[ 1 : 地理的、歴史的必然性 ]

在日をはじめ一部の人々が、日本の行動を侵略だと声高に非難するのは簡単です。しかしながら、もし朝鮮が 1910 年 に日本に併合されなかったならば、独立国のままで存続できたなどと信じること自体、 アジアの歴史に対する彼等の 無知の証拠 であると言えます

当時の朝鮮は清 ( しん )の属国としての地位に甘んじて近代国家と言うにはほど遠く、中国人政治家の袁世凱 ( えんせいがい ) の言葉によれば、

万国の中で、 最貧弱国 の状態 ( 注 : 1 参照 )

でした。狼の群に囲まれた羊の如く、弱肉強食の侵略主義のはびこる 19 世紀末の国際情勢の下で、朝鮮が 独立国のままでいられた可能性 など、 200 パーセント 無かった と確信します。

注 : 1 最貧弱国

袁世凱 ( えんせいがい、1859〜1916 年 ) とは北洋軍閥の首領の軍人、政治家であり、辛亥革命 ( しんがいかくめい、1911 年 )では革命派と手を結び清 ( しん ) 王朝を倒し、中華民国の臨時大統領に就任しました。 かつて朝鮮国王を指導、監督しましたが 、朝鮮に対する最貧弱国発言はその当時のものです。


( 1−1、朝鮮が頼みとした宗主国でさえも )

なぜなら属国であった朝鮮が 300 年もの間 宗主国と仰いだ中国の清 ( しん ) 王朝でさえも、アヘン戦争 (1840〜1842 年 )、アロー戦争 ( 注 : 3 参照 ) の結果英国に ホンコン島、九龍半島を奪われました。

また 不凍港を求めて 南下政策 を採った ロシア に旅順港、大連港などがある遼東半島の支配を許し、前述のように1899 年 ( 明治32年 ) の義和団事件を契機に、ロシア軍に 全満州 ( 中国の東北部 )を占領されました。

国家としての威信を失い侵略主義の餌食となった清 ( しん )王朝は、その後、広州、上海、青島 ( チンタオ ) 漢口、天津などの各都市で、欧米侵略主義勢力が治外法権の租界 ( そかい ) を設定することに同意させられました。

どん欲な ロシア( ソ連 )はその後 ポーランドや バルト 三国 ( エストニア、ラトビア、リトアニア共和国 )、スロベニア、ウクライナ、そして フィンランドの 一部を収奪するなど、周辺諸国を次々と侵略し、ソビエト連邦に併合した過去の歴史があります。

その侵略の歴史を見る時、その当時 ロシアの隣国 に位置し、しかも 軍事的に無力な朝鮮だけが例外であり、侵略もされずに独立を保てたなどとする主張は、ロシア ( ソ連 ) の侵略性と アジアの歴史に対する 無知の極み と言わざるを得ません。

必ずやその領土を奪われ、鉄の カーテンの内側に取り込まれ、平成元年 ( 1989 年 ) の ベルリンの壁崩壊まで、 79 年間 も共産主義の圧政下に置かれたことは間違いありません。

注 2 租界

租界 ( Concession ) とは中国において、列強が設定した中国側の行政権と警察権が及ばない地域のことです。

アヘン戦争の結果 1842 年に英国が清 ( シン ) と南京条約を結び居住貿易権を獲得し、その後上海に上海租界を作ったのが最初です。

前述のように英、米、仏、独、露 ( ソ連 )、ポルトガル、イタリア、オーストリア、ベルギーなどの欧米諸国、および日本などが租界を設定し、その数は第 1次大戦の頃には 28 箇所に及びました。複数の国が管理する共同租界と、各国専用の租界がありました。

注 : 3 アロー 号事件

アロー戦争とは清 ( しん ) と英仏連合軍との戦争 (1856〜1860 年 ) のことで、広東 ( かんとん ) 港に停泊中の イギリス国籍の中国船 Arrow 号が清官憲の臨検を受けた際に、イギリスは国旗が侮辱されたとする口実を作り、中国に謝罪、賠償金支払いと責任者の処罰を要求しましたが、拒否されると開戦しました。

後に清が屈服して天津条約、北京条約を結び講和が成立しました。第 2 次 アヘン戦争とも呼ばれます。


( 1−2、植民地支配を招いた原因、小中華思想  )

朝鮮人に対して率直な意見を述べれば、李氏朝鮮 ( りし ちょうせん、1392〜1910 年 ) 下において、

四百年以上もの間、中国の明 ( み ん)、清 ( しん ) 両王朝の属国としての地位に甘んじて、ひたすら中国を世界の中心、支配者と崇め奉る反面、身の程をわきまえず 他国を夷狄 ( いてき、野蛮人 ) とみなす 小 中華思想 を信奉し 、古びた儒教の教えに従い世界の趨勢に目を向けずに、腐敗堕落した両班 ( りゃんぱん、特権階級 ) 政治の下にあったこと。

その結果国家の近代化を怠り、 政治的に 無知無能 、軍事的に 無力 、経済的に 無為無策 であったが故に、日本の植民地にならなくても、いずれはどこかの国の植民地や領土にされるという、地理的、歴史的 必然性 があった。

ということです。

韓国や北朝鮮が日本の植民地支配を非難するのは彼等の権利ですが、同時に 日本の植民地支配を招いた最大の原因は 彼等自身にあった 、という歴史的事実 を認めなければなりません。

その点についての反省を、彼等自身の口からこれまで聞いたことがありませんが、それこそ 歴史の真実 に目を向けようとしない 朝鮮人の民族的悪癖 だと思います


[ 2 : ロシアの侵略性と、日露戦争の受益者中国 ]

ボルガ河畔の小国に過ぎなかった ロシアが、モンゴルによる 250 年間の支配から脱したのは 1480 年の イワン 3 世の時でした。後を継いだ イワン 4 世が 1547 年に ツァーリ ( 皇帝 ) を自称し、東方へ 領土拡大主義 を実行しました。

以後たったの 百年で ロシア人は シベリア大陸を横断し、オホーツク海に到達すると、次は ベーリング海を越えて アラスカを自国の領土としました。アラスカは現在 アメリカの領土であり アメリカ最大の州ですが、クリミア戦争後に カネに困った ロシアから 1859 年に、 720 万 ドル ( 1 平方 キロ当たり僅か 5 ドル ) という破格の安値で購入したものです。

しかし当時の アメリカ国民は国務長官 スワードが、 巨大な冷蔵庫 購入の愚行 をしたとして彼を非難しましたが、現在では アラスカ油田の発見などで彼の先見性に感謝しているはずです。

ロシアは東方ばかりでなく南にも領土を拡大し、千島列島から島伝いに北海道周辺へ、シベリア沿岸から朝鮮半島、満州 ( 中国東北部 )、さらに モンゴル、へと侵略して行きました。

フレデリック ・ シューマンの 「 ソ連の内政と外交 」 によれば、1613 年に ロマノフ王朝が成立して以来、1913 年に至る 3 百年間に領土拡大の速度は、 1 日平均 60 平方 マイルの割合でした

当時の ロシアは中国東北部をすでに占領し、清( しん ) 朝から租借した遼東半島の旅順に軍港と堅固な要塞を築き、次に朝鮮半島にまで勢力を伸ばしました。

もし朝鮮半島が ロシアの支配下になれば、日本の脇腹に ナイフを突きつけられた のと同じ国防上の危機をもたらすため 、日本は ロシアによる朝鮮半島支配を阻止し、 自衛の為に ロシアと戦いました

当時の帝政 ロシアは 日本の 40 倍の国土 と強力な軍隊を持つ世界有数の大国であり、 世界の 99 パーセントの人々は ロシアの勝利を予想していました。

日ロのレスリング試合

右は当時の フランスの新聞 ( Le Petit Parisien ) に書かれた風刺画ですが、当時の国際情勢が巧みに描かれていました。

リングの上のいかにも強そうな大男の ロシア人の レスラーに立ち向かう、小さくて貧弱な日本人 レスラー、その試合を見物する世界の人々、そして自国の領土での試合でありながら、 見物席には座れない中国人 が幕の外から試合の成り行きを覗いていました。

ロシア人の レスラーは 既に占領した中国領土 に堂々と立ち、日本人の レスラーは日本列島と朝鮮半島に足を置いて迎え撃つ姿勢でした。更に リングの下には 白色、黄色 と書いてありました。

かつて眠れる獅子といわれた清 ( しん ) 国 ( 中国 ) は、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて西欧列強により思いのままに侵略され、領土を奪われて 眠れる豚とまで酷評 されていました。

しかし無能な政府や中国人たちは植民地支配の危機に対して国をあげて有効な対抗措置もとらず、中国の領土で行われ、しかも中国の今後の運命に重大な影響を及ぼす日露戦争の際も、 ただ漫然と傍観していただけでした


[ 3 : 中国の 二重基準 ]

もし日本が ロシアの南下政策に屈して日露戦争 ( 1904〜05 年 )を戦わなかったならば、あるいは敗戦したならば、ロシアが既に占領していた満州 ( 清を建国した満州族が居住していた 中国東北部 ) 遼東半島 朝鮮半島 は ロシア領となっていたことは間違いありません。

さらに当時清 ( しん )国を分割支配する計画が、英、仏、独、ロシアなど列強の間ですでに決められていましたが、日本が国家の命運を賭けた日露戦争に勝利したため、 ロシアが不凍港 ( 冬でも凍らない港 )を求めて アジアでとった 南下政策 を阻止し、ロシアの支配から満州を奪回し、列強による清( しん ) 国に対する分割支配も回避されました。

綱渡りの絵

1854 年に創刊され、 フランスで最も古く代表的な新聞である フィガロ  ( Le Figaro ) に掲載された風刺画でも、巨大な熊 ( ロシア )に対抗する非力な日本の敗戦が、明らかに予想され描かれていました。

日本は世界の人々の予想に反して世界の大国 ロシアを見事打ち破りましたが、 日本人が流した血と汗の結果 、清 ( 中国 ) は ヨーロッパの列強がアフリカ大陸でしたような 領土の分割支配 を免れることができました。

日露戦争によって 清 ( しん、中国)が国家存亡の危機から救われた 事実 に対して 、中国は口を閉ざしています

しかも日露戦争が当時 ロシアが支配していた中国領土内で起きた戦争であったにもかかわらず、ロシア ( ソ連 )の中国侵略について、少しも非難をしない二重基準 ( ダブル ・ スタンダード )は、理解し難いことです。上記 二枚の風刺画を見たうえでも、日露戦争は 自衛の為の戦争 ではなく、中国、韓国、反日左翼主義者が主張するように、 侵略戦争だったと貴方は思いますか?。


[ 4 : 韓国の 二重基準 ]

同じように行動に 一貫性がない、ダブル ・ スタンダードの得意なのが韓国です。1983 年 9 月に サハリン上空で、大韓航空機がソ連の戦闘機に撃墜されて 267 名が死亡しましたが、1990 年に ソ連と国交正常化をした際には お得意の謝罪要求、賠償要求をしませんでした

1950 年 ( 昭和 25 年 ) 6 月に起きた朝鮮戦争の際には、途中から北朝鮮に加勢する中国義勇軍 百万人の参戦により、韓国は戦争初期に次いで、1951 年 ( 昭和 26 年 )1 月には 二度目の ソウル陥落という事態になりました。しかし1994 年の中韓国交樹立の際には、かつて中国軍に国土を侵略占領されたという過去の屈辱を都合良く忘れて、 侵略に対して謝罪も補償も要求しませんでした


[ 5 : 首都の表記法 ]

中国語では韓国の首都 ソウルのことを漢城と書きますが、韓国政府は中国との国交正常化交渉の際に首都の表記を、中国語の発音で ソウルに近い 首烏爾 にするように要望しましたが、四百年間も中国の属国であった朝鮮王朝時代から使用してきた名称であるとして、中国に拒否されました。

その結果中国では今も ソウルのことを 漢城( 中国 の市街の意味 )と呼んでいます。その一方で日本は植民地時代から昭和 40 年まで 55 年以上使用していた 京城 ( けいじょう )という呼び名を韓国から言われるがままに止めて、ソウルに変更しました。この主体性の無さ!。

韓国は昔から強者には卑屈な態度をとり続け、日本のような弱腰外交の相手に対してだけは居丈高になり、謝罪や理屈に合わない金銭の支払い要求を延々と続けているのです。

注:)

平成 17 年 10 月 23 日の中国新華社電によれば、中国は韓国の首都ソウルの中国語表記を、現行の 「 漢城 」( ハンチョン )から 「 首爾 」( ショウアル ) に変更することに決めました。韓国独立以来 60 年近く使用してきた名称の変更は、交流が深まる対韓関係に配慮したものでした。この旧宗主国 (?) の暖かい ご配慮(?)に、韓国人は 「 随喜 ( ずいき ) の涙 」 を流して喜んだに違いありません。


[ 6 : アメリカの、西進主義に汚れた過去 ]

アメリカは以下に述べる彼等の理念なき、征服欲、支配欲、所有欲を正当化するために、西進主義/西部開拓は Manifest Destiny ( マニフェスト ・ デスティニィ、 神から授けられた明白な使命 )であると称し 、それがあたかも キリスト教に基づく歴史の原理であるかの如く、正当性を主張しました。

注 : マニフェスト

Manifest とは ラテン語の 「 手で殴られた 」=「 はっきり分かる 」から 「 明白な 」の意味であり、選挙の際に政党が発表する イタリア語に由来する Manifesto ( 選挙公約 ) とは綴りが異なります。


(1)、涙の道

アメリカの植民地主義、侵略主義に 汚れた過去 について言及すれば、英国から アメリカに渡った移住者や、ヨーロッパ諸国からやって来た移民にとって、最大の関心事は土地の獲得でした。

先住民族である インデアンを騙して土地を次々に奪い取り、反抗する者達を容赦なく虐殺しては西へ西へと開拓 ( 先住民の視点からすれば侵略 ) を進めました。 インデアンは嘘をつかない 、という言葉がありますが、白人達の アメリカ合衆国や地方政府は インデアンと結んだ条約、協定を 300 回以上 も平然と破り彼等の土地を手に入れました。

第 7 代の アンドリュー ・ ジャクソン大統領 ( 1767〜1845 年 )は野蛮人 ( インデアン )を東部諸州から 一掃すると称して1830 年に強制移住法を作り、全 インデアンを、北米大陸を南北に流れ平野部を東西に分ける ミシシッピー川 ( セントルイス、メンフィスから、メキシコ湾岸の ニューオルリーンズに至る流れ )よりも西側に立ち退かせることにより、 彼等の全ての土地を手に入れました。

騎兵隊に追い立てられて先祖伝来の土地を離れた何千、何万もの インデアンが、強制移住のために ミシシッピー川の西側へと歩いた道は、その当時 涙の道 とも言われました。

ジョージア州から強制移住させられた チェロキー族 に例をとると、 1 万 2 千人のうち 5 ヶ月間の旅で 4 千人 ( 33 パーセント ) が病気と飢えで死亡しました。

ところが折角移住した ミシシッピー川の西側にも肥沃な土地や石油資源があることを政府が知ると、4 年後には、さらに西の 西経 95 度 に境界を移動させ、1858 年に ミネソタが州に昇格するのに伴い 更に百 マイル西方 に境界を移動されました。

インデアンの死体埋葬

その後は開拓以外にも西部では ボナンザ ( Bonanza、スペイン語の Good Luck から豊かな鉱脈のこと )を目当てにして原住民の土地を奪い続け、1864 年に起きた サンドクリークの虐殺では女性子供を含めて インデアンを 一度に 368 名も虐殺しました 。1890 年 12 月に サウス ・ ダコタ州の インデアン居住地で起きた ウーンデッド ・ ニー ( Wounded knee )の虐殺では、女性子供を含む 200 名 の インデアンが第 7 騎兵隊により虐殺されましたが、写真は 3 日間放置された遺体を埋めた時の様子です。

米国はインデアンの土地を全て奪い取り、人里離れた狭い地域に インデアン居留地 ( リザベーション ) を作って隔離し、居留地に住むことを条件に食糧を支給し、生活保護を与えて現在に至っています。

部外者が自由に居留地を訪れることは禁止されていますが、先住民としての誇りを奪われ飼い殺し同然の生活に希望を失った彼等の多くは、アルコール依存症になって暮らしています。

(2)、アメリカによる侵略の軌跡

  • 明治維新の 80 年前( 1776年 )に独立した アメリカは、大西洋岸の 13 州から西部開拓と称して次第に領土を拡大し、当時 メキシコ領であった テキサス の土地を メキシコから奪い、自国の領土化を図ったことから メキシコと戦争になりました。その後 メキシコ大統領の  サンタ ・ アナ  将軍を捕虜にして テキサスの独立を承認させた上、1848 年の講和条約により、更に  ニューメキシコ と、 カリフルニア を買収することに同意させました。( 注参照 )

なお メキシコとの戦争の際に テイラー将軍率いる米国軍がメキシコ領内に侵攻したのは、米国議会が メキシコに宣戦布告をする 48 時間も前のことでした。

日本の真珠湾攻撃を宣戦布告なしの、 卑劣な攻撃 ( Sneaky Attack )とか 騙し討ち ( Traitorous Attack )などと米国は非難しましたが、メキシコに対して卑劣な攻撃をして勝利を納めた将軍こそ、後に第 12 代の アメリカ大統領となった、 ザカリー ・ テイラー でした。米国民は 卑劣な男 を大統領に選んだのです。

  • 西部開拓が太平洋岸に到達すると、こんどは海を越えて更に西進し、 ハワイ の王朝を武力で併合しました( 1898年 )。

リリウオカラニ女王 別れの歌として有名な ハワイの アロハ ・ オエ ( Aloha`Oe) がありますが、この名曲の作詞、作曲者は、ハワイ王朝最後の女王であった リリウオカラニ ( Liluokalani、1838〜1917 年 )です。

  • 米国の軍艦 ボストンと上陸した 164 名の海兵隊の威嚇のもとで、ハワイに利権を持つ米国の白人達により組織され、米国への合併を意図した 1893 年 2 月の クーデターにより、女王は イオラニ宮殿宮殿に近い ワシントン ・ プレイスに幽閉されました。そして脅迫により無理矢理退位させられた結果、 カメハメハ大王 を始祖として 1795 年に始まった立憲君主制の ハワイ王朝は消滅し、その領土を アメリカに奪われました。

この哀調と郷愁に満ちた曲を聴くと、20 数年の失意のうちに生涯を閉じた女王の悲哀を感じさせられます。

次ぎにアメリカは、

  • スペインの無敵艦隊 ( The Invincible Armada )が英国との海戦に敗北した ( 1588 年 )のを契機に、海洋における支配権を失い国力 が衰退した スペインとの間に、キューバの スペインからの独立をからんで、米西戦争 ( 1899 年 )を仕掛けて勝利しました。

    その結果 スペインの植民地であった フィリピン、グアム、ウエーク、サモア、プエルトリコ を アメリカ領土とすることに成功し、 これにより ハワイ以西における西進主義の、アジアに対する拠点作りに成功しました。

  • その次には 中国 に狙いを定めて、すでに欧州諸国により行われていた植民地獲得競争に 遅れて来た植民地帝国 として参加し、権益を求めて 「 門戸開放 」、「 機会均等 」、「 領土保全 」を主張して積極的に進出しました。

そこで日清戦争 ( 1894 年 )、日露戦争 ( 1904 年 )を経て、中国に対して精力的に進出していた日本と、 権益の獲得、分配をめぐり 遂に衝突したのでした。

注:) フィリバスター( Filibuster 、不法侵略者 )
アメリカの歴史家 ネビンズによれば、その間の事情について

国内で ( インデアンから )土地の収奪をした アメリカは、外へ向かっても フィリバスター ( 不法侵略者 ) を繰り広げた。 1842 年の テキサス 独立、さらに連邦によるその併合、続いて メキシコ戦争。現在の アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、 ネヴァダ はこうして米国の領土となった。さらに メキシコからの カリフォルニ ア の強奪と、目まぐるしく侵略し領土を拡大した。

と述べました。

[ 7 : 太平洋戦争の原因 ]

戦争の原因は単純な 善玉 悪玉論 から簡単に決め られるものではありません。国連加盟国の数は現在 ( 平成 23 年現在 ) 194 箇国 ありますが、そのうち アジア、アフリカだけでも 100 箇国以上 にも及びます。

  1. しかし太平洋戦争 ( 当時は大東亜戦争と呼びました ) 開戦の昭和 16 年 ( 1941 年 ) 当時の アジアにおける独立国は、驚くなかれ  日本を除けば  タイ 国の たった 1 箇国 しか存在しませんでした。

  2. さらに第 1 次世界大戦開始時の大正 3年 ( 1914 年 ) 当時、地球上の陸地の 84 パーセント は、人口比率で僅か 15 パーセントに過ぎない白人国家が支配していました。

貴方はこの事実を知っていましたか?。

日本も弱肉強食の時代に 植民地を持つか、朝鮮半島にまで勢力を及ぼし始めた ロシアの支配地 にされるかの瀬戸際でしたが、朝鮮半島の支配をめぐり、幸運にも日清 ・ 日露戦争に勝利し、ロシアの悲願であった冬でも凍らない 不凍港を求める南下政策 を打破しました。日本も朝鮮 ・ 台湾を植民地とし支配し、満州族出身で清 ( しん ) 王朝の最後の皇帝であった宣統帝溥儀 ( ふぎ ) を満州 ( 中国東北部 ) に擁して満州国を設立 ( 昭和 7 年、1932 年 )し、その地域を間接支配しました。

アフリカ分割

( アフリカ分割 )

広大な アフリカ大陸は植民地帝国主義、侵略主義の欧州 7 ヶ国 ( イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、ベルギー ) により 25 以上もの植民地、地域に分割支配され 、ここでも独立国は、 エチオピア、南ア連邦、リベリア の僅か 3 箇国 にしか過ぎませんでした。( なお南ア連邦については、1941 年当時 英連邦に所属する自治政府があったので、一応独立国に入れました。)

つまり太平洋戦争開戦 ( 1941 年 )当時、 アジアと アフリカ 全土に存在した独立国の数は、前述した日本と タイを含めて

僅か 5 箇国でした
占領軍から教え込まれた東京裁判史観や、左翼 イデオロギーに偏向した教科書では 決して教えない 世界史の 真実 を貴方は知っていましたか?。 ウソだと思ったら 1997 年の ホンコン 返還を初め、インド ・ パキスタン ・ バングラデシュ ・ インドネシア ・ シンガポール ・ マレーシア ・ ビルマ ・ ベトナム ・ フィリピン などが、西欧の植民地支配から独立した年を、

ここを クリックして  1940 年代以降を、自分で調べてごらんなさい

なぜこれほどまでに、独立国が少なかったのでしょうか?。 ヨーロッパの帝国主義諸国により アジア と アフリカ が侵略され、植民地化されていたからでした

もし日露戦争 ( 1904〜05 年 )に日本が敗れたならば、日本も ロシアの領土か植民地にされていた事は間違いありません。私は外国の侵略から日本を守り抜いた明治時代の人々に、 心から感謝しております

侵略主義に汚れた過去を持つ欧米諸国にとって、また日本を貶 ( おとし )めようとする反日左翼主義者にとって、非常に都合が 悪い 白人種 による アジア侵略の実態こそが 太平洋戦争の原因 とは何かを考え、議論する際の出発点なのです。

さらに付け加えると 歴史観の形成 に必要なことは、他人や マスコミの発言 ・ 新聞 ・ 書物に書いてあることを無批判に盲信するのではなく、疑いの眼をもって自分自身で資料を調べ、最も合理的と思われる結論を導き出すことです。

[ 7 : 戦争を仕掛けたのは日本か米国か ]

(1)、黄禍論とレインボー計画

日清戦争(1894〜1895 年 )当時、ドイツ皇帝 ウイルヘルム二世 ( 1859〜1941 年 ) は黄色人種( 具体的には日本人 ) の進出によって、今後白色人種に災禍がもたらされるとする 黄禍論 ( Yellow Peril )を唱えましたが、これが白人諸国に広がり、白人社会に存在した人種差別意識や有色人種に対する嫌悪感により支持されると共に、警戒感を造成しました。

続く日露戦争 ( 1904〜05年 )では、国際社会の 99 パーセントが大国 ロシアの勝利を予想したにもかかわらず、アジアの小国日本が勝利を収めたことが契機となり、 アメリカは日本が白人による世界支配体制を脅かし、将来前述した 西進主義 に大きな障害になるとして 仮想敵国 とみなすようになりました。

それ以後対日戦争計画 ( War Plan Orange 、オレンジ計画 )を策定しましたが、この オレンジ計画は兵器の発達進歩に合わせて何度も内容が更新されました。

しかし昭和16年 (1941年 )9月27日に、日、独、伊の三国同盟が成立し 三国との戦争が予想される事態になると、米国の戦略は国ごとの戦争計画を一色で表すのを止めにして、新たな戦争計画を 「 レインボー 5 」 と名付けるようになりました。

それによれば日米開戦の場合に取るべき米国の作戦は アメリカ艦隊により日本周辺の海上封鎖をおこない、海外からの物資の輸入を絶ち、沖縄を占領し、空襲により日本国内の生産設備を破壊して継戦能力を失わせ、本土を孤立させて降伏させるというものでした。

そのための布石として米国は ハワイと フィリピンの マニラ ( スービック湾 ) に海軍基地を建設し、海軍力の増強を図りました。



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