平 清盛 と 日宋( そう )貿易


[ 1 : 皇 族 賜 姓 ( し せ い ) と、 臣 籍 ( し ん せ き ) 降 下 ]

平安時代 ( 794 ~ 1192 年 ) に 天皇 は 安定 した 皇 位 継 承 者 を確保するために、皇后 ・ 中宮 だけにとどまらず、地位の高い女性である 女 御 ( に ょ う ご ) や 更 衣 ( こ う い、女 御より身分の 一段低 い 妃 で、父親 が 大納言 の 娘など ) を 寝所 に侍 ( は べ ) らせ ( 注参照 )、多くの 子 をもうけま した。

しか し 実際に 皇位継承 できる皇子は ごく少数に限られたので、平安前期 から 中期にかけて、 皇 位 継 承 の 道を閉ざされた 皇 族 が 多 数 生 じる事態 になりま した。

[ 注 ・ 源 氏 物 語、 第 一 帖 、桐 壺 ( きりつぼ ) の 冒 頭 文 ]

いづ れの 御 時 ( お んとき ) に か、女 御 ・ 更 衣 あ ま た さぶらひ 給 ( た ま ) ひ け るなか に、い と や む ご と な き 際 ( き わ ) にはあらぬ が、すぐ れて時 め き 給 ( た ま ) ふ あ り け り ( 以下省略 )

( 現 代 語 訳 )

ど の 天 皇 の 時代であったで しょう か、女 御 や 更 衣 が た く さん ( 天 皇 に ) お 仕 え していた 中 に、それほど高貴な身分ではない方で、際 立 ( きわだ ) って 帝 ( みかど ) の 寵 愛 ( ちょうあい、特別 に愛すること ) を受 けておられた方 ( 桐 壺 の 更 衣 )
が い ま した。

醍醐天皇女御

室町時代 ( 1336 ~ 1573 年 ) 初期に成立 した 源氏物語 の 「 注 釈 書 」 であ り、 四辻 善成 著 の 河 海 抄 ( か か い しょう ) によれば、第 6 0 代、醍 醐 ( だ い ご ) 天 皇 の 治世 である 延 喜 ( えんぎ ) 年間 ( 901 ~ 923 年 ) に は、天皇 の側 に仕えた 女 御 が 5 人、更 衣 が 1 9 人 も い ま した。 醍 醐 天 皇 は、よほど 「 女 性 好 き 」 であったに 違 いありません。


( 1-1、皇 族 賜 姓 と、臣 籍 降 下 )

これらの 女性 たちが 産 んだ 数多 く の 皇 族 た ち に対 しては、701 年に制定された 大 宝 律 令 ( た い ほ う り つ り ょ う ) の 定 めに従 い、 高 額 の 手当 が死ぬまで支給されていま した。

その 支出 が 律令国家 の財政を 圧迫 する 要因 となったため、皇 位 継 承 の 可能性 がなくなった 皇 族 たちに 姓 を 与 え る 皇 族 賜 姓 ( こう ぞ く しせ い ) を おこな い、同時に皇 族 の 籍 か ら 離 脱 さ せ る 臣 籍 降 下 ( し ん せ き こ う か ) が行われるようになりま した。

第 4 9 代、光 仁 ( こ う に ん ) 天皇 の 后 ( き さ き ) であ り 百 済 ( く だ ら ) 系 渡 来 人 を 先 祖 に 持 つ、 高 野 新 笠 ( た か の の に い が さ ) を母に持つ 第 5 0 代、桓 武 ( か ん む ) 天 皇 ( 在位、781 ~ 806 年 ) は、一世 の 皇 族 3 名を 含 む 100 名 余り の 皇 族 に 対 して 姓を与え ( 皇 族 賜 姓 ) して 臣 籍 降 下 を行 いま した。

第 5 2 代、嵯 峨 ( さ が ) 天 皇 ( 在位 809 ~ 823 年 ) も 多 く の皇子 皇女 をもうけま したが、 桓 武 天 皇 の 例 に習 って 多 く の皇族に対 して 賜 姓 し、 臣 籍 降 下 を 行 い ま した。

ところで 臣籍 降下後 の 一、二代目は 上 流 貴 族 と して 「 朝 廷 における 地 位 」 を 保 証 されま したが、三代目以降はほとんどが その地位を失 い 没落 して 下 向 ( げ こ う、都から地方へ下ること ) し、そのまま 土 着 して 地方の 武 士 や 豪 族 となる しか 生活の手段がありませんで した。


[ 2 : 清 盛 の 祖 父、平 正盛 ( た いら の まさも り ) の 場 合 ]

平 氏 ( 平 家 ) はそう した 「 皇 族 賜 姓 」 の 一 つで、「 源 氏 」 と 並 んで 最 も 代表的 な 一 族で した。「 平 ( た い ら )」 姓の由来は 明らかではありませんが、桓 武 天皇 が 794 年 に 遷 都 した 平安京 ( 現 ・ 京 都 ) の 創建者であったことから、平 安 の 「 平 」 の 訓読みである 「 た い ら 」 の語をとったとする説もあります。

桓 武 天 皇 の子孫で 臣 籍 降 下 し 「 平 ( た い ら ) 姓 」 を 賜 った 平 氏 を 「 桓 武 平 氏 」 ( か ん む へ い し ) と呼びますが、そのうち の 一 部が 10 世紀頃 伊 勢 国 に 下 向 し 、現在 の 三重県 ・ 津 市 を 本拠地 に 所領 を 獲得 しま した。

やがて 伊 勢 守 ( い せ の か み ) になると 勢力 を 拡大 し、 「 伊 勢 平 氏 」 と 呼ばれるようになりま した。

平安時代 後期 のこと、「 伊 勢 平 氏 」 の 頭 領 ( と う り ょ う、集団 の 長 ) に 「 平 正盛 」 ( た い ら の ま さ も り ) がいま したが、最初は 白河上皇 ( 注 参照 ) の 身辺を警固する 「 北 面 の 武 士 」 と いう、貴 族 社 会 から見ると 身分 の 低 い 侍 ( 現代 の 皇 宮 警 察 官 に 相当 ) で し た。

北面の武士

ちなみに 北 面 の 武 士 の 名前 の 由来は 御 所 や 院 ( い ん、上皇 や 法皇 の 住居 ) の 「 北 側 に 面 した 部 屋 = 居住 環境 が良くない部屋 」 で 待 機 したことからこのように呼ばれま した。

願 わ く ば 花 の下 に て 春 死 な ん、そ の 如 月 ( き さ ら ぎ ) の 望 月 ( も ち づ き ) の 頃

の 歌で有名な 西 行 も、かつては 北面の武士 で した。 彼は 2 2 歳で妻子と別 れて出家 し、後に 新古今和歌集 ( 1205 年 に 成立 の 勅撰和歌集 ) に 9 4 首 が入 選 する と いう 入選数 ナンバー ・ ワン の 「 歌 詠 み 」 になりま し た。

[ 注 : 法 皇 と は ]

宇多法皇

当時は 天皇 が 退 位 すると 「 上 皇 」 ( じ ょ う こ う ) になり、上 皇 が 出 家 すると 「 法 皇 」 と呼ばれたが、法 皇を 称 したのは 寛 平 ( か ん ぴ ょ う ) 法皇 と呼ばれた 宇 多 ( う だ ) 上皇 ( 第 5 9 代 宇多天皇、在位 887 ~ 897 年 ) が最初であった。右 図 が 寛 平 年間 ( 889 ~ 898 年 ) に 出 家 した 寛 平 法 皇 の 宇 多 上 皇 。

平 正 盛 ( 清 盛 の 祖 父 ) は 永長 2 年 ( 1097 年 ) に 伊賀国 の 所領を 六 条 院 ( 白河上皇 の 長女 の 菩 提 寺 ) に 寄 進 するなど、 成 功 ( じ ょ う ご う、注参照 ) や ワ イ ロ を送って 重 用され 出 世 の 糸 口 を つ か み、検非違使 ( け び い し、京都 の 治安維持と民政を所管 ) ・ 追捕使 ( つ い ぶ し、警察 ・ 軍事的官職 ) と して 諸国 の 盗賊 ・ 海賊 を討伐するなど して 活躍 しま した。

[ 注 : 成 功 と いう、売 官 ・ 売 位 制 度 ]

成 功 ( じ ょ う ご う ) と は、特に 平安時代 に 国費 の 不足を補 うために、 盛 ん に行われた 売 官 ・ 売 位 制度 の こ と。 朝 廷 の 公 事 ・ 行 事 及び 殿 舎 の 営 繕、寺 社 の 堂 塔 修 造 費用 など 、本来 朝 廷 の 公 費 で 負 担 す べ き と ころ を、 「 任 官 希 望 者 」 を 募 っ て 任 料 を 納めさせるか、または 自 己 負 担 でそれぞれの事業 の 功 を 成 らせて、 見返 り に 官 職 に 叙 任 する と い う 売 官 制 度 の 一 種。

平 正 盛 の 子 の 平 忠 盛 ( た い ら の た だ も り、清 盛 の 父 ) は 天 承 2 年 ( 1132 年 ) に、 鳥 羽 上 皇 の 御 願 寺 ( ご が ん じ、天皇 が 「 在 位 中 」 に建立を始めた寺院 ) である 得 長 寿 院 ( 白河 千体 観音堂 ) を 造営 し、 寄 進 しま した。

清涼殿

その 結果 は 著 し い 効 果 をもたら し 忠 盛 は 但馬守 ( た じま の かみ ) に任命され、その後  「 武 士 階 級 」 から、 従 五 位 下 ( じ ゅ う ご い の げ ) の 貴 族 に 昇 進 し ま し た。

天皇 の 日常生活 の 住居である 清 涼 殿 ( せ い りょうでん ) にある 殿 上 間 ( て ん じ ょ う の ま ) へ の 昇 殿 を、伊勢平氏 の 出 身 で初めて 許されま した。

上の 清涼殿 の 写真で 向かって 左 の 内 部 から、殿 上 ( て ん じ ょ う ) の 間、昼 御 座 ( ひ の お ま し )、夜 御 殿 ( よ る の お と ど、寝室 ) です。

忠盛は 軍事貴族 と して 「 白河 院政 ・ 鳥羽 院政 」 の 武力的 支柱 の 役割を果たすと ともに、諸国の 受領 ( ず り ょ う、任国におもむく長官 ) を歴任 し、日 宋 貿 易 ( に っ そ う ぼ う え き、中国 宋 と の 貿易 ) にも関係を持ち 莫大な富 を 蓄 えま した。その 財 力 は 次 代 に 引き 継 が れ、 平 氏 政 権 発 展 の 基礎 を 築 き ま した。


[ 3 : 平 清盛 の 実 父 と、 生 母 の こ と ]

前述 した 第 7 2 代、白 河 天 皇 ( 在位 、1069 ~ 1086 年 ) は 、応徳 3 年 ( 1086 年 ) に 実 子 である 僅 か 8 歳 の 善 仁 ( よ し ひ と ) 親 王 を 皇 太 子 に 立 てると、即 日 譲 位 し て 皇太子 を 第 7 3 代、堀 河 天 皇 に し、 自 分 は 3 3 歳 の 若 さで 白 河 上 皇 と な り 、院 政 を敷 く ことに し ま した。

ところで 清 盛 は 父 とされる、 平 忠 盛 ( た だ も り ) の 長 男 と して 、永 久 6 年 (1118 年 ) に 生まれま したが、母親については 諸 説 あ り ます。

妊み女

鎌倉時代初期 に 成立 し、 平 家 の 栄 華 と 没 落 を描 いた 軍 記 物 語 の 名 作 である 平 家 物 語 によれば、 白 河 上 皇 の 子 を 懐 妊 した 祇 園 女 御 ( ぎ お ん の に ょ う ご ) を 平 忠盛 に 賜 ( た ま わ ) り 、生まれたのが 平 清盛 であると しています。

自分の お 気 に 入 り だった 妾 ( め か け ) が 妊 ( は ら ) ん だので、臣下に 呉 れて や る 上皇 も 上皇 ですが、それを有り 難 がって 貰 う方 も 現代 の 常識 では 到 底 考えられませんが、その 当時 は 大 変 名 誉 だっ た の かも 知れません。


( 3-1、祇 園 女 御、 ぎ お ん の に ょ う ご )

[ 注 : 平家物語 巻 第 六、 祇 園 女 御 ]

また、ある人 の 申 しけるは、「 清 盛 は 忠 盛 が子にはあらず。実 ( まこと ) に は 白 河 院 の 御 子 な り 」 その 故 ( ゆ え ) は 去 ん ぬ る 永 久 の 頃 ほ ひ、祇 園 女 御 と 聞 こえ し 幸 人 ( さ い は い び と ) お は しける。

祇園女御供養塔

件 ( く だ ん ) の 女 房 の 栖 所 ( すま ひ ど ころ ) は 東 山 の 麓、祇 園 の ほとり にてぞ あり ける。白 河 の 院、常 は 彼 處 ( か し こ ) へ 御 幸 ( ごこう ) なる。( 以下省略 )

[ 現 代 語 訳 ]

また、ある人が申 したことは、「 清 盛 は 平 忠 盛 の 子 ではな い。 実 は 白 河 院 の 皇 子 である 」。 その詳細 は、去る 永 久 ( 1113 ~ 1118 年 ) の 頃、祇 園 女 御 ( ぎ お ん の にょう ご ) と 呼ばれた 御 寵 愛 ( ご ち ょ う あ い ) の 側 室 ( そ く しつ ) がおられた。その女性 の 住居は、東 山 の ふもと 祇 園 の 周辺 で、白 河 院 は 常にお出かけになられた。

と記されていま した。右上 の写真 は 祇 園 にある、祇 園 女 御 ( ぎ お ん の に ょ う ご ) の 供養塔。


( 3-2、胡 宮 ( こ の み や ) 神 社、 文 書 ( も ん じょ )

滋賀県 犬上郡 ・ 多賀町 には、鎌倉時代 ( 1192 ~ 1333 年 ) 初期 に 僧の 重 源 ( ちょうげん ) が 東大寺 再興 に 際 して銅 製 の 五輪塔 を寄進 した寺とされる 敏 満 寺 ( び ま ん じ ) がありま したが、戦国時代 の 戦火により焼失 しま した。

胡宮神社

この 敏 満 寺 の 鎮 守 社 ( ち ん じゅ しゃ、神 仏 習 合 の 結果、寺 の 鎮 守 の ために建立された 神社 ) と して建てられたのが 、胡 宮 神 社 ( こ の み や じ ん じ ゃ ) であるといわれています。

上の写真は 紅 葉 の 季 節 に 参 詣 路 を ラ イ ト ア ッ プ した 胡 宮 神 社 で、 名神高速道の 多賀 S. A. の 近 く にあります。

古文書

その 神社で発見された 「 仏 舎 利 相 承 図 」 ( ぶ っ し ゃ り そ う じ ょ う ず ) によれば、白河上皇の 所持 していた釈迦の 遺骨 ・ 遺灰である 仏 舎 利 ( ぶっ しゃり、実際には 入手困難 なため 「 遺 骨 」 に似た 材 質 の 宝 石 や 貴 石 「 ヒスイ や 石 英、せ き え い 」 などを 米 粒 状 に した 代 替 品 ) が、敏満寺 ( び ま ん じ ) に 寄進 されたとする 「 仏 舎 利 相 承 」 の流れを記 したものです。

それによれば 仏舎利 は 白河院 から 平 清盛 を 経 て、文永 元年 ( 1266 年 ) 3 月に 敏満寺 へ 移されたことが、この文書に記録されていま した。 しか し 興味深 いことに、仏舎利 は 白河院 から最初は 寵愛 する 祇 園 女 御 へ 譲 られ、その後 に、平 清盛 に渡 り、そして 敏 満 寺 に至 りま した。

この 文書 によれば、 祇 園 女 御 に 妹 が い たこ と 。その 「 妹 」 、( 女 房、身分の高い 天皇 に仕える 女 性 ) が 白 河 院 ( の 寝 所 ) に 召 され、 院 懐 妊 之 後 刑 部 卿 忠 盛 賜 之 、すなわち 院 の 子 を 懐 妊 の 後 に 平 忠盛 に 賜 ( た ま わ ) り 爲 忠 盛 之 子 息 云 清 盛 、生まれた 子 は 忠 盛 の子 と して 清 盛 と 名付 けられた と 、ここ に 記 されて いま した。

さらに、 平 清盛 の 生 母 は 祇 園 女 御 の 妹 であり 、1120 年に 清 盛 が 3 歳 の 時に 没 したとありま した。

その後 清盛 は 生母 の 姉 である 祇 園 女 御 の 猶 子 ( ゆ う し、擬似的 な親子関係を結び、この場合 平 清盛 の 出 自 ( しゅつ じ、生まれ ) に 箔 「 ハ ク 」 を着ける ために使用 した 方法 ) と して、姉 の 祇 園 女 御 に 養 育 された とする 説 が 有力 です。


( 3-3、平 家 物 語 の 種 類 )

平家物語 の 作者 については 公式 には 不明 とされていますが、日本で 清少納言 の 『 枕草子 』、 鴨 長明 の 『 方 丈 記 』 と並び、「 三 大 随 筆 」 の 一 つ とされている 吉田兼好 ( 本名 卜 部 兼 好、う ら べ か ね よ し ) が 著 した 『 徒 然 草 』 の 2 2 6 段、にある 後 鳥 羽 院 の 御 時 ( ご と ば い ん の お ん と き ) の 記述 によれば、

後 鳥 羽 院 の 御 時、信 濃 前 司 行 長 ( し な の の ぜ ん じ ゆ き な が ) 稽 古 ( け い こ ) の 譽 ( ほまれ ) ありけるが ( 中略 ) この 行 長 入 道 平 家 物 語 を 作りて 、生 佛 といひける 盲 目 に教 へ て語らせけ り。

[現 代 語 訳]

後 鳥 羽 院 の ご 治 世 の と き、信濃国 の 「 前 の 国司 」 ( 県知事 ) であった 中山 行長 ( な か や ま ゆ き な が ) は、学 問 の 道 で の 誉 ( ほ ま れ ) が高かった。( 中略 ) この 行長 入道 が 平 家 物 語 を 作 っ て 、生 仏 ( し ょ う ぶ つ ) という 名 の 盲 目 の 法 師 に 教 えて 語 らせた。

という 一節 がありま した。盲目の 法体 ( ほ っ た い、僧 体 ) と して知られる 琵 琶 法 師 ( び わ ほ う し ) は 平家物語 の成立時からこれに深 く かかわって いたことが想像されます。

琵琶法師

14 世紀には 琵琶法師 の中から 明 石 検 校 覚 一 ( あ か し け ん ぎ ょ う か く い ち ) が現れて 「 平 家 語 り 」 の 一流 派 を 興 し、その 台本 を定めま した。

彼らが 日本各地 を 巡って 平家琵琶 を 弾 きながら 平家物語 を語 り 生活 の 糧 ( か て ) を得て いま したが、 平家物語 の 内容については、 口 承 ( こ う しょ う、口 伝 え ) を 基本 に した 「 語 ( か た ) り 本 」 系 と、読み物 と して 広まった 「 読 み 本 」 系 との 間 には、 多少異 なる 部分 がありま した。

私は 元和 7 年 ( 1621 年 ) に 刊行された 片仮名 の 流 布 本 ( る ふ ぼ ん ) を 基 に、昭和 になって 校 訂 された 「 平家物語、流 布 本 」 を 以前から所有 していたので、今回の 随筆 にはそれを 使 いま した。


[ 4 : 保 元 ( ほ う げ ん ) の 乱 ]

保元 の 乱 ( ほうげん の らん ) と は、平安時代末期 の 保 元 元年 ( 1156 年 ) 7 月 に京都で 勃 発 した 内 乱 のことで、皇位継承 に関する第 7 5 代、崇 徳 ( すと く 天皇 在位、1123~1141年 ) 上皇と、第 7 7 代、後 白 河 ( ご し ら か わ )天 皇 ( 在位、1155 ~ 1158 年 ) 方 との 対立に、摂 関 家 ( せ っ か ん け、摂 政 や 関 白 に任ぜられる 高 い 家 柄 ) の 藤原 頼長 ( よりなが ) と、 藤原 忠通 ( ただみち ) との 家 督 相 続 争 いが 結 びつきま した。

崇徳上皇 ・ 藤原 頼長 側には 源 為義 ( みなもと た め よ し ) ・ 平 忠正 ( たいらの た だ ま さ ) が 加勢 し、後白河 ・ 藤原 忠通 側 には 源 義朝 ( みなもとの よ し と も ) ・ 平 清盛 らの 武士団が 助勢 した結果、崇徳上皇側 が 敗 北 し ま した。

その結果 藤原 摂関家 の 勢 力 は大きく 後退 し、代わって 藤原 信西 ( し ん ぜ い、貴族、学者、僧侶 ) ・ 藤原 信頼 ( ふじわら の の ぶ よ り ) などの 後白河天皇 の 近 臣 が 勢力 を持つようになりま した。

崇徳上皇

崇 徳 上 皇 は 讃 岐 国 ( さ ぬ き、香川県 ) に 流 され、藤原 頼長は 戦傷死 しま したが、崇 徳 院 の 詠 んだ 歌 が 万葉集に 載 せられてい ます。流されてから 8 後の 長 寛 2 年 ( 1164 年 ) 8 月に、4 6 歳で 崩 御 ( ほ う ぎ ょ ) しま し た。


[ 5 : 平 治 ( へ い じ ) の 乱 ]

平治 元年 ( 1159 年 ) に 前述 した藤原 信頼 ( ふ じわら の の ぶ よ り、公卿、後白河天皇 の 寵 臣 ) による 藤原 信 西 ( し ん ぜ い ) 打倒 の クーデ ター が起きま した。

清盛

最終的 には 平 清盛 とその ライバル で あった 清和 源 氏 ( せいわ げ ん じ ) の 頭 領 であった 源 義 朝 ( みなもとの よ し と も ) との間で戦 われた 六 波 羅 合 戦 ( ろ く は ら が っ せ ん ) によって、清盛 側 の 勝利に終わりま した。右図 は 平 治 物 語 絵 巻 に 描かれた 六 波 羅 合 戦 の 図 で、4 1 歳 の 平 清盛 の 武 者 姿 です。

藤原 信西 は クーデ ター の 際に 信頼 により 殺され、その信頼 も 平 清盛により 六条河原 で 斬首され、源 義朝は 再起 を図って東国 へ 敗走 の途中で殺されま した。信 西 打倒に関わった者は、後白河院政派 ・ 二条 親政 派を問わず政界から 一掃され、平 清 盛 は 平治の乱 から 半年後に、二階級特進して 正 三位 となり、 武士と して 初めて 公 卿 ( く ぎ ょ う、最高幹部 と して 国政 を担う 職 位 ) になりま した。


[ 6 : 中 国 と の 外 交 貿 易 関 係 ]

第 3 3 代、推 古 ( す い こ ) 女帝 ( 在位 592 ~ 628 年 ) の 時代 に、日本は 中国 隋 ( ず い ) の 政治制度 や 文化 を学ぶために 推 古 8 年 ( 600 年 ) から推 古 26 年 ( 618 年 ) まで、約 5 回 にわたり 遣 隋 使 ( け ん ず い し ) を 派 遣 しま した。

ちなみに 当時 の 日本には 年 号 ( 元 号 ) が 未 だ存在 せず 、日本書紀 によれば日本で最初に年号が使用されたのは 大化 の 改 新 ( 645 年 ) の時に、 「 大 化 」 が用いられたのが最初 とされます。

遣 隋 使 を 運 んだ船は 大阪 の 住吉神社 近くの 住吉津 ( す み の え の つ ) を 出 航 し、住 吉 の 細 江 ( 現 ・ 細 江 川 ) から大阪湾に出て、難 波 津 ( な に わ づ ) を 経 て 瀬戸内海 を 九州 博多津 ( はかたのつ ) へ 向 か い、そこから 玄界灘 に 出 る 航 路 を 取 りま した。


( 6-1、遣 唐 使 の 派 遣 )

隋 王朝 が 滅 びると、第 3 4 代、舒 明 ( じ ょ め い ) 天皇の 2 年 ( 630 年 ) に 第 1 回 遣 唐 使 と して 犬 上 御 田 鍬 ( い ぬ か み の み た す き ) を 派遣 しま したが、彼 は 最 後 の 使 も 務 め た 外交官で した。

大和朝廷 は以後 200 年以上 の 間 に 1 6 回 ( 数に ついては 諸説 あり ) にわたり 遣唐使 を派遣 しま した。それによって 当時 の 先進国であった 唐 の 文化 や 制度、そ して 僧 侶 の 留学 など、 仏教 の 日本 へ の 導入 伝播 に 大き く 貢 献 しま した。

竜骨船

ちなみに 遣 唐 使 船 は通 常 4 隻 で 船 団 を 組 み 航 行  しま したが、1 隻に 100 人程度が乗船 しま した。 しか し キ ー ル( Keel、竜 骨 ) の無い 船底 が 平らな 平 底 船 の 船 体 構 造 のため 風 浪 ( ふうろう ) に 弱 く、航海技術 も 未熟 で、なかば 風任 ( ま か ) せという、まさに 命 が けの 渡 海 で した。

4 隻 編 成 に した理由 とは、1 隻でも 目的地 に到達出来れば良いとする考えからで、まさに驚きで した。8 世紀の 遣 唐 使 船 の 航海では、4 隻 全ての 船 が 無事 に 往 復 で き た の は、 たった 1 回 だけで した

遣唐使船

奈 良に 唐 招 提 寺 を建 て 律 宗 の 開祖 となった 唐 僧 の 鑑 真 ( が ん じ ん ) 一 行が 日本を目指 した 752 年 の 帰国船団 では、 4 隻のうち、大使 藤 原 清 河 ( ふ じわらの き よ か わ ) の 乗った船 が マ レ ー 半島 まで 暴風雨 により流され、漂 着 後 に 乗 船 者 約 200 人 の 大半 が 原 住 民 に 殺 された と いわれて います。藤 原 清 河 は 帰国 できずに 唐 で 死 亡 しま した。


( 6-2、外 交 ・ 海 外 交 易 用 の 施 設 )

日本では 奈 良 時 代 ( 710 ~ 794 年 ) 以前 から 外交 および 海 外 交 易 の 施 設 と して、 北部 九州 に 筑 紫 館 ( つ く し の む ろ つ み ) や 大阪 に 難 波 館 ( なにわ の む ろ つ み ) と 呼ばれる 外交使節 を迎える 迎 賓 館 兼 宿 泊 所があり、海外 からの 使 節 はまずそこに 入 館 してから 大宰府 や 都へ 上りま した。

また海外 へ 派遣される 国 使 や 留 学 僧 のための公的な 宿泊所 と しても 用 いられ、外国商人 らの 検問 ・ 貿易品 の 検査 ・ 接待などに 用 いられま した。

その後は 大宰府 の 監督 の もとで 筑紫館 の 後身である 筑 紫 の 鴻 臚 館 ( こ う ろ か ん、鴻 臚 とは外交使節 の 来訪を告げる 声 の 意味 ) による貿易 が行われて いま した。筑紫の 鴻 臚 館 は現在の 福岡県 福岡市 中央区 福岡城 の敷地内に 遺 構 が見つかって いますが、 難 波 の 鴻 臚 館 ( こ う ろ か ん )を含めて、 鴻 臚 館 の遺 跡 と して確定されたものは 唯 一 です。

遣唐使派遣ルート

遣唐使 などの 一行 も難 波 の 鴻 臚 館 から 出 発 し、また外国からの使いもこの港に到着 しま した。

最初の 勅撰和歌集 で 913 年頃成立 した 「 古 今 和 歌 集 」 仮 名 序 ( か な じ ょ、か な で書かれた 序 文 ) には、難 波 津 ( な に わ づ ) を 詠 んだ 和 歌 がありますが、詠 み 人 は 百 済 ( く だ ら ) から 日本 に 渡 来 し、千 字 文 ( せ ん じ も ん、初心者用 漢字 ・ 習字 の 教科書 ) と 論 語 を伝えたとされる、 中 国 系 渡 来 人 の 王 仁  ( わ に ) で す。

難 波 津 に 咲 く や こ の 花 冬 ご も り、 今 は 春 べ と 咲 く や こ の 花

[ 和 歌 の 意 味 ]

難 波 津
( な に わ づ ) に こ の 花 ( 梅 ) が 咲 い た よ。 冬 の 間 は こ もっ て い た 花 ( 梅 ) が、 いよ い よ 春 だ と、 こ の 花 ( 梅 ) が 咲 い た よ


参考までに 大阪市の 区名 の一つである 此 花 区 ( こ の は な く ) は同 じ く 浪 速 区 ( な に わ く ) とともに、難 波 津 の 歌 から 名付 けられま したが、大阪市 此花区 西九条 六丁目 には、市立 中高 一貫校 の 「 咲 く や こ の 花 中学校 ・ 高等学校 」 もあります。

しか し 唐王朝 末期 の 政治的混乱による 治 安 悪 化 に加え、遣唐使船 の 造船 にかかる費用や、渡海 の 危険性 なども考慮 して、 寛平 6 年 ( 894 年 ) に遣唐使 の 派遣が中止されま したが、それを 建 議 したのは 菅 原 道 真 で した


since H 29、Jan. 20

次頁へ 目次へ 表紙へ