物語・伝説と当時の社会( 続き )


[ 7 : 海賊のこと ]

[ 7−1、刀伊 ( とい ) の入寇 ( にゅう こう ) ]

平安時代の寛仁 3 年 ( 1019 年 ) 3 月 28 日のこと、およそ 50 隻 ( 合計 3,000 人 ) からなる 外国の海賊船団 が突然対馬 ・ 壱岐の両島を襲撃し略奪 ・ 殺人 ・ 放火 ・ 人掠 ( さら ) いをしましたが、来襲の目的は 農耕民族の日本人を大量に拉致 ( らち ) し、 農耕奴隷 として使用するか、あるいは奴隷として売りとばす目的 であったと言われています。

刀伊入寇

海賊達はその後 博多湾に侵入しましたが、太宰権師 ( だざいの ごんのそち ) ・ 藤原隆家 ( たかいえ、979〜1044 年 ) らの奮戦により撃退されました。

記録された対馬 ・ 壱岐における住民の被害は 殺された者 365 名、 拉致された者 1,289 名 、牛馬 380 頭、家屋 45 棟以上で、壱岐島では 残った住民が 35 名に過ぎなかった といわれていますが、 元寇 ( げんこう ) の 「 文永の役 」 ( 1274 年 ) に先立つこと、 255 年前 のことでした。

当初日本側ではどこの国の海賊かも分からずにいましたが、中国大陸の沿海州地方から黒竜江省 ( こくりゅうこう しょう ) にかけて住む刀伊 ( とい )、別名 女真族 ( じょしんぞく ) という狩猟 ・ 牧畜を主とする 民族であることが判明したのは事件の半年後のことでした。

しかしその ツングース ( Tungus ) 系とされ農耕の習慣を持たないとされた 刀伊 が、どのようにして 50 隻もの航洋船を集めて日本に遠征したのかは、今に至まで謎でした。この事件を 刀伊 ( とい ) の入寇 ( にゅう こう ) といいます。


( 7−2、海賊の定義 )

海賊船

古代から中世にかけての海賊の定義は複雑で、 他の船を襲うのが海賊である とするのでは、あまりにも単純過ぎます。 右図は中世における海賊の和冦 ( わこう、右側の船 ) が左側の中国船を襲う図ですが、和冦とは 13 世紀から 16 世紀にかけて船を襲うだけでなく、朝鮮半島や中国大陸の 沿岸部 の町や村、港湾を襲撃し略奪した日本人の海賊 に対する呼称でした。 海賊については、

  1. 海賊の被害者あるいは第三者が、加害者について言う 「 海賊 」。

  2. 権力者が、自分に従わない者について言う 「 海賊 」。

  3. 海賊が、みずからを誇大に表現するために使う 「 海賊 」。

  4. 公的に存在を認められたものとして使う 「 海賊 」、たとえば海賊衆 ・ 警固衆 ( けいごしゅう ) ・ 水軍 ( すいぐん ) など。

の四種類がありますが、中世史の研究家の網野善彦によれば、海賊 といっても、ヨーロッパの海賊とは イメージがまったく違い、海賊というよりも、むしろ 海の領主の方が相応しい 場合があると述べています。

上記の 「 C 」 の例としては、福岡県 ・ 行橋市 ( ゆくはしし ) には周防灘 ( すほうなだ ) に面した所に 蓑島 ( みのしま、島ではなく九州と地続きの土地 ) があり、今も漁港や標高 60.9 メートル の蓑島山がありますが、そこはかつて海賊の本拠地の簑島城がありました。城を築いたのは 藤原邦吉 ( ふじわら くによし ) という人物でした。

彼のことは、 1443 年に 朝鮮通信使 の書状官として来日したことのある、朝鮮の シン ・ シュクシュウ ( 申 叔舟 ) が 1471 年に書いた漢文の歴史書 ・ 地誌でもある 海東諸国紀 ( かいとう しょこくき ) の中に、 豊前州蓑島 ( ぶぜんの しゅう ・ みのしま ) 海賊大将 玉野井 藤原朝臣 邦吉 ( たまのい ふじわらの あそん くによし ) と言う名前で出ていますが、もちろん彼がそのように名乗ったからでした。

彼については 「 1468 年に対馬の國主 ・ 宗 貞國 ( そう さだくに ) を介して、朝鮮と交易せり 」 と記されていましたが、朝鮮との交易をしたのは九州や瀬戸内海の海賊たちも同様でした。

彼らは漁業とも密着した集団で、その配下に多数の武装した漁民を従え、多くは船団を組んで行動しましたが、荘園の年貢などを輸送する船の警固 ( けいご、警護 ) を務めて領主などから収入を得たり、関所を設けて通行税を徴収しました。

海賊船

図は瀬戸内海に はびこる海賊船ですが、その特徴は風の エネルギーを利用する帆が無いことで機動性に富み、普段は水手 ( すいしゅ、船の乗組員 ) として漕ぐ役目をする者が、いざ戦闘の際には 弓矢 ・ 刀 ・ 槍 ( やり ) などを持ち戦闘員に変身することでした。

「 D 」 については暦応 3 年 ( 1340 年 )のこと、足利幕府 ( 後の室町幕府 ) を開いた足利尊氏 ( あしかが たかうじ、1305〜1358 年 ) の上意を受けて、武蔵守が当時瀬戸内海に勢力を伸ばしつつあった 紀伊 ・ 熊野の 海賊 や捕鯨でお馴染みの 泰地 ( たいじ、太地 ) ・ 塩崎 ( しおざき、潮岬 ) の 海上勢力に通達を出しました。

東西航路

周防 ( すほう、山口県 ) の 上関 ( かみのせき、現 ・ 山口県 ・ 熊毛郡 ・ 上関町 、柳井市の南 15 キロ の半島にある港 ) から瀬戸内海を経由し、摂津 ( せっつ、現 ・ 兵庫県 ) の 尼崎 ( あまがさき ) にいたる海域の輸送船 ・ 廻船の 海賊に対する警固 ( けいご ) を命じました

その代償として櫓 ( ろ ) の数により異なる櫓別銭 ( ろべつせん ) と称する警固料を当時神戸港内にあった埋め立て島である 兵庫島 で兵糧料 ( ひょうろう りょう、兵士の食糧費 ) という名目に加えて徴収することを許しましたが、下記はその文です。

凶徒退治の事、申請之旨に任せ、 泰地 塩崎一族 相共にその沙汰を致し、周防国 竈門関 より、摂津国 尼崎 に至り、西国運送船並びに廻船等を警護せしむべし、且つは 櫓別銭百文 、兵粮料足 ( たし ) として、 兵庫島において宛て取るべし、若し事を左右に寄せその煩いを成さば、罪科に処すべきの状、仰せに依り執達件の如し

暦応3年3月14日    武蔵守


  [ 7−3、舂米 運京、( しょうまい うんきょう ) ]

古代の律令政府は班田収授法 ( 注 : 参照 ) により口分田を耕す者に租税として収穫の一部を物納させましたが、国府の正倉 ( 地方の役所の倉庫 ) に納めるには 稲束のままで 、また京の都に運ぶ租税の米は、すぐ食べられるように、また運送効率向上のため 舂米 ( しょうまい/つきよね ) と称して 稲を脱穀し杵 ( きね ) や棒で搗 ( つ )いて 精米 ( 白米 ) にして 、都の大炊寮 ( おおいりょう ) などに運びました。

注:班田収授法 ( はんでんしゅうじゅのほう )
645 年の大化の改新後に採用された制度で、男女とも 6 才以上のすべての人々に田の終身使用権を与える制度で、良民の男子は 1 人に付き 2 段 ( 反 ) ( 600 坪 、20 アール )、女子はその 3 分の 2 の使用権が与えられたが、これを口分田 ( くぶんでん ) という。

大量の物資が運べる海上輸送に着目した律令政府は、756 年に山陽道 ・ 南海道諸国の舂米 ( しようまい、精米 ) を海路で運ぶことに決め、その後 九州地方の雑米 ・ 調 ( 注 : 1、参照 ) ・ 庸 ( 注 : 2、参照 ) も瀬戸内海を経由して律令政府の所在地 ( 京都 ) に運ばれるようになりました。

注 : 1 調 ( ちょう )
律令制における租税の一種で、絹 ・ 綿 ・ 鉄 ・ 魚介類などの諸国の産物を中央に納めさせた。「 みつぎ ( 古くは みつ)」 ともいう。

注 : 2 庸 ( よう )
同じく租税の一種で、成年男子に対して年に 10 日の歳役 ( さいえき、労働 ) を課したが、その際の代納物として、布が主で ・ 米 ・ 塩・綿などを納付させた制度。

宝船

海上交通の発達は航路筋の港湾を繁栄させましたが、その一方で 貴重な物資を一杯に積み込んだ 宝船の航行 は、各地の沿岸に住む地侍 ( じざむらい、中世の土豪的武士、在郷土着武士 ) や貧しい漁労民たちにとって、 一攫千金 ( いっかく せんきん ) の好機となり 、 海賊発生 の大きな要因にもなりました。


( 7−4、藤原純友、天慶の乱 ( てんぎょうの らん )

旅をする者にとっては陸に劣らず海も海賊の襲撃が心配でしたが、 古くから海を往来する人々が海賊に襲われて殺害され、積み荷が奪われる事件が多発しました。今昔物語巻 25 第 2 話 藤原純友依海賊被誅語 [ 藤原純友、海賊によりて誅 ( ちゅう ) せらるる話 ] によれば、

今昔、朱雀院御時、有伊豫掾藤原純友者、筑前守良範子也。純友居伊豫國、多集勇兵、配其下。持弓矢而乘船、常出海、 奪略西國來船、以殺人為業 。此此、往來之人、船道不行、遂不復乘船 。

[ その意味 ]
今は昔、朱雀院 ( すざくいん、天皇在位 930〜946 年 ) の御時に伊予掾 ( いよのじょう ) に藤原純友 ( ふじわらの すみとも、?〜941 年 ) という者がいたが、筑前守 ( ちくぜんのかみ、福岡県の行政長官 ) 良範 ( よしのり ) という人の子であった。

海賊の藤原純友 純友は伊予国 ( 愛媛県 ) にいて、多くの勇猛な兵を集めて配下とし、弓矢を持って船に乗り、常に海に出て、 西の国々から来る船のものを奪い取り、人を殺すことを業としていた 。そのため往来する者は海路を行くことができず、船に乗ることもなくなった。

釜島周辺図

上の絵は年貢米を積んだ船を襲い、奪い取った米俵を瀬戸内海の出城 ( でじろ、前進基地 ) があった、備前国 ( 現 ・ 岡山県 ・ 倉敷市 ・ 下津井 ) 釜島 ( かましま ) で純友の前に運ぶ海賊ども。

ちなみに釜島とは、瀬戸大橋の橋脚がある北側から最初の櫃石島 ( ひついし じま、香川県 ・ 坂出市 ・ 櫃石島 ) 、の東 2.5 キロにある島 ( 現 ・ 無人島 ) のこと 。

上述した藤原純友 ( ふじわらの すみとも ) は日本の海賊で最も有名ですが、最初は伊予守 ( いよのかみ、愛媛県の行政長官 ) の藤原元名に従って伊予掾 ( いよのじょう、国司の判官 ) として、瀬戸内海に はびこる 海賊を鎮圧する側にいました  。

日振島

ところが伊予国に土着してからは 海賊の頭領となり 、現 ・ 愛媛県 ・ 宇和島市の西方にある日振島 ( ひぶりじま ) に本拠を置き、一時は 千艘以上の船を指揮下に収めて 瀬戸内海全域に勢力をのばしました。

さらに船を襲うだけでなく 939 年 12 月には、備前介 ( びぜんのすけ、岡山県の行政副長官 ) の藤原子高 ( ふじわらの こたか ) を殺害し、940 年には 2 月に淡路国、8 月には讃岐国 ( 香川県 ) の国府を襲い、さらに 10 月以降には安芸 ( 広島県 )、周防( 山口県 )、長門 ( 山口県 ) を襲撃しました。

翌天慶 4 年 ( 941 年 ) 5 月には筑前 ( 福岡県 ) の大宰府を襲撃したところ、政府軍の反撃により大敗し、純友は伊予 ( 愛媛県 ) の日振島に逃げ帰りましたが、天慶年間 ( 938〜947 年 ) に起きた純友による反乱を 「 天慶の乱 」 ( てんぎょうの らん ) と呼びました。

海賊仲間の裏切りもあり伊予に隠れていた純友を、伊予 ( 愛媛県 ) の警固使 ( けいごし ) の橘 遠保 ( たちばなの とおやす ) が 941 年に捕らえて処刑しました。

純友の処刑

右の絵は安芸国 ( あきのくに、広島県 ・ 三原市 ・ 本郷町 ) の楽音寺 ( がくおんじ ) にあった 紙本著色 楽音寺縁起絵巻 ( しほんちゃくしょく がくおんじ えんぎえまき ) の一部ですが、楽音寺の創立の由来を伝えるこの絵巻は内容に史実と異なる点が多く、 歴史的価値よりも当時の風俗 ・ 習慣を知る上での文化財として、三原市にある広島県立歴史博物館に収蔵されています。 

それに依れば純友を討ち取ったのは近流 ( こんる、近国へ流す流罪 ) の刑を受け、安芸国 ( あきのくに、広島県 ) に配流 ( はいる ) された藤原倫実 ( ふじわらの ともざね ) とされ、絵の中央で上半身を裸にされ、手を合わせているのが海賊の首領の 純友で、後に大刀を持つ首切り役が描かれています。


[ 8 : 土佐日記 ]

更級日記が書かれた頃よりも 100 年以上も前の 935 年に、紀貫之 ( きの つらゆき ) が 土佐日記 を書きましたが、土佐守 ( とさのかみ、土佐国の行政長官 ) の任期を終えた彼が承平 4 年 ( 938 年 ) 12 月 21 日に土佐を発ち、翌年の 2 月 16 日に京都に着くまでの 55 日間の旅のありさまを、作者が女性の振りをして漢文ではなく 「 かな 」 で書いたもので、仮名日記の最初の作品となりました。その冒頭にはお馴染みの、

男もすなる日記 ( にき ) といふものを、女もしてみむとて、するなり。

[ 意味 ]
男がするという日記というものを、女の私も してみよう と思ってするのである。

とありますがその中で、紀貫之が土佐守の在任中に海賊の取り締まりをしたことから、 その仕返しに海賊が襲ってくるという噂 ( うわさ ) が、土佐の国府を発っ時からあり、気がかりでした。

1 月 21 日、室津 ( むろつ、現 ・ 高知県 ・ 室戸市の室戸港 ) を出航した頃から海賊襲来の話に怯 ( おび ) える日記が続き、当時の穏やかでない世相がうかがわれました。土佐 ( 高知県 )、阿波 ( 徳島県 ) の東海岸が海賊の行動水域だったと考えられ、航海する者を脅かしていました。

二十三日、日照りて曇りぬ。このわたり、 海賊の恐れあり と言へば、神仏を祈る。

二十五日、楫 ( かぢ ) 取りらの、「 北風悪し 」と言へば、船いださず。 海賊追ひ来る といふこと、絶えず聞こゆ。

二十六日、まことにやあらむ。 「 海賊追ふ 」 と言へば、夜中ばかりより船をいだしてこぎ来るみちに、手向けする所あり。楫取りして幣( ぬさ ) たいまつらするに、幣の東 ( ひむがし ) へ散れば、楫 ( かじ ) 取りの申して奉 ( たてまつ )ることは、「 この幣の散る方に、御 ( み ) 船すみやかに漕 ( こ ) がしめたまへ 」と申して奉る。

[ 意味 ]
1 月 23 日、日が照ってまた曇る。このあたりの海は 海賊のおそれがある ということなので、神仏に無事を祈る。

1 月 25 日、船頭たちが 「 北風がよくない 」 というので、船を出さなかった。 海賊が追いかけてくる という話がしばしば聞かれる。

御幣

1 月 26 日、ほんとうなのだろうか。 海賊が追ってくる というので、夜中から船を出して漕いでくる途中に、神仏に物を供えて祈願する手向け ( たむけ ) の場所 ( 現 ・ 徳島県 ・ 海部郡 ・ 由岐町 ・ 鹿ノ首岬と思われる所 ) がある。

船頭に命じて幣 ( ぬさ、神に捧げる右図のような 供え物 ) を奉る際に、幣 ( ぬさ ) が東に散ってしまうというので、船頭が 「 この幣の散る方角に、御船を漕がしめたまえ 」 と申し上げて奉納する 。


[ 9 : 宇治拾遺物語 ]

1212〜1221年頃に成立した説話集に宇治拾遺物語 ( うじ しゅうい ものがたり ) 15 巻がありますが、そのうちの 10 巻の 10 に、 海賊発心出家の事 ( かいぞくほっしん しゅっけのこと )と 「海賊を追い返した矢」が記されていますが、前者の概要とは、

むかし摂津の国 ( 現 ・ 大阪府と兵庫県にまたがる地方 ) に年をとった入道がいて、熱心に仏道に励んでいた。彼の昔話によれば、若かったころは裕福な身で、淡路六郎追捕使 ( あわじのろくろう ついぶし、注 : 1 参照 ) と自称する 海賊であった

あるとき安芸 ( あき、広島県 ) の島の辺りで 1 艘の船 が六郎の船に近寄って来た。船には数人の男が乗り、屋形の上に若い僧がひとりいて経を読み続け、護衛の男はいなかった。

海賊

彼らがいうには周防の国 ( すほうのくに、山口県 ) から急用で京へ上るという。よい獲物なので積み荷を奪うことにした。積み荷を根こそぎわしらの船に移し、 乗っていた者は男も女も海に投げ込んだ

屋形の上で経袋 ( きょうぶくろ、経を入れて持ち歩く袋 ) を首にかけ経を読んでいた 20 才ばかりの僧も海に投げ込んだ。ところがこの坊主は海中で手を動かして経袋を探し当て、お経を持った手を水から出して捧げ、浮かんでいた。

坊主の頭を船の櫂 ( かい ) で なぐったり、背中を突いて海に沈めたが、その度に浮き上がって手にお経をしっかり捧げていた。よく見ると坊主の足と頭の所に 端麗 ( たんれい ) な童 ( わらわ、童子 ) が数人いて、坊さんが沈まぬように支えていた 。他の海賊には見えなかったが、私にははっきり見えたので妙な気分になり、棹 ( さお ) を差し伸べて救ってやった。するとあの坊さんを支えていた童 ( わらわ ) たちは姿を消してしまった。

十羅刹女

坊さんに童子のことを尋ねると 「 私は 7 才の時から毎日法華経を読み、一日も違えたことはない。恐ろしいこと ( 海に投げ込まれたこと ) が起きた時も、そのまま経を読み上げていたので、きっと 法華経を守る 十羅刹 [ じゅう らせつ、10 人の羅刹女 ( らせつにょ、注 : 2 参照 ) ] が姿を現したのだと思う 」 と述べた。

それを聞いて 淡路六郎の婆羅門 ( バラモン、ここでは異教徒の意味 ) の心にも、お経の尊さを悟ることができた。そこで海賊をやめて坊さんと一緒に彼の師匠のいる山寺へ行き法師になり、今では法華経を読みながら修行しているが、思えば数多くの罪障 ( ざいしょう、極楽往生のさまたげになること ) を積み重ねてきたと思っている。

注 :1 )、追捕使 ( ついぶし )
平安時代に犯罪人や凶徒の追捕 ・ 鎮定のため、朝廷から任命された臨時の官で諸国に置かれたが、多くの場合地方の豪族が任ぜられた。ここでは海賊の 淡路六郎がそれを私的に称し、自分の肩書きにしていた。

注 : 2 )、羅刹女 ( らせつにょ )
羅刹 ( らせつ ) とは人の肉を食う凶暴な悪鬼で、後に仏教に入り羅刹天 ( らせつてん ) となり、仏教の守護神である 十二天の 一つとなる。羅刹女 ( らせつにょ ) とは女の羅刹のことで凶暴だが美貌とされ、仏教に帰依した者を守護する役目をする。絵は 普賢十羅刹女 ( ふげん じゅう らせつにょ )


[ 10 : 琵琶湖にもいた 海賊 ]

琵琶湖地図

船を襲い積み荷を奪ったのは海にいる海賊だけではなく、琵琶湖を行き交う船を襲う海賊 ( ? ) もいました。 ポルトガル出身の カトリック宣教師で戦国時代の日本で宣教した ルイス ・ フロイスの日記には、 堅田 ( かたた、滋賀県 ・ 大津市 ・ 堅田 ) や琵琶湖にある最大の島である 沖島 ( おきのしま、滋賀県 ・ 近江八幡市 ・ 沖島町 ) には海賊がいたことが記されていました。

堅田の落雁

堅田とは琵琶湖の南西岸にある町ですが、浮世絵師の歌川 ( 安藤 ) 広重が描いた近江八景のうちの一つ、 堅田 ( かたた ) の落雁 ( らくがん ) にあることでも知られています。左図の左端には堅田の満月寺 「 浮御堂 」 ( うきみどう ) があり、空には落雁 ( らくがん、空から舞い降りる雁 ) の群れが描かれています。

琵琶湖空景

ここは京都に近いことから中世における琵琶湖最大の水上交通 ・ 輸送拠点であり、現在も堅田漁港や ヨットクラブがありますが、ここを本拠地とする堅田衆 ( かたたしゅう ) と称する自治集団がありました。かれらは農漁民の全人衆 ( まとうどしゅう ) と、地侍 ( じざむらい ) からなる殿原衆 ( とのばらしゅう ) と称する集団でした。

琵琶湖の水上輸送は単に東西両岸を結ぶ物資 ・ 人の輸送だけに留まらず、日本海を経由して若狭 ( わかさ、福井県 ) の敦賀の港に着いた荷物を今度は馬の背に乗せて、塩津 ( しおつ ) 街道 ( 現 ・ 国道 8 号線 ) を山越えして琵琶湖の最北端にある 塩津港 まで、24 キロ の道を運びましたが、そこからは琵琶湖の水運を利用して南岸の堅田港や 大津港に運び、更に陸路と淀川水系の舟運を利用して京や大阪に運びました。

馬による輸送

ところで海賊たちが常に海賊行為を繰り返していると、被害を恐れる船が琵琶湖を航行しなくなり、人や物資が陸上の道を通るようになり収入の道が途絶えるので、 彼らは瀬戸内海の海賊同様に収入確保の観点から新しい方法を採用しました。

それまで海賊をしていた堅田の殿原 ( とのばら ) 衆が、やがて警固 ( けいご、警護と同じ ) として琵琶湖を航行する船に上乗 ( うわのり、同乗 ) することで通行税を取り立てましたが、それには特定の旗印を船に掲げることにより、殿原衆 ( とのばらしゅう、堅田衆の武士 ) の乗り組み を示し、他の海賊から襲われることなく航行の安全を保障する制度でした。これには海賊衆による力の誇示や、他の海賊との連携が必要でした。

豊臣秀吉の時代になると天正 16 年 ( 1588 年 ) 7 月 8 日 に 海上賊船禁止令 を公布し、海賊衆の収入源であった航行船に対する有償警固 ( 上乗り ) などの活動を海賊行為として禁止し、海賊たちに領主の支配に服することを命じた結果、 海賊衆 ・ 警固衆 ( けいご しゅう ) などの組織は解体し、大名の船手組や水軍組織に組み込まれ 家臣へと変身し、やがて海賊は姿を消しました 

安宅船

図は室町時代 ( 1336〜1573 年 ) から安土桃山時代 ( あづち ももやま時代、1573〜1603 年 ) にかけて建造された安宅船 ( あたけぶね ) と称する大型の軍船で、大きいものは 50〜100 挺の櫓で漕ぎ、海賊を副業とした村上水軍 などが動く城 としました。

[ 海上賊船禁止令の概要 ]

  • 諸国の海上において速やかに海賊行為を辞めよ。備後 ( 広島 ) ・ 伊予 ( 愛媛 ) 両国の間の伊津喜嶋 ( いつきしま、斎島 ) にて盗船をした族がいることを秀吉は聞いた。

  • 国司は速やかに、国々浦々船頭 ・ 猟師 ( 漁師 )、いずれも船を使う者は今後は絶対に海賊をしないという旨の誓詞を書かせて、それを取り集めよ。

  • これより、海賊の輩 ( やから ) が出没したら成敗を加え、さらにその 領主の在所 ・ 知行を末代まで没収する



[ 11 : 太田道灌 ]

( 11−1、江戸の名称 ) 日比谷入り江

角川書店発行の日本地名大辞典 によれば、「 江戸 の地名の由来は諸説あるが、地形的に 日比谷 ( ひびや ) の入りの 門に当たっていたことによる 」、とありました。昔の地図を見ると東京湾では海面が現在よりも高く、日比谷 ( ひびや ) 入り江と呼ばれる 「 入り江 」 が江戸城 ( 現在の皇居 ) 付近まで入りこんでいました。

しかし別の説によれば平安時代 ( 794〜1192 年 ) のこと 桓武天皇の流れを汲む平家の平将常 ( たいらの まさつね ) が武蔵守に任じられ、武蔵国 ・ 秩父郡 ・ 中村郷 [ 現 ・ 埼玉県 ・ 秩父( ちちぶ ) 市 ] に住み秩父氏を称しましたが、平 ( 秩父 ) 重継 ( たいらの しげつぐ ) が分家をして江戸に出て、江戸湾を臨む丘に館 ( やかた ) を作り江戸氏を興 ( おこ ) しました。「 江戸の地名は その地の支配者であった、 江戸氏 に由来する 」 とありました。

江戸の地名が文書に初めて出たのは弘長元年 ( 1261 年 ) 10 月 21 日付 平長重 ( たいらの ながしげ ) の書状で

武蔵国豊島郡 江戸 之内前嶋村 ( としまごおり えどのうち まえしまむら、現在の日本橋付近 )

と、書かれていたのが最初でしたが、この書状は当時 上杉氏の庇護 ( ひご ) を受けていた新潟県 ・ 南魚沼市にある臨済宗 ・ 円覚寺派の関興寺 ( かんこうじ ) に収蔵されていた 「 関興寺文書 」 にありました。

( 11−2、太田道灌の栄光とその死 )

太田道灌

江戸城を 1457 年に築いたことで知られる太田道灌 ( おおたどうかん、1432〜1486 年 ) は室町時代中期の武将ですが、道灌は法名 ( ほうみょう )、名は持資 ( もちすけ )、後に資長 ( すけなが ) と称しました。道灌は幼少の頃から鎌倉の建長寺で学び秀才の誉れが高く、後に文武両道に優れた人物になりました。

足利尊氏 ( たかうじ ) が開いた足利幕府は後に金閣寺 ( 鹿苑寺 ) を建てたことで知られる三代将軍 足利義満が、 1378 年に京都の北小路室町に建てた新邸に幕府を置いたことから、 室町幕府  と呼ばれるようになりました。幕府は関東支配のために鎌倉に鎌倉府を置き、その トップを 鎌倉公方 ( くぼう ) と称しましたが、その ポストは代々足利氏出身の者が世襲しました。

その下に公方を補佐する 関東管領 ( かんとう かんれい ) が置かれましたが、関東地方に所領を持つ四つの上杉家、すなわち 山内 ( やまのうち ) 上杉 ・ 犬懸 ( いぬかけ ) 上杉 ・ 扇谷 ( おうぎがやつ ) 上杉 ・ 宅間 ( たくま ) 上杉のうち、 山内上杉家 が関東管領を世襲するようになりました。

現 ・ 鎌倉市 扇が谷 ( おうぎがやつ ) に居住したことから扇谷 ( おうぎがやつ ) の家名がついた扇谷上杉家では、筆頭重臣として家宰 ( かさい、江戸時代の家老のこと ) が置かれ、 太田氏が家宰 ( 家老 ) を務めました

太田道灌は寛正 6 年 ( 1465 年 )に 上洛 ( じょうらく )しましたが、8 代将軍 足利義政に目通り ( 面会 ) し、後土御門天皇 ( ごつちみかどてんのう ) に拝謁 ( はいえつ ) しましたが、その際に 「 武蔵野の風景はどのようなものか 」 と御下問があり、

我が庵 ( いお ) は松原つづき海近く、富士の高嶺 を軒端 ( のきば ) にぞ見る

と和歌を詠んで答えましたが、この事から道灌は、関東隋一の歌人 ・ 文人としても知られるようになりました。

しかし太田道灌の武将としての活躍により彼の主家である扇谷 ( おうぎがやつ ) 上杉氏も勢力を拡大しましたが、それに 脅威を感じた山内 ( やまのうち ) 上杉氏の策謀 に乗せられた主君上杉定正により、太田道灌は相模国糟屋 ( かすや、現 ・ 神奈川県 ・ 伊勢原市 ) にあった上杉定正 ( 1443〜1494 年 ) の館に招かれました。

入浴を終えた道灌を主君の命を受けた曽我兵庫により暗殺されましたが、文明 18 年 ( 1486 年 ) のことでした。その際無防備だった道灌はただ 一言 当方 ( 扇谷上杉家 )、 滅亡 ! と叫んで死んだと伝えられていますが享年 55 才でした。

道灌にしてみれば扇谷 ( おうぎがやつ ) 上杉氏に家宰 ( 家老 ) として忠誠を尽くし、主家の隆盛に貢献したつもりでしたが、主君に裏切られ殺される悔 ( くや ) しさから、 扇谷上杉家の命運が終わった と叫んだのでした。彼の予言の通りに扇谷上杉家は、60 年後の 1546 年に滅亡しました。

( 11−3、常山紀談、 じょうざん きだん )

太田道灌にまつわる伝説の中でも最もよく知られているのは武勇 一辺倒の道灌が、和歌の道にも 精進するきっかけ となった以下の話ですが、岡山藩士の湯浅常山が戦国時代後半から江戸初期までの勇将 ・ 豪傑たちの言行に関する 約 470 の話を 25 巻にまとめ、1739 年に成立した随筆集の 常山紀談 に記されています。左下の絵は1836 年に刊行された地誌 ・ 紀行の 江戸名所図会 ( えどめいしょ ずえ ) にある山吹の里です。

山吹の花

ある日道灌が鷹狩りに出かけた時のこと、急に雨が降り出したので蓑 ( みの、後述 )を借りようと一軒の農家に立ち寄ったところ、その家の少女は無言のまま見事に咲いた山吹を捧げるだけでした。道灌は少女の行為の意味が理解できないまま怒りを含んで帰途についた。

この話を聞いた家臣の一人から、それは蓑 ( みの ) が無くて貸せないことを 古歌に託して知らせたものだ と教えられ、 歌道に対する自分の 無学 を恥じて 、以後和歌の道に励むようになったという伝説でした。その古歌とは、

七重八重、花は咲けども山吹の、みの [ 実の−−蓑 ( みの ) ] ひとつだに なきぞかなしき

この歌は 1086 年に成立した後拾遺和歌集 ( ごしゅうい わかしゅう ) にある中務卿兼明 ( なかつかさ きょう かねあきら ) 親王 ( 914〜987 年、醍醐天皇の皇子 ) の歌です。

蓑雨具田植え

ちなみに蓑 ( みの ) とは雨具の一種で、茅 ( かや ) ・ 菅 ( すげ ) などを編んで作り、肩に羽織って用いたものですが、私が子供の頃 ( 1944 〜1950 年 )は、長野県や栃木県の田舎では雨の日の農作業に農民が使用していました。

当時の農民は 江戸時代と変わらぬ肉体労働 で 「 田植え 」、「 田の草取り 」 などの農作業をしていましたが、ゴム製の雨合羽では、汗で蒸 ( む ) れて中から濡れたからでした。

山吹の花

上述の和歌に詠まれた山吹には、実は 一重 ( ひとえ ) 咲きと八重 ( やえ ) 咲きの 二種類がありますが、実が成らないのは 八重咲きの種類です。  その理由は元々あった雄しべと雌しべが突然変異で花びらに変わったからといわれていますが、写真の 一重咲き の山吹には 実 ( み ) が 成るので お間違えなく


( 11−4、紅皿の伝説 )

紅皿の墓

さらにこの話には後日談があり、山吹の花を差し出した娘の名は 紅皿 ( べにざら ) といい、道灌は後に彼女を江戸城に招いて歌の友として親交を持ったとされます。

道灌の死後、紅皿は尼となって現 ・ 東京都 ・ 新宿区 ・ 大久保に庵 ( いおり ) を建てて道灌を弔 ( とむら ) いましたが、彼女の死後はこの地に葬られたとされます。新宿区 ・ 新宿 6 丁目に天台宗の寺院である大聖院 ( だいしょういん ) があり、その境内には紅皿 ( べにざら ) の碑 ( 墓 ) が江戸時代から伝えられています。


[ 12 : 江戸名所図会 ]

ところでこの話は 1712 年に刊行された図入りの百科事典である 「 和漢 三才図会 」 ( わかんさんさいずえ ) にありますが、その 百年以上後 ( 1836 年 ) に成立した 「 江戸名所図会 」 ( えどめいしょずえ ) には 山吹之里 ( やまぶきのさ ) ととして紹介されました。

山吹の里碑

その場所としては太田氏の支配地域の境界周辺でした、高田馬場 ( たかだのばば ) の北の方 ( 現 ・ 東京都 ・ 豊島区 ・ 高田 )、 あるいは 新宿区 ・ 西早稲田 ・ 山吹町 、 遠く離れた埼玉県 ・ 入間郡 ・ 越生 ( おごせ ) 町、 横浜市 ・ 金沢区 ・ 六浦 ( むつうら ) 、 東京都 ・ 荒川区 ・ 町屋などと数多くありました。

面影橋停留所

山吹町だとすればそこは奇しくも我が女房が生まれ育ち、敗戦前年の昭和 19 年 ( 1944 年 ) まで住んでいた所で、貞享 3 年 ( 1686 年 ) に建てられた 「 山吹之里 」 の石碑は、そこから 1 キロ離れた所にある都電 荒川線の 面影橋 ( おもかげばし ) 停留所の傍を流れる

神田川 を、面影橋で渡ったすぐ角にあります。神田川は写真の左側になります。


( 12−1、姿見橋 / 面影橋 )

ちなみに、面影橋はその昔は「 姿見橋 」 と呼ばれていましたが、伝説によれば、

戦国時代の明応年間 ( 1493〜1500 年 ) の頃、和田靱負 ( ゆきえ ) というという武士が 於戸姫 ( おとひめ ) という美しい娘を連れて京から落ち延び、この地に居住しました。やがて於戸姫は、小川左衛門義治の妻となりましたが、夫の友人である村山三郎武範が於戸姫の美貌に迷い、夫を殺してしまいました。

於戸姫は夫の仇討ちを果たしましたが、神田川に自分の姿を写して運命を嘆き、亡き夫の後を追い川に入水しました。そこで土地の人々は、於戸姫の心情を憐 ( あわ ) れんで、この橋を面影橋と呼ぶようになったといわれています。

姿見の橋姿見橋

上の左側の絵は江戸後期 幕末の浮世絵師、歌川 ( 安藤 ) 広重 ( 1797〜1858 年 ) が描いた 「 江戸名所百景 」 にある 姿見橋 ( 面影橋 )、右側の絵は 1836 年に刊行された地誌の 江戸名所図会 ( えどめいしょずえ ) に描かれた姿見橋 ( 面影橋 )です。

ところで東京で現在 路面電車の路線が唯一残り 「 早稲田と 三ノ輪橋 ( みのわばし ) 」 間を走る都電 ・ 荒川線は、私が子供の頃は王子電車という名前でした。昭和 17 年 ( 1942 年 ) に東京市 ( 当時 ) の市電に吸収されて市電となり、翌年の昭和 18 年 ( 1943 年 ) 7 月の東京都制の施行により、市電から都電に名前が変更されました。

私はその当時豊島区 ・ 巣鴨に住んでいましたが、 王子電車の最寄りの停留所は、 面影橋から 4 キロ先の庚申塚 ( こうしんづか )でした。 近所の悪童と共に王子電車の レール上に 5 寸 クギ を置き、電車にひかせたりして遊びましたが、ひかれて平らになった直後の クギ に触れると非常に熱かったのを覚えています。 70 年以上昔のことでした。


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