宦 官 の 歴 史 に つ い て ( 続 き )


警告 !  こ こ に は、著 し く 不 快 感 を 与 え る お そ れ の あ る 写 真 や 表 現 が あ り ま す。 見 た く な い 人 は、 H. P. を読 ま な い で 下 さ い。

[ 4 : 去 勢 の 方 法 に つ い て ]

私が 宮 刑 ( き ゅ う け い 、男 性 器 切 除 の 刑 罰 ) について 知 ったのは、学 生 時 代 に 中国 の 歴史書 「 史 記 」 の 著者 である 司 馬 遷 ( し ば せ ん、紀元前 145 年 ? ~ 紀元前 ? ) の 伝 記 を 読 んだ 時 のことで した。( 彼 につ いては、第 7-2 項 で 後 述 します )

宮刑 については、

「 丈 夫 ( じ ょ う ふ、一 人 前 の 男 子 ) は そ の 勢 ( 性 ) を 割 ( き ) り、女 子 は 宮 中 に 閉 ず 」

とありま したが、去 勢 の 方 法 は 国 によ り、時代 によ り 異 なって いま した。

  1. 古 代 エ ジ プ ト では、手術者 は 僧 侶 で あった。は じめ に 細 い 強 い 毛 糸 で 男 性 器 一 式 を 結 び、剃 刀 ( か み そ り ) で、 結 んだ 箇 所 から 先 を 切 り 取 っ たといわれて いる。

    出血 は 灰 や 熱 い 油 などで 止 められ、また 尿 道 には 金 属 製 の 棒 が 入 れられた。その後 ヘ ソ の 部 分 まで 熱 い 砂 の 中 に 埋 められ、そ の まま 5 ~ 6 日 置 かれると い う 乱 暴 なもので、 死 亡 率 は 6 0 パ ー セ ン ト におよんだ。

  2. 南 イ ン ド でも 同 じようであったか、もう少 し 技 術 が 進 んで いた。まず 陶 器 の 腰 掛 けに 座 らせたのち、事前 に 麻 酔 薬 の 「 ア ヘ ン 」 が 使 用 された 。男 性 器 は 竹 片 に 挟 ( は さ ) まれ、剃 刀 を 竹 に 沿 って 滑 ら して 切 断 する。傷 口 には 熱 い 種 子 油 ( タ ネ あ ぶ ら ) が 注 がれ、油 を ひ た した 布 が 当 てられる。

    被 手 術 者 は 仰 向 けに 寝 た ま ま で 牛 乳 で 栄 養 を 付 けるが、ほとんど 失 敗 な く 傷 が 癒 ( い ) えた と いう。

  3. 中 国 につ いては、日清戦争 ( 1894 ~ 1895 年 ) 以前 の 、1870 ~1880 年 代 に 北 京 で 取 材 した 前 述 の ス テ ン ト ( S t e n t ) の 資 料 によれば、去 勢 手 術 の 方法 は まず 白 い 紐 ( ひ も ) あ る い は 繃 帯 ( ほ う た い ) で、 被 手 術 者 の 下 腹 部 と 股 の 上 部 辺 りを 固 く し ば る。

    去勢用メス

    男性器 の 切 断 を お こ な う 辺 り を 熱 い 胡 椒 湯 ( こ し ょ う ゆ ) で 三 度 念 入 り に 洗 っ た のち、鎌 状 ( か ま じ ょ う ) に 少 し 湾 曲 した 小 さ い 刃 物 ( 右 の 写 真 ) で、 陰 茎 ( ピ - ニ ス、p e n i s ) ・ 陰 嚢 ( ス ク ロ ウ タ ム、s c r o t u m ) を 一 緒 に 切 り 落 とす。

    陰茎・陰嚢切除

    左 の 写真 は、 北京 にある 宦 官 文 化 博 物 館 にある 「 去 勢 手 術 中 の 像 」 で、天 井 の 滑 車 を 通 した 細 い ロ ー プ で 陰 茎 ・ 陰 嚢 を 結 んで 上方 に 引 き 上 げる 力 を 加 え て お き、そこを 切 断 する。

    そのあと 白 鑞 ( は く ろ う ) の 針 または 栓 を 尿 道 に 挿 入 し、傷 は 冷 水 に 浸 した 紙 で 覆 い 注 意 深 く 包 む。それが 終 わると 二人 の 執刀者 に 抱 えられて 被手術者 は 2 ~ 3 時間 部屋 を 歩 きまわ り 、後に 横 臥 ( お う が ) を 許 される。手術後 3 日間 は 飲 水 は 許 されず、喉 の 渇 ( か わ ) き と 傷 の 痛 み の た め、その間 非 常 な 苦 痛 を 味 わうと いう。


( 4-1、 宦 官 の 宝 も の )

前述 した ス テ ン ト が 長 年 の 資 料 を 調 査 した 結 果 によれば、去 勢 手 術 により 3 0 歳 の 男 子 一 人 が 死 亡 しただけで した。なお 切 除 した 陰 茎 ・ 陰 嚢 を 「 宝 」 も し くは 「 宝 貝 」 と 呼 び、貯蔵用 の 加 工 を 施 して 約 三 合 ( 540 ミリ リットル ) 入 る 容 器 に 密 閉 して、高 い 棚 に 安 置 して お く とのことで した。

これを 高 勝 ( ガ オ セ ン、高 位 に 昇 進 す る こ と ) と 呼 びますが、元 の 所有者 である 宦 官 が 出 世 することを 象 ( か た ど ) ったものであると いわれて います。

この 「 お 宝 」 を 保 存 するのは、以下 の 二 つの 理由 によるも の です。

  1. 宦 官 になって 階 級 が 上 がる 際 に、 験 宝 ( け ん ぽ う ) と 称 して 宦 官 の 長 に 「 自分 の お 宝 」 を 見 せなければならな いこと。これが 無 ければ 昇 進 は 不可能 で した。

  2. 第 二 の 理由 は 宦 官 が 死 んだ 際 には、 「 お 宝 」 を 肉 体 の か つ て 存 在 し た 位 置 に 戻 してから 「 納 棺 」 してもら いま したが、それは 宦 官 たちが あ の 世 に 旅 立 つに 当 たって、本来 の 男性 の 姿 に 戻 ることを 望 んだからで した。こう しておけば 来 世 には、もとの 満足 な 体 に 生 まれ 変 わ り、 栄 華 富 貴 ( え い が ふ う き ) の 生 活 が 得 られると 信 じて いま した。


( 4-2、 宦 官 は、国 が 乱 れ る も と )

宦 官 は 常 に 皇 帝 や 君 主 の 傍 に いるために 重 用 されて 政 権 を 左 右 することも 多 く 、中 国 では 秦 ( し ん 、紀元前 221 ~前 206 年 ) ・ 後 漢 ( ご か ん、25 ~ 220 年 ) ・ 唐 ( と う、618 ~ 907 年 ) ・ 明 ( み ん、1368 ~ 1644 年 ) の 時代 に は 、主 君 の 寵 愛 ( ち ょ う あ い ) を 傘 に 着 て 宦 官 の 専 横 が 顕 著 ( け ん ち ょ ) とな り 、 国 が 乱 れ、滅 び る 原 因 を もたら しま した。

鎌 倉 時 代 ( 1192 ~ 1333 年 ) に 成 立 し た 平 家 物 語 ( 流 布 本 、る ふ ぼ ん ) の 冒 頭 文 によれば 、

遠 く 異 朝 を問 ( と ぶ ) ら ふ に、秦 の 趙 高 ( ち ょ う こ う、 宦 官 出 身 の 寵 臣 )、漢 の 王 莽 ( お う も う )、 梁 の 朱 忌 ( し ゅ き )、唐 の 禄 山 ( ろ く ざ ん )、これら は 皆、旧 主 先 皇 ( き ゅ う し ゅ せ ん こ う ) の 政 ( ま つ り ご と ) に も 従 はず、楽 し み を 極 め、諫 ( い さ め ) を も 思 ひ 入 れ ず、天下 の 乱 れん 事 をも 悟 らず して 、--

とあ りま した。


( 4-3、 家 畜 に 対 す る 去 勢 )

去 勢 は 本来 牛 や 馬 などの 牡 ( お す ) の 家 畜 に 施 ( ほ ど こ ) して、 気 が 荒 い 動 物 を 従 順 に して 扱 い 易 くするために 生 まれた 技 術 で した。 そのため、宦 官 は 牧 畜 文 化 を 持つ 国 に のみ 存在 するという 説 もあ りま した。

悍馬

戦国時代 に イ エ ズ ス 会 宣 教 師 と して 来 日 し 、日本 で 布 教 し 死 亡 した ポ ル ト ガ ル 人 の ル イ ス ・ フ ロ イ ス ( 1532 ~ 1597 年 ) によれば 、自 著 「 日 欧 文 化 比 較 」 の 中 で 馬 に 関 する 記 述 があ り 、そこでは 「 彼 ら ( 日 本 の 馬 ) は、 ひ ど く 暴 れ る 」 と 書 いて いま した。

当時 の 日本 には 牛 馬 の 去 勢 技 術 が 無 く、従 っ て 武 士 に とって は 、悍 馬 ( か ん ば、荒 々 し い 性 格 の 馬 ) を 乗 りこなすの も 武 芸 ( 馬 術 ) の 内 とされま した。 去 勢 し な い 牡 の 馬 の 場合 には、 気 性 が 激 し か ったことが 想 像 されます。

話 を 宦 官 の 件 に 戻 しますと、 日本 では 牧 畜 文 化 を 持 ちながら 中国 から 宦 官 制 度 を 導 入 せ ず 、明 治 になって か ら 初 めて 外 国 から 去 勢 技 術 を 取 り 入 れて 、 軍 馬 に 対 する 去 勢 をおこないま した

参考 までに、肉 牛 の 去 勢 方 法 を 動 画 で 御 覧 下 さ い。


肉 牛 の 去 勢


宦官 に 類 する者は 中国 だけでなく、古代 オ リ エ ン ト の 専制国家 にも 存在 していて、紀元前 8 世紀頃から 儒教 や イ ス ラ ム 文化圏 で 盛 んになり、エ ジ プ ト ・ ギ リ シ ャ や ロ ー マ にも 伝 わ りま した。

トルコの宦官

歴史的には、10 世紀以降、イ ス ラ ム 国家 の 宮廷 において 後 宮 ( こうきゅう、皇 后 や 妃 などの 住 む 宮殿 ) の 発 達が 著 し く 進 んだことに ともな い、 ハ レ ム ( h a r e m ) を 管 理 する 奴 隷 ( 宦 官 ) も 制度化 されるようになったと いわれて います。 写 真 は オ ス マ ン ト ル コ 帝 国 ( O t t o m a n - T u r k s 、1299~1922 年 )の 後 宮 ( ハ レ ム )で 働 く、 タ イ 人 の 宦 官 たちで 帽 子 が 特 徴。


[ 5 : 去 勢 さ れ た、 カ ト リ ッ ク 少 年 合 唱 団 ]

去勢

16 世紀 の イ タ リ ア では、教会 の 少 年 合 唱 団 に おける 美 し い ボ ー イ ・ ソ プ ラ ノ ( b o y - s o p r a n o ) 歌 手 に 仕 立 てるために、変声期 による「 声 変 わ り 」を 防 ぐ ために、第 二 次 性 徴 前 の 少 年 らに 去 勢 を 施 して いま した。

それにより 男 性 ホ ル モ ン の 分 泌 を 抑 制 し、男 性 の 第 二 次 性 徴 期 に 顕 著 な 声 帯 の 成 長 を 人為的 に 妨 げ、変声期 ( い わ ゆ る 「 声 変 わ り 」 ) を な く し、ボ ー イ ・ ソ プ ラ ノ の 声 質 や 音 域 を、できる 限 り 持 続 させようと しま した。

去 勢 の 結 果、感情的 には やや 不安定 になる 傾 向 があ り、それが 歌 唱 の 際 の 感情表現 に 役 立 つという 説 もあ りま したが、体脂肪 が 多 く な り 「 小 太 り 」 にな りやすい 傾向 は、歌 う 際 の 声 質 に 有 利 に 働 く との 説 もあ りま した。

睾 丸 および 陰 茎 を 切 り 取 られた 少年合唱団 の 歌 手 たちは 「 カ ス ト ラ ー ト 」 と呼ばれ、聖 歌 合 唱 団 の 歌 手 や オ ペ ラ 歌 手 と して 活躍 し、人 気 を 博 したと いわれて います。

ローマ法王

カ ト リ ッ ク 教 国 では 最 盛 期 には、 毎 年 数 千 人 も の 少 年 たち が 去 勢 された 、と いうから 驚 き です。カ ト リ ッ ク 総本山 の ある バ チ カ ン ( V a t i c a n ) の お 墨 付 き を 受 けた 「 カ ス ト ラ ー ト 」 については、 神 学 論 争 が あ っ た も の の、19 世紀後半 に ロ ー マ 法 王 レ オ 十 三 世 ( 在位 1878 ~ 1903 年 ) が 禁 止 するまで 存 続 しま した。

ちなみに 男性器を 切 除 された者の呼び名である 英語 の ユ ー ナ ッ ク ( e u n u c h ) は、 「 ベ ッ ド を 守 る 人 」 と いう ギ リ シ ャ 語 から 出 たとされます し、『 c a s t r a t o 』 ( カ ス ト ラ ー ト ) という 語 を 研究社 の 英和中辞典 で 引 くと、

主 に 17 ~ 18 世紀 の イ タ リ ア で 、声 変 わりする前 の 高 い 声 を 保 つために 去 勢 さ れ た 男 性 歌 手 の こと ( イ タ リ ア 語 )。

とあ りま した。

去勢歌手

右の写真 は 1 9 世紀から 2 0 世紀にかけて活躍 した イ タ リ ア の 、歴 史 上 最 後 の カ ス ト ラ ー ト ( 去 勢 さ れ た  男 性 歌 手 ) 、ア レ ッ サ ン ド ロ ・ モ レ ス キ 、 ( Alessandro Moreschi、1858 ~ 1922 年 ) です。

下記は 1904 年 4 月 11 日 に、 彼 が シ ャ ル ル ・ グ ノ ー ( Charles Gounod ) 作 曲 の 有名 な ア ヴ ェ ・ マ リ ア 、 『 A v e ・ M a r i a 』 ( ラ テ ン 語 の 直 訳 では、「 こ ん に ち は、マ リ ア 」 、または 「 お め で と う、マ リ ア 」 を 意 味 する 題 名 ) の 曲 を 歌 っ た 録 音 ですが、 当 時 4 6 歳 だった 彼 の ソ プ ラ ノ 歌 手 と し て の、 高 い 歌 声  を お 聴 き 下 さ い。

ア ヴ ェ ・ マ リ ア


[ 6 : 朝 鮮 に お け る 宦 官 と 貢 女 ]

朝鮮半島 では 新 羅 ( し ら ぎ ) 時代 ( 356 ~ 935 年 ) に 中国 の 制度 を まね して 宦 官 制 度 が 始 まりま した。

そ の 時代 の 記 録 に 宦 官 ( か ん が ん ) に 相当 する 宦 豎 ( か ん じ ゅ ) という 言葉 が 見 えますが、その 活 躍 が 目 立 つ たのは、宗主国 である 元 朝 ( げ ん ち ょ う ) による 高 麗 へ の 支 配 を 背 景 に、 王 権 の 専 制 が 著 し く 強 まった 高 麗 朝 ( こ う ら い ち ょ う、918 ~ 1392 年 ) の 後 期 で した。

高 麗 の 忠 烈 王 ( ち ゅ う れ つ お う、注 参 照 ) 以 後 は、朝 鮮 から 中 国 の 元 ( げ ん ) に 送 られた 宦 官 たち が、後 に 元 の 使 者 と して 帰 国 し、政治 に 干 渉 することもありま した。

注 : 忠 烈 王 による 元 と共同 した 日 本 へ の 侵 攻 である 元 寇  ( げ ん こ う ) につ いては、 自国 の 歴史書 である 高 麗 史 にあることも 偽 って 書 き 、年 表 にも 欠 落 させ、 ウ ソ に ま み れ た 「 自 国 の 歴 史 」 を 創 作  し て 教 える 、韓 国 の 中学校用 国定 歴史 教科書 の、

こ こ を ご 覧 下 さ い

それと 共 に 高 麗 王 朝 は 国中 から 処 女 で 美 人 の 女 性 を 集 めて、 元 ( げ ん ) 王 朝 に対する 朝 貢 品 ( ち ょ う こ う ひ ん、献 上 品 ) の 一 つと して、 差 し 出 し ま したが、彼 女 たちの ことを 貢 女 ( こ う じ ょ ) と い いま した。

貢 女 ( こ う じ ょ ) が 最 も 盛 んに 行 われたのは 、高 麗 ( 918 ~ 1392 年 ) の 後 期 から 李 氏 朝 鮮 時 代 ( 1392 ~ 1910 年 ) で した。 中 国 の 属 国 であった 朝鮮 は 自 分 たちで 貢 女 を 選 ぶことが 許 されず、中国 から 貢 女 を 選 抜 するための 「 採 紅 使 」 ( さ い こ う し ) を 派 遣 して 貢 女 を 選 び 出 しま した。

高 麗 では 貢 女 の 選 抜 期間中 は、 結 婚 都 監 という 役所 を 置 き、「 貢 女 の 質 」 確 保 のために、 一 定 の 時 期 朝 鮮 全 土 の 結 婚 が 禁 止 されたと 朝 鮮 の 「 高 麗 史 」 にあ りま した。

1274 年には、元 ( げ ん ) が 1 4 0 名 の 貢 女 を 中 国 に 連 行 し、高 麗 の 第 2 5 代、忠 烈 王 ( ち ゅ う れ つ お う、在位 1274 ~ 1308 年 ) ・ 第 3 1 代、恭 愍 王 ( き ょ う び ん お う、在位 1351~1374 年 ) の 時代 に は、貢 女 は 1 7 0 人 以 上 4 4 回 にのぼ りま した。  

貢 女 は 高麗時代 だけでなく、李氏 朝鮮 の 第 3 代、太 宗 ( 在 位 1400 ~ 1418 年 ) や 第 1 7 代、孝 宗 ( 在 位 1649 ~ 1659 年 ) の 時代 にかけて、明 ( み ん ) ・ 清 ( し ん ) の 両 国 に 1 4 6 人 9 回 にわたって 献 上 されま した。 

結局 貢 女 と して 朝 鮮 半 島 から 外 国 へ 献 上 された 女 性 ( 1 3 歳 ~ 2 5 歳 ) の 数 は、 数 千 人 に 上 った と いわれて います。

宦 官 については、李 氏 朝 鮮 における 1894 年 の 甲 午 改 革 ( こ う ご か い か く ) によ り 廃 止 されるまでは 存 在 しま した。


朝 鮮 時 代 の 悲 し い 歴 史 ( 動 画 )


[ 7 : 去 勢 さ れ た 有 名 人 ]

( 7-1、紙 の 発 明 者、蔡 倫 ( さ い り ん )

蔡 倫 ( 50 年~121 年 ) は 湖南省 ・ 桂陽 の 出身 で、後 漢 ( ご か ん、紀 元 25 ~ 220 年 ) 中 期 の 宦 官 で した。それまで 文 字 を 記 録 するには、 木 簡 ( も っ か ん、短 冊 状 の 細 長 い 木 の 板 ) や、 竹 簡 ( ち く か ん、竹を 細 い 短 冊 形 に 削 り、火 に あ ぶ っ て 油 を抜 く )を 使用 しま したが、長さ 25 センチ、幅 3 センチ 程度でした。時には 高 価 な 「 絹 布 」 を 使 用 しま した。

彼 は 新 しい 書 材 と して 木 く ず ・ 麻 く ず ・ ぼ ろ ぎ れ ・ 漁 網 など を 材 料 と した 「 紙 」 を 開 発 し 、第 4 代、皇 帝 の 和 帝 ( わ て い、79 ~1 0 5 年 ) に 献 上 し て 喜 ば れ ま し た。

これは 蔡 侯 紙 ( さ い こ う し ) と 呼 ば れ、 紙 の 最 初 の 発 明 とされてきま した。 し か し 1933 年 に 新疆省 ( し ん き ょ う し ょ う ) ロ プ ノ ー ル で、また 1957 年 に 西 安 ( せ い あ ん ) で、1973 ~ 74 年 に も 甘 粛 省 ( か ん し ゅ く し ょ う ) の 居 延 ( き ょ え ん ) で、前 漢 ( 紀元 前 202 ~ 後 8 年 ) の も の と 思 われる 麻 を 原 料 とする 紙 が 発 見 されま した。

紙の開発

この 事 実 から、麻 紙 は すでに 前 漢 の 時 代 からあ り、蔡 倫 は 麻 紙 よ り 良 質 の 樹 皮 紙 ( じ ゅ ひ し ) の 製 造 監 督 にあた り、これを 普 及 させるのに 功 のあった 人 と 考 えられるようにな りま した。左 図 は 中国 の 切 手 の 図 柄 になった 蔡 倫 。


( 7-2、史 記 の 著 者、司 馬 遷

司馬 遷 ( し ば ・ せ ん、紀元 前 145 年 頃 ~ 前 8 6 年 頃 ? ) は 古代中国 の 統 一 王 朝 である 前 漢 ( 紀元前 202 ~ 後 8 年 ) の 歴 史 家 で、父 親 の 司馬 談 ( しば ・ だん ) から 歴 史 編 纂 の 大 志 を 受 け 継 ぎ ま した。 第 7 代 皇 帝 の 武 帝 ( 紀元前 156 ~ 前 87 年 ) に 仕 えま したが 、武帝 の 天漢 2 年 ( 紀元前 9 9 年 ) に 「 李 陵 事 件 」 ( り り ょ う じ け ん ) が 起 きま した。

紀元前 99 年に 武 帝 は 匈 奴 ( き ょ う ど、中国の 秦 ・ 漢 時代 に モ ン ゴ ル 高原 で 活躍 した 遊 牧 騎 馬 民 族 ) を 征 伐 することに 決 め、 指 揮 官 の 李 陵 ( り り ょ う ) を、食 料 ・ 兵 器 輸 送 の 任 に 当 たらせようと しま した。ところが 彼 は 輸 送 任 務 を 嫌 い、自分 の 率 いる 五 千 名 の 歩 兵 で 匈 奴 を 攻 撃 したいと 武帝 に 申 し 出 て、許可 されま した。

最初 のうちは 匈 奴 の 軍 にも 遭 遇 せず 匈 奴 の 領内 深 く 侵 入 しましたが、匈 奴 軍 は 三 万 の 騎 兵 を 八 万 に 増 や し て 攻 撃 し て きたので、李 陵 ( り り ょ う ) は 戦 いに 敗 れて 匈 奴 軍 に 投 降 し 捕 虜 とな りま した。

司馬 遷 は かねて 彼 を 知 って いて、立派 な 将軍 だと感 じて いたので、李 陵 の 行為 に 関 して 武 帝 から 意見 を 求 められた 際 に、彼 を 弁護 しま した。しか し 事 件 から 1 年後 に 李 陵 が 匈 奴 から 丁重 に 扱 われ、 単 于 ( ぜ ん う、匈 奴 の 言葉 で 君 主 を 指 し、 王 ・ 皇 帝 に 相当 する ) から 娘 まで もらった ( 裏 切 り ) の ウ ワ サ を 聞 く と、武 帝 は 李 陵 の 妻 子 ・ 母 親 まで 皆 殺 しに しま した。

彼 を 弁護 した 司馬 遷 もこれに 連 座 することにな り、「 武 帝 を 欺 ( あ ざ む ) い た 罪 」 で 死 刑 を 命 じられま した。当時 の 刑 法 では 死 刑 の 判 決 を 受 けた 者 は、

  • カ ネ を 積 んで 贖 罪 ( し ょ く ざ い、罪 を あ が な う ) 措 置 を 受 け る こ と が で き た 。

  • あるいは、 宮 刑 ( き ゅ う け い、刑 罰 による 去 勢 ) を 受 ければ、死 刑 を 免 れることができた。

司馬 遷 は 官 位 も 低 く 貧 乏 だったので、巨 額 の 費 用 は 出 せず、父 の 遺 志 を 継 ぎ 人 生 の 目 的 である 歴史書 を 完 成 させるために、た だ 一 つ 残 された 路 は 「 宮 刑 」 を 受 けることで した。紀元 前 9 8 年、司馬 遷 4 8 歳 の 時 に 屈 辱 を 耐 え 忍 んで、 去 勢 の 刑 を 甘 ん じて 受 け、生 きる 道 を 選 び ま した

その後、彼 は 宮 廷 内 における 蔑 視 や あざけ りに 耐 えながら、全 力 をあげて 歴史書 の 著 述 に 打 ち 込 みま した。1 0 年 の 苦 労 を 経 て、司馬 遷 ( し ば ・ せ ん ) 自 身 が 名 付 け た 書 名 の 『 太 史 公 書 』 ( た い し こ う し ょ ) を 完 成 させま したが、後 には 『 史 記 』 と 呼 ば れ る ようにな りま した。

『 史 記 』 ( し き ) は、 皇 帝 の 伝 記 である 本 紀 ( ほ ん ぎ ) 1 2 巻 年 表 ・ 世 系 表 ・ 人 名 表 ・ など の ( ひ ょ う ) 1 0 表  、 ( し ょ ) 8 巻 地方政権 の 君 主 の 伝 記 である 世 家 ( せ い か ) 3 0 巻 国 に仕 えた 官 僚 の 伝 記 ・ 諸外国 のことを 記 した 列 伝 ( れ つ で ん ) 7 0 巻 から 成 る 紀 伝 体 の 歴史書 で 、それ 以 後 歴 代 の 正 史 は みなこの 形 式 に 従 い 、歴史書 の 標 準 形 式 とな りま した。


( 7-3、大航海家、鄭 和 ( て い わ )

先祖 は 元 朝 の 時 に、 西 域 ( さ い い き、中 国 の 西 方 にある 国 々 を 呼 ぶ 総 称 で、東 ・ 西 ト ル キ ス タ ン から、さらに 地中海 沿岸 に 至 る 西 ア ジ ア も いう ) から 雲 南 に 移 住 してきた イ ス ラ ム 教 徒 で した。

1382 年 に 明 の 軍 隊 が 雲 南 を 平 定 した 際 に、少 年 だった 鄭 和 ( て い わ ) は 明 軍 の 捕 虜 と な り、 去 勢 さ れ て 明 の 第 3 代 皇帝、永 楽 帝 ( え い ら く て い、在 位 1402 ~ 1424 年 ) の もとで 宦 官 と して 仕 えま した。

1404 年 には 宦 官 の 長 官 で あ る 内 官 監 の 太 監 ( 長 官 ) に 抜 擢 ( ば っ て き ) さ れ、それまで 「 馬 」 ( ば ) 姓 だった 彼 に、 「 鄭 」  ( て い ) 姓 を 下 賜 しま した。

永楽 3 年 ( 1405 年 ) には 永 楽 帝 の 命 を 受 けて、鄭 和 ( て い わ ) 自 ら 指 揮 をと り、南海方面 に 大船団 で 遠 征 航 海 を しま した。第 1 次の 遠征航海 では、長 さ 4 4 丈 ( じ ょ う 、1 丈 = 3.0303 メートル X 44 丈 =133.3 メートル )、幅 1 8 丈 ( 5 4.5 メートル ) の 大 船 6 2 隻 からな り、総 人 員 2 万 7 千 8 百 余 人 で、将 兵 の ほかに 医 者 ・ 水 夫 ・ 宦 官 ・ 通 訳 ・ 書 紀 ・ 船 大 工 などが 含 まれて いま した。

鄭和の遠征

第1次 の 遠 征 では ベ ト ナ ム 中 部 の ク イ ニ ョ ン ( Qui Nhon ) ・ ジ ャ ワ( Java ) ・ ス マ ト ラ 島( Sumatra ) の パ レ ン バ ン ( Palembang ) などの ス マ ト ラ 各 地 ・ 次 いで マ ラ ッ カ ( Malacca ) を 経 て セ イ ロ ン ( Ceylon 、現 スリランカ に 存在 した 英領 植民地 )・ イ ン ド 南西 岸 の カ リ カ ッ ト ( Calicut、インド 南 部 ケ ラ ラ 州 アラ ビア 海 に 面 した 港湾都市。現 地名 は コ ジ コーデ 、Kozhikode ) にまで 到 達 しま した。

ポ ル ト ガ ル の 航海者 で 探検家 の ヴ ァ ス コ ・ ダ ・ ガ マ ( Vasco da Gama ) が ヨーロッパ から 初 めて 喜 望 峰 を 回 り、イ ン ド 航 路 を 開 拓 し カ リ カ ッ ト に 到 達 したのは、それから 9 2 年 後 の ことで した。

鄭 和 船 隊、南 海 遠 征 実 績 表


次 数出 航 期 日帰 国 入 京 期 日
1405 年 冬1407 年 9 月 2 日
1407 年12月
又は翌年春
1409 年夏
1409 年12月1411 年 6 月16 日
1413 年冬頃1415 年 7 月 8 日
1417 年 冬 頃1419 年7 月 17 日
1421 年 2 月 末1422 年 8 月 1 8 日
1432 年 1 月 2 日1433 年 7 月 6 日



鄭 和 ( て い わ 、1371 ~ 1434 年 ) は そ の 後 7 次 に 及 ぶ 南海遠征 航海 で、東 南 ア ジ ア、イ ン ド 南 岸、中 東 湾 岸、 ア フ リ カ 東 岸 を 訪 れ、それらの 諸 国 に 対 して 明 朝 への 朝 貢 を 求 め 通 商 貿 易 を 促 しま した

彼 の 活 躍 は、 コ ロ ン ブ ス ( Columbus 、1451~1506 年 ) や ヴ ァ ス コ ・ ダ ・ ガ マ ( 1469?~1524 年 ) などが 生 まれるよりも ずっと 早 い 時 期 であり、2 8 年 に 及 ぶ これらの 遠 征 航 海 は、 ヨ ー ロ ッ パ 人 来 航 以 前 の 南 方 地 域 に対する 中国勢力 の 最大 の 進 出 で し た。

この 南海遠征 は 明朝 にとって 莫 大 な 出 費 を 伴 いま したが、これを 契 機 に 南海諸国 の 朝貢使節 が 各地 の 珍 品 ・ 貴 重 な 特産物 を 大 量 に 明 朝 へ もたら し、これに対する 明 朝 からの 賞 賜 が 行 われて 朝貢貿易 は 活 況 を 呈 し、国内経済 にも 刺激 を 与 え、その 後 の 商工業発展 の 端 緒 ( た ん ち ょ / た ん し ょ、き っ か け ) ともな りま した。

また 中国人 の 南 海 地 域 に 関する 知 識 を 急速 に 向上 させ、その 後 の 華 僑 による 同地域 への 移住活動 を 促 進 しま した。しか しこの 南海遠征 はあくまでも 永楽帝 の 個 人 的 欲 望 に 基 づき 行 われたために、彼 が 1424 年 に 死 ぬと、その 9 年 後 には 遠征 航海 は 打 ち 切 られて しま いま した。


[ 8 : 最 後 に ]

「 去 勢 の 風 習 」 や 「 宦 官 の 制 度 」 は 、特 定 の 国 家 や 社 会 が 生 み 出 した、 産 物 であると いえますが、その 条 件 と しては、下 記 の 三 つ がありま した。

  1. 聖 ・ 俗 のいずれか、あるいは 両 方 の 権 力 を 持 つ 、強 力 な 専 制 君 主 や 絶 対 的 独 裁 者 が 存 在 したこと。

  2. 宗 教 的 教 義 から 蓄 妾 制 ( ち く し ょ う せ い 、「 め か け 」 を持つ 制度 )、ある いは 一 夫 多 妻 制 が 公 認 されて い た 社 会 で あ っ た こ と。

  3. カ ト リ ッ ク の 宗 教 的 勢 力 拡 大 や 発 展 の た め に 、歴 代 の ロ ー マ 法 王 が 青 少 年 に 対 する 「 去 勢 を 容 認 」 し て き た こ と。

    ( 終 わ り )


since H 30、Jul. 20

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