北 方 探 検 家、間 宮 林 蔵![]()
[ 1、は じ め に ]18 世紀になると 帝 政 ロ シ ア が、極東地域 において 「 東 方 進 出 」 とよばれる 政 策をとるようになりました。これは シ ベ リ ア から モ ン ゴ ル ・ 中国 東北部 の ウ ス リ ー 江 ・ 黒 竜 江 ( ア ム ー ル 川 ) に 至 るまで 領土を 拡張 し、不凍港 を 確保 するというもので した。 18 世紀 の日本 は 江戸時代 で したが、 ロ シ ア の 領土拡大 活動 が 盛 んになり、それに 刺激 されて 幕府の 要人 たちも 蝦 夷 地( えぞち 、北海道 )や その 付近の 島々 ・ 樺太 ( カラフト、現 サハリン ) にも 監視 の 目を向けるようになりま した。 シベリア 大陸を東進 した ロシア 人 が初めて 千島列島 に渡ったのは 1711 年 で したが、この 年 に ロ シ ア の 兵士達 が 占 守 島 ( シュムシュ 島、Shumshu ) に 初めて上陸 しま した。 文化 3 年 (1806 年 ) に ロ シ ア の 兵隊 たちが、 樺 太 ( カラフト、現:サハリン ) 南 岸 にある 日本人 の 番 屋 ( ばんや、漁 師 などの 宿泊小屋 )を 次々に 襲 撃 し、番 人 を 捉 えて 倉 庫 などを 焼き 払 いま した。 翌年 ( 1807 年 ) には ロ シ ア の 軍 艦 が 択 捉 島 ( エ ト ロ フ 島 ) に あ る シ ャ ナ の 番 屋 や 会 所 ( カイショ、幕府や 松前藩の 役所 ・ 事務所 ) を 襲 う 「 シャナ 事 件 」 が起き、 砲 撃 ・ 銃 撃 により、アイヌ 人 や 日本人 に 犠牲者 が 出 ま した。 この事件 をきっかけに 幕府は 蝦 夷 地 ( えぞち ) 全体 ( 現在 の 北海道と その 周辺 の 島々 ) および 樺 太 ( カラフト、現 サハリン ) の 最 南 端 を、それまでの 松前藩 の 領 地 から 江戸幕府 の 直轄地 に 切り換 えて、蝦 夷 地 の 行 政 ・ 海 防 ・ 開 拓 などを 扱う 老 中 の 支配下 に 松前奉行 を 設 け、防 備 に 努 めるようになりま した。 さらに 2 年後 には 幌 筵 島 ( パ ラ ム シ ル 島、Paramushir ) にも ロ シ ア 人が 上陸 しま したが、その後 千島列島 周辺には 高価 な 毛 皮 が 穫 れる ラ ッ コ や、ニ シ ン ・ 鮭 ・ 鱒 ・ カ ニ などの海の 生物 が 豊富 な 漁場 であることが分かりま した。( 1-1、ラ ッ コ の 毛 皮 ) ロ シ ア 皇帝の 命令 を受けて、探検家 ヴ ィ ト ゥ ス ・ ベ ー リ ン グ ( デ ン マ ー ク 人 ) が 率 いる、帝政 ロ シ ア 海軍の艦船 「 聖 ピ ョ ー ト ル 号 」 は、ア ラ ス カ を発見 しま した。 その 帰途 である 1741 年11月 7 日 に 嵐 によって 船は 島 に 座 礁 し、破壊 されて しまいま した。ベ ー リ ン グ と 2 8 人の 乗組員 らは 壊血病 に苦 しむ 状況下 で、船を 放棄 して 島 で 越冬 することに しま した。 しかし ベ ー リ ン グ は 壊血病 で 死亡 し、島 に葬られま したが、それが 現在 の ベーリング 島です。乗組員の中にいた 博物学者 で 医 師 の シ ュ テ ラ ー( Steller、1709 ~ 1746 年 ) は、乗組員 に 島で採れた 青海苔 ( あ お の り ) を 食 べることを 指 導 し、壊血病 治療 に 効果 をあげま した。 ![]() 今から 5 6 年 前 のこと、私は ベ ー リ ン グ 海 で 海上保安庁 の 巡視船 に 輸 血 用 血 液 を入れた パ ラ シ ュ ー ト 5 個 を 投下 したことがありま したが、知りたい方は こ こ を ク リ ッ ク ![]() [ 2 : 間 宮 林 蔵 ]![]() ( 2-1、第 1 回 、樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) 探 検 ) ![]() 成功 の 形 たたぬうちは 死 を 誓って 帰 るま じ。若 し 難行 の 節 は 我 一人 たりとも 蝦 夷 地 に 残 り、夷 地 ( いち、え び す の ち ) の 土 となるか、夷 人 ( い じん ) となるであろう。再会 を 期 しがた し。然 ( し か ) し 始 め あ り 終 わ り な き は 凡 ( およそ ) 人 の 習 いである。と語っていま した。( 山崎半蔵 日 記 より ) ところで、文化 5 年 ( 1808 年 ) に 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) 調査班 が 編制 されま したが、班 員 は 「 樺太 調役 下役 ( しらべや く、 したや く ) 元締め 」 の 松 田 伝 十 郎 ( 40 歳 ) と、「 雇 い 身分 」 である 間 宮 林 蔵 ( 29 歳 ) の 2 名 だけで した。 彼等 は 蝦 夷 地 ( えぞち、北海道 ) 最北端 の 宗 谷 から 4 月 13 日に ア イ ヌ の 丸 木 舟 ( チ ッ プ ) に乗 り、 宗谷海峡 を 横断 して 幕府の 番 屋 がある 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) 南 端 の 白 主 ( しらぬ し 、現 ロ シ ア 連邦 サ ハ リ ン 州 シ ェ ブ ニ ノ ) に 渡 りま した。 ![]() 樺 太 ( カ ラ フ ト、 現 サ ハ リ ン ) は 離 島 に 相 違 無 し、是 れ よ り 大 日 本 国 と 地 境 ( じ ざ か い ) を 見 定 ( み さ だ ) め た りと判断 し、 そこに 「 大 日 本 国 国 境 」 の 標 柱 を 建 てま した。しかし ラッカ から先は海が 浅 瀬 で、アイヌ 舟 でも通行が困難 であり、しかも 海岸 も 泥 地 で 歩行が 困 難 なために ここで探検を 中止 し、蝦夷地 ( エ ゾ チ、北海道 ) 北端 の 宗 谷 に 帰ることに しま した。 その時の様子を 「 間宮 林蔵 の報告書 第 3 6 」 には、以下のように記 して います。 カ ラ フ ト 島 地 方、此 辺 一 躰 平 地 海 岸 通 東 北 追 周 候 間 離 島 相 違 無 之 様 子 凡 相 分 候 [ 読 み 方 ] カ ラ フ ト 島 の地 方、この辺 一 帯は平地 に して 海岸通りは 東 北 に 追 周( お し め ぐ り ) 候間 ( そうろう あいだ )、離 島 には 相 違 ( そう い ) これなき 様子 に およそ あい分( わ )かり 候松田伝十郎と 林蔵 は連れだって 帰 路 につき、カ ラ フ ト 南 端の 幕府番屋 のある 白 主 ( しらぬ し ) に 着 いたのは、翌年 ( 1808 年 ) 閏 ( うるう )年 の 6 月 18 日で した。林蔵はここに留まること僅か 1 日半で、6 月 20 日にはこの地を出発 して、その日のうちに北海道 北端 の 宗谷 に到着 し、約 100 日におよぶ 長 い 探 検 の 旅 を 終 えま した。 ( 2-2、第 2 回、樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) 探 検 ) 折から宗谷 には 松前奉行 の 川尻肥後守春之 ( かわ じり ひごのかみ はるゆき ) と、同 吟味役 ( ぎんみや く ) の 高橋三平 が出張 して いま した。 調査の報告書を提出 した 林蔵 は、 樺太 が ユ ー ラ シ ア ( Eurasia 、シ ベ リ ア ) 大陸 の 半 島 ではなく、 島 である 確 証 を 得 るために、宗谷に到着 すると 再度 樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) 北部 へ の 探 検 を願 い 出 ま した。 これが 許 可 されると 宗 谷 に 留 まること 20 日 ほどで、 文化 5 年 ( 1808 年 ) 7 月 13 日 に、 今度は 単 独 で 樺 太 へ 出発 しま した。 ![]() [ 注 : 満 州 仮 府 と は ] モ ン ゴ ル 高原 に 源を発 し、当時 帝 政 ロ シ ア と 清 国 との 国境を 形成 して流 れ下り 間 宮 海 峡 に 注 ぐ 大河については、清国では 黒 竜 江 ( こく りゅうこう ) と呼び、 ロ シ ア では ア ム ー ル 川 ( reka Amur ) と呼ぶ。長さは 4,418 キロ メートル あり、 世界第 8 位である。 その 清国側 の 沿 岸 デ レ ン にある 満 州 仮 府 とは、毎年夏季 の 二ヶ月間 ほど 清国 の 官 人( 役 人 ) が 満州 の 三 姓( サンシン ) から 出張 して来 て 仮 府 ( 仮の 役 所 ) を設 ける が、それを いう。その後 間宮林蔵 は 南方 へ 猟 に行く アイヌ の 舟 に便乗 して 帰国の途につき、文化 6 年 ( 1809 年 ) 9 月15 日 に 樺 太 ( カラフト,現 サハリン ) 南端 の 白 主 ( しらぬ し ) にある 日本側の 番 所 へ到着 しま した。 ( 2-3、山 靼 貿 易 と は ) 山 靼 交 易 ( さんたんこうえき ) とは、江戸時代に 山靼人( さんたん じん、山旦 とも書 く。主に オロチョン 族 など 沿 海 州 の 住民 ) と、ア イ ヌ との 間 で、主と して 樺 太 ( カラフト、現 サハリン ) を 中 継 地 と して 行われた 交 易 のことをいいます。 広 義 に は 清 朝 が 黒 竜 江 ( アムール 川 )下流域に 設けた 役 所 ( 満 州 仮 府 ) における 朝 貢 交 易 から、山靼 ( 丹 )人、さらに ア イ ヌ を 介 して 樺 太 ( カラフ ト ) 南 端 にある 幕府 番所のある 白 主 ( シラヌシ ) 交易所 に 交易品 が持ち込まれて、北海道 の ア イ ヌ との 間 で 交 易 され、蝦夷地 の 松前藩 にもたらされた 交 易 をさ します。 交易品は主に 松前藩 を通 じて 内地人 の 手に渡 りま した。 ![]() ( 2-4、凍 傷 に か か る ) 林蔵は 慣 れない 極 寒 の地 で 苦難の 生活を したので、その 指 はことごとく 凍 傷 にかかって 形を変 えていま した。久 坂 玄 瑞 ( く さかげんずい、幕末の長州藩で、尊王攘夷の中心的な役割を果たした男 ) の書いた書物 に、林蔵 を見た人の話と して、 手 指 こ と ご と く 腐 壊 痂 結 ( ふ か い か け つ ) 、つまり 凍傷 で 指 が 腐 り 形 を 変 え、傷 口 には 「 か さ ぶ た 」 ができていた。そ の 苦 楚 ( く そ、く る しみ ) 想 う べ き 也と記 されていま した。 第 1 回 カ ラ フ ト 探検 に 林蔵 の 上司と して参加 した 松田伝十郎 が、カ ラ フ ト 探検前 に 千 島 列 島 について 記 した 「 北 夷 談 」 によれば、文化 元年 ( 1804 年 ) に 択 捉 島 ( エトロフ 島 ) に 在勤中、得 撫 島 ( ウルップ 島 ) へ の ア ト イ ヤ ( 渡 り 口 の 意味 ) まで 出張 した時のことを述 べた 記事 があります。 この時 雪中 といい、殊に 極 寒 の 砌 ( みぎり ) ゆ へ 雪 焼 け ( 霜 焼 け より 重 症 ) と 云う事 有 り。耳 ならびに 陰 嚢 ( い ん の う ) を よ く 手当 して、 焼 けざる 様 いたすな り。 たとへ 手足 は 焼 けても 苦 しからず、陰 嚢 ・ 耳 を 焼 けば 命 に 拘 ( かかわ ) る と、乙 名 夷 ( おとな い、おとな( 大人 )と 同源で、 一族の長である 夷 人 ) 教えて 云 う。 是れに 依 りて 真 綿 或 いは 狐 の 尾 を 以 て 「 陰 嚢 」を よく 包 み、頭 は 頭 巾 ( ずき ん ) 二重 に して 眼 斗 ( め ばかり、眼 だ け ) 出 して旅行 す。つまり 「 陰 嚢 と 耳 の 凍 傷 には気 を付 けよ 」 、とありま した。 ( 2-5、樺 太 ( カ ラ フ ト ) 探 検 の 成 果 ) 林蔵は 松前 に 戻ってから 旅行中 の 日記 や 測量野帳 をもとに 紀行文 「 東 韃 地 方 紀 行 」 ( とうだつ ちほうきこう )、および 樺太の 地 誌 「 北 夷 分 界 余 話 」 をまとめ、さらに 樺 太と 東 韃 靼 ( ひが し だ っ た ん ) の 地図 「 北 蝦 夷 島 図 」 ( きたえぞ しまず、カラフト島 の 地 図 ) を作成 しま した。 地図は 詳細 をきわめ、つなぎ合わせると縦 6 尺 ( 1.8 メートル )、横 2.7 尺 ( 0.8 メートル ) に 及 びま した。それによると 間宮海峡 については 南北の長さ約 650 キロ メートル、海峡の 幅 は 南部 で 約 340 キロ メートル、北部 で約 40 キロ メートル、最 狭 部 では 前 述 した如 く 7.3 キロ メートル で した。 全体に 水深 が浅 く また 浅 瀬 が 多 いため、ごく 小型 の 船 しか 航行 できませんが、冬 は 結氷 し て 両 岸 へ の 氷上の 往来 が 可能 で した。 翌 文化 7 年 (1810 年 )年 11月、幕府 へ の報告のため、林蔵は 江戸 に 上りま した。 [ 注 : カ ラ フ ト の 名 前 の 由 来 ] 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) の 名 は、ア イ ヌ 語でこの 島 を 「 カ ム イ ・ カ ラ ・ プ ト ・ ヤ ・ モ シ リ 」 と 呼 んだことに ちなんで いる。その意味 は 「 神 が 河 口 に 造った 島 」 であ り、黒 龍 江 ( こく りゅうこう、 ア ム ー ル 川 ) の 河 口 から見て、その先に 「 カ ラ フ ト 島 」 が 位置 することに 由来 した。 [ 3 : 高 橋 景 保 ( か げ や す ) の こ と ]幕府 の 天文方 兼、御 書 物 奉 行 を 兼 務 し すでに 42 歳 になっていた 高 橋 景 保 ( かげやす ) は、 「 日 本 辺 界 略 図 」 を公 刊 してからやがて 16~17 年が過ぎた 文政 9 年 ( 1826 年 ) の 頃、 天文台内 の 訳局 を主宰 して、当時日本 における 科学界 の最高峰 と して 仰 がれていま した。( 3-1、カ ラ フ ト 東 海 岸 の 懸 案 ) 当時の 世界 では、 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) が ユーラシア ( シベリア ) 大陸に 属する 「 半島 で あ る 」 とする 説 と、 「 独 立 した 島 」 であるとする説、あるいは カラフ ト は 「 二 つ の 島 」 から 成 り 立っている などの 説 がありま したが、間宮林蔵 による カ ラ フ ト 西側 沿海部 の 探検 ・ 測量 により、間 宮 海 峡 の存 在 が 世界で初 めて 確 認 されま し た。 ![]() ( 3-2、シ ー ボ ル ト と の 出 会 い ) このとき 景保 ( か げ や す ) の 前に 突然 現 れたのが、長崎 出 島 の オ ラ ン ダ 商 館 に 勤 務 していた ド イ ツ 人 医 師 ・ 博 物 学 者 の シ ー ボ ル ト ( 1796~1866 年、当時 30 歳 ) で し た。 ![]() ![]() ![]() ![]()
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