平 清盛 と 日 宋 ( そう ) 貿易 ( 続き )


[ 7 : 遣 唐 使 廃 止 後 の 貿 易 ]

唐 ( 618 ~ 907 年 ) の 滅亡後 中国大陸における王朝は、 五代 ・ 十国時代 ( 907 ~ 960 年 )、宋 ( 北 宋、ほくそう、 960 ~ 1127 年、 南 宋、なんそう、 1127 ~ 1279 年 ) と 各王朝が 興 亡 を繰り返 しま した。

遣唐使 派遣中止後の日本は 中国との正式な国交は途絶え、中国へは僧侶以外 の 渡航を禁 じ、民 間 レ ベ ル での 中国 からの 私 的 交 易 船 の 来航 も博多に限定するなど 種々の制限を加えたために、日中間 の 貿易は 停滞 しま した。

ところが 平安時代 中期 の 天徳 4 年 ( 960 年 ) に成立 した中国 の 宋 朝 は、産業の発達を背景に 貿 易 振 興 策 をとり、海外との貿易を管轄する役所の 市舶司 ( しは く し ) を 泉州 ・ 明州 ・ 温州 ・ 杭州などに設置 しま した。それ以後 宋 の 貿易船 は ジャワ ( 現 ・ インドネシア ) などの 南海地域 ・ 高麗 ・ 日本 へ の 航海 が盛 んになりま した。

宋 の 商 船 乗 組 員 は 東 支 那 海 の 気 象 や 海 流 を 熟 知 して い て、日本 と 宋 の間を片道 5 ~ 7 日 で 航 海 しま した。彼 らは 5 ~ 6 月 の 南 西 風 に乗って 来 日 し、翌年 3 ~ 4 月 の 北 東 風 を 利 用 し て 帰 国 するのが通例 で した。

宋 船 が 中 国 明 州 ( め い し ゅ う、杭州の湾岸都市 ) の 寧 波 ( ね い は ) から 博 多 に 来 航 すると、朝廷 は 唐 物 使 ( か ら も の の つ か い ) を 派遣 して優先的に必要な品物を買い上げ、残りを 民間の 交 易 に 任 ( ま か ) せる方法を と り ま した。

しか し 宋 船 の来航がますます盛んになるにつれて、日本の 貿 易 管 理 体 制 も 次 第 に 崩 壊 し、11 世紀末になると、沿岸各地に 荘園 を持つ 荘園領主 のなかには 宋 船 を 荘園内 の 港 に 着 岸 させて、 直 接 貿 易 を行う者も現 れ 始 めま した。

また九州から瀬戸内海沿岸地域の 武士 や 住人 の中からも宋商人との交易を求める者が登場 し、12 世紀に入ると博多などに 居住 する 宋 商 人 も増加するなど、民間貿易が急激に発展するに 至 り ま した。


( 7-1、貴 族 に 珍 重 された、 唐 物 )

中国 ( 宋 ) の商人がもたらす 商 品 は 唐 物 ( か ら も の ) と呼ばれま したが、 唐 「 か ら 」 とは 広 く 中国のことを指 し、唐 「 と う 」 王朝の時代 に作られた という意味ではありませんで した。日宋貿易は、 10 世紀から 12 世紀にかけて 盛 んになりま した。

[ 宋 船 による 輸 入 品 ] 

  1. 南海地域 ( 現 ・ インドネシア 領 の 香料諸島 など ) からもたらされた 白 檀 ( び ゃ く だ ん )、沈 香 ( じ ん こ う )、乳 香 ( に ゅ う こ う )、丁 字 ( ち ょ う じ ) などの香 料 / 香 木 類

  2. 薬 品 類 ・ 顔 料 類

  3. 豹 ( ひ ょ う ) の 毛皮、虎 の 皮 などの 皮 革 類

  4. 茶 碗 などの 陶 磁 器 類

  5. 綾 錦 ( あ や に し き ) などの 唐 織 物 類

  6. 呉 竹 ( く れた け )、漢 竹 ( か ん ち く ) など の 笛 の 材料

  7. 書 籍 ・ 経 典 ・ 筆 墨 ( ひ つ ぼ く ) および 文 房 具

  8. オ ウ ム、ク ジ ャ ク などの 鳥 獣

    宋銭

  9. 「 宋 銭 」 、後 述 す る ( 7-3 ) を 参照 の こ と。写真は 北宋 の 景 祐 元 寶 ( け い ゆ う げ ん ほ う ) 銭です。


[ 日 本 か ら の 輸 出 品 ]

  • これに対 して日本からは、 金 ・ 砂 金 ・ 銀 ・ 水 銀 ・ 真 珠 ・ 硫 黄 ・ 銅 ・ 鉄 ・ 刀 剣 ・ 木 材 後 述 す る ( 7-3 ) を 参照 の こ と。などを積み込んで、中国 に 帰 りま し た。

平安時代 には貴族 の 間 で、 「 唐 物 」 ( か ら も の ) が 極 上 の 献 上 物 とな り、所 有 することが 一 種 の ス テ ー タ ス ・ シ ン ボ ル ( Status symbol ) と みなされて いたので、それらの 品 々 は 貴族 から 渇 望 ( か つ ぼ う、心から 願 望 する ) されま した。


( 7-2、唐 物 購 買 競 争 の 禁 止 令 )

前述 したように、朝廷は海外の商 船 が持ち込む 財 物 を 優 先 的 に買い上げる、 唐 物 使 ( か ら も の の つ か い ) を 九州の 太 宰 府 に 派遣 して、 「 先 買 権 」 ( さ き が い け ん ) を 行使 しま したが、貴族たちも 同様の 私 的 な 買 付 け 人 を送 り、朝廷 は しば しば 競 合 を防 ぐ ための 禁令 を出 しま した。

それを示すものと して 延喜 3 年 ( 903 年 ) 8 月 1 日 付 の 太政官符 ( だ じょう かんぷ、命令文書 ) である、  「 應 禁 遏 諸 使 越 關 私 買 唐 物 事 」 があります。

 [ そ の 意 味 は ]

まさに 諸 使 ( し ょ し ) 關 ( せ き ) を 越 えて 私 的 に 唐 物 ( か ら も の ) を 買 うを 禁 遏 ( き ん あ つ、禁 じ 止 め さ せ る ) す べ き 事

ですが、それによれば、唐 人 商 船 が 港 に 着 く と、

諸 院 ・ 諸 宮 ・ 諸 王 臣 家 等 の 使 い、ならびに 太 宰 府 郭 内 ( か く な い、仕切られた 囲 い の 内 ) の 富 豪 の 輩 ( と も が ら ) が 唐 物 ( か ら も の ) を 競 っ て 購 入 し 、 価 格 秩 序 を 乱 した り 政 府 の 貿 易 管 理 権 を 侵 害 する 事 に 対 して、重ねて 禁 令 が下された。

とありま したが、それでも 唐 物 を 競 ( き そ ) って 買 い入れる行為 が 止 みませんで したので、延喜 9 年 ( 905 年 ) には 従来の制度 を改め、朝廷 自らが 「 唐 物 ( 先 買 )使 派遣 」 を 停止 し、貿 易 管 理 ・ 先 買 権 行 使 を 太宰府 管 理 に 委 任 しま した。そ して政府 の 需 要 品 目 を 太 宰 府に通告するだけに、とどめることになりま した。


( 7-3、宋 銭 の 輸 入、木 材 の 輸 出 )

奈良時代から 平安初期 の 日本では 和 銅 元 年 ( 708 年 ) から 応和 3 年 ( 963 年 ) にかけて、いわゆる 「 皇 朝 十 二 銭 」 ( こ う ち ょ う じ ゅ う に せ ん ) と呼ばれる 12 種類 の 貨 幣 ( 銅 銭 ) を鋳 造 しま し たが、なぜ 日宋貿易 で わざわざ 宋 銭 を輸入 したので しょうか ?。

その理由は 当時 日本国内 で 発見採掘 されていた 下記 の 鉱 山 。

  • 長 門 国 現・山口県 の 長 登 ( な が の ぼ り ) 銅 山 。

  • 因 幡 国 ( い な ば の く に ) 現 ・ 鳥取県 岩美郡 岩美町の 荒 金 ( あ ら か ね ) 鉱 山 。

  • 武蔵国 現 ・ 埼玉県 秩父郡 原谷村 黒 谷 ( く ろ や ) の 和 銅 ( わ ど う ) 露 天 掘 。

  • 陸奥国 現 ・ 青森県 中津軽郡 西目屋 ( に し め や ) 村 の、尾 太 ( お っ ぷ ) 鉱 山 。

和同開ちん

などの 銅 採 掘 量 が 急速に 減少 し、開発技術 が 劣 るため、安定 した 銅 の 生産ができませんで し た。写真 は 日本で最初の 流 通 貨 幣 と言われる、和 同 開 珎 ( わ ど う か い ち ん ) の 銅 銭。

そのうえ 天 平 勝 宝 4 年 ( 752 年 ) に 完成 した 奈良 東大寺 の 大 仏 建 立 ( こ ん り ゆ う ) に、 約 500 ト ン ( 注 参照 ) も の 銅 を使用 した ために、 国 内 に 銅 の 欠 乏 をもたら しま した。

[ 注 ]

大 仏 建 立 に 使用 された 正確な資材量 は、銅 が 約 486.63 ト ン 、錫 ( ス ズ ) が 約 8.3 ト ン、 金 が 約 430 キログラム で した。

そのために 市 場 の 要求に答えるだけの 「 良 質 な 貨 幣 ( 銅 銭 ) 」 を 大量 に供給できず、また 貨 幣 経 済 が 未熟 であったことから、 和 同 開 珎 ( わ ど う か い ち ん ) を初 めとする「 皇 朝 十二 銭 」 ( こ う ち ょ う じ ゅ う に せ ん ) の 流通 は、 ご く 限られた 地域 ( 畿 内 とその周辺 ) に とどまりま した。

当時の日本の経済は、 米 ・ 絹 ・ 布 を 基準 とする 物 品 貨 幣 が用いられ、東 国 では 絹 と 布 、西 国 は 米 が用いられる傾向がありま した。その一方で 宋銭 は アジア 全体の 「 共 通 貨 幣 」 と して 海外でも広 く 流通 し て いま した。

次 に なぜ 「 木 材 」 が、日本から 宋 へ 輸出されていたので しょうか ? 。その答は 「 宋 の 住 宅 事 情 」 にありま した。南 宋 の時代、中国北部は、金 王朝 の 支配下 にあり、華 北 や 中 原 ( ちゅうげん、黄 河 中 流 域 ) から 逃 れてきた人々 の 流 入 に 伴 い、南 宋 では 急激 な 人 口 増 加 が 発生 し、住宅用などの 木材 の需要が急増 しま した。しか し、山林の 伐 採 等で 森 林 資 源 が 枯 渇 ( こかつ ) して いたために、日本産 木 材 を 輸 入 する必要 に 迫られたからで した。

この 日宋貿易 を取り仕切っていたのが 清盛 率いる 平 氏 で、保元 3 年 ( 1158 年 ) に 清 盛 が 40 歳 で 大 宰 大 弐 ( だ ざ い の だ い に、太宰府 の 次官、九 州 圏 の 副 知 事 に 相 当 ) となり、仁安 元年 ( 1166 年 ) には 清 盛 の 弟であ る 平 頼盛 ( よりもり ) も 大 宰 大 弐 ( だ ざ い の だ い に ) となり、平氏 一族 は 日宋貿易 の 莫大 な 利益 を 手中に納め、それを 元手 ( も と で ) に して 政治勢力 の 拡大を 図 りま した


[ 8 : 日 宋 ( にっそう ) 貿 易 が、平 氏 にもたら した 富 と 発 展 ]

瀬戸内海航路

平安時代後期には 平 正 盛 ( 清盛 の 祖父 )、忠 盛 ( 清盛 の 父 ) が 瀬戸内海 の 海 賊 追討 などを して手柄を立て、忠盛 による博多での 宋 と の 私的貿易 などを通 して瀬戸内海運との関わりを深め、西国に基盤を 築 いて いきま した。

殊に久安 3 年 ( 1146 年 ) には 清盛 が 安芸守 ( あ き の か み、現 ・ 広島県知事 に 相当 ) に 任ぜられ、以後 10 年間 国 司 ( こ く し、国 の 中央から派遣された 行政官 ) と して、安芸国 との関係を持ち続け、海がもたらす莫大 な富への認識を深めて いきま した。

安芸の宮島

その当時、安芸国 宮 島に 鎮 座 する 厳 島 ( い つ く し ま ) 神 社 の 神主だった 佐 伯 景 弘 と 安芸守の 平 清盛 の結びつきを契機 に、平氏 一族 の 厳島神社へ の 信仰が始まったといわれています。

仁安 3 年 (1168 年 ) に、 平 清盛 が 厳 島 神 社 の 社 殿 を 大 規 模 造 営 し、現在と同程度の 社 殿 が整えられま した 。その 費 用 は 日宋貿易 によるもので した。

それ以後 平氏一門 の 隆盛 と 共に厳島神社も栄えて平家 の 氏神 となりま したが、平氏は 日宋貿易 による富を更に得るため 瀬 戸 内 航 路 の 整備 につとめ、日本と宋の交流、九州 ・ 瀬戸内と京との交流 ・ 連 携 を 活発化 させま した。


( 8-1、清 盛 の 婚 姻 政 策 )

清盛の政治的 ・ 経済的立場を優位に し、権力集中を容易に したものに彼の 婚姻政策 がありま した。 清盛の妻 平 時子 ( た い ら の と き こ ) の 妹 滋 子 ( し げ こ / じ し、後の 建 春 門 院 ) を 後 白 河 院 に 入 内 ( じ ゅ だ い ) させて 1161 年 に生んだ 男児 が、 第 80 代、高倉天皇 ( 在位 1168 ~ 1180 年 ) になりま した。

清盛 には 二人の 娘 がいま したが、長 女 の 盛 子 ( も り こ / せ い し ) が 関白 藤原基実 ( ふ じ わ ら の も と ざ ね ) の 正室 とな り、次女 の 徳 子 ( と く こ / と く し、後の建礼門院 ) は 高倉天皇 の 中 宮 ( ち ゅ う ぐ う ) となり、産んだ子が 2 歳 で 第 81 代、安徳天皇 ( 在位、1180 ~ 1185 年 ) に 即位 しま した。

そのため 清盛 は、 天皇 の 外祖父 の地位を獲得 しま したが、かつては 院政を支える 支柱 だった 軍 事 貴 族 の 平 氏 が、いまや 政 治 権 力 そ の も の に 変化 しま した。


[ 9 : 太 政 大 臣 になった 平 清 盛 ]

保元 ・ 平治の乱を経て政権を握った平 清盛は、旧来の方針にとらわれずに開国政策をとり、日宋貿易を積極的に進め、日本商人も 中国 の 宋 ( そう ) へ と進出するようになりま した。

仁安 2 年 ( 1167 年 ) に 清盛 は、臣下 と しては 律 令 制 度 における 最 高 位 である 従 一位 太 政 大 臣 に まで 上 り つ め、 位 ( く ら い ) 、人 臣 ( じ ん し ん、臣下 ) を 極 めま した ( 天 皇 の 「 け ら い 」 と して最高 の 地位に就 い た )。

家柄 や 身分 の 高貴 さが 最 重 要 視 された 時代 に、この 地位 は 単なる 軍 事 貴 族 出 身 の 平 氏 の 頭 領 ( と う り ょ う ) ご と き が 到 底 成 れ る ものではな く 、やは りそこには 白 河 上 皇 の 御 落 胤 ( ご ら く い ん、落 と し だ ね ) で あったことが 大き く 影響 していま した。

清盛の 昇進 に伴い 平氏 一族 もその 地位を高 め、やがて 「 公 卿 ( く ぎょう ) 十 六 人 ・ 殿 上 人 ( て ん じ ょ う び と ) 三十 余人 ・ 諸国の 受 領 ( ず り ょ う ) ・ 営 府 ・ 諸 司 ・ 都合 六十 余人 」  といわれる程の 出 世 振 り で した。

平家物語 巻 一 の [ 我 身 の 栄 花 ] によれば、秋津島 ( あきつ しま、日本国 の 異 称 ) の 六十六 箇国 の う ち、平氏 の 知 行 国 ( ち ぎ ょ う こ く、特定 の 国 の 国務権 ・ 徴税権 を獲得 し 収益 を得る 国 ) は 三十 余 箇国 となり、既に( 日本 の ) 半数を超えた り と 記 されていま した。

平家物語、巻 一 、 [ 禿 童 ( かぶろ ) ] の 記述 によれば、清盛 の 義弟 で あ る 平 大納言 時 忠 ( へ い だ い な ご ん の と き た だ ) が、

此 の 一 門 ( 平 氏 ) に 非 ( あ ら ) ざ ら ん 者 は、み な 人 非 人 ( に ん ぴ に ん ) た る べ し

[ 現 代 語 訳 ]

平 氏 の 一門 でない者は、出 世 も 富 貴 ( ふうき、財産に恵まれ、しかも身分が高 く なること ) も 思 うように で き な い の で、 み な 人 間 で は な い

と 語 っ た ほ ど で し た。

しか し 清 盛 は 太 政 大 臣 の 地位 に 一 旦は 就 いたも の の 、「 実 権 の 無 い 単なる 名 誉 職 」 に過ぎないことを 知 り、 三ヶ月 後 に 辞 任 しま した。


[ 10 : 出 家 後 の 清 盛 の 行 動 ]

清 盛 は 5 1 歳で 大病 を患ったので 長男 の 重 盛 ( し げ も り ) に 家督 を 譲 り、翌年 の 仁 安 3 年 ( 1168 年 ) に 出 家 し 、名 を 浄 海 と 改 めま した。

清盛像

写真の 木像 について、「 経 の 巻 物 」 を手 に したその 表 情 には 平家物語 に 描 かれている 清盛 の 傲慢 さ は 見 られ ず、一 門 の 武 運 長 久 を 祈願 して 写 経 した 頃 の 「 前 ( さ き ) の 太政大臣 浄 海 入 道 清盛 」 の姿で した。木像 は 鎌倉時代 の 作 で、国 の「 重 要 文 化 財 」 で す。


平家物語 巻 第 一、「 祇 園 精 舎 」 によれば、

承 平 ( じょうへい、 年号、以下 同 じ ) の 将 門 ( ま さ か ど ) ・ 天 慶 ( てんぎょう ) の 純 友 ( す み と も ) ・ 康 和 ( こうわ ) の 義 親 ( ぎ し ん ) ・ 平 治 ( へい じ ) の 信 頼 ( し ん ら い )、これ 等 は 驕 ( お ご ) れる事も 猛 ( た け ) き 心 も 皆 執 執 ( とり どり ) なり し か ど も、

間近 く は 六 波 羅 の 入 道 前 ( さ き ) の 太 政 大 臣 の 朝 臣 ( あそん ) 清 盛 公 と 申 し し 人 の 有様、伝 え 承 ( う け た ま わ ) る こそ、心 も 言 葉 も 及 ( お よ ) ば れ ね。

[ 現 代 語 訳 ]

ご く 最近 で は、前 の 太政大臣 の 平 清盛 と いう人の 悪 行 は 人 から伝え聞 いても、想像 すること も 言 い 表すこともできないほどである。


専 横 を 極 め た  先 平 相 国 入 道 ( さ き の へ い し ょ う こ く に ゅ う ど う ) 清 盛 が 犯 した 四 つ の 悪 行 は、全 てこ の 時期 に行 われま した。その 悪行 と は、

  1. 殿 下 乗 合 ( て ん が の の り あ い )、嘉 応 2 年 ( 1170 年 )、事件の内容に関しては、平家物語 巻 一、 殿 下 の 乗 合 を 参照 の こと。

  2. 後 白 河 法 皇 ( ご し ら か わ ほ う お う ) を 鳥 羽 殿 ( と ば ど の、院 の 御所 ) へ 幽 閉 、治 承 3 年 ( 1179 年 )、平家物語 巻 三、 法 皇 御 遷 幸 を参照 の こと。

    東大寺炎上

  3. 南 都 ( 奈良 の 都、東大寺  大仏殿 、 興福寺など ) を 焼 き 討 ち、焼死者 三千五百 余人、治 承 4 年 ( 1181 年 ) 1 月 15 日、平家物語 巻 五、 奈 良 炎 上 を 参照 の こと。

  4. 福 原 へ の 都 遷 ( み や こ う つ ) し、治 承 4 年 ( 1181 年 ) 6月3日、平家物語 巻 五、  都 遷 を 参照 の こと。


[ 11 : 福 原 京 造 営 と、 大 輪 田 泊 の 改 修 ]

出家後の清盛は、摂津国 福原 ( 現 ・ 兵庫県 神戸市 兵庫区 ) に 福 原 山 荘 を 構 えてそこに住み、平家一門 の 別荘 も 多く 営 まれるようになりま した。

宋の貿 易船

平 清盛は それまで北九州の博多まで しか来なかった 宋 船 を畿 内 ( きない、京に近い 摂津国 ・ 和泉国 ・ 河内国 ・ 山城国 ・ 大和国などの 五箇国 を指す ) まで導き入れることを計画 し、摂津国 ( 現 ・ 神戸市 兵庫区、 神戸港 西部にある 和田岬 周辺 ) にあったとされる 大 輪 田 泊 ( お お わ だ の と ま り、停 泊 港 ) を 日 宋 貿 易 の 拡大とその 拠 点 港 にするために、 改 修 工 事 に取り掛かりま した。

古くは 務 古 水 門 ( む こ の み な と ) とも 称された 大輪田泊 は、北側 の 六甲山系 や 西 に 突出 する 和 田 岬 によって 北 風 ・ 西 風 ・ 南 西 風 とそれによる 波 浪 から 停 泊 船 は 守 られていま したが、東 ・ 南 東 からの 風 や 波には まともに 晒 ( さ ら ) されると い う 弱 点 がありま した。

大和田泊

そこで 平 清盛 は 日宋貿易 で 稼 いだ 私費 を投 じ て 港の入り口に 防波堤 の 島 ( 経 ガ 島 ) を築 いて、港 に 停 泊 する 船 の 安 全 を 図 ることに しま した。 ( 右図 は 大 輪 田 泊 の 改 修 後 の 想 像 図 )

埋め立てによる 島は 承 安 3 年 ( 1173 年 ) に 完成 しま したが、その広さは 「 平家物語 」 によれば 「 一里 三十六 町 」 とあることから、37 ヘクタール ( h a ) と 推定 されています。 経が島の名前の由来について 平家物語 によれば、

阿波 の 民 部 重 能 ( み ん ぶ し げ よ し ) を 奉 行 にて 築 か れ ける に、人 柱 立 て ら る べ き な ん ど 公 卿 詮 議 有 り し か ども、それは な か な か 罪 業 な る べ し と て、石の 面 に 一 切 経 を 書 いて 築 か れ た り ける 故 に こ そ、経 の 島 とは 名 づ け けれ。

[ 現 代 語 訳 ]

阿波 ( 徳 島 ) の 民 部 重 能 を 奉 行 と し て ( 人 工 島 ) を 築 か れ、 ( そ の 際 に ) 人 柱 ( ひとば しら、人 身 御 供 = ひ と み ご く う ) を 立てる べ しとの 公卿 ( く ぎょう、三 位以上の 貴 族 ) が相談 して決めま したが、それは 罪 深 い こ とだと言って ( 清 盛 ) が 埋め立てに使う石 の 表面 に 一 切 経 ( いっさい きょう )を書 いて 沈 めさせま した。そのため、経の島 / 経が島 と名づけられま した。


( 11-1、音 戸 の 瀬 戸 開 削 )

こ の 大輪田泊 ( 港 ) の 改修 以外 にも、清盛 は 安 芸 ( あ き の ) 国 安芸郡 ( 現 ・ 広島県 呉市 ) にある 音 戸 の 瀬 戸 ( お ん ど の せ と ) の 開 削 ( か い さ く ) 工 事 をお こ な い、当時 の 大型船 の 航 行 を 可能 に し た と す る 伝 承 がありま した。それにより 、安 芸 の 宮 島 にある 厳 島 ( い つ く し ま ) 神社 へ の 参 拝 が 便利 になった といわれて います。

音戸の瀬戸全景

音 戸 の 瀬 戸 は 広島県 呉 市 ( く れ し ) にある 本州側 の 警 固 屋 ( け ご や ) 地 区 と、南にある 倉 橋 島 ( く ら は し じ ま ) の 間にある 幅 が 僅 か 9 0 メートル、船 が 通行可能 な  海 峡 の 幅 は 6 0 メートル で、潮 流 の 速い 海峡 です。

音戸ノ瀬戸

音戸 の 瀬戸 南端 の 倉橋島側 の 岩 礁 上 に 平 清 盛 の 功 績 を 称 え た 供 養 塔 が 元 暦 元 年 ( 1184 年 ) に 建 てられていて、これを 地元 では 清 盛 塚 と 呼 んで います。

私は 呉 港 か ら 松 山 行 き ( 所用時間 5 5 分 ) の スーパー ジェット 高 速 船 ( 写 真 ) に 乗船 して 音 戸 の 瀬戸 を通過 したことがありま したが、 上 の 高 架 橋 も マ イ カー と、 バ ス で 通 り ま した。


[ 12 : 宋 船 の 福 原 入 港 ]

嘉応 2 年 ( 1170 年 ) 9 月 20 日 に 宋船が瀬戸内海を通り、大輪田泊に入港 しま したが、後白河法皇 は清盛の勧めで 福原 に御幸 してその様子を見物 し、更に 宋 人を 接見 しま した

それまで日宋貿易は民間で活発に行われ 博多 には 宋人が居住 し、越前国 の 敦賀 まで 宋 船 が来航することもありま した。しか し 畿 内 まで 宋 人 が 来 ることは 異例 であり、( 天皇 ・ 上皇 が ) 外国人に 接見 する行為 は 宇多天皇 の 遺 戒 ( ゆ い か い、注 参照 ) で タ ブー とされた 行為 で した。

従 一位 ・ 摂政 ・ 関白 ・ 太政大臣 を 歴任 した 九 条 兼 実 ( く じ ょ う か ね ざ ね ) が、 平安時代 末 期 から鎌倉時代 初 期 にかけて 執筆 した 日記 の 「 玉 葉 」 ( ぎょ く よう ) の 中で、

我が 朝 ( ちょう、朝廷 の 意味 )、 延 喜 ( えんぎ 、901 ~ 923 年 ) 以来 未 曽 有 ( みぞう、歴史上 これまで 一度 も 起 き た ことがない ) の 事 な り。天 魔 ( て ん ま ) の 所 為 ( し ょ い、し わ ざ ) か 。

と仰天 し、非難 しま した。

[ 注 : 宇多天皇 の 御 遺 戒 ( ご ゆ い か い )]

寛 平 ( かんぴょう ) 9 年 ( 897 年 8 月 4 日 ) に 第 5 9 代、宇 多 天 皇 ( 在位 887 ~ 897年、その後 譲 位 して 上皇、後に出家 して 寛 平 法 皇 ) が 、当時 1 3 歳だった 第 6 0 代、醍 醐 ( だ い ご ) 天 皇 へ の 譲 位 に 際 して 与えた 書 置 の 一 部。

すだれ越し

外 蕃 ( が い ば ん、外 国 の 野 蛮 人 ) と は、 必 ず 御 簾 ( みす ) 越 し に 接 見 せよ

と 記 していた。

これ以降、江戸時代 の 朝 鮮 通 信 使 ・ オランダ の 長 崎 商 館 長 を含めて、在位中 の 天皇 が 外 国 人 に 接 見 することは、明治 に至るまで 約 七百年間 例がありませんで した 。その 理由 は 外国人 に対する 穢 れ ( け が れ ) の 思 想 から 、と も いわれて います。

その タ ブ ー ( 禁 忌、き ん き ) を破り 外国人に初めて 接 見 した天皇は、 当時 16 歳 の 明 治 天 皇 で 明治元年 ( 1868 年 )3 月 2 6 日に 京都御所において 外国人 を 接見 しま したが、相手は 英国公使 の ハーレー ・ パークス ( Harry Smith Parkes ) で した。


( 12-1、福 原 遷 都 )

ところで 治承 4 年 ( 1180 年 6 月 26 日 )、京 の 都 から 摂津国 の 福 原 へ 安 徳 天 皇 ・ 高 倉 上 皇 ・ 後 白 河 法 皇 の 行 幸 ( ぎょうこう ) が行 なわれ、とりあえず 平 清 盛 ・ 弟 の 頼 盛 ( よりもり ) ・ 甥 ( お い ) の 敦 盛 ( あつもり ) の 別 荘 を 、御 所 代わりの 行 宮 ( あんぐう、一時的な 御 所 ) に しま した。

しかし福原の地は 六甲山系の山と 海が近く平地に恵まれずに、施設の整備は はかどりませんで した。

平氏軍潰走

そう した中、東国において旗揚げ した 源 頼朝 率いる 反 平氏 勢力 との 騒乱 はますます 激化 し、同年(1180年)11月 9 日に 駿河国 富士川で 源 頼朝、武田信義 の軍勢と、平 維盛 ( これもり、清盛 の 嫡 孫 ) 率いる 平氏の軍勢 が 富士川 を 挟 んで 対陣 しま した。

水鳥の大群

ところが 戦い の 前 夜、 水鳥 の 大群が 飛び立つ 羽 音に 源 氏 の 夜 襲 か と驚 いた平氏の 軍勢 は 戦わずに 潰 走 ( か い そ う 、秩序な く 逃 げ る こ と ) し 、平 氏 の 大将 の 平 維盛 ( これもり、2 3 歳 ) は京 へ 逃げ帰 り ま した 。

こう した状況に抗 しきれず、一旦は福原に都を定めた はず の清盛は、僅か 5 ヶ月後の治承 4 年 ( 1180 年 ) 11 月 23 日に 福原を引き払い、安徳天皇 と共に 平安京 ( 京都 ) に向けて出発 しま した。


[ 13 : 熱 病 に 罹 っ た 清 盛 ]

治承 5 年 ( 1181 年 ) 2 月のこと、清盛が 頭 風 ( ず ふ う、頭 痛 のこと ) を病んでいるとの 噂 ( う わ さ ) が京の街に流れま した。 翌月 の 閏 ( うるう ) 2 月 ( 太陰 太陽暦 において加えられる 「 月 」 のことで、閏 年 の 場合には 1 年 が13 ヶ 月 となる ) には絶望的な病状との 噂 になりま した。

平家物語 の 巻 六、 入 道 逝 去 によれば、

入道相国 病 ひ 付 き 給 へる日より して、湯水 も 喉 へ 入れられず、身 の 内 の 熱 き事は、火を 焚 く が 如 し。臥 し 給 へる所、四 ~ 五間 が内 へ 入る者は、暑さ 耐 へ 難 し。唯 宣 ふ 事とては、「 あた あた 」 とばかりなり。實 に 只事 とも見え給 はず。

余りの 堪 へ 難さにや、比 叡 山 より 千 手 井 の水を汲み下 し、石 の 槽 に 湛 へて、それに 下りて冷 え 給 へ ば、水 夥 ( おびただ ) しう 沸 き上 がって、程なく 湯 にぞなりにける。

若 しやと筧 ( かけひ ) の水を ま かすれば、石や鉄 ( くろがね ) などの焼け80,58たhreる様 に、水 迸 ( ほ と ば し ) っ て 寄り付かず。自 ( おのづか ) ら中( あた )る水 は、炎 ( ほむら ) となって燃えければ、黒煙 殿中に満ち みちて、炎 渦巻 いてぞ 揚 りける。

  [ 現 代 語 に 意 訳 ]

入道相国 ( に ゅ う ど う し ょ う こ く ) は 発病された日から水さえ 喉 へもお通 しにならない。体内の 熱 いことは 火を 焚 いているようである。寝ておられる所から 四~五 間 ( 7 ~ 9 メートル ) の 内 へ入る者は 熱 さに耐えられない。ただおっ しゃることは 「 熱 い、熱 い 」 とだけである。いささかも ただごととは見えなかった。

比 叡 山 から 千 手 井 ( せ ん じ ゅ い ) の 水 を汲み下ろ して 石 の 水槽 に満た し、それに浸かって熱 した体を冷やそうとすると、水が急激に沸 き 上 が っ て すぐに湯になった。

も しや 助 けられるかと 筧 ( か け ひ ) の水を体に掛けられたが、石 や 鉄 などが焼けているように、水 が ほ と ば し っ て 寄 り 付 かな い。偶然 当たった水は 火炎 となって燃えたので、黒煙 は 殿中 に 充 満 して、焔 は 渦 を 巻 い て 燃 え 上 がった。

温度計

とありま した。現代人が読めば 到底 信 じられない 発 熱 の 超 誇 大 描 写 「 猛 烈に 高 い 体 温 」 の 記 述 です。ちなみに ア ナ ロ グ 式 体温計 の 最高温度 の 目盛りは、いずれも 4 2 度 C となっていて、それ以上の目盛りはありません。なお 電 子 式 体温計では、その場合は 「 H ℃ 」 と 表示されます 。

その理由については、 体 温 が 4 2 度 を超えるような 生 命 の 危 機 に 瀕 し た 状 態 においては 、それ以上の体温を測定することは 意 味 が な い ため とされています。


( 13-1、高 熱 が 出 る 病 気 )

[ インフルエンザ 説 ]

昔の記録によれば、貞 観 ( じ ょ う が ん ) 4 年 ( 862 年 ) の 冬から翌年春にかけて、熱 と 咳 が続 く 咳 逆 ( しはぶき ) という 一種の 流行性 感冒 が大流行 した記録があり、その後も度々流行 しま したが、清盛の病気も イ ン フ ル エ ン ザ や 肺 炎 だった可能性も考えられます。

[ マ ラ リ ア 説 ]

日本には古代から 瘧 ( お こ り ) と呼ばれる マ ラ リ ア の 一種 である 「 病 気 」 が存在 しま したが、それだとする 説もありま した。マ ラ リ ア は 熱 帯 や 亜 熱 帯 地 域 に多い 感染症 であり、日本 本土には 無関係 と思う人が も しいたら、それは 間違 いです。

かつて 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時の日本には、 風土病 と しての マ ラ リ ア が存在 していま したが、詳 しく知りたい方は ここを お 読 み 下 さい

ちなみに マラリア 原虫を持つ ハ マ ダ ラ 蚊に刺されてから、通常 1 ~ 4 週間で発病 しますが、発症すると、悪 寒 ( お か ん )、震 ( ふ る )え を伴 いながら体温が上昇 し、 3 9 ~ 4 1 度 C 前後 の 高熱 に襲われ、顔面紅潮、呼吸切迫、結膜充血、嘔吐、頭痛、筋肉痛などの症状が現れます。


[ 14 : 清 盛 の 死 と 遺 言 ]

養和元年 (1181 年 ) 閏 ( う る う ) 2 月 4 日 ( 今の 暦 で 3 月 20 日頃 ) に、八条 河原口 にある 平 盛国 ( も り く に ) の 邸宅 で 清盛 は息を引き取りま したが 享年 6 4 歳で した。それ以前に 三男 の 宗盛 が聞いた 清盛 の 遺言 によれば、

今生の望みは、一事も思い置くことな し。ただ思 い 置 く 事 とては、兵衛 の 佐 ( ひ ょ う え の す け ) 源 頼朝 が 首 ( か う べ ) を見 ざりつる事 こそ、何よりもまた 安 い ( あ ん い、安 意、安 心 ) なけれ。我 いかにも なりなん 後、仏 事 供 用 をも すべからず、堂 塔 を も建 つ べ からず。急ぎ 討 つ 手 を 下 し、頼 朝 が 首を 刎 ねて、我が墓の前に 掛 く べ し。それぞ 今生 後生の孝養 にて あ ら ん ず る ぞ

[ 現 代 語 訳 ]

今この世に思い残すことなど何もない。ただひとつ 残 念 なのは、あの 源 頼朝 の生首を見ないで死ぬことだ。私が死 した後、仏 事 供 養 に かまけていてはならぬ。供養と 称 して、寺など建てるはもってのほかだ。それよ り なによ り、急 いで 頼朝 追討 の 軍 を組織 し、直ちに伊豆 へ 下 れ、一時も早 く 頼朝 の 首を 刎 ( は ) ね、我が墓にかけるのだ。それこそがこの私を供養 し、孝行する道だと思え。」

で した。前述の 右大臣 九 条 兼 実 ( かねざね ) は その日記 「 玉 葉 」 の中で、

本来ならば ( 清盛は ) 戦場に 骸 ( むくろ ) をさらすべきであるのに、弓 矢 刀 剣 ( きゅう し と う け ん ) の 難を免れて 病床 に死んだのは、運のよいことだ。しか し 神罰 ・ 冥罰 ( みょうばつ、神 仏 が 人知 れず 下 す罰 ) は これから起こるだろう

と冷ややかに記 していま した。


[ 1 5 : 平 氏 の 滅 亡 と、血 筋 の 断 絶 ]

それから 4 年 後の 寿 永 4 年 ( 1185 年 4 月 25 日 ) に 長 門 国 赤 間 関 壇 ノ 浦 ( 現在 の 山口県 下 関 市 ) 沖で行われた 海 戦 で 平氏 は滅 亡 し、正統な天皇の 証 ( あ か ) しである 三 種 の 神 器 ( さ ん し ゅ の じ ん ぎ ) のうちの 八 咫 鏡 ( や た の か が み ) と 神 璽 の 八 尺 瓊 勾 玉 ( や さ か に の ま が た ま ) は 回収 されま した。

しかし 二 位 尼 ( に い の あ ま、平 清盛 の 妻 時子、5 9 歳 ) は 宝 剣 の 天 叢 雲 剣 ( あ め の む ら く も の つ る ぎ ) を腰に差 し、 第 81 代、安徳天皇 ( 7 歳 ) と共に 入 水 ( じ ゅ す い ) しま した。

その結果 安徳天皇は 崩御 し、宝 剣 も 海中 に没 し 失われま した。 平家物語、巻 一 の 御存 じ 「 祇 園 精 舎 」 の 最初 の 文章 によれば、


祇 園 精 舎 の 鐘 の 聲、 諸 行 無 常 の 響 きあり、沙 羅 双 樹 ( し ゃ ら そ う じ ゅ ) の 花 の 色、 盛 者 ( じょう しゃ ) 必衰 の 理 ( こ と わ り ) を 顕 ( あ ら わ ) す

[ 現 代 語 意訳 ]

祇 園 精 舎 の 鐘 の 音 は 「 世の中に 不変 なものはない 」 と 響 いている。釈 迦 の 臨 終 の 地 に 咲 く 沙 羅 双 樹 ( し ゃ ら そ う じ ゅ ) の 花 の色 は、勢 い の 盛 んな者は、 やがて 必 ず 衰 え 滅 びることを 表 して いる。

と記 していま した。

夏ツバキ

ちなみに 沙 羅 双 樹 ( し ゃ ら / さ ら そ う じ ゅ ) とは ツ バ キ 科の ナ ツ ツ バ キ のことで、花 期 は 6 月 ~ 7 月 初旬であり、花 の 大きさは 直径 約 5 センチ。 朝 に 開 花 し、夕 方 に は 花 のまま 落花する 「 一 日 花 」 であることから、日本においては 無 常 の 象 徴 とされています。

[ 注 : 祇 園 精 舎 と は ]

祇 園 精 舎 ( ぎ お ん し ょ う じ ゃ ) とは 古代 イ ン ド の コ ー サ ラ 国 の 首都の  舎 衛 城 ( し ゃ え い じ ょ う ) の 郊 外 にあった 仏 教 寺 院 の ことで、正 し く は樹 給 孤 独 ( ぎ じ ゅ ぎ つ こ ど く お ん ) という。

この 長 い 名前 の 最 初 と最 後 の 文 字 から、 祇 園 という 言葉 で 呼 ぶように なった。な お 精 舎 ( し ょ う じ ゃ ) とは 僧 院 の こ と。

伊勢平氏 から身を起こ し、平 正盛 ( まさもり )・ 忠盛 ( ただもり )・ 清盛と続き、 1153 年 に 清盛 が 平氏 の 頭 領 ( とうりょう ) となり、一時は 「 平 氏 に あ ら ざ る 者 は 人 に 非 ( あ ら ) ず 」 と おご り 高 ぶった平氏 も、 源 氏 に 敗 れ、 滅 亡 して しま い ま した。

その結果 平 氏 につながる 男 子 は 赤 子 に 至るまで 源 頼朝 の指示で 全 て 殺 され 、平氏 最後 の 嫡 流 ・ 小松 三位 中将 維 盛 ( こ れ も り ) の 嫡 男 で 清盛 の 曾 孫 ( そ う そ ん、ひ ま ご ) に 当 た り、12 歳で出家 した 三 位 の 禅 師 六 代 ( さ ん み の ぜ ん じ ろ く だ い ) だ け は、 源 頼朝 と親 しい 文覚上人 ( も ん が く し ょ う に ん ) の 助 命 嘆 願 により、 一旦 は 助命 されま した。


( 15-1、六 代 斬 ら れ )

しかし、平家物語 巻 第 十二、「 六 代 斬 ら れ 」 によれば、源 頼朝 の 死 後、

( 六 代 は ) さ る 人 の 子 な り、さる 者 の 弟 子 な り。たと ひ 頭 ( か しら ) を ば 剃 り 給 ふ とも、心 を ば よ も 剃 り 給 は じ

[ 現 代 語 意 訳 ]

六 代 は 平 氏 の 嫡 流 維 盛 ( これもり ) の 嫡 男 ( ちゃ く な ん、正室 の 生んだ 最年長 の 男 子 ) であり、 謀 反 ( むほん ) に連 座 した 疑 いで 佐 渡 へ 流 刑 となった 文 覚 上 人 ( もんが く しょうにん ) の 弟子 である。たとえ 頭 を剃って 出家 を しても、源 氏 に対する 復 讐 心 や 平 氏 再 興 の 野 心 を、 決 して 失 うことはな いであろう。

と いうわけで 逮捕 され、源 氏 の 本 拠 地 鎌 倉 へ 引 き 立てられ、相模国 ( 神奈川県 ) 田 越 川 ( たごえがわ、 現 ・ 逗 子 市 内 を流れる 川 ) の 「 ほとり 」 で 1198 年 に 斬 首 されま した。

六代の墓

彼が 終 焉 ( し ゅ う え ん、命 の 終 わ り ) を迎えた 場所 に 建 つ 石 碑 に は 六 代 御 前 ( ろ く だ い ご ぜ ん ) 最 後 之 故 址 ( さ い ご の こ し ) とあり、その近くにある階段を上り 小高い丘の上に行 く と、けやき の 大木の 処 に 江戸時代に建てられた「 六 代 御 前 墓 」 があります。

三位の禅師

ち な み に 六 代 ( ろ く だ い) とは 「 伊 勢 平 氏 中 興 の 祖 」 である 平 正 盛 ( ま さ も り ) から 数えて 六 代 目 に 当たる 嫡 男 のためにそう呼ばれま した。六代 の 諱 ( い み な、実 名 ) は 高 清 ( た か き よ )、法 名 は 妙 覚 ( み ょ う か く )、出家後 の 通 称 は 三 位 禅 師 ( さ ん み の ぜ ん じ ) で し た。

平 清 盛 の 死 後 わ ず か 1 7 年 で、 六 代 を 最 後 に 平 氏 の 血 筋 は こ と ご と く 絶 え ま し た が 、 ま さ に 諸 行 無 常 、驕 ( お ご ) れる 者 久 し か ら ず、 只 ( た だ ) 春 の 夜 の 夢 の 如 し で し た。


since H 29、Jan. 20

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