オーストラリア 大陸
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[ 1 : はじめに ]オーストラリア という国の名称は、古代 ローマ の学者で、数学 ・ 天文学 ・ 占星学 ・ 光学 ・ 地理学 ・ 地図製作などの幅広い分野に業績を残 した、 プトレマイオス ( Ptolemaeus、西暦 83 年頃 ~ 168 年頃 ) にその起源を持ちます。 世界地図を作った彼は世界の南端には ラテン 語で、 「 Terra Australis Incognita 」 ( テラ ・ アウストラリス ・ インコグニタ ) という大陸があると しま した。ラテン 語で、 テラ は 「 土地 」、アウストラリス は 「 南の 」、「 インコグニタ 」 は 「 未知の 」 、つまり 「 南方にある未知の大陸 」 という意味ですが、オーストラリアの国名はこれに由来 します。 オーストラリア 大陸は全体的に低く平らで、世界の六つの大陸 ( 注参照 ) のうち最小であり、国土面積は 769 万平方 キロメートル と 日本の約 20 倍です。地勢は東部山地 ・ 中央低地 ・ 西部台地に 三分され、南東部はこの大陸最大の穀物生産地帯を形成していますが、西部台地はおおむね砂漠です。注 : 六つの大陸とは、 ヨーロッパ と アジア をつなぐ ユーラシア 大陸 ( Eurasia ) ・ アフリカ 大陸 ・ 北 アメリカ 大陸 ・ 南 アメリカ 大陸 ・ 南極大陸 ( Antarctica 、アンタークティカ ) ・ オーストラリア大陸 の六つである。 ( 1-1、大陸の気候 ) オーストラリア 大陸 を気候からみると、内陸部を中心に国土の 70 パーセント は ドイツ の気象 ・ 気候学者 ケッペン ( 1846 ~ 1940 年 ) が定めた 「 気候区分 」 に従えば、 乾燥気候 に該当 します。 ![]() [ 2 : 氷河期 における海面の低下 ]地球上では過去に 少なくとも 4 回の大きな氷河期 がありま したが、痕跡 ( こんせき ) が残るものの中で 一番古いのは、 7 億 5 千万年前から 7 億年前 までの氷河期の スターティアン 氷期 ( Sturtian glaciation )] 、および 6 億 5 千万年前 ~ 6 億 3 千 5 百万年前 の マリノ アン 氷期 ( Marinoan glaciation ) です。 氷河期のうち特に気候が寒冷となり、中緯度圏の非山岳地帯 ( 平野部 ) でも氷河の発達 した時期を 「 氷期 」 ( Glacial age ) ともいいますが、氷河期の中でも より温暖な時期を 「 間氷期 」 ( かんひょうき、Interglacial stage ) と呼んでいます。( 大英百科事典 )![]() 地質時代の区分の 一つに 更新世 ( こう しんせい ) がありますが、 約 2 5 8 万年前から約 1 万年前 までの期間のことであり、人類が出現 して世界各地に移動 ・ 拡散 した時期でもありま した。 ![]() [ 2-1、サフル ( Sahul ) 大陸 ・ スンダ ( Sunda ) 大陸 ] オーストラリア 大陸では前述 した 海面低下 により、南にある タスマニア ( Tasmania ) 島との間が陸地でつながり 、また大陸の北側にある ニューギニア 島周辺の大陸棚 ( Continental shelf ) もこの時代の海面低下により海面上に姿を現 し、 ニューギニア は大陸と 一体化 しま した。 当時のこの大陸のことを 「 サフル( Sahul ) 大陸 」 と呼び、海面低下により露出 した部分を 「 サフル 大陸棚 」 と呼びます。 東南 アジア の マレー 諸島のうち、インドネシア に属する島々を スンダ 列島 ( Sunda Islands ) とい いますが、同様なことが インドシナ 半島南部 ・ マレー半島 ・ スマトラ 島周辺の ジャワ 海 ・ カリマンタン ( ボルネオ ) 島西部から南部にかけても起こりま した。 ![]() [ 3 : オーストラロイド ]オーストラロイド ( Australoid ) とは、 オーストラリア 大陸の先住民やその類縁の人種 ( 例えば ニューギニア ・ インドネシア ・ フィリピン ・ タイ ・ スリランカ ・ インド 南部などに住む先住民たち ) の総称です。![]() ( 3-1、カ ヌー に乗り、大陸へ到達 ) ![]() ![]() ![]() [ 4 : オーストラリア 大陸 の発見者 ]これまで述べたように およそ 6 万年前に オーストラリア 大陸を発見 し そこに住み始めたのは、 オーストラロイド を先祖とする アボリジニ と呼ばれる人たちで した。![]() ( 4-1、 アボリジニ に次ぐ、 オーストラリア大陸 発見の歴史 )
[ 5 : オーストラリア が 流刑植民地 に選ばれた理由 ]( 5-1、 アメリカ 独立戦争の結果 ) 1775 年から 1783 年まで、 イギリス 本国 ( グレート ブリテン 王国 ) と アメリカ 東部沿岸の イギリス領の 1 3 植民地との間で アメリカ 独立戦争 ( American War of Independence ) が続きま したが、その原因は植民地住民 ( アメリカ 人 )に対 して イギリス 本国政府が重税を課 したことで した。 1764 年には 砂糖法 により砂糖に関税を掛け、 1765 年には 印紙法 により、アメリカ で刊行された印刷物すべてに イギリス の印紙を貼ることを義務付け、1773 年には植民地への茶の直送と独占専売権を、東 インド 会社に与えた 茶法 ( Tea Act、紅茶法 ) を制定 しました。 重い税金を支払わされながら、自ら選出 した代表を ロンドン にある英国議会へ送ることが許されない状態に不満を感 じた植民地住民の間で、イギリス本国への反感が生まれ、 代表なく して課税な し、( No taxation without representation ) を スローガン に独立への道を歩みま した。 1776 年に アメリカ が独立すると、それまで イギリス 本国から アメリカ 東部の主に バージニア 州と メリーランド 州に 年間 1,000 人ほどの流刑囚 が船で送られ、開拓作業に従事させられてきた流刑囚の行き場がなくなり、イギリス 本国の刑務所は 流刑囚で溢れる状態 となりま した。![]() ( 5-2、 流刑候補地 の選定 ) 最初は比較的 イギリス 本国に近い カナダ や西 アフリカ が候補地と して挙げられました。しか し カナダ は寒冷地であるため、また西 アフリカ は マラリア や黄熱病 ( おうねつびょう、yellow fever ) をは じめ 熱帯の疫病に感染する危険 ( 注 : 参照 ) が多かったため、対象から外されま した。 [ 注 : イギリス 軍の西アフリカ 疾病 死亡率 ] 西 アフリカ の シエラレオネ ( 現 ・ シエラレオネ 共和国 ) に派遣された イギリス 軍 シエラレオネ 管轄部隊 ( Sierra Leone Command ) の死亡者についての統計がある。それによれば、イギリス 軍兵士の 死亡率は 47.8 パーセント であり、当時この地域は 白人の墓場といわれた 。 ちなみに黄熱病は アフリカ 人のように、子どもの頃に感染すれば死ぬ者もいるが免疫が得られる。しか し免疫のない白人の新兵が次々と西 アフリカ に送られてくる ヨーロッパ の軍隊の駐留地では、蚊による ウイルス 感染が拡大 し死者が続出 した。そこで流刑囚の収容先の候補地に挙がったのが 1770 年に キャプテン ・ クック が発見 し上陸 すると共に、その地域一帯 ( オーストラリア 東海岸 ) を国王 ジョージ 三世の名において領有 し、「 ニュー サウス ウェールズ 」 と命名 した オーストラリア 大陸で した。 ( 5-3、 イギリス海軍の戦略上の理由から ) 18 世紀において、イギリスの インド 洋艦隊の補給修理基地は インド 大陸西岸の アラビア 海に面 した ボンベイ ( 現 ・ ムンバイ ) にありま したが、そこで船の マスト や 帆布 ・ ロープ などの修理 ・ 補給に必要な物資は、イギリス 本国からの供給に依存 していま した。 しか し スエズ 運河 ( 1869 年完成 ) が未だ存在 しなかった時代で したので、喜望峰回りの航海には長期間を要 しま した。その調達先を、より近い オーストラリア 大陸に求めたと しても不思議ではありませんで した。 オ-ストラリア の東の太平洋上に クック が発見 ・ 上陸 した時は島は無人だった ノーフォーク 島 ( Norfolk Island、シドニー 北東約 1,500 Km にある絶海の孤島で火山島 ) がありま した。 そこの岸辺に亜麻 ( あ ま、アマ 科の 一年草で高さが約 1 メートル。茎から繊維をとる ) が密生 し、内陸に ノーフォーク 松が覆っているのを見て、この島が海軍の資材補給地と して有望だと クック 船長が報告 していま した。 そこで 1788 年 2 月 1 日に フィリップ 総督は ノーフォーク 島に対する植民を部下の キング に命 じま した。しか し亜麻 ( あま ) の繊維は主に衣料 ・ 寝具用であり、船舶用の ロープ には水に浮き、太陽光や風雨などに対 して非常に高い耐久性を示す 「 マニラ 麻 」 が使用されていたために繊維が適さず、1814 年に島は 放棄されることになりま した。 ( 5-4、 フランスに対する牽制から ) イギリスの第 1 次 植民船団が大陸の ボタニー 湾に到着 した直後の 1 月 24 日に、フランス の海軍士官 ・ 兼 探検家 ラ ・ ペルーズ ( La Perouse ) が指揮する 2隻の フランス 船が ボタニー 湾に現れま したが、両者は友好的な関係を持ちま した。 イギリス 政府は フランス によるこの太平洋への遠征を事前に知っており、その機先を制 して実際の植民をおこなうことが、ニュー サウス ウェールズ への植民を始めた動機のひとつで した。 フィリップ 総督が ノーフォーク 島への植民を急いだのも、総督となった キング が 1803 年に タスマニア 島の 「 リズドン 入り江 」 ( Risdon Cove ) に 流刑植民地 ( Penal colony ) を建設 したのも、フランス の脅威が直接の原因で した。 [ 6 : オーストラリア への植民 ]18 世紀の イギリスは、国家が主導 した食料増産のための第 2 次 ( 土地の ) 囲い込み ( かこいこみ、エンクロージャー、 Enclosure ) により、イギリス の耕作地の 20 % が囲い込まれました。 産業革命により伝統的な手工業が衰退し、没落した手工業者は、工場労働者となり、地主による 「 囲い込み 」 による経営規模の拡大化がおこなわれて、多くの農民が農村を離れ、都市に流入していきました。 産業革命がすすむにつれて、工場で働き賃金を受け取って生計を立てる賃金労働者が増加 しま したが、土地を失った自営農民や職を失った農業労働者、産業革命による落ちこぼれ失業者などが都会に集まって犯罪者の数が激増 しま した。 微罪に問われた者でも刑務所に収監する法制度があり、 例えば債務 ( 借金 ) を支払うことができない者を収監するための債務者監獄 ( デターズ プリズン、Debtors' prison ) があり、1869 年の債務者法成立まで、債務者の収監が続きま した。 そこで流刑先の候補地に決まったのが 1770 年に キャプテン ・ クック が発見上陸 した、オーストラリア 大陸の現 「 ニュー サウス ウェールズ 」 で した 。( 6-1、 建国記念日 ) イギリス 政府は、退役海軍大佐の アーサー ・ フィリップ ( Arthur Phillip ) を植民地の初代総督に任命 し、1787 年 5 月 13 日、フィリップ 率いる オーストラリア 向けの最初の囚人植民 船団 ( First fleet ) 11 隻は、 流刑囚 780 名 ・ 海軍軍人 ・ 海兵隊とその家族 ・ 船員その他 合計 1,473 名 を乗せて ポーツマス 港を出航 しま した。 長期間の航海で 69 名の死者 ( 死亡率 4.7 %、大半が病人と老人 ) を出 しながら、翌 1788 年 1 月 18 日に シドニー 近郊にある現 ・ キングスフォード ・ スミス 国際空港近くの ボタニー 湾 ( Botany Bay ) に到着 しま した。 ![]() ( 6-2、 送り込まれた 流 刑 囚 の数 ) 各年代ごとの植民囚人 ( 流刑囚 ) の数および自由移民の数を下表に示 しますが、出典は 「 世界各国史 27 」、の 「 オセアニア 史 」 です。 1840 年代 半ばになると イギリス 本国で 「 流刑の判決 」 を受けた囚人の数が減少 したために、 西 オーストラリア を除き、 オーストラリア への流刑植民は 一時中止されま した。 その後 イギリス 政府は 1848 年に ニュー サウス ウエールズ への流刑を再開 し、また依然と して タスマニア 島には囚人を送り続け、1868 年 ( 明治元年 ) になってようやく オーストラリア への流刑制度を廃止 しま した。 1788 年の第 1 船団到着以来 約 16 万の囚人 が オーストラリア に送られ、その多くは刑期終了後も現地に留まりま した。 そこで囚人労働に代わって イギリス 本国の労働者を政府が渡航費用の全額、あるいは 一部補助を して オーストラリア に送る、 補助 移民制度 が創設されま した。 オーストラリア は地球上で ヨーロッパ ( イギリス ) から最も遠い位置にあり、そのため十分な資金を持たない移民希望者は高額の渡航費用が払えず、オーストラリア に渡航することが事実上不可能で した。 補助 移民 とはその制度の適用を受けた移民のことです。
上表では 1860 年までの データ しかありませんが、1788 ~ 1868 年 ( 流刑中止 ) の間に英国から オーストラリア に流刑された人は、比較的軽微な犯罪者も含めて、約 16 万人に上りま した。 ( 6-3、 純粋 移民と、補助 移民 の数 ) 下表は オーストラリア への流刑囚を除く、純粋 移民の100 年間の推移です。補助 移民とは前述 したように イギリス 政府による渡航費用の全額も しくは 一部の補助を受けた イギリス 人移民のことであり、当時の渡航費用は 貧 しい労働者の年間賃金 に相当 しま した。
植民地の最初の半世紀の移民労働力は、ほとんどが流刑囚によって提供され、その後の三分の二は、補助移民で した。移民への補助は基本的に イギリス 出身者 ( イングランド ・ アイルランド ・ スコットランド 人 ) に 対 してだけ おこなわれたので、移民が増えることで オーストラリア はより均質化 しま した。 参考までに 下記は、近現代 における戦争の期間です。
( 6-4、 首相の先祖も窃盗犯で流刑囚 ) オーストラリア の第 26 代首相 ( 在任 2007 ~ 2010 年、再任 2013 年 6 月 27 日 ~ 同年 9 月 18 日 ) ケビン ・ ラッド ( Kevin Rudd ) の先祖の 1 人は、ドレス と下着各 1 枚を盗んだ罪で死刑を宣告された イギリス ロンドン の路上生活児で、三代前の祖父は 砂糖を盗んで オーストラリア に送られた流刑囚だった。と研究者らが発表 しま した。 このたび明らかにされた家系図によると、 首相の父方の 三代前の祖父、トーマス ・ ラッド ( Thomas Rudd ) は 「 砂糖 1 袋を不法に入手 した罪 」 で懲役 7 年の刑を受け、 その刑に服するために 1801 年に、流刑植民地 ( Penel colony ) だった オーストラリア に流刑囚として運ばれた。それだけでなく ラッド首相の父方の四代前の祖母の メアリー ・ ウエイド ( 当時 12 歳 ) は、 路上生活児 だった 1788 年に、年上の少女と共謀 して 8 歳の少女を トイレ に連れ込み、 ドレス と下着を奪った罪 で 1789 年に 死刑 を宣告されたが、後 に減刑されて ニュー サウス ウエールズ に流刑 となった。流刑囚の先祖を持つことは数 十年前の オーストラリア では恥とされま したが、現在では 「 生粋の ( きっすい、混じりけのない ) オーストラリア 人である証拠 」 つまり 流刑囚という由緒 ( ゆいしょ ) 正しい ( ? ) 経歴 ( 犯罪歴というべき ) を持つ者 の子孫とも見なされており、首相の イメージ 向上につながったといわれて います。 [ 7 : 白 豪 主 義 とは ]白 豪 主 義 ( White Australia policy ) とは、簡単にいえば オーストラリア を白人だけの国にする 願望 や 方針のこと であり、換言すれば 白人 最優先主義 と、それに基づ く 非白人種 への 排除政策 のことです。 狭義では 1901 年の移住制限法 ( Immigration Restriction Act ) 制定から 1973 年の ( 有色人種の移民を認めた ) 移民法施行までの政策方針を指 します。 それに基づき 70 年以上もの間、 望ま しくない移民志願者 ( 主に アジア 系有色人種 ) に対 しては、 ヨーロッパ の言語 ( 英語とは限らず、志願者が知らないであろう 国の言語 ) で 、5 0 語にわたる書き取り テスト を実施 しま した。 たとえば中国人の移民志願者に対 しては ポーランド 語で 、 また チェコスロバキア の政治記者で共産主義者でもあった キッシュ が、1934 年に移民志願を した際には、 スコットランド の ゲール 語 ( Scottish Gaelic 、スコットランドで話される ケルト 系言語 ) で書き取り テスト を実施 し、オーストラリア 入国を拒否 しま したが、これは移民志願者を振り落とすための意図的で、簡単な方法で した。 広義の白豪主義では、先住民族 アボリジニ や タスマニア 州の アボリジニ 系住民や カナカ 人などの メラネシア 系住民への迫害や隔離など、オーストラリア における 人種差別主義の歴史全般 を指 します。 1904 年以降、カナカ ( Kanakas ) とよばれる メ ラネシア 人の オーストラリア への入国が禁止され、すでに オーストラリア にいる者は、1906 年から本国送還を求められま した。そのほとんどが、クィーンズランド 州の砂糖 プランテーション ( 大規模農場 ) で低賃金で雇用され、あるいは誘拐に遭い強制労働させられていた者たちで した。 移民制限法は望ま しくない移民 ( 主に 非白人種、つまり有色人種 ) を排除 し、拒否するのに非常に有効で した。 統計によれば 有色人種の人口は、1901 年の 5 万人から 1947 年の 2 万 1,000 人 へと半分以下に減少 したのに対 して、その間に 白人種の移民は 170 万人以上も増加 したからで した。
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