真珠湾攻撃に関する議会の調査報告書

経緯

  1. 日本軍による真珠湾攻撃の被害の大きさから、太平洋艦隊司令長官 キンメル海軍大将と ハワイ軍管区司令官 ショート陸軍中将が、防備責任の怠慢を理由に退役させられた。

  2. 処罰を正当化するため、ホワイトハウスは直後の12月16日に大統領特命による調査委員会 ( ロバーツ委員会 ) を発足させ、なぜこれ程大きい被害を受けたのか、の調査に当たらせた。しかし調査の方法が余りにも政府側 ( の責任回避 ) に偏っていたため、調査に対して疑惑が深められた。

  3. 米国の勝利が確定的になった1944年 ( 昭和19年 )に、職務怠慢の理由で退役させられた キンメル海軍大将、ショート陸軍中将から、 えん罪 を晴らすために正式の軍法会議開催要求が起こった。

    その理由は政府首脳が日本軍の真珠湾攻撃を事前に知りながら、故意に現地司令官に知らせず、被害発生の責任を押しつけたとするものであった。

  4. 法廷で事実関係を争うことの不利を避けるため、ルーズベルト政権の ホワイトハウスは、陸軍、海軍長官に指導監督権限がある陸軍査問委員会、海軍査問委員会での再審を実施することで決着を図った。

  5. 両軍の査問委員会における判決は、
    事実の立証するところに基づき、( 当時の ) 現役の個人または団体の誰も、違反を犯していないし、重大な過失を招いてもいない。
    というものであった。

    しかし海軍長官 ノックスは、ルーズベルト政権首脳が計画した 「 日本を挑発し先制攻撃をさせることによる、戦争開始の筋書き 」を秘匿するため、事実上海軍査問会議の判決を破棄してしまった。

  6. その後議会がこの件の調査に乗り出すと、当時の ホワイトハウスは自ら調査を取り仕切る方が賢明と判断し、与党である民主党主導による上下両院合同の真珠湾調査委員会( 以下議会合同調査委員会という )を発足させた。

  7. 延べ 70 日の聴聞会で 331名から証言を集め、1千万語におよぶ調査資料を集めた。しかし民主党、共和党との政治上の駆け引きから、軍人に対する昇進を エサにした、暗号解読書類の破棄などの証拠の隠滅工作や、左遷の暗示、脅迫による証言の撤回、記憶喪失、証人としての出頭拒否などがおこなわれた。

    その結果、議会合同調査委員会の結論は

    ハワイの司令官達の過失は判断の誤りであって、義務の怠慢ではない。
    というものに変更されたが、真実の解明とはほど遠い、うやむやなものとなった。

  8. ニューヨーク、タイムスの記事によれば、真珠湾の防備の怠慢を問われて退役させられた当時の太平洋軍司令長官キンメル海軍大将と、ショート陸軍中将の名誉を回復する決議が、1999年5月25日に上院で賛成52、反対47で採択された。遺族にとっては58年振りの悲願達成であった。提案者の ロス上院議員は 歴史の誤りを正し 、二人を公平に扱うべきであると説明した。

    注:)1
    その理由は当時の ルーズベルト政権の閣僚、軍の最高司令官らが日本軍の ハワイ攻撃を暗号解読から事前に知っていながら、ハワイの現地軍司令官に 意図的に連絡しなかった事実 が、その後の情報公開法の制定により、公開された資料の一部から明白になったからです

    注:)2
    たとえば議会合同調査委員会の報告書の中の少数派報告(Conclushion 13,pp.38-40)によると、

    (昭和16年、)11月中にワシントンの高官たちが、( ハワイの現地軍司令官である ) ショート将軍と キンメル提督に送った電報は、かくも矛盾と不正確な言葉で述べられていたので、日本との外交関係の状況、日本の戦争計画および取るべき特別行動に関する明確な命令、 「 すなわち全面的警戒の必要性について、疑問の余地のない命令 」を、司令官らに伝達していなかった。

    合衆国大統領は、事態が戦争切迫の度を増すに従い、情勢を判断し、ハワイの司令官等に明確な命令を下すに当たり、軍の最高指揮官たちとの間に、継続的、効果的、かつ適切な協同作業を行わせることができなかったことについて、責任がある。( 中略 )

    したがって、権限上から必然的に、パールハーバー惨事を招いた一連の事項に関連して、 大統領に責任があることは疑う余地がない 。この点について、憲法および法律の文言は完全無欠に表明している。

1:なぜ攻撃を知らせなかったのか、その理由は以下にある

  1. 昭和14年 ( 1939年 )から始まった第2次世界大戦で、ドイツに苦戦を強いられていた英国の チャーチル首相の求めに応じて、米国の ルーズベルトは英国に駆逐艦など50隻の艦艇、船舶を含む大量の軍事援助をした。

    その見返りとして、米国の極東 ( 特に中国 ) における権益確保、拡大を認めさせ、それと共にアジア、太平洋地域における米国の覇権獲得に障害となっていた日本を、叩き潰すことへの協力を約束させた。

    注:)
    戦争中、米国の武器貸与法に基づく イギリスに対する援助額は、当時の金額で 276億2千5百万 ドル にのぼりました。

  2. 当時の米国内には外交に対する孤立主義、モンロー主義の信奉から、英国を助けるためのヨーロッパへの参戦や、日本との戦争に反対する世論が圧倒的に強かった。世論の反対を押し切って日本との戦争を始める為には、日本に先制攻撃をさせることが是非とも必要であった。

    さらに日本と戦争になれば、日本と三国 ( 軍事 )同盟を結ぶ ドイツ、イタリアに対しても戦争開始の口実となり、英国を助けるために、ヨーロッパでの戦争に公然と参戦する為の大義名分が得られる大きな利点があった。

    注:)1
    モンロー主義とは欧米両大陸の相互不干渉を主張する米国の外交原則で、1823年第五代米国大統領のモンロー(1758〜1831)がラテン、アメリカ諸国独立に関する欧州諸国の干渉を拒否する宣言を発したことに基づきます。

    注:)2
    開戦の7ヶ月前のギャラップ世論調査(この世論調査は昭和15年から昭和16年まで何度もおこなわれました)では、極東の問題のためにアメリカが戦うことに対して 79パーセントが反対 であり、6ヶ月前の調査では フィリピンが攻撃されても戦争反対が34パーセント もありました。

    注:)3
    ルーズベルトは、以前から有色人種を忌み嫌っていましたが、彼の部下で側近中の側近として対日政策に深くかかわった、大統領顧問の ハリー、ホプキンスも人種差別主義者でした。そこから白人による世界支配の構造へと政策を発展させたのでした。

    注:)4
    平成6年 ( 1994年 )にそれまで機密扱いだった 二つの文書が、米中央情報局 ( C I A ) から公開されました。

    「 真珠湾−−当時と今日の評価 」、「 国家を評価する主目的 」の二つの論文で、それぞれ副題が 「 情報士官の意見をねじ曲げたアメリカの固定観念と希望的観測 」、「 第二の真珠湾を避けるために 」となっています。その要旨は、

    ( A )、
    もともと米国政府は日本政府の最高機密である外交暗号を解読していた。日本が開戦決定を関係機関に知らせる 風( かぜ )暗語 ( 号 )にも気づいていた。したがってハワイやフィリピンが、日本軍の攻撃を受ける危険も知っていた。

    しかし日本人に対する蔑視、偏見からそんな意志も ( 軍事的 )能力も、考慮に値しないという固定観念を持っていた。

    注:)風暗語( Wind Message )
    日本政府は昭和16年11月19日に、もしアメリカとの開戦が極秘裏に決定された場合、世界各地の外交団宛に毎日の日本語短波ニュース放送の最中に、偽の天気予報 「 東の風、雨 」 を挿入して知らせることを決定しました。

    もし日本が、タイ、マラヤ( マレーシア )および蘭印 ( オランダ領であった現インドネシア ) を含めた イギリスと戦争を開始する場合には「 西の風、晴 」の合図が放送され、もしソビエトを攻撃する場合は「 北の風、曇 」と合図されることになっていました。

    そして「 東の風 」と「 西の風 」の「 風メッセージ 」は、海外に向けて12月5日に放送されました。

    (B)、
    日本人にはアメリカに大きな損害を与える能力はない。新規軸をとり入れる能力もないし、真似することができるだけだ。彼等が保有する兵器は、すべて欧米の兵器のコピーに過ぎないと考えていた。

    (C)、
    日本人は、解剖学的に内耳に欠陥がある。( 子供の頃から母親に背負われて、揺られて育つので三半規管の発達が悪いという理由 ) 、しかも近視眼が多いので、平衡感覚を欠くとしていた。

    また気圧の変化に対応できず、飛行機の操縦は無理であり。爆撃照準はもちろん、アクロバットなどの高等飛行もおぼつかないと技量評価をしていた。

    (D)、
    日本人は武士道の戒律に従う。また人命を軽く見る性向を持つ。飛行機が錐もみ状態に入ったりすると、両手を下腹に組み、祖国の万歳を唱え、完爾として死に臨む。

    欧米人のように生き抜く努力、故障を直す努力もせず、最後に落下傘降下をしたりしない。( 日本で勤務したことのある数名の飛行教官の意見 )

    (E)、
    日本人は単独よりも、ドイツ人以上に集団志向を持っている。搭乗員は特性としては単独なので、拙劣な個人主義者である日本人は当然、拙劣な搭乗員でしかあり得ない。

    別の資料によれば、元来蒙古系人種である ジャップの目は Slant Eyes ( 狐の目 )でつり上がっているから、片側の目を閉じることができない、従って射撃には不向きであるということが、米国の軍関係者の間でまともに信じられていました。

    日本海軍の実力をせいぜい三流国並とみなしていたため、その当時すでに対空 レーダーが配備されていた真珠湾が、もし日本軍の先制攻撃を受けたとしても、被害はごく軽微であろうと ホワイトハウス首脳と軍の最高指揮官は判断していました。

    注:)5
    オアフ島最北端( ホノルルの北西四十五キロ ) のカフク岬にある陸軍 オパマ対空 レーダー監視所は、現地時間の午前7時2分( 日本軍の攻撃開始の約50分前 )に北から近づく大編隊の目標を130 マイルの距離で探知しました。

    レーダー監視兵からの報告に対して陸軍の当直将校は、接近 コースが北と東からでは大きく異なるにもかかわらず、当日に北米本土から ハワイに飛来する予定の  B-17 爆撃機の12機であるとみなして、何の措置も取りませんでした。

    注:)6
    日本軍によるフィリピンではなく、予想もしなかったハワイに対して、 空母機動部隊からの 350機 を使用した大規模な攻撃と甚大な損害は、ルーズベルト政権首脳を仰天させました。

    彼等は自分達の判断の大失敗を覆い隠すために、和平交渉の最中に日本がいきなり攻撃し、だまし討ちに遭った、宣戦布告前の卑劣な攻撃だとする虚偽の口実を作り、自分達の責任回避に極力努めました。

2:騙し取られた暗号解読機

その当時アメリカは日本の外交暗号の解読に成功していました。外国から紫暗号( Purple Code )と呼ばれていた外交暗号を アメリカが解読したのは、昭和15年(1940年 )10月といわれています。

実はその前年に日本は97式欧文印字機 ( 97式とは皇紀 2597年 = 昭和12年の、97から採ったもので、その年に欧文印字機として軍隊で制式化されたもの ) を導入し、これを外務省はもっぱら外交通信に利用していました。

アメリカの陸軍情報部がそこに注目し、この欧文印字機を模した暗号解読機(Purple Machine)を8台作成し、それを使用することにより、日本の外交暗号を早くから解読に成功していました。

昭和15年( 1940年 ) の末、米英両国の陸、海軍幕僚長( 制服組のトップ ) はお互いの暗号解読情報を、すべて交換するということに同意しました。その一環としてアメリカ側は、日本の外交暗号電報の解読に使用していた「 Purple Machine 」( 紫暗号解読機 ) を イギリスの暗号解読部に提供することに同意しました。

そのお返しにイギリス側は ドイツの暗号を解読するのに使用していた「 エニグマ暗号解読機 」 を、米側に手渡すものと思われていました。

この協定を完全に実施するため翌16年初め紫暗号解読機2台を携えて、米側の情報 チームが ロンドンに到着しました。しかしこの2台のうちの1台は、もともと昭和16年 ( 1941年 )5月に真珠湾に海軍通信情報班が設置されたとき、同班宛に送られる予定になっていた暗号解読機だったのです。

その結果、真珠湾の通信情報班は ロンドンに品物を横取りされたので、次の紫暗号解読機が製作され、送られて来るのを待たねばなりませんでした。そしてそれは日本軍の攻撃の日までには、遂に間に合いませんでした。

もし暗号解読機がロンドンに送られずにいたならば、ハワイの太平洋艦隊司令部の通信情報班でも日本の外交暗号の電報解読がおこなわれて、真珠湾攻撃を事前に察知できたかも知れませんでした。

ちなみに英国外務省はたとえ相手が友好国といえども、英国の陸、海軍幕僚長( 制服組のトップ )にはそのような協定を外国と結ぶ法的権限がないとして、「 エニグマ暗号解読機 」の米国への提供を拒否しました。端的に言えば米国は貴重な紫暗号解読機を2台も騙し取られたのです。

英国から虚仮 ( コケ )にされて米側情報 チームは手ぶらで帰国することになりましたが、その後アメリカの軍内部でこの協定に関する責任の所在について、激しい非難の応酬が起きました。( 掴めなかった勝機、デニス・ワーナー著 )

注:)日本の暗号の脆弱さ

前述のように日本の外交暗号は米英により開戦以前から敗戦に至るまで解読されていましたが、海軍についても空母4隻を失ったミッドウエー海戦での大敗や、山本連合艦隊司令長官の搭乗機の撃墜をもたらした原因は、米軍が作戦用暗号を解読し極秘情報を入手した為でした。唯一 陸軍の暗号だけは、敗戦まで敵に解読されませんでした。このことは陸軍の暗号技術の高さを示すものでした。


3:米国の対日行動方針、真珠湾調査委員会議事録から抜粋

  1. 日本が合衆国の外交方針に従わない場合の選択肢として、大統領と政府には次の三つの方法があった。
    • 日本が攻撃を仕掛けて来るまで待つ。

    • 議会の宣戦布告抜きで日本を攻撃する。

    • 和平か、戦争かを議会に諮(はか)る。

    注:)
    この文言だけを見ても、太平洋戦争の原因が理解できると思います。米国は自国の外交方針に力で従わせようと計画し、従わない場合には武力で屈服させようとしたのが、日本に対する米国の態度であり、 それが戦争の原因 でした。

    陸軍長官スチムソンは1940年( 日米開戦の前年 )に書いた著書の中で、以下のように述べています。

    昔から日本は、アメリカがその明確かつ断固たる極東政策遂行の意志をはっきりした言葉と大胆な行動によって示せば、たとえそれが日本自身のアジア政策や権益と衝突する場合でも、アメリカの政策に屈してきた。
    これを見ると嘉永六年( 1853年 )に浦賀沖に現れ、武力による威嚇を背景にしながら徳川幕府に開港を迫った、米国東インド艦隊司令官ペリーの態度を連想させます。

    ペリーによれば 「 日本とは圧力により、際限なく譲歩する国 」 でしたが、その88年後にも米国は当時と同じ考えに従って行動したのでした。日本の発展やその後の軍備増強も考慮することなしに。

  2. 1941年(昭和16年)11月、戦争の危険が差し迫ったことから大統領は ハル国務長官、ノックス海軍長官、スチムソン陸軍長官、 マーシャル陸軍大将、スターク海軍大将との会議で、恐らく早ければ翌 月曜日( 12月1日)には( 日本軍の )攻撃を受ける可能性があることを議題とした。

    同会議のメンバーは 「 我々はそれほど危険を冒すことなく、彼ら( 日本 ) に第一撃を仕掛けさせるにはどうすべきか 」を協議した。

  3. 大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官は、 議会に和平か、戦争かを諮問する提案には同意せず 、11月25日から12月7日までの間に、日本による攻撃の 「 第一弾 」を待つ戦術を選択した。

  4. ハル国務長官は11月7日に政府閣僚に対して、戦争が迫っていることを警告し、11月27日には、特に陸軍省に対して、日本との交渉が ほとんど終わった ことを知らせた。

  5. 陸軍の報告書によれば、「 マーシャル陸軍大将とスターク海軍大将 ( 陸海軍人トップ )は、ハル国務長官が二人の事前の同意を得ずに、日本に対する最後通告( ハル、ノート ) をしたこと」を非難した。

注:)
ハル国務長官は日本へ最後通告をした後でもその内容を、アメリカ議会にさえも秘密にしていました。

4:ウェデマイヤー大将の証言

太平洋戦争中、陸軍参謀本部作戦課長の職にあり、後に陸軍大将になったウェデマイヤー将軍 (1897〜1989年 )によれば、

日本の真珠湾攻撃が アメリカによって計画的に挑発された結果であるという事実 は、真珠湾の惨敗と、それに引き続き( 米国の植民地である )フィリピンを失ったことにより、覆い隠されてしまった。

( ウェデマイヤー回想録 )

5:ウォルター・ミリスの言葉

太平洋戦争は我が国が計画し、管理し、そして実施された戦争である。( アメリカの歴史家 )

6:モーゲン・スタンレーの言葉

シカゴ・トリビューン紙の論説委員であったモーゲン・スタンレーは真珠湾調査報告書を精査した結果、著書 「 Pearl Harbor 」( 日米開戦の真相とルーズベルトの責任 )の中で次のように述べています。

  1. ( 太平洋戦争開始について ) 政府の ほんの僅かな指導者たち が国家の政策を、まるで 「 私的な蓄 え」 のように ( 勝手に )処理していた。

  2. 彼らの意志決定は戦争が終わってしまってから、アメリカ国民に発表された。それでも当局の秘密の カーテンの背後でなされた、多くの事の一部が窺えたに過ぎない。

  3. ( ベトナム戦争の時のように ) アメリカはずるずると ( 太平洋 ) 戦争に、はまって行ったのではない。( ホワイトハウス首脳が計画したところの ) 系統だった図式の針路に沿って ( 開戦への道をたどって )行ったのである。

  4. アメリカの情報部が 「 ジャップ 」 の暗号電報を傍受解読し、まぎれもなく12月7日 ( ハワイ時間 ) に、パールハーバーを攻撃すると指摘していたが、当時は( ハワイの軍司令官は日本の攻撃について ) 何も知らされなかった。

    この暗号傍受を読んだワシントンの人々( 米国政府首脳 ) はあたかも東京の戦争会議 ( 天皇の御前会議 ) に列席しているかのように、日本の計画と目的について十分な知識を持っていた。

    注:)
    哀れなことに日本政府は暗号解読に全く気がつきませんでした。その結果外務省から三国同盟を結んでいたドイツ、イタリアの日本大使館宛の極秘電報もすべて傍受解読することにより、7月8日には、アメリカは御前会議決定による日本の新国策方針を知るところとなりました。

    「 大日本帝国は大東亜共栄圏を建設し・・・・・支那事変処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩をすすめ、また情勢の推移に応じ、北方問題を解決す。そして本目的達成のため、対英米戦を辞せず・・・。」
    つまり国家として、次の戦争への決意を明確にした内容でした。

  5. 米国は真珠湾攻撃前の3時間50分前に戦争勃発の時刻を知っていた。それは日本政府からの
    我々の対米回答を、そちらの時間で7日午後1時に米国政府へ、できれば国務長官へ手交願いたい
    と述べた野村大使宛の外交暗号電報を解読していたからである。

    ワシントン時間の午後1時とはマニラでは午前2時であり、ハワイでは日の出から1時間4分後の午前7時30分である。空軍による奇襲の最適時刻は、日の出の直後というのが軍の法則である。それゆえ日本の攻撃は他のどこでもなく、 ハワイであるのは間違いないと判断できた。


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