娘巡礼記


[ 著者 ]

高群逸枝像

高群逸枝 ( たかむれ、いつえ、1894〜1964年 ) 熊本県生まれ、教育者の家庭に育ち、熊本女学校、熊本師範で学びました。大正 7 年、24 才の時に新聞記者を志望して九州日日新聞社に面接に行きましたが、その際、逸枝が四国遍路に行く計画があることから、巡礼体験記を書いて送ることを条件に旅費の 一部提供を受けました。写真は大正 7 年 ( 1918 年 ) に、九州日日新聞に掲載された高群逸枝の巡礼姿です。

高群逸枝

彼女は 「 娘巡礼記 」、「 お遍路 」、「 遍路と人生 」 といった四国遍路にまつわる本を書きましたが、のちに女性史研究家となり、「 母系制の研究 」、「 招婿婚の研究 」 などの著書があります。昭和 3 9年( 1964 年 ) に、 70 才で ガンにより死亡する前の最後の写真です。




[ 以下はその抜粋です ]

雨が降り続いて 3 日も宿毛 ( 高知県 ) の宿で足止めをくった。木賃宿に集まった遍路達は、みな汚い乞食のような姿であった。 50 才ほどの赤ら顔の男の人は愛知から来たと言い、風眼 ( はやり目 ) で盲目になったのが動機で信仰を始め、おかげで目が見えるようになったと語る。

翌日も雨。もう 1 日同じ宿で過ごす。そのうち 5 〜 6 人の遍路が泊まりに来る。50 才くらいの髪の汚い男が尼さんをつれてやってきたが、その男は目が飛び出していて頻繁にまばたきをする。尼さんのほうは 42〜3 才で目はどんよりし、しまりのない口で 「 無知が顔全体に表れている女 」 であった。

伊藤老人が ( 男に )尋ねると、郷里は伊豆で 仕事は遍路だという 。年齢を聞くと 「 忘れた 」 と言った。男は尼さんと道中で知り合って女房にしたという。

伊予で愛知から来た遍路と会った。その人はこう言った。「 修行 ( 托鉢の意味 ) するのに 1 番 ラクなのは伊予と讃岐で、 土佐ときては人情が紙のようだ 、どこでもいいから泊めてくれと頼んでも見向きもしない。

注:)
江戸の昔から 土佐は鬼国 と言われ、遍路から嫌われていました。)

修行( 托鉢 )するなら遍路みち筋の道ばたじゃあ貰いが少ない。ずっと田舎に入りこんだらありつける、それも米だの麦だのやたらくれる。別々に入れる袋を用意しておき、もらったらそれを売ってお金に替える」1 日の修行でお米は 35 銭ぐらいは稼げるが、宿代が 12 銭かかる。この愛知から来た人は 10 何回も巡った ベテラン遍路であった。

[ 業病のこと ]

阿波の新野町 ( あらたの、徳島県阿南市 ) では農家の善根宿に泊まった。便所のそばに ワラを変な形に束ねたものが積んであるが、それは便所の紙の代用であった。そこへ 1 人の遍路が来る。顔も手足も紫色にはれあがった 「 ハンセン病者 」 であった。だれも馴れたもので、やさしい言葉 一つもかけず クスクス笑った。

おまはん ( お前さん ) お国はどこぞい( どこなの )、 業病も因果 だろうかいのう

と遠慮のない言葉を浴びせかける。業病遍路は とぼとぼと去っていった。急坂の難所 21 番の太龍寺へやっと上がって、お祈りをすませて逸枝たちは本堂の奉納額をみていた。

突然後ろで祈祷の声がするのでふり返ると、顔半分が腐った女遍路である、「 ハンセン病者 」 の顔からは年齢がわからない。

「 どうぞ 八十八 ヶ所のご本尊様、ふびんな心をお察しくだされませ 」 と声をあげて祈りながら、腐った顔からは 涙かよだれか、溢れるにまかせていた以下略

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