注:)1
モンロー主義とは欧米両大陸の相互不干渉を主張する米国の外交原則で、1823年第五代米国大統領のモンロー(1758〜1831)がラテン、アメリカ諸国独立に関する欧州諸国の干渉を拒否する宣言を発したことに基づきます。
注:)2
開戦の7ヶ月前のギャラップ世論調査(この世論調査は昭和15年から昭和16年まで何度もおこなわれました)では、極東の問題のためにアメリカが戦うことに対して 79パーセントが反対 であり、6ヶ月前の調査では フィリピンが攻撃されても戦争反対が34パーセント もありました。
注:)3
ルーズベルトは、以前から有色人種を忌み嫌っていましたが、彼の部下で側近中の側近として対日政策に深くかかわった、大統領顧問の ハリー、ホプキンスも人種差別主義者でした。そこから白人による世界支配の構造へと政策を発展させたのでした。
注:)4
平成6年 ( 1994年 )にそれまで機密扱いだった 二つの文書が、米中央情報局 ( C I A ) から公開されました。
「 真珠湾−−当時と今日の評価 」、「 国家を評価する主目的 」の二つの論文で、それぞれ副題が 「 情報士官の意見をねじ曲げたアメリカの固定観念と希望的観測 」、「 第二の真珠湾を避けるために 」となっています。その要旨は、
( A )、
もともと米国政府は日本政府の最高機密である外交暗号を解読していた。日本が開戦決定を関係機関に知らせる
風( かぜ )暗語 ( 号 )にも気づいていた。したがってハワイやフィリピンが、日本軍の攻撃を受ける危険も知っていた。
しかし日本人に対する蔑視、偏見からそんな意志も ( 軍事的 )能力も、考慮に値しないという固定観念を持っていた。
注:)風暗語( Wind Message )
日本政府は昭和16年11月19日に、もしアメリカとの開戦が極秘裏に決定された場合、世界各地の外交団宛に毎日の日本語短波ニュース放送の最中に、偽の天気予報 「 東の風、雨 」 を挿入して知らせることを決定しました。
もし日本が、タイ、マラヤ( マレーシア )および蘭印 ( オランダ領であった現インドネシア ) を含めた イギリスと戦争を開始する場合には「 西の風、晴 」の合図が放送され、もしソビエトを攻撃する場合は「 北の風、曇 」と合図されることになっていました。
そして「 東の風 」と「 西の風 」の「 風メッセージ 」は、海外に向けて12月5日に放送されました。
(B)、
日本人にはアメリカに大きな損害を与える能力はない。新規軸をとり入れる能力もないし、真似することができるだけだ。彼等が保有する兵器は、すべて欧米の兵器のコピーに過ぎないと考えていた。
(C)、
日本人は、解剖学的に内耳に欠陥がある。( 子供の頃から母親に背負われて、揺られて育つので三半規管の発達が悪いという理由 ) 、しかも近視眼が多いので、平衡感覚を欠くとしていた。
また気圧の変化に対応できず、飛行機の操縦は無理であり。爆撃照準はもちろん、アクロバットなどの高等飛行もおぼつかないと技量評価をしていた。
(D)、
日本人は武士道の戒律に従う。また人命を軽く見る性向を持つ。飛行機が錐もみ状態に入ったりすると、両手を下腹に組み、祖国の万歳を唱え、完爾として死に臨む。
欧米人のように生き抜く努力、故障を直す努力もせず、最後に落下傘降下をしたりしない。( 日本で勤務したことのある数名の飛行教官の意見 )
(E)、
日本人は単独よりも、ドイツ人以上に集団志向を持っている。搭乗員は特性としては単独なので、拙劣な個人主義者である日本人は当然、拙劣な搭乗員でしかあり得ない。
別の資料によれば、元来蒙古系人種である ジャップの目は
Slant Eyes ( 狐の目 )でつり上がっているから、片側の目を閉じることができない、従って射撃には不向きであるということが、米国の軍関係者の間でまともに信じられていました。
日本海軍の実力をせいぜい三流国並とみなしていたため、その当時すでに対空 レーダーが配備されていた真珠湾が、もし日本軍の先制攻撃を受けたとしても、被害はごく軽微であろうと ホワイトハウス首脳と軍の最高指揮官は判断していました。
注:)5
オアフ島最北端( ホノルルの北西四十五キロ ) のカフク岬にある陸軍 オパマ対空 レーダー監視所は、現地時間の午前7時2分( 日本軍の攻撃開始の約50分前 )に北から近づく大編隊の目標を130 マイルの距離で探知しました。
レーダー監視兵からの報告に対して陸軍の当直将校は、接近 コースが北と東からでは大きく異なるにもかかわらず、当日に北米本土から ハワイに飛来する予定の B-17 爆撃機の12機であるとみなして、何の措置も取りませんでした。
注:)6
日本軍によるフィリピンではなく、予想もしなかったハワイに対して、 空母機動部隊からの 350機 を使用した大規模な攻撃と甚大な損害は、ルーズベルト政権首脳を仰天させました。
彼等は自分達の判断の大失敗を覆い隠すために、和平交渉の最中に日本がいきなり攻撃し、だまし討ちに遭った、宣戦布告前の卑劣な攻撃だとする虚偽の口実を作り、自分達の責任回避に極力努めました。
2:騙し取られた暗号解読機
その当時アメリカは日本の外交暗号の解読に成功していました。外国から紫暗号( Purple Code )と呼ばれていた外交暗号を アメリカが解読したのは、昭和15年(1940年 )10月といわれています。
実はその前年に日本は97式欧文印字機 ( 97式とは皇紀 2597年 = 昭和12年の、97から採ったもので、その年に欧文印字機として軍隊で制式化されたもの ) を導入し、これを外務省はもっぱら外交通信に利用していました。
アメリカの陸軍情報部がそこに注目し、この欧文印字機を模した暗号解読機(Purple Machine)を8台作成し、それを使用することにより、日本の外交暗号を早くから解読に成功していました。
昭和15年( 1940年 ) の末、米英両国の陸、海軍幕僚長( 制服組のトップ ) はお互いの暗号解読情報を、すべて交換するということに同意しました。その一環としてアメリカ側は、日本の外交暗号電報の解読に使用していた「 Purple Machine 」( 紫暗号解読機 ) を イギリスの暗号解読部に提供することに同意しました。
そのお返しにイギリス側は ドイツの暗号を解読するのに使用していた「 エニグマ暗号解読機 」 を、米側に手渡すものと思われていました。
この協定を完全に実施するため翌16年初め紫暗号解読機2台を携えて、米側の情報 チームが ロンドンに到着しました。しかしこの2台のうちの1台は、もともと昭和16年 ( 1941年 )5月に真珠湾に海軍通信情報班が設置されたとき、同班宛に送られる予定になっていた暗号解読機だったのです。
その結果、真珠湾の通信情報班は ロンドンに品物を横取りされたので、次の紫暗号解読機が製作され、送られて来るのを待たねばなりませんでした。そしてそれは日本軍の攻撃の日までには、遂に間に合いませんでした。
もし暗号解読機がロンドンに送られずにいたならば、ハワイの太平洋艦隊司令部の通信情報班でも日本の外交暗号の電報解読がおこなわれて、真珠湾攻撃を事前に察知できたかも知れませんでした。
ちなみに英国外務省はたとえ相手が友好国といえども、英国の陸、海軍幕僚長( 制服組のトップ )にはそのような協定を外国と結ぶ法的権限がないとして、「 エニグマ暗号解読機 」の米国への提供を拒否しました。端的に言えば米国は貴重な紫暗号解読機を2台も騙し取られたのです。
英国から虚仮 ( コケ )にされて米側情報 チームは手ぶらで帰国することになりましたが、その後アメリカの軍内部でこの協定に関する責任の所在について、激しい非難の応酬が起きました。( 掴めなかった勝機、デニス・ワーナー著 )
注:)日本の暗号の脆弱さ
前述のように日本の外交暗号は米英により開戦以前から敗戦に至るまで解読されていましたが、海軍についても空母4隻を失ったミッドウエー海戦での大敗や、山本連合艦隊司令長官の搭乗機の撃墜をもたらした原因は、米軍が作戦用暗号を解読し極秘情報を入手した為でした。唯一 陸軍の暗号だけは、敗戦まで敵に解読されませんでした。このことは陸軍の暗号技術の高さを示すものでした。
3:米国の対日行動方針、真珠湾調査委員会議事録から抜粋
- 日本が合衆国の外交方針に従わない場合の選択肢として、大統領と政府には次の三つの方法があった。
- 日本が攻撃を仕掛けて来るまで待つ。
- 議会の宣戦布告抜きで日本を攻撃する。
- 和平か、戦争かを議会に諮(はか)る。
注:)
この文言だけを見ても、太平洋戦争の原因が理解できると思います。米国は自国の外交方針に力で従わせようと計画し、従わない場合には武力で屈服させようとしたのが、日本に対する米国の態度であり、 それが戦争の原因 でした。
陸軍長官スチムソンは1940年( 日米開戦の前年 )に書いた著書の中で、以下のように述べています。
昔から日本は、アメリカがその明確かつ断固たる極東政策遂行の意志をはっきりした言葉と大胆な行動によって示せば、たとえそれが日本自身のアジア政策や権益と衝突する場合でも、アメリカの政策に屈してきた。
これを見ると嘉永六年( 1853年 )に浦賀沖に現れ、武力による威嚇を背景にしながら徳川幕府に開港を迫った、米国東インド艦隊司令官ペリーの態度を連想させます。
ペリーによれば 「 日本とは圧力により、際限なく譲歩する国 」 でしたが、その88年後にも米国は当時と同じ考えに従って行動したのでした。日本の発展やその後の軍備増強も考慮することなしに。
- 1941年(昭和16年)11月、戦争の危険が差し迫ったことから大統領は ハル国務長官、ノックス海軍長官、スチムソン陸軍長官、
マーシャル陸軍大将、スターク海軍大将との会議で、恐らく早ければ翌 月曜日( 12月1日)には( 日本軍の )攻撃を受ける可能性があることを議題とした。
同会議のメンバーは 「 我々はそれほど危険を冒すことなく、彼ら( 日本 ) に第一撃を仕掛けさせるにはどうすべきか 」を協議した。
- 大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官は、 議会に和平か、戦争かを諮問する提案には同意せず 、11月25日から12月7日までの間に、日本による攻撃の 「 第一弾 」を待つ戦術を選択した。
- ハル国務長官は11月7日に政府閣僚に対して、戦争が迫っていることを警告し、11月27日には、特に陸軍省に対して、日本との交渉が ほとんど終わった ことを知らせた。
- 陸軍の報告書によれば、「 マーシャル陸軍大将とスターク海軍大将 ( 陸海軍人トップ )は、ハル国務長官が二人の事前の同意を得ずに、日本に対する最後通告( ハル、ノート ) をしたこと」を非難した。
注:)
ハル国務長官は日本へ最後通告をした後でもその内容を、アメリカ議会にさえも秘密にしていました。
4:ウェデマイヤー大将の証言
太平洋戦争中、陸軍参謀本部作戦課長の職にあり、後に陸軍大将になったウェデマイヤー将軍 (1897〜1989年 )によれば、
日本の真珠湾攻撃が アメリカによって計画的に挑発された結果であるという事実 は、真珠湾の惨敗と、それに引き続き( 米国の植民地である )フィリピンを失ったことにより、覆い隠されてしまった。
( ウェデマイヤー回想録 )
5:ウォルター・ミリスの言葉
太平洋戦争は我が国が計画し、管理し、そして実施された戦争である。( アメリカの歴史家 )
6:モーゲン・スタンレーの言葉
シカゴ・トリビューン紙の論説委員であったモーゲン・スタンレーは真珠湾調査報告書を精査した結果、著書 「 Pearl Harbor 」( 日米開戦の真相とルーズベルトの責任 )の中で次のように述べています。
- ( 太平洋戦争開始について ) 政府の ほんの僅かな指導者たち が国家の政策を、まるで 「 私的な蓄 え」 のように ( 勝手に )処理していた。
- 彼らの意志決定は戦争が終わってしまってから、アメリカ国民に発表された。それでも当局の秘密の カーテンの背後でなされた、多くの事の一部が窺えたに過ぎない。
- ( ベトナム戦争の時のように ) アメリカはずるずると ( 太平洋 ) 戦争に、はまって行ったのではない。( ホワイトハウス首脳が計画したところの ) 系統だった図式の針路に沿って ( 開戦への道をたどって )行ったのである。
- アメリカの情報部が 「 ジャップ 」 の暗号電報を傍受解読し、まぎれもなく12月7日 ( ハワイ時間 ) に、パールハーバーを攻撃すると指摘していたが、当時は( ハワイの軍司令官は日本の攻撃について ) 何も知らされなかった。
この暗号傍受を読んだワシントンの人々( 米国政府首脳 ) はあたかも東京の戦争会議 ( 天皇の御前会議 ) に列席しているかのように、日本の計画と目的について十分な知識を持っていた。
注:)
哀れなことに日本政府は暗号解読に全く気がつきませんでした。その結果外務省から三国同盟を結んでいたドイツ、イタリアの日本大使館宛の極秘電報もすべて傍受解読することにより、7月8日には、アメリカは御前会議決定による日本の新国策方針を知るところとなりました。
「 大日本帝国は大東亜共栄圏を建設し・・・・・支那事変処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩をすすめ、また情勢の推移に応じ、北方問題を解決す。そして本目的達成のため、対英米戦を辞せず・・・。」
つまり国家として、次の戦争への決意を明確にした内容でした。
- 米国は真珠湾攻撃前の3時間50分前に戦争勃発の時刻を知っていた。それは日本政府からの
我々の対米回答を、そちらの時間で7日午後1時に米国政府へ、できれば国務長官へ手交願いたい、
と述べた野村大使宛の外交暗号電報を解読していたからである。
ワシントン時間の午後1時とはマニラでは午前2時であり、ハワイでは日の出から1時間4分後の午前7時30分である。空軍による奇襲の最適時刻は、日の出の直後というのが軍の法則である。それゆえ日本の攻撃は他のどこでもなく、 ハワイであるのは間違いないと判断できた。