( 2 )、戦争を始める意図、動機

戦争の原因を考える場合、両国を取り巻く戦略的環境、つまりどちらの側に 戦争を始めようとする意図や動機 、があったのかを知ることが重要です。

[ 主要な輸入国を相手に、戦争ができるのか? ]

日米開戦の前年である昭和 15 年 ( 1940 年 ) 当時の貿易統計によれば、日本は主要物資の輸入の大半を米国に依存していました。即ち戦略物資である

  • 鉄鋼類の輸入量の 70 パーセント

  • 石油の輸入量の 78 パーセント

  • 工作機械類の輸入量の 66 パーセント

を米国からの輸入に頼っていました。

常識で考えても 産業必需物資 の 7 割もの輸入を依存する相手 に対して、日本から戦争を仕掛ける意図や動機があったとは到底考えられません。なぜなら戦争になれば相手からの必需物資の輸入が止まり、たちまち原材料や石油 エネルギーが不足して国内産業は行き詰まり、 継戦能力を失うのは明白 だからです。

注 : 1 )
当時産業の米 ( 必需品の意味 )といわれた鉄鋼の生産高は米国が年間 7 千 5 百万 トン、英国が 1 千 2 百万 トン、これに対して日本は 7 百万 トンであり、日本の G N P ( 国民総生産 ) はアメリカの 2 4 分の 1 でした。

対 イラク戦争時の実例から

しかも日本は昭和 12 年 ( 1937 年 ) 以来 4 年に亘る泥沼の 日中戦争を継続中 であり、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていました。その状況下で更に米国、英国、オランダなどの大国を相手にして、 新たな戦争 ( 太平洋戦争 )を始めなければならない動機や必要性など、 日本には全くありません でした。

参考までに現在の イラク情勢を見ても、米国ほどの資源豊富な超軍事大国といえども、対 イラク戦争の最中に北朝鮮とも同時に戦争をするという 二正面作戦をなるべく避けようとする意図 が明白でした。それは敵に勝つ為には攻撃力 ( 兵力 )を集中するという戦争の常道から、当然導き出された結論によるものです。太平洋戦争について結論を言えば、

戦争の意図や動機があったのは日本ではなく、明らかに 米国の側 だったということです。

日本の真珠湾攻撃について言及すれば戦争の意図、動機、原因を考える場合に、どちらが先に攻撃を仕掛けたのかは殆ど意味がありません。というのは昔から開戦のきっかけ、口実を作るためには、相手に対する挑発行為、攻撃の偽装工作、意図的な発砲、爆破、暗殺、破壊工作などが、頻繁におこなわれてきたからです。

[ ベトナム戦争の実例 ]

偽装工作の実例を挙げると、米国が ベトナム戦争に全面介入するための 「 きっかけ 」 となった昭和 39 年 ( 1964 年 )8 月 2 日と 4 日に起きたとされた トンキン湾事件 では、北ベトナムの魚雷艇が トンキン湾上の米駆逐艦 マドックスに対して、最初に魚雷攻撃をしたとアメリカ軍が公式発表しました。

しかしベトナム戦争終了後に時が経ってから、実はこの攻撃は 「 まぼろし 」の魚雷艇からの攻撃であったことが公表されました。米軍が参戦するための虚偽の口実として、魚雷艇の攻撃を作りあげたのです。

米国の日本に対する挑発行為については、次の(3)と(4)で述べます。


( 3 )、交戦相手に対する軍事援助

実は日米開戦 の 9 ヶ月も前 から米国は 昭和 16 年 ( 1941 年 ) 3 月 11 日に 施行 した 武 器 貸 与 法 により、日中戦争の交戦相手であった 中国 ( 蒋介石 の 国 民 党 政 権 ) に 、航 空 機、武 器 弾 薬、軍 需 物 資 などを 供 給 し 続 けてきま した。

交戦国の 一方に対する 軍事援助 は 国際法上、 中立 国 の 立 場 を 放 棄 したものと見なされ、武力攻撃の対象となり得るものです。米国は当然そのことを予想 したはずです。

注 :1 )
武器貸与法とは 「 米国大統領が それを防衛することが合衆国の防衛に不可欠と考える国 の政府に、船舶、航空機、武器その他の物資を 売却、譲渡、交換、貸与、支給 し、処分 する 権限を 大統領 に 与 えるもの 」 で したが、法案審議の 段階 から米国内 には戦争行為に 該当 すると いう 反対意見がありま した。

さらに米国の西海岸から 1 万 キ ロ も遠 く 離 れた 中国本土 の 防衛 が 合衆国の 防衛に 不可欠 などと、信 じた者は 米国には 1 人も いませんで した。問題は アメリカの 国防 ではな く、 遅 れてやって 来 た 侵 略 者 と して、アメリカ 資本主義 の 生 産 品 を 売 り 込 むための 中 国 市 場 の 獲 得 で し た。

注 : 2 )
米国 の 軍事援助 に 関する 昭和 16 年 ( 1941 年 ) 6 月 24 日 付けの 日本軍 の 調査資料 によれば、中国 の 蒋介石 国 民 党 政 権 を支援 する 3 本の 補給 ルート、いわゆる「 援 蒋 ルート 」 ( え ん し ょ う ルート ) のうち、仏印 ( 現 ベトナム ) ルートを 経由 するものが、ガソリン、鉄材、トラック および 弾薬 その他で、 毎 月 1 万 1 千 ト ン で した。

ビルマ ・ ルート 経由が 武器弾薬、火薬、工作機械 など 毎 月 4 千 ト ン、南支那 ( 中国南部 ) ルート が 同様な 物資を、 毎 月 9 千 ト ン で、補給物資の合計は 毎 月 2 万 4 千 ト ン で した。


( 4 )、戦 争 挑 発 計 画

ワシントンの 海軍情報部極東課長 を して いた アーサー ・ マッカラム が 昭和 15 年 ( 1940 年 )10 月 7 日に立案 し、上司が承認 した 計画 ( 文書名、M e m o r a n d u m - f o r - t h e - D i r e c t o r )、題名、 太平洋における状況の概要と合衆国が取るべき行動の勧告 ( E s t i m a t e - o f- t h e - S i t u a t i o n - i n - t h e - P a c i f i c - a n d - R e c o m m e n d a t i o n s - f o r - A c t i o n - b y - t h e - U n i t e d - S t a t e s ) は、ルーズベルト大統領の最も信頼する顧問 に宛てて作成 されたもので した。

それは 日 本 を 挑 発 す る ことにより、米国に対 して 戦争行為 をするように計画 したもので した。その背景としては、

  1. 日露戦争以後急速に高まった 黄 禍 ( Y e l l o w - P e r i l ) の原因である日本の勢力拡大を阻止 し、アジア ( 中国 )、太平洋地域における 米 国 の 覇 権 獲 得 の た め 、及び 白人 による アジアの 植 民 地 支 配 体 制 の 維 持 を 図るため。

    注 : 黄 禍 ( こ う か )

    黄色人種 の 進出 によって、白色人種 に 災 禍 が 加 えられるであろうという 人 種 差 別 的 感 情 論 。日清戦争 (1894 〜 1895 年 ) に際 して、ド イ ツ 皇帝 ウ ィ ル ヘ ル ム 二 世 が 唱 えた。その後、日露戦争 ( 1904 〜 1905 年 ) では 負ける ハ ズ が無 いと思われて いた ロ シ ア が敗れたため、黄 禍 が 現実 となった。

  2. ヨーロッパで既に始まった第2次大戦において ドイツ 軍が勝利を収めれば、米国の安全保障に脅威を与える事態になる。しかも昭和 15 年 ( 1940 年 ) 6 月には ドイツ が フランスを占領したため、 不 利 な 戦 況 に 追 い 込 ま れ た 英 国 を 援 助 す る た め に 米国は 早急 に ヨーロッパ に 参 戦 す る 必要 があった

  3. しかし 昭和 1 6年 ( 1941 年 ) 1 月 30 日に 実施 された ギャラップ 社の世論調査によれば、 米国民の 88 パーセント は米国の欧州戦争介入に 反 対 で し た 。( 翌日の ニューヨーク ・ タイムズ紙の記事参照 )。

そこで日本に対する戦争挑発計画を実施することにより、 日 本 に 最 初 の 弾 丸 ( F i r s t - S h o t ) を発射させ 戦争状態になれば、その後は米国にとって 一石二鳥 の状況になることが予想されました。

なぜなら日本と戦争になれば 日・独・伊 の三国同盟から当然 ドイツ とも戦争になり、 米国は 正 々 堂 々 と ヨーロッパ での 戦 に 参 戦 できる からで した。日本が真珠湾を攻撃した ニュースを聞いた チャーチルは、これで ドイツ との戦争に勝てると大喜び したと伝えられています。

米国は マッカラム の 戦争挑発計画 に従 い、昭和 16 年 ( 1941 年 )7 月 25 日には、アジアにおける植民地支配体制の維持に障碍となる日本の叩き潰 しを図る 英国、オランダ とも 共謀 して、自国内 の 日 本 資 産 1 億 3 千万 ド ル を 凍 結 し、貿易、金融関係を全て 断絶 する 経 済 封 鎖 を実施 し、フランス、カナダ、ポルトガルも 同調 しま したが、まさに開戦を意図 した挑発行為そのもので した。なお カナダ以外は、当時 アジアに植民地を持つ国々で した。

注:)
資産凍結とは国が外国などの資産の処分、移動を禁止することで、特に 戦時において 自国内にある敵国政府、敵国籍の会社、敵国人の資産を接収または管理することをいいますが、米国、英国、オランダ、フランスなどは、 開戦前にもかかわらず 、この措置を日本に対して取りました。

更に米国の大統領 ルーズベルトは 8 月 1 日に英国、オランダと協力して 石油などの対日輸出禁止 の追い打ちを掛けましたが、当時の日本の石油自給率は僅か 5 パーセントであり、95 パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、 日本経済の 窒息 はもとより、国家と しての 存亡 の 危機 に 見舞 われま した。

これこそ ルーズベルトが日本をして先制攻撃をさせる為に仕組んだ筋書きで した。ロンドン にある英国の Royal Public Record Office ( 王立公文書館 ) の資料の中に、 チャーチル 首相が大西洋上の軍艦で ルーズベルト 大統領と、昭和 16 年 ( 1941 年 ) 8 月 10 日 と 11 日におこなった大西洋憲章制定に関する秘密会談の内容 の 一部があります。

それは英国議会の 秘密会議 における ルーズベルト との会談報告ですが、その中で ルーズベルト の 発言と して、

如何に したら 日 本 が 先 に 、米国に攻撃を仕掛 けるかを検討中 である。

と述べた旨の発言が記録されていま した。

さらに次の事実もあります。日本との外交交渉責任者であった国務長官 コーデル ・ ハ ル ( Hull )は、日米外交交渉の決裂を狙って昭和 16 年 ( 1941 年 )11 月 27 日に、日本にとっては 受諾不可能 な 条件を 故意に 要求 した 10 項目からなる、 H u l l - N o t e ( ハ ル の 対 日 覚 え 書 き ) を、日本に突きつけま したが、その直後に述べた言葉があります。

私 の 仕 事 ( 対 日 外 交 交 渉 ) は こ れ で 終 わ っ た。あ と は 陸軍 と 海軍 に 任 せ よ う。

注:)その当時空軍は独立した軍事組織ではなく、陸軍の一部に所属 していま した。

この米国の態度が引き金となって日本も外交交渉による解決を断念 し、その結果 石 油 の 枯 渇 か ら 座 して死を待つよりも、勝算のない戦に挑む 、最終決断を しま した。そ して米国が予想 していた フィリピンではなく、ハワイ を攻撃 しま した。

太平洋戦争終了後の昭和 21 年 ( 1946 年 ) 7 月に米国上下両院合同調査委 員会は 、真珠湾攻撃直後 から 疑惑 が 持たれていた ルーズベルト政権による事前の 攻撃情報 隠蔽の 経緯について、 真珠湾攻撃に関する調査報告書 を公表 しま した。


( 5 )、封 印 さ れ た 米 英 首 脳 会 談 の 資 料

米国では情報公開法の規定により外交関連文書についても、一般には 30 年経過 すれば公開される制度になっています。

しかし ワシントン にある National Archives ( 国立公文書館 ) の資料のうち、前述した昭和 16 年 ( 1941年 )8 月 10、11 日に カナダ 大西洋岸 ニュー ファウンドランド 沖の イギリス の戦艦 プリンス ・ オブ ・ ウエールズ( 開戦直後に マレー 沖で日本海軍航空隊により撃沈 ) 艦上でおこなわれた、大西洋憲章制定 ( 8 月14 日 )という表向きの会談とは別に、ルーズベルトと チャーチル両首脳による 秘密会談の資料は 70 年以上 経ち 今では歴史的資料 となっているにもかかわらず、 未だに非公開です

更に開戦に至るまでの米国政府の動きを知る 核 心 部 分 の 資 料 に関 しても、 70 年以上経過 し 、すでに過去の歴史的遺物となっているにもかかわらず未だに公開されません。

その理由は資料の公開が合衆国の国益に反するからであって、今後も公開されることは決して無いと思います。この資料こそ日本が太平洋戦争を計画 し実行 したとする、東京裁判の訴追理由である 「 平和に対する罪、戦争に対する 共 同 謀 議 という、えん罪 」 を晴らすための決定的な証拠なのです。

人種差別主義者であった英国の首相 チャーチル と共謀 して、アングロサクソン による世界制覇を目指 し、 白人による植民地支配体制の 現状維持を図り 、アジア、太平洋地域での権益拡大を図った ユダヤ 系 大統領 フランクリン ・ ルーズベルト (1882〜1945 年 ) こそ、 太平洋戦争を 惹 き 起 こ した 真 犯 人 であるという歴史の真実を、日本人は決 して忘れるべきではありません。

注 : 1 )
ルーズベルトという名前には彼以外にも、日露戦争における講和条約の仲介に当たった、26 代大統領の セオドア ・ ルーズベルト (1858〜1919 年 ) がいま したが、別人です。

イギリス陸軍の騎兵中尉と して インド駐留の経験を持つ チャーチルについて、主治医の モーガンは 1942 年に著書で次のように述べています。
注 : 2 )
チャーチルは 人間の皮膚の色のこと し か 考 えなかった 。彼はまさに ビクトリア朝 ( ビクトリア女王在位 1837〜1901 年 ) 的人間だと私が思うのは、彼が インド や 中国 のことを話す時だった。

「 黄色 い 小 人 た ち 」、「 細 目 野 郎 」、「 弁 髪 ( べんぱつ ) 野 郎 」というのは、彼が中国人のことを言う時によく口に した言葉であった。

 350 年もの間  ジャワ ( 現 ・ インドネシア ) で植民地支配を続け、有色人種に対する蔑 視、差別意識 が 特 に 根強 い オランダ から米国 に 移 民 した 子孫 である ルーズベルトによれば、

注 : 3 )
日本人のような 野 蛮 な 人 種 をなくすために、極 東 で ヨーロッパ 人 と アジア 人 種 の 交 配 を 促 進 してはどうか、日本人の 侵略行動 は おそらくその 頭蓋骨が 白 人 に 比 べ て 未 発 達 であるからだ

と述べま した。( 1942 年 8 月 6 日、駐 米 イギリス 公使、サー ・ ロナルド ・ キャンベル との 会談 の 際 の 発言 から )

ルーズベルト の 長女の夫である カーチス ・ ドール の証言によれば、ルーズベルト は 一家の 会食の席で 家族にこう言いま した。

注 : 4 )
私は決 して宣戦 は しない、私は 戦 争 を 作 る のだ 。そ して真珠湾の 前日の 会食では、 明日戦争が起こる

とつぶやきま した。


( 6 )、ア イ ゼ ン ハ ウ ア ー の 言 葉

米国の国立公文書館は第 3 4 代大統領 アイゼンハウアー( 1890〜1969 年 )が、昭和 30 年 ( 1955 年 )1 月 17 日に当時の上院外交委員長 ウオルター ・ ジョージ 民主党上院議員と、執務室で交わした会話の録音の一部を公開 しま した。

それによれば、第 2 次大戦を勝利に導いたとされる 2 代前の大統領 フランクリン ・ ルーズベルトについて、アイゼンハウアー大統領( 当時 )は、

私は 非常 に 大 き い 間違 い を した、ある大統領 の名前を挙げることができる。 ルーズ ベ ル ト は自分の信念や行動 しか認めな い、極 めて 自己中心的 な 人物 で あ る。
と彼の謀略政治姿勢や、その人間性を厳 しく批 評 しま したが、アイゼンハウアー が述べた 「 非常に大きい間違い 」 とは、言うまでもなく対日戦争を計画 し実行 したことで した。


( 7 )、ニューヨーク ・ タイムズ紙

日本が ポツダム宣言を受諾 した直後の ニューヨーク ・ タイムス 紙は、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 14 日 ( 日本よりも 1 日、日付が遅 く なる ) 付の 紙面 で、「 太 平 洋 の 覇 権 を 我 が 手 に 」 という 大見出 しの下に、

我々は 初 め て ペ リ ー ( 提 督 )以来 の 願望 を 達 し た 。もはや 太平洋 に 邪 魔 者 は い な い。これで ア ジ ア 大 陸 の マ ー ケ ッ ト は、我 々 の も の に な っ た
という記事を 載せま した。これによって米国は ペ リー 以来 の アジア に対するすべての行動 が、 当初は日本の 征服 を 図 り 、次に中国大陸の 市 場 獲 得 を 目 指 した 米国 の 西進主義にとって、 障 害 と な っ た 日 本 を 打 倒 することにより、アジアにおける覇権獲得を目指 していたことが容易に理解できます。

それでも貴方は 米 国 占 領 軍 から教え込まれた 「 アメリカ は 正 義 の 味 方 」 であり、 日 本 を 悪 者 とする 東 京 裁 判 史 観 を信 じ た いのですか?。自 分 で 歴 史 を 調 べ てごらんなさ い。


8 : 禁輸 に 対する 対抗措置

太平洋戦争開始直後に日本は陸軍が マレー、スマトラ を攻略 し、海軍が ボルネオ、セレベス、ジャワ ( 現 インドネシア ) 周辺の制海権を手中に納めたのも英国や オランダが、日本に禁輸 した南方資源 ( 石油、ゴム、錫、アルミニウム の原料となる ボーキサイト など ) を、国家生存の為に敢えて武力で獲得する為でもありま した。

この日本の行為を単純に非難するわけにはいきません、米国も同様な行為を計画 しま したから。 禁 輸 ( E m b a r g o ) とは戦争を惹き起こす非常に危険な行為なのです。

( その 一 )
昭和 48 年 (1973 年 )10 月 6 日に、イスラエル軍対 エジプト、シリア連合軍が衝突した第 4 中東戦争が勃発 しま した。

それは当時 イスラエル に武器を供給 していた米国対 アラブ 諸国との対立にまで発展 し、O P E C 諸国は原油の生産削減と イスラエル 支持国への原油割り当て削減を決定 しま した。同月下旬には原油価格の値上げに端を発 して、第 1 次 オイル ・ ショックが起きま した。

その際に アラブ 強硬派であった サウジアラビア は、イルラエル を軍事的に支援 した米国に対する制裁措置と して、自国産原油の対米輸出禁止を計画 しま した。

それに対して米国の キッシンジャー 国務長官 ( 当時 )は、 「 も しそういう事態になれば、米国は サウジアラビア の油田地帯に海兵隊を派遣 して占領する 」 と警告 したので、サウジアラビア も禁輸を断念せざるを得ませんでした。

( その 二 )
イタリア の ムッソリーニ は、昭和 10 年 ( 1935 年 )10 月 3 日に エチオピアへ の侵略を開始 しま した。それに対して当時の国際連盟 ( 国際連合の前身 ) は経済制裁を決議 しま したが、ムッソリーニ が 「 禁輸は、イタリアに対する戦争を意味する 」 と戦争勃発を警告 したため、国際連盟 ( 当時 )は経済制裁を遂に発動できませんで した。

( その 三 )
国連創立 50 周年記念の国連特別総会において、米国から経済封鎖を受けている キューバ の支配者 フィデロ ・ カストロは、演説の中で 「 経済封鎖とは老若男女を死に追いやる残忍な、静かな原爆である。」と述べ した。

( その 四 )
平成 15 年 1 月初旬、北朝鮮代表の国連大使は外国記者団との会見の席で、国連安全保障理事会による経済制裁がおこなわれた場合には、 北朝鮮に対する宣戦布告とみなす 旨の発言を しました。

国家の安全や生存に絶対に必要な物資を確保するためには、いざとなったら国際法などは完全に無視 し、敢えて武力行使をおこないそれを入手する。そのためには 戦争 さえも辞さないのが 国際社会 の 現実 であり 常識です。

逆に言えば 相手に対 して戦争を仕掛ける には、相手の必需品について禁輸という手段を取るのが最も効果的だったわけです。日本も昭和 16 年 ( 1941 年 )当時、米、英、オランダ から石油を初めとする国家生存上の必需品に対する禁輸を受けたため、その考えに従い行動 したので した。

注 : 1 ) 英国、ロンドン ・ ディリー ・ メール 紙の記事

日本が戦争を始めた理由は、フィリピン を初めとする東洋への アメリカ の進出を、いかに日本が恐怖に感 じたかを理解 しなければ分からないだろう。また1941 年 ( 昭和 16 年 ) に、 アメリカが日本へのいっさいの石油資源の供給を絶った時の日本の感 じた深刻さも、無視することはできないであろう。

そう考えてみれば、真珠湾攻撃を 一方的に卑劣だと非難することはあたらない。さらに言うならば植民地支配の歴史を持つ西欧の国々 ( 英国、オランダなど ) が、他の国 日本 にその植民地支配を謝罪せよという立場にはない。


9 : 善 玉、悪 玉 論 の 結 論

以上述べた歴史上の事実を検証すれば、日本が 悪 玉 で米国が 正 義 の 味 方、善 玉 であるとする、占領軍から教え込まれた東京裁判史観や、連合国側の民主主義が日本の軍国主義、侵略主義を打ち破ったとする主張が、如何に 欺 瞞 に 満 ちたものであるかが判明 します。

建 国 以 来 の ア メ リ カ の 武 力 に よ る 西 方 へ の 領 土 拡 大 こそが、侵略主義、植民地主義の 権 化 ( ごんげ、著しい特性 )であることを歴史の 事実 が 証明済 みです

日本と米国との戦争の原因は何であったのか?。そのひとつの答が米国 コーネル 大学の ウオルター ・ ラフィーバー教授 ( 歴史学 )の著書にあります。

太平洋戦争は米国と日本との間で、ほぼ半世紀にわたって生成された問題が爆発 したのだった。 最も重要 な 対 立 点 は、 日米 どちらが 中国で重要な役割を果たすかだった。

つまり彼の説にもありますが、資本主義の宿命でもある生産 した商品を売り込む為の市場の獲得競争に加え、国内資源の乏しかった日本にとっては、 生きる為に海外における資源を確保する という大きな目的もありま した。

その一方で アメリカ には、アジア における経済的勢力拡大という意図があり、軍事的、経済的に急成長を遂げた日本の存在が、 西進主義にとって大きな障碍 になったことも否定できない事実で した。

つまり客観的に言えば アジア を舞台に した両国による権 益 ( 国 益 ) 確保のための争い、すなわち 経 済 的 帝 国 主 義 が、日米戦争の真の原因であったと私は考えます。


[ 侵 略 戦 争 の 定 義 変 更 と、経 済 ブ ロ ッ ク 形 成 ]

見方をかえれば、19 世紀末に日本が発展の道を歩み出したとき直面 したのは、米、英が支配する世界の経済体制で した。さらに日露戦争、第 1 次大戦後にさまざまな分野で日本が非常な競争力を見せは じめると、西側はその増大を恐れるようになりま した。

それと共に人種的偏見から有色人種国の日本を、 白人による植民地支配体制に加盟させない為に 、これまで長い間彼等がおこなってきた武力による侵略 ( 例えばホンコン ・ 九龍半島を中国 から 奪った イギリスの アヘン戦争 ( 1840 〜 1842 年 )、メキシコ に戦争を仕掛け メキシコ 領の テキサス を強奪 した( 1846 〜 1848 年 ) アメリカ、同じく カメハメハ王家の女王を無理矢理退位させて ハワイ を我が物にした ( 1898 年 ) など植民地支配についての定義 )、つまり

未開国 を 武力で 侵略 し、植民地支配 をする行為は 犯罪 ではなく、国際法上 も 認 められる

とする考えを、 突然 一方的に変更して 昭和 6 年 ( 1931 年 )の満州事変以後、日本に侵略国の レッテル を貼り非難 しました。

それ以前から欧米列国は彼等の アジア植民地支配にとって邪魔になる日本の勢力拡大を阻止するため、共同 して日本に対する国際貿易の門戸を閉ざしたことも大きな原因だったと考えます。

例えば アメリカは昭和 4 年( 1929 年 )の世界恐慌をきっかけに、翌年 (1930 年 )に高率関税を可能にした、 ストーム ・ ホーリー法 を制定し、市場確保の為の 経済 ( 通商 )ブロック を形成 しま した。

これに対抗するため イギリスはそれまで毎回 ロンドン で開催 していた帝国経済会議 ( Imperial Conferences、現 イギリス連邦会議 )を異例なことに カナダ の首都 オタワ で開催し( オタワ会議 )、対外貿易の決済を ポンド ( 英通貨の単位 ) だけでおこなう経済 ブロックを形成しました。

更に英国は、日本製品に対して、ソーシアル ・ ダンピング ( 投げ売り )だと非難し、英本国だけでなく 植民地に輸入される日本製品にも高額の輸入関税を課 し、あるいは輸入品に対する量的制限を 一方的に設けて日本製品の流入阻止をはかりま した。その後米国や フランスも同様な経済政策をおこないま した。

複数の国が共通の目的を達成するために作る 政治的経済的連合を経済 ブロック ( 圏 )と呼びますが 、英国とその植民地を中心とする経済 ブロックを、英国通貨の名称である スターリング( Sterling )から スターリング ・ ブロック と呼び、フランスとその植民地で作る経済圏を フラン( Franc )・ ブロック 、米国を中心とした南北米大陸の経済圏を ドル ・ ブロック と称 しま した。

同一経済 ブロックに属する国に対しては互いに貿易上の優遇措置を与えるなどの、輸出入の拡大政策をとり、圏外の国には高い関税障壁を設けて対抗 しま した。こう した列国の経済 ブロックの確立により、日本製品は次第に輸出市場を失いま した。

輸出ができなくなっても国内産業に必要な石油、鉄鋼、クズ鉄、羊毛、生 ゴムなどの原材料の輸入は依然として必要であり、その為に支払う外貨も当然必要で した。国際経済の ブロック化は、前述のように世界大恐慌により、ますます拡大の一途をたどりま した。

ここで重要な点はいわゆる 日本の侵略行動が原因で、経済 ブロック が作られたのではない ということです。前述の如く、まず列国が経済的利益を図るために経済 ブロック を作ったこと。それによって日本は世界貿易の枠組みから、次第に閉め出されて いったこと。

その結果経済 ブロックを持たず、列強の経済 ブロックにも加盟させてもらえなかった日本は、 国の経済的破綻を防ぎ 国家生存のため 、止むなく軍事力を用いて中国大陸、東南 アジアに進出 しま した。

つまり日本が欧米諸国と同様に、侵略行為をせざるを得なかった 経済的原因 を作ったのは、 他ならぬ欧米諸国であった ということです。この事実を日本の歴史家がなぜ指摘 しないのか理解に苦 しみます。

さらに付け加えると東京裁判で日本を断罪 したのは、昭和 6 年 (1931 年 ) の満州事変以後の行動についてで したが、それ以前の日本 をして 経済的に疲弊させ 、侵略行動をせざるを得ない状況をもたら した、彼等による経済 ブロック 形成 は、巧みに 法廷における審理の対象外 に していま した。

注: )

昭和 10 年 ( 1935 年 ) 当時の日本の人口は 6,600 万人 でしたが、国内産米の生産高は 5,750 万石でした。単純に考えても 1 人最低 1 石 ( こく、2.5俵 = 150 キログラム)の米が年間に必要で したので、 850 万石の米の不足 、つまり 850 万人分の食料 を輸入に頼らざるを得ない状況で した。

輸入には外貨が必要で したが、前述のように世界市場の ブロック化により輸出市場から閉め出された日本は、生きる道を求めて欧米諸国の権益を敢えて侵す道を選びま した。

太平洋戦争の開戦前には、日本の アジア侵略に対抗 して、権益保護や植民地支配継続のため、A ( アメリカ )、B ( ブリテン、英国 )、C ( チャイナ、中国 )、D ( ダッチ、オランダ ) 諸国による A、B、C、D、包囲陣が形成され 、日本の石油輸入は完全に止められ、石油の枯渇から座 して死を待つよりも、日本は世界の大国を相手にやむなく戦争する道を選びま した。

第 2 次世界大戦 終了後に生まれた 侵略主義、植民地支配を悪とする考え方に従えば 、それまで アジア、アフリカを侵略し植民地支配をしてきた欧州諸国 ( イギリス、フランス、ロシア、イタリア、オランダ、スペイン、ポルトガル、ベルギー、ドイツ、南アフリカ連邦、中華人民共和国、北朝鮮 などと同様に 日 米 両国とも 悪玉であった とするのが正しい結論です



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