宦 官 の 歴 史 に つ い て![]()
[ 1 : 宦 官 ( か ん が ん ) と は ]古 代 中 国 に 始 まり 本 来 男 性 で したが、以 下 の 理由 によ り 生 殖 機 能 を 切 除 ( 去 勢、き ょ せ い ) さ れ、宮 廷 における 仕 事 をするため に 送 り 込 まれた 中 性 の 官 吏 のことを い います。 中国最古 の 王朝 である 殷 ( い ん、紀元前 1 4 世紀 頃 ~ 紀元前 11 世紀 頃 ) の 政治体制 は、氏 族 を 中 心 とする 部 族 国 家 で した。 そ して 国 の 重 要 事 項 を 決定 する 場合 には、 王 が 神 に 「 卜 占 」 ( ぼ く せ ん、う ら な い ) を おこな い、その 吉 凶 ( き っ き ょ う、縁 起 の 良 い 悪 い ) を 見 て 判 断 する、 一 種 の 神 権 政 治 または 卜 占 政 治 ( ぼ く せ ん せ い じ ) と 呼 ばれるもので した。 宦 官 という 言 葉 の 元 の 意 味 は 「 神 に 仕 え る 奴 隷 」 で し た が、時代 が 下 がるに 連 れて 王 や皇帝の 宮 殿 に 仕 える 者 の 意 味 とな り、禁 中 ( き ん ち ゅ う、皇 帝 が 住 む 宮 殿 の 内 廷 ) では 去 勢 された 者 を 用 いたため、彼 らを 宦 官 と 呼 ぶようになりま した。彼らの 人 材 源 と しては、下記 の 五 種 類 がありま した 。
「 権 力 を 持 っ た 宦 官 の 羽 ぶ り は 九 族 に ま で お よ び 、愚 民 は そ の 子 を 去 勢 し て 子 孫 の 富 貴 ( ふ う き、と み と 地 位 ) の 取 得 を は か っ た 」 。と 記 さ れ て いま し た。ちなみに 九 族 ( き ゅ う ぞ く ) と は、自分 を 中 心 と し て 父 母 ・ 祖 父 母 ( そ ふ ぼ ) ・ 曽 祖 父 母 ( そ う そ ふ ぼ ) ・ 高 祖 父 母 ( こ う そ ふ ぼ ) 、および 子 ・ 孫 ・ 曽 孫 ( そ う そ ん、ひ ま ご ) ・ 玄 孫 ( げ ん そ ん、や し ゃ ご ) の 九 代 にわたる 親 族 を い いま した。 ![]() ( 1-1、清 朝 末 期 の 宦 官 の 生 態 ) 清朝 末期 に 北京 に 滞 在 し、宦 官 を 冷 静 な 眼 で 観 察 した イ ギ リ ス 人 の ス テ ン ト ( S t e n t ) が 記 した 記 録 によれば、宦 官 の 服 装 については 袍 子 ( パ オ ツ ) という 灰 色 の 長 い 上 着 と、その 上 に 褂 子 ( ク ワ ツ ) という 暗 紺 色 の 短 い 「 上 っ ぱ り 」 を 着 て、黑 地 の ズ ボ ン を は く と いった 地 味 な 服 装 で し た。 ![]() これに 対 して 若 い 美 貌 ( 男 前 ? ) の 宦 官 では その 女 ら し い ( ? ) 仕 草 などから、本 物 の 若 い 女 性 が 男 装 したような 錯 覚 を 与 えたと い います。宦 官 には 中 年 から 成 った 者 と 前 述 したように、子 供 からなった 者 がありま したが、後 宮 の 夫 人 たち は より 若 い 宦 官 を 好 みま した。彼 らは 何 の 仕 事 も な く、ただ 娘 のように 後 宮 で 振 る 舞 いま した。 宦 官 が 夫 人 たちに 「 何 を サ ー ビ ス し た の か は 、 言 う の を は ば か る 」 と ス テ ン ト は 記 して いたので、読 者 の 想 像 に お 任 せ します。おそら く、 夫 人 たち の 寂 し さ を 慰 め た の で し ょう。 ( 1-2、 宦 官 の 重 要 な 仕 事 ) 明 ( み ん ) の 時 代 ( 1368 ~ 1644 年 ) には、 皇 帝 の 閨 房 ( け い ぼ う、寝 室 のこと ) を 所 掌 する 宦 官 の 役 所 を 敬 事 房 ( け い じ ぼ う ) と い い、その 長 を 敬 事 太 監 ( け い じ た い か ん ) と 称 しま した。 つま り、 皇 帝 と 皇 后 との 夜 の 交 わ り を 管 理 する 専 門 の 役 所 で し た。ま ず 皇 帝 が 皇 后 と 交 わった 場 合 には、その 年 ・ 月 ・ 日 を 記 録 しておき、受 胎 の 時 の 証 拠 に しま した。 相 手 が 妃 嬪 ( ひ ひ ん、皇 后 以 外 の 高 貴 な 女 性 の 側 室 ) の 場 合 は、かなり 面 倒 で した。 日 本 でも 江戸時代 に 、大 名 や 旗 本 が 将 軍 に 直 接 拝 謁 ( は い え つ 、お 目 に か か る ) すること や、その 資 格 を 『 お 目 見 え 』 と い い ま し た。 後 宮 には 皇 帝 に 対 して 『 お 目 見 え 』 資 格 を 有 する 妃 嬪 ( ひ ひ ん )だけでも 百 人 以上 いた ために、全 員 に対 して 満 遍 ( ま ん べ ん ) な く 夜 伽 ( よ と ぎ、寝 室 で 相 手 を さ せ る / す る ) わけにも いかず、どう しても 依 怙 贔 屓 ( え こ ひ い き ) が で き、皇 帝 の お 気 に 入 りの 女 性 が 自 然 に 限 定 されるようにな りま した。 ( 1-3、 皇 帝 に よ る、 夜 の ご 指 名 ) そこで 宦 官 は、 お 気 に 入 り の 「 妃 嬪 」 ( ひ ひ ん ) たち の 名 前 を 記 入 した 緑 頭 牌 ( り ょ く と う は い ) という 板 製 の 名 札 を 十 数 枚、 あるいは 数 十 枚 作 成 しておき、皇 帝 の 夕 食 の 時 に 大 きな 銀 盤 に 乗 せ、料 理 と 共 に 持 参 し、食 事 が 終 わると それを 皇 帝 に 捧 げ て 指 示 を 待 ち ま した。 皇帝 が 疲 れて いた り、その 気 がな い 場合 には、ただ 「 下 が れ 」 と い いますが、その 気 があれば 自 ら 緑 頭 牌 ( り ょ く と う は い ) の 中 から、 気 に 入 った 女 性 の 名 札 を 取 って 裏 返 し に し ま す 。 つ ま り 今 夜 寝 室 を 共 にする 女 性 を 決 定 しますが、その 際 に 宦 官 の 意 向 が 影 響 した り、 日 頃 の 賄 賂 ( ワ イ ロ ) の 効 果 が 発 揮 される 場 合 で も あ りま した。
( 1-4、 夜 の 時 間 管 理 人 ) 皇 帝 の ご 指 名 を 受 けた 妃 嬪 ( ひ ひ ん ) の 女 性 は、天 に も 昇 る 気 持 で 女 官 たちに 世 話 をさせ、入 念 な 入 浴 と 化 粧 を 済 ませます。時 刻 が 来 ると 担当 宦 官 は 女 性 を ( 凶 器 所 持 防 止 の た め ) 全 裸 に して 羽 毛 で 作 った 袋 に 包 み、背 負 って 皇 帝 の 寝 所 へ 運 び 込 みます。 袋 から 出 された 「 妃 嬪 の 女 性 」 は、そこで 用意 された 寝 衣 に 着 替 え 皇 帝 の 入 室 を 待 ちますが、皇 帝 入 室 後 は 宦 官 が 寝 所 の 外 に 立 ち、一 定 の 時 間 が 過 ぎるのを 待 ち ま した。しか し 本 妻 である 皇 后 の 場合 は 時 間 の 制 限 は 無 く、管理人 も いませんで した。 そ の 時 間 が 過 ぎ る と 宦 官 は その 旨 を 大声 で 叫 び、三 度 繰 り 返 しても 皇 帝 が 応 じ なけれ ば、宦 官 が 寝 室 に 入 り 、た と え 皇 帝 と 妃 嬪 の 女 性 が 全 裸 の 結 合 状 態 で あろうとも、 彼 女 を 強 制 的 に 連 れ 出 し、前 述 した 袋 に 入 れて 後 宮 に 戻 すことになって いま した。まさに 宦 官 は 夜 の 支 配 者 で し た 。 ![]() さらに 夜 伽 ( よ と ぎ ) を 終 えた 女 性 に、 子 供 を 生 ませるか どうかに ついて 宦 官 は 皇 帝 に お 伺 いを 立 て、皇 帝 が 「 無 用 」 と いえば す ぐ に 避 妊 処 置 を 施 し、「 と め お け 」 と いえば、そのままに して、その 年 ・ 月 ・ 日 を 記録 し ま し た。 宦 官 は 男 性 機 能 を 喪 失 して いるため 後 宮 の 奥 深 く 出 入 りすることが 許 され、このため 彼 らは 皇 帝 の 私生活 や 裏 の 顔 を 知 り 尽 く し、いつ しか 皇 帝 を 陰 で 操 る 「 闇 の 力 」 を 手 に 入 れるようにな りま した。 そのため 中国 の 歴 代 王 朝 が 何 度 も 興 亡 を 繰 り 返 し て も、絶 対 権 力 者 と しての 皇 帝 が 出 現 し、その 後 宮 が 存 在 する かぎ り、闇 の 権力者 である 宦 官 が 必 要 とされ、紀 元 前 1 4 世 紀 頃 から 1912 年 の 清 王 朝 の 滅 亡 ( 中 華 民 国 成 立 ) まで、 三 千 年 以上 も の 間 存 在 し 続 け ま した。 [ 2 : 宦 官 ( か ん が ん ) 人 生 の 明 暗 ]彼 ら は 終 生 屈 辱 的 な 処 遇 を 受 け、やがて 老 齢 になれば 宮 廷 から 追 放 されま したが、帰 る 家 も 迎 える 家 族 や 親 族 もあ りませんで した。 春 秋 時 代 ( 紀元 前 770 ~ 前 403 年 ) の 中 国 の 思 想 家 ・ 哲 学 者 ・ 儒 家 ( じ ゅ か 、儒 教 の 思 想 集 団 ) の 始 祖 であった 孔 子 ( こ う し、紀元 前 551 ~ 前 479 年 ) が 弟 子 の 曾 子 ( そ う し ) に、 「 孝 」 に つ いて 述 べ たとされる 言 葉 を 記 し た 孝 経 ( こ う き ょ う ) が あ りますが、その 中 に ご 存 知 の、身 体 髪 膚 之 ( し ん た い は っ ぷ、こ れ ) を 父 母 に 享 ( う ) く、敢 え て 毀 傷 ( き し ょ う ) せ ざ る は 孝 の 初 め な り 。 と い う 文 言 が あ り、さ ら に 不 孝 に 三 あ り、後 ( 継 ぎ ) 無 き を( 最 ) 大 ( の 不 孝 ) な り 。と する 観 念 も 存 在 し た。 先祖 に 対 する 供 養 を 人 倫 ( じ ん り ん、人 が 実 践 す べ き 道 義 ) の 最 重 要 項 目 に 置 く 儒 教 にお いては、 去 勢 ( または 宮 刑 ) は 宗 族 共 同 体 からの 追 放 理 由 と し て 認 識 されて いた。そのために 昔 から 中 国 人 社 会 では 去 勢 され、 子 孫 を 作 れ な く なった 者 を 蔑 視 ( べ っ し ) し、人 と 認 めず、 忌 み 嫌 うことに 原 因 があ りま した。つ ま り 宦 官 になると 親 族 は もはや 彼 を 一 族 の 仲 間 とは 認 めず、死 んで か ら も 一 族 の 墓 所 には 埋 葬 させませんで した。 その 結 果 老 後 の 宦 官 の 多 く は み じ め で 孤 独 な 余 生 を 送 り、蓄 財 がなければ 最 後 は 「 野 に 白 骨 を さらす 」 のが 宦 官 ( 去 勢 さ れ た男 性 ) の たどる 人 生 の 末 路 で した。 しか し 運 がよければ そ して 財 産 があれば、北京郊外 の 八里荘 にあった 、漢 ~ 明 ( み ん ) 時代 の 宦 官 たちの 養 老 院 ( 例 えば 護 国 保 忠 寺 ) や 寺 廟 ( じ び ょ う、死者 の 霊 を 祀 る 寺 など ) に 入 居 し、 そこで 死 ぬまで 暮 らすことができま した。 また 宦 官 の 老 後 を 託 する 自 助 組 織 もありま した。清 朝 ( 1644 ~ 1912 年 ) 末 期 における 北京 の 宦 官 養 老 議 会 の 規 定 によれば、入 会 を 望 む 宦 官 は まず 1 8 0 両 を 納 めれば、三年後 には 同会議所 所 属 の 寺 廟 に 入 居 することができ、その 中 での 費 用 は 一 切 不 要 と いうことになって いま した。 ![]() ( 2-1、 新 約 聖 書 に も 、去 勢 の 記 述 ) ![]() 母 の 胎 内 から 『 独 身 者 』 ( こ こ で は 閹 人、え ん じ ん、 去 勢 さ れ た 男 性 の こ と ) に 生 ま れ つ い て い る も の が あ り、また 他 から 『 独 身 者 』 に さ れ た も の も あ り、ま た 天国 の た め に、み ず か ら 進 ん で 『 独 身 者 』 と な っ た も の ( 自 宮、じ き ゅ う、自 ら 去 勢 を 希 望 し た 者 ) も あ る。 注 : 上 記 は 1954 年、 日本聖書教会 の 新 約 聖 書 改 訳 版 の 文 章 で す が、 括弧 ( ) の 中 は 管理人 が 記 入 し た も の 。 さらに 上 記 の 『 独 身 者 』 につ いて 調 べ る と、 原 文 に 近 い とされる、ヴ ル ガ ー タ 訳 の ラ テ ン 語 聖 書 で は 去 勢 さ れ た 者 を 意味 する e u n u c h i ( ユ ー ナ ッ チ 、複 数 形 ) と なって いた。 こ の こ と か ら、初期 キ リ ス ト 教 会 に 被 去 勢 者 が 存 在 して いた 可 能 性 があ り、これが カ ス ト ラ ー ト ( 第 5 項 去 勢 さ れ た、 カ ト リ ッ ク 少 年 合 唱 団 ) で 後 述 、 の 遠 因 と な っ た とも 考 えられる。宦 官 の 地 理 的 分 布 をみると、東 は 中国 ・ 朝鮮 ・ アンナン( 安 南、ベ ト ナ ム中部 ・ 北部 ) などの 儒 教 文 化 圏 と、西 は ヨ ー ロ ッ パ の 多 く の 古 い 国 や ギ リ シ ャ ・ ロ ー マ ・ 中 東 をは じめ 、ト ル コ ・ イ ン ド の ム ガ ー ル 帝国 などの イ ス ラ ム 文 化 圏 に は、 いずれも 宦 官 が 存在 しま した。 しか し 日本 ・ 満州 ( 中国 の 東 北 部 ) から シ ベ リ ア ・ 極東 にかけての 北東 ア ジ ア 地域に住み、ツ ン グ ー ス 諸語を 母語 とする ツ ン グ ー ス 系 諸民族 の 社 会 には、 宦 官 は 見 当 た り ませんで した。 ( 2-2、 日 本 に 宮 刑 が あ っ た の か ) インターネットで 検索 したところ、ある 資 料 によれば、室町幕府 の 発足 に 際 して 建武 3 年 ( 1336 年 )11月 7 日 に 足 利 尊 氏 ( あ し か が た か う じ ) が 出 した 法令 兼 ・ 施政方針 の 宣 言 である 建 武 式 目 ( け ん む し き も く ) の 中 に、 宮 刑 ( き ゅ う け い ) の 記 載 があると 記 されて いま した。 その 方法 とは 男 は ヘ ノ コ ( 男 性 器 ) を 割 ( さ )き、女 は 孔 を 縫 い 潰 して 塞 ぐのだそうです。し か し 建 武 式 目 17 条 の 条 文 を 私 が 調 べ た 限 り で は、宮 刑 に 関 する 記 述 は 見 当 た りませんで した。興 味 のある 方 は、 条 文 を 調 べ て み て 下 さ い 。 [ 3 : 去 勢 さ れ た 男 性 の 数 ]紀元前 11 世紀 から 紀元前 8 世紀 まで 古代 イ ス ラ エ ル に ユ ダ ヤ 人 の 王 国 が 存在 しま したが、 イ ス ラ エ ル を 統治 した 第 3 代 の ソ ロ モ ン 王 ( 紀元前 965 ~ 紀元前 930 年 ) は、 多数 の 女性 を 有 して いたことで 知 られて います。 旧 約 聖 書 の 列 王 紀 上 ( れ つ お う き ・ じ ょ う ) ・ 第 11 章 ・ 3 節 によれば、彼 ( ソ ロ モ ン 王 ) に は 王 妃 と し て の 妻 七 百 人、そ ば め ( 妾 ) 三 百 人 が あ っ た。そ の 妻 た ち が 彼 の 心 を 転 じ た の で あ る。と 記 されて いま したが、これだけの 数 の 女性 を 維 持 ・ 管 理 するためには、多 数 の 男 性 使 用 人 が 必 要 であ り、女 盛 り の 女性 たちが 住 む 後 宮 で 男 の 奴 隷 が 使 用 される となる と、そこには 男 女 の 「 ふ し だ ら な 関 係 」 が 生 じる 可能性 が 十分 ありま した。 ![]()
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