土佐は鬼国(おにぐに)
土佐の鎖国政策江戸時代、阿波徳島藩の石高は公称 25 万 7 千石でしたが、実質は 45 万石といわれました。その理由は特産の藍 ( あい染めの原料 ) の藩外への輸出がもたらす収入にありました。同様に讃岐 ( 香川県 ) では 三白と言われた製塩、砂糖、讃岐米があり、丸亀藩 ( 5 万 3 千石 ) の財源は讃岐の金比羅宮の参詣客でうるおっていました。伊予 ( 愛媛県 ) では製塩、木蝋、温泉 ( 道後 ) の産業があり、石高以外の多額の収入がありました。 しかし土佐 ( 高知県 ) では藩外に輸出して カネを稼ぐ特産品や産業も無く、他国から人を呼び寄せる温泉もありませんでした。しかも農地が少なく領地の 8 割を山が占めるにもかかわらず、木材の搬出手段が乏しいため木材による収入は少なく、藩の財政は常に逼迫した状態でした。 そのため、農民を土地に縛りつけて藩外への出稼ぎを禁止し、領民の旅行を制限すると共に他国の風習、情報から隔離するため、遍路を含む人々の入国を極度に制限する鎖国政策を江戸時代の初めからとりました。
遍路に対する通行、宿泊制限
遍路に対する取り締まり天保 9 年 ( 1838 年 ) 4 月に土佐藩が出した命令によれば、 とありました。
注:)参考までに江戸時代の川柳に 故郷 ( ふるさと ) へ、回る 六部は気の弱りというのがありますが、故郷を遠く離れて長年諸国を旅して回った 六部も年老いてくると気弱になり、ふるさと近くを回るようになる、という意味です。
土佐を除く、三国参り四国のうち土佐の国だけが旅人や遍路に対して厳しい制限を加え、また住民の遍路に対する冷遇から、托鉢によって食物、金品を得ることが困難なため、遍路達からは土佐は 「 おにぐに 」、病気になっても宿がない と言われ次第に嫌われるようになり、土佐の国を除いて巡る遍路が多くなりました。 阿波の国 ( 徳島県 ) の最南端にある 23 番薬王寺や伊予の国 ( 愛媛県 )の最南端にある 40 番観自在寺を参拝した後、土佐 ( 高知県 ) の方向に向かい遙拝すれば、土佐に入国せずに土佐 16 ヶ寺を参拝したとみなす 「 三国参り 」 の制度が誕生しました。 貧しさに起因する長年の鎖国がもたらした土佐の住民の 遍路に対する偏見、冷遇、排斥 はその後、明治、大正時代までも続きました。
遍路の国別割合巡礼の社会学 ( 前田卓、著 )によれば、江戸時代 ( 270 年間 ) から現在に至るまで残存している、各寺の納め札、過去帳、各地の遍路墓に記された出身国名などから割り出した 遍路の数 では、多い国順に、
1 位 : 阿波 ( 徳島県 )土佐は四国霊場の所在地でありながら、 おにぐに の評判どおりの、遍路に対する長年の冷遇 ・ 排斥の結果によるものでした。 遍路旅その 3、へ戻るには、 ここ をクリック
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