無人島 鳥島について


鳥島海図

日本には鳥島という名前の島がいくつもありますが、たとえば佐賀県唐津市の 鳥島 や、 長崎県五島市の鳥島 ( 別名 肥前鳥鳥 ) 、位置は 男女群島 女島の西約 30 キロメートル 。 沖縄県島尻郡久米島町の鳥島 ( 別名 硫黄鳥島 ) 、位置は沖永良部島の北西 65 キロメートルなどです。今回随筆の題目にしたのは伊豆諸島の八丈島からさらに 300 キロメートル南にある島で、東京からだと 600 キロメートル南にある絶海の孤島の 鳥島 のことです。

鳥島全景

正式な名称は 伊豆鳥島 ですがその位置は 北緯 30 度 29 分 、東経 140 度 18 分 にあり、今も火山活動を繰り返している島で、日本における火山の分類では ランク A ( 注 参照 ) に分類されています。写真は平成 14 年 ( 2002 年 ) に起きた噴火の状況ですが、島は直径約 2.7 キロメートルのほぼ円形で、高さは約 400 メートルありますが、この火山島にも以前は人が住んでいました。

注:) 火山の ランク別分類
2002 年に火山噴火予知連絡会の検討に基づき、日本の火山を A,B,C,の ランクに分類しましたが、 ランク A の火山とは 1 万年活動指数、あるいは 100 年活動指数が特に高い火山 ( 噴火の危険度が高い火山 ) で、北から十勝岳、樽前山、有珠山、北海道駒ヶ岳、浅間山、伊豆大島、三宅島、伊豆鳥島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、薩摩硫黄島、諏訪之瀬島の以上 13 の火山が含まれます。

ちなみに ランク B には富士山など 36 箇所、 ランク C には乗鞍岳など 36 箇所の山があり、 それ以外の海底火山、北方領土などの 23 箇所の火山を含めて、 過去 1 万年以内に噴火した火山、及び現在活発な噴気活動のある火山を 活火山 と再定義しましたが 、これによる日本の活火山は現在 108 あります。


[ 1:鳥 島 ( と り し ま ) と の 出 会 い ]

アメリカ 海軍飛行学校を 昭和 33 年 ( 1958 年 ) 秋に 卒業 し帰国 して以来、青森県八戸市にある海上自衛隊八戸基地に勤務 していま したが、昭和 38 年 ( 1963 年 ) 4 月 に千葉県 ・ 東葛飾郡 ・ 沼南町 ( しょうなんまち、当時 ) にある 下 総 ( し も ふ さ ) 航空基地に 、飛行機ごと 部隊移動 ( 転勤 ) しま した。

P2V−7

その後は 昭和 40 年 ( 1965 年 ) に 海上自衛隊 を 退職 するまで、下総基地で 対潜水艦哨戒機 の機長 と して 勤務 しま したが、日常の 訓練飛行 では 高度 1,000 フィート ( 330 メートル )で 海上 を 這 ( は ) い回る 6 時間の飛行や、航法訓練では高度 1 万 フィート ( 3,300 メートル ) 前後で 12 時間の洋上飛行をするなど太平洋上を飛び回ったので、伊豆七島を初め、青ヶ島、鳥島、小笠原諸島などは 機上 から何度も見る機会がありました。

ところが海上自衛隊の飛行機が何度も 鳥 島 の上空を低空で飛行したことから、ある時気象庁から防衛庁 ( 当時 ) に電話があり、

鳥島にある測候所に勤務する気象庁の職員に、家族からの手紙 ・ 品物などを届けて欲しいのだが、何とかならないか?。
ということでした。

当時は富士山頂の気象 レーダー は未だ存在せず、もちろん 気象衛星 も無 い時代でしたので、梅雨の季節には日本の南岸に横たわる梅雨前線の位置や、秋に来襲する台風の位置 ・ 進路などを知る上で、鳥島測候所は 気象 ・ 防災 に不可欠な観測情報を得る南の最前線での任務に従事していました。

ちなみにそれより南南東 300 キロメートルにある小笠原諸島 は 当時米軍の管理下にあり、施政権が日本に返還されたのは、昭和 43 年 ( 1968 年 ) のことで した。


( 1−1、パラシュート投下 )

孤島

測候所の職員は 20〜 30 名程度が南海の孤島に 3 ヶ月交代で勤務 していま したが、その間家族 からの 連絡手段 は 緊急 の場合を除き ありませんで した。そこで海上自衛隊では 下総基地 に 二 つあった 航空隊 の 一つである、第 3 航空隊 が パラシュート 投下訓練 の 一環 と して、鳥 島 に 勤務 する職員 の 家族 から託 された手紙 や物資 を 鳥 島 へ 投下 することになりま した。

毎月 2 回度程度、 家族からの品物 を 円筒状 コ ン テ ナ ー に詰 め、それに パラシュート ( 物 量 傘 ) を 付 けて 鳥 島 に 投下 しま したが、測候所 職員 や その家族から たいへん喜ばれま した。

私の所属する 航空隊 はその 任務 を 担当 しませんで したが、私自身は 前年 に ベ ー リ ン グ 海 で 巡 視 船 に パ ラ シ ュ ー トで 輸 血 用 の 血液 投下を したことがありました。

巡視船だいとう

昭和 37 年 ( 1962 年 ) の夏 のこと、ベ ー リ ン グ 海 で操業中 の サ ケ ・ マ ス ( 鮭 ・ 鱒、業界用語 では、け い そ ん ) 船 団 で 漁船員 が ウ イ ン チ ( W i n c h、巻 揚 げ 機 ) に 巻 き 込 まれ 片 足 切 断 の 重 傷 を 負 う 事故 が 起 きま した。 運良 く 現場付近 にいた 海上保安庁 の 巡 視 船 「 だ い と う 」 ( 写 真 ) に 収容 され 、北海道 の 釧 路 港 に 高 速 で 向 か い ま したが、出 血 が 甚 だ し く 負傷者 に対する 輸 血 が 必要 になりま した。

パラシュート投下

そこで 海上保安庁 を 経由 して 青森県 の 海上自衛隊 八戸基地 に 輸血用 血液 を パ ラ シ ュ ー ト で 投下 するよう 依頼 があったので、丁度 日曜日 に 自 宅 待 機 ( スタンバイ ・ クルー ) で 対潜水艦 哨戒機 P2V−7 の 機長 で した 私 が 、12 名の 乗組員 と共に 飛 ぶことになりま した。

八戸市内 の 病院 から 2,500 C C の 輸 血 用 血 液 を 集 め、500 C C ずつ 5 個の前述 した 物 資 投下用 の コ ン テ ナ ー に詰 め、海 に 沈 まな いように 浮き具 も 付 けて パ ラ シ ュ ー ト の 準備 を しま した。

北洋図

巡視船 の 位置 は カ ム チ ャ ツ カ 半島の 州都 ペ テ ロ パ ブ ロ フ ス ク ・ カ ム チ ャ ツ キ ー の 南南東 280 キロ メートル 付近を 航行中 で したが、八戸基地から 6 時 間 飛行 して 巡視船 と 会合 し、5 個の パ ラ シ ュ ー ト を 順次海上に 投下 して、それを 巡視船 が 無事に 回収 しま した。輸血を した結果 負傷者 の 命 は 助かり、後日 漁船員 が 所属 する 釧 路 の 漁業組合長 から航空隊宛 に 礼状 が 届 きま した。

ちなみに 12 時間 半 の 飛行 を 終 えて 八戸基地上空 に 戻 ると、 濃 い 海 霧 のために 計 器 着 陸 できず、宮城県 ・ 仙台市近 く の 航空自衛隊 ・ 松島基地 も 海 霧 による 天候悪化 のため、当時 東京 にあった 米空軍 の 立 川 基 地 に 向 かいま した。

雨 が 降 る 中 を G C A ( G r o u n d - C o n t r o l - A p p r o a c h 、レーダー 誘 導 進 入 ) で 無 事 に 着 陸 しま したが、時刻 は 午 後 11 時 過 ぎ で した。 1 4 時 間 半 の 長 時 間 飛 行 になりま したが、 民間航空機 と 違 い 、海上自衛隊 では 通 常 おこなう 12 時 間 の 航 法 訓 練 飛 行 の 場合 でも、ナ ビ ゲ ー タ ー ( Navigator 、航 法 士 ) は 2 名 搭 乗 して 6 時間 で 交 代 しま したが、機 長 ・ 副 操 縦 士 の 交 代 要 員 は 無 しで した。


( 1−2、火 山 活 動 )

北から見た鳥島

鳥島 の そ の 後 については 昭和 40 年 ( 1965 年 ) になると火山活動による震度 4 の群発地震が起きるようになり、島の中央にある高さ 394 メートルの硫黄山の噴火の危険 が 増大 したために、気象庁は職員を避難させることになり、鳥島での気象観測はその年の 11 月で打ち切られ現在に至っています。

鳥島は過去に何度も噴火を して いて、明治 35 年 ( 1902 年 ) には大噴火 し て島 の住民が 全員死亡 し、昭和 14 年 ( 1939 年 ) にも大噴火 したこともあり ましたが、最近では平成 14 年 ( 2002 年 ) 8 月 11 日に小噴火がありま した。

明治 35 年の大噴火について当時の新聞記事では、

伊豆七島 ・ 小笠原島へ航海の途中であった日本郵船会社の汽船 ・ 兵庫丸 船長からの報告によれば、明治 35 年 8 月 16 日午前 8 時頃、鳥島の南西に当たり海底火山の高く噴出するを遙かに見たり。次第に近づくと該島の中央より黒煙の時々噴出するを見る。午前 10 時 30 分頃に至り、海岸から 1〜3 海里 ( 1.8 〜 9 キロメートル ) の距離において、汽笛を以て住民を呼べども更に 人影 および家屋を見ず 。

鳥島地形図

唯、海底火山の噴出と山頂の黒煙を見るのみ。殊 ( こと ) に該島 千歳浦 ( 注 参照 ) の如きは 海岸土砂 崩壊 湾形全く変じ、其の惨状言語に尽くし難く、実に惨憺 ( さんたん ) を極 ( きわ ) む 。( 以下省略 )

と記されていました。

注:)千歳浦
左上図は明治の大噴火以前の鳥島の 地形図ですが、千歳浦とは島の北側にあり、三方を陸に囲まれ以前は船が入れる唯一の湾でしたが、噴火による大量の 溶岩流が図の玉置村を襲い 住民 125 人を全滅 させ、土砂を湾に流出させたことから、港湾が埋め尽くされ機能が全く失われ現在に至っています。なお玉置村の 玉置 という名前については、後述するので覚えておいてください。

神社の鳥居噴火口

写真は硫黄山から流れ出た溶岩により半分近く埋まった神社の鳥居と噴火口付近の噴石丘 ( ふんせききゅう ) ですが、後年に鹿児島の桜島を訪れた際にも、溶岩に半分埋まった鳥居を見たことがありました。


[ 2:あほうどり ]

昭和 30 年 ( 1955 年 ) の秋に海上保安大学の練習船で ハワイ へ遠洋航海に行った際には、太平洋の真ん中で鳥が飛ぶのを初めて見ましたが、無知な私は洋上で生活する海鳥が夜は海の上で寝ることをそれまで気が付きませんでした。( 渡り鳥の ツバメは陸上で寝るのに−−− ) 。私が鳥島付近を飛行機で飛び回っていた当時は、「 あほうどり 」 の名前は知っていましたが、昔は日本に沢山生息していたものの既に絶滅したと思っていたので、誰も気にかけませんでした。

ハホウドリ

ところで 「 あほうどり 」 ( 英語名 アルバトロス、Albatross ) は ミズナギドリ目 ( もく )・ アホウドリ科 ・ アホウドリ属の鳥で、海鳥としてはもっとも大きな鳥ですが、日本付近に住むものは全長約 92 センチメートル、羽根を広げると 2.4 メートルにもなります。

かつては伊豆諸島の鳥島、小笠原諸島の北の島 ・ 婿島 ( むこじま ) ・ 嫁島 ・ 西之島、沖縄東方にある大東群島の北大東島 ・ 沖の大東島、尖閣列島、台湾付近の澎湖列島などで繁殖期に多数が集団営巣していましたが、鳥島では 大乱獲されて絶滅した と考えられていました。その特徴とは

  1. 人に対する警戒心がなく 容易に捕獲 ・ 撲殺されるので、 「 バカ どり 」 の意味から 「 あほう ( 阿呆 ) どり 」 の名前が付き、漢字では 「 信天翁 」 と書きますが、天を信じ、運を天に任せる意味です。

  2. 鳥島には、アホウドリと、クロアシアホウドリの 2 種類が生息。

  3. 繁殖期を除き 一生を海の上で暮らす渡り鳥で、日本から 「 渡り 」 をする先は北太平洋の アリューシャン列島海域から、アメリカ西海岸沖合の海域など。

  4. 渡りの時期について鳥島では、 3 月末 〜 4 月初めに渡りを始めて、 10 月初めに繁殖のために再び島に戻る

  5. 長い翼はほとんど羽ばたかず、グライダー ( Glider、滑空機 ) のように風を利用して飛ぶ。エサは魚や イカで、捕食の際に海中に潜ることはしない。

  6. 巣立った若鶏は 4〜5 年経つと巣立った島に戻って来る。

  7. あほうどりの寿命は、一般に 30 年程度。

  8. オス ・ メスが、一生同じ相手と連れ添う。

  9. 5〜6 才になると、年に 1 回 1 個の卵を産む。


[ 3:荷船 ・ 海難多発の原因 ]

関ヶ原の戦いに勝ち徳川幕府が覇権を握ると西国大名が持つ水軍 ( 海軍 )を無力化するために、慶長 14 年 ( 1609 年 ) に大名の大船 ( おおぶね、500 石積以上の船 ) を没収しました。その後 寛永 12 年 ( 1635 年 ) に幕府が改訂した武家諸法度 ( ぶけしょはっと、寛永令 ) によれば、その 17 条に

500 石積以上之船停止 ( ちょうじ ) 之事

とありましたが、その意味は 500 石積み ( 排水量約 100 トン ) 以上の 軍船の 、建造 ・ 航行を禁止するということでした。 武家諸法度は本来大名 ・ 武家に適用する法令でしたが、当初は民間の荷船にも適用されたために、米 ・ 酒 ・ 材木などの大消費地である江戸への物資輸送に支障が出たので、3 年後の寛永 15 年 ( 1638 年 ) に前述した武家諸法度の 17 条を改訂し、

但荷船制外之事
「 ただし ( 民間の ) 荷船は ( 規制 ) 外のこと 」 になりました。ところで大船建造禁止令の要点とは、

  1. 2 帆以上の船舶は之を建造すべからず、つまり帆船の 帆柱は 1 本のみ とする。

    キール

  2. 船体構造に竜骨 ( キール、Keel、人体に例えれば背骨 ) の設置を禁止し、 船底は平底 ( ひらぞこ ) とする。

    キールとは船首から船底を通り船尾に至る縦通材 のことで、右図では赤色で囲まれた部材ですが、クレーンに吊り下げられているのは船体内側で竜骨 ( キール ) の上に載せる 内竜骨 ( ケルスン、Keel-son ) です。

徳川幕府が取った鎖国政策 ・ 大船建造禁止令のせいで、江戸時代に作られた帆船である弁財船 ( べざいせん ) には船体構造上の欠陥があり遭難が多発しましたが、それについては ここをクリック 。この大船建造禁止令が撤廃されたのは嘉永 6 年 ( 1853 年 ) に ペリーの黒船が日本に来航してからのことでした。


( 3−1、生存の カ ギ は、あほうどり の在島の有無 )

アホウドリ

火山島という不毛の無人島に漂着し何ヶ月も、 あるいは後述する 最長で 20 年間 も生き抜くためには、漂着時期が 「 あほうどり 」 の在島期間、つまり繁殖の季節 ( 10 月〜 3 月末 ) に合致するかどうかが重要な要素を占めていました。 「 八丈浦手形の覚 」 によれば、繁殖の季節には

諸鳥沢山成事 ( しょちょう たくさんなること )、山を歩行候 ( あるきそうろう ) に、棒をもち払ひ歩行仕候 ( はらいあるき つかまつりそうら ) えども、肩先などへ懸 ( かか ) り、せわしく( 落ち着かない ) 御座候 ( ことでした ) 。

とあるように、鳥島では 足の踏み場もないほど 「 あほうどり 」 が島にいましたが 、 その間は食料に全く不自由せず、渡りの季節に備えて 「 あほうどり 」 の干物を作ることにより食料の備蓄をし、時には羽毛を綴って着物を作りました。

島から鳥が一斉にいなくなる 「 渡り 」 の季節以後 に漂着した場合には、食べ物が無く餓死せざるを得ない状況でしたが、下表は遭難して鳥島に漂着し、その後 幸運にも日本に帰国できた人の記録ですが、漂着したに注目してください。一説によれば船が遭難して鳥島に漂着しその後帰国できた遭難者の数は、80 名以上ともいわれています。

( 3−2、鳥島に漂着し、生還した者たち))

番号 遭難年月 所属する港遭難地点鳥島漂着月
1680年12月土佐国

室津浦

室戸崎沖翌年 1月
1680年12月土佐国

上加江浦

宇佐龍沖翌年 1月
1684年10月土佐国

田野浦

安芸沖漂着
1696年日向国

志布志浦、5 名

江戸からの帰途

薩摩国山川沖

翌年 1月
1719年11月遠江国、新居

大鹿丸、12名

九十九里沖翌年 1月漂着

6 と共に、3 名

20年後に帰国

1738年12月江戸、堀江町

宮本善八船、17名

房州

州崎沖

無人島に漂着後

5 の 3 名と小舟

を作り生還

1759年1月頃和泉国

波有手村

漂流場所

不明

漂着
1759年1月土佐藩、赤岡港

大宝丸(800石)

熊野灘18名漂着
1785年1月土佐国

赤浦、4名

土佐国

手詰崎沖

2月に漂着10、

11と共に12

年後 、1名帰国

101787年12月肥前国

寺江村、11名

九十九里沖翌年 2月

9、11と共に

9年後、9名帰国

111789年12月日向国

志布志浦

住吉丸、6 名

帰途

日向灘

翌年 1月

9、10と共に

7年後、4名帰国

121841年1月土佐国宇佐浦

漁船、5名

土佐湾漂着後に米

捕鯨船に救出

10年後、3名帰国

131844年12月阿波国

撫養( むや )の

幸宝丸

遭難場所

不明

翌年1月漂着後

海亀探の捕鯨船

マンハッタンの

小舟に11名救助

141845年2月房州、銚子浦

千寿丸、11名

熊野灘鳥島付近を漂流

中 13 の捕鯨船

に、救助生還


上表 NO. 13 と 14 の遭難者は長崎を外国との交渉窓口とする徳川幕府の前例に囚われずに、1845 年 4 月 17 日に江戸湾入り口の浦賀で、捕鯨船 マンハッタン号 ( 440 トン ) から幕府側に引き渡され、帰国することができました。


[ 4:最長記録保持者、平三郎など 3 名 ]


上表の ライトブルー 欄 「 5 」 にあるのが海難に遭い鳥島に漂着し、そこで長年暮らし、後には 「 6 」 の漂着者と協力して伝馬船を改修して 生還した最長記録保持者の 平三郎 ( 21 才から 41 才まで鳥島で生活 ) など 3 名 のことです。

遠江国 ( とおとおみのくに、現 ・ 静岡県 ) ・ 浜名郡 ・ 新居宿 ( あらいじゅく、現 ・ 湖西市 ) の浜名湖西岸の新居湊 ( あらいみなと ) の筒山 ( つつやま ) 五兵衛の持ち船である千石船の鹿丸に 12 名が乗り、亨保 4 年 ( 1719 年 ) 11 月 26 日に陸前国 ( 宮城県 ) 石巻小竹浦を出て南へ航海中、11 月 30 日に上総国 ( かずさ、千葉県 ) の 九十九里浜沖で暴風雨に遭い船が難破しました。

およそ 2 ヶ月近く漂流の末 鳥島に漂着し、本船から伝馬船で生活に必要な鍋釜 ・ 道具類を島に荷揚げしましたが、無人島での生活で最も苦労したのは飲み水であり、川や泉がないので、船から運び出した手桶 ・ 小桶 ・ 「 あほうどり 」 の卵の殻などを岩山のくぼみに置いて天水 ( 雨水 ) を溜めました。食料は大鳥 ( おおとり = あほうどり ) を主に食べましたが、「 渡り鳥 」 であることが分かり干物にして食料の備蓄をしました。

毎日 1 羽食べるとして、渡り鳥が島へ戻るまでの間に 1 人当たり 200 羽 の 「 あほうどり 」 の干物 を用意しましたが、偶然漂着した無人の難破船の積み荷の米俵から陸稲 ( おかぼ、畑に栽培する稲 ) の種籾 ( たねもみ、種子 ) を得て陸稲を栽培したり、鳥がいない間は カニ や海藻を採り魚を釣って食べました。衣類などについては、

羽衣

食事に仕り候大鳥 ( つかまつりそうろう おおとり ) の皮を羽毛共に干し上げ、しばらくの内 敷物に仕り候得 ( つかまつりそうらえ )ば、自ら和 ( やわ ) らかに相成り候 ( あいなりそうろう ) ゆえ、あちこち継なぎ合い、着用仕( ちゃくようつかまつ ) り候て、相凌 ( あいしの ) ぎ申候。

意味は食用にした あほうどり の羽毛の付いた皮を、干した後にしばらく敷物にして使用すると、柔らかくなるので、糸でつなぎ合わせて着物を作り、それを着物代わりに着ました。上図は あほうどり の羽根で作った 羽衣 ( はごろも )、羽根笠、羽根うちわ です。

無人島で暮らす内に 12 名中 9 名が死に、平三郎 ・ 仁三郎 ・ 甚八の 3 名が生き残りましたが、漂着してから 20 年後のこと 別の船が鳥島に漂着しました。その船は江戸 ・ 堀江町の宮本善八所有の 1,200 石船 ( 船頭、富蔵以下 17 名乗り組み )でしたが、元文 4 年 ( 1739 年 ) に青森県の八戸から江戸に向かう途中に房総沖で遭難し、鳥島に漂着したものでした。

さいわいにも彼等の船に搭載していた伝馬船 ( てんません、本船に搭載され岸との荷物の輸送や、人の往来に使う小型の和船 ) が無事でしたので、これを改修して帆装を施し、平三郎たち 3 名を含む合計 20 名が水 ・ 食料を準備して鳥島から帆走により脱出しました。彼等は途中にある青ヶ島には立ち寄らずに、八丈島に直行し無事に到着しました。八丈島からは幕府の御用船に乗り江戸に向かいましたが、平三郎たち 3 名が 20 年も無人島で暮らし生還した ことから、 8 代将軍 ・ 徳川吉宗が興味を持ち 3 名に謁見を賜りました。

同じ頃に イギリスの小説家 ダニエル ・ デフォー( Daniel Defoe ) が 1719 年に空想小説 「 ロビンソン漂流記 」 を書きましたが、船乗りだった主人公の ロビンソン ・ クルーソー ( Robinson Crusoe ) が南米 ベネズエラにある オリノコ ( Orinoco ) 川の河口近くで船が難破して孤島に漂着し、 28 年後に帰国するという小説の筋書きでした。


[ 5:長平の場合 ]

長平像

私の好きな作家の 1 人でもある吉村昭が書いた小説に 「 漂流 」 がありますが、読まれた方もあろうかと思います。主人公は土佐 ( 高知県 ・ 香美郡 ・ 香我美町 ) 出身の長平 ( ちょうへい ) ですが、彼は 4 人乗り組みの 30 石船の太平丸に水夫として乗りましたが、嵐に遭って船が難破漂流し鳥島に流れ着きました。

12 年半の間に仲間の 3 名が死んだので、彼は 1 年半も 1 人で無人島で暮らし 、奇跡的に故郷に帰還した実話を小説の題材にしたものでした。高知県香南市にある 土佐 くろしお鉄道の香我美 ( かがみ ) 駅前に長平の銅像がありますが、毎年 5 月には 「 無人島 長平まつり 」 が行われていて、その説明板には以下の文言があります。

香我美 ( かがみ ) 町 岸本出身の 「 無人島 長平 」 こと 「 野村長平 」 は、今から 213 年昔の 1785 年 ( 天明 5 年 ) に奈半利 ( なはり、現 ・ 高知県 ・ 安芸郡 ・ 奈半利町 ) から船で帰る途中あらしに遭って流され、此の地より南東に 760 キロ離れた太平洋上の無人島 「 鳥島 」 に流れ着いた。

以来 口では言い表せない程の辛くて苦しく、寂しい 12 年余りの生活 の中で常に希望を棄てず逞 ( たくま ) しく生き抜き、後から流れ着いた仲間達と 一緒に流木で船を造って 1798 年 ( 12 年半 後 ) に奇跡的な生還を果たした世にも希な偉人である ( 以下省略 )。

後から鳥島に流れ着いた者たちとは、大坂 ( 大阪 ) 北堀・備前屋亀次郎に船ごと雇われた肥前国 ( ひぜん、長崎県 ) 寺江村・金左衛門船の 11 名乗り組みの船でしたが、さらに 2 年後に日向国 ( ひうが ) 諸県郡 ・ 志布志浦(しぶしうら、現 ・ 鹿児島県 ・ 志布志市 ) の 6 人乗り組み住吉丸が翌年1月に漂着しました。

手作り船

彼等 合計 18 名 の無人島生活はその後も続きましたが、幸いに造船の心得のある者がいたので、流木を集めて住吉丸が積んでいた道具を使い、船を作り島から脱出することにしました。小型の船を作るのに 6 年かかりましたが、伊勢丸と名付け 青ヶ島経由で八丈島にたどり着き、そこから幕府の御用船で江戸に行き、それぞれの故郷に帰ることができました。

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