ハル ・ ノート( Hull note、対日外交覚え書き )

[ 1 : ハル ・ ノートとは ]

ルーズベルト政権内部の対日強硬派であった財務長官の ヘンリー ・ モーゲンソー は、自分が作成した対外政策に関する書類を、昭和 16 年 ( 1941 年 ) 11月18日に、 ルーズベルト大統領宛に送り、その写しを国務長官の コーデル ・ ハル ( Cordell Hull、1871年〜1955年 ) にも送りました。

それには「日本との緊張を除去し、ドイツの敗戦を確実にする問題の処理方法 」という長い名前がついていました。

実はこの 書類の原案 は彼の部下である 財務次官 ハリー ・ ホワイト が、この年 ( 1941 年 ) の 5 月に起草したものでした。11月26 日になって国務長官 ハルと彼の部下達が、この日の午前から午後にかけてこの書類の対日外交政策を検討した結果、作成されたのが「 合衆国および日本国間の協定のための基礎概要 」という 10 ヶ条からなる新提案で、別名を ハル ・ ノート ( ハルの対日覚え書き )と呼ばれました。


[ 2 : 原案作成者は ソ連の スパイ ]

この原案を書いた ホワイトは戦後に ソ連 ( ロシア ) の スパイであった ことが発覚して自殺しましたが、国際共産主義組織( コミンテルン、Comintern ) の一員として、当時 ドイツと戦争をしていた ソ連にとって、日ソ開戦の危険を回避することが必要でした。

その為に 日本と米国との間で戦争を起こすことを計画し、その為には日本が 到底受諾できないような条件 を作成して、日米開戦に導く努力をしたのは当然のことでした。


[ 3 : ハル ・ ノート( 覚え書き ) の内容 ]

ハル ・ ノートが日本に示した 10 項目の内容は、大きくまとめると次の 4 条件でした。

  1. 中国および インドシナ( 現 ベトナム )からの、日本軍および警察の完全撤退。

  2. 日米両国政府は中国において重慶 ( 国民党、蒋介石 ) 政権以外の政権を認めない。

  3. 日米両国政府は中国における、いっさいの治外法権を放棄する。

  4. 第三国と締結した協定を、太平洋地域の平和保持に衝突する方向に発動しない。

    米国の要求内容を簡単にいえば、

    (A)は、中国、仏印など日本の占領地の放棄であり、これまで多数の戦死者を出しながら獲得した権益の全面放棄を迫るものであった。

    (B)は、中国で米国が支持した国民党の蒋介石政権に対抗して、日本が支援した汪政権や満州国の解体を要求。

    (C)は、日米両国が中国における治外法権をたとえ放棄しても、英国、フランスなど白人諸国の治外法権を従来通り存続させることであった。

    (D)は、米国に対抗するために結んだ日、独、伊、三国同盟の有名無実化を要求し、米国の植民地であるフィリピンやオランダの植民地のインドネシア、英国の植民地のマレー、シンガポール、ビルマなどの植民地の保全であった。

要するに明治以降の日本の大陸における 一切の権益を全部放棄して、四つの島に引っ込めということでした。もしもこんな言い分が通るとすれば、 アメリカについても ハワイ州や カリフォルニア、ニューメキシコ、テキサス州などを、元の持ち主である カメハメハ王家 ・ メキシコ政府に返して、建国当時の東部 13 州に戻れ ということになります。


[ 4 : 日本を挑発し、先制攻撃をさせる方法 ]

アメリカ政府はこれに先立ち、1941年 ( 昭和 16 年 ) 7 月には 在米日本資産を凍結し 、8 月には 石油の対日全面禁輸をおこない イギリス ・ オランダもこれに追従しました。

国務長官 ハルはこの 「 ハル ・ ノート 」 に記された要求が、日本にとっては到底受け入れられない内容であることを十分承知していました。日本に対する石油の禁輸の結果、 日本が 1 日に 1 万 トンの石油備蓄 を失うことは明らかでした。

開戦前年の昭和 15 年 ( 1940 年 ) の石油製品の需要は年間 506 万 キロリットルでしたので、当時の石油備蓄量からは 1 年前後で石油の在庫が ゼロ になる事態 が予想されました。

石油の備蓄が枯渇する以前に、必ず日本が戦争に打って出ることを十分承知しながら、敢えて国務長官 ハルはその政策を選びました

つまり日本にとっては軍備の維持は困難になり、国内産業の破綻、国民経済の崩壊など 国家の窒息死をじっと待つのか、それとも勝敗を度外視してでも、生き抜く為に資源を力ずくでも獲得するかの選択肢が残されました

ハル ・ ノートを日本に送ったあとで、ハルは スティムソン ( Stimson ) 陸軍長官にこう言いました。

I have washed my hands of it, it is in the handle of you and Knox, the Army and Navy.

私の仕事はこれで終わった 。後は君 と ノックス ( 海軍長官 ) 、( つまり ) 陸軍と海軍にまかせるよ。( 1941 年 11 月 27 日の スティムソンの日記から )

当時、アメリカ空軍は、陸軍の一部でした。


[ 5 : ハル ・ ノートに対する批判 ]

東京裁判のインド代表判事を勤め、後に昭和 27 年から国連の国際法委員会の委員、続いて委員長になった パール判事は、東京裁判において 1,290 頁に及ぶ判決理由書を書きましたが、その中で

ハル ・ ノートのような無礼なもの ( 外交文書 ) を受け取れば、日本のみならずモナコ王国、ルクセンブルク大公国 ( のような弱小国 )でさえも、米国に対して矛 ( ホコ )をとって立ちあがったであろう。

と述べて、 日本が 米国から挑発されて 、やむなく開戦に至った事実を指摘しました

しかしこの言葉は彼が最初に述べたのではありませんでした。彼よりも以前に、東京裁判の弁護側最終弁論の際に、日米関係を担当した ブレークニー弁護人が、

日本は即時降伏するか、または勝ち目はなくとも戦いに訴えるかの何れかを 選ばされたのである。ハル ・ ノートは今や歴史となった。さればこそこれを現代史家の言葉に委ねよう。

今度の戦争について言えば、真珠湾の前夜国務省が日本政府に送ったような覚え書きを受け取れば、モナコや ルクセンブルグでも、米国に対して武器を取って立ったであろう

と述べたものです。この現代史家とは、Albert J. Nock のことで、彼の著書 無用者の回想 から引用したものですが、参考までにその原文を掲載します。

As for the present war, the Principality of Monaco,the Grand Duchy of Luxemburg,woud have taken up arms against the United States on receipt of such a note as the State Department sent the Japanese Government on the eve of Pearl Harbour.


[ 6 : ノーベル平和賞を受賞 ]

驚くべき事に、日本を挑発し太平洋戦争開戦を積極的に画策した米国務長官 ハルが、あろうことか昭和20年(1945年 )に、ノーベル平和賞を受賞しました。

理由は、 日米交渉における努力を中心にした、平和外交の推進 ということでした。戦争犯罪人に ノーベル平和賞を与えるとは、ブラック、ユーモアか喜劇というべきか、本来であれば日米開戦を避ける為に懸命に努力した日本の野村大使こそが受賞すべきもので、ノーベル平和賞選考委員会の目は節穴でした。

それとも別の理由として1901年以来1931年まで30年間に6人の平和賞受賞者を出したアメリカが、それ以後1945年まで 14年間 も平和賞を誰も受賞していないので、太平洋戦争が終わったこの時期に、世界における 「 白人支配の権力構造 」 を守ったとして、 ご褒美 に授賞したのかも知れません。

しかし受賞した ハルも ハルでした。自分が日米交渉に果たした役割、意図が平和とは正反対の戦争であったことは、自分自身が最もよく知っていたにもかかわらず、その名誉欲から平然と受賞したのは、人間としての最低の モラルである反省心さえも失った、恥ずべき行為でした。

人種差別主義者 フランクリン・ルーズベルトの片腕として日米開戦に導いた彼の行為は、議会合同真珠湾調査委員会の資料の解禁、その後の国立公文書館の資料の部分的解禁の結果、事実が明らかとなり歴史家によって厳しい判断を下されました。


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