納経帳 [ 13 : 納経所の窓口 ]


(1)、納経とは

昔の遍路は心を込めて写経した般若心経を札所毎に納めて巡りましたが、寺では写経を受け取った「 証拠 」、つまり 「 領収書 」 として、遍路が持参した納経帳に寺の名前を書いて朱印を押したものです。

しかし現在では写経を納めるのに代えて、札所に参拝してお経を読んだ しるし として記帳されます。

さらに団体 バス や巡拝 タクシー を利用して巡る場合には、遍路が参拝している間に、バス の添乗員や運転手が人数分の納経帳を直接納経所に持ち込み、時には彼等自身が朱印の押捺をして記帳作業の能率化を図る場面も目にします。

遍路にとって大切な納経帳への記帳を他人任せにすることには、信仰心のない私でもなにかしら抵抗を感じさせられます。


(2)、代参屋という商売

真冬に区切り打ちをした際には、代参屋という商売があるのを初めて知りました。札所の暇な冬期に 1 人で何 10 冊もの納経帳や掛け軸を車に積んで札所を巡り、記帳、朱印の押捺をしてもらうのです。

そういう商売人は札所を巡る時間を節約するため、ご本尊様や大師堂のお参りなどすることはありません。

そのようにして 八十八 ヶ所の記帳を済ませた納経帳や掛け軸などを予め手元に用意しておき、諸病平癒、災難消除、菩提供養、開運招福などの代参の依頼が来ると、 あたかも依頼主のために、その都度代参をしたような振りをして 、記帳済みの納経帳や掛け軸等を ひとつ数 10 万円で売るのだそうです。

高額の カネ を支払ってそれを購入する人は、あたかも スタンプ ・ ラリーのように記帳した、直接、間接を問わず 参拝という行為の裏付け がない、心のこもらない品物を手に入れて、どんなご利益、価値があると思っているのでしょうか?。

あるいはそんな事は百も承知の上で、法事、仏事の際に床の間に飾る希少価値のある掛け軸として、または他人に見せるための うわべだけの信仰心のしるし や、地獄の沙汰も カネ 次第と、極楽浄土へ行くための パスポート として購入するのでしょうか?。

納経所で記帳を受付ける人は、寺の住職やその家族をはじめ、時には アルバイト の人が当たりますが、その人達の中には 遍路に対する誤った優越感や、遍奴 ( へんど ) として昔から今に伝わる蔑視から 、宗教の職にある者や寺院に働く者としてふさわしくない、 非常識な態度をとる者 もいます。

なぜそのような非常識な態度をとるのかといえば、競争相手のまったく無い独占企業 (?) であり、或る札所がどんなに悪評が立っても遍路はそこを避けて、他の札所で記帳の代行を頼むことはできないからです。

何の経営努力もせずに、ただ座っているだけで年間 15 万人 の遍路が札所を訪れ、その結果最低でも 1 億円 近くの年収があり、そのうえ遍路が納める納経帳、掛け軸、判衣への記帳押印料は、宗教法人に対する志納 ( お布施 ) として無税です。( 但し札所の駐車場料金などは営業収入と見なされて、課税対象です )

しかも必要経費と言えば、毛筆、墨と朱肉、の購入費と磨耗した印鑑を作る費用だけです。 「 坊主丸儲け 」 と世間では言いますが、こんなぼろ儲けの商売は他にありませんし、長引く不況でも札所がつぶれたという話は聞いたことがありません。

遍路をすればすぐに気が付きますが、札所や宿坊の増改築の多いこと、それに ガレージには僧侶が乗るには似合わない高級外車もありました。

多額の収入の上にあぐらをかき、毎日遍路から 「 お願いします 」 と頭を下げられていれば、 よほど自重自戒せぬかぎり、人を人と思わぬ横柄な態度、人を見下した言動をするようになるものです。

非常識な札所の数は決して多いわけではありませんが、 1 割以上 はあると思います。遍路宿での夕食後の雑談の際に、或る遍路が 「 いっそのこと 自動記帳機 が札所にあれば、不愉快な思いをせずに済むのに 」と発言して、皆もそれに賛成しました。

しかし札所のなかには私が歩いて巡っていることを知ると、庭にまわって休んで行きなさいと言って、お茶とお茶菓子のお接待をして頂いた 27 番神峰寺 のような親切なお寺もありました。

また 「 次の札所への道順がわかりますか? 」 と逆に私に尋ねて親切に教えて下さった 34 番種間寺 や、次の札所への分かり易い案内図を頂いた、 54 番延命寺 のような親切な札所もあったことを付記しておきます。


[ 14 : 信仰の力で病気が治る? ]


高知県窪川町の 37 番岩本寺から足摺岬にある 38 番金剛福寺までの道は、四国遍路 1 番の長丁場で距離は 87 キロあり、通常は 2 泊 3 日の行程です。その途中、中村市を過ぎて国道 321 号線の伊豆田 トンネル ( 長さ1,620 メートル ) の先を、市野瀬で右折するとすぐに番外霊場 「 真念庵 」 がありますが、その正面には弘化 2 年 ( 1845 年 ) に建てられた石碑があり、そこには次の言葉が刻まれています。

いざり( 居座り、足が立たない人 ) 立ち、目くら ( が )見たと、おし( 唖 ) が言い、つんぼが聞いたと御四国の沙汰。

ちなみに沙汰とは 「 うわさ、評判 」 の意味です。当時は身体障害者や 「 ハンセン病 」 などの不治の病気に冒された人が、村落共同体での居場所を失い、諸国から四国にやって来ては、人々のお接待にすがりつつ遍路をしました。

帰るべき家や生活能力の無いこれらの人達は、 生活の糧 ( かて ) を得る手段 として遍路 ( 職業的遍路、別名世過ぎ遍路 ) を選びました。

そして弘法大師の霊力にすがって障害や病気の治癒を夢見ながら、命の尽きるまで四国遍路を続けて、最後は行き倒れとして道端に葬られと言われています。この石碑は障害者である遍路の存在を示すと共に、彼等の持つ願いを歌に詠んだものです。

昔( 大正 7 年当時 ) の遍路や遍路宿の様子については、高群逸枝 ( たかむれ いつえ ) が遍路の体験を九州日日新聞に 105 回にわたり連載した ルポルタージュ、 娘巡礼記 からその 1 部分を知ることができます。


(1)、箱車その 1

22 番札所平等寺は足の病気、ケガに霊験があるので有名ですが、その本堂には、イザリ車 ( 歩行障害者用の箱車、ホイール ・ チェアーの日本型 )が 3 台、松葉杖、ギブスなどが数多く奉納されていました。

1 番大きな屋根付きの箱車は大正時代に足の病気で歩けなくなり医者にも見放された徳島の大工さんが、絶望のなかで四国遍路を思い立ち大工の腕を生かして自分用の、立派な箱車を作ったのだそうです。

それを家族の者に引かせて札所を回るうちに平等寺に来たところ、弘法大師の御利益で急に歩けるようになったので、お礼に奉納したとの事でした。


(2)、箱車その 2

今治にある 57 番栄福寺の本堂横の回廊にも、イザリ車 ( 箱車 )と松葉杖が奉納されていました。昭和 8 年に当時 15 才でした歩行障害者の宮本武正少年が、犬に引かせた箱車と松葉杖で札所を巡るうちに、栄福寺に来たところ、犬が水を飲みに急に走り出したので、箱車が転倒し、それがきっかけで突然歩けるようになったので、箱車と松葉杖を奉納したと説明板に書かれていました。


(3)、奉納文

四国遍路をするうちに弘法大師の霊験により、身体の障害や病いが治ったことを感謝、報告する奉納文が多くの札所に残されています。以下は 22 番平等寺に奉納されたものです。

「私は、大正 15 年 5 月脊髄病となり病勢日夜に重くなり遂に イザリ ( 居座り ) となり、この時、日頃信仰せる弘法大師に御利益得んものと、イザリ車 ( 箱車 )を作り父、福次の手厚き看護を受けつつ四国巡拝の途に登り、大正11 年 12 月 10 日当山 ( 22 番平等寺 ) に参拝し、

4 週間ほど日夜当院様の御加持を受けて一心にご本尊様に平癒を祈願していた所、漸次足の痛みは薄紙を剥ぐ如く和らぎ、両杖にて歩行する事が出来る様になり、父と共に有難涙に御礼をご本尊様に申し、喜びのあまり( イザリ )車を奉納いたします。」

ルルドの洞窟

大正 12年 10月 17 日
高知県土佐郡地蔵寺村、筒井林之助、33 才。


(4)、外国の例、ルルドの奇跡

宗教の 霊力や霊験 により病気や体の障害を治し、心の 「 いやし 」 を求めようとするのは日本に限ったことではなく、クリスチャン ・ サイエンス ( 信仰療法を特色とする キリスト教の 1 派 ) にみられるように、現在もその信者が外国に数多く存在します。それについては フランスの巡礼地、 ルルドの奇跡 が有名です。


[ 15 : 奇跡を願う老夫婦 ]

現在も弘法大師の霊験にすがり、奇跡が起きるのを信じて遍路をする人がいたのです。香川県高松市の東には観光で有名な屋島がありますが、港をはさんで反対の西側にある標高 350 メートルの台地には、二つの札所があります。

ある日私は 81 番白峰寺から 82 番根来寺に向かう山の中の遍路道で、70 才代の半ばと思われる老夫婦と出会いました。リユックサック を背負ったご主人が前を歩き、後ろを歩く奥さんは目が見えないらしく、白い盲人用の杖を使いながら歩いていました。2 人は互いに左手で長さ 1 メートルほどの竹の棒の前と後を握っていて、棒でつながっていました。

奥さんはこれまで山みちで何度も転んだのでしょう、ズボンは膝も裾もかなり泥で汚れていましたが、ご主人が遍路道で木の根、岩、などの障害物、滑り易い場所がある度に奥さんに教え、奥さんは白い杖の先でその位置を確認しながら 1 歩づつゆっくり進むという状況でした。

遍路道の近くには札所を結ぶ車の交通量の少ない、もっと歩き易い車道があるにもかかわらず、 不自由な体にとって歩きにくい昔ながらの遍路道を、何倍もの努力を重ねながら歩いていたのです。

老夫婦の姿には、信仰心に裏打ちされた 真の遍路の姿 が感じられて、私は胸を打たれました。弘法大師に何を祈って歩き遍路をするのか分かりませんが、恐らく奥さんの不自由な目と関係があったと思います。

そして私は、ある言葉を思い出しました。

巡礼の宗教的効果は、そのために捧げられた困難に比例する


[ 16 : 医学的考察 ]

「 歩き遍路 」 とは見方によっては肉体的、精神的苦痛の限界への挑戦、とも捉えることもできます。私の場合は歩き始めて 1 週間ほどの間が体の疲労からもっとも辛く、足も痛くなったので、遍路を中止しようという気持ちが強くなりました。

次の札所に着いたら遍路を止めて家に帰ろう、あの峠、岬を越えたら止めにしよう。1 日 1 万円も費用を掛けながら、辛い苦しい思いをするのは馬鹿らしい。こんな遍路をして今後の人生にどんな利益があるのか?、などと遍路中止を正当化するための理由を、あれこれと考えながら歩くようになりました。

その一方で 1,200 キロを歩いてみせると宣言した女房の手前、途中で遍路を止めて帰宅すれば男がすたる、折角始めた遍路を途中で止めて帰るのはもったいない、などという気持ちにもなりました。その心理的葛藤がかなり続いた後に、肉体的疲労の蓄積から何も考えなくなり、毎日をただ惰性で歩き続けるようになりました。そして江戸時代の旅人のように、歩いて移動すること自体が当たり前と思うようになりました。

歩き続けると足の筋肉内部に乳酸が生成されて次第に蓄積されますが、逆にいえば乳酸ができることにより筋肉の疲労を体が感じることになります。 ひと晩寝ても乳酸が筋肉から取り除かれないと、疲労の蓄積から最初のうちは筋肉痛が起きます。

体の中には乳酸以外にも疲労を感じさせる物質があって、歩行による筋肉の運動が長く続くと体内に 「 疲労毒素 」 と呼ばれる物質が作り出されます。その毒素を血液が体内に運ぶので、酷使している足の筋肉だけでなく、疲労を体全体で感じ、特に脳が感じとります。

スポーツ用語に ランナーズ ・ ハイ ( Runners' High ) という言葉がありますが、マラソン ・ ランナーなどが走っている最中に、肉体的には極限に近い状態にもかかわらず、苦痛を忘れさせ精神的にはむしろ高揚してくるというものです。

医学的説明によれば極限に近い状態になると、ある種の脳内麻薬物質ともいうべき エンドルフィン が自然に分泌されて苦痛を忘れさせ、自然との 一体感、陶酔感 ( とうすい かん ) などをもたらし、 「 ハイ 」 の状態にするのだそうです。

これは マラソン だけに限らず、登山の場合にも起こります。重い荷物を背負い遙か高い山の頂上を目指して登るのは、苦痛以外の何物でもありません。しかし私の経験でも登っているうちに徐々に苦痛から解放されてゆき、このままの ペースであれば、何時間でも登り続けることができると思うようになります。

遍路の場合も大げさな表現をすれば、肉体的、精神的極限状態に近くなると エンドルフィン の分泌により肉体的苦痛が減少し、 非日常的な 「 無我の境地 」 みたいなもの(?)に近くなるのかなとも思いました。

苦しくなると分泌される ホルモンの エンドルフィンに対して、快感神経が刺激されると脳の中に ドーパミン という ホルモンも分泌されます。

これは別名 「 快楽のホルモン 」 とも呼ばれる神経伝達物質で、これが出てくると人は辛いことにも楽しく感じられるのだそうです。長く歩き疲れた末に札所にたどりつき ホット すると、今までの苦労が癒され喜びが得られるのは ドーパミン のせいかも知れません。

[ 17 : 終りに ]

私は 漂泊の 「 1 人旅に対する憧れ 」、四国の風土と遍路に対する「 好奇心 」、そして 「 歩き 」 が目的で、たまたま四国遍路を選んだわけですが、、自分の都合で宗教施設 ( 札所 ) を利用させて頂くからには、信仰心の無い私でも信仰の対象であるご本尊様やお大師様にそれなりの敬意を払い、可能な範囲で参拝の作法に従いました。

四国遍路は俗に 「 3 こう 」 と言われます。すなわち 8 割 が観 「」、 2 割 が信 「」、 1 分 が健 「、つまり歩くのが目的です。毎年四国遍路をする人は 15 万人 いると言われていますが、殆どの人は観光バスや車でまわり、歩いて遍路をする人はその内の、 1 パーセント ( 1,500 人 ) に過ぎません。さらに 八十八 番札所まで歩き通す人は、そのうちの 3 割 ( 500 人 )といわれています。

私は歩き遍路の体験を通じて従来の生活では縁のなかった、いろいろな人との出会いがあり、 見知らぬ人達からの多くの親切を受け、「 お接待 」などをして頂き、四国の人々にはたいへん感謝しています。それと共に平安時代から 1,000 年以上も続く四国遍路という貴重な伝統文化を、身をもって体験することができて、非常に有意義な「 歩き遍路 」の旅でした。

結願の 88 番大窪寺にたどり着くと感激で涙がでると聞いていましたが、区切り打ちで 1,200 キロ を歩き通したという 達成感、満足感を得たものの 、涙は少しも出ませんでした。多分、私には信仰心が欠けていたからだと思います。


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