麻 酔 の 話


[ 1 : はじめに ]

扁桃腺

私が生まれて初めて手術を受けたのは、幼い頃のことで した。風邪を引 くと すぐに ノ ド の両奥にある扁 桃 ( へんとう ) が腫れて 「 扁 桃 炎 」 になり 3 9 度 の高い熱を出 したので、小学校に入る前年の昭和 14 年 ( 1939 年 ) に 東京市 ・ 小石川 区 ( 現 ・ 東京都 文京区 ) にあった大学の附属病院 ・ 分院で、 「 扁 桃 腺 の 切 除 手 術 」 を受けま した。

当時の 医学界には麻酔科 の 医師など 存在せず 、外科医 や 耳鼻咽喉科医 などが手術の片手間に 麻酔を掛けて いて、日本最初の 麻酔学 講座が 東京大学に開講 し たのは 昭和 27 年 ( 1952 年 ) のことで した。

現在であれば当然 全 身 麻 酔 を して手術するところ 、 当時は 局所麻酔 のため子供が暴れないように 耳 鼻 咽 喉 科 の診察用の椅子に ロープ で体を縛り付けられて手術を受けま した。

局 所 麻 酔の注射 が痛 かったこと、手術中に カ チ ン と音がする度に切り取られた小さい 「 うめぼ し 」 状の肉塊 が 、金属製の受け皿である 膿盆 ( のうぼん、Kidney dish ) の上に落ちて来たのを覚えて います。

手術室にある別の椅子では、私よりも年長と思われる男の子が 大声を出 して ワ ア ワ ア 泣 いて いま したが、私 は手術中も 泣かなかったので、終了後に 「 坊やは強いね ー 、大きくなったら立派な兵隊さんになれるよ 」 と 医師や看護婦さんから誉められま した。なお手術 直後は 麻酔 の影響で、しばら く 声 が出ませんで した。

成人 してからは 八十三 歳の今日まで 虫 垂 炎 ( 盲腸炎 ) と 前 立 腺 肥 大 手 術の手術を受けま したが、いずれも手術台上で横になり膝を抱えた姿勢をとり、背骨の下部に 脊 椎 麻 酔 ( せきつ い ます い ) の注射を して始まりま した。詳 しくは下記をお読み下さい。

  1. 自分の はらわた ( 大腸 ・ 小腸 ) を見る

  2. 前立腺 肥大手術


[ 2 : 人 類 最 古の医薬 ]

呪術師

有史以前から人類は 「 身体の痛み 」 を 悪魔の 「 しわざ 」 と考えていて、それを和らげ、あるいは取り除くために悪魔除けの シャーマン 「 Shaman 、呪術師 ( じゅ じゅつ し ) や、祈祷師 ( きとう し ) 」 などがその役目を果た してきま した。

原始社会における集団の首領や部族長などは、 呪術的 能力 や 宗教的権威 を以て 統治能力を補ってきま したが、『 三国志 』 の 魏 書 ・ 東 夷 伝 ・ 倭 人 条 ( いわゆる、 魏志倭人伝 、ぎ し わ じんでん ) によれば、

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰 卑 彌 呼 事 鬼 道 能 惑 衆--ー

[ その意味 ]

その国 ( 倭 国 ) には もともと 男子の王 が置かれていたが、国家成立 から 70 ~ 80 年を経 た頃 ( 紀元 156 ~ 189 年 ? ) に 倭 国 乱れ、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立 し 王 と した。その名は 卑 弥 呼 ( ひ み こ ) である。 女王は 鬼 道 ( シャーマニズム 的な 呪 術 ) によって人心を 掌握 し 、 ---

とありま した。 また皆さん 御存 じの 清少納言 ( 966 年頃 ~ 1025 年頃 ) の 随 筆である 『 枕草子 』 の中にも、 「 病 は ~ 」 で始まる 一節があります。( 角川 ソフィア 文庫 ・183 段 )


病は胸、 ものの け 、脚 の け、さては ただ そこはかとな くて もの食はれぬ ここち。

十八、九 ばかり の 人の 髪 いと うるは しくて たけばかりに、すそ いとふさやかなる、いとよう 肥えて、いみ じ う 色白う 顔 愛敬 ( あいぎょう ) づ き よ しと見 ゆるが、 歯を いみ じ う 病 みて 額 髪 も し とどに 泣き 濡 ら し、乱れかかるも 知らず、面 ( お も ) も いと赤 くて、おさへて居たるこそ い と を か し けれ

[ その意味 ]

病気 は、胸。もののけ ( 物 の 怪 ) 。脚 の け ( 気 ) 。その 他 は、ただどこか が 悪 いと いうのではな くて、物 が食 べられないような気持ちのふさぎこみ。

十八 か、十 九 歳 くらいの人で、髪 がとても美 し くて、身の丈 ほどの長さがあり、すそも ふっさり して いて、とてもよく 肉がついて肥えて いて、色がとても 白 くて、顔 も 愛 嬌 が あって、 良 いように見える女 性 が、 歯がとても 痛 くて 額 髪 ( ひた い がみ ) も 涙 で びっ しょりと 泣 き 濡 ら し、顔 に乱れ かかるのも知らない と いう感 じで、顔 もとても赤 く、痛 む所を押さえているのだ が、そんな姿 に とても  風情 ( ふぜい ) があ る 

とありま した。 しか し 泣くほど 虫 歯 を痛 がって いる 女性 の姿 に 「 風情や、おもむき 」 を 感 じ る 清少納言 の 美 的 感 覚 については、 教養 がな い 8 3 歳 の 老 爺 ( ろうや ) に は、少 しも 理解 できませんが---。貴方 は いかが ですか?。

呪術や 祈祷 ( きとう ) だけでは体の 不調 はともかく、痛み自体は本来除去できないので、やがて痛みの軽減 に効果があると思われる 薬用植物 ( 草 根 や 木 皮、Medicinal plants ) を求めて野山を探 すようになりま した。その結果 東洋や西洋では古くから、 「 ヤナギ の枝 」 が鎮痛剤 と して用いられるようになりま した。

例えば紀元前 五世紀頃 ギリシャ で活躍 し、現在でも医学の父と呼ばれ欧米では医師と しての心得 を示 したとされる ヒポクラテス の 誓 い で有名な医師 ヒポクラテス ( 紀元前 460 年頃 ~ 前 375 年頃 ) は、 柳の樹皮 に鎮痛作用のあることを述べています。

彼の 「 誓い 」 については時代遅れとする批判があり、医師のあるべき姿が 1948 年の第 2 回 世界医師会 総会で 医の倫理 と して規定されま したが、「 ヒポクラテス の誓 い 」 の 倫理的 精神を 現代化 ・ 公式化 したもので、下記にあります。

医の ジュネーブ 宣言

古代中国では、虫 歯の痛みを止めるために 楊枝 ( よう し、ヤナギ の枝 ) を 噛めば痛みが止まるとされ、 それが 「 つま楊枝 」 ( つまよう じ、つま 楊子 ) の始まりになったとする説があります。

紀元前 五 世紀 ごろ 北 インド で生まれて 仏教の開祖となった お釈迦様も 虫 歯に悩 んで いて 、楊枝で歯茎をつつ いて いたと弟子の 一人が伝えています。「 柳の樹皮 」 には サリチル 酸の成分があり、これを ヒント に後世になって 鎮 痛 薬 ・ 下 熱 薬 の アスピリン が合成されたま した。


( 2-1、ケ シ と、 ア ヘ ン )

ケシ坊主

現在用いられている薬のうち最も古くから使用されているものは、 モルヒネ だといわれて います。 モルヒネ ケ シ ( オ ウ ピ ア ム ・ ポ ピ イ、Opium poppy ) の未熟な果実から得られますが、きれいな ケ シ の花が散った後に 鶏卵大 の果実 ( ケ シ 坊主 ) が実るので、未熟なうちに これに傷を付けると 白 い 乳 液 が滲 み出てきます。この液を集めて乾燥させたものが、いわゆる 「 ア ヘ ン 」 ( 阿片 ) です。

ア ヘ ン は 10 % ほどの モルヒネ の成分を含むため、粗製のままでも十分な 鎮痛作用 があります。スイス の新石器時代 ( 紀元前7,000 年 ~ 紀元前 1,700 年 ) の 遺跡 から ケ シ 栽培の痕跡が発見されたことから、ア ヘ ン の歴史は 五千年 以上も遡 ( さかのぼ ) ることになりま した。

ケシ畑

中東の イラク を流れて ペ ル シャ 湾 に注 ぐ チグリス 川 と ユーフラテス 川 の間にある メ ソ ポ タ ミ ア 地方では、世界最古の文明のひとつである メ ソ ポ タ ミ ア 文明 が 興 りま したが、そこでは 紀元前 3,100 年頃から シュメール 人が粘土板 に 楔形文字 ( せっけいも じ / く さびがたも じ  ) を記録 しま した。写真は ケ シ の 畑。

くさび形文字

その地で発見された粘土板には ア ヘ ン の採取方法が記されており、ケ シ は 「 至福 を も た ら す 植物 」 と書かれていて、陶酔 ( とうすい ) ・ 鎮痛に使用されていま した。

エジプト では紀元前 1,500 年頃の パ ピ ル ス ( Papyrus、古代 エジプト で植物から作られた文字の 筆記媒体 = 記録用紙のこと ) には、ケ シ の医薬と しての利用が記されていま したが、エジプト の 北 400 キロメ ートル にある東 地中海の キプロス 島 からは、 紀元前 1,200 年頃のものと思われる 「 ケ シ 坊主 」 の絵が描かれた アヘン の吸飲用 パイプ が出土 しています。

以上のことから人類は文明の始まる以前から、 ア ヘ ン の持つ効能を知っていたといわれています。その一つは言うまでもな く 肉体的 苦痛 の 鎮 痛 作用 ( 痛みを和らげる ) であり、二つ目は肉体のみならず 「 心 にも作用 」 して、 「 陶 酔 状 態 」 ( とうすい じょうたい ) をもたらす 「 鎮 静 作用 」 で した。

アヘン中毒患者

しか しそこには大きな 「 落と し穴 」 があり、 強い 習慣性 ・ 依存性 をもたらすことで、写真は中国の ア ヘ ン 中毒者です。ア ヘ ン について フランス の作家 ・ 詩人 ・ 劇作家の ジャ ン ・ コク トオ ( Jean Cocteau 、1889~1963 年 ) によれば、

ケ シ は 気 が 長 い。一度 ア ヘ ン を吸 飲 した者は、また飲 むはずだ。 ア ヘ ン は、待つことを知っている。一度 ア ヘ ン を知ったあとでは、  ア ヘ ン 無 しで 生きることは難 しい
と 記 していま した。

ア ヘ ン 吸 飲 の動 画


[ 3 : 中国の古代医薬 ]

中国で医薬の祖とされるのは、古代中国において伝説上の 三 皇 五 帝 ( さんこう ごてい ) の 一人とされた 神 農 ( しん のう ) で した。彼は人々に医療と農耕 の術を教えたとされ、中国では 「 神 農 大 帝 」 と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされて います。

前漢時代の皇族で 淮河 ( わいが ) 以南、揚子江以北の淮南 ( わいなん ) 地方を治めた 淮南王 ( わいなん おう ) であり学者であった 劉安 ( りゅう あん ) が、学者を集めて編纂させた思想書である 淮 南 子 ( えなん じ ) の 脩務訓 ( しゅうむくん、人と しての在り方 ) によれば、

神 農 は山野を駆け巡り百草 の 滋味 を嘗 ( な ) め、一日に して 七十 毒に 遇 ( あ ) う

つまり 一日 百回も 草 根 木 皮 ( そうこん もくひ ) を 舐 ( な ) めては、その 薬効 の有無 を確かめたとされ、毒草の毒などに当たって何度も倒れては、薬草の力で再び甦 ( よみがえ ) った。

とされて います。しか し 神 農 はあまりに多くの毒草を賞味 して薬効の有無を調べたために、体内に毒素が溜まり、それが原因で死亡 したといわれています。 中国最古の薬学書である「 神 農 本 草 経 」 ( しんのう ほんぞうきょう ) は神 農 氏の後世の作とされますが、実際の撰者は不詳で、本 草 ( ほんぞう ) とは、薬物のことです。

それによれば 3 6 5 種の薬物を 上品 ( じょうぼん ) ・ 中品 ( ちゅうぼん ) ・ 下品 ( げぼん )の 三 品 に分類 して記述 していますが、

  1. 上品 ( じょうぼん )は無毒で長期服用が可能な養命薬で、例えば甘草 ( かんぞう ) ・ 桂皮 ( けいひ ) ・ 人参 ・ 大棗 ( だいそう ) など 1 2 0 種類あります。

  2. 中品 ( ちゅうぼん ) とは、毒にもなり得る養性薬の 1 2 0 種の薬のことです。

  3. 下品 ( げぼん )は毒が強く、長期服用が不可能な治病薬 1 2 5 種を、薬効別に分類 しています。

なお 江戸時代には医者や薬屋には神 農 神 が祀 ( まつ ) られていま したが、日本では今も 医薬の神 と して信仰され、大阪市 中央区の薬問屋の街と して知られ、今も多くの製薬企業が本社を置く 道修町 ( どしょうまち ) では、日本の薬祖神でもある 少 彦 名 神 社 ( すくなひこな じん じゃ、別称 神 農さん ) で、毎年 神 農 祭 がおこなわれています。

大阪 ・ 道修町の神農祭、動画


[ 4 : 名医の 華 佗 ]

後漢 末期の中国には 華 佗 ( かだ、華 陀とも書く、生年不明 ~ 208 年没 ) という 名医がいて 麻酔薬を使って 手術を行い、多くの人命を救ったという話がありま した。 

しか し 華 佗 ( か だ、 ) が発明 し手術に使用した麻酔薬 の 麻 沸 散 ( まふつさん ) の作り方は、薬草の曼 荼 羅 華 ( まんだらげ、朝鮮 アサガオ ) が用いられたと記されているだけであり、ほとんど実態は不明で した。

後漢 末期 から三国時代 にかけての武将で、後に 蜀 漢 ( しょく かん ) の初代皇帝となった 劉 備 ( りゅうび ) に仕えた 三国志 の英雄 の 一人である 関 羽 ( かんう ) が、戦闘の際に腕に毒矢を受けま したが、名医 の 華 佗 ( かだ ) が 関 羽 の肘 ( ひじ ) を切り開き、骨を削る大手術を しま した。

その時の様子が、 三 国 志 演 義 ( えんぎ、小説 ? ) の、 「 第 七十五 回、 関 雲長 刮骨療毒 呂子明白衣渡江 」 に記載されていますが、 雲 長 とは 関 羽 の 字 ( あざな ) です。

関羽と華佗

関 公 ( 関 羽 ) が 肌 ぬぎに なって 臂 ( ひじ ) を差 し出すと、華 佗 ( かだ ) は言った。「 これは 鏃 ( やじり ) の毒で、烏頭 ( うず、トリカブト ) が塗ってあるため、毒 が骨にまで しみております。

早いうちに治 しておかねば、この腕は使えなくなりま しょう 」、 「 どのように して治すのだ 」、「 療法 は 心得ておりますが、荒療治 ( あらりょうじ ) にござります 」

関 羽は 笑った。「 わ しは 死をも いとわぬ者だ。心配せずともよい 」。華佗が言うには 「 治療には静かな部屋に 柱を 一本立てて 鉄 の 輪 をとりつけ、それに腕を通 して縄で しっかり縛り、顔を布で隠 していただきます。

そのうえで私が鋭利な 小刀 で肉を切り裂き、骨を むき 出 しに して、骨についた 鏃 ( やじり ) の毒を削ぎ落 と し、薬を塗って再び縫合すればよろ しいのでござります、いかがでござり ましょうか、おやりになりますか 」。「 なんだ、それ しきのことなら、柱なぞいりはせぬわ 」

名医の華 佗 ( かだ ) が 関 羽 のために刃で肉を切り、骨を削り骨に 沁 ( し ) み込んだ トリカブト の毒 を無事に取り除いた。その場にいた者たちは皆仰天 したが、ある者は吐き、ある者は向こうへ逃げて しまった。

関羽 本人は ヒ ゲ を しごきながら、平然と 碁 に 興 じていた。手術後、「 華 佗 先生は真の名医である 」 と言って カラカラと笑った 」

とありま した。もちろんこの時も、 局 所 麻 酔 薬 を使用 した のに違 いありません。

ちなみに華 佗 ( か だ、 )は、中国の 薬 学 ・ 鍼 灸 ( しんきゅう、ハ リ とお灸 ) に非凡な才能を持つ伝説的な医師で 、麻酔を最初に発明 したのは 華佗 とされており、「 麻沸散 」 ( まふつさん ) と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったと いわれて います。

彼は のち に 当時 武将であった頭痛 持ちの 曹 操 ( そうそう、魏の 始 祖 ) の侍医 となりま したが、彼の怒りに触れて獄中で非業の死を遂げま した。


[ 5 : 麻 酔 の歴 史 ]

人類にとって 疼 痛 ( とうつう、ずきずきする痛み ) は最も不快な感覚なので、この痛みを除 くために 人類は太古から薬草探 しを してきま した。その結果 ケ シ ・ タ イ マ ( 大麻 ) ・ 朝鮮 アサガオ などに鎮痛 ・ 催眠作用があることに気付きま した。前述 した ス イ ス の新石器時代の遺跡や、メ ソ ポ タ ミ ア 文明の 「 くさび形文字 」 で書かれた粘土板の存在により、当時から ケ シ ( ア ヘ ン ) の使用を知ることができます。 

ホメロス

紀元前 八世紀末 の ギリシャ 人で ヨーロッパ 最古の詩人 とされる  ホ メ ロス ( ホーマー、Homer ) は、 古 代 ギ リ シャ 文学 の最高傑作とされる 二つの 長編 叙 事 詩 「 イ リ ア ス 」  と、 「 オ デ ュッ セ イ ア 」 を書きま した。

ギリシャ 神話を題材と して 「 イリアス 」 は、 トロ イ ア 戦争 ( Trojan War ) そのものを、 「 オ デ ュッ セ イア 」 は、 ト ロ イ ア 戦争後に 一人の英雄が帰国するまでを格調高 く歌 いあげた作品と して有名ですが、そこには モルヒネ を含んだ 「 ケ シ 汁 」 悲 しみを忘れさせる薬 と して登場 します。

これを混 ぜた 酒 を飲んだ者は 、目の前で家族が 殺 されても、一日の間は 涙 を 落 とすことがな い。

とありま したが、これは アヘン 陶 酔 ( とうすい ) 作用 を 描写 したものとされています。 この 「 ケ シ 汁 」 のことを キリシャ 語で オ ポ ス と呼びま したが、ここから ア ヘ ン のことを ラテン 語で、後には英語で も  オ ウ ピ ア ム ( O pium ) と呼 ぶようになりま した。

西洋文明 の 源流となった古代文明の 発祥地 ギリシャ も、 紀元前 4 世紀 には 衰 亡 ( すいぼう、 Decline and Fall ) して 他国に支配されま しが、それにより  ア ヘ ン の 効能 が 「 再発見 」 され、多くの医師が 鎮 痛 剤 あるいは 睡 眠 薬 と して利用 しま した。

九 世紀以後 科学 の中心は イスラム 圏 に移りま したが、 1096 年から 1291 年まで 7 回にわたりおこなわれた 「 異 教 徒から 聖 地 エルサレム を 奪 還 する 」 目的でおこなわれた 十字軍の遠征は失敗 し、ローマ 教皇の権威は大きく失墜 しま した。

しかし イスラム 文化 ・ ビザンツ ( 東 ローマ 帝国 ) 文化 ・ ギリシャ 文化 など 異文化 の 交流 を 促進 し、この時に ア ヘ ン も 再度 ヨーロッパ にもたらされま した。 


( 5-1、パ ラ ケ ル ス ス )

パラケルスス

スイス 出身の医師 ・ 化学者 ・ 錬金術師 ( れんきん じゅつ し 、普通の金属を 金 ・ 銀 などの 貴金属類 に変化させようと した者 ) であった パラケルスス ( Paracelsus 、1493 ~ 1541 年 ) は 錬金術 の研究から、これまでの医学に化学を導入 し、酸化鉄 や 水銀 ( 梅毒の治療に使用 した ) ・ アンチモン ・ 鉛 ・ 銅 ・ ヒ 素などの金属の化合物を初めて医薬品に採用 しま した。 

彼は 錬金術 の時代と 科学の時代の橋渡 しを した業績から、 「 医化学の祖 」 と呼ばれま した。パラケルスス は ア ヘ ン を ベース と した丸薬を開発 し、これを万病に効 く万能薬 と して推奨 しま した。アヘン には 鎮 痛 ・ 鎮 咳 ( ちんがい、せきを しずめる ) の効果があるので、万能 とはいえないまでも、多くの病気の症状を和らげることができたに違いありません。


( 5-2、夢の神 の名前から )

モルヒネ発見

この時代に使われた医薬のうち真に有効といえるものは、 ア ヘ ン  以外にほとんど見当たらないといわれています。 ドイツ 人の弱冠 20 歳の薬剤師 フリードリッヒ ・ ゼルチュルナー は 1803 年から 1804年にかけて薬剤師 クラーマー の下で助手と して働いていま したが、その際に生薬の アヘン から有効成分の モ ル ヒ ネ を 単 離する ( 注 : 参照 ) のに成功 しま した。

[ 注 : 単 離 ( たんり、Isolation ) とは ]

様々なものが混合 している状態にある物質から、その中の 目的物質 だけを純粋な物質と して分離 し取り出すこと をいう。

彼は アヘン に 酸と塩基 ( えんき、酸 と対になってはたらく物質のこと ) を順次加えることで不純物を除去 し、有効成分 ( モルヒネ ) だけを 結晶と して取り出すことに成功 した。

モルフィネ

彼はこの 薬 が 痛 み を夢 のように 取 り 除 いて くれる 」 ことから、ギリシャ 神話に登場する 「 夢 の 神 モ ル ペ ウ ス 」 ( Morpheus ) にちなんで、モ ル フ ィ ウ ム ( morphium ) と名付けま したが、後に モ ル ヒ ネ ( morphine 、 英語の発音は モーフィーン ) と改名 しま した。右図は注射用 の モルヒネ 液です。


[ 6 : ヨーロッパ 医学 の日本伝来 ]

貿易商で医師の ポルトガル 人 ルイス ・ デ ・ アルメイダ ( Luis de Almeida、1525 ~ 1583 年 ) は、航海中に フランシスコ ・ ザビエル の弟子であった修道士の グループ と出会ったことが契機となり、彼らと共に日本に上陸 しま した。イエズス 会の宣教師 と して 領主 大友義鎮 ( おおとも よ し しげ、= 宗麟、 そうりん の法号で知られている ) の援助を受けて、 弘治 3 年 ( 1557 年 ) に豊後国 府内 ( ふない、現 ・ 大分県 大分市 ) に 日本で最初の 西洋式病院 を開設 しま した。

アルメイダ が外科を担当 し、日本人医師の キョウゼン ・ パウロ が 内科を、後 に ミゲル ・ 内田 トメー が漢方医学で診察をおこないま した。 病院は 開院早々から患者で盛況 となりま したが、日本最初の 洋式 外科手術 も盛んに行われ 開院 5 年後には入院患者が百人を超えて いたとされます。

また、病院に来ることのできない患者のためには巡回診療も行われて いま したが、この病院には 日本最初の 医学校 が併設され、若 い日本人 医学生が西洋医学を学びま した。

記念像

しか し 天正 14 年 ( 1586 年 ) に薩摩 の 島津義久 との戦いに 大友義鎮 ( おおとも よ し しげ = 宗麟、そうりん ) は敗れ、府内 ( 大分市 )  が占領された際に 病院は戦火により全焼 しま した。 現在 大分市内の遊歩公園には、 西洋医術 発祥 記念像 がありますが、足 の手当てをするのが 医師の アルメイダ です。


( 6-1、オランダ 商館 医 の カスパル )

西洋医学を日本に伝えた主役は、長崎 出島の オランダ 商館に勤務 した 医師 たちで した。寛永18 年 ( 1641 年 ) に オランダ 商館が 平戸 から長崎に移転 して以降、約 二百年間、ほぼ毎年 1 ~ 2 人の医師が来日 しま したが、その人数は 合計 6 3 人に達 します

慶安 2 年 ( 1649 年 ) に来日 した カ ス パ ル ( Caspar 、1623 ~ 1706 年 ) も そのうちの 一人で した。 彼は新任の商館長と共に 江戸参府 ( 注 参照 ) に同道 して、 医学伝授のために 江戸滞在を命 じられ 10 ヶ月滞在 しま した。

翌年春も江戸に参府 して西洋の医学を日本人に伝授 し、幕府要人の診察に 当たりま した。彼以外にも文政 6 年 ( 1823 年 ) に オランダ 商館医と して来日 し、出島外 に 鳴滝塾を開設 し 、日本人に西洋医学 ( 蘭学 ) 教育を行った医師の シーボルト なども有名です。

[ 注 : 江戸参府 ( えど さんぷ )]

長崎 出島にある オランダ 商館長が 最初は毎年、後には 4 年に 一度、貿易 の 維持 ・ 発展を願って江戸 へ参り、将軍と 世子 ( せいし、あとつぎの子 ) に対 して 拝謁 ( はいえつ ) し、献上物の呈上 ( てい じょう、差し上げる ) を行った。その際には、老中や若年寄といった幕府の高官たちへも進物を贈った。

商館長の 「 御 礼 」 に対 して江戸幕府側は、貿易の許可 ・ 継続条件の 「 御条目 ( ごじょうもく ) 」 5 ヵ条の読み聞かせと、被下物 ( くだされもの ) の授与をもって返礼と した。

このときの カ ス パ ル の医方 ( いほう、治療の方法や医術 ) は、彼から教えを受けた日本人医師たちにより、カ ス パ ル 流外科と して広まりま した。ところで 伊 良 子 道 牛 ( いらこ どうぎゅう、1671~1734 年 ) は 1 6 歳の時に、故郷の 羽前国 ( 現 ・ 山形県 ) を離れて遠 く長崎 へ紅毛流 ( オランダ 流 ) 医学の習得を 目指 して旅立ち、10 年間の修学の後、京都 ・ 伏見で医者を開業 したのは 1696 年のことで した。

道 牛は カ ス パ ル 直伝の門人 ・ 河 口 良 庵 (1629~1687 年 ) から カ ス パ ル 流外科を学んだといわれ、 伊 良 子 道 牛 の名は名医と して評判が非常に高まり、現在の京都市伏見区銀座二丁目 にあった門前には、治療を請 ( こ ) う人々が大勢集まり列をな したと いわれて います。


( 6-2、ここで 一休み )

彼の子孫はその後も 代々医師の仕事に従事 しま したが、幕末になって第 121 代、孝明天皇 ( 在位 1847 ~ 1866 年 ) の 主 治 医 を務めたのが、 「 伊良子 織 部 正 光 順 」 ( いらこ おりべのかみ みつおき ) で した。

ところで孝明天皇の死因については、公式には 天然痘 ( 当時は 疱瘡 = ほうそう の病名で呼ばれていた ) とされて いますが、主 治医 の 光順 ( みつおき ) が残 していた手記に基づ いて、曾孫 ( そうそん、ひまご ) に当たる滋賀県在住の医師 ・ 故 「 伊 良 子 光 孝 」 ( いらこ みつたか ) 氏が 孝明天皇毒殺説 を 40 年ほど前に発表 して話題になりま した。

孝明天皇 毒殺説


[ 7 : 華 岡 青 洲 について ]

華岡青洲

江戸時代の医学に関する本を読むと、必ず名前が出て来るのが医師の 華 岡 青 洲 ( はなおか せいしゅう ) です。 彼は宝暦 10 年 ( 1760 年 ) に 医師 華 岡 直 道 ( はなおか なおみち ) の長男と して紀伊国 那賀郡 名手荘 ( なての しょう ) 西野山村 ( 現 ・ 和歌山県 ・ 紀の川 市 ・ 西野山 ) に生まれま したが、天明 2 年 ( 1782 年 ) 2 3 歳のとき に、医学を学ぶため京都 へ行きま した。

そこでは 吉 益 南 涯 ( よします なんがい ) のもとで 古医方 ( こいほう、江戸時代に起こった漢方医術の 一派で 内科 ) を学び、 大 和 見 立 ( やまと けんりゅう、後の 岸和田藩 の藩医 ) の 下で、 オランダ 外科の系統である 伊良子 ( いらこ ) 流 外科 を学びま した。

10 年後に帰郷 して漢方医術 と、蘭方 ( らんぽう、オランダ 流 ) 医術を折衷 ( せっちゅう、両方の良い所を取 り、一つ にまとめること ) し た臨床外科 をおこないま した。 

彼は新 しい麻酔薬の開発を目指 して実験をおこない、 南蛮 ( なんばん、ポルトガル ・ スペイン ) 流 外科 および  紅毛 ( こうもう、オランダ ) 流 外科で 催眠 ・ 鎮痛 に使われていた薬草などの効果を調べま した。

手遅れの乳がん

その当時 青洲の妹である 於勝 ( おかつ、30 歳 ) は、 手遅れの 乳岩 ( 乳 ガ ン ) を患って苦 しんでいま した。 写真は 乳房 の ガ ン 性 皮 膚 潰 瘍 ( ひふ かいよう、別名 花 咲 き ガ ン ) ですが、花 が 開 いたように見える 患部が高い確率で細菌に感染 して 患 部 から 悪臭を発 し 、患者 および周辺 の 人たち の Q O L ( Quality of Life 、生活の 質 ) を著 しく低下させます。

江戸時代 中期の医師である 永 富 独 嘯 庵 ( ながとみ どく しょうあん ) が長崎を訪れた際に、 オランダ 人 医師の 「 ホ ン ト ノ ウ 」 の外科手術について伝え聞 いたことを、 「 漫 遊 雑 記 」 に記 していましたが、 それによれば、

乳 岩 不 治  自古然 而和蘭書中言曰 其初発如黴核之時 以快刃割之 後従合創之法 治之  斯言有味 雖余未試之 書以告後人

[ その意味 ]

乳 ガ ン は治 らない と いわれて いるが、オランダ の書物 に ガ ン が 小さな 塊 ( かたまり ) のうちに良 く切れる刀 で 切り取 り、その後は傷を治すよう に治療すると 「 乳 ガ ン 」 が 治るという記述がある 。これは味わうべき言葉だが、自分はまだ試みたことがな いので、後の人のために書 いてお く。

とありま した。


[ 8 : 妻の失明 という犠牲を払う ]

これを読んだ青洲は自分も 麻酔薬 を作り、これまで誰にも治すことのできなかった病気を治 し、病に苦しむ人々を救おうと決心 しま した。その後 長い年月を掛けて麻酔薬を試作調合 し、その効果を多くの犬や猫で試 した後に、いよいよ 通仙散 ( つうせんさん ) 別名 麻沸散 ( まふつさん ) と名付けた 全身麻酔薬の人体実験 を行うことに決めま した。

その全身麻酔薬の成分とは、
 
  • マ ン ダ ラ ゲ ( 曼 陀 羅 華、朝 鮮 ア サ ガ オ )

  • 烏 頭 ( う ず、 ト リ カ ブ ト と、その根 )

  • ビ ャ ク シ ( 白 芍 )

  • ト ウ キ ( 当 帰 )

  • セ ン キ ュ ウ ( 川 ? 「 キュウ 」 は パソコン で変換不能文字 ) 、あるいは テ ン ナ ン シ ョ ウ ( 天 南 星 ) を加える。

上記を細 かく砕 いて熱湯 に入れて攪 拌 ( かくはん、かきまぜる ) し、滓 ( かす ) を取り除 いて冷めてきたら患者に 約 二 合 ( 360 ミリ ・ リットル ) を飲ませる。 すると 1 ~ 2 時間後 患者は意 識 を失 い 昏 睡 ( こんすい ) 状態に入り、 5 ~ 6 時間 後 に意 識 が戻るので、その間に手術をおこなったといわれています。

手術終了後は煎 茶 ( せんちゃ ) に塩を加えて与え、麻酔が覚めたら 「 人 参 調 栄 湯 」 ( にんじん ちょうえい とう ) なるものを服用させるとありま した。華岡はこの 全身麻酔薬 の 処 方を 秘 伝 と したことから、詳 しい内容は不明で した。


( 8-1、最初は 母、次は 妻 )

人体実験の被験者に最初に名乗り出たのは 六十四 歳になった 青洲の母親の 於 継 ( おつぎ ) であり、二番目は 三十三 歳の妻 加 恵 ( かえ ) で した。

加恵の失明

しか し 薬の濃度を次第に強めて繰り返えされた麻酔薬の人体実験の結果、加 恵 の視神経が次第に侵されていき、加恵はとうとう 視 力 を失って しまいま した 。 妻の失明 という大きな代償を払 い麻酔薬は完成 しま したが、薬の開発を始めてから 10 年以上が過ぎていま した。


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