となっていた週末の帰り道、もうだいぶ見慣れた感のある東戸塚の街並みだった。
その日はモールを中心に冬物の下見に付き合いがてら駅前のバーガーショップにて一息いれ、
話も途中からさも投げやりといったその態度に思わず噛み付きそうになると、
『なんもねぇんだぜ? こちたらいまだに』
『ったく昨日今日のクセしやがって、うざってえ』
刹那見据えられ、はっとする。
その時のそれは、何の根拠もなく。
閃きひとつのみで、不思議と確信だった。
『ドラマじゃあるめえし』
…そう、なんだ。
『仕方ねぇことだって、あんだろ』
そうだったんだ。
まーくん。
わかっていた。
相手が本物の大人であることは、私にも。
そしてまた、歳の差を指折り数えるまでもなく、子供なのだということも。
初対面からして目の当たりにした、あの印象は忘れもしない。
恒例だった週末に加えやがて個人的なコンタクトにまで踏み込むようになると、
翔君への気持ちとはまた別に半ば傾倒じみた憧れが二次関数もさながらに深まっていく。
アパレルからコスメ、シネマにオーディオ、そしてシェルフを隙間なく埋めゆく書籍の数々。
部屋の内装まで含め、その人に纏わる匂いや手触りが活きいきと、それでいて自然なまでにそこにあった。
身なりのほどはもちろん。
仕草にしろ、物腰にしろ、人柄にしろ。
ひとつ取っても触発されてやまない、そんなセンスに満ち溢れていた。
戸惑う部分は正直、拭えなくて。
日頃さしたる思い込みもなくむしろマイペースなほど物事に疎かった私が、
ある日突然、地味なりにも熱狂的な変わり様を見せてしまっていたのだから。
…もしかしたら。
ひょっとしたら私にも、来ているのかも知れない。
キャップとスニーカーだけの、そんな自分自身を卒業する頃が、ようやく。
楓が舞い銀杏の吹雪く秋空の向こう、ゆるやかに歩み寄る、冬の足音と共に。
『もうこんなに、秋も盛り』
…うん。
『紅茶の美味しい、季節だね』
だからきっと。
いつか、私も…。
◇ ◇ ◇
『…すみっ! かすみちゃ〜んっ!』
藪から棒な騒音に頭の回路がショートする。
意識の導線が繋がるまもなく立て続けに視界を揺さぶられ、
『見て見て! また来てるわよ大学から! ほらほらっ!』
『…ん、う〜ん…、……おいといてー…』
『なにいってるの! はやくはやく! 起きて起きてーっ!』
掛け布団争奪戦も一向に勝ち目はなく。
まったく、封筒の厚みからしていい加減わかるだろうに。
ていうか普通に “入学手続書類” ってこんな大きな字で書いてあるのに。
う〜、と唸りつつ半身を起こすと、大きなあくびをひとつ差し出されるままに鋏を入れていく。
『…はい、ごーかく』
『どれどれっ…!? ……きゃーあーっ! おめでとーっ! 今夜はお祝いよーっ!!』
頭と耳とがキンキンする。
首から上がタテヨコナナメに振り回される。
うるさい。
いたい。
ねむい。
起き抜けからして妙にハイテンションかつ親バカ風味な台風に見舞われたかと思うと、
電気は消さないわ、窓は開けっ放しだわ、布団は丸めて床に落ちてるわでもう惨憺たる有様。
しかも被害はさらに拡大中で、廊下に響く黄色い声から引き続きお父さんの方にまで及んでいるらしい。
くしゅんっ、と思い出したようにクシャミをひとつ。
そのままこてんと横になり、背中を丸めるように薄目を閉じていく。
窓を閉めるでもなければ、布団を拾うでもなく。
残された枕をただ胸に、吹き込む冷気のなか、じっと膝を抱えるばかり。
通知書を片手にトーストをかじる。
焼きが甘いのかジャムを塗りすぎたのか微妙にもさっとした食感で、
ミルクを足しつつ緩慢に咀嚼しては縦長の書類を斜めに読み進めていく。
これでもう7通目になるだろうか。
7度も来れば退屈にもなるし、忘れた頃の最後の1通とてこれといった感慨は浮かんでこなかった。
4勝3敗。
計画通りにしてはあまりにも、それこそ数字の内訳に至るまで予定調和に思えてきて。
押さえるべきところは手堅く押さえたにしろ、夢見る乙女の宝くじは結局1枚も当たることはなかった。
『はい目玉焼きー! トマト付きー!』
『うん、ありがと…』
決して、楽な道のりではなかったと思う。
夏休み前にはもう対策に明け暮れ、平日も休日もなく予備校へと通い詰めていた。
秋が深まるほどに教室はまばらになり、飽くなき補習に立て込む模試とで仲間内の顔も次第に久しくなっていった。
不思議なもので、一度休み出してしまうとなかなか思うように復帰できなくなる。
クローゼットのもと制服を肥やしに、学校が遠のいていく。
『ありがと、か…』
カップの中身をもうひと口、手許の書類を封筒へと戻す。
朝起きればこうしてパンが焼けていて。
時刻表も知らず半分に連ドラを眺めて。
ひとりの力では到底やりきれなかったと、いまさらのように思う。
さながら天下御免の身の上も一歩間違えば即自堕落、コツコツとでもやってこれたのはそれこそ家族のおかげで、
なかでもあのお母さんに対してはもっともっと、両手を合わせ拝むくらいしてもバチは当たらないのかも知れない。
毎日何気なくご飯ができていて、普通にお風呂が沸いていた。
布団や枕もよく陽に当てられ、当たり前のようにふかふかだった。
…そう。
あの日あの時のマイペースは、多分。
私ひとりだけのものでは、きっとなかった。
それがいま、朝ろくに起きることもできない。
本試験の寄せる波を乗り越え、都度返す潮に舵の行方も定まり、
その他式典類は先週のうち済ませ、そして今日全ての通知が出揃ってなお、
高校生活を無事終えたのだという実感を確かな手応えのもと、得ることができずにいた。
毎日がどことなく億劫で、眠たくて。
気が付けば1日を半分も寝て過ごす日々が、とめどなく続いていた。
『疲れてるのよ』
それもあるかも知れない。
『無理することないの。 がんばったんだから』
自分ではよくわからない。
好きでやったきた訳ではないし、ことさら達成感のあるものでもまたなかった。
食器を片付け部屋に戻ると、ベッドのうえ膝を抱えながらデスクの方をぼんやりと眺める。
そのままに放置されていたせいか、ノートやテキストに辞書や参考書、各種の手続書類に加え、
卒業証書の黒い筒からハードカバーのアルバムといった物までが一緒くたに積み上げられていた。
思い返せば式典当日、会場の都合から在校生の姿は一部の代表者を残すのみで。
万事滞りなく日程を終え、仲間内に担任と一通り挨拶を済ませた私は、
さほど深い名残もなく母親とふたり淡々と引き上げてきてしまったのだった。
ふと目に映る、ラックの上の白いミニコンポ。
指で何気なくスイッチを撫でると、やや軋みのある駆動音にすすけた液晶がぼうっと光る。
最後に使ったのはいつだったろうか、こうして電源を入れるのはもうだいぶ久しぶりのような気がしたけれど、
それはそれで機械的な動作を見せ、入れっ放しのままだった何かしらのCDが静かにその眠りを解かれていく。
――――!
――それは。
あの日あの時、あの部屋で聴いた――。
『…香澄ちゃん?』
ずっとずっと、憧れていた。
『香澄せんぱい…!』
もっとずっと、伝えられていればよかった。
『…お母さぁ〜ん! ビニールテープあるーっ?』
立ち上がって一声するや、まるで薙ぎ払うかのように机の荷物を下ろしはじめる。
全部。
全部捨てることにしよう。
教科書も、ノートも、参考書も、問題集も。
まだ使えるのもあるかも知れないけど、必要ならまたそのとき買うことにしよう。
そうだ。
知らぬ間にもう髪だってこんなに伸びてしまっていて。
入学式の日までには全部、まるごと綺麗サッパリ切り揃えてしまおう。
もう一体いつまで、こうして部屋のなかウトウトしていれば気が済むんだろう、私は。
やりたいことなんてそれこそ、目一杯いくらでもあったはずなのに。
いますぐ思い出せないのはただ単に度忘れしているだけ。
そうに決まってるんだからっ。
『…昭乃さん。 いま、嘘つきましたね……?』
嘘をついていたのは。
誰よりずっと、嘘つきだったのは。
『私、昭乃さんになりたかったんです』
昭乃さんだから。
昭乃さんだったから、許したの。
『何でそんなこと、あたしに?』
貴女じゃない。
貴女になんかじゃ、ないっ。
…………。
…そっか。
こんなに、まだ。
こんなにもたくさん、私……。
「…バイバイ。 翔くん」
怖かった。
「またいつか。 …ね?」
本当はきっと。
誰よりずっと、怖がっていた。
すれ違うホームの雑踏に、何度となく繰り返されるメロディー。
乗り降りする人波のなか、視線を離すことなくもう一度だけその名前を呼び止める。
多少うわずった声色だったかも知れない。
無理矢理な感じの笑顔だったかも知れない。
でも目の前の翔君は、もうすっかり、大丈夫みたいで。
変わらず穏やかだった表情に気持ち優しげな色合いを見せはじめると、
「…うん。 先輩も、元気で…」
って、確かにそう、頷いてくれて。
なまじ親しみ深いその笑顔が逆に寂しかったけれど、
思う頃にはもう、ふたり繋いだ掌をそっとほどいていた。
――これで、よかったのかな。
流れ行くホームの景色に、ふと思う。
新しい生活がはじまってもうひと月になる。
ゴールデンウィークを前に新歓コンパも一巡し、カリキュラムからサークルまでと一通り目処が付くなか、
突然投げ出された底無しの自由に戸惑いながらも、見知らぬ群れたちと共に恐る恐る羽を伸ばしつつあった。
それがなぜか、知らぬ間にかまたかつての居場所へとこうして一羽舞い戻ってきてしまっている。
取り巻く環境は何ひとつ変わってはいない。
見るもの聴くものはおろか、誰にしても彼にしてもいまさらの話で、
にもかかわらず不思議なほど満ち足りた思いを胸にしている自分がいた。
伝えたいことがあった。
大学生になったこと。
翔君と別れていたこと。
私のこと、そして翔君のこと。
誰より昭乃さんに。
伝えなくてはいけない、とそう思っていた。
一方、翔君については。
敢えて確かめることは、なかった。
そのままにしておいて、よかった。
なのにふと、思えば思うほど。
何気なく携帯を開いては閉じる、そんな時間が、日に何度かあって。
その携帯が鳴ったのはちょうど昨日のこと。
少なからず驚いた。
断る理由は、なかった。
思い出にできずにいた、昨日。
思い出にすると決めた、今日。
ただ懐かしい温もりに、ふたりひとつの約束を、いま…。
――うん。
これは、多分。
きっと私だけの、ほんの小さな卒業旅行。
――これで、よかったのかも。
心のなか小さく頷きながら。
車窓の向こう、ランドマークタワーがゆっくりと遠ざかっていく。
次章予告:
それは病的なまでの、衝動。
駆り立てられるままに身も心も委ねる時、
目も眩む官能のなか、正常な意識は次第に蝕まれていく。
近親相愛三章、 『禁断症動』 。
ご期待ください。
Episode5
Episode6
(目次)
Chapter3 |
青いアルバム。
青色をした、ハードカバーの卒業アルバム。
クラスメイトに囲まれるなか、すぐとなりに。
今日のプリクラを、1枚だけ。
――ぱたんっ。
音を立て閉じていく。
キャップもスニーカーも、制服の上下も。
あの頃の私と、みんな一緒に。
Episode5
Episode6
(目次)
Chapter3 |