サンフランシスコ大地震


[ 1 : 序幕 ]

平成元年( 1989 年 )10 月 17 日の夕方、夫婦の個人旅行で カナダの カルガリー から サンフランシスコ 国際空港に着き、市内に向かう U.S. ハイウエイ 101 は普段よりもかなり混雑していました。

空港から乗った タクシー の運転手に今日は混雑するねというと、途中にある キャンドルステック 球場で ワールド ・ シリーズ の オークランド ・ アスレティクス と サンフランシスコ ・ ジャイアンツ との第 3 戦の試合が、間もなく行われるからだという答えでした。

過去に日本人の村上投手が大 リーガーになった記録があるものの、それ以後近鉄の野茂英雄が ドジャースに入団したのは平成 7 年 ( 1995 年 ) であり、当時の我々にとって メジャーリーグ の ワールド ・ シリーズ でどこが優勝しようが、あまり興味がありませんでした。地震による被害のため、第 3 戦は後日 ロサンゼルス で行われました。


[ 2 : 地震の瞬間 ]

市内中心部にある観光 バ ス発着場所の ユニオン ・ スクエア 近くの ホテル に到着 し、例によって女房に 2 個の スーツケース の番をさせ、私が チェックイン ・ カウンター の列に並びま した。

すると突然 グオー というすごい地鳴りがしたので、最初は直ぐ傍を通る サンフランシスコ 名物の ケーブルカー が暴走したのかと思いま した。つぎの瞬間立っていられない程の烈しい上下動があり、思わず しゃがみ込みました。人々の悲鳴、ガラス が割れる音、物が倒れる音が しました。

それが サンフランシスコ を平成元年 ( 1989 年 )10 月 17 日の 17 時 04 分 ( P S T 、太平洋標準時間 ) に襲った直下型、マグニチュード 7.1 の地震でした。 教訓−−−避難が必要な強い地震の瞬間には、誰も動けない。従って避難もできない−−−。


[ 3 : 逃げ出したのはその後 ]

窓ガラスが割れた建物

最初の揺れが納まると同時に ホテルの 1 階にいた人達は私達夫婦を除き、全員が外に逃げ出しま した。私は女房に 「 大丈夫だからここにいるように、シャンデリア の下から離れろ 」 と指示しただけで ロビー内に留まりました。

地震の第 1 波に耐えた建物なら、その後の余震にも耐えられると判断 したからでした。その後は大きな余震が来るたびに建物の窓 ガラス が道路に落ちる音が して、外に避難した人達は悲鳴を上げていました。室内の方が安全なのに−−−。写真は近くの ビルの窓 ガラスが、2 枚を残して全部割れて路上に落下 した現場です。


[ 4 : ソファー の確保 ]

地震と同時に停電となり、コンピュタ は作動せず、ホテルの チェックイン ができなくなり ました。長期戦になると判断 したので ロビー の壁ぎわにあった 2 人用の長椅子を確保 し、スーツケースも身近に置きましたが、その後 8 時間もこの ソファー のお世話になるとは思いもよりませんでした。

スーツケースの ロックは鍵と数字合わせの 二重でしたが、暗くならない内に数字を合わせて ケースを開き、2 人とも懐中電灯を用意 しました。その内に野球の試合が停電による中止のため、観客や観光客が続々と ホテル に引き揚げてきま したが停電のため カード ・ キー が使用できずに、室内に入れない人達は ロビー の床に座ったり後には寝ころぶ事態になりました。

次ぎに考えたことは非常事態における、 食べ物と飲み物の入手のことでした 。 私が飲食物を仕入れに外出する間、英語をあまり話せない女房に ソファー を死守させるため、 This seat is occupied. ( この座席は使用 しています ) と紙に書いて渡 し、誰かに尋ねられたら イエス、ノー ではなく 「 オキュパイド 」 とだけ答えること。それでも何か言われたら、この紙を見せるようにと言いま した。


[ 5 : 日本への電話連絡 ]

市内はどこも停電で信号機が作動せず、道路は車で大混雑を していま したが、停電でも電話は使用可能で した。国際電話が掛けられる公衆電話を探 して日本の女房の実家に コレクト ・ コール をしました。

その際に アメリカ 人電話交換手がいう コレクト ・ コール ( Collect Call、料金日本払い ) の意味が女房の実家の家族に通 じないので困りま した。そこで交換手に私が通訳するからと告げて繋いでもらい、何でもよいから 「 イエス 」 を言うように家族に依頼 して、ようやく電話が通じたので現地で地震が起きたが 2 人は無事なことを伝えました。

夕闇が迫り近くの店では ロウソクを立てて営業 していました。そこで サンドイッチ と飲み物を買って ホテル に戻りましたが、女房に聞くとその間に何人も座席が空いているかどうかを尋ねられたので、その都度教えられた通り「 オキュパイド 」を連発 して断ったとのことでした。 良くやった。!


[ 6 : 市内の状況 ]

ベイ・ブリッジの崩壊

暗くなっても ホテル の非常用発電機は作動せず、バッテリー の電圧低下により非常用照明が 「 蛍の光 」 程度に暗くなって行きま した。ついに係員が ロビー まで出て来て 「 ディーゼル発電機の起動ができる人はいませんか ? 」 と客に尋ねる始末でした。

野球観戦の客が持ち込んだ ポータブル ラジオ からの放送によれば、サンフランシスコ 国際空港は閉鎖されて、1.000 人の乗客が足止めされている。空港内で産気付いた女性が出たが、救急車が地震で来られないので空港 ロビー 内の救護所 ( First Aid ) で出産が始まった。

サンフランシスコ 湾を横断する ベイ ・ ブリッジも、橋桁が崩落して通行不能である。空港と市内を結ぶ U.S. ハイウエイ 101 号線も路面が崩れている。そして警察からの 「 夜間の外出を控えろ、略奪をする者には無警告で発砲する 」 という警告が繰り返 し放送されていました。一部の地区では火災が発生 し、その夜は 一晩中消防車と パトカー の サイレン が鳴り響いていました。

ハイウエイの崩壊

注:)
添付の写真は地震の翌日に購入した地元の新聞、「 サンフランシスコ ・ イグザミナー 」 の紙面写真を コピーしたもので、不鮮明な点はお許しのほどを。


[ 7 : 薄暗い中での食事 ]

どうにか非常用 ディーゼル 発電機が起動 したらしく エレベーターも 1 基だけ動くようになり、非常用照明灯も少しだけ明るくなりましたが、ロビー は薄暗いままでした。そのうちに食事を無料で支給するから希望者は 2 階に行くようにとの知らせがあったので、私が先に様子を見ながら食事に行きま した。

薄暗い部屋での バイキング 形式でしたが、料理はすべて冷たい食事 ( Cold Meal ) で した。 ロウソク を立てた状態でも暗くて料理がよく見えないので、懐中電灯で照らしながら皿に料理を取りま したが、周囲の人々からは You are well Equipped. ( 貴方は用意が良いね ) と言われました。

実はその当時仕事で年間 120 日から最多で 135 日間も国内、海外の ホテル に宿泊 していたので、安全上から常に身近に懐中電灯を用意する習慣があり、家庭内は勿論、夫婦での国内、海外旅行の際にも必ず持参しました。

懐中電灯が旅先で役に立ったのはこれ以外にも何度もありましたが、別の機会に述べる予定にしている暗闇の中で起きた 阪神大震災 の時にも、懐中電灯が大いに役立ちました。備えあれば憂いなし


[ 8 : 翌日になった入室 ]

ホテル の予備電源では各部屋の カード ・ キー の ロックまで電気が来ないので、ドアー を ボーイ が金具でこじ開けて宿泊客を部屋に入れることになり、私達夫婦も ホテルに到着から 8 時間後にようやく部屋に入ることができましたが、すでに日付が変わっていました。

この ホテル では特別 サービス により翌日の朝食も無料で食べさせてくれました し、後日 チェックアウト 時に見た領収書では、当日の宿泊費も当然半額に してありました。

最初の旅の予定では翌日は レンタカー を借りるか、どこかの観光 ツアー にでも入って 「 ヨセミテ国立公園 」 に行き 1 泊する予定でしたが、地震の被害状況から旅行の計画をすぐに変更 して、この ホテルに連泊することにしました。

崩れた建物

昼ごろには市内も部分的に停電が復旧 してきましたが、まずは観光 バスで市内観光をすることに しました。 地震の翌日の観光 バス は ガラ 空きで客は我々を除くと僅か 7 名で、日本人は私達だけで した。

それはあたかも地震の被害を見物に行ったようなもので した。女房は フィシャマンズ ワーフ は初めてで したが、私は以前 サンフランシスコ 国際空港を ベース に して ボーイング 727 型機の飛行訓練の審査を担当 していたことがあり、その都度何度も訪れた経験がありました。

フィッシャマンズ ワーフ の店も、地震による被害から半分は閉店 していましたが、 営業中の Sea Food Restrant で、有名な メイン 州で獲れた ロブスター( 伊勢 エビ ではなく、大きな鋏を持つ海 ザリガニ )を食べて帰りました。


[ 9 : 脱出計画 ]

サンフランシスコ から対岸の オークランド に渡る ベイ ・ ブリッジ が通行止め、U.S. ハイウエイ 101も通行止めの状況下で、サンフランシスコ 国際空港 ( S F O ) の閉鎖がいつまで続くのか心配になりました。

それに女房の話によれば、ホテル の洗面所の水の出が悪くなったみたいとのことなので、断水間近 (?)の ホテル でのんびり過ごすわけにはいかなくなりました。こういう場合は団体旅行ならば全て添乗員に任せれば良いのですが、個人旅行となると全て自分自身の判断で対応しなければなりません。

近くにある ヒルトン ・ ホテル内の ジャルパック ・ ツアーデスク に空港の オープン についての情報を聞きに行ったところ、「 日本からの飛行機が何時になったら来るのか分からないんだから、空港のことなど知りませんよ 」 とけんもほろろの対応でした。

そこで念のために ユナイテッド 航空の市内 オフィス に電話したところ、ここでも空港 オープン の情報は不明とのことでした。次ぎに レンタカー 会社に電話 したところ、必要なら 30 分で車を ホテル に届けてくれるとのことなので安心しました。私の日本へ帰る航空券は ロサンゼルス 国際空港 ( L A X ) 発なので、帰国するには L A X に行く必要がありましたが、その方法をどうするか考えました。

第 1 案は運行を再開したばかりの B A R T ( Bay Area Rapid Transit 、湾岸高速鉄道 ) で対岸の オークランドに出て、そこから国内線の飛行機で ロサンゼルス に行く方法。

第 2 案は レンタカー を借りて フレズノ ( Fresno ) まで行き、そこで車を ドロップ ・ オフ して、飛行機で ロサンゼルス に行方法く。

第 1 案では B A R T へ乗り降りするのに、重い スーツーケース を運ぶ必要があったし、
第 2 案では ベイ ・ ブリッジが通行止めのため、サンフランシスコ 湾を渡る サン ・ マテオ ・ ブリッジ や ダンバートン ・ ブリッジ が混雑することが予想されます。

地図を見ながらの女房の ナビゲーション ( 道案内 ) で、ハイウエイ を走るのは当てにはできませんが、地震の 10 年前に サンフランシスコ から ヨセミテ 国立公園まで、片道 300 キロの ハイウエイ を走った経験があり、フレズノ はその途中にある マーセド ( Merced ) から 99 号線を南下する ルート なので、私にはそれなりの土地勘と自信がありました。

タイムリミット を明日の昼に定め、それまでに サンフランシスコ 国際空港の閉鎖が解除されなければ、サンフランシスコ から脱出することに しました。翌朝目が覚めてすぐ テレビ の ニュース を見ると、国際空港は既に運航が再開されていました。

朝食後に ホテルを チェックアウト して空港に向かいま したが、地震の被害のせいで市内を走る車が少なく、空港までの迂回路も スイスイ 行けました。それに飛行機を利用する旅行者も他の交通手段に切り替える人が多かったのか、空席待ちをせずに ロサンゼルス行きの便に乗ることができました。 ヨカッタ !。


[ 10 : 個人旅行の利害得失 ]

スイスの高山食堂

前述の如く個人旅行では事故や盗難、病気などの際には、全て自分の責任と判断で対処しなければなりませんが、これまで 15 回以上行った海外への個人旅行の際には、スイスの 高山 ユング フラウ ヨッホ ( Jungfraujoch、若い女性の肩 ) にある レストラン Top of Europe ( ヨーロッパ の 頂上、標高 3,571 メートル ) で食べた 生 ハムの サラダ による 食中毒で、腹痛、38 度の発熱、下痢の症状 を起こ し、翌日は薬を飲み絶食を して 1 日中 ホテルで寝ていた こともありま した。

その際には病気の亭主を ホテルに残 したまま、薄情な女房はあろうことか 1 人で登山電車に乗り、山の景色を見る観光に行ってきま した。

犯罪の被害については 1 度だけ シドニーで横断歩道を横断中に、 中国人の スリ グループ が共謀して横断中の歩行者に信号無視して車を突っ込み、パニック状態の歩行者 に後から抱きついて財布を ス リ 取るという、以前 ホンコン で流行った 抱きつき ス リ の被害に遭い、3 万円の現金と クレジット ・ カードを盗まれました。

すぐに カード 会社に電話して クレジット ・ カードの支払い停止を し、警察に ス リ の被害届けを出 しに行き、被害届けの コピー と パスポートを持参 して現地の カード 会社で新しい カード を発行してもらいましたが、無駄な労力と時間を費や しま した。

旅先での ホテル、飛行機の予約、レンタカー や観光の手配、毎回の食事、事故の際の対応などは、女房の意見を聞きながら、常に自分だけで対応 しました。しか し個人旅行をすると外国語をはじめ旅行者目当ての 「 ぼったくり 」 、釣り銭の ごまか しなどの 「 ズルサ 」 や 「 にせ警官 」 ・ 「 ひったくり 」 などの犯罪に対する用心 ・ 警戒を含めて、いろいろな面でかなり実力が付きました。

団体旅行よりも費用が掛かるものの、自分の好みに合わせて見たい所を見て回り、しかも朝早くから行動する必要もなく、のんびりと時間に束縛されない手作りの旅の良さは、1 度だけ行ったことがある団体旅行には無い旅の良さを、味わうことができました。

しかし 70 才を過ぎると自然に海外旅行に行くのがおっくうになり、泊まる日数の多い国内旅行もあまり興味がなくなりま した。身体の衰えに見合った、精神面での老化現象なので しょうか!。

目次へ 表紙へ