「お迎え」 がやって来る


レントゲン撮影

パイロットになると、地上よりも多く宇宙空間に存在する高 エネルギーの放射線である 宇宙線 ( Cosmic Ray ) を 年中浴び 、 成層圏 ( せいそうけん、Stratosphere ) にある オゾン層 ( Ozone Layer )の中を飛行して健康に害があるとされる オゾン を吸い続けます。

機長が 6 ヶ月毎に受ける 「 第 1 種航空身体検査証明書 」 の更新では、胸部の エックス線検査を退職するまで 30 年近く受け続けることによる エックス 線被曝量の蓄積 により、 パイロットは、一般に短命であるといわれています。

航空身体検査基準のうち 眼 ( 10、視機能 ) の検査だけでも 10−1 から 10−7 まで 7 項目ある、検査基準をご覧下さい

ところで 悪い奴ほど運がよい ( The more knave, the better luck. )、日本では 「 憎まれっ子 世に はばかる 」 という ことわざ がありますが、現役時代には予想もしなかった長生きをして今年で 80 才の傘寿 ( さんじゅ ) を迎えることになりました。

[ 1 : 知らぬが仏 ]

ことわざに 「 知らぬが仏 」 がありますが、その意味とは、

  •  なにごとも知らずにいれば、 平気で いられる。

  •  真実を知らないでいるほうが、 心が穏やかで いられる

ということですが、私も平成 24 年 11 月 20 日に 脳梗塞の前兆 ( Warning sign ) が起きるまでは、文字通り知らぬが仏でした。

( 1−1、右足が前に出ない )

散歩

糖尿病のための運動療法で毎日 1 時間 ( 約 7 千歩 ) の早足歩きをしていますが、11月 20 日の午後もいつものように歩きに出かけました。30 分ほど歩いていると急に頭が フラフラ というか フワフワ する浮遊感 のような、今まで経験したことがないようなが感じがすると共に右足が前に出なくなり、そのために右足を引きずって歩くようになりましたが、頭の痛みは全くありませんでした。

最初に頭に浮かんだことは 脳をやられた ということでした。散歩に出る際に常に持つ携帯電話で救急車を呼ぶ前に体の障害の程度を調べることにして、近くに公園の ベンチがあったのでそこへ座り、左足 ・ 両手を前に出して指先を含む運動機能障害の有無 ・ 眼の片方ずつの見え具合 ・ イロハニホヘトの発声による言語障害の有無を調べましたが、右足以外は全て正常でした。

そこに座ったまま 10〜 15 分程度体を休めていると、いつの間にか頭の フラフラ感が無くなったので、試しに歩いてみると右足の動きも正常に戻っていました。家まで徒歩で 30 分ほどの距離でしたが、大事をとって タクシーを呼んで家に帰りました。夕方であり体の不具合も消えたので明日の朝病院に行くことにして、 パソコンで脳神経外科の病院探しをして寝ました。

翌朝近くにある総合病院の脳神経外科ではなく、バスと電車で 1 時間ほどの所にある脳の専門である脳神経外科病院を受診しましたが、結果的にはこの選択は良かったと思っています。その理由は M R I ・ C T ・ 心電図 ・ エコーなどの検査を、外来にもかかわらずその日の内に全部受けることができたことで、数年前に某市の市民病院を受診した際には、 C T の検査だけでも 7 日後しか予約できないといわれました。

( 1−2、閉所恐怖症と、 M R I 検査 )

C T の検査は前述のように経験済みでしたが、 M R I ( Magnetic Resonance Imaging 、磁気共鳴画像診断装置 ) の検査は今回生まれて初めてでした。

検査の前に渡された注意書を読むと、心臓に ペースメーカーを入れた人 ・ 脳動脈瘤 ( のう どうみゃく りゅう、こぶ ) を クリップで止める クリッピング手術、または血管内手術 ( コイル ・ ステント留置 )を受けた人 ・ 人工関節などの金属を体に入れている人は ダメ。 入歯 ・ 指輪 ・ 眼鏡 ・ 腕時計などの金属を身に着けている人は外すこと。 閉所恐怖症の人は ダメ と書いてありました。

ちなみに閉所恐怖症の人に対しては精神安定剤を点滴して眠らせ、検査をしてくれる他の病院があるそうです。私は 30 年近く前に 一時閉所恐怖症になったことがありましたが、当時の状況については ここに詳しく書いてあります 

MRI 検査器

M R I の検査が始まる前に頭と体を台車に固定され 耳には防音の イヤホーンを付けられましたが、さらに顔の上を覆うプラスチック製器具を被せられると、ゴム製の スイッチを持たされました。検査中に体の具合が悪くなったら、これを握って合図をするようにとのことでした。台車が動いて狭い穴の中へ頭から入りましたが、閉所恐怖症の人には 辛い検査かな ? と思いました

やがて製造工場の内部にいるような騒音が聞こえてきましたが、時々音が変化すると共に台車が少し動くので頭の中を少しずつ調べていると想像しました。好奇心から目を開けて穴の内部を見ようとしましたが、中は明るいものの顔の上にプラステック製のカバーがあるので周囲は見えませんでした。私の場合検査は時間にして 15 分〜20 分程度で終了しました。

[ 2 : 集中治療室 ]

脳動脈の狭窄

全ての検査を終えると、医師から 一過性脳虚血発作 ( いっかせい のうきょけつ ほっさ、 T I A 、Transient Ischemic Attack ) と診断されました。さらに今回の発作とは関係ないが M R I 検査の結果から脳底動脈に狭窄 ( きょうさく、狭い部分 ) があり、 脳梗塞 ( のうこうそく ) 発症の可能性があるので 、ただちに入院するようにいわれました。上の M R I 画像は私のものです。

後遺症が全くないにもかかわらず外来待合室から車椅子に乗せられて、最初に入れられたのは脳神経疾患や頭部外傷での脳外科手術後に患者が収容される、 N C U ( Neurosurgical Care Unit、脳神経外科の 集中治療室 )でした。

集中治療室

ご存じのように I C U ( Intensive Care Unit ) とは集中治療室のことですが、対象とする患者の病気の種類によって更に専門的に細分化されていることを今回初めて知りました。

心電図用電極 パッチ

ここでは N C U がさらに重症者と軽症者(?)に分かれていて、私はもちろん軽症者の ベッドに寝かされましたが、点滴用 チューブの他に胸の数箇所に心電図用の電極 パッチを貼り着けられ、腕には自動血圧計を巻かれました。周囲の患者も腕に点滴の管、鼻から酸素吸入をしたりと外見上は如何にも重症らしい人々でした。

入院姿

医師によれば新しく入院した患者には何が起きるか分からないので、まずは集中治療室に 1 泊させるのだそうですが、看護師が早速やってきて私に質問しました。

  • あなたの名前は ?。

  • 生年月日は ?。

  • ここはどこですか?。あなたのいる病院の名前は ?。

  • 今日は何年 何月 何日ですか ?。

以上のような簡単な質問をそれ以後 毎日数回、一般病棟に移った後も退院の前日まで、 血圧 ・ 脈拍 ・ 体温測定の度に看護師からされましたが、 見当識失調 ( けんとうしき  しっちょう、自分が今どこにいるのか、今日は何年 何月 何日か分からない ) 患者の 意識障害や、言語障害発生の有無 を早期に発見するための方法でした。

ちなみにこの病院の N C U では面会時間は午後 3 時から 3 時半までの間の 15 分間に限られ、しかも面会者は肉親だけが許され人数も 2 名以内に限られていました。また入院の際に患者の為に持ち込む品物が厳しく制限され、下着には マジックベンで名前を書くことが求められましたが、患者に着替えをさせる際の間違えを防ぐためとのことでした。


( 2−1、入院患者の介護 )

おむつ

N C U では私の隣りの ベッドに、病気か ケガ か知りませんが頭の手術をした 60 才台の男性が運ばれてきましたが、全身麻酔から覚めると 「 おしっこ 」 をしたいと訴えました。それに対して看護師からは、頭を動かさないために 「 おむつ 」 をしているので、そのままでするようにといわれていました。「 このままでするのですか ?。」 という男性の沈んだ声が聞こえてきましたが、 お気の毒に−−−。

私も 9 年前に前立腺肥大手術を受けた際に 「 紙おむつ 」 というか 「 尿漏れ パンツ 」 を 履いたこと がありましたが、 10 年前に亡くなった老妻の母親は、日頃から 「 おしめ にだけは なりたくない 」 と願っていましたが、 ガンにより 86 才で 亡くなる際には 1 ヶ月間 「 おしめ 」 の世話になりました。

私も万一 脳梗塞 ( のうこうそく ) を起こして寝たきりの状態にでもなったら、「 他人に 下 ( しも ) の世話 」 をしてもらう屈辱 ( くつじょく ) を受けるよりも 、 むしろ死ぬ方がまし と現時点では思っていますが、その時になったらどのように感じるのか分かりません。

[ 2−2、お下 ( しも ) 洗いと、おねしょ ]

今回私は 6 泊 7 日入院しましたが、その間 シャワー は 1 度も浴びませんでした。一般病棟に移ってから 1 度だけ看護師から シャワーを使いますか ? と言われましたが、同室の人が入ったところ シャワー室には暖房設備がなく、寒くて風邪を引きそうになったことを聞かされたので断りました。

暖房乾燥器

ところで我が家は老夫婦の 二人住まいですが、浴室には ガス給湯による 「 かわっく ( 乾く ) 」 の暖房乾燥設備があるので、梅雨時は洗濯物の乾燥に、冬は風呂に入る前に浴室を暖めておき、急激な体感温度の変化による脳梗塞や心筋梗塞の予防に役立てていますが、病院の シャワー室は室温が低いにもかかわらず、それが設備されていませんでした。

前述した N C U ( Neurosurgical Care Unit、脳神経外科の 集中治療室 ) には男女の区別がなく、しかも上は明治生まれの 100 才以上の女性から、下は 40 才台の男性まで入院治療を受けていました。

秘仏開帳

シャワーも浴びられずに長く入院する患者たちは 3 〜 4 日に 一度、 二人 1 組の女性介護 チームから お下 ( しも ) ( 女性では奥の院に鎮座まします 秘仏 や、男性の 珍宝 など ) を シャンプー してもらっていましたが、同時に体を清拭 ( せいしき ) され、さっぱりしたところで下着の着替えをさせてもらっていました。

寝ながら 「 おしも 」 を洗ってもらう方も、手袋をはめてお湯を掛けながら洗う方も大変だと、 カーテン越しの会話や 「 せせらぎの音 」 を聞きながら思いました。

防水シ−ツ

参考までに病院の ベッドに敷かれた シーツの上には、更に 「 防水 シーツ 」 が敷いてありましたが、肌触りは普通の シーツと変わりませんでした。私が 69 年前の昭和 19 年 ( 1944 年 ) の太平洋戦争中に米軍機の空襲を避けるために、東京から長野県の 山奥の寺 に学級 ごと 学童集団疎開 をした当時は、 ビニールや ナイロン製品など未だ発明されていませんでした。

おねしょ常習者

そのため 小学 5 年生で 5 〜 6 人いた 「 おねしょ 」 の常習者は、小型の 「 おねしょ布団 」 というものを布団の上に敷いて寝ていました。日に干せば布団は乾くものの、臭いはなかなか消えず皆で布団を敷く時には臭いました。なおその当時聞いた話によれば、 男の子の寝小便 は女の子よりも割合が多いものの成長すれば自然に治るというものでした。

寝小便

同学年の女子は同じ長野県 ・ 小県郡 ( ちいさがたぐん ) 内でも男子のような山奥の寺ではなく、優遇されて青木村 ・ 田沢温泉の旅館 学童集団疎開 をしましたが、統計上から推測すると男子と同じ程度の 「 おねしょ 」 の常習者がいたに違いありません。彼女たちもその後の人生で子や孫、あるいは曾孫 ( ひまご ) にも恵まれて、元気でいれば今年で 80 才になるはずです。


[ 3 : 寝たきりになる原因について ]

平成 22 年 ( 2010 年 ) の厚労省人口動態統計 ( 推計 ) によれば、日本人の死亡原因の 第 1 位は 悪性新生物 ( ガン ) の 352,000 人、 第 2 位は心疾患 ( 心臓病 ) の 189,000 人、 第 3 位は 脳血管疾患 の 123,000 人でした。

寝たきりの原因 グラフ

左の円 グラフはいささか古い平成 10 年 ( 1998 年 ) の、厚労省大臣官房統計情報室 ( 国民生活基礎調査 ) における 「 寝たきり者 」 の原因別 ・ 構成割合ですが、 寝たきりの原因としては、 脳血管疾患 ( 脳卒中 ) が最多の 36.7 パーセント 、 2 位がその他の 14.9 パーセント、3 位が高齢による衰弱の 13.6 パーセント、4 位が骨折 ・ 転倒の 11.7 パーセント、5 位が痴呆の 8.9 パーセントでした。

前述したように私は 一過性脳虚血発作 ( いっかせい  のう きょけつ ほっさ ) と診断され、 脳梗塞 ( のうこうそく ) 発症の可能性あり と言われましたが、昔からよく言われている脳卒中 ( のう そっちゅう ) と脳梗塞とはどう違うのかといえば、脳梗塞は脳卒中の範疇 ( はんちゅう、カテゴリー ) に含まれます。

脳卒中の分類グラフ

脳卒中とは一般に 脳梗塞 ・ 脳出血 ・ クモ膜下出血 のことをいいますが、右の円 グラフを見れば分かるように、脳卒中に占める脳梗塞の割合が約 7 割 を占め、脳内出血は 約 2 割 、くも膜下出血が 約 1 割 です。

卒中 ( そっちゅう ) という言葉は今から 1,200 年以上前に書かれた中国最古の鍼灸 ( しんきゅう、ハリとお灸 ) の医学書である、 「 素問遺篇本病論 」 ( そもん いへん ほんびょうろん ) の中にあるといわれています。

当時の人々は脳卒中がどのような病気かは知らなかったものの、卒中の 「 卒 」 とは ”突然” ・ ”急に” という意味があり、「 中 」 は中毒という言葉が毒に 「 当たる 」 という意味がることから、”当たる” ・ ”ぶつかる” という意味がありました。つまり 「 卒中 」 とは、 突然何かに当たったように 倒れる という意味でした。


( 3−1、一過性脳虚血発作 )

私に対する医師の診断結果は一過性脳虚血発作 ( TIA、Transient Ischemic Attack ) でしたが、この症状は脳に行く血液の流れが 一過性 ( 一時的 ) に詰まり、運動麻痺、感覚障害などの症状が現れ、24 時間以内、 多くは 数分〜十数分以内 にその症状が完全に消失する ものをいいます。

遺言の準備

しかし、これが起きるとその後 1 年以内に約 10 パーセントの確率で、 5 年以内 約 30 パーセントの確率で 脳梗塞を発症する といわれています。 つまり 一過性脳虚血発作は脳梗塞の前兆として危険な兆候ですので、早速私も死に支度をしなければなりません。 それではお迎えが来る前に、53 年間世話になった老妻のために遺言状でも書くことにしようっと!。


( 3−2、その治療法 )

再発予防のためには脳梗塞の危険因子となる高血圧、糖尿病、脂質異常症の管理、禁煙、心疾患の治療、運動などを行いますが、 このうち私の血圧は低い方で煙草も吸いませんし、問題は糖尿病と脂質異常症 ( 高脂血症 ) でした。医師からは血管を拡げて血流をよくし、血を固まりにくくして、血栓ができるのを抑える薬。血液中の コレステロールの量を下げる薬。胃を痛めないように胃薬を処方されました。

多い薬

それと共に基礎疾患である糖尿病の薬 ( インクレチン関連薬の 、ネシーナ ) を飲むようになりましたが、一過性脳虚血発作の薬は最後の発作から少なくとも1年以上は服用するようにいわれました。私もとうとう飲み薬が手放せない 「 くすり人間 」 になってしまいました。

[ 4 : 脳梗塞 ]

辞書の大辞林によれば脳梗塞 ( のう こうそく ) の梗塞とは、「 ふさがって通じなくなること 」 とありましたが、脳梗塞とは脳の動脈 ( 血管 ) が詰まることにより起こる病気です。 動脈を流れる血液には身体の細胞が必要とする酸素や栄養が含まれていますが、脳動脈が詰まるとそれより先にある脳細胞に酸素や栄養の補給が阻害され、あるいは壊死 ( えし ) するため、脳に障害を生じ時には死をもたらします。脳梗塞 ( こうそく ) はさらに以下の 3 種類に分けられます。

  1. ラクナ梗塞  
    ラクナ梗塞

    脳の血管は、太い動脈から細い動脈へと枝分かれしているが、その 細い動脈 に血栓 ( けっせん、血の固まり ) が詰まり生じた症状で、M R I や C T の画像で大きさが 1.5 センチ以下の病変を 「 ラクナ梗塞 」 という。ラクナ ( Lacune ) とは小さな空洞の意味。

    原因は毛細血管の動脈硬化または、高血圧との関与が強いことが知られ、細い血管が詰まり脳細胞の壊死 ( えし ) を生じても、後遺症は以下の 二つに比べて小規模 ・ 限定的であることが多い。

  2. アテローム血栓性脳梗塞 
    アテローム血管

    脳の太い動脈に動脈硬化が起こり血管の内側の壁 ( 血液が流れるところ ) に L D L  コレステロール ( 悪玉 コレステロール ) が入り込み、蓄積し固まることで血管が狭くなるが、このお粥 ( おかゆ ) 状の物質を アテローム ( Atheroma ) と呼び、狭くなった部分に血栓がつまる。

  3. 心原性脳塞栓 ( しんげんせい のうそくせん )
    不整脈の 一種である 心房細動 ( しんぼう さいどう、) が主な原因で、 心臓で発生した血栓 ( 血の固まり ) が血流により脳に運ばれて、脳の 太い動脈 を詰まらせるもので脳塞栓症 ( のう そくせん しょう ) ともいう。

    脳梗塞画像

    大きな血栓を生じて太い血管を詰まらせる場合であり、発症すれば脳の広い部分に壊死 ( えし ) をもたらし、 心身に重大な後遺症や死をもたらす ことが多い。 左の M R I 画像では右側の脳細胞が壊死 ( えし ) したもので、白い部分がそれである。

オシム監督

ちなみに心房細動の持病があると心房内で血栓が形成されやすく、脳梗塞の リスクが約 5 倍に高くなるといわれていますが、元巨人軍の長島監督、元 サッカー日本代表の イビチャ ・ オシム監督 も心房細動の持病から脳梗塞を発症し倒れたといわれています。

ところで オシム監督が日本のどこの病院で脳梗塞の治療をしたのか知りませんが、急性期を過ぎて、仮に ベッドに寝たままでも祖国に帰りたいと願ったならば、患者の航空輸送については下記の方法があります。

寝たきり患者の航空機輸送


[ 5 : 植物 状態 ( vegetative state ) ]

植物人間状態

寝たきりになる最多の原因は 36.7 パーセントを占める血管疾患であり、そのうちの約 7 割は脳梗塞 であることを既に述べましたが、実は老妻の妹の主人は 6 年前に脳梗塞で倒れ 、しかも太い血管が詰まったために脳の障害の程度が重く、 植物状態 ( 注 参照 ) になりました。

最初は鼻孔経由で、それでは栄養補給が不十分なので次には胃に孔を開けて栄養補給する ( 胃ろう ) をされ、喉に孔を開けて タン の吸引と酸素吸入を受けながら 5 年間も生かされ続けました

注 : 植物状態
植物状態とは 「 植物のように、ただ生きている状態 」 のことで、 昭和 51 年 ( 1976 年 ) に日本脳神経外科学会が意識障害の診断基準を決めたが、それによればいかなる医療の努力によっても下記の 6 項目が改善されることなく、 満 3 ヶ月以上続いているとき には、 遷延性 ( せんえんせい、しつこい ) 意識障害、俗称 植物状態 ( Persistent vegetative state ) である、とする診断基準が定められた。
  1. 自力での移動が不可能

  2. 自力で水や食物の摂取が不可能

  3. 大小便の垂れ流し状態

  4. 声は出せても、意味のある発語は不可能

  5. 「 手を握れ 」、「 口を開いて 」 などの簡単な命令に応じることもあるが、それ以上の意志疎通は不可能

  6. 眼球はかろうじて物を追っても、認識できない

植物状態については患者によって程度に差があり、義弟の場合は 「 D 」 の声については 「アー、とか ウー」 の声を週に 1〜2 回出すこともある状態でした。 「 E 」 については意志の疎通はまったく不可能な状態、 「 F 」 についてはほとんど目を閉じたままで、たまに半眼に開ける程度でした。

同じ年に国際神経外科連合会が意識障害について定義を定めましたが、それによれば

大脳の認知 ・ 統合機能の低下した状態、外界との 意味ある連絡 が絶たれた状態

であると規定しました。


( 5−1、医療のあり方、生かし続けるのが目的 ? )

昏睡状態

植物状態の末に亡くなった義弟は亡くなるまでに何度も転院させられましたが、いずれの病院でも重症患者専用の病棟では 体に点滴、人工呼吸器などの管や心電図、血圧計のケーブルなどを付けられて、意識不明の患者が多数寝ているという 異様な光景 でした。人はこのような状態になっても、なお 生かされ続け なければならないのか ?−−−何の為に ?−−−と疑問を感じました。

日本の医療では不治の病で 「 治療の方法がない 」 状態であるにもかかわらず、なおも生命維持装置によって患者の延命をはかろうとする傾向があり、そのことが 出来高払いである医療機関に利益をもたらし 、ひいては国家財政における医療費の増大に繋がっています。

患者の立場に立って考えると 「 苦しい 生かされ方 」 、あるいは 「 本人にとって何の意味も価値もない、植物状態での 生かされ方 から、患者本人は解放されたいと願っているかもしれないのに−−−です。私ならそのような状態での生かされ方を、決して望みませんが。

ちなみに欧米では治る見込みがなく植物人間状態になった人に生命維持装置を装着し延命を図ることは、 非倫理的であり 患者に対する虐待である とする考えさえあります。


( 5−2、食事の介助は人権侵害 )

特別養護老人 ホームのある施設長が 1995 年に北欧 3 ヶ国で半年間研修した時のこと、オランダ ・ アムステルダムの ホームで、食事を受け付けない認知症老人の額に手を当てて口を開けさせ、スプーンを入れようとすると、ソーシャル ・ ワーカーに怒鳴りつけられました。

なんとひどい事を、この人は 食事を拒否しているのよ 。あなたは老人の 自己決定権 を侵害している

食事を食べようとしない老人に対しても、無理に食べさせようとするのは日本の老人介助では普通のことですが、外国では違っていました。オランダだけでなく、高福祉の国として有名な デンマークや スェーデンでも、同じ対応だったとのことでした。老人が食事を食べなくても、職員は介助もせずに皿を下げていきました。

食べたくなければそれは老人 ( あるいは患者 ) の自己責任 ・ 自己決定権であり、無理強いは決してしない。それが高福祉国家における個人主義の在り方でした。

第 260 代 ローマ 教皇 ピウス 12 世 ( Papa Pius XII 、在位 :1939 年〜1958 年 ) は、

生命と健康を救うために必要な ケアをする義務は、必ずしも 過剰な手段を用いる ということを常に意味するわけではない

行き過ぎていると病人が判断するような 無益な治療手段 に頼ることは、 看護の義務 に含まれない

と1957 年に述べています。


[ 6 : カレン ・ クィンラン の裁判 ]

カレン

1975 年 4 月、カレン ・ クィンラン ( Karen Quinlan ) 当時 21 才は不慮の事故によって脳に回復不能な損傷を受け、その後病院で人工呼吸器を取り付けられました。彼女の父親が人工呼吸器を取り外すことを望みましたが、病院の医師はこれを拒否しました。

そこで父親が後見人として延命措置を打ち切る権限を与えるように裁判所に提訴しましたが、却下されました。しかし 1976 年に カレンの両親は ニュージャージー州の最高裁判所にこの件を上告しましたが、その結果

植物状態にある患者の後見人には、憲法上の 「 プライバシーの権利 」 に由来する延命措置拒否権がある

とする判決が出され、両親の訴えは認められ人工呼吸が取り外されました。 

ところが驚くべきことに人工呼吸器が外された後も カレンは自力で呼吸を続け、人工栄養補給によって 植物状態のまま 9 年間も生き続け 、 1985 年に 31 才で肺炎により死亡しました。 もし貴方が カレンだったら、 9 年間も生かされ続けていて よかったと思いますか ?。

ところで アメリカの カリフォルニア州では カレン ・ クインラン の裁判を契機に、1976 年に 「 カリフォルニア州 自然死法 」 ( Natural Death Act )が制定され、知的精神的判断能力があるときに証人を立てて リビング ・ ウイル ( 10−4、で後述 ) の文書 を作成し、その中で植物状態に陥った終末期には、生命維持装置を使用しないか、取り外すことを医師に要請する権利を住民に保証する法律を制定しました。


[ 7 : 尊厳死と、安楽死 ]

( 7−1、18 才の尊厳死 )

尊厳死 ( そんげんし、Death with Dignity ) とは、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むこと定義されています。 NHK の番組に 「 クローズアップ現代 」 があり 金 ・ 土 ・ 日を除く毎晩 夜 7 時半から放映されていますが、私の好きな番組なのでなるべく見ることにしています。 

2010 年 12 月 8 日に放映された 「 延命−−ある少女の選択 」 は、生まれた時から重い心臓病を抱えた少女が、8 才で ドイツに渡り心臓移植を受けました。

その後 他の病気から 15 才で人工呼吸器を気管に挿入して声を失い、17 才で 「 延命治療はしない 」 と自分の意志を家族に伝えました。腎不全を発症した少女は延命治療のための 人工透析を断り 、 18 才の若さで亡くなるまでの ドキュメンタリー番組でしたが、家族との会話は、伝言板や携帯電話の メールでおこないました。

尊厳死した少女

「 病院でも 手術でも 入院でも、十分がんばったよ。呼吸器 ( 人工呼吸器装着 ) になった時もつらかったけど、私はがんばったのよ。 私は自分で治療をしない選択をして 、家で自分らしく過ごしたいから在宅 ターミナル ( 終末期 ケア ) を決めたんだよ。 自分の限られた大切な いのち だから 体が変わっても、寝たままになってもちゃんとできるよ。」

「 死ぬのはこわくないの ? 」 という記者の問いに少女は、 「 天国はお疲れさまという場所でもあるから、おわりだけど、終わりではない−−−心があるからこわくないんです 」、 「 いのちは長さじゃないよ。 どう生きていくかだよと ボードに記しました。

人生をこれまでのんびりと過ごし 間もなく 80 才になる私は、この言葉に深い感銘を受けました。人生の終わりに対する 自己決定権を行使した少女は立派でしたが 、彼女を支え続け彼女の決めた方針に従い、最後を自宅で看取った両親も立派だと思いました。


( 7−2、安楽死 )

安楽死 ( あんらくし、 ユーサネイジャ、Euthanasia 英語 、オイタナジー、 Euthanasie、ドイツ語 )とは、死期の切迫した不治の病者を死苦から解放して安楽に死なせることであり、この言葉は 「 良き死 」 を意味する ギリシャ語の エウタナーシャ ( Euthanasia ) に由来します。

具体的には末期 ガンなど 「 不治 」 かつ 「 末期 」 で 「 耐えがたい苦痛 」 を伴う疾患の患者の求めに応じて、医師などがその死期を早める処置をとること。またはその死をいいます。

切腹

昔から切腹する武士に対する 介錯 ( かいしゃく、切腹する人の傍にいてその首を斬り落とすこと )も、見方によっては苦しむ死に対する慈悲の行為である慈悲殺 ( じひさつ、Mercy Killing ) か、 自殺幇助 ( じさつ ほうじょ ) といえるのかも知れません。


( 7−3、コフィー ・ ブレイク、中休み )

私が嫌いな作家は 2 人いますが、1 人は大江健三郎で彼は 1967 年に ( 戦後左翼がいうところの平和を守るための ? ) 中国の核実験の成功について 称賛し 、キノコ雲を見守る中国の研究者らの表情を 「 いかにも美しく感動的であった 」 と評しました。

さらに彼は 1994 年には 「 民主主義に勝る権威と価値観を認めない 」、「 戦後民主主義者に国民的栄誉は似合わないから 」 として、天皇が授ける文化勲章と内閣総理大臣が表彰する国民栄誉賞の受賞を拒否しておきながら、ノーベル賞をもらいに ストックホルムへ行きました。

その後1996 年に、 シラク大統領による フランスの ( 侵略的 ? ) 核実験には強く抗議したものの、2002 年に同大統領から レジオン ・ ドヌール ( 名誉軍団 国家勲章 ) のうちの コマンドゥール ( Commandeur、司令官 ) つまり 3 等級勲章 を贈呈する話が彼のところに もたらされました。

するとそれまでの 反核の主義主張 など どこえやら、 アフリカの サハラ砂漠で 17 回 、南太平洋の仏領 ポリネシアで 193 回 合計 210 回 も核実験を繰り返した フランスから、少しも恥じることなく 3 等級の勲章をもらいましたが、 大江健三郎の 節操の無さ には呆れました。

反日エセ反核主義者

平成 24 年から反原発 デモが始まると、彼は早速先頭に立って自己 P R に努めました。
核保有国で しかも電力供給量の 76.4 % を原発に依存する 世界一の原発大国 ( 日本は 23.9 %、 アメリカ 20 %、ドイツ 23.3 % ) の フランスから、折角もらった レジオン ・ ドヌール を 首に飾って デモに 参加すれば、とても お似合い だと思います−−−が ( 笑い ) 。( 2008 年、I E A 調べ )

原子力発電の割合は、 ここの黄色部分を参照

残りの 1 人は日露戦争当時に陸軍軍医総監を務め、自己の誤った権威主義から 数万人の兵士を 脚気 ( かっけ ) で死亡させた、 大量殺人犯人の 森 鴎外 ( 本名 ・ 森 林太郎 ) でした。

岩波文庫本

森鴎外の次女に小説家 ・ エッセイスト の小堀杏奴 ( こぼり あんぬ、1909〜1998 年 ) がいましたが、昭和 56 年 ( 1981 年 ) 刊行の岩波文庫本に 「 晩年の父 」 を書きました。その中にある 「 母から聞いた話 」 によれば、森鴎外は長女の茉莉 ( まり ) を、あわや 「 安楽死させようとした事実 」 が明らかになりました。

鴎外の長女茉莉 ( まり ) と次男が同時に百日咳にかかり、次男は死亡し長女も危篤状態になりました。医者はあと 24 時間の命と宣告し、 苦しみもがく長女を モルヒネ 注射で 安楽死させること を鴎外に奨めました 。鴎外も医者としてその奨めを受け止め、二人目の妻 「 志げ 」 も納得して、注射をしようとしたその時に、鴎外の義父、茉莉にとっては祖父が来て鴎外夫婦を叱り、

人間には天命というものがある。その天命が尽きるまで、たとえどんなに苦しかろうと生きねばならないんだ!

と叫んだのでした。この祖父の強い反対で、注射は取り止めになり、その後病状は回復して森 茉莉 ( もり まり ) は 一命を取りとめ、後に小説家 ・ エッセイストとして名を成しました。しかし老後は家庭的には恵まれずに 1998 年 ( 平成 10 年 ) に 89 才で孤独死しましたが、発見されたのは死後 2 日も経ってからでした。


since H 25、Jan. 21


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