切腹について

[ 1 : 自分の はらわたを見る ]

盲腸図

自分の胃や大腸の内部を内視鏡 カメラに接続された テレビ ・ モニター 画面で見た人は数多 くいても、自分の はらわた ( 大腸 ・ 小腸 )を 外側から見た人 は滅多に いな いと思います。

私は 42 才の時 ( 昭和 50 年、1975 年 ) に盲腸 ( 左図の赤色部分、虫垂ともいう ) の切除手術を受けた際に、右下腹部の切り口から外に引き出された自分の はらわた ( 大腸 ・ 小腸 )を見るという、貴重な経験を しま した。

ある時夜中に腹が痛くなって目が覚めました。最初は胃の辺りになんとなく鈍い痛みを感じたので、悪い物でも食べて食中毒でも起こ したのかと思いま したが、その内に痛む箇所が次第に移動 して右下腹部に集中 し、押すと痛みが出てきたので、盲腸炎 ( 虫垂炎 ) に違いないと自分で判断 しま した。

救急車を呼んで夜中に緊急入院するほどのひどい痛みではなかったので、朝までじっと我慢することに しま したが、朝 6 時半過ぎになったので自分で病院に電話を して 多分急性虫垂炎である旨を告げ、入院の支度を して女房が運転する車で病院に向かいま した。

その当時、私が入院した病院では手術の際に肉親を立ち会わせる習慣がありま したが、 普段は気が強 く 亭主を尻の下に敷こうとする くせに、いざとなると怖 じ 気づ く 女房  がそれを辞退 しま した。すると医師が私に対して、鏡を取り付けてあげるから 手術 の様子を見ますかと言ったので、何事にも好奇心が旺盛な私はす ぐにお願い しま したが、後で聞くと希望する患者は少な いとのことで した。

手術台の上の照明灯の付近に、直径 15 センチ ほどの 丸 い鏡を取り付けて 手術台 に寝た状態の患者 からも、手術の箇所が見えるよう して くれま した。切開する下腹部に 「 ヨードチンキ 」 を塗って消毒 し、次に腹が メス で切り開かれるのが見えま したが、腰椎麻酔の為に手術の痛みは全 くな く、大きな切り口から腸を引き出すのが 鏡に映りま した。

盲腸

生まれて初めて自分の 「 はらわた 」 を見た感想 は、「 きれいな色を している 」 ということで した。薄 い ピンク色を したのが長 い 小腸 で、やや赤味があるのが大腸で した。盲腸 ( 虫垂 ) というのは太い大腸の先端付近にあって、小指 ほどの大きさの部分ですが、私の盲腸 ( 虫垂 ) の先端は少 し 化膿 して黄色 くなって いま した。手遅れになると化膿 した箇所が破れて 膿 が 腹腔内 に流れ出し、腹膜炎になるのだそうです。

腹の切り口から はらわた ( 大腸 ・ 小腸 ) を外 に引き出す際には、これまで経験 した事がな い 内臓 が引っ張 られる 、何とも いえな い 不快な感 じ が しま した。

化膿 しかかった盲腸 ( 虫垂 ) を切り取る手術が終わると、今度は腸 ( はらわた ) を 腹腔 ( ふ く くう ) の中に無造作に押 し込みま したが、大腸も長い小腸も 腹の中で勝手に動 いて、納まる べき 所 に納まるのだそうです。上の写真では、ピンセット で摘んでいるのが切り取られた盲腸 ( 虫垂 )、右側に見えるのが盲腸を切り取った切り口です。

ところで 「 切腹について 」 の 題 目 なのに、なぜ盲腸の手術についての説明を したかといえば、 腹の切り口から 「 はらわた 」 を引き 出 すことが、切腹の作法に関係 して くるからで した


[ 2 : 切腹の元祖とは、その 三説 ]

人類が他の動物と著 し く異なる点の ひとつ は、 意図的に 自らの命を絶 つ、つまり自殺することであるとも いわれて います。さらに自殺はある程度文化が進んだ社会に多 く存在 し、未開人の社会では極めて少な いともいわれて来ま した。ここでは日本においいて最も伝統的な自殺の方法とされる、切腹について述べることに します。


( 元祖 その、一 )

播磨風土記

記録に残る最古の 切腹 ( はらきり )は、「 播磨風土記 」 にある切腹 と いわれています。風土記とは和銅 6 年( 713 年 )に第 43 代、元明天皇 ( 女帝、661〜721 年 ) の詔 ( みことのり ) によって諸国で編纂された官撰の地誌 のことですが、郡名の由来、伝承、銀、銅、草木などのその地方の産物、土地の肥痩 ( ひそう、肥えているか痩せているか ) の状態、などを各国府 ( 国ごとに置かれた役所 ) がまとめたものです。

現存する風土記は 出雲、常陸、播磨、豊後、肥前の五箇国のものですが、記録が全部揃った風土記は 出雲国 のみで他は欠落 した部分があります。その中の播磨風土記には、 女性が腹を切ったこと が記されていました。

花浪 ( はななみ ) という男の妻である淡海 ( あわみ ) が、情婦の元へ走った夫を恨んで後を追いかけて行き、沼の傍まで行ったが、怒りの余り 小刀で 自分の腹を 割 ( さ ) き 、沼に投身 して死んだ。それ以来この沼を 「 腹割 ( はらさき ) 沼 」 と呼ぶようになった。その沼に住む 鮒 ( ふな ) には 「 はらわた 」 が無い。

とありま した。つまり激情から女だてらに切腹 ( 割腹 ) したうえで沼に投身自殺を しま したが、時期としては霊亀 2 年 ( 716 年 ) 以前のことで した。


( 元祖 その、二 )

奈良時代の政治家で天武天皇の孫に当たる長屋王 ( 684〜 729 年 ) が いま したが、彼は第 45 代聖武天皇の即位に伴って左大臣に就任 しま した。ところが藤原鎌足 ( かまたり ) の子で、後に藤原氏繁栄の基礎を築いた 藤原不比等 ( ふひと ) が、娘の光明子を 皇后 ( 後の光明皇后 ) にさせようと したのに反対 した為に恨を買 い、藤原氏の陰謀 により謀反 ( むほん ) の罪を着せられて、屋敷を藤原氏の軍勢に取り囲まれた末に自害しました。

一説によるとその際に 切腹 した と伝えられています。しかし 822 年頃成立 した説話集の日本霊異記 ( りょういき ) によれば、長屋王は 妃 と4 人の皇子と共に服毒自殺 したとも書かれていま した。


( 元祖その、三 )

平安中期の朝廷に仕えた者で武芸に優れると共に歌人の藤原保昌 ( やすまさ ) がいま したが、彼の再婚 した妻は恋の奔放な歌を詠んだ有名な 和泉式部 で した。保昌の弟の 藤原保輔 ( やすすけ ) は、右兵衛尉正 五位下という官位を持ちながら盗賊でもありま した。

南北朝時代の末に書かれた系図書の 「 尊卑分脈 ( そんぴ ぶんみゃく )」 によれば、彼のことを 強盗の張本 ( 首領 ) と書いてありま したが、永延 2 年 ( 988 年 ) に遂に逮捕されま した。その際に割腹自殺を図りま したが 死にきれず 、翌日になって獄中で死亡 したとされ、彼についても切腹の元祖とする説もあります。


[ 3 : 切腹 した者、しなかった 者 ]

切腹が武士の間で自殺する方法と して普及するようになったのは、平安時代 ( 794〜1192 年 ) の末頃からで、源平合戦の頃に流行が始まり、鎌倉時代 (1192〜1333 年 ) になると、「 武士の自殺といえば 切腹 」 が当たり前になりました。

しかし平家物語、源平盛衰記などを見ても、 腹を切るのは源氏の将兵か、あるいは東国出身の武士 に限られていて、平家の主立った武将や 一族には 一人も いませんで した

長門の壇ノ浦の海戦で平家が滅亡 した際には、著名な武将だった平知盛 ( とももり )、教盛 ( のりもり ) などは、平家物語によれば碇 ( いかり )を背負って船から海へ投身 しま した。

しか し平清盛の子で清盛の死後、 平家 一門を統率して源氏に対抗した平宗盛 ( むねもり ) とその長男の清宗 ( きよむね ) などは、その際に自害もせずに船上に生き残っていた為に、 平家方の侍から海に突き落とされま したが 、泳ぎができたので溺れずに いた ところを源氏に捕らえられて捕虜になりま した。

二人は鎌倉に送られて源頼朝 ( よりとも ) に対面 した後で、暗に自害するように刀を差し出されま したが、それを断ったため京に送還される途中で首を斬られま した。

これは東国と西国との文化の違いによるものなのか、あるいは武勇を尊ぶ東国の も の の ふ ( 武士 )対、宮廷文化に慣らされ 公家化 した軟弱 な 平家人 ( へいけびと ) との、気質の違いによるものでしょうか?。これについては平家の武士達に多かった観音信仰が原因とする説もありま したが、その信仰が自害、特に切腹を禁 じて いたのか どうかは疑問です。


[ 4 : 佐藤忠信の切腹、はらわたを出す ]

室町時代 ( 1336〜1573 年 ) の初期に成立した軍記物 に 義経記 ( ぎけいき )がありますが、作者は不明で全 8 巻から成ります。それによれば源義経の家来に東北出身で佐藤忠信 ( 1161〜1186 年 ) という武士が いま したが、義経の四天皇の 一人として平家との戦闘に参加 し各地に転戦しま した。

義経は 壇ノ浦 の戦いで平家を滅亡させたものの、兄頼朝と不仲になった為に 義経 追討の 宣旨 ( せんじ、天皇の命令を伝える文書 ) が出され、北条氏に追われる身となりま したが、逃避行の際に奈良の吉野山で僧兵に襲われた時には義経の身代わりとなって奮戦 し、義経 一行を無事に脱出させま した。

忠信像

しか し忠信が京都六条の堀河の館に戻ると、お尋ね者の身になった彼を昔馴染みの女性が 裏切って、 六波羅探題 ( ろくはらたんだい 、探題とは政務、訴訟の裁断、軍事などを司る地方長官のことで、現在の京都市東山区松原通りの六波羅にあった ) に密告 したため、北條時政の大軍に寝込みを襲われま した。佐藤 忠 信 は最早これまでと運命を悟 り、敵の大軍を前に して自害 しましたが、その時の様子を義経記の第 6 巻から引用 します。

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−( 引用開始 )

剛勇な兵 ( つわもの ) が腹を切る有様を御覧あれ。東国の方にも主君に忠誠心を持ち、敵に首を取られまいと して自害する者がいるであろうが、その人々のため、これこそ後々までの手本であるぞ。
と言うと膝を着いて中腰になり刀で左の脇の下に ズバッ と突き刺 し、右方の脇の下にするりとそれを引き回 し、胸元へ突き立て、ヘソ の下まで斬り下ろ した。傷口をつかんで引き上げ拳 ( こぶし ) を握り、それを 腹の中へ突っ込み腸 ( はらわた ) を縁の上にむやみにつかみ出 し 、刀の切先を口にくわえ、うつ伏せに ガバ と倒れた。

鍔 ( つば ) は 口元 に残り、切先は耳わきの髪の毛をかき分けて後方にするりと刺 し貫いた。文治 2 年 ( 1186 年 ) 正月 6 日 辰の刻、忠信は遂に人の手にもかからず生年 28 才 ( ? ) で息絶えた。( 引用終了 )


[ 5 : 源義経の切腹も、はらわたを出す ]

義経木像

頼朝側の追求を逃れて苦難の末に奥州の平泉にたどり着いた義経 一行は、奥州の覇者である藤原秀衡 ( ひでひら ) の手厚い庇護を受けま したが、秀衡が死ぬと源頼朝にそそのかされた、秀衡の息子の泰衡 ( やすひら ) の軍勢 五百騎に不意に襲われま したが 文治 5 年 ( 1189 年 ) のことで した。弁慶などの部下も 衣川 ( ころもがわ ) の戦いで戦死 した為、最早これまでと思い、

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−( 引用開始 )

「 自害をする時期になったら しい。自害はどのようにするのがよいのか 」 と義経がいったので、「 佐藤忠信が京で切腹 したのを、人々は後々まで褒めておりま した。」 と兼房 ( 増尾 十郎兼房、ましおかねふさ ) が答えると、「 それなら訳はない、切った傷口が広いのが良いのだな 」 といって左の乳の下から刀を突き立てた。

刀の先端が背中まで突き通れとばかりに突き立てると、刀をまわして傷口を 三方へ掻き破り、 はらわた( 腸 ) を いやというほどえぐり出 した−−− 。( 引用終了 )


[ 6 : 村上義光の場合、はらわたを投げつける ]

鎌倉末期の武将に村上義光 ( よしてる、?〜1333 年 ) がいま したが、後醍醐天皇が起こ した 元弘の変 ( 1331 年 ) に皇子の 護良 ( もりなが ) 親王 ( 大塔の宮、おおとうのみや、ともいう ) の挙兵に参加 して各地を転戦 しま したが、一時は敵に奪われた錦の御旗を取り返すなど功績を挙げま した。

足利尊氏 ( たかうじ ) が南朝側の吉野を攻撃 した際に、陣地が陥落する以前に護良 ( もりなが ) 親王を脱出させ、その身代わりになって親王の鎧 ( よろい )、直垂 ( ひたたれ、公服 ) を身に着けて 二天門にかけ上がり切腹 しま したが、太平記によればその際に、

我が自刃する ( さま、様子 ) を見て、汝等死す時の作法 とせよ!
と叫び、腹を 一文字にかき切って、 はらわた を掴み出 し、敵兵に向かって投げつけま した。わざわざ 「 作法とせよ 」 と言い、佐藤忠信の場合は手本にせよと言っていることからも、当時は切腹の作法など無かったことになります。


[ 7 : 津村家の掟、はらわたの 露出が 条件 ]

奥州 ( 現、青森県 ) 八戸藩の重臣の家柄に津村家 がありま したが、その家には明治まで 二百年続いた家訓とも言うべき、刑罰の掟( おきて )がありま した。それによれば 津村家の 一族、および奉公人の中間( ちゅうげん )、下女 ( げじょ ) に到るまで、死罪に相当する犯罪を犯 した場合には、

  1. 女といえども必ず切腹すること。

  2. その場合腹部を 一文字あるいは 十文字に切り開き、自ら はらわた を膝のうえに引き出 した上で 介錯を受ける。

  3. はらわた を つかみ出すまでは、当人がいかに苦悶 しようとも、介錯は行われない。

  4. 切腹 して内臓を露出することができ、首尾良く介錯された者に対 しては、犯 した罪そのものを取り消 して常人と同 じに扱い、死後は津村家の 一族と して処遇され津村家の墓地に埋葬され供養されま した。そのうえ遺族には見舞金が贈与されま した。

この内臓を露出させる切腹の方法こそ、風土記の頃から鎌倉時代に至るまでの間、武士が実行していた 切腹の原型 とも言うべきもので した。津村家の記録によれば 二百年間に 男 5 人、女 3 人の計 8 人 が、この形での切腹を実行 しま した。


[ 8 : 三島由紀夫の場合 ]

ところが第 二次大戦後になると、切腹に関して、

出血 や 内臓露出 に到る過程で、サディズム も しくは エロティシズム を味わう快感や美意識の高揚が、切腹を実行させる根源となる

という新しい説が発表されま した。かつて切腹自殺した作家の三島由起夫と同性愛の関係にあった堂本正樹は、「 回想 回転扉の 三島由紀夫 」( 文春新書 )の中で、三島との「 切腹ごっこ 」 を以下のように告白しています。

三島由紀夫

「 切腹ごっこ 」とは、二人の情事の前に交わされていた切腹の儀式 ( お遊び ) のことだが、三島は真剣に腹をもみ、長刀を逆手にし、左腹に突き立てる。引き回す。そして、ドッと私の”死骸”の上に倒れこんだ。 ……これが私達 「 兄弟 」の 「 切腹ごっこ 」 だった。

森田と三島の遺影

ところで三島が切腹した際には、首尾良く はらわた を床の上に溢れ出させることに成功 しま したが、三島の私兵的存在で した、 楯の会 の会員であった森田必勝 ( 写真の左側 ) が介錯を務めま した。しか し森田の技量未熟から、二度刀を振り下ろしたものの首を切り落とすことができずに、別の男が介錯をおこない ようやく切断 しま した。 三島の次には森田も、切腹 して果てま した。


[ 9 : はらわたを露出させる意味 ]

前述の如く切腹は平安時代に始まり、武士道が発達 した鎌倉時代にかけて定着 し、中世、近世を通 じておこなわれま したが、なぜ日本人は腹を切るので しょうか?。その理由について明治時代の思想家、教育者である新渡戸稲造 ( にとべいなぞう、1862〜1933 年 ) によれば、古代から人の魂や真心がその 腹部に宿る とする考えがあり、日本人は代々その考えを受け継 いできたので、いざという時には腹を切ることが武士道を貫く上で、最も相応しい行為と考えられるようになったからで した。

自らの名誉を守る為の切腹や、死んでお詫びをする、あるいは武士らしく自らの最後を飾る手段としての切腹は、単に腹の皮を切るだけでに留まらず、人間の最も重要な部分である はらわたを露出させること により、 自身の勇気、真心、真情 ( いつわりの無い心 ) を示すと共に、身の潔白を証明 したり、あるいは抗議を示す意味もありま した

そういえば日本語には腹を割って話す、真情を吐露 するなどの表現がありま した。武士道に付随する道徳観や心情は仏教における生死観と共に、現在に至るまで日本人の自殺に潜在的な影響力を与えて います。

ところで主君から切腹を命じられた家臣が、その際に切り口から はらわた を露出させるのを 無念腹 と い いま したが、命令に従って 一応切腹をするものの、本心ではそれに反抗、無念を示す意志表示とみなされま した。


[ 10 : 切腹の変質 ]

「 勇気と気力を要する死に方 」 とされた切腹は、天下太平の世が長く続いた江戸時代になると次第に形式化されま したが、斬罪 ( 斬首による死罪 ) に代わり武士に対する 名誉ある 死 ( 罪 ) と しての適用が目立つようになりま した。

脇差し

それと共に短刀で腹を切る代わりに 一部では扇子を用い、切腹の座で前に置かれた 三方に載せてある扇子を取ろうと体を伸ばす際に、あるいは短刀の代わりの扇子を腹に当てると同時に介錯人が首を打ち落とすという、 扇腹 ( おうぎばら ) が流行りま した。

前述の赤穂浪士の切腹の際にも扇腹の切腹を した者が いま した し、介錯人の技量未熟から首を切るべき刀を誤って肩や頭に食い込ませ、重傷を負った切腹人から うろたえ召さるな! な ど と、切腹現場で叱責 された介錯人もいたと記録にありま した。

更に付け加えると、切腹に際して詠む辞世の和歌も専門の代作者がいて作る ( 詠む ) ようになり、切腹に間に合うように手配したのだそうです。

赤穂浪士を生む原因となった、江戸城、松の廊下での刃傷事件を起こした播州赤穂の藩主、浅野内匠頭長矩 ( ながのり ) の辞世の歌は、

風誘う花よりもなお我はまた、春の名残を いかに とやせん

で したが、その意味は

切腹の場

「 風に誘われて散っていく 桜の花びらは名残り惜 しいものだが、自分はより強い名残りの悔 しさを、心の中に残 している。この気持ちをどう したらよいのだろうか 」

でした。この歌を詠んだのは刃傷事件当日の午後 6 時頃に切腹させられた本人ではなく、名前は忘れましたがどこかの寺の和歌に優れた偉い僧侶が、 浅野家からの依頼を受けて急いで辞世の歌を詠み 、切腹に間に合うように浅野内匠頭 ( たくみのかみ ) が預けられていた ( 現、東京都港区新橋 4 丁目にあった ) 田村邸に届けたもので したが、世の中はその当時から便利なものでした。

ところで非常に畏れ多いことですが、毎年新年に皇居の 歌会 ( うたかい ) 初め の席で発表される天皇を初めとする皇族方の 「 歌 」 についても、全部でなくても部分的に、ご指導などと称 して、 あるいは ( ? ) という感 じがするのは私だけで しょうか?。


[ 11 : 切腹は痛い、腹はなかなか切れない ]

切腹の仕方には横 一文字と十文字があるのをご存 じだと思いますが、十文字に腹を切る場合に縦、横どちらを先に切るべきかが問題になります。まず 横一文字 に切ってから縦に切るのが普通ですが、そこには経験に基づく理由があるからで、それは痛みを感 じる神経の分布が関係 して いま した。つまり医学的にみると、

  1. 神経の分布密度は上腹部に密であり、下腹部に疎なので、腹に刀を突き立てた場合の痛みからいうと、縦に切る場合の方がはるかに激 しいのだそうです。

  2. 腹部の皮膚下の感覚神経枝の数については、「 へそ 」 を境に して上部に 38、下部に 16 あり、下腹部の方が半数以下に少なく、従って切腹時の痛みが少ないのだそうです

  3. 内臓にある副交感神経も、胃の方が分布密度が大で、大腸、小腸の方が疎であることが、医学的に知られています。

横一文字に腹を切る場合には、刃 ( やいば ) が 「 へそ 」 に当たると邪魔になり切れに くい為、内臓を露出 させる為には、 「 へそ 」 よりも 下を切る 方が切り易 く、しかも苦痛が少ないのだそうです。それにより切腹した後も、ある程度体を動か したり、周囲の人と会話をすることも可能になりま した。

腹筋

しか しながら 十文字 の切腹 が 困難 なのは、上記に加え絵図にある如く腹筋の構成が上下方向に走って いて、その緊張は縦方向に行われる為、横 一文字に切るとこの筋肉が切断されて腹部の外壁がゆるみ、傷口が次第に広がり、そこから柔らかく滑らかな腹膜や腸が押 し出されて しま います。

それ故その後に縦に切る際には、内臓が出かかり腹腔が空洞に近くなり、腹壁が緩んで しまい、あたかも空気が抜けかかった ゴム まりを切るように刃物が滑り、切り難いのだそうです。結論としては 十字腹を切るのは痛みがひどく腹を切るのが難 しいので、 勇敢な人に しかできない 方法です。


[ 12 : 切腹だけでは、なかなか死ねない ]

その理由は太い血管が腹部の前面、つまり ヘソ がある側には無 く、腹のむ しろ後方 ( 背中側 ) にある為 に、切腹 によって細い血管から血は出るものの、失血により死ぬまでには時間が掛かかります。これは腸 ( はらわた ) が出るほど深く切っても同じことで、腸を露出させると いかにも凄惨な感 じが しますが、なかなか死ねないことは過去の切腹例からも分かります。

はらわた

写真は割腹自殺を図った女性 のものですが、女性特有の腹部の厚い皮下脂肪を貫き、 はらわた を露出 するほど大き く深 く切ったにもかかわらず、女性は命を取り留めま した。 腹を切っただけでは、 なかなか死ねない ことがこれでも分かります

南部藩の 横川良助編 の 書物 によれば

−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*( 引用開始 )

老梅院 ( 寺院 ) 前にて同心 ( 与力の下の下級役人 ) 2 名が刃傷に及び、一方が切り伏せられたが、他方は腹を切って自殺 した。その際 堰 ( せき ) にて切口より腸 ( はらわた ) を引き出 し洗い、暮れ頃に死す。 ( 引用終了 )

とありま した。斬り合いに勝った者も喧嘩両成敗の掟から所詮死を免れないので切腹 し、自分に道理があったことの証明に腹を開いて腸 ( はらわた )を露出させま したが、血などで汚たので 「 はらわた 」 を水で洗ったということで した。切腹を した上で 「 はらわた 」 を示すことが、本心や 理非 を明らかにする手段 と して、周囲からも認められていたからで した。

切腹には通常 介錯 が付きものですが 、それが得られない場合には切腹後に自ら頸動脈を切り、あるいは心臓を突くなどして大量出血により死期を早める場合もあります。

敗戦時に海軍特攻の総元締めだった 大西海軍中将 は、昭和 20 年 ( 194 5年 ) 8 月 1 6 日に切腹 しま したが、その際自分に介錯することを許さず、「 自分が送り出した部下たちへの責任を取る 」 と言って、 約 20 時間 苦 しみ続けて世を去った ことが知られています。

ところで大英百科事典の ハラキリ の記述によれば、切腹とは 最も能率が悪 く苦痛の多い自殺方法 なのだそうですが、敢えてそれをおこなう日本人とは、彼らの有色人種に対する 人種偏見に基づ く解釈によれば、残忍、残酷な民族なのだそうです。

400 年前に宣教師によって切腹の報告が ヨーロッパに送られると、彼らの日本人観に悪影響を及ぼ しま したが、それは日本人は残酷な民族であるとするもので、フランス 人のある作家は切腹する日本人ほど、残忍な民族はいないと嫌悪感をあらわに しま した。

全ての人間は創造神が作りたもうたとする教義のうえに立ち、自殺を罪悪視する キリスト教の教えから導き出され、自殺を強制する刑罰 ( 切腹 ) などもってのほかとする 彼らの偏狭な考えからで した。


[ 14 : 敗戦の年の主な 切腹 ]

日本の敗戦が決まった時から数ヶ月以内に 自決した軍人は 580 名 いま したが、そのうち佐官級以上の上級軍人を除くと、 切腹した下級将校や兵士は 24 名 で した。以下は敗戦間際 ( 昭和 20 年 ) に戦地で切腹 した者を含む、敗戦前後の主な切腹者です。

昭和 20 年(1945 年 ) 6 月 13 日 海軍少将、沖縄特別根拠地隊司令官 、大田実が 海軍壕内で 切腹

昭和 20 年 6 月 23 日 陸軍中将、沖縄防衛軍司令官、牛島満が 摩文仁 ( まぶに ) 丘の洞窟内で 切腹

昭和 20 年 8 月 15 日 陸軍大臣、阿南惟幾が陸相官邸にて 切腹

昭和 20 年 8 月 15 日 終戦の日、約 30 人が皇居前で自殺 、方法は不明

昭和 20 年 8 月 16 日 海軍中将、神風特攻隊の創設者、大西瀧治郎が 切腹

昭和 20 年 8 月 22 日 愛宕山集団割腹自殺事件。尊攘同志会、会員 12 名が切腹

昭和20 年 8 月 23 日 皇居前広場自決事件。明朗会、会員 13 名が 切腹

昭和 20 年 8 月 24 日 代々木練兵場集団自決事件。大東塾の塾生 14 名が 切腹

昭和 20 年 11 月 20 日 、枢密顧問官 陸軍大将 本庄繁が、戦犯の指名を受けて 切腹


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