韓 国 の 歴 史 教 科 書


[ 1: 歴 史 を 道 具 に 使 用 す る こ と ]

アメリカ の 歴史学者 で、マサチューセッツ工科大学 ( M I T ) 教授、ジョン ・ ダワーに 依 れば、
注意すべきことは 歴史 とは 何 か よりも、人々 が 歴史 をどう 政治的に 使うかだ。
と 述 べ て い ま す。中国 や 韓国 は 国交開始 以来 何十年間 も 日本 の 侵略戦争 や 植民地支配 の 歴史を、日本人 の 贖 罪 意 識 を 掻 き 立 て る 為 の 道 具 と し て 最大限に利用 し、外交戦略上優位 に立ち 経済的 利益 獲得を図ってきま した。 そして 1980 年代 には 戦術 を 更に エスカレー トし、教科書 の 記述 の 内容 にまでも 口 を 出 し 訂正 を 要求 するようになりました。

残念 なことに 日本 は 教科書 の 記述 に 関 して 韓 国 や 中 国 から 抗 議 を受けると、 国 家 主 権 に 対 す る 明らかな 侵 害 であるにもかかわらず、それを 断固拒否 するどころか 直 ぐ にお 詫 びをしたり、教科書 の 編集 に 際 しては

近 隣 諸 国 の 人 々 の 感 情 に 配 慮 す る
という 規 則 をわざわざ 設 ける、という 愚 かな 行為 を しました。 つまり 事 実 関 係 の 有 無 はさておき、 歴 史 の 解 釈 を 彼 等 の 言 う が ま ま に せ よ ということなのです。これが 独立国 のすることで しょうか?。

その結果中学校 の 教科書 にまで 従 軍 慰 安 婦 の こ と が記載 される 事態 にな りま したが、援 助 交 際 ( 売 春 ) をする 女子中学生 や 高校生 が 増 えたのは、そのせいではないか(?)と思 う 次第 です。

独立国 とは 到底思 えない 日本政府 や 外務省 の 事 な か れ 主 義 や 無 責 任 な 対 応 に 疑問 を 感 じて いましたが、それでは 相手 の 国 の 教科書 には、歴史 が 正 し く 記述 されているので しょうか?。

入門韓国 の 歴史 国 定 の 韓 国 中 学 校、国 史 教 科 書 ( 1996 年 制 定 ) の 日本語訳 ( 明石書店 )を 読 んでみま した。

その 結果 分 かったのは 以下 の 事柄 で したが、皆 さんも 一緒 に 考 えてみて下さい。


[ 2 : 反 日 思 想 の 刷 り 込 み ]

韓国 の 国定、歴史教科書 についての 編集方針 を ひとことで 言 えば、 民 族 主 義 や 愛 国 心 を 育 成 す る 為 な ら 、そして 反 日 教 育 の 為 なら、 ど ん な ウ ソ をつくことも 許 される とする 考 え 方 や、歪 曲 した 愛国心 で した。

なぜ 学校 で 歴史 を 学 ばせるのかの 一つの 答 えは、自虐史観 とは 逆 に、生徒 に 愛国心 を 植 え 付 け 育 て るためです。朝鮮( 半島 の 国 ) が 昔 から 如何 にすばら し い 国 であ り、日 帝( 日本 の 帝国主義者、つまり 日本人 の 意味 ) がそれを 如 何 に ダ メ に したのか、それに 対 して 人々 が どれほど 抵 抗 してきたかが、針小棒大に 大 ウ ソ を 交 えて 書 いてあ りま した。

カル鴨行列

動物行動学 では 本能 とは 別に、 Imprinting ( 刷 り 込 み )という言葉 があります。皆さんがお 馴染 みの カ ル 鴨 の 例 を 挙 げると、子 ガ モ が 母鴨 の 後 を 常 に 追 うのは、孵化後 の 1 2 時間以内 に 身近 に いた 動 く ものを 親 と して 頭脳 に 刷 り込 み 、その 後 を 追 うという 習性 からです。

動 く ものならば 親 でな く ても、玩具 でも 後 を 追 うようにな ります。「 刷 り 込 み 」 は 生 まれてから 一 定 の 時間内 におこなうことが 必要で、それを 過 ぎると 困難 にな ります。韓国 の 生徒 はまさに 国定 の 歴史教科書 により、 子 供 の 頃 か ら 歪 曲 さ れ た 歴 史 観 と 愛 国 心 で、 反 日 思 想 の 「 刷 り 込 み 」 をされていま した

それでは 具体的 に 何 を 刷 り 込 んでいるのか、 数 え 切 れないほどの ウ ソ や 事実 の歪 曲 の 中 から、以下 の 実例 を 選 んでみま した。なお 頁 とあるのは 「 入 門 韓 国 の 歴 史 」、韓国中学校、国史教科書の日本語訳本 の 頁 を 示 します。


[ 3 : 皇 紀 の 韓 国 版、古 代 朝 鮮 の 建 国 年 代 について ]

( 3−1、な ん で も 韓 国 が 一 番 と 教 え 込 む )

現在 80 才以上 の 方 であれば 皇 紀 という言葉 をご 存 じのはずですが、知 らない 方 は 下記 を ク リ ッ ク 。

皇 紀 に つ い て

韓国 の 歴史教科書 の 記述 によれば、

満 州 遼 寧 ( りょうねい ) 地方と韓半島 ( 朝鮮半島のこと ) 西北地方に、君長が治めるたくさんの部族が現れた。 檀 君 ( だん く ん ) はこうした部族を統合 して 古朝鮮 を 建 国 し た 。檀君王倹の古朝鮮建国( 紀元前 2,333 年 )に関 しては、三国遺事にその内容が記されている。( 32 頁 )

と 書 いてありま した。そこで 三 国 遺 事 とは何か、日本 の 大辞林 という 辞書 で 調 べ てみる と、

朝鮮 の 史書 で 高麗 ( こうら い ) の 僧、 一 然 ( 1206〜1289 年 )の 撰 ( 編集 したもの )。三国史記 に 漏 れた 新羅、百済、高句麗 の 遺 聞 を 集 める 仏教関係 の 記述が多い。
とあ りま した。参考 までに 三 国 史 記 とは 朝鮮半島 における 最古 の 歴史書 のことで、高麗 の 金富軾 ( きん ふしょく ) が 1145 年 に編 纂 したもので した。つまりここで 重要 な 点 は 古事記、日本書紀 ができてから 400 年 後 に、朝鮮最古 の 歴史書 ができた という 事実 です。後 で 触 れますから、このことを 記憶 しておいて ください。

僧 の 一 然 が 生 きた 時代 とは 日本 でいえば 鎌倉時代後期 に 相当 します。 その 時代 に 書 かれた 本 に、それよりも 3,500 年 も 昔 の 檀 君 王 倹 のことが 書 いてあるから、それを 古代朝鮮建国 の 根拠 に して、 我 が 民 族 は 5,000 年 以上 の 輝 か しい 歴史 を 展開 している ( 17頁 ) と 教科書 に 書 き、教 えていたので した。

中国の歴史家、司馬遷vが 紀元前 91 年 に 書 いた 史 記 によれば、中国 で 最 も 古 い ま ぼ ろ し の王国である夏( か )は、 紀元前 21 世紀 から 前 1 6 世紀 に 存在 したとされますが 、伝承 のみに 頼 る 先史時代 のことなので その 存在 は 確認 できません。

しか し 韓 国 は 中 国 よりも 建国 が 古 い と、 自 国 の 歴 史 ( ? ) の 古 さを ね つ 造 し て 自慢 に したいのです 。ここで 前 に 読 んだことを 思 い 出 してください、韓国 の 最古 の 歴史書 は 日本 の 古事記、日本書紀 よりも 400 年 後 にできたことを。

中国 の 殷 ( いん ) の 廃 墟 から 発掘 された 甲 骨 ( こうこつ ) 文字を刻 んだ 亀 甲 ( きっこう ) や 獣骨 の 存在 から、紀元前 1 4 世紀〜前 1 1 世紀 に 文字 を 持つ 殷 ( いん )の 国 の 存在 が 判 明 しま したが、それよりも 古 く から 国 が存在 したとする 韓国 では、古代朝鮮 の 歴史 をどのような 文字 で書 き、何 に 記録 したと いうので しょうか?。もちろん 何 の 根拠 もない  大 ウ ソ に 決 ま っ て い ま す

敗戦 に 至 るまで 日本 の 歴史教科書 は 全 て 皇 紀 の 年号 で 書 かれ、歴史 と 神話 を 混 同 して 教 えて いま したが、戦後 の 教育 では 両者 を 明確 に 区別 するようになりま した。しか し 韓国 の 歴史教科書 では、依然 と して 檀 君 神 話 が 真実 の 歴史 と して 今 も 扱 われ 健在 なのです。つまり 歴史 を 扱 う 方法 が 日本よ りも、60 年 以上 も 遅 れている 証拠 です。

そればかり  ではありません、檀 君 が 建国 した(?) 紀 元 前 2,333 年 を 元年 とする 檀 君 紀 年 が、韓 国 独 立 か ら 昭 和 3 6 年 ( 1961 年 ) ま で 実際 に 韓国 で 使用 されて いま した

紀元前 2,333 年 当時 は、前述 のように 中国 でさえも 未 だ 歴史 を 記録 する 文字 がありませんでしたが、その時代のことを 韓国 ではどのように 記録 し、檀君紀年 を 算定 したのでしょうか?。もちろん デ タ ラ メ に 決 まって います。

注:)
韓国 では 中学校 の 教科書 だけでなく、1997 年版 の 高校用 の 国史 ( 下 ) の「 植民地 の 文化政策 」 の 記述 にも、

我 が 民族史 も 日帝 の 植民地統治 を 合理化 するために 変造 された。とりわけ 民族史 の 根源 とも 言 う べ き 古代史 の 歪 曲 が 最 もひど く、 檀 君 朝 鮮 は 否 定 さ れ −−−−。
とあるように、いまだに 5,000 年前 (?)の 檀君神話 を、建国 の 歴史 の 根拠 にする ことに 懸 命 で した。


[ 4 : 民 族 抹 殺 の 、大 ウ ソ ]

日帝 はわが 民族 と、民族文化 を 抹 殺 す る 政策 を 実 施 し た ( 162 頁 )

とありま したが 韓国 の 生徒 がこれを 読 めば、あたかも ナチス ・ ドイツが 600 万人 の ユ ダ ヤ 人を 抹殺 した 如 く、日本 が  朝 鮮 民 族 を 抹 殺 し よ う と し た と 思 うはずです。日本人 からみれば 明らかな ウ ソ が 堂々 と 記述 されて いま した。

恐らく 強 制 連 行 や 従 軍 慰 安 婦 のことを念頭に したと 思 われますが、朝鮮半島住民 を 抹殺 する 意図 など 全 くなかったことは、日韓併合以来、 日本がもたらした 文 明 開 化  人 口 増 加 の 事実 や、イ ン フ ラ の 整備、植民地住民に  世界でも希な 義 務 教 育 を 含 む 教 育 を 施 し 、大学教育 の 機会 まで 与 えた 教育制度 を 見 れば 明 らかで した。


[ 5 : 元 寇 に つ い て ]

元 寇 ( げ ん こ う )の 寇 ( こう )とは、仇 ( あ だ )という 意味 です。元 寇 について 知 らない 若 い 人も いるので説明 しますと、中国大陸 を 征 服 した チ ン ギ ス ・ ハ ン ( ジ ン ギ ス ・ カ ン ) の 孫 に当たる 元 ( げ ん ) の 皇 帝 フ ビ ラ イ が、大 都 ( 北 京 ) に 都 を 定 め 日本 に 入 貢 ( に ゅ う こ う 、外交使節 が 貢 ぎ 物 を 持 って ご 機 嫌 伺 い に 来 ること ) を 求 めま したが、拒否 されると 日本 に対する 侵 略 を 計画 しま した。

鎌倉時代 の 文 永 1 1 年 ( 1274 年 ) と 弘 安 4 年 ( 1281 年 ) に、 高 麗 ( こ う ら い、朝鮮半島 の 国 ) と 共同 して 日 本 を 侵 略 し 壱 岐、対 馬 の 島民 を 虐 殺 し、九州 の 博 多 に 上 陸 しま したが 日本側 の 奮 戦 に 遭 い、台風 が 襲 ったこともあって 撤退 しました。韓国の 国 定 教 科 書 によれば、


( 5−1、侵 略 者 の 韓 国 を、被 害 者 に す り 替 え る )

高麗 は 元 ( げ ん ) と 講和 を 結 び、開京 へ 還 都 したが、す ぐ 新 しい 試 練 にぶつかることとなった。元 は 日 本 を 征 伐 す る ために 軍 船 の 建 造、兵 糧 の 供 給、兵 士 の 動 員を 高 麗 に 強 要 し た 。こう して 二次 にわたる 高 麗 ・ 元 ( げん ) 連合軍 の 日本遠征 が 断行 されたが、すべて 失敗 した。( 138 頁 )

この 国定教科書 では 日 帝 の 侵 略 という 語 を、これでもか、これでもかと 頻 繁 に 使用 しておきながら、元 寇 ( げんこう ) については 自国 ( 高 麗 ) が 日 本 を 侵 略 し た 事 実 を 隠 ぺ い す る ために、意図的 に 侵 略 という言葉 を 使用 しませんで した。

しかも 韓国 の 歴史教科書 であるにもかかわらず、 自国 に 都合 が 悪 い 箇所 では 中 国 の 元 ( げ ん ) を 主 語 に して 記 述 す る という、ごまか しの 手法 を 採 って いま した。

この 教科書 が 意図 するところは、あくまでも 元 に 強 要 さ れ て 、つま り 自 らの 意 志 に 反 し て 日本 を 攻 めさせられた、いわば 戦争 に 協力 させられた 被害者 の 立場 であって、侵略者 ではな いと 暗 に 主張 しているのです。しか しそれは、全 く の デ タ ラ メ であることを 次 の 6 項 で 立証 します。

さらに 征 伐 という 言葉 は、悪者 を 攻 め 平 らげるという 意味 です。かつて韓国 は 日本 の 教科書 の 記述 にあった 豊 臣 秀 吉 の 朝 鮮 征 伐 に 対 して、征伐 という 言葉 を 使 うのはけ しからんと 日本 に 抗議 し、朝日新聞 などの 左翼 マ ス コ ミ もこれを 大き く 報 じた結果、教科書が書き 変 えられま した。

しか し 自国 の 日本 に対する 侵 略 を 今 も 公然 と 征 伐 と表現 し 、教科書 で 使用 しているのです。朝日新聞 とは、報 の 頭文字 を 取 って 名付 けられたものと 想像 します。


[ 6 : 高 麗 が 日 本 侵 略 に 積 極 的 に 荷 担 し た 証 拠 ]

高 麗 国 王 の 元 宗 、( 在位 1260〜1274 年 ) に 世継 ぎの 子 の ェ ( し ん、後 の 忠 烈 王 )が いま したが、ェ ( し ん ) は 元 ( げ ん、モ ン ゴ ル 人 の 帝国 ) の皇帝 フ ビ ラ イ ( 1215〜1294 年 ) の 下 で 長 く 元 に 住 み、フ ビ ラ イ の 娘 と 結婚 して 高麗 に 帰国 し、即位 して 忠 烈 王 ( 1236〜1308 年 ) とな りま した。

忠烈 の 名前 は 元 から 貰 ったもので、忠 とは 元 に 対 する 忠 誠 を 尽 く す 意味 ですが、 元寇 当時 の 高 麗 の 国王 は、 忠 烈 王 であったこと を 覚 えておいて 下 さ い


( 6−1、自 国 の 歴 史 書 に あ っ た 記 述 )

高 麗 史 の 元 宗 13 年 ( 1272 年 ) 3 月の 条 ( 元 寇 における、文永 の 役 の 2 年前 ) の 記述 によれば、世子の ェ ( しん、後の 忠 烈 王 ) が フ ビ ラ イ に述 べ た言葉 と して、

惟 彼 日 本、未 蒙 聖 化。故 発 詔、使 継 糴 軍 容。戦 艦 兵 糧、方 在 所 須。儻 以 此 事 委 臣、勉 尽 心 力、小 助 王 師

[ そ の 読 み 方 ]
惟 ( お も )んみるに彼 ( か ) の日本、未だに 聖化を 蒙 ( こうむ ) らず。故に 詔 ( みことの り ) を発 して 軍 容 を 継 糴 ( け い て き ) せ しめんとせば、戦 艦 兵 糧 まさに 須 ( す ) いる 所 あらん。も し 此 事 ( このこと ) を以 て 臣 に委 ( ゆ だ ) ねなば、心力 を 尽 し 勉 ( はげみ )、 王 師 ( おう し )を 小 助 せん。

[ そ の 意 味 ]
思 いますに、かの 日本、未 だ 皇 帝 陛 下 ( フ ビ ラ イ ) の 徳 による 導 き を 受 けて いません。いまこそ 陛下 の 命令 を 出 して 軍容 を 整 え 戦艦 兵糧 を 用 いるべきです。も しも 私 に お 任 せ く だ さ る の で あ れ ば、心 力 を 尽 く し、陛 下 の 軍 隊 を 微 力 な が ら お 助 け 申 し 上 げ た い と 願 っ て お り ま す

と書 かれていま したが、これを 読 めば 元 に 強 要 さ れ た のではなく、明らかに 高 麗 の 忠 烈 王 自 身 が フ ビ ラ イ に 日本 への 遠 征 を そ そ の か し 、その 際 には 自分 も 協 力 す る と 明言 して いま した。

自 国 の 歴 史 記 録 にあることさ え も 偽 っ て 書 く 韓国 の 国定 歴史教科書 が、如何 に 欺 瞞 に 満 ちたものであるかが、これで分かります。それとも 韓国 の 歴史家 は、漢 文 が 読 めないのかも ?。


( 6−2、こ れ に 関 す る、元 の 歴 史 書 の 記 述 )

この 件 に 関 して 中国側 の 元 ( げ ん ) 王朝 の 記録 を 引用 しますと、元 の 歴史書 の 世 祖 ( フ ビ ラ イ ) 本紀 至元 19 年 ( 1279 年、つまり 「 弘安 の 役 」 が 起 こる 2 年前 )7 月 の 条 によれば、

高 麗 国 王 請、自 造 船 百 五 十 艘、助 征 日 本

[ そ の 意 味 ]
高 麗 の 国 王 ( 忠 烈 王 ) が 百五十 艘 の 船 を 自 国 で 作 り、( 元 の ) 日本遠征 を 助 けることを 願 い 出 た

と 記 録 されて いますが、 ねつ 造 された 韓国 の 恥 知 らずな 教科書 の 記述 に 対 する 反 証 は、この 二 例 で 十分 過 ぎると 思 います。


( 6−3、そ れ で も 日 本 へ の 侵 略 を 隠 す 韓 国 の 歴 史 教 科 書 )

蒙古平原 に 国 を 興 し 造船技術、操船技術 を 持たなかった 元 の 為 に、高 麗 は 文永 の 役 ( 1274 年 )では 大 小 の 軍 船 900 隻 を 建 造 し、高 麗 軍 8,000 人 、その 他 高 麗 水 軍 の 水 夫 など 6,000 人 を 参 加 させ、元 軍 15,000 人 と 共 に 合 計 3 万 の 大軍 で 日本 を侵略 しま した。 まず 壱 岐、対 馬 の 島民 を 皆 殺 しに し、次に 博 多 を 襲 いま した

さらに 大規模 な 侵略 である 弘安の役 ( 1281 年 )では、兵 10 万 、軍 船 3,500 隻 の 江 南 軍 と 共に、 兵 力 4 万 、軍 船 900 隻 が 東 路 軍 と して、前回 同様 に 元 と 高 麗 の 連合軍 それに 水軍 の 水夫 が 日本侵略 に 参加 しま したが、これが 元 と 共 に 高 麗 による 日 本 侵 略 でなければ、何を 侵 略 と 言 うので しょうか。

偽造年表

さらに 付 け 加 えると 教科書 巻末 の 年表 には  高 麗 による 日本侵略 である 1274 年 ( 文 永 11 年 ) と、1281 年 ( 弘 安 4 年 ) に起きた 元寇 ( げ ん こ う ) の 件 が 完全 に 抜 け 落 ちて いま したが、韓国 の 得意 わざである、歴 史 の 意 図 的 な 隠 蔽 ( い ん ぺ い、隠 す こ と ) 改 ざんで した。


[ 7 : 独 立 運 動 が 日 本 の 敗 戦 に つ な が っ た ? ]

我 々が 光復 ( 植民地支配 からの 解 放 ) を 迎 えられるようになったのは、連合軍 の 勝利 がもたら した 結果 ともいえるが、その 間 我 が 民族 が 日帝 に 抵抗 し、 たゆまず 展 開 してきた 独 立 運 動 の 結 果 であるといえる( 166 頁 )。
日帝支配下 で 独立 の 為 に 人々 が 如何 に 抵抗 したかが、針小棒大 に 書 かれていま した。ソ連崩壊後 に 公開 された 資料によれば、朝鮮 の 反日 抵抗 運動 の 英雄 とされ、北朝鮮 の 偉大 な 首領様 となった 金 日 成 でさえも、終戦 まで ロシア 軍 の 大尉 と して ロ シ ア 領内 に 居住 して いま した。

平成 16 年初 めに 放映 された 日本 の テレビ 番組 でも、テレビ 局 の カメラ 取材 に 対 して ロシア の 村人 が 金日成 の 住居 の 跡 や、幼 く して 死 んだ 彼 の 息子 の 墓 の 位置 まで 教 えていま した。つまり 家族 共々 ロシア 領内 で 平穏 に 暮 ら していた 証拠 で した。

金日成 でさえもその 程度 で したから、その 他 の 抗日 運動 の 英雄 と 記述 された 連中 などは 推 して 知 る べ しです。教科書 では 如何 にも ヨーロッパ 並 みの 抵抗運動 を、朝鮮半島 や 日本国内 で 展開 してきたような 書 き 方 を していますが、戦時中 のことを 知 る 日本人 で 朝鮮人 の 抵抗運動 が  日 本 の 敗 戦 につながった 、などとする 大 ウ ソ を 信 じる 人 は 誰 も いません。しか し 韓国 では 国定 の教科書 で ウ ソ を 教 え、それが 信 じられて いるのです。

韓国史上最大 の 英雄 と して 亀甲船 で 有名 だった 李舜臣 と 共 に 教科書 で 採 り 上 げたのは、日韓併合 ( 1910 年 ) の 前 年 に  伊 藤 博 文 ( 1841〜1909 年 ) を ハ ル ビ ン 駅構内で ピストル で 暗殺 した、 テ ロ リ ス ト の 安重根 ( あんじゅうこん )のことで した。

日韓併合以前 に 起 きた、しかも 敗戦の 36 年も前の テロ事件 を、日本 の 敗戦 に 関連付 けた 記述 には 呆 れ 果 てま したが、裏 を 返 せば 教科書 に 述 べた たゆまず 展開 してきた 独立運動 と 称 するものの、めぼ しい 成 果 が、彼 と 昭和 7 年 ( 1932 年 ) 4 月に 上海 における 爆弾 テロで白河大将 を 暗殺した、尹奉吉 による 単 独 テ ロ の 犯行 しか 無 かった 証拠で した。

テ ロ リ ズ ム を 悪 だとする 国際社会 の 考 え 方 からすれば、安重根 の テ ロ 行為 を 国史教科書 で 褒 め たたえてきた 韓国政府 や 韓国人 の 歴史 に 対 する 見方 は、 国際的 に 間違 いである ことは 明 らかです。

なぜなら「 安 重 根 」の テ ロ 行為 を 正当化 すれば、パレスチナ、イラク、スペイン、チェチェン、ロシア など 世界中 で 起 きている、全 ての テ ロ を 正当化 しなければならず、逆 に テロリズム を 否定 するのであれば、安重根 の 行為 も 当 然 否 定 し な け れ ば な ら な い からです。


[ 8 : 園 田 外 相 の 発 言 ]

昭和 50 年代 に 外務大臣 を 三 度務 めた 園 田 直 ( そのだ すなお ) という 人 がいました。昭和 56 年 ( 1981 年 )8 月 の 日韓外相会談 の 席上、韓国側 が 安 全 保 障 問 題 ( 韓国 が 共産主義 に 対 する 盾 になり、日本 を 守 っているとする 主張 ) も 絡 めて、日本に 5 年間で 60 億 ド ル( 当 時 2 兆 1 千 6 百億円 )という 法外 な 政府借款 ( カ ネ を 貸 せ )や 技術移転 を 執 拗 に 要求 しま した。それに対して 園田外相 は、

韓 国 で は 嫌 い な 相 手 から カ ネ を 借 り た り、技術 を 教 えてもらう 社 会 習 慣 でもあるのか?。

と 公式 の 席 で発言 しま した。韓国 ではその 当時 から 反日教育 や 反日宣伝 を 盛 んに しながら、その 一方で 日本 に 大量 の 資金援助、技術援助 を 求 めてきま したが、園田外相 の 発言 は 韓国 の 非 常 識 で 国 際 儀 礼 を 失 し た 態 度 を、痛 烈 に 批判 したもので した。

これに 対 して 韓国外相 は 歯 がみして 悔 しがったものの、まともな 反論 もできなかったことが 当時話題 になりま した。

世界 の 常識 では 常 に 悪口 を 言う 相手 には カ ネ を 貸 さず、技術 を 教 えないのが 常識 ですが、韓国人 にはそういう 常識 や 礼儀 が 通用 しないのです。悪口 を 言 いながらも 平気 で カ ネ を 借 りに 来 た り、技術 を 教 えろと 要求 するのです。

更に カ ネ を借 りた り、技術 を 教 えて 貰った場合 でも、 相 手 に 感 謝 す る こ と を 知 ら な い のです 良 いことは 全 て 自分 ( 自国 ) の 手柄、悪 いことは 全 て 他 人( 他 国 ) の せ いにするのです。 ウ ソだと思ったら 続 けてお 読 み 下 さい。


[ 9 : 浦 項 ( ほこう ) 製 鉄 所 ]

韓国 の 東海岸 の 浦項 ( ほこう、韓国語で ポハン ) には、韓国産業開発 の 象徴的存在 である P O S C O ( 浦項総合製鉄所 ) がありますが、現在 では 世界 で 5 本 の 指 に 入 り、新日鉄 に次 ぐ 生産規模 を 誇 っています。その 建設 に 際 して 全面的 な 資金協力、技術協力 を したのは 当時 の 日本であ り、日本 の 協力 な く しては 絶対 に 不可能 な 事業 で した。

浦項製鉄所建設 に 際 して、韓国 は 最初 から 日本 を 相手 に 選 んだのではあ りませんで した。まず ドイツ の D K G グループ を 契約相手 に 選 び、ドイツ からの 製鉄技術 の 移転 を 当 てに し、アメリカ から 資金 を 調達 する 計画 で した。ところが 国際 コンサルティング 会社 の 調査 によって、韓国 の 生産性 が 低 く 日本 との 製品競争 に 勝 てる 見込 みが 無 いと 判 断 された 結果、西 ドイツ 政府、イギリス 政府 からも 資金調達、技術協力 を 拒否 され、アメリカ 輸出入銀行 からも 最終的 に 借款不可能 を 宣告 されま した。

そこで 当時 の 朴 ( ボ ク ) 政権 はやむなく 日本政府 に、資金 と 技術援助 を 求 めて 泣 きついて 来 ま した 。種々の 問題 があったも の の 建設 に 必要 な 資金 1 億 6 千万 ドル のうち、 日本 が 1 億 ドル つまり 6 2 パーセント を 提供 することによ り、 製鉄所建設工事 が 開始 され ました

第 1 期工事 は 昭和 4 5 年 ( 1970 年 ) に 始 ま り 昭和 48 年 に 完成 しま したが、日本 の 資金協力、技術協力 がなければ、製鉄所 の 工事、施設 は 到底完成 できませんで した。製鉄製鋼部門 に 限 らず、自動車、家電製品、紡績、電子 など 韓国 における 産業 の 半分以上 は、日本 からの 技術移転 によるものです。

昭和 50 年代 ( 1975 〜 1984 年 ) には、毎週金曜日 の 夜 に 成田 や 大阪 から ソウル に 向 かう 飛行機 は、日本人 の I T 関係 の 技術者 で 常時満席 の 状態 で した。韓国 の 会社 で 土曜、日曜 と パソコン の ハード ・ ソフト 作 りの 技術 を 指導 し、日曜日 の 最終便 で 日本 に 帰国 したからで した。

更 に 韓国 が 昭和 51 年 ( 1976 年 ) に、鳴 り 物入 り で 初 めて 輸出 した 小型乗用車 の ポ ニ ー ( P o n y )に 搭載 したのは、韓国製 の エンジン ではな く、 三菱自動車製 の エ ン ジ ン だったことは、当時車 に 興味 のある 者 なら 誰 もが 知 っていることで した。韓国 の 現代自動車 ( 株 ) が 作 った エンジン では、すぐに 故障 して 使 い 物 にならず、やむなく 三菱 から 小型 エンジン の 提供 を 受 け、技術支援 を 受 けたからでした。

ある 資 料 によれば、昭和 37 年 ( 1962 年 ) から 昭和 58 年 ( 1983 年 )までの 21 年間 に 韓国 が 技術導入 した 件数 のうち、 56.3 パ ー セ ン ト は 日本 からのもので した


[ 10 : 日 本 の 経 済 援 助、技 術 援 助 の 存 在 を 無 視 ]

ところで 以上 述 べた 経済産業開発 に 関 する 日本 の 多大 な 援助 や 技術協力 について、 韓国 の 国定 歴史教科書 には、どのように 記述 されて いると 思 いますか?。

政府 ( 韓国 ) は 1962 年 ( 昭和 37 年 ) から 経済開発 5 ヶ年計画 をたびたび 推 し進 め、輸出 のために 積極的 に 努力 した。経済開発計画 の 推進 は 貧 困 か ら 解 放 さ れ 、立 ち 後 れ た 経 済 社 会 分 野 を 発 展 させ、自立経済 を 達成 できる 基盤 を 整 えるためのものだった。こう して 外 国 の 資 本 を 導 入 し 、多くの工場を建設して−−−。( 387 頁 )
経済、産業開発に関しては 日 本 と い う 言 葉 を 決 し て 使 わ ず に 意 図 的 に 外 国 と 書 き 、しかも、あれ程日本 に 技術移転 をせがみ、日本 から 技 術 を 導 入 し た 件 については、一 字 も 書 い てありませんでした。

つま り 資金 は 外国 ( 日本のこと ) から 借 りたが、自前 の 技術 で 開発 したと 生 徒 に 虚 偽 の 教 育 を し て い る の で す

最初 に 書 いたように 韓国人 とは、良 いことは 全 て 自分 の 手柄 に し、悪 いことはすべて 外国 や 他人 のせいにするという 民 族 的 悪 癖 を 持 つ 国民 なのです。浦項製鉄所 を ゼ ロ から 立 ち 上 げて 韓国人 に 高炉 の 建設 や、製鉄 の 技術指導 を 長期間 おこなった 新日鉄 の 技術者達 も、韓国人 から 感謝 の 言葉 を 言 われたことは、唯 の 一度 もなかったと 述 べま した。

それだけではありません、事実 を 歪 曲 し ウ ソ で 塗 り 固 め た 教科書 で 教育 を 受 けた 韓国 の 若者達 は 浦項製鉄所 の 自慢 を しても それが 日本 の 経済、技術援助 によって 作 られたことを 全 く知 らず、事実 の 指摘 に 対 しては 妄 言 ( で た ら め ) と 答 えたそうです。

一方日本 では、この 頁 の [ 1 : 歴史 を 道具 に 使用 すること ] で 述 べた 如 く、従軍慰安婦の ウ ソ  を 教科書 で 教 えても、日本 が 韓国 の 戦後 の 産業経済 の 発展 に 大 き く 貢献 した 事実 を、日本 の 教科書 では 全 く 教 えて いないのです。このことに 皆 さんは 疑問 を 感 じませんか?。


[ 11 : 朝 鮮 民 族 と し て の 反 省 の 欠 如 ]

韓国 の 歴史教科書 を 読 み 終 わって 感 じたことは、日本 の 功 を 無視 してひたすら 冷酷無慈悲 な 「 加 害 者 」 に 仕立 て、その 反面 自分 たちを 日帝 の 支配 に 抵抗 し、 懸 命 に 国 の 独 立 を 図 り、国 家 を 発 展 に 導 い た 健 気 な 「 被 害 者 」 と 位置付 けて、歴史 を ウ ソ と 歪 ん だ 愛 国 心 で 脚 色 したもので した。

教科書 の 記述 にある 如 く、も し 朝鮮 が 昔 から 立派 な 国 であ り、多数 の 英雄、義士 が 出現 し、優 れた 文 化 を 持 つ 国民 で 成 り 立 つて いたのであれば、 なぜ 400 年 間 も 中 国 の 属 国 の 地位 に 甘 ん じ、時代錯誤 の 中華思想 を 信奉 し、国 の 近代化 を 怠 り、周辺諸国 からは 世界 における 最貧弱国 と 蔑 視 され、ついには 日本 の 植民地支配 を 受 けるに 至 ったので しょうか?。

そのような 事態 を 招 き、屈 辱 をもたら した 原 因 の 究 明 と、それに対する 朝 鮮 民 族 と し て の 反 省 が、この 教科書 では 完 全 に 欠 落 し て い ま し た

これこそ 彼等 が 日本 に 対 して よ く 口 に した、過去 の 歴史 から 学 ぼうとせず、過去 を 直視 しない 行為 の、 ま た と な い 見 本そ の も の で し た


[ 12 : 韓 国 の 歴 史 教 科 書 が ウ ソ を 教 え る 本 当 の 理 由 ]

はっきり 言 えば 古代史 において 唐 と 戦 って 敗 れた 高句麗 の 悲劇 以外 に、 朝 鮮 半 島 に は 国 民 が 誇 る べ き 歴 史 が 存 在 し な か っ た か ら で す 。 歴史書 についても 12 世紀以前 には 歴史書 が 存在 せず、日本 に 仏教文化 などをもたらしたことも 韓国人 は、日本書紀 ( 720 年成立 )の記述 から 知 り 得 たことであり、源氏物語 のように 10 世紀末 の 民族 の 文化伝統 に基 づ く、古典文学 も 朝鮮半島 にはありませんで した。

古 くから 中国 に 屈服 し、豊臣秀吉 の 朝鮮 征伐 を 受 け、その 後 は 400 年間 も 明朝、清朝 の 属国 の 地位 に 甘 ん じ、 自力 では 国 の 近代化 をな し 得 なかった 為 に 帝政 ロ シ ア の 侵略 を 受 け、自力 では 独立 を 維持 できなかったが 為 に 国際的承認 のもとに 日韓併合 された 真 実 の 歴 史 があ りま した。

日本 の 敗戦 により 自力 によってではなく、 棚 か ら ボ タ 餅 式 に 独立が与えられた  真 実 の 歴 史 は、韓国人 にとって 屈 辱 の 歴 史 で し か あ り ま せ ん で し た

その為に自らを  偽 りの 方法 で 自尊心 を 満足 させ 青少年 に 希望 を 与 える 為 に、真 実 とは 大 き く 異 な る ね つ 造 し 歪 曲 した 虚 偽 の 歴 史 を 、国定 の 教科書 で 生徒 たちに 懸命 に 教 え 込 んでいるのです 日本 よりも 優位 に 立 つためなら、また 愛国心 のためなら、 どんな ウ ソ をついてもかまわない と 彼 らは 思 って いるのです。


[ 13 : 教科書問題 についての 今 後 の 対 応 策 ]

二つの 選択肢 があ りますが、その 内 の 一つの 方法 とは、歴史 をどのように 教科書 で 教 えるのかは、その 国 の 内 政 問 題( Question of Internal Affairs )であ り、韓国 の 抗議、訂正要求 に 対 しては 内政不干渉 の 原則 を 盾 に、断固 と し た 態度 で 拒否 することです。

注:)内政不干渉の原則
一国 の 内政問題 は それぞれの 国家 の 自由 に 委 ねられており、他国 はこれに 干渉 してはならないとする 国際法上 の 原則 のこと。

参考までに 歴 史 認 識 の 件 についても、国 が 違 えば 歴史 に 対 する 考 え 方 が 異 なるのは 至極当然 のことで、例 えば 朝鮮戦争 に 対 する 認識 ひとつ 採 り 上 げてみても、中国 の 教科書 では アメリカ 帝国主義 に 対 する 正義 の 戦 いであ り、一方 韓国 では 侵略戦争 とみな し、完全 に 食 い 違 って います。韓国 や 中国 が 主張 する 歴史認識 とは 前述 の 如 く、 彼等 の 歴史観 を 日本 に 押 しつけようとす ものに 他 な りません。ヨーロッパ の 格言 に

正 義 は 国 の 数 だ け 存 在 す る 。また 一 国 の 英雄 は 他国 では 侵略者。
というのがありま したが、 マケドニア の アレキサンダー 大王( Aleksandros、B C 356 〜 B C 323 年 )や、フランス の ナポレオン 一世( 1769〜1821 年 )の 例 を 見 ればうなずけます。

日本でも 大阪 の 天王寺区 に 住 んでいた 日本人 の 原 敕 晁 ( ただあき ) さん 当 時 43 才 を、宮崎 の 海岸 から 拉致した 後 で 本人 になりすまし、北朝鮮 の ス パ イ と して 日本、韓国で ス パ イ 活動 に 長年従事 して 韓国 で 逮捕 され、死刑 の 判決 を 受けた 辛 光 洙 ( シ ン ・ ガ ン ス ) が いま した。

彼は スパイ の 相互交換 で 北朝鮮 に 帰国後 は 英 雄 と し て 表 彰 さ れ 、国旗勲章 1 級 を 授与 されま した。しか し 彼 によって 拉致 された 原 さんは、未 だに 行方 不明 です。ところで 北朝鮮 との 国交正常化後 には 北朝鮮 の 国民感情 に 配慮 して 、拉致犯人 の 辛光洙 ( シン ・ ガンス ) を、北朝鮮 と 同様 に 英雄扱 いにするので しょうか?。

二つ 目 の 方法 と しては 日本 も 攻撃 に 転 じ、韓国 の 歴史教科書 の ウ ソ や 間違 いを 洗 いざらい 指摘 し、外交交渉 の 場 で 正式 に 訂正 を 要求 することです。

日本 が 断固 たる 態度 で 訂正 を 要求 し、しかも 執拗 に 繰 り 返 すことによ り、不毛 の 訂正要求 と 非難 の 応酬合戦 を互 いに 延々 と 続けることになりますが、韓国 を して、国際間 になぜ 内 政 不 干 渉 の 原 則 が 存 在 す る の か、そ の 存 在 理 由 を 思 い 知 らせると共に、相手 の 国内問題 に 干渉 することの 愚 か さ を 韓 国 に 悟 ら せ る ことです。

日本の教科書作りについて、今後は韓国のような 大 ウ ソ は教えなくても、日本なりの方針に従い普通の国のように堂々と愛国心を育てる方針で、教科書を作るべきであると思います。

その 為 には 日本 が 朝鮮半島 で 果 た した 文明開化 の 役 割 や、 文 盲 だ っ た 朝 鮮 人 一 般 大 衆 の 為 に 、近代的 な 学校教育制度 を 導入 したこと。 数百年間 支配階級 により 拒否 されてきた ハ ン グ ル ( 朝 鮮 文 字 ) を 広 めたのは 日本 であったこと

韓国 における 戦後 の 経済産業 の 発展 に 日本 が 大 き く 貢献 した 事実 を、日本 の 生徒 に 教科書 で 是非教 えなければならないと 考 えます。


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