朝鮮における従軍慰安婦(その1)


この問題に対する私の主張、
「 軍人相手の朝鮮人 売春婦 は存在した。しかし日本軍や国家が物理的強制力 ( いわゆる奴隷狩り ) により、慰安婦にした事実は存在しない。
[ その根拠とは ]

いわゆる奴隷狩り ( 強制的 ) により従軍慰安婦にさせられたと左翼 マスコミや反日主義者、在日が主張した従軍慰安婦を巡る裁判では、韓国の主張によれば被害者が 7 万〜 20 万人も いたはず(?)なのに、肉親を含めて 奴隷狩りの目撃証人が今日に至るまで、 1 人も裁判に出廷しなかったからです。

[ 目撃証人の不在 ]

なぜ目撃証人が出廷しなかったのか?。その理由は奴隷狩りの犯行自体が本来存在せず、従って目撃証人も 存在しなかった のは当然のことでした。奴隷狩りの話は日本と日本人の名誉を失墜させるのを目的とした、 作り話だった のです。

7 万〜20 万人も被害者がいたというのに、目撃者が 1 人もいない犯行 など貴方は信じますか?。 私は 合理性が全く無い ので、信じませんが。

更に付け加えると クリミヤ戦争 ( 1853 年 ) 当時戦地で傷病兵の看護に従事し、以後赤十字の基礎を作った英国の ナイチンゲールのような 従軍看護婦 という名称や言葉はありましたが、従軍慰安婦という言葉は当時存在しませんでした。

反日左翼主義者によりその言葉が 創作された のは 1973 年 ( 昭和 48 年 ) のことであり、その後 吉田清治が書いた 「 でたらめ本 」 が偏向 マスコミにより宣伝されたのは、 1983 年 ( 昭和 58 年 ) のことでした。戦前から敗戦までの日本に、なぜその言葉が無かったのか?。そういう職業に従事した日本人も朝鮮人も、 軍人相手の女郎 ( 売春婦 ) と呼ばれていたからでした。

奴隷狩りの体験談を マスコミに証言した男の 虚偽と欺瞞 に満ちた話や、反日左翼主義者に利用され従軍慰安婦裁判の原告第 1号に、無理やり仕立てられた女性の物語を、 従軍慰安婦教 の信者 の方は その信仰心 をひとまず脇に置いて、以下の事実を 客観的に判断しながら お読み下さい。

[ 1: 吉田清治という ウソつき ]

吉田清治の顔写真 吉田清治という名前を聞いたことがありますか?。従軍慰安婦問題に少しでも関心があった人であれば、聞いたことがあるはずです。かつては山口県労務報国会の 「 動員部長 」 として従軍慰安婦集めの奴隷狩りを済州島で彼自身おこなったと告白し、マスコミにも採り上げられて報道され、テレビにもたびたび出演しました。

それだけでなく 「 朝鮮人慰安婦と日本人 」 ( 昭和 52 年刊行 )及び 「 私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行 」 ( 昭和 58 年刊行 )の 2 冊の本を出版し、彼が強制連行した女性は 950 人 に達すると述べました。事件現場 (?) の済州島ではなく、韓国本土を訪れていわゆる従軍慰安婦(?)に土下座をして謝罪するなどして マスコミの話題になり、一時は従軍慰安婦問題の 「 キーマン 、最重要人物 」 となりました。


[ 2 : 済州島の慰安婦奴隷狩り ]

「 私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行 」 の中から、ただ一箇所、時と場所が特定できる済州島における昭和 1 8年 ( 1943 年 ) 5 月に 205 名 の若い女性を、従軍慰安婦にする為に奴隷狩りをした際の記述を紹介します。
私は直ちに部落内の狩り出しを命じた。路地に沿って石塀を張りめぐらせた民家は戸が閉まっていて、木剣を持った兵隊が戸を開けて踏み込んで女を捜し始めた。

( 労務報国会 ) 隊員や兵隊達は 二人 1 組になって、泣き叫ぶ女を両側から囲んで、次々に路地へ引きずり出してきた。若い女性ばかり 8 人を捕らえていた。( 以下省略 )

従軍慰安婦の奴隷狩りについて、加害者側の 生き証人(?) の出現に、 朝日新聞は鬼の首でも取ったように喜びました 。そして、

  1. 平成 2 年( 1990 年 )6 月 19 日の 朝刊の社会面の大見出し にして報道し、

  2. その後も平成 3 年 5月 22 日。

  3. 同年 10 月 10 日。

  4. 平成 4 年 1 月 2 3日( 夕刊、北畠論説委員の コラム 「 窓 」の エッセー )。

  5. 同年 5 月 24 日。

と吉田証言に基づく 「 奴隷狩り 」 を真実として 5 回も報道し、テレビ朝日にも出演させました。


[ 3 : 現地調査で明らかにされた真実 ]

秦教授

吉田の話に疑問を抱いた千葉大学の秦郁彦教授が済州島に赴き現地調査をした結果、彼の証言 ( 本に書き、テレビ、講演で話した内容 )は、全くの「 作り話 」であることが判明しました。

( 3−1、 地元済州新聞記者の証言 )

済州新聞の許栄善記者が1989 年( 平成 元年 )8 月 14 日付けの新聞に、吉田の本の内容を裏付け調査した結果を署名入りで記事を書きましたが、見出しは日帝 「 済州島で慰安婦 205 名徴発」、 住民達は 「 ねつ造 」、日本の恥知らずの商魂に憤慨 でした。

この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と論評していましたが、後日当該記者と面会した秦教授は 「 なんでこんな作り話を本に書くのでしょうか ?。」 と質問され、答えに窮しました。更に記事の中で

  • 島内の城山里の住民の チョン ・オク ・ タン ( 85 才の女性 )によれば、「 250 軒しかないこの村で若い女性を 15 人 も強制徴発したとすれば大事件ですが、その当時そんな事実は無かった 」 と断言しました。

  • 郷土史家の金泰玉氏も 「1983 年 ( 昭和 58 年 )に日本語版が出てから、何年も追跡調査をした結果、事実ではないことを発見した。」 と述べました。


( 3−2、済州島憲兵分駐所長の証言 )

かつて済州島の憲兵分駐所長として駐在した北原時雄准尉は、平成 6 年 ( 1994 年 )9 月 17 日に 「 強制連行の ウワサ すらその当時は無かった 」 と証言していました。

( 3−3、地元民の証言 )

秦教授自身、平成 4 年 ( 1992 年 )3 月に現地を訪れ、城山浦の老人 クラブで、植民地当時 4〜5 ヶ 所あった貝 ボタン工場の元組合員など、 5 人の老人と話し合って、吉田証言の虚構を確認しました。


( 3−4、まぼろしの妻の日記 )

昭和 18 年 5 月におこなった済州島における 「 慰安婦狩りの命令書 」については、陸軍の西部軍管区司令部の中尉が持参したもので、「 家内の日記の中に命令書を書き写したものがあった 」 と吉田は著作で述べていましたが、別の箇所では結婚したのは 昭和 19 年 2 月 上旬と書いてありました。自分の結婚した時期を間違う者がいるでしょうか?。

未だ結婚していない女房が、日記に書き写したことになります。口から出まかせの 「 作り話 」をした結果であり、唯一の物的証拠となる 「 家内の日記 」 なるものは、要求に応じず遂に誰にも見せませんでした。もともと実在しない 「 日記 」 など、見せられるはずがありません。


( 3−5、立場の異なる側からの見解 )

日本軍 「 従軍慰安婦 」 を追っての著者で、慰安婦の強制連行 「 あり派 」の 西野留美子 によれば、「 吉田証言の持つ意味は大きい。だからこそ彼の話の裏付けを取ろうと追跡調査を試みた人はいる。そしてその調査の結果は 吉田証言は信憑性に欠けるというものであった。 」 ( 70 頁参照 )


( 3−6、吉田自身の言葉 )

電話による インタービューに答えて、

「 本に真実を書いても何の利益もない。 事実を隠し自分の主張を混ぜて書く なんていうのは、新聞だってやるじゃないか 」
平成 8 年 ( 1996年 )5 月 29 日付の週刊新潮、参照。


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旧長崎刑務所

彼は職業的 「 詐話師 」 で、従軍慰安婦集めの奴隷狩りをしたどころか、左の写真にある旧長崎刑務所に昭和 15 年から 17 年 6 月まで 2 年間服役していた事実 も判明しました。内務省 ( 現、自治省 )の官吏に準じる県の労務報国会の動員部長に、 刑務所から出所して 11 ヶ月後の 前科がある彼 がなれるはずがなく、戦後は下関市の市会議員に共産党から立候補したが落選しました。

それまで彼を従軍慰安婦問題追求の柱に利用して来た左翼系支援者や、朝日を初めとする偏向 マスコミも、証言の ウソ が次第に判明してからは利用価値を失い、今では彼等によって意図的に完全に無視されています。

しかし彼の話を基に日本を貶 ( おとし ) める目的で、代筆作家によって書かれた彼の本は、その後 オーストラリア人の George Hicks が The Comfort Women ( 慰安婦 ) を書く際に、種本としても利用されました。

そして吉田の著書は今も全国の図書館の従軍慰安婦を扱う本棚に置かれたままで、事情を知らない人達に貸し出され読まれています。 納得できないのは 朝日新聞 の態度 で、三菱自動車の 「 車体の欠陥隠し 」 を厳しく批判しながら、自社が 5 回に亘り 事実に反した事柄を報道し、日本および日本人の国際的名誉を傷付けた にもかかわらず、その誤ちを隠蔽し謝罪せず、記事の訂正もしていません。

吉田は後になって、秦教授から 「 強制連行の件は小説でしたと声明を出しませんか ?。」と勧められましたが、「 私にも プライド があるし、そのままにしておきましょう 」と証言が真実か否かの点には触れずに、彼自身の プライドの問題にすり替えて答えました。


[ 4 : 慰安婦探しの韓国行脚 ] 

日本や日本軍に従軍慰安婦の強制性 ( 奴隷狩り ) の責任を是が非でも負わせようとする 信仰心(?) の厚い左翼の反日 グループが、裁判の原告を求めて韓国に慰安婦探しの行脚に出かけました。 日本を誹謗中傷する為ならどんな ウソ でも平気でつく 韓国 の主張では、 7 万〜20 万人  も従軍慰安婦が存在したはずでしたが、見つからず苦労の末ようやく見つけたのが 金学順 という元日本兵相手に売春をしていた経歴を持つ女性でした。

嫌がる彼女に高額の金を与え日本に連れてきて 、従軍慰安婦裁判の原告第 1 号に据えました。ところが法廷で明らかにされた彼女の経歴は、


( 4−1、原告第 1 号の物語とは )

金学順

大正 12 年 ( 1923 年 に生まれた彼女は貧困のため小学校を 4 年で中退し、14 才で養父に 40 円で キーセン( 妓生という名称の公娼 ・ 売春婦 に売られ、昭和 14 年 ( 1939 年 )に 19 才で 「 金儲けができる 」 と言われて養父に連れられて中国に渡った。

鉄壁鎮で養父と別れて慰安所に入れられ、日本軍兵士の為の性 サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人( 趙 )に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。

フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活し、2 人の子供を得て終戦の翌年、韓国へ帰った。朝鮮戦争中に夫は事故で死亡し、子供も病死し、韓国中を転々としながら酒、たばこを飲むような生活を送った。

身寄りの無い現在は政府から生活保護を受けている。人生の不幸は軍隊の慰安婦を強いられたことから始まったので、日本政府は謝罪すべきである。

以上を読んで彼女の人生には同情しますが、これがいわゆる強制連行されたと主張する、 従軍慰安婦裁判の原告第 1 号だとは呆れ果てました。一体何に対して日本政府は、謝罪せよと言うのでしょうか?。貧乏な親に 40 円で売られた娘が売春婦として生活し、後により多く金を稼ぐために 「 鞍替え 」 ( くらがえ、売春婦などが勤め場所を替えること )して、日本の軍人相手に売春をしただけの話です。


( 4−2、裁判の結果、強制連行が否定された )

このような例は朝鮮に限らず戦前の日本の農村に行けば、 どこにでもあった話 でした。日本人の女郎 ( 売春婦 )でも国内、海外で軍人を客にした者は、政府に責任があるので謝罪や補償をしろと言うのと、同じことです。金学順の件について国や軍隊による物理的強制が、どこにも存在しなかったことは裁判所の判断でも明白になりました。

反日左翼主義者や 一部の偏向 マスコミは、従軍慰安婦に対する 「 物理的強制が裁判で否定 」 されると、次には主張を変更して 心理的強制 があったと言うようになりました。

好き好んで人類最古の職業である売春婦になる人は、滅多にいません。そこには程度の差こそあれ、日本の貧農の娘も、韓国の金学順も、売春婦になるには心理的強制があったであろうことは否定しません。しかし、

その責任は彼女達を金銭の為に売った親や、手数料を取って人身売買の斡旋仲介をした女衒 ( ぜげん ) と、金を払って女性の身柄を購入した売春宿の経営者にあり、以上の多くは 朝鮮人 でした。従って責任を追及するのであれば雇用主の立場に無い、日本の軍隊や国ではなく、親を含めた 朝鮮人の責任を追及 すべきと考えます。

さらに 「 心理的強制 」 について問題にするのであれば、最近 ( 平成 16 年 ) 韓国で有名人の兵役逃れが数多く発覚しましたが、喜んで兵役義務に服する者は滅多にいません。従って 韓国、中国、北朝鮮における徴兵制度も 「 心理的強制 」 の産物であり、反日左翼主義者の理屈によれば 人権侵害に該当する ため、彼等はこれらの国の徴兵制度廃止を 主張 しなければなりません。

それによって北朝鮮の 110 万 、韓国の 70 万 、中国における 260 万 の兵力も志願兵だけとなり、必然的に兵力の大幅減少をもたらすので、東 アジアの軍事的緊張が大幅に緩和され結構なことです。


( 4−3、遺族会幹部と朝日新聞記者のつながり )

在韓日本大使館勤務 ・ 現代コリア編集長 ・ 東京キリスト教大学教授の経歴を持つ西岡力 ( つとむ ) が書いた 「 よくわかる慰安婦問題 」 によれば、韓国に 「 太平洋戦争被害者遺族会 」 という団体がありますが、その常任理事だった 梁順任という女性の娘と朝日新聞の記者  植村隆が結婚していました 。さらに、この慰安婦問題を主として書いていたのが植村記者でした

つまり義理の母親たちが起こした前述の金学順の裁判を有利にするために、養父に キーセン ( 公娼 ) に身売りされた娘を、強制連行されたと ねつ造記事 を書いた ことになります。西岡力が義理の母親に会って質問したところ、娘が朝日新聞の植村隆と結婚していることを認めました。真実を報道すべき ジャーナリストとして、虚偽の事柄を報道したことは モラルの点で非難されなければなりません。


[ 5 : 売春は韓国の伝統産業 ]

韓国の歴史をみれば新羅、高麗の頃から中国に、「 貢女 ( こうじょ )、貢ぎ物の女性 」 と称して宮廷慰安婦を献上してきました。売春は韓国にとって伝統的産業であり、昭和 50 年代までは ソウルの シェラトン ・ ウオーカーヒル ・ ホテル では米軍兵士を相手に公然と政府が管理して売春をおこなわせていました。通用した貨幣は米軍の軍票だけで、韓国政府が売春婦に顔写真付きの売春許可証 ( ライセンス ) を発行し、売春を管理したことは余りにも有名でした。

外人相手の キーセン ・ パーテイ 、売春なども、外貨獲得の為の有力な国策で、国際的にも悪評高い 売春立国 でした。

日本では売春禁止法は昭和 33 年( 1958 年 )に施行されましたが、韓国では日本に遅れること 46 年目 にして 今年 ( 平成 16 年 )から、ようやく売春取締法が施行 されました。

買春すると 1 年以下の懲役又は 300 万 ウオン( 30 万円 )の罰金だそうで、それを目当ての海外からの観光客が減ることが予想されますが、売春婦達は ブローカーに 300 万 ウオン〜400 万 ウオン( 30 万円〜40 万円 ) の手数料を払い、日本の風俗店に流入する者が増加するので、日本の当局も警戒しているとのことでした。韓国の中央日報の日本語版 ( 平成 16 年 10 月 11 日付 )によれば、
デモの売春婦

韓国では売春女性 2,800 名 が先月( 平成 16 年 9 月 )から施行された売春取締法に反対する集会を、首都 ソウルの国会前で開いた。

マスクや帽子で顔を隠した女性達は、 私たちも職業女性だ 、生計を維持する権利を保障しろ、 売春を無条件に禁止せずに 、法で区域を定めて管理しろ 。

と要求しました。

韓国の女性団体に依れば韓国では、売春宿、理髪店、マッサージ ・ パーラー、カラオケ ・ バーなどに 数十万人の売春婦がいる とされ、韓国の性産業の規模は G D P ( 国内総生産額 ) の 4 パーセント以上になり、統計によれば 20 才から 30 才までの韓国女性の 4 パーセントが性産業に従事している 。とのことでした。道理で多くの韓国人女性が来日しては不法滞在し、風俗産業に従事している理由も納得できました。

前述の如く戦前から朝鮮では売春が普遍的な職業、社会習慣であったため売春婦が多く、日本軍が物理的強制力で慰安婦狩りをする必要性など、全くありませんでした。


[ 6 : 根拠は、証人、証拠のない 本人の話だけ ]

いやしくも国家や日本民族に従軍慰安婦の 「 奴隷狩り、強制連行の汚名 を着せるには、本人の証言だけでなく、それを補うための 客観的証拠が必要です。

前述のように強制的に従軍慰安婦にさせられたと称する被害者が韓国に 7 万〜20 万人も存在したのであれば、 強制連行の目撃者 はその何倍もいたはずです。しかし 現在に至るまで証人となるべき 1 人の目撃者も、裁判の法廷には出廷しないのです

日本からわざわざ裁判の原告探しに行きながら、その証言が内容的にも証拠上からも到底裁判に耐えられない原告第 1 号の 金学順のような者ではなく、もっと 「 ましな原告 」を探して来るべきでした。前述の秦教授が裁判の原告担当の高木弁護士にその旨を述べたところ、もっと 「 良い原告 」 を探している最中であると述べたそうです。裁判の目的が彼女達の為ではなく、それを 政治目的に利用する ことにある証拠です。


[ 7 : こんな 慰安婦物語 を信じますか ? ]

平成 4 年( 1992 年 ) 3 月 2 日に参議院議員会館でこの問題の 「 日韓交流集会 」 が開かれましたが、 赤旗 に掲載された従軍慰安婦、沈美子( シム ・ ミジャン )の話によれば、( 吉川春子著「 従軍慰安婦 」の 20 頁から引用 )

昭和 1 5年( 1940 年 ) 16 才の時に、学校で担任の日本人の先生から日本地図を「 刺繍、ししゅう 」で埋めるようにいわれ提出した。数日後呼び出され警察の幹部から、日本の国花は桜なのに「 朝顔 」を 「 刺しゅう 」 しているのは思想が怪しいと言われ警察に連行された。

宿直室でその警官に強姦され、抵抗すると報復に 「 焼き ゴテ 」で左の肩を焼いた。その傷は今も残っている。気を失って、 気が付いたら福岡であった。そして従軍慰安婦にさせられた。


[ 8 : 慰安婦物語の 検証 ]

( 8−1、関釜連絡船における警備状況 )

前述した 「 西野留美子の著書 」 には、大東亜戦争が始まってから下関警察署の警部 ( 警備ではな い)課長をしていた、特高警察官 「 石田操 」 に インタービューした際の話があります。( 78 頁参照 )

特高警察というのは思想警察。言動を観察したり持ち物を調べたりすることじゃった。とても厳しい時じゃったから、 朝鮮から船で来る朝鮮人もよう調べましたよ

わしも船に乗ってね。持ち物検査もしよったです。どういう本をもっているか。マルクスの本をもってないか。爆弾みたいな物は持っていないか調べたわけです。 船には、下関の特高だけでなく、朝鮮の釜山警察からも乗ってきおった。毎日船に乗っておった。

( 8−2、失神時間の長さについて )

関釜フェリー

現在韓国の釜山 ( ふざん ) と山口県の下関との間を運航する高速艇を除く、 関釜 ( かんぷ ) フェリー 2 社 ( 日本と韓国の会社 ) の所要時間は、 13 時間半〜14 時間 ですが、 64 年前 にはさらに時間が掛かっていたに違いありません。

となるとその航海時間 プラス、事件現場から釜山港までの移動時間と乗下船の時間、及び下船地の下関から福岡までの移動時間を加えた時間は 少なく見積もっても 30 時間以上掛かったはずです。その時間を強姦されただけの被害者の女性は、ずっと気を失っていたことになりますが、そのようなことが常識で考えられますか?。

平成 16年 11 月に グループ代表者で早稲田大学生だった 和田真一郎が懲役 14年の実刑 に処せられた、イベント ・ サークル  ス−パー ・ フリー による女子大生集団強姦事件がありました。

この場合でも、 酒を飲まされて強姦された被害者達は、これほど長い間気を失ってはいませんでしたが シム ・ ミジャン の話は合理的に判断して、日本に来る過程を正当化する為に 明らかな ウソ があった ということです。


( 8−3、警戒、検査のすり抜け )

更に警察官による前述の厳しい警戒の下で 気絶したままの 16 才の女性を 、下関と釜山の間を結ぶ「 関釜( かんぷ )連絡船 」の乗船時、船内、下船時の厳しい検査をすり抜けて、福岡に運ぶことなど到底不可能なことです。

以上のことから合理的に判断して彼女の話した内容が、 虚偽の作り話 であることは間違いありません。共産主義の イデオロギー に染まり、正常な判断力が欠落した参議院議員の著者は、哀れなことにその ウソ を見抜くことができずに、少しも疑問を感じなかったのでした。

この著書に限らず韓国における反日思想の影響を受けて、日本軍が駐屯したことがない地域からも従軍慰安婦と称する者が現れるのです。

「 日本人からの依頼により韓国人女性が 売春婦( 従軍慰安婦 )にさせられたとする体験談 を語れば、内容について ウソ か真実かの判断、検証もせず、子供のように無邪気に、無批判に、鬼の首でも取ったように喜び、「 強制連行され、無理やり売春婦に−−− 」という 筋書き を頭から信じ込む日本人が大勢いるのです。

「 従軍慰安婦物語の宣伝協力者 」 の多くは吉田清治の場合と同様に、それが事実であろうと無かろうと、 政治目的の 「 宣伝 」 に利用しようとした反日左翼主義者たちでした。

人権うんぬんを主張するのであれば、彼等が言うところの従軍慰安婦には日本人も大勢いましたが、 日本人売春婦の人権 について 反日左翼主義者の口からは、それを聞いたことがありません。彼等が唱える人権とは、その程度の レベル、内容 なのです。


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