オーストラリア 大陸( 続き )
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[ 8 : アボリジニ について ]これまで述べたように オーストラリア 大陸の先住民を アボリジニ と呼びますが、 「 アボリジニ 」 ( Aborigine ) とは、ラテン 語で 「 最初から 」 を意味する 語句の 「 ab origine 」 、( アブ オリジン ) に由来すると いわれています。 しか し今では アボリジニ ( Aborigine ) という言葉には 差別的な響きが強い とされ、公的には使用を控えられています。 そのため現在では それに代わり アボリジ ナル ( Aboriginal ) または インディジェナス オーストラリアン ( Indigenous Australian、 原産の オーストラリア 人 ) という表現も 一般化 しつつあるそうですが、ここでは従来からの アボリジニ を使用 します。 白人が入植する以前の アボリジニ の人口については、 少ない説では 30 万 ~ 40 万人 、多い説では 50 万 ~ 70 万人 と諸説あり、オーストラリアの学会で確定された数字はありません。![]() ![]() ( 8-1、 火の発見と使用 ) アボリジニ の生活では食物の蓄えは少量であり、家畜も飼わず作物も植えず、荷物もほとんど持たずに身軽に移動 しま したが、しか し 「 火 」 だけは別で した。 アボリジニ は最初、落雷などの自然現象で発生 した火を使用 していま した。いつでも落雷が起きるものではないので、一度燃え上がった火を消すことはせずに大事に 保存 しま した。 ![]() ( 8-2、 アボリジニ の海女 ) ロンドン 生まれで アボリジニ の保護官となった ジョージ ・ ロビンソン ( 1788 ~ 1866 年 ) によれば、海辺に暮らす アボリジニ が海に潜ることを彼は初めて知りま した。1829 年のこと タスマニア で、 アボリジニ の女性が貝を採りに海に潜る姿を初めて見ま したが、その女性は蘭 ( らん ) 草でできた手製の かご を肩に掛け、岩から貝を剥 ( は ) がすのに使う尖った棒を手に していました。 すぐれた潜水婦 ( 海女、あま ) だ、かなりのあいだ海中に潜っていられる。ほんの数秒海面に浮かび上がって呼吸 したと思えば、またすぐ ( 海中に ) 戻って かご 一杯に貝を採ってくる。 ![]() ![]() [ 9 : アボリジニ に対する迫害 ・ 虐殺 ]イギリス からの流刑囚を乗せた 11 隻からなる第 1 次移民船団が入植した 1788 年当時の オーストラリア には、少なく見積もって約 30 万人、多く見積もると 70 万人の アボリジニ が狩猟 ・ 採集の生活を営んでいました。 イギリス 人 入植者たちは アボリジニ のことを人類のなかで最も 発達段階の低い 原始的な人種と して、人間扱いをせずに 射殺 ・ 虐殺 ・ 強姦のみならず、土地の強奪、搾取などの迫害や差別を した結果、 アボリジニ の人口は 90 パーセント減少 し、タスマニア 島では絶滅 しま した。 1860 年代には広大な大陸のほぼ全土に入植者が進出 し、アボリジニ の生活基盤であった土地を奪い、入植者が持ち込んだ羊毛生産用の羊や馬 ・ 食料と しての牛 ・ 豚は、アボリジニ が何万年もの間食料と していた木の実や植物を食べ、彼らの生活に不可欠な飲料水を消費 して しまいま した。 入植者による アボリジニ の大量虐殺である 「 人間狩り 」 が問題となると、次には 「 ヒ素 や 水銀 」 などを水飲み場に流 して 毒殺する など、アボリジニ 殲滅 ( せんめつ、皆殺 し ) の方法は陰湿になっていきま した。 ( 9-1、 女流詩人の話 ) ![]() 水飲み場の周辺に 何百人もの アボリジニ が死んでいた 。大人たちが集まり、アボリジニの 狩り に出かけるところを何度も見た。欧州から獰猛 ( どうもう ) な狩猟犬が輸入されたが、アボリジニ たちを狩り出 し、 食い殺させる ためだった。 ある時は小さな子供たちが、野犬のように撃ち殺された両親の遺体のかたわらで死んで いるのを見た。 ![]() ( 9-2、タスマニア 島の場合 ) オーストラリア 大陸の南東 240 キロメートル に タスマニア 島がありますが、そこには かつて先住民の タスマニア 系 アボリジニ が住んでいたものの、その後 絶滅 させられて しまいま した。 1803 年に流刑囚 49 名の植民をおこなった当時、タスマニア 島には 先住民 3 万 7 千人 が住んでいま した。 しか し白人 入植者による 迫害 ・ 虐殺 および タスマニア 島東端の北 20 キロメートル に位置する フリンダース 島( Flinders Island ) へ の 強制移住 及び、強制移住先の島における劣悪な生活環境や ヨーロッパ 人がもたら した天然痘 ・ 結核 ・ 梅毒 ・ は しか などの伝染病により、タスマニア系 アボリジニー の人口は激減 しま した。 ![]() ( 9-3、ブラック ライン ) タスマニア 島では白人植民者と先住民の間で衝突が繰り返されま したが、銃を持つ白人入植者に対 して槍が武器の アボリジニ が勝てるはずがはありませんで した。 この戦いの後に植民地側は タスマニア 島から先住民 ( タスマニア 系 アボリジニ ) を 一掃するために、「 ブラック ・ ライン 」 ( Black line ) 計画を立てま した。島の男性入植者全員が銃を持って横 一列になり、島の端から端へと進みながら アボリジニ を包囲 し、見つけ次第 射殺 しま した。 1935年、国際連盟は原住民の虐殺や差別について、オーストラリア 政府に釈明を求めま したが、オーストラリア 政府はもともと アボリジニ を 人間、 従って 国民 とはみな していませんで した。 したがって 人口動態 国勢調査対象からも外 し続けていて、アボリジニ を 人口統計に入れた のは 1901 年に連邦国家が成立 してから 70 年も経った 1973 年 ( 昭和 47 年 ) の憲法改正以降のことで した。 [ 10 : 盗まれた世代とは ]![]() アボリジニ の子供に対する親権は 1970 年 ( 昭和 45 年 ) まで否定され、親から引き離された子供たちは強制収容所や、 キリスト教会が運営する孤児院などの施設に強制的に収容されま した。 その目的は子供たちに西洋的進んだ文化、キリスト教的生活習慣を植え付け、 白人社会に同化させる ためでもありま した。 しか しそのことは子供から アボリジニ と しての アイデンティティ ( Identity、自分自身のよりどころ ) を喪失させることとなりま した。さらに労働に対する 「 勤勉さ 」 が求められ、 白人入植者にとって必要な労働力となる女子は ハウス メイド ( 女中 ) と しての家内労働に従事させられま した。 男子は奴隷商人によって アメリカ 大陸に運ばれ売買された アフリカ の黒人奴隷とは異なり、 無料で入手できる少年奴隷 と して農業 ・ 牧畜に使用されま した。 政府によって親元から子供を連れ去る行為は イギリス 人による入植当初からとも、あるいは 1910 年 ( 明治 43 年 ) からとも言われ 1970 年 ( 昭和 45 年 ) まで続き、奪われた子供の数は実に 10 万人 にも及びま した。さらに女子の 10 人に 1 人は、 性的虐待を受けた といわれています。 「 盗まれた世代 」 の政策及びその事実が明るみに出たのは、 1970 年代に ピ-ター ・ リード という若い歴史家が ニュー サウス ウエールズ 州の アボリジニ 保護局 ( Aborijinal Protection Board ) の資料から、この政策に関する資料を大量に発見 したのがきっかけで した。「 盗まれた世代 」 とは彼が名付けた名称です。 ( 10-1、牛追いたちの 少年妻 ) ![]() 大陸の真ん中に位置する ノーザン ・ テリトリー 準州が 「 開発された 」 のは、港から 牛追い ( ドローヴァー、Drovers、アメリカ で言う カウボーイ のこと ) たちが何百頭という牛をつれて何千 キロ も移動 し、何度も内陸に牛を運び住みついたからで した。 大部分の ドローヴァー たちは アボリジニ の住む土地に遠慮な しに侵入 し、アボリジニ を カンガルー のように射殺 し、ネスミ のように毒殺 しま した。 ![]() ![]() ドロヴァー たちは労働契約期間が終わると牧場から去っていきま したが、残された多数の 少年妻 たちの名前も 混血の子供たちの生涯も、家畜同様に何の記録もありませんで した。例外を除いて---。 ![]() ( 10-2、アボリジニの人口推移 )
[ 11、オーストラリア 首相の アボリジニ への謝罪 ]前述 した オーストラリア の第 26 代 ラッド 首相は 2008 年 2 月 13 日に、首都 キャンベラ の下院で、過去の政権が先住民 アボリジニ に対 して行った 虐殺 や 隔離 政策について、誇りある人々と文化が受けた侮辱を申 し訳なく思うなどと公式に謝罪 しま した。同国の首相が、アボリジニへの政策で謝罪 したのは初めてであり、首相が表明 した謝罪文書は同日、下院に動議と して提出され、全会 一致で採択されま した。以下はその 一部です。 下記の動画で英語の説明を読まなくても、写真を見るだけで意味が分かります。開始から 3 分 25 秒後に 、議会における オーストラリア 首相の アボリジニ に対するこれまでの 政府の取り扱いに対する謝罪演説 が見られます。 白人から アボリジニ ( 先住民 ) と呼ばれる人々は、白人が オーストラリア と呼ぶ大陸で、5 万年以上前から狩猟採集生活を続けてきま した。農業を知らず、金属を知らず、文字を知らず、地面に残る動物のかすかな足跡を追い、石器で獲物を仕留め、何百種類もの動植物の効用を語り伝えてきま した。 彼らの土地に、産業革命期の英国人がやってきて、ここは自分たちが発見 したのだ、と宣言 し、南東部の豊かな土地を柵で囲い、アボリジニを西北部の荒野へ追い立てま した。オーストラリア は当初、英国の流刑植民地だったため、初期の入植者には犯罪者が多く、 カンガルー 狩りと並ぶ スポーツ として、 「 アボリジニ 狩り 」 も行われま した 。 アメリカ 先住民 ( インディアン ) が、白人に激しく抵抗 したのとは対照的に、彼らはただ天災のようにふりかかった不幸を嘆き、死んでいく のみで した。白人が持ち込んだ伝染病と環境の変化で、 アボリジニ の 9 0 % が死滅 しま した。 また、入植当初の白人は男ばかりだったので、アボリジニの女性を 「 現地妻 」 、も しくは 「 性奴隷 」 とする者も多く、大量の混血児 ( ハーフ カースト、Half-Caste ) が生まれま した。彼らは父親から捨てられ、母方の アボリジニ 社会で育てられま した。 1910 年代、オーストラリア 政府は、白人の血を引く混血児が、先住民の野蛮な習慣に染まらないように隔離 し、白人社会で養育すべきだ、と決定。これには キリスト 教会も協力 します。「 保護 」 という名の混血児の組織的拉致 ( らち ) は、1970 年まで続きま した。 母親と生き別れになり、伝統文化も言語も失い、根無 し草の 「 黒い文明人 」 と して生きることを余儀なく された 「 失われた世代、Lost Generation 」 は 、 10 万人に達 しま す。( 以下省略 )上記の理由から オーストラリア では 5 月 26 日を ナショナル ソリー デイ ( National Sorry Day、国民謝罪の日 ) と 1998 年に定め、アボリジニ に対する誤った取り扱いを謝罪することに しま した。 [ 12 : 欧州への仲間入りを拒否され、政策を大転換 ]オーストラリア の 6 州から成る連邦政府は 1901 年 1 月 1 日に イギリス の植民地から独立 しま したが、第二次大戦以後も 白豪主義 を かたくなに 守り続けま した。 その オーストラリア の政府 ・ 国民が白豪主義の伝統をやむなく放棄することに至った理由とは、国をとりまく 政治的 ・ 経済的情勢に大きな変化が起きた からで した。
かつては栄光に輝く大英帝国の女王陛下を国の元首に頂き、イギリス から派遣された総督 ( Governor-General of Australia )が、オーストラリア の最高権力者で したが、1975年 ( 昭和50年 ) には総督が首相を罷免 し、議会を解散 したこともありま した。あたかも イギリス の植民地であるかのように。 イギリス連邦 ( 旧称、The British Commonwealth of Nations )を構成する 一員と して、 母国への回帰 にも似た ヨーロッパ 文化圏、経済圏への仲間入り が、白豪主義を掲げる オーストラリアにとっては 長年の夢 で したが、 その 見果てぬ夢 が 三度にわたり 拒否された ことが原因で した。 その結果 オーストラリア の主要産業である 酪農製品、羊毛、小麦などの輸出が事実上 ヨーロッパ市場から閉め出されたために 、これまで白豪主義のもとで 有色人種に対 して劣等人種とみな し、人種差別をおこない、 軽蔑の対象に してきた アジア諸国に対 して、 貿易による活路を求め、接近せざるを得なくなったという、 経済的事情が生 じたからで した 。 1975 年 ( 昭和 50 年 ) になってようやく( 有色 )人種差別禁止法を成立させ、表面上は白豪主義の看板だけは降ろ しましたが、人種的偏見は決 して消えたわけではありません。 反捕鯨運動に名を借りた日本人に対する 人種差別や偏見は、 アングロサクソン が主流である オーストラリア 人の心の中に深く刻み込まれたものです。 2005 年( 平成 17 年 )12 月 11 日、オーストラリア の シドニー において中東や レバノン 系の住民に対する白人による人種暴動が発生 しま した。五千人もの若者が集まり暴力や破壊がおこなわれま した。 ベトナム、中国などの アジア 系移民が増えるにつれて、彼らの人種的偏見は今後 機会を捉えて必ず 噴出する ものであることを、肝に銘 じる必要があります。
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