宦 官 の 歴 史 に つ い て


警告 !  こ こ に は、著 し く 不 快 感 を 与 え る お そ れ の あ る 写 真 や 表 現 が あ り ま す。 見 た く な い 人 は、 H. P. を読 ま な い で 下 さ い。

[ 1 : 宦 官 ( か ん が ん ) と は ]

  古 代 中 国 に 始 まり 本 来 男 性 で したが、以 下 の 理由 によ り 生 殖 機 能 を 切 除 ( 去 勢、き ょ せ い ) さ れ、宮 廷 における 仕 事 をするため に 送 り 込 まれた 中 性 の 官 吏 のことを い います。

中国最古 の 王朝 である 殷 ( い ん、紀元前 1 4 世紀 頃 ~ 紀元前 11 世紀 頃 ) の 政治体制 は、氏 族 を 中 心 とする 部 族 国 家 で した。 そ して 国 の 重 要 事 項 を 決定 する 場合 には、 王 が 神 に 「 卜 占 」 ( ぼ く せ ん、う ら な い ) を おこな い、その 吉 凶 ( き っ き ょ う、縁 起 の 良 い 悪 い ) を 見 て 判 断 する、 一 種 の 神 権 政 治  または  卜 占 政 治 ( ぼ く せ ん せ い じ ) と 呼 ばれるもので した。

宦 官 という 言 葉 の 元 の 意 味 は 「 神 に 仕 え る 奴 隷 」 で し た が、時代 が 下 がるに 連 れて 王 や皇帝の 宮 殿 に 仕 える 者 の 意 味 とな り、禁 中 ( き ん ち ゅ う、皇 帝 が 住 む 宮 殿 の 内 廷 ) では 去 勢 された 者 を 用 いたため、彼 らを 宦 官 と 呼 ぶようになりま した。彼らの 人 材 源 と しては、下記 の 五 種 類 がありま した 。

  1. 戦 争 で 得 た 異 民 族 の 捕 虜 。

  2. 外国 から貢 ( み つ ぎ ) と して 連 れて来られた、 輸 入 奴 隷 。

  3. 罪 を 犯 し 死 刑 になる べ き ところ、 宮 刑 ( き ゅ う け い、去 勢 を 条 件 に 死 刑 を 免 れ る こ と ) に 処 せられた 犯 罪 者 。

  4. 個 人 的 理 由 ( 貧 し い 生 活 から 逃 れ 、宦 官 の 職 を 得 る 目 的 ) か ら、 自 ら 去 勢 を 希 望 し ( これを 自 宮、じ き ゅ う と いう ) 、または 親 の 命 令 によって 去 勢 手 術 を 受 け、宮 廷 に 入 って 宦 官 に な っ た 者 。

  5. 庶 民 の 子 ( 男 児 ) を 購 入 し た り、だ ま し た り、誘 拐 し た り し て 去 勢 し、宦 官 になるための 訓 練 を 施 して 宮 廷 へ 送 り 込 んで 宦 官 と し、それまでに 要 し た 費 用 を 返 済 させるため、 何 十 年 間 も 収 入 の 一 部 を 徴 収 す る 場 合 。

中国 の 明 朝 ( み ん ち ょ う、1368 ~ 1644 年 )・ 清 朝 ( し ん ち ょ う、1644 ~ 1912 年 ) にお いては、上 の D ・ E が 最 も 多 か っ た 、と い わ れ て います 。

そ の 属 国 で あ っ た 朝 鮮 に お いても 同 じ 状 態 で 、1454 年 に 李 氏 朝 鮮 で 編 纂 された 『 李 朝 実 録 』 の なか の 「 世 宗 実 録 」 ( せ い そ う じ つ ろ く ) によれば、

「 権 力 を 持 っ た 宦 官 の 羽 ぶ り は 九 族 に ま で お よ び 、愚 民 は そ の 子 を 去 勢 し て 子 孫 の 富 貴 ( ふ う き、と み と 地 位 ) の 取 得 を は か っ た 」 。

と 記 さ れ て いま し た。ちなみに 九 族 ( き ゅ う ぞ く ) と は、自分 を 中 心 と し て 父 母 ・ 祖 父 母 ( そ ふ ぼ ) ・ 曽 祖 父 母 ( そ う そ ふ ぼ ) ・ 高 祖 父 母 ( こ う そ ふ ぼ ) 、および 子 ・ 孫 ・ 曽 孫 ( そ う そ ん、ひ ま ご ) ・ 玄 孫 ( げ ん そ ん、や し ゃ ご ) の 九 代 にわたる 親 族 を い いま した。

少年宦官

宦官 になるために 去 勢 されると 男 性 の 性 徴 ( ひ げ、など ) を 失 い、 皇 帝 や 国 王 など の 後 宮 ( 皇 妃 ・ 貴 妃 や 宮 女 たちが 住 む 所 ) の 近 く に 身 を 置 く ことが 許 されま した。 しか し 宮廷内 では 極 く 少 数 の 例 外 を 除 き、他 人 から 軽 蔑 される 中 性 の 小 役 人 や 、中 性 の 奴 隷 に 過 ぎませ ん で し た。 写 真 は 宦 官 候 補 の 少 年 で 、股 間 ( こ か ん ) に ある べ き 「 モ ノ 」 が 有 りませんで した。


( 1-1、清 朝 末 期 の 宦 官 の 生 態 )

清朝 末期 に 北京 に 滞 在 し、宦 官 を 冷 静 な 眼 で 観 察 した イ ギ リ ス 人 の ス テ ン ト ( S t e n t ) が 記 した 記 録 によれば、宦 官 の 服 装 については 袍 子 ( パ オ ツ ) という 灰 色 の 長 い 上 着 と、その 上 に 褂 子 ( ク ワ ツ ) という 暗 紺 色 の 短 い 「 上 っ ぱ り 」 を 着 て、黑 地 の ズ ボ ン を は く と いった 地 味 な 服 装 で し た。

独特な雰囲気

頭 には 宦 官 帽 を かぶり、歩 くときは や や 前 かがみに 小 股 で ちょこ ちょこ 歩 く ので、遠 く からでも 一 見 それと 分 かるほど 特 徴 的 で した。さらに 、全体 と して 何 とも いえな い 嫌 な 雰 囲 気 を 持 って いま した。左 は 老 人 の 宦 官。

これに 対 して 若 い 美 貌 ( 男 前 ? ) の 宦 官 では その 女 ら し い ( ? ) 仕 草 などから、本 物 の 若 い 女 性 が 男 装 したような 錯 覚 を 与 えたと い います。宦 官 には 中 年 から 成 った 者 と 前 述 したように、子 供 からなった 者 がありま したが、後 宮 の 夫 人 たち は より 若 い 宦 官 を 好 みま した。彼 らは 何 の 仕 事 も な く、ただ 娘 のように 後 宮 で 振 る 舞 いま した。

宦 官 が 夫 人 たちに 「 何 を サ ー ビ ス し た の か は 、 言 う の を は ば か る 」 ス テ ン ト は 記 して いたので、読 者 の 想 像 に お 任 せ します。おそら く、 夫 人 たち の 寂 し さ を 慰 め た の で し ょう。


( 1-2、 宦 官 の 重 要 な 仕 事 )

明 ( み ん ) の 時 代 ( 1368 ~ 1644 年 ) には、 皇 帝 の 閨 房 ( け い ぼ う、寝 室 のこと ) を 所 掌 する 宦 官 の 役 所 を 敬 事 房 ( け い じ ぼ う ) と い い、その 長 を 敬 事 太 監 ( け い じ た い か ん ) と 称 しま した。

つま り、 皇 帝 と 皇 后 との 夜 の 交 わ り を 管 理 する 専 門 の 役 所 で し た。ま ず 皇 帝 が 皇 后 と 交 わった 場 合 には、その 年 ・ 月 ・ 日 を 記 録 しておき、受 胎 の 時 の 証 拠 に しま した。

相 手 が 妃 嬪 ( ひ ひ ん、皇 后 以 外 の 高 貴 な 女 性 の 側 室   ) の 場 合 は、かなり 面 倒 で した。 日 本 でも 江戸時代 に 、大 名 や 旗 本 が 将 軍 に 直 接 拝 謁 ( は い え つ 、お 目 に か か る ) すること や、その 資 格 を 『 お 目 見 え 』 と い い ま し た。

後 宮 には 皇 帝 に 対 して 『 お 目 見 え 』 資 格 を 有 する 妃 嬪 ( ひ ひ ん )だけでも 百 人 以上 いた ために、全 員 に対 して 満 遍 ( ま ん べ ん ) な く 夜 伽 ( よ と ぎ、寝 室 で 相 手 を さ せ る / す る ) わけにも いかず、どう しても 依 怙 贔 屓 ( え こ ひ い き ) が で き、皇 帝 の お 気 に 入 りの 女 性 が 自 然 に 限 定 されるようにな りま した。


( 1-3、 皇 帝 に よ る、 夜 の ご 指 名 )

そこで 宦 官 は、 お 気 に 入 り の 「 妃 嬪 」 ( ひ ひ ん ) たち の 名 前 を 記 入 した 緑 頭 牌 ( り ょ く と う は い ) という 板 製 の 名 札 を 十 数 枚、 あるいは 数 十 枚 作 成 しておき、皇 帝 の 夕 食 の 時 に 大 きな 銀 盤 に 乗 せ、料 理 と 共 に 持 参 し、食 事 が 終 わると それを 皇 帝 に 捧 げ て 指 示 を 待 ち ま した。

皇帝 が 疲 れて いた り、その 気 がな い 場合 には、ただ 「 下 が れ 」 と い いますが、その 気 があれば 自 ら 緑 頭 牌 ( り ょ く と う は い ) の 中 から、 気 に 入 った 女 性 の 名 札 を 取 って 裏 返 し に し ま す

つ ま り 今 夜 寝 室 を 共 にする 女 性 を 決 定 しますが、その 際 に 宦 官 の 意 向 が 影 響 した り、 日 頃 の 賄 賂 ( ワ イ ロ ) の 効 果 が 発 揮 される 場 合 で も あ りま した。

  • 某 妃 は 目 下 ( も っ か、現 在 ) 体 調 よろ し からず、 ご 満 足 は 得 が た い の で は な い か と 存 じ ま す。など と ネ ガ テ ィ ブ な 情 報 を 皇 帝 に 流 し た り、

  • 某 妃 は こ の ところ、 容 色 と み ( 急 ) に 勝 ( ま さ ) っ て 来 つ つ あ りますれば---。

など の ア ド バ イ ス によ り、 ご 指 名 を 変 更 する 場 合 も あ りま した。つま り 妃 嬪 たちに とっても、日 頃 から 宦 官 の 機 嫌 を とってお いた 方 が 皇帝 のご 指 名 を 得 るのに 有 利 で し た。極 言 すれば、 宦 官 は 皇 帝 の 夜 の 奉 仕 者 で は な く 、む し ろ 性 生 活 の 相手 を 操 作 す る 人 で あ り、 支 配 者 に も な り 得 る 人 物 で し た。


( 1-4、 夜 の 時 間 管 理 人 )

皇 帝 の ご 指 名 を 受 けた 妃 嬪 ( ひ ひ ん ) の 女 性 は、天 に も 昇 る 気 持 で 女 官 たちに 世 話 をさせ、入 念 な 入 浴 と 化 粧 を 済 ませます。時 刻 が 来 ると 担当 宦 官 は 女 性 を ( 凶 器 所 持 防 止 の た め ) 全 裸 に して 羽 毛 で 作 った 袋 に 包 み、背 負 って 皇 帝 の 寝 所 へ 運 び 込 みます。

袋 から 出 された 「 妃 嬪 の 女 性 」 は、そこで 用意 された 寝 衣 に 着 替 え 皇 帝 の 入 室 を 待 ちますが、皇 帝 入 室 後 は 宦 官 が 寝 所 の 外 に 立 ち、一 定 の 時 間 が 過 ぎるのを 待 ち ま した。しか し 本 妻 である 皇 后 の 場合 は 時 間 の 制 限 は 無 く、管理人 も いませんで した。

そ の 時 間 が 過 ぎ る と 宦 官 は その 旨 を 大声 で 叫 び、三 度 繰 り 返 しても 皇 帝 が 応 じ なけれ ば、宦 官 が 寝 室 に 入 り 、た と え 皇 帝 と 妃 嬪 の 女 性 が 全 裸 の 結 合 状 態 で あろうとも、 彼 女 を 強 制 的 に 連 れ 出 し、前 述 した 袋 に 入 れて 後 宮 に 戻 すことになって いま した。まさに 宦 官 は 夜 の 支 配 者 で し た

ヤリテ婆

この 制 度 は 皇 帝 が 性 本 能 の 趣 く ま ま に 夢 中 にな り、特 定 の 女 性 の 色 香 ( い ろ か、魅 力 ) に 溺 れ る の を 防 ぐ ため に、明 ( み ん ) の 時 代 から 始 ま りま した。清 ( し ん ) の 第 4 代、康 熙 帝 ( こ う き て い 、在 位 1661 ~ 1722 年、左 の 画像 ) も、これを 踏 襲 ( と う し ゅ う、それまでの 方 法 を 受 け 継 ぐ ) し ま し た。

さらに 夜 伽 ( よ と ぎ ) を 終 えた 女 性 に、 子 供 を 生 ませるか どうかに ついて 宦 官 は 皇 帝 に お 伺 いを 立 て、皇 帝 が 「 無 用 」 と いえば す ぐ に 避 妊 処 置 を 施 し、「 と め お け 」 と いえば、そのままに して、その 年 ・ 月 ・ 日 を 記録 し ま し た。

宦 官 は 男 性 機 能 を 喪 失 して いるため 後 宮 の 奥 深 く 出 入 りすることが 許 され、このため 彼 らは 皇 帝 の 私生活 や 裏 の 顔 を 知 り 尽 く し、いつ しか 皇 帝 を 陰 で 操 る 「 闇 の 力 」 を 手 に 入 れるようにな りま した。

そのため 中国 の 歴 代 王 朝 が 何 度 も 興 亡 を 繰 り 返 し て も、絶 対 権 力 者 と しての 皇 帝 が 出 現 し、その 後 宮 が 存 在 する かぎ り、闇 の 権力者 である 宦 官 が 必 要 とされ、紀 元 前 1 4 世 紀 頃 から 1912 年 の 清 王 朝 の 滅 亡 ( 中 華 民 国 成 立 ) まで、 三 千 年 以上 も の 間 存 在 し 続 け ま した。


[ 2 : 宦 官 ( か ん が ん ) 人 生 の 明 暗 ]

彼 ら は 終 生 屈 辱 的 な 処 遇 を 受 け、やがて 老 齢 になれば 宮 廷 から 追 放 されま したが、帰 る 家 も 迎 える 家 族 や 親 族 もあ りませんで した。

春 秋 時 代 ( 紀元 前 770 ~ 前 403 年 ) の 中 国 の 思 想 家 ・ 哲 学 者 ・ 儒 家 ( じ ゅ か 、儒 教 の 思 想 集 団 ) の 始 祖 であった 孔 子 ( こ う し、紀元 前 551 ~ 前 479 年 ) が 弟 子 の 曾 子 ( そ う し ) に、 「 孝 」 に つ いて 述 べ たとされる 言 葉 を 記 し た 孝 経 ( こ う き ょ う ) が あ りますが、その 中 に ご 存 知 の、

 身 体 髪 膚 之 ( し ん た い は っ ぷ、こ れ ) を 父 母 に 享 ( う ) く、敢 え て 毀 傷 ( き し ょ う ) せ ざ る は 孝 の 初 め な り

と い う 文 言 が あ り、さ ら に 不 孝 に 三 あ り、後 ( 継 ぎ ) 無 き を( 最 ) 大 ( の 不 孝 ) な り 。と する 観 念 も 存 在 し た。

先祖 に 対 する 供 養 を 人 倫 ( じ ん り ん、人 が 実 践 す べ き 道 義 ) の 最 重 要 項 目 に 置 く 儒 教 にお いては、 去 勢 ( または 宮 刑 ) は 宗 族 共 同 体 からの 追 放 理 由 と し て 認 識 されて いた。

そのために 昔 から 中 国 人 社 会 では 去 勢 され、 子 孫 を 作 れ な く なった 者 を 蔑 視 ( べ っ し ) し、人 と 認 めず、 忌 み 嫌 うことに 原 因 があ りま した。つ ま り 宦 官 になると 親 族 は もはや 彼 を 一 族 の 仲 間 とは 認 めず、死 んで か ら も 一 族 の 墓 所 には 埋 葬 させませんで した。

その 結 果 老 後 の 宦 官 の 多 く は み じ め で 孤 独 な 余 生 を 送 り、蓄 財 がなければ 最 後 は 「 野 に 白 骨 を さらす 」 のが 宦 官 ( 去 勢 さ れ た男 性 ) の たどる 人 生 の 末 路 で した。

しか し 運 がよければ そ して 財 産 があれば、北京郊外 の 八里荘 にあった 、漢 ~ 明 ( み ん ) 時代 の 宦 官 たちの 養 老 院 ( 例 えば 護 国 保 忠 寺 ) や 寺 廟 ( じ び ょ う、死者 の 霊 を 祀 る 寺 など ) に 入 居 し、 そこで 死 ぬまで 暮 らすことができま した。

また 宦 官 の 老 後 を 託 する 自 助 組 織 もありま した。清 朝 ( 1644 ~ 1912 年 ) 末 期 における 北京 の 宦 官 養 老 議 会 の 規 定 によれば、入 会 を 望 む 宦 官 は まず 1 8 0 両 を 納 めれば、三年後 には 同会議所 所 属 の 寺 廟 に 入 居 することができ、その 中 での 費 用 は 一 切 不 要 と いうことになって いま した。

金貨

ちなみに 右 の 写真 は 清 の 第 11 代、皇 帝 の、 光 緒 帝 ( こう しょて い、在 位、1875 ~ 1908 年 ) の1906 年 に 造 られた 1 両 金 貨 ( 大 清 金 幣 ) ですが 、直 径 38.85 m m 、重 量 37.1 グ ラ ム 、金 の 含有量 80 % で 、美術品 と しての 価格は、現在 約 4 5 万 円 するそうです。

金 1 グ ラ ム の 値段 は 2018 年 6 月 6 日 の 相場 では 4,985 円 のため、地 金 ( じ が ね、加 工 土 台 となる 金 属 塊 ) に した 場合 、当 該 金 貨 1 枚 の 価 値 は 4,985 円 X 80 % X 37.1 グラム = 147,960 円 になります。

宦 官 が 養老施設 に 入居 のため、 1 8 0 両 用 意 するとなると、現在 の 貨 幣 価 値 に 換 算 すると 、147,960 円 X 180 枚 = 約 2 6 6 3 万 円 必 要 とな ります。

中華民国政府 ( 1912 年 ~ 1949 年 から 、現 台湾 政府 ) の 調 査 によると、 北京 郊外 に は 多数 の 宦 官 用 の 寺 廟 ( じ び ょ う、死 者 の 霊 を 祀 る 寺 ) が かつて 存 在 し、その 周 囲 には 宦 官 たちの 墓 が 密 集 して いたそうです。

宦 官 の な か に は 秦 ( し ん ) の 始 皇 帝 ( 紀元前 259 ~ 前 210 年 ) に 仕 えた 趙 高 ( ち ょ う こ う ) のように、何 らかの 罪 を 犯 して 去 勢 された 後 に 宦 官 と して 宮 廷 に入り、始皇帝 の 気 に 入 られて 側 近 となり、 始皇帝 の 死 後 には 権力 を手に入れ 横 暴 を 極 め た 者 も 存 在 し ま した。

別の 宦 官 は 度 重 なる 危 機 を 巧 みに く ぐ り 抜 け、皇 帝 や 王 ・ 皇 后 の 側近 と して 飛 ぶ 鳥 を も 落 とす 絶大 な 権 力 と、巨 万 の 富 を 持 つことができた 幸運 な 宦 官 も ご く 僅 かながら いま した。

しか し 逆 に 宮廷内 で 権 勢 の 座 につ いたが 故 に 天命 を 待 たずに 殺 され、あるいは 陰 謀 の 犠 牲 となって 虐 殺 された 者 も いま した。 また 極 く 少 数 で したが、功 成 り 名 を 遂 げて、 悠 々 自 適 ( ゆ う ゆ う じ て き ) の 生活 を 送 った 者 も いま した。


( 2-1、 新 約 聖 書 に も 、去 勢 の 記 述 )

甲骨文

中国 における 宦 官 ( か ん が ん ) が 、いつ 頃 から 存 在 したのかは 明 らかではありませんが、紀元前 14 世紀 の 中国 の 殷 ( い ん、後 の 商 ) の 遺 跡 から出土 した 甲 骨 文 ( こ う こ つ ぶ ん ) ・ 亀 甲 獣 骨 文 字 ( き っ こ う じ ゅ う こ つ も じ ) とも いう、に 去 勢 の 件 が 記 されて いたとされます。

前 述 した 如 く ( い ん ) では、異民族を 征 服 した 際 にその 捕 虜 を 去 勢 して 勝 利 の 「 あ か し 」 と し、神 に 感謝 する 風習 がありま したが、西 ア ジ ア でも 古 代 オ リ エ ン ト の 専 政 君 主 時 代 に、去 勢 の 風 習 が 存 在 して いま した。

西洋では 紀元前 5 世紀 の ギ リ シ ャ 人 で 「 歴 史 の 父 」 と い わ れ た ヘ ロ ド ト ス ( 紀元前 484 年 頃 ? ) によれば、「 宦 官 の 使 用 は ペ ル シ ャ 人 の 習 俗 である 」 と 述 べ て い ま した。そ れ に よ れ ば、宦 官 は 一 般 の 人 よ り 信 頼 できると 考 えられ てお り、通 常 は 選 ばれた 優 秀 な 青 年 が 去 勢 さ れ て 宮 殿 に 奉 職 させられ ま した。

紀元前 6 世紀、ア ケ メ ネ ス 朝 ペ ル シ ャ の 王 ダ リ ウ ス ( D a r i u s 、 紀元前 550 年頃 ~ 紀元前 486 年 ) は、 バ ビ ロ ン ( 古代 メ ソ ポ タ ミ ア の 首 都 ) や ア ッ シ リ ア ( 現 ・ イ ラ ク 北部を占める 地域 やそこに 興 った 王 国 ) などに、去 勢 し た 少 年 500 人 を 献 上 せよ と 要求 して いま した。

去 勢 者 ( 宦 官 ) についての 記 述 は、 新 約 聖 書 ・ マ タ イ に よ る 福 音 書 ・ 第 19 章 ・ 12 節 の 中 にも 見 られます。

母 の 胎 内 から 『 独 身 者 』 ( こ こ で は 閹 人、え ん じ ん、 去 勢 さ れ た 男 性 の こ と ) に 生 ま れ つ い て い る も の が あ り、また 他 から 『 独 身 者 』 に さ れ た も の も あ り、ま た 天国 の た め に、み ず か ら 進 ん で 『 独 身 者 』 と な っ た も の ( 自 宮、じ き ゅ う、自 ら 去 勢 を 希 望 し た 者 ) も あ る。

注 : 上 記 は 1954 年、 日本聖書教会 の 新 約 聖 書 改 訳 版 の 文 章 で す が、 括弧 ( ) の 中 は 管理人 が 記 入 し た も の 。

さらに 上 記 の 『 独 身 者 』 につ いて 調 べ る と、 原 文 に 近 い とされる、ヴ ル ガ ー タ 訳 の ラ テ ン 語 聖 書 で は 去 勢 さ れ た 者 を 意味 する e u n u c h i ( ユ ー ナ ッ チ 、複 数 形 ) と なって いた。

こ の こ と か ら、初期 キ リ ス ト 教 会 に 被 去 勢 者 が 存 在 して いた 可 能 性 があ り、これが カ ス ト ラ ー ト ( 第 5 項 去 勢 さ れ た、 カ ト リ ッ ク 少 年 合 唱 団 ) で 後 述 、 の 遠 因 と な っ た とも 考 えられる。

宦 官 の 地 理 的 分 布 をみると、東 は 中国 ・ 朝鮮 ・ アンナン( 安 南、ベ ト ナ ム中部 ・ 北部 ) などの 儒 教 文 化 圏 と、西 は ヨ ー ロ ッ パ の 多 く の 古 い 国 や ギ リ シ ャ ・ ロ ー マ ・ 中 東 をは じめ 、ト ル コ ・ イ ン ド の ム ガ ー ル 帝国 などの イ ス ラ ム 文 化 圏 に は、 いずれも 宦 官 が 存在 しま した。

しか し 日本 ・ 満州 ( 中国 の 東 北 部 ) から シ ベ リ ア ・ 極東 にかけての 北東 ア ジ ア 地域に住み、ツ ン グ ー ス 諸語を 母語 とする ツ ン グ ー ス 系 諸民族 の 社 会 には、 宦 官 は 見 当 た り ませんで した。


( 2-2、 日 本 に 宮 刑 が あ っ た の か )

インターネットで 検索 したところ、ある 資 料 によれば、室町幕府 の 発足 に 際 して 建武 3 年 ( 1336 年 )11月 7 日 に 足 利 尊 氏 ( あ し か が た か う じ ) が 出 した 法令 兼 ・ 施政方針 の 宣 言 である 建 武 式 目 ( け ん む し き も く ) の 中 に、 宮 刑 ( き ゅ う け い ) の 記 載 があると 記 されて いま した。

その 方法 とは 男 は ヘ ノ コ ( 男 性 器 ) を 割 ( さ )き、女 は 孔 を 縫 い 潰 して 塞 ぐ

のだそうです。し か し 建 武 式 目 17 条 の 条 文 を 私 が 調 べ た 限 り で は、宮 刑 に 関 する 記 述 は 見 当 た りませんで した。興 味 のある 方 は、 条 文 を 調 べ て み て 下 さ い 。


[ 3 : 去 勢 さ れ た 男 性 の 数 ]

紀元前 11 世紀 から 紀元前 8 世紀 まで 古代 イ ス ラ エ ル に ユ ダ ヤ 人 の 王 国 が 存在 しま したが、 イ ス ラ エ ル を 統治 した 第 3 代 の ソ ロ モ ン 王 ( 紀元前 965 ~ 紀元前 930 年 ) は、 多数 の 女性 を 有 して いたことで 知 られて います。

旧 約 聖 書 の 列 王 紀 上 ( れ つ お う き ・ じ ょ う ) ・ 第 11 章 ・ 3 節 によれば、

彼 ( ソ ロ モ ン 王 ) に は 王 妃 と し て の  妻 七 百 人、そ ば め ( 妾 ) 三 百 人 が あ っ た。そ の 妻 た ち が 彼 の 心 を 転 じ た の で あ る。

と 記 されて いま したが、これだけの 数 の 女性 を 維 持 ・ 管 理 するためには、多 数 の 男 性 使 用 人 が 必 要 であ り、女 盛 り の 女性 たちが 住 む 後 宮 で 男 の 奴 隷 が 使 用 される となる と、そこには 男 女 の 「 ふ し だ ら な 関 係 」 が 生 じる 可能性 が 十分 ありま した。

去勢術後

そのような 事態 を 避 けるために、 全 て 去 勢 された 白 人 ・ 黒 人 の 中 性 奴 隷 たちが 使 用 されま した。右 の 写真 は 去 勢 された 者 の 局 部 写 真 ですが、去 勢 手 術 を 受 けると 、現代 において 「 前 立 腺 ガ ン 」 の 摘 出 手 術 を 受 けた 者 と 同 様 に、し ば ら く は 常 に 小 便 を 垂 れ 流 す の だ そうです。

ところで ソ ロ モ ン 王 が 囲 った 女 性 たち の 数 に 驚 いては いけません。中 国 には、はるかに 上 がありま した。

  1. 前 漢 ( 紀元前 206 年 ~ 紀元 8 年 ) の 最盛期 における 第 7 代 皇帝 の 武 帝 ( ぶ て い、紀元前 156 ~ 紀元前 87 年 ) の 出 生 から 崩 御 までの 物 語 を 記 した「 漢 武 故 事 」 ( か ん ぶ こ じ ) によると、武 帝 の 後 宮 には 美 女 が 七 ~ 八 千 人 も 暮 ら し て いた。

  2. また 初代皇帝 司 馬 炎 ( し ば ・ え ん ) によって 建 国 された 西 晋 ( せ い し ん、265 ~ 316 年 ) に は、 皇 后 ・ 妃 ・宮 女 ( き ゅ う じ ょ、宮 中 に 仕 え る 女 性 ) が 一 万人 以上 も いた 。

  3. さらに 五 胡 十 六 国 時 代 ( ご こ じ ゅ う ろ っ こ く じ だ い、中 国 華 北 に 分 立 ・ 興 亡 した 民 族 ・ 国 家 の 総 称 で、304 ~ 439 年 まで を いう ) の 小 国 で あ っ た 後 趙 国 ( こ う ち ょ う こ く ) で さ え、宮中 に 仕 え る 宮 女 は 三 万 人 に 達 したといわれている。

  4. 楊貴妃 古代中国 の 四 大 美 人 と いえば、『 春 秋 時 代 の 西 施 ( せ い し ) ・ 前 漢 の 王 昭 君 ( お う し ょ う く ん ) ・ 後 漢 の 貂 蝉 ( ち ょ う せ ん ) ・ 唐 の 楊 貴 妃 ( よ う き ひ、右 図 ) 』 である。

    唐 の 第 六 代 、 玄 宗 皇 帝 ( げ ん そ う こうて い ) は 、文 字 どお り 傾 国 の 美 女 と 歌 われた 楊 貴 妃 ( よ う き ひ、719 ~ 756 年 ) を 寵 愛 し、国 を 傾 け た こ と で 知 られて いる。

    彼女 は 玄宗皇帝 と 共 に 安 禄 山 ( あ ん ろ く ざ ん ) の 乱 を 逃 れる 途 中 に、 皇 帝 軍 の 兵 士 たちから 皇 帝 を 惑 わ せ た 楊 貴 妃 の 殺 害 を 要 求 さ れ、玄 宗 皇 帝 は や む な く 腹 心 の 宦 官 だ っ た 高 力 士 ( こ う り き し、684~762 年 ) に 命 じ て、 彼 女 ( 当 時 3 7 歳 ) を 絞 殺 させた。

    そ の 時 代 に は、女 官 の 数 は 四 万 人 に お よ び、そ の 世 話 をする 宦 官 も 四 千 人 い た と い われて いる。


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