寄生虫大国だった日本

アリ

虫というと一般には節足動物門 ・ 昆虫綱 ( せっそくとうぶつもん ・ こんちゅうこう )に属する ムシ、 つまり体が 頭 ・ 胸 ・ 腹の 三部に分かれていて、頭部には 2 本の触角があり、体には合計 6 本の足がある生き物を思い浮かべますが、寄生虫とは他の動物などの体内や体の表面などに生息し、これらの動物から栄養を吸収して成長 ・ 増殖するものをいいます。

別の分類では 衛生害虫 という言葉がありますが、吸血したり毒針 ・ 毒毛で刺したりして人間に害を与え、生活環境を悪化させ、あるいは伝染病などの病原体 ( 病原菌 ・ 病原虫 ) などを伝播 ( でんぱん、広く伝えること ) ・ 媒介し、人の健康に害を与える虫のことですが、ここでは 人の体内に寄生する虫 について述べることにします。


[ 1 : 海人草 ( かいにんそう ) を 飲 む ]

虫下しを飲む

私は昭和 15 年 ( 1940 年 ) に東京市 ( 当時 ) 豊島区 ・ 巣鴨の仰高北 ( ぎょうこう きた ) 小学校 ( 昭和 20 年 4 月の大空襲で焼失し、跡地には、現 ・ 大塚聾学校が建つ ) に入学 しま したが、その当時の小学校では毎年春になると回虫の駆除薬である、海人草 ( 子供達は カイジンソウ と呼んでいま したが、正 しくは カ イ ニ ン ソ ウ ) を全員に飲ませていま した。

大釜

当日は小使室に行くと大きな鉄の釜に、薬草を煮出 して作った茶色の どろどろ した液体が入っていて、小使さんや先生が 「 ひ しゃく 」 で茶碗に注 ぐ、嫌な味がする生ぬるい 液体を顔を しかめながら飲みま したが、先生からは 数日中に大便と共に回虫が出た者は報告するようにといわれま した。私たちの学校は各学年に 4 クラスあり、全校で 千人程度の児童がいたので、回虫の駆除薬作りも大変だったと思 います。

ちなみに敗戦の前年 ( 1944 年 ) に東京から栃木県の田舎に疎開 し、昭和 20 年 ( 1945 年 ) に 田舎の小学校の 1 年に入学した老妻の話によれば、海人草 などの 駆 虫 薬 を小学校で飲んだ経験がないとのことなので、本校の他に分教場が二つもあった 僻 地 ( へきち、不便な土地 ) の村の小学校では、回虫駆除が実施されなかったのかも知れません。


( 1−1、海人草の歴史 )

海人草

その原料となったのが海に育つ紅藻類の イギス 目 ・ フジマツモ 科 の カ イ ニ ン ソ ウ という海草ですが、この海草の 薬用と しての歴史は非常に古く、

  1. 平安時代に 菅 原 岑嗣 ( すがわら みねつぐ、793〜870 年 ) が勅命 ( ちょくめい、天皇の命令 ) により他の医師と共に、 866 年に完成 した 医学書の 金 蘭 方 ( きんらんほう ) の中に、

  2. 鎌倉時代の 1303 年に梶原性全 ( かじわら しょうぜん、1266〜1337 年 ) が編纂 した医学全書である 頓 医 抄 ( とんい しょう、全 50 巻 ) の中に、

    それぞれ 海 忍 草 ( かいにんそう ) と して名前が記されていま した。

  3. 江戸時代初期の 1709 年に、貝原益軒 ( かいばら えきけん、儒学者 ・ 本草家 ・ 教育思想家、1630〜1714 年 ) が編集 し刊行した 大 和 本 草 ( やまとほんぞう、本草とは薬用植物のこと ) によれば、

    鷓鴣菜 ( マクリ、海人草の別名 ) は海 石 ( かいせき、海中の岩 ) 上に生じ、散砕 ( さんさい、細かく砕いた ) なもので色は微黒 ( びこく、僅かに黒い色 ) である。 小児 腹中に虫あるとき 、少 しく食せば能 ( よ ) く 愈 ( み ) ゆ ( 症状が改善される )。

    甘草 ( かんぞう、豆科の多年草で根を乾燥 し、鎮痛 ・ 解毒に効く ) と同煎 ( どうせん、同時に煎じる ) し用 ( もち ) ゆれば、 小児 腹中の虫を殺す 。 初生 ( しょせい、新生児 ) にも用ゆ

と記されていま したが、この薬は体内からの虫の駆除や胎毒 ( たいどく、注 : 参照 ) 下 しに使われたので、千年以上もの古い歴史を持つもので した。

注 : ) 胎毒 ( たいどく )
胎毒丸

現在では死語になりましたが、昔は乳児 ・ 幼児の体に生じる湿疹などの皮膚病のことを言い、その原因は 母胎内で受けたが病気を発症させると考えられていました。新生児が生まれて初めて排泄する便を 胎便 ( たいべん ) といいますが、黒緑色の無臭便で出生後 12〜24 時間以内には自然に排泄されます。

これを完全に排泄させておかないと 胎毒 ( 幼児性湿疹など ) になったりすると信じられていて、江戸時代には 「 胎便下し 」 を煎じて綿に含ませ、赤ちゃんに吸わせたといわれています。

前述した 「 大和本草 」 からの引用を続けると、

小児 初生三日中 ( 新生児が生まれると最初の三日以内に )、先ず海人草 ( かいにんそう ) と甘草 ( かんぞう ) の二つを用い、帛 ( はく、布 ) に包み、湯に浸し、之を吃 ( きっ、喫する、飲ませる ) せしむ。これを舐物 ( あまもの、なめもの ) という。此の方 ( ほう、方法 ) 何時頃から始まるたるか知らず。本朝通俗 ( ほんちょう つうぞく、日本の世間 一般の習慣 ) で、必ず用いる薬である。


[ 2 : 最も保有率が高かった、回虫 ]

回虫

体内に寄生する虫について、今ではご存じない人がほとんどだと思いますが、回虫とは右の写真にあるように、 成虫は ミミズのような細長い形をしていて人の小腸に寄生します。世界では人に寄生する回虫の感染者は 約 14 億人 といわれ、それが原因で年間に 約 6 万人 が死亡すると推測されていますが、50 年前までの日本は寄生虫 大国でした。


( 2−1、寄生虫保有率 )

昭和 2 年 ( 1927 年 ) に鹿児島県の衛生課が県内の各郡ごとに 二つの村を選び、そこに住む 一般人及び小学生の寄生虫検査を実施した記録がありますが、それによる寄生虫の保有率は下記の通りでした。

  1. 十二指腸虫 ( 鉤虫、こうちゅう ) : 14、4 パーセント

  2. 回虫 : 79.0 パーセント

  3. 鞭虫 ( べんちゅう ) : 13.5 パーセント

  4. 一人で複数の種類の寄生虫を持つ者がいましたが、全体に対する寄生虫保有者の割合は  84.1 パーセント という高率でした。

これはその当時鹿児島県民だけに寄生虫が まん延していたわけではなく、大阪府 ・ 茨木市史によれば、昭和 11 年 ( 1936 年 ) 当時 大阪府 ・ 三島郡 ・ 見山村 ( 現 ・ 大阪府 ・ 茨木市 ) における検査では、村民 1,350 名について寄生虫保有者数及びその割合は、

  1. 十二指腸虫 ( 鉤虫、こうちゅう ) : 112 名、  8.3 パーセント

  2. 回虫と鞭虫 ( べんちゅう ) : 930 名、 68.9 パーセント

でした。ちなみに、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 頃には都市住民の 3 割 、農村住民の 8 割 が寄生虫を保有し、 全国平均で 55 パーセント が寄生虫保有者であり 、日本は間違いなく 「 寄生虫大国 」 でした。その当時有効な治療薬が無く患者が多かった 死病 の肺結核 と並び、寄生虫症は 「 国民病 」 と言われていました。


( 2−2、十二指腸虫 ( 鉤虫、こうちゅう )

十二指腸虫という名前は、最初の虫が 十二指腸で発見されたことに由来していますが、一般には鉤虫 ( こうちゅう ) と呼ばれます 。成虫の長さ 1 センチ程度、感染経路は野菜に付着した卵による経口感染だけでなく、人糞を肥料として使用した田畑で作業中に幼虫が手足の皮膚からも侵入しますが、その際の 「 かゆさ 」 や侵入痕跡から、農民たちは俗に 肥やし ( 肥料 ) かぶれ などと呼んでいました。

潜伏期間を経て、腹痛、下痢、嘔吐( おうと )、咽頭 ( いんとう ) の異物感、ぜんそく様発作などが現れます。後には小腸粘膜から鉤虫に血液などを摂取されるために、鉄欠乏性の貧血、めまいなどが現れます。重症になると、動悸 ( どうき )、全身倦怠 ( けんたい ) 感、頭痛、手足のむくみなどが現れますが、鉤虫の寄生数が少ない場合は、目立った症状が現れないこともあります。


( 2−3、体内を移動する幼虫 )

寄生虫の中でも最も保有率の高かった 回虫 について説明しますと、分類学上は 袋形動物線虫綱 ( たいけい どうぶつ せんちゅう こう )、つまり ヒモ 状に細長い形をした人の小腸に寄生する虫で、色は淡黄色 〜 淡紅色、体長は オスで 15〜25 センチ、体幅 3〜4 ミリ 。メス で体長 20〜35 センチ、体幅 4〜6 ミリ あり、一生に 20 万個 の卵を産みます。

卵が口に入ると、小腸内で卵が孵化して長さが 0.2 〜 0.3 ミリ の 幼虫 になりますが、ここからがこの種の虫の 嫌らしいところで 、小腸に留まり続けて成虫になるのではなく、 回虫の名の通りに体内を動き回る性質があります 。 幼虫は必ず腸壁を破って他の臓器に侵入し、大部分の幼虫は門脈や肝臓を経て血管に入り血流に乗り、心臓から肺に到達し、少数の幼虫は腸間膜リンパ節に入り、リンパ液の流れに乗って心臓や肺に到達します。

人体内部を移動した後に、こんどは食道、胃を通って 再び小腸に戻って成虫になりますが 、回虫の卵が人体に入ってから体内旅行をして、成虫になるまでに約 2 ヶ月ほどかかるといわれ、回虫の寿命は 1〜2 年といわれています。


[ 3 : 寄生虫 まん延の理由 ]

なぜこれほど多くの人々の間で寄生虫がまん延したのかといえば、その理由は 14 世紀 ( 鎌倉時代 ) から昭和 35 年 ( 1960 年 ) 頃まで、 約 600 年以上もの間 、農耕における肥料として容易に入手できる 人糞を使用 してきたからでした。

その結果、畠で育った野菜には当然寄生虫の卵が付着していますが、それを生で、あるいは漬け物にしてよく洗わずに食べたり、寄生虫卵で汚染された土ほこりの付着した手の指から卵が口を経由して体内に入り、孵化して幼虫になり、体内旅行の後に小腸に戻り、成虫になり産卵し、卵が人糞と共に排出され、肥料に使用されるという、 寄生虫の生活循環 が繰り返され汚染が継続 ・ 拡大したからでした。


( 3−1、回虫症と寄生虫予防法 )

多数の回虫卵が人体に入ると、前述した幼虫が体内移動の際に肺を通過する際に セキ や タン が出たり、小腸以外の臓器への侵入で、胃に入り 「 胃けいれん 」、胆管に入り 「 肝炎 」 や 「 胆石発作 」、虫垂に入ると 「 虫垂炎 」 ( 盲腸炎 ) などを起こしますが、それだけでなく多数の回虫が寄生すると栄養不良や貧血を招き、あるいは回虫同士がからみあって 「 腸閉塞 」 を起こす場合もあります。

そこで政府は遅ればせながら昭和 6 年 ( 1931 年 ) に、 寄生虫予防法 ( 法律第 59 号 ) を公布し寄生虫の駆除に取り組むようになりました。

第一条、 本法ニ於テ寄生虫病ト称スルハ 回虫病、十二指腸虫病、住血吸虫病、肝臓 「 ヂストマ 」 病 及主務大臣ノ指定スル寄生虫病ヲ謂 ( い ) フ

第二条、 地方長官ハ寄生虫病ノ予防上必要ト認ムルトキハ健康診断ヲ行ヒ 又ハ糞便検査ヲ為スコトヲ得

2、 前項ノ健康診断又ハ糞便検査ノ費用ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス

昭和 30 年 ( 1955 年 ) 頃から農村では、人糞に代えて徐々に化学肥料が使用されるようになり、小学校における回虫駆除も盛んになり、寄生虫保有率も次第に減少して行きましたが、その後平成 6 年 ( 1994 年 ) に公布された、 「 許可、認可等の整理及び合理化に関する法律 」 の 第 5 条の規定 「 寄生虫病予防法は、廃止する 」 により、63 年続いた同法も廃止されました。

現在その内容の一部は、平成 10 年 ( 1998 年 ) に制定された 「 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律 」 へ引き継がれていますが、ちなみに J A S 法 ( Japanese Agricultural Standards、農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律 ) の規定に基づく有機認証では、 人糞を肥料として利用すること は禁止されています。


[ 4 : 寄生虫保有の過去と現在 ]

寄生虫の問題を突き詰めると屎尿 ( しにょう、大小便 ) 処理の問題、つまり下水処理の問題にたどり着きますが、時代の変化 ・ 経済の発達に伴い 肥料 としての利用価値や用途を失った屎尿 を、どのように処理するかでした。 その 一端を水洗 トイレの普及率で調べると、

( 4−1、 都市別の水洗 トイレ普及率 )

昭和 35 年 ( 1960 年 ) 度版の厚生白書 ( 厚生省 ・ 環境衛生局調査 ) によれば、昭和 35 年末における主要都市における水洗便所の普及率は下表の通り。


昭和 35 年度 ( 1960 年 ) 水洗 トイレ普及率

都市名普及率 ( % )都市名普及率 ( % )
苫小牧14.3名古屋市46.2
高崎市32.2豊橋市40.4
東京都84.5京都市22.9
福井市19.5大阪市38.1
飯田市91.2神戸市19.4
岐阜市94.5姫路市11.5
神奈川県94.2鹿児島市78.4



( 4−2、水洗 トイレ普及率の県別 ベスト 7 と ワースト 7 )

それから 48 年後 の平成 20 年 ( 2008 年 ) における水洗 トイレの普及率を、総務省 ・ 統計局の 統計資料を基に、 都道府県別に ベスト 7 県と、ワースト 7 県の双方について記すと下表の通り。


平成20年、水洗便所の都道府県別普及率

順 位ベスト
県 名
普及率 ( % )順 位ワースト
県 名
普及率 ( % )
沖縄県97.2岩手県69.7
静岡県95.5高知県72.9
石川県95.1秋田県73.9
埼玉県94.9和歌山県75.5
兵庫県94.7佐賀県76.0
愛知県94.5長崎県76.4
神奈川県94.2島根県
青森県
79.4

ちなみに関東大都市圏は 93.8 %、 中京大都市圏は 94.1 %、近畿大都市圏は 93.1 % で、 全国平均は 90.7 パーセント でした。


[ 5 : 園児 ・ 生徒に対する寄生虫卵、検査 ]

昭和 20 年代 ( 1945〜1954 年 ) には寄生虫卵の保有者は全国民の 半数以上もあり、昭和 24 年 ( 1949 年 ) の検査では小学生の 63.5 パーセント が寄生虫の卵を保有していました。その後は化学肥料の普及と下水道など衛生環境の整備が進んだことに加え、寄生虫の集団検便や集団駆除の普及により 寄生虫の感染率は 1 パーセント以下に激減しました 

しかし現在も幼稚園児及び小学校の低学年 ( 1 年生〜 3 年 ) の生徒に対しては、 学校保健安全法施行規則 の第 2 章 健康診断 ・ 第 2 節、児童等の健康診断 ・ 第 6 条 ・ 11 項、 寄生虫卵の有無の項目 に基づき、毎年 4 月から 6 月の間に行われる定期健診に、 寄生虫卵 保有の有無 の検査がおこなわれています。

ぎょう虫検査

その方法については同施行規則の第 7 条 ・ 8 項により、ぎょう虫卵の検査にあつては セロハンテープ法 によると定められていて、通常は朝起きて一番に検査用 セロテープを肛門に押しつけておこない、 2 回の検査を行いますが、小学校等で発見される寄生虫卵のうち、 「 ぎょう虫 」 卵の割合が最も多くなっています。

( 5−1、ぎょう虫について )

子供が ぎょう虫に感染するのは幼稚園から小学 3 年生までが圧倒的に多いのですが、その理由は排便後の後始末の不慣れ ・ 不完全や、トイレのあとの手洗いをしないなど、衛生面での自己管理能力の未熟さによるものです。 感染した子供の寝具 ・ 肌着などに付着した ぎょう虫卵により、家庭内の他の人々に感染する場合もあります。

ぎょう虫

警告 気持ちが悪い写真を見たくない人は、左の写真を クリックしないこと。
成虫は盲腸や虫垂に寄生していて、人が眠った後に肛門から 出てきてその周囲に無数の卵を産みますが、その際に かゆみがあるため、掻くと虫の卵が指先 ・ 爪の間に付着してそれが口に入り、あるいは肌着や寝具に付着したりして経口感染により広がります。

ちなみに ぎょう虫の体長は オスが 2 〜 5 ミリ、メスは 8 〜 13 ミリ前後であり、乳白色で 「 ちりめんじゃこ 」 のような形をしていますが、卵の大きさは 1,000 分の 5 ミリメートル といわれています。


平成 20 年における幼稚園児および小学校生徒に対する寄生虫検査の結果については、総務省 ・ 統計局の資料 「 日本の統計 2010 」 から引用します。

平成20年 ・ 児童生徒の疾病 ・ 異常被患率

施 設 の 区 分幼稚園小学校
寄生虫卵 保有者の性別
割 合 ( % )0.150.090.400.27
 

上の表から小学生の男子では、1,000 人中に 4 人 ( 換言すれば 250 人に 1 人 ) が、寄生虫の卵を保有していることになります。


[ 6 : 凶 悪 な 殺 し 屋 、マ ラ リ ア ]

マラリア原虫

マラリア 感染 の 原因 となるのは 単細胞 の 原生動物 である マラリア 原 虫 ですが、この 原虫 は ホモ ・ サピエンス ( Homo sapiens 、現生 の 人類 ) が 誕生 する 遙 か 以前 から、人類 の 先祖 の 体内 に 侵入 し 続 けてきま したが、人類 の 歴史上 マラリア の 流行 から 免 れることができた 文明 は 、 ほとんどないといわれています。写真 は 最 も 悪性 な 熱帯熱 マラリア 原虫 です。

エジプト の ミ イ ラ のうち 内蔵 を 取 り 出 さずに 作 られた 古 い時代 ( 紀元前 2,000 年 より 前 ) のもののなかには、マラリア によると 思 われる 肝臓 の 腫 れの 痕跡 を 示 すものがありま したが、毎年雨期 になると ナイル 川 の 氾濫 が 生 じるその 地方 は、マラリア を 媒介 する ハ マ ダ ラ 蚊 の 繁殖地 でもありま した。


( 6−1、マラリア の 被 害 )

アレキサンター大王

バルカン 半島南部 にある マケドニア ( M a c e d o n i a、現 ・ マケドニア 共和国 ) の アレクサンダー 大王 ( アレクサンドロス、 A l e k s a n d r o s、 紀元前 356 〜 前 323 年 ) は ペ ル シ ャ ( P e r s i a、イラン の 旧称 )を 滅 ぼ し、 インド の 北西部 にある パンジャーブ ( P u n j a b ) 地方 まで 遠征 しま したが、後 に 大帝国 を 建設 して ギリシャ と オリエント を 含 む東西文化 の 融合 を 図 りま した。

彼 は 帰国直後 に 熱病 によ り 僅 か 33 歳 で 死亡 しま したが、彼 の 死因 は マラリア とする 説 がありま した。日本 においても 平安時代 に 第 73 代、堀河天皇 ( 1107 年没 ) や 平 清盛 ( 1181 年没 )、室町時代 の 僧である 「 とんち の 一 休 」 の 一休禅師宗純 ( 1481 年没 ) などが、 マラリア で 死亡 した とされます。

参考 までに 平 家 物 語 巻 六 に あ る 「 入 道 死 去 」 の 項目 から、平 清盛 の 病状 を 引用 しますと、

入道 相国 病付 ( やみつ ) き 給 へる 日 よ り して、湯水 も 喉 へ 入 れられず、身 の 内 の 熱 き 事 は 火 を 焼 く が 如 し。臥 ( ふ ) し 給 へる 所、四 五間 が 内 へ 入 る 者 は 熱 さ 堪 へ 難 し。只 ( ただ ) 宣 ( のたま ) ふ 事 とては、あたあたとばかりな り。實 に 只事 ( ただごと ) とも 見 え 給 はず。

[ その意味 ]
入道 相国 ( にゅうどう しょうこく、平 清盛 ) は 発病 の 日 から 湯水 も 喉 にとおらず、体 の 熱 は 火 でも 焚 いて いるようで、病床 の 四〜五間 ( けん ) 以内 に 近 ず く 者 は 熱気 に 堪 えられないほどである。口 からもれる 言 葉 と いえば 「 あつい、あつい 」 ばかりで、まった く ただごととは 思 えなかった。

ヒポクラテス像

古代 ギリシャ の 生 まれで 医 学 の 父 といわれた 右図 の ヒポクラテス ( H i p p o k r a t e s 、紀元前 460 年頃 〜 前 375 年 頃 ) も、書物 に マラリア に 特有 の 症状 を 書 き 残 して います。

彼によれば、病気は 「 悪 い 土地 」 ・ 「 悪 い 水 」 ・ 「 悪 い 空気 」 によ り 発生 すると しま したが、「 悪 い 空気 」 である 瘴 気 ( しょうき、毒 気 ) は、「 悪 い 水 」 である 沼地 や 湿地 から 発生 し、人間 がこれを 吸 うと 体液 の バランス を 崩 し 病気 になると 説 きま した。

ちなみに マ ラ リ ア ( M a l a r i a ) の 語源 は イ タ リ ア 語 の  M a l a ( 悪 い ) A r i a ( 空 気 ) に 由来 しますが、何世紀も マラリア の 流行 が 続 いた イ タ リ ア の 首都 ロ ー マ では 、近郊 にある 沼沢地 ( しょうたくち ) から 生 じる 瘴気 ( しょうき、熱病 を 起 こさせる 毒気 ) がその 原因 と 信 じられて いま した。

パンテオン神殿

古代 の ローマ 人 は 多神教 を 信 じ、さまざまな ロ ー マ 神 ( その 中 には 熱病 の 女神 も含まれる ) を祭るために、 パラティーノ ( P a r a t i n o ) の丘  パンテオン ( P a n t h e o n ) 神殿 を 建 てま したが、毎年夏 が 来 る 度 に 現 れる 謎 ( なぞ ) の死病 から、我 が 身 を お 守 り 下 さ いと 女神 に 祈 りま した。

395 年に ローマ帝国は コンスタンチノープル ( C o n s t a n t i n o p l e、現 ・ イスタンブール ) を首都とする東 ローマ 帝国と、ローマ を 首都 とする 西 ローマ 帝国 の両国に分裂 しま したが、西 ローマ 帝国 は 経済 ・ 軍事面 での 弱体 から ゲ ル マ ン ( G e r m a n、バ ル ト 海沿岸 を 原住地 と し ゲルマン 語派 を 話 す 農耕牧畜民 で、民族大移動期 には 各地 に 王国 を 築 く ) の 侵 入 に 対抗 しきれずに、 476 年に滅亡 しま した。

その間 ローマ に 侵入 した 西 ゴート ( G o t h e ) 族 ・ ヴァンダル ( V a n d a l ) 族 ・ 東 ゴート族 ・ フン ( H u n ) 族 の 兵士 たちは 、 マラリア に 対 する 免疫 が 全 く 無 かったために 多 くが 病 に 倒 れ 、残 りの 兵士 たちは ローマ から 逃 げ 出 しま した。中世 にはひとつの 軍隊 がまるごと、イ タ リ ア の 原因不明 の 熱病 ( マ ラ リ ア ) に 敗 れることも 珍 し く あ りませんで した。

1022 年に イギリスの ヘンリー 2 世の侵略軍は 「 熱 病 」 に 壊滅的 な 敗北 を 喫 しま したが、イタリア 中部 ビテルボ ( Viterbo ) の詩人 ゴドフリー( Godfrey ) が 1167 年 に 書 いた 詩 によれば、

剣 でおのれの 身 を 護 れぬときも、ロ ー マ は 熱 病 と い う 手 段 で
身 を 護 った 

と あ りま した。


( 6−2、台 湾 の マ ラ リ ア )

落合泰蔵

1880 年に マラリア 原 虫 が 発 見 さ れ る までは、瘴気 ( しょうき、毒気 ) 説 を 唱 える 医師 が 日本 にもいま した。

日本陸軍 が マラリア と 組織的 に 遭 遇 したのは、台風 によ り 船 が 遭難 し 台湾 に 漂着 した 日本人 5 4 人 を、原住民が 殺害 したことに 起因する 1874 年の 台 湾 出 兵 で したが、日本軍 を 苦 しめたのは 「 台 湾 熱 」 あるいは 「 弛 張 熱、しちょうねつ 」 と 呼 ばれた、風土病 の マラリア で した。派遣軍 の 軍医 であった 落合泰蔵 ( おちあい やすぞう、1850〜1937 年 ) が、1874 年 に 記 した 征蛮医誌 によれば、

時 に 患 者 の 増 すこと 日 に 甚 だ し く 殆 ど 全軍 の 8 〜 9 割 に 上 がれり、弛張熱 ( しちょうねつ、 マラリア ) その 7 〜 8 分に居 ( お ) り、チ フ ス 熱 之 ( これ ) に 次 ぐ。其 の 原因 の 起 こる 所 を 考 うるに 二 因 あり。

一 が 現在 の 営地 ( 宿 営 地 ) は 上古 ( じょうこ、大昔 ) よりの 草地 なるに、今 や 新 たに 之 を 開墾 ( かいこん ) したれば 動物産 の 有 毒 分 子 空 中 に 浮 遊 するに 由 ( よ ) り

一 は ( 日本軍兵士 が ) 熱帯地 に 慣習 ( かんしゅう、慣れる ) せざるによる。 土人 ( 現地人 ) の 此 の 症 に 罹 ( かか ) る 者 甚 だ 少 なきを 以 て ( 理解 ) すべ し。

蓋 し ( けだし、思うに ) 一回 弛張熱 ( マラリア ) を 患 ( わずら ) うるものは 全治 する 者 極 少 ( ごく すく ) な く、或 いは 軽快 すといえども 4 〜 5 日 を 経 れば 再発 するを 常 とす

その 20 年後 に 起 きた 日清戦争 ( 1894〜1895 年 ) に 日本 が 勝利 した 結果、下関条約 によって 台湾 の 日本 へ の 割譲 が 決 ま りま したが、台湾 に上 陸 した 日本軍 に 対 して、清国 の 残兵 や 一部 の 台湾住民 が 抵抗 して 戦 闘 となりました。

これを 台湾平定作戦、あるいは 台湾征討 と 呼 びま したが、日本軍 の 死者 は 約 4,600 人 だったのに対して、実際の戦闘での死者は 僅 か 160 人 で 、戦死者 の 30 倍 近 く の 兵士 が マラリア により 戦 病 死 ( せんびょう し、戦地 における 病 死 ) しま した。


( 6−3、マラリア 原 虫 と、そ の 薬 剤 耐 性 )

シナハマダラカ

マラリアは主に熱帯 〜 亜熱帯地方に生息する ハ マ ダ ラ 蚊 が 媒介 する 「 原生動物門 ・ 胞子虫綱 ・ 住血胞子虫目 」 の 一族 である マ ラ リ ア 原 虫 による 感染症 ですが、この 蚊 に 刺 され 吸血 されると、蚊 の 体内 で 増殖 して いた マラリア 原虫 の 胞子 ( ほうし、スポロゾイト、S p o r o z o i t e ) が、唾 液 ( だえき ) と 共 に 人 の 体内 に 多量 に 注入 されます。写真 は シナ ハマダラカ で 血液 を 飽食 したために、その 一部 を 排 出 したところです。

ちなみに 蚊 が 血 を 吸 う 際 に 人体 に 唾液 を 注入 する 理由 は、吸血 を スムーズ に 行 なうためで、蚊 の 唾液 の 中 には 血管 の 止血作用 を 抑制 し、出血 を 継続 させる 成分 が 含 まれて いますが、それと 共 に 痒 ( か ゆ ) みをもたらす 成分 も 含 まれて いるので、刺 されたことを 後 で 知 らせて くれます。

マラリア の 潜伏期間 は 普通 1 〜 3 週間 で 周期的 な 40 度前後 の 発熱 ・ 悪寒 ( おかん ) 震 ( ふる ) えなどの 発 作 ( ほっさ ) が 特徴 ですが、貧血 や 肝脾腫 ( かんひ しゅ、肝臓 ・ 脾臓の腫れ ) がみられます。感染 した 原虫 の 種類 により 人体 の 赤血球破壊 の 周期 ( つまり 発熱 や 発作 の 周期 ) が 異 なり、以下 の 4 種類 に 分類 されます。

    マラリア原虫

  1. 三日熱 マラリア、48 時間ごとの発熱発作。

  2. 四日熱 マラリア、72 時間ごとの発熱発作。

  3. 熱帯熱 マラリア 、36 〜 48 時間ごとの発熱発作。

  4. 卵型 ( らんけい ) マラリア、48 時間ごとの発熱発作。

右上 の 写真 は 熱帯熱 マラリア 原虫 により 赤血球 が 破壊 された 様子 ですが、熱帯熱 マラリア は マラリア の 中 でも 最 も 悪 性 で 、治療 が 遅 れると 脳 の 毛細血管 が 詰 まる、 脳 マラリア を 発症 して 死亡 します。「 熱 帯 病 治 療 薬 研 究 班 」 の アンケート 調査 による 1990〜2000 年 の データ では、海外 で 感染 し 日本 に 帰国後 に 国内 で 発症 した、熱帯熱 マラリア による 致死率 は 3.3 パーセント で した。

現在 マラリア に 対 する ワクチン が 未開発 なことや、特効薬 の クロロキン に 対 する マラリア 原虫 の 薬 剤 耐 性 ( 薬が 効 かなくなる 性質 ) の 問題 が 深刻 なために、ビジネス や レジャー などで 下図 の マラリア 感染地域 に 旅行 する 人 は、蚊 に 刺 されないためのそれなりの 注意、あるいは 予防薬 の 携行 が 推奨 されます。

マラリア汚染地域

図は マラリア の 風土病 を 持 つ 国々 で、赤色 は クロロキン に 対 する 薬剤耐性 のある マラリア 感染地域、ピンク 色 は 薬剤耐性 の 無 い ( つまり マラリア の 特効薬 が 効 く ) 地域 、白色 は マラリア の 風土病 が 存在 しない 地域 です。


[ 6−4、 B R N ( 繁 殖 指 数 ) ]

医学界 では 感染症 などの 感染拡大 について、 B R N ( B a s i c R e p r o d u c t i o n N u m b e r、繁 殖 指 数 ) の 名 で 知 られる 考 え 方 と 計算方法 がありますが、マラリア には 次 の 要素 が 大 き く 関 わってきます。

  1. 媒介動物の発生数 。 つまり病気を伝搬する蚊の生息密度

  2. 吸血の習性 。 人間以外の動物はいっさい刺さない蚊かどうか

  3. 媒介蚊の寿命 。 病原体を受け継ぎ吸血行為を経由して人間に媒介するまでの間、どのくらい命を保つか。

B R N について 簡単 に 説明 しますと、最初 に 病気 に 感染 した 人 が、その 病気 にとって 理想的 な 条件 の 下 で、何人 に 病気 を 二 次 感 染 さ せ る ことができるかを 数字 で 表 したものです。 たとえば セキ、クシャミ などで 周 にまき 散 らされた ウイルス から 空気感染 する 感染力 の 強 い 「 は し か 」 ( 麻 疹 ) の 場合、 B R N 12 〜 14 とされますが、 つまり 1 人の 「 は し か 」 患者 から 12〜14 人 の 二次感染者 が 発生 することにな ります。

注射器

主 と して 性交渉 によ り 感染 する エ イ ズ の 場合 は、 B R N を 僅 かに 上回 る 程度 とされますが、 空 を 飛 ぶ 注 射 針 ( ハマダラ 蚊 ) の 助 けを 借 りる マ ラ リ ア の 場合 は、感染力 が 数 キロ の範囲 にまで 拡大 し、 B R N が 100 を 超 える、つまり 1 人の マラリア 患者 から 100 人 以上 もの 二次感染 が 起 こり 得 るとされます。

そういえば 昔 は オーストラリア に 着陸 した 飛行機 の 機内 で 、乗客 を 座席 に 留 めたまま 検疫官 が 機内 に 殺虫剤 を 噴 霧 したことがありま したが、歓迎 されない 無賃乗客 ( つまり 蚊 など ) を 退治 するためで した。


[ 7 : 日 本 の 風 土 病、 土 着 ( どちゃく ) マ ラ リ ア ]

約 60 年前 まで、日本 にも マラリア の 風 土 病 ( 別名、土着 マラリア ) が 存在 していたことをご 存 じですか ?。 古 い 日本語 には 「 瘧 ( おこ り ) 」 とか、「 おこ り 病 ( や ) み 」 と いう 言葉 があ りますが、前述 したように 一定の周期で発熱 し発作 が 起 こる 熱病 で、 マ ラ リ ア のことで した。

しかも 本州 などの 気候 が 比較的温暖 な 地方 だけではな く、冬期 には 厳 しい 寒 さ と な る 北 海 道 にも マラリア を 感染 させる ハマダラ 蚊 が 生息 し、マラリアの 風 土 病 ( 土 着 マ ラ リ ア ) が 存在 しま した。

明治維新以後、廃藩置県 によ り 「 武士 の 職業 」 が 無 くな り、禄 ( ろ く、主家 からの 給料 ) を 失 った 武士 たちの 失業救済 ・ 北海道 の 警備 ・ 開拓 の 目的 から 北海道 に 屯 田 兵 ( とんでん へ い ) の 制度 を 設置 すると 共 に、生活 苦 にあえぐ 士 族 ( しぞく、旧武士 の 家柄 ) 階級 ・ 農民 ・ 一般人を 開拓者 と して 入 植 させま した。

庄内藩屯田兵

右 の 写真 は 出羽国 ・ 庄内藩 ( 現 ・ 山形県 ・ 鶴岡市 周辺 ) から 入植 した 屯田兵 たちで、1871 年 ( 明治 4 年 ) の 太政官布告 ( だ じょうかん ふ こ く ) による 散 髪 脱 刀 令 ( さんぱつ だっとうれい、一般 には 断髪令 と いう ) により、「 ちょんまげ 」 を 結 わな く なりま したが、かつては 武士 の 「 し る し 」 であった 刀 を 誇示 して いま した。

開墾

開拓者 たちは 北海道 の 地 で 密林 を 伐採 し 、原野 を 開墾 ( かいこん ) し 粗末 な 小屋 に 居住 したために、そこに はびこる ハマダラ 蚊 がもたらす マ ラ リ ア の 大量発生 に 苦 しめられま したが、明治末期 ( 1910 年 頃 ) には 毎 年 1 万 人 の 患 者 が 発生 し、 その 流行 は 昭和初期 ( 1926 年頃 ) まで 続 きま した。

都築甚之助

これに対 して 陸軍 は ド イ ツ に 留学経歴 を 持 つ 陸軍1等軍医 であ り、 陸軍医学校 の 教官 を して いた 都 築 甚 之 助 ( つづき じんのすけ、1869〜1933 年 ) 医学博士を、1901 年 ( 明治 34 年 ) に 北海道 へ 出張 を命 じま したが、その 目的 は 屯 田 兵 村 ( とんでんへい そん ) で 流行 して いた マ ラ リ ア について 調査 することで した。

そこで彼は北海道 ・ 深川村 ( 現 ・ 深川市 ) にある 屯田兵村 を 調査 しま したが、 マラリア 原虫 の 媒介者 である ハマダラ 蚊 の 生息 を、気象条件 の 厳 しい 北海道 において 初 めて 確認 しま した。

掘っ立て小屋

それによれば、7〜8 月 に 屯田兵 の 兵屋 ( へいお く、兵士専用 の 兵舎 ではな く、兵士 が 家族 と 共 に 暮 らす 家屋 ) 内 で 50 〜 60 匹 の ハマダラ 蚊 を 容易 に捕獲 しま したが、その 中 で 20 〜 30 匹 に 1 匹 の 割合 で マ ラ リ ア 原 虫 を 保有 する ハマダラ 蚊 を 発見 しま した 。つまり 屯田兵 の 兵屋 は、それほど 多 くの 蚊 が 家屋内 に 侵入 するような 劣悪 な 住居環境 で した。


( 7−1、マ ラ リ ア 五 県 )

ところで 昭和 の 初め 頃 まで、 「 マラリア 五 県 」 という 言葉 があったのをご 存 じですか ?。 かつては マラリア の 風土病患者 の 発生 が 多 かった、 富山県 ・ 石川県 ・ 福井県 ・ 滋賀県 ・ 愛知県 の 五 県 のことで した。

そのうちの 一 つである 福井県 では、大正時代 ( 1912〜1926 年 ) には 毎年 9 千〜 2 万 2 千人 の マラリア 患者が 発生 していて、昭和初期 の 1930 年代 でも、 5 千人 から 9 千人 の 患者 が 報告 されていま した。

1919 年 ( 大正 8 年 ) に 内務省 ( 現 ・ 総務省 ) の 衛生局 ・ 保健衛生調査室 が 発行 した、 「 各地方 ニ 於 ケル マ ラ リ ア ニ 関 スル 概况 」 という 報告書 がありますが、それによると 五 県の 一つである 滋賀県 につ いて、

琵琶湖沿岸汚染地帯

大正 7 年 ( 1918 年 ) 1 月より 8 月末 までの、滋賀県下 における 各小学校 の マラリア 罹患 ( りかん、病気になった ) 児童数 が 記載 されて いま したが、それを 視覚的 に 表現 したものが 左 の 琵琶湖周辺 の 色分 け 図です。

最 も 色 が 黒 いのは マラリア 罹患児 が 多 い 地域。 薄黒 いのが 次 に 多 い 地域。 色 の 薄 いのが 罹患児 が 少 ない地域 で したが、これを 見 ると 琵琶湖北部 や 特 に 人口 の 多 かった 東 部 ( 湖 東 ) で マラリア が 多発 したことが 分 か ります。

さらに 1928 年 ( 昭和 3 年 ) に 内務省 ・ 衛生局 の 内藤和行 が 記 した、 「 本邦 に 於 ける 地方病 の 分 布 」 という 書類 がありますが、そこから 引用 しますと、

マラリア の 流行 の 分布 については、以下 のような 記述 を 確認 することができる。「 マラリア の 病 竈 地 ( びょうそうち、病気が 発生 し、はびこる 土地 ) と しては 主 に河川、湖沼 ( こ しょう )、港灣等に隣接せる低濕 ( てい しつ、土地 が 低 く 湿気 が 多 い )、林 叢 ( りんそう、はや し や くさむら ) の 地 に して、主 と して 夏期 ( 6、7、8 月 ) に 於 てのみ 多少 の 流行 を 見る。即 ち 其 の 分布 は

  1. 本州東北部 に 於ては、青森縣下 津軽半島 に 在 る 岩木川 の 下流、及( および ) 十三湖 ( じゅうさんこ ) 附近

  2. 信越地方 に 於ては、新潟縣下 の 信濃川、及 阿賀川 ( あがのがわ ) の 流域

  3. 關東地方 に 於 ては、埼玉、群馬、茨城、及 栃木、四縣 の 境界 を 流れる 利根川 の 沿岸

  4. 中部地方 に 於 ては、岐阜、愛知、及 三重、三縣 を 流れる 木曾、揖斐 ( いび ) 及 長良各川 の 流域

  5. 近畿地方 に 於 ては、滋賀縣下 の 琵琶湖沿岸、京都府下、巨掠池 ( おぐらいけ ) 附近

  6. 四國に於ては、高知縣下 一圓 ( いちえん )

  7. 九州に於ては、佐賀縣下 の有明海、近接地等に して

  8. 沖縄縣下 に於ては、石垣島、西表島 ( いりおもて じま ) 及 宮古島 等を擧 ( あ ) ぐべ し。

と記されていま した。


( 7−2、八 重 山 諸 島 の 悲 劇 )


太平洋戦争末期 の 昭和 20 年 ( 1945 年 ) のこと、沖縄 にある 八重山諸島 [ やえやま しょとう、石垣島 ・ 竹富島 ・ 西表島 ( いりおもて じま ) ・ 波照間島 ( はてるま じま ) など ] で、マラリア による 悲劇 が 起 きま した。

石垣島 では 軍 の 命令 で 敵 の上陸 に 備 えて 住民 を 山岳地帯 に、竹富島 および 波照間島 ( はてるまじま ) の 住民 は西表島 ( いりおもて じま ) 南部 の 南風見田 ( はえみだ ) に 強制疎開 させられま したが、その 地域 は 昔 から 風土病 の マラリア が はびこる 地域 で した。

人口 31,671 人のうち、53 パーセントに当たる 16,884 人が マラリア を発病 し、 3,647 人、住民の 11.5 パーセントが死亡 しま したが、昭和 20 年 ( 1945 年 ) の 6 月から 12 月までのわずか半年の間の出来事で した。

死亡者は主に 10 歳以下の子供と 61 才以上の高齢者で したが、住民 だけでなく 石垣島 に 駐留 した 陸軍守備隊 の 将兵 も 、キニーネ などの 抗 マラリア 薬 の 欠乏 で、 680 人 が マラリア で 死亡 しま したが、八重山諸島 に はびこる 風土病 が マラリア の 中 でも 最 も 悪性度 の 高 い 熱 帯 熱 マラリア だったからで した。

この 原虫 がとりついた 赤血球 の 表面 には、突起状 の 接着分子 が 生 じることがあり、赤血球 が 脳 の 毛細血管 に 入 ると、接着分子 を 介 して 血管 の 内壁 に 付着 し、血流 を 妨 げて 最 悪の 場合 は 脳 の 毛細血管 を 詰 まらせる 脳 マ ラ リ ア  という、最悪 の 症状 をもたらす 場合 がありま した。


since H 23,Nov. 21

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