ウインザー公 Vs あの方 ( 続き )



[ 11−3、 皇族の妃 ( きさき ) になる人の条件 ]

かつて マスコミの記者だった人が書いた本によると、天皇の弟である 義宮 ( よしのみや、現 ・ 常陸宮 ) の妃 ( きさき ) を選ぶ際の 「 花嫁の条件 」 とは以下のようなものでした。

  1. 元皇族 ・ 華族にこだわらず、 家系の正しい人

  2. 親元が 資産家

  3. 健康 、 親類に胸部疾患 ( 肺結核 ) ・ 精神疾患がないこと

  4. 短大 ・ 大学卒で、 「並」 以上 の成績

  5. 皇室が神道なので、 キリスト教などや新興宗教の信奉者は避ける

  6. 身長が高くないこと。

  7. 語学堪能。

  8. 父親が品行方正であること。

でした。

これに対して当時の宇佐美 ( うさみ ) 宮内庁長官 ( 在任 1953〜1978 年 ) によれば、

( 相手に対して ) 家系の正しい人と言っても、 こっち だって お妾 ( めかけ ) さんの子 の 孫だよ 。

つまり第 121 代、孝明天皇の側室 ( そくしつ、めかけ ) 中山慶子 ( よしこ ) の子として生まれた 明治天皇 ( 1825〜1912 年 ) には 5 人の側室がいましたが、そのうちの 1 人でした柳原愛子 ( なるこ ) が生んだ 第 123 代、大正天皇は これも 「 お妾さんの子 」 であり、 常陸宮は 「 その孫に当たる 」 ということでした。

津軽華子

平民出身 であるが故に、皇太子妃の美智子さんのことを 認知症になるまで長年無視し続けた 良子 ( ながこ ) 皇后 ( 死後は香淳皇太后 ) がいましたが、 常陸宮妃の選考については、良子皇后を初め各宮家の妃殿下 ・ 旧華族出身者 ・ 常磐会 ( 学習院女子高等科の OG 会 ) などが、今度は 平民からではなく 、  ぜひ旧 華族出身で学習院女子部卒業生 を候補にと強く主張しました。

その結果 旧 伯爵 ( はくしゃく ) の家柄で、学習院短大英文科卒の津軽華子 ( はなこ ) さんに白羽の矢が立てられ結婚することになりました。

ところで昭和天皇の長女 照宮 成子 ( てるのみや しげこ ) 内親王は、昭和 16 年 ( 1941 年 ) に東久邇宮 ( ひがしくにのみや ) 盛厚( もりひろ ) 王と結婚して 昭和 20 年 (1945 年 ) に長男の信彦 ( のぶひこ ) を生みましたが、35 才の若さで ガンで死亡しました。

昭和天皇にとっては初孫でした東久邇 ( ひがしくに ) 信彦が結婚適齢期になると、 昭和天皇から結婚相手となるべき人の条件 を直接 示されました。それによると、

  1. 両親が健在であること。

  2. 私 ( 昭和天皇 ) の 家系に近くないこと ( 血族結婚の弊害を避けるため )。

  3. 相手の家系に ガンがないこと。

  4. 病気や犯罪のない、健全な家庭の人であること。

以上でした。


( 11−4、 皇族の、いびつな人格形成 )

女優の高峯秀子が書いた随筆集 「 にんげん住所録 」 ( 文藝春秋、2002 年 ) によれば、何十年もの間 良子 ( ながこ ) 皇后 ( 香淳皇太后 )のお世話に一生を捧げた 女官 「 X 」 がいましたが、すでに退職した彼女から高峯秀子が聞いた以下の話がありました。

昭和天皇と皇后陛下の国内 ・ 国外へのご旅行のとき、ご親族は可能な限りお見送りとお出迎えをするのが習慣になっていた。

しかし皇后陛下は 「 X 」 の知る限り美智子妃にだけは、 ただの一度もお言葉を掛けたことがなかった 。お眼の前にずらりと御親族が並んでいられても、皇后陛下は美智子妃の前だけは素通りか、またはお目に入らない風をよそおってでも無視を通された。

また皇后陛下と 女官 「 X 」 との会話の中に美智子妃という名が出れば 「 あの人は 外から来た お人だから 」 という 一言で片付けられてしまったそうである。

さらに前述の第 2 代、宮内庁長官の宇佐美 毅 ( うさみ たけし ) によれば、かつて宮中での集まりで、美智子妃の父親の正田英三郎が高松宮に深々とお辞儀をしたのに、高松宮は 「 フン 」 という顔でそっぽを向いたという エピソードを語り、

皇族というのは我々庶民と違って、 残酷なところ があるんだよ。

と語りました。

残酷というのは皇族に対する人格形成の教育過程において 「 他を思いやる心 」 などの、 「 人として必要な躾 ( しつけ )、 マナー教育 」 欠落していた ために、長じてからの日常生活において 「 わがまま 」 や、他人に対する好き嫌いの感情を 抑制することも知らず 、皇族といえども当然持つべき最低限度の社会常識や マナーに欠けた、 いびつな人格 が形成されていたからでした。


[ 12 : 遺伝の法則 ]

メンデル

オーストリアの修道院の司祭 ・ 植物学者の メンデル ( Mendel、1822〜1884 年 ) は修道院の庭で エンドウマメの人工交配による遺伝実験を行い、1865 年に 「 メンデルの法則 」 を発見し遺伝学の基礎を確立しました。

それは 「 親の形質は 遺伝子によって 、ある規則性をもって子や孫に伝わる 」 というもので、「 優性 ( 優勢な、dominant ) の法則 」 ・ 「 分離の法則 」 ・ 「 独立の法則 」 と呼ばれる三つの法則から成り立つものでした。

ところで古事記 ・ 日本書紀によれば、古来から 天皇  王族  氏族などにおいて 「 異母の兄弟 姉妹婚 」 や 「 叔姪 婚 」 ( おじ めい こん ) などといった近親婚の例が数多く記されています。

鎌倉時代 ( 1192〜1333 年 ) 以降、摂政 ・ 関白に任ぜられた家柄である近衛 ・ 九条 ・ 二条 ・ 一条 ・ 鷹司 ( たかつかさ ) の 五摂家 ( ごせっけ ) と、後に 「 娘が皇后になる資格がある 」 七精華家 ( なな せいかけ ) が加わり、天皇家との間で 何百年も血族結婚 ( 近親結婚 ) を繰り返しました。


( 12−1、近交退化、近交弱勢 )

血縁関係が近い者同士の近親結婚は昔から各民族の間で、時代により一般に禁じられてきましたが、その理由としては通常、優生学的理由および社会倫理学的理由が挙げられます。 優生学的理由 とは人間に限らず家畜でも 近親交配を重ねると 形質の弱い個体 が生まれるようになりますが、これを英語では Inbreeding depression 、つまり 近交退化 ( きんこう たいか ) または 近交弱勢 ( きんこう じゃくせい、 ) と呼びます。

共通した先祖由来の 病的形質 ( 悪い遺伝子がもたらす形質 ) が合成されて子や孫に現れることですが、具体的には 不妊 / 生殖力退化 ・ 体形の矮小化 ・ 虚弱体質 ・ 知能の低下 などをもたらします。

これに関連して植物でも 桜の自家不和合性 ( さくらの じかふわごうせい ) がありますので参考にしてください。

前述した如く明治天皇には皇后美子 ( よしこ ) の他に 5 人の側妾 ( めかけ ) がいて、男女合わせて 15 人の子 を生ませましたが、うち 10 人が夭折 ( ようせつ、早死に ) しました。15 人中 成人した男子は 前述の柳原愛子 ( なるこ )が生んだ大正天皇 ただ 1 人で 、他の成人した 4 人はいずれも女子でした。

大正天皇

明宮 ( はるのみや、後の大正天皇 ) も虚弱体質で脳も弱く、 9 才のころに 明宮 ( はるのみや ) を養育していた、枢密院 ( すうみついん、天皇の最高諮問機関、 ) の顧問官 ( こもんかん ) をしていた佐々木高行 は 「 明治天皇と臣 高行 」 の著書の中で、明宮 ( はるのみや、大正天皇 ) のことを述べていましたが、これを現代文に直すと、

近頃はどうにか人前に出せるようになったが、まだまだ頭の働きが遅れているから、学習院には未だ入学させない方がよいのではないか

と記していました。

大正 10 年 ( 1921 年 ) に昭和天皇が 20 才になると、大正天皇に代わり摂政 ( せっしょう、天皇の政務を代行 ) の地位に就きましたが、 5 年後に大正天皇は 47 才で亡くなりました。

昭和天皇の 2 人の弟である秩父宮 ・ 前述の高松宮には子供がなく、昭和天皇の娘 2 人 ・ 息子 1 人も子供がいませんでした。現天皇についても長男の皇太子は生殖力劣化で、雅子妃が人工授精により愛子さんを生んだのは周知の事実であり、1 人の娘にも子供がいません。まともに子供 ( 娘 2 人、男 1 人 ) が生まれたのは秋篠宮家だけでした。

一族のうちでこれほど多くの夫婦に 子宝が恵まれないことは 家系的にも希なこと であり、その原因は天皇家が長年繰り返した近親結婚 ( 近交退化 ・ 近交弱勢 ) によるものでした。


( 12−2、 外国王家の近親結婚 )

有史以来、ほぼすべての文化圏で、兄弟姉妹間や 親子間の結婚は タブー ( 禁忌、きんき ) とされてきましたが、エジプト、ペルーの インカ帝国 、そして時代によっては中央 アフリカ、メキシコ、タイなど多くの国の王族は、この 近親婚の  タブー から除外されていました 。

その理由の一つには、 王は神聖な存在 であり、常人とは異なり 「 神により選はれし者 」 の意識と、権力が王族以外へ移り 財産の散逸を防ぐ 狙いもありました。


  1. [ ツタンカーメン王の場合 ]
    ツタンカーメン・マスク

    ミイラにかぶせた黄金の マスクで有名な エジプトの ツタンカーメン王 ( Tutankhamun 、紀元前 1333 〜 前1324 年 ) の父親は、最近の遺伝子研究の結果から  アクエンアテン ( Akhenaten ) とされますが、王の母親は アクエンアテンの 実の姉か妹 とされます。

    なお ツタンカーメンは 19 才の時に マラリアで死亡しましたが、著しく虚弱で、骨壊死症のために歩くのに杖を必要とし、 右足は欠指症で、左足は内反足 だったとされますが、近親結婚が原因だったとされます。

  2. [ クレオパトラ女王の場合 ]

    毒蛇とクレオパトラ

    エジプトの プトレマイオス朝 ( Ptolemaios 、紀元前 304 頃 〜 前 30 年 ) の最後の女王であり、美人で有名な クレオパトラ 7 世 ( kleopatra Z、紀元前 69 〜 前 30 年 ) も数代にわたる兄弟姉妹婚の末裔 ( まつえい、子孫 ) で、彼女自身も 17 才の時に プトレマイオス家の慣例に従って、 9 才の 実の弟、プトレマイオス 13 世 と結婚しました 。彼女の死因については ここにあります

     
  3. [ ハワイの王族の場合 ]

    1820 年に ハワイに赴任した米国の宣教師 ハイラム ・ ビンガム ( Hiram Bingham ) によれば、ハワイの王族の間で近親婚が当たり前のように行われていることに ショックを受けました。歴史家の ジョアン ・ カランド ( Johan Caland ) によると、ハワイでは王家にのみ許される 特権として 、近親婚が  容認されているばかりか、奨励されていた のだそうです。

    カメハメハと槍

    写真は 1810 年に ハワイを統一した カメハメハ大王像 ( King Kamehameha Statue ) ですが、オアフ島の ホノルル市内 イオラニ宮殿前にある大王像の他に、写真の像は大王の出身地である ハワイ諸島 最南端の ハワイ島 ・ 北部 カパアウ ( Kapaau ) にある大王像です。

    ハワイ島にはもう 一つ カメハメハ大王が最初に首都と定めた、現 ・ ホノルルに次ぐ ハワイ第 2 の都市である 同じ ハワイ島 ・ 東部の ヒロ ( Hilo ) 市にもありますが、二つとも観光客の誘致 ( ゆうち ) 目的で近年に建てられたものであり、私が 1958 年に最初に ハワイ島を訪れた際には大王像など二つともありませんでした。


( 12−3、 ハプスブルク家の場合 )

13 世紀に神聖 ローマ皇帝をその一家から輩出して以来、何世紀にもわたり オーストリアなど中部 ヨーロッパを中心に勢力を持った名門王家に、 ハプスブルク ( Habsburg ) 家 がありました。

スペイン・ハプスブルク宮殿

武力で支配する時代に強力な軍隊を持たない同家は、力の原理によらずに 婚姻と情報 という二つの ソフト戦略によってその版図 ( はんと、一国の領土 ) を広げていきました。

1452 年に神聖 ローマ皇帝となった ハプスブルク家の フリードリヒ 3 世 ( Friedrich III ) は 「 全世界の支配権は オーストリア にあり 」 を座右の銘としましたが、左は スペインの首都 マドリッドにある、 スペイン系 ハプスブルクの宮殿です。

これまでも ハプスブルク家は他の王朝の 女子相続人との結婚 を通じて領土の拡大を図り成果を挙げてきましたが、彼の息子である マクシミリアン 1 世も ブルゴーニュの シャルル豪胆公 ( ごうたん こう ) の女子相続人 マリア ・ フォン ・ ブルグント ( Maria Von Burgund ) と結婚し、その世襲領の大半を息子 フィリップのために確保しました。

ファナ王妃

フィリップも スペインの カスティーリャ と アラゴンの継承者である イサベル女王の娘 ファナ ( Juana 、1479〜1555年、右図 ) と結婚したために、やがて スペインが 南米大陸の広大な領土や ナポリ ・ シチリア もろとも ハプスブルク家の手に渡ることになりました。

後に ハプスブルク家の家訓 ( かくん、家に伝わる教訓 ) となった、有名な ラテン語の詩があります。

他の者みなが戦うとき、幸いなるかな なんじ オーストリアよ、 結婚すべし

しかし何事につても良い事ばかりは長く続かないもので、スペイン系の ハプスブルク家では、血筋を守るために オーストリア ( 皇帝 ) 系 ハプスブルク家との間で頻繁に結婚を繰り返しましたが、世代が下るごとに近親婚が増えました。 ある調査によれば 11 組の結婚のうち 9 組 ( 82 パーセント ) が 3 親等以内の結婚 とのことでした。ちなみに日本では 民法 734 条 1 項によって、 3 親等以内 の結婚は禁止されています。

注 : 民法、第 734 条 ( 近親婚の制限 )

直系血族又は三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。但し養子と養方の傍系血族との間では、この限りではない。

とありますが、 直系血族 とは、祖父母 → 父母 → 本人 → 子 → 孫の血族のことであり、 傍系血族 とは共通祖先 ( 祖父母や父母 ) から枝分かれした血族のことです。

従って自分の兄弟姉妹は、父母から枝分かれした 2 親等 の傍系血族で、おじ ・ おば は、祖父母から枝分かれした 3 親等 の傍系血族です。 おじ ・ おばの子供である 「 いとこ同士 」 の場合は、祖父母から枝分かれした 4 親等 の傍系血族です。

つまり、兄弟姉妹間はもちろん、おじと姪との婚姻 ・ おばと甥との婚姻は禁止されていますが、いとこ同士の婚姻は合法です。

前述のように スペイン 系 ハプスブルク王家では血族同士の結婚を繰り返した結果、17 世紀末には虚弱体質の子供ばかりが誕生するようになりました。

マルガリータ王女

左の絵は 17 世紀を代表する スペインの画家 ディエゴ ・ ベラスケス ( Velazquez ) の描いた肖像画で知られる マルガリータ ( Margarita ) 王女ですが、この絵は マルガリータ王女の成長報告のために、11 歳年上の婚約者 オーストリア 系 ハプスブルク家の レオポルト ( Leopold ) 1 世へ送られたものです。

成長して父方の従兄で母方の叔父にあたる レオポルト 1 世と結婚した マルガリータが生んだ子は、4 人中 3 人が 1 歳未満で夭折 ( ようせつ、早死に ) しました。

カルロス2世王

スペイン 系 ハプスブルク家出身で最後の王となった カルロス 2 世 ( Carlos II、1661〜1700 年 ) は、伯父と姪 ( 3 親等 ) との間に生まれた子で、近交劣性のために体に障害を持って生まれ、話せるようになったのが 4 才になってから、歩けるようになったのは 8 才の時であると記録されています。

性的に不能でもあり、幻覚に悩まされ、しばしばけいれんを起こし 35 才以降は立ち上がることも困難で心身喪失状態となり、39 才の若さで死亡しましたが、これにより スペインを 174 年間支配してきた スペイン系 ハプスブルク家も 1700 年の彼の死によって断絶し、フランス 国王で ブルボン家の第 3 代、 ルイ 14 世 ( Louis XIV ) に領土を奪われ没落しました。


[ 13 ; 皇太子と雅子さんについて ]

日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇と、その皇后に近い将来なるであろう皇太子と雅子さんについて、これほど国民から批判され不人気な存在であることを、私は憂 ( うれ ) いています。

( 13−1、 皇太子の人格否定発言 )

平成 16 年 ( 2004 年 ) 5 月 10 日のこと、欧州 三ヶ国へ 単身 訪問に先立つ記者会見で、前年に帯状疱疹 ( たいじょうほうしん ) になり、ずっと公務から離れている雅子さんについて

雅子にはこの 10 年、自分を環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れきってしまっているように見えます。

それまでの雅子の キャリヤ や、そのことに基づいた 雅子の人格を否定する ような動きがあったことも事実です。

と発言したために、人々は あっけにとられました

ある人の説によればこのような トゲ のある言葉 は、皇太子が持っている語彙 ( ごい、ある言語体系で用いられる単語の総体 ) にはなく、雅子さんの父の元外務次官 ・ 小和田恒 ( ひさし ) の力が働いたのではないかと考える者もかなりありました。小和田が皇太子の口を借りて、宮内庁と マスコミに抗議の メッセージを送ったのでは、と憶測が飛び交ったのです。

皇太子の発言に対して天皇 ・ 皇后は宮内庁を通じて 「 具体的な説明がないと、国民も心配しているだろう 」 と述べましたが、皇太子は文書で 「 人格否定 」 の具体的な内容については 「 今ここで細かいことを言うのは差し控えたい 」 とするだけで説明しませんでした。

その年の秋篠宮の誕生日 ( 39 才、11 月 30 日 ) の会見で、

発言する前に、せめて陛下と話をすべきでなかったか?。

という趣旨の発言をしましたが、皇太子夫妻は皇室や兄弟の中でも孤立している様子が推察されました。

さらに同年 12 月 23 日の天皇誕生日には高松宮妃の逝去によりお祝の記者会見が中止され、天皇から宮内庁記者会に対する文書回答が出されましたが、

皇太子妃が 1 年にわたって静養を続けていることを深く案じています。そのような状況の中で行われた 5 月の外国訪問前の皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました。

皇太子の発言内容についてはその後何回か皇太子から話しを聞いたのですが、 まだ私に十分に理解しきれぬところがあり 、こうした段階での細かい言及は控えたいと思います。

と記されていましたが、皇室の長い歴史の中で天皇が皇太子を公然と批判するということは極めて稀なことでした。

今上天皇の 「 ご学友 」 橋本明の弁


( 13−2、 当てが外れた雅子さん )

海外留学経験を生かして 皇室外交の担い手 になるという意気込みで雅子さんは結婚したのだと思いますが、いざ結婚してみると、皇太子妃にまず求められたのは天皇家の世継ぎの子を産むことであり、 時代遅れの宮廷 ( 皇室 ) 外交 ( Court Diplomacy ) など ヨーロッパ諸国が互いに姻戚 ( いんせき、婚姻によりできた親戚 ) 関係にあった、 17 世紀以前の古びた幻想 に過ぎませんでした。

各国王室との外交儀礼上の、その場限りの 社交上の会話 を皇太子妃が英語で交わす能力など、 無いよりはある方がましな程度 であり、皇室が 外交上の仕事 ( 政治活動 )にたずさわることはなく 、現に高円宮 久子 さんが オリンピック招致活動に アルゼンチンへ行き I O C 総会に出席するのさえも、日本の一部から皇族の政治活動ではないかと 「 疑問の声 」 が出たのを見ても分かります。つまり雅子さんの出番が、予想していたよりも遙かに少なかったのでした。

さらに皇太子夫妻の外国訪問など国際情勢を考慮して慎重に判断すべきことであり、個人の海外旅行のように好きな国に好きな時には行けず、得意とする会話能力を発揮する機会の無さを思い知らされました。

にもかかわらず皇太子夫妻による皇室外交を重視するという人がいるのであれば、私は質問します。平成 18 年 ( 2006 年 ) に皇太子夫妻と娘の親子 3 人が静養のために私的に オランダを訪れ、滞在先には王室の離宮が提供され 2 週間滞在しました。今回 ( 2013 年 4月末 ) の公式訪問で、オランダ王室に対する 「 借りを返した 」 以外、どんな利益を日本国にもたらしたのですか ?。 相手国との 親善に役立った という点は否定はしませんが、それならば言わせてもらいます。

雅子さんが行きたい国は両親のいる オランダか イギリスであり、今回相手国から招待を受けた スペインなどには 行きたくない というので、2013 年 6 月に皇太子は 1 人で訪問しましたが 、オランダには行くが スペインには行きたくないというのでは、 相手の国に対して失礼だとは思いませんか ?。 

もし皇室外交がそれほど 国際親善に役立つ というのであれば、試しに皇太子夫妻を中国や韓国に訪問させてみてはいかがですか ?。

平安初期の勅撰の史書である続日本紀 ( しょくにほんぎ ) によれば、第 49 代、光仁天皇の 側妾 ( そくしょう、 めかけ ) に、百済 ( くだら ) から大和朝廷へ送られた人質で後に帰化人となった者の子孫に、 高野 新笠 ( たかの の にいがさ ) がいましたが、彼女の産んだ子が後に第 50 代、桓武天皇 ( 737〜806 年 ) になりました。

その末裔 ( まつえい、子孫 ) である皇太子が もし夫婦で韓国を訪問することになれば、 国威発揚を 病的 に好む韓国 では、日本の次期天皇が 朝貢に来たとして 反日主義者の パク ・ クネ も、  泣いて喜ぶ に違いありません。


( 13−3、皇室の在り方 )

皇室の在り方について平成 6 年 ( 1994 年 ) 6 月に父親である天皇の文書によるお言葉を、皇太子夫妻はしっかり受け止めるべきと考えます。

日本国憲法には、皇位は世襲のものであり、また、天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であると定められています。

私は、この運命を受け入れ、象徴としての望ましい在り方を常に求めて行くよう努めています。したがって、 皇位以外の人生や皇位にあっては 享受できない自由 は望んでいません

この天皇の心情を理解できない皇位継承者とその配偶者は、 皇位 に就くべきでないと考えます 。私が中学 ・ 高校生の頃に 「 憲政の神様 」 と言われた政治家の尾崎行雄 ( 1858〜1954 年 ) がいましたが、1946 年の新憲法制定国会で以下のように演説しました。

前回の世界戦争 ( 第 1 次大戦 ) には 五〜六 の王国が滅亡した。今回 ( 第 2 次大戦 ) も 四〜五 カ国は無主の国になるだろう。天皇制維持論者も廃止論者も、これらの事実を考慮するを要す。

主権なき国王の位地 ( いち、位置 ) は、ずいぶん迷惑なものならん。将来人類普遍の教育を受け、文芸その他の嗜好 ( しこう、たしなみ、趣味 ) を有する皇族方にとっては、 皇位につくことは、ずいぶん御迷惑の次第 ならんかとも察し奉 ( たてまつ ) る。

儀礼その他無意味なことがらに多くの時間をとられて、自己天賦 ( てんぷ、天から授かった ) の嗜好を研究する時間を得るあたわざる ( 時間が得られない ) 生活は、決して楽しきものではあるまい。将来は英国前皇帝 ( 王位を捨てて人妻と結婚した、エドワード八世 ) の如く 皇位を避けるものが増加するかも知れない

と、 あたかも 皇太子妃としての 公務よりも 私人としての権利 を優先する かのように見える 雅子さんの出現を予言しているようでした。


[ 14 : 罵声 ( ばせい ) を浴びた雅子さん ]

2013 年 3 月 26 日午前 11 時前、東京駅の改札口 や 駅の ホームには、長野新幹線で奥志賀高原での スキーに向かう皇太子一家を見送る人や追っかけ主婦が集まっていました。この日は警備の数も少なく、規制の ロープもなく、カメラを出しても注意されたりすることもない穏やかな雰囲気でした。午前 11 時過ぎ、東京駅に到着した皇太子一家は、駆けつけた人々に手を振りながら、改札口へと向かいました。 一家が改札を通り過ぎたとき、騒ぎが起こりました。

そこに居合わせた 60 才 くらいの男が、

税金泥棒 ! 仮病 ・ さぼりの税金泥棒! 皇室から出て行け !

と大声で罵声を浴びせました。突然の出来事に驚かれた雅子さんは、一瞬凍りついたご様子だったそうです。声をあげた男は近くにいた警察官に取り押さえられましたが、日本の刑法では皇室に対する 「 不敬罪 」 の規定 ( 第 73 条〜第 76 条 ) が、戦後の新憲法第 14 条に定める 「 すべて 国民は、法の下 ( もと ) に平等 であって−−−」 の原則に反するとして削除されました。

さらに刑法第 230 条の名誉毀損 ( めいよ きそん、他人の名誉を傷つける ) は 親告罪であり 、「 告訴ヲ待テ之ヲ論ス 」、つまり告訴がなければ公訴を提起することができない ( 刑法 232 条 1 項 )とあります。

第 2 項、「 告訴ヲ為スコトヲ得可 ( うべ ) キ者カ ( 中略 ) 皇嗣 ( こうし、天皇の世継ぎ ) ナルトキハ内閣総理大臣 」 とありましたが、男は 5 時間後に釈放されました。誰からも告訴されず、その可能性も無かったからでした。

東京駅構内

皇族が 「 税金ドロボウ 」 と罵声を浴びせられたのは前代未聞の出来事であり、 皇室の尊厳 ( そんげん ) は、まさに地に堕ちました 。 しかしその男の叫んだ言葉の内容はともかく、多くの国民が雅子さんに対して抱く 「 やりきれない気持ち 」 を代弁したものと思われました。

それにしても 10 年間も精神病の治療を受けて公務をほとんど休み療養生活をしているはずなので、青い顔をして痩せていると思いきや、肉付きが 「 およろしい 」 ことです。

フランス料理店

皇太子夫妻はある日 皇居における 年末恒例の餅つき行事には欠席したにもかかわらず、その日の夜 8 時半から銀座にある ミシュランの 三ツ星に格付けされている フレンチ ・ レストランの ロオジエ( L'OSIER ) に行き、日付が変わるまで小和田家の親戚 ・ 友人と 4 時間も食事を楽しみましたが、そのせいかな ?

これを見ると スキー や有名料理店での外食などの 遊びには精を出すが、公務はしたくない  いわゆる 「 新型 うつ 」 かも。それに外食の計画を、だれが言い出したかは想像がつきます。

戦没者慰霊式

今年の 8 月 15 日の敗戦の日には例年と同様に、天皇皇后が全国戦没者追悼式に臨席になりました。 テレビでの中継映像を見ると、私と同じ昭和 8 年 ( 1933 年 ) 生まれで間もなく 末期高齢者 (?) の 80 才 になり、抗 ガン剤を服用し続ける天皇と、1 才下の美智子皇后も老化がかなり進み 身体の各部の不調に悩み歩行にやや不安を感じさせました。

皇室に馴染まぬ 雅子さん と、 天皇 皇后とは コミュニケーションをとろうとしない皇太子の振るまい に、お二人はどれほど心を痛めていることか !。

ところで男性の平均寿命を越えて 80 才まで長生きし、あと 1〜2 年以内に脳梗塞で あの世へ旅立つ予定 の不肖 ( ふしょう ) 私にとって、次の皇后になられる方が皇太子妃の雅子さんであろうが、作り笑いが得意な秋篠宮妃の紀子さんであろうと どちらでも構いませんが、ただ美智子皇后のように、皇后としての 職責をきちんと果たせる人 でなければならないと思います。特に外国への親善訪問の際には、夫婦揃って訪れるのが国際社会の常識ですから。

( 14−1、二年ぶりの被災地訪問 )

2013 年 4 月には オランダに行けるほど病状が回復したと 、同行した例の 「 かかりつけ医 」 の大野が明言しておきながら、帰国後は、宮城県被災地への訪問が 5 月 28 日、6 月18 日と再三にわたって計画されたものの、体調不良で延期となりました。

その年の 3 月には 「 さぼりの税金泥棒 」 と罵声を浴びながら家族で スキーに出かけ、4 月末には大好きな オランダ旅行に行ったものの、被災地訪問の公務になると とたんに体調不良になるのです。

いろいろあった末に 8 月 20 日、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県 「 七ヶ浜町 」 を皇太子夫妻が日帰りで訪問し、被災者を励まされることになりましたが、皇太子夫妻の被災地慰問は、 2 年ぶり でした。

しかし本番 4 日前に公表された分刻みで書かれた スケジュール表を見た宮内庁記者は唖然としました。仮設住宅の住民と皇太子夫妻との交流が たった 10 分 しか予定されていなかったのです。( さすがに当日になると、 15 分に延長なりました ) その 1 ヶ月前におこなわれた我が子の水泳訓練には、 2 時間も見学したというのに−−− です

しかも仮設住宅には約 370 人も入居者がいるというのに、出迎えるのは僅か 40 人ほど の住民に絞られ、一般の被災者は皇太子夫妻を遠くから眺めるだけでした。これでは 実績作りのための 形だけの訪問 であり、「 行かない方が マシ 」でした。 ( 文春 8 月 29 日号 )

さらに警察や役所、仮設の役員などからは、仮設で暮らす人々にこんな要請がありました。

  1. 当日は、仮設の住民以外は絶対に敷地内に入れないでください。

  2. 仮設の住民は名札を必ず着用してください。

  3. 仮設に住んでいる人の名簿を提出してください。

皇太子ご夫妻との会話の際の禁止事項

  1. 雅子さまの健康については触れてはならない。

  2. 愛子さまのことも聞かないでください。

つまり皇太子が抱える問題とは、雅子さんのことだけでなく愛子さんにも問題があることを、東宮御所の責任者 (?) が 自ら認めたことになりました 。これに対して被災者の 1 人は、 

( 震災で ) 亡くなった小学生の孫のこともお話しして、愛子さまの話も聞いてみたかった。それなのに 「 そういったことは ダメだ 」 と言うんです。

せっかく来てくださるのに、「 あれも、これも ダメ 」 というのは何かちょっと ( 訪問の目的とは ) 違うような気がするんですよね

( 女性 セブン 2013 年 9 月 5 日号 )

ある雑誌の調査によれば将来の皇后に相応しいのは 紀子さんが 62 % であるのに対して、雅子さんは 38 % でした 。畏れ多い極 ( きわ ) みですが、ここで皆さんにお尋ねします。 現 ・ 皇太子を廃して 秋篠宮に代えると、国民にとって何か不都合なことがありますか ?。


[ 15 : 皇室典範改正の必要性 ]

しかしながら現行の皇室典範によれば、

[ 皇位継承の順序 ] について

第 二 条
皇位は以下の順序により、皇族にこれを伝える。

  1. 皇長子 ( 天皇家の長男 )

  2. 皇長孫 ( 天皇家の長男の孫 )

  3. その他の皇長子の子孫 ( 天皇家の長男の子孫 )

  4. 皇次子及びその子孫 ( 具体的には、秋篠宮とその子孫 )

  5. 以下省略

同じく [ 順序の変更 ] については、

第三条
皇嗣 ( こうし、皇位を継承するよう定められた者 ) に 精神若しくは身体の不治の重患があり 、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる。

と定められています。

そこで上記の第三条にある 皇嗣 に精神若しくは身体の不治の重患があり とある部分の 「 皇嗣 」 を、「 皇嗣若しくは その配偶者 」 のように皇室典範の文言を変更すれば、法律上は問題を クリアーできるわけで、あとは皇室会議なり有識者会議の意見を聞いて政治家が立法の判断すればよいわけです。


( 15−1、最後に )

若い頃の私は天皇制については前述の如く時の政治権力者に利用されるだけであり、過去の歴史の中で 国民にとっては 百害あって一利なしの 寄生虫的存在である と思っていました。しかし年を取るにつれて考えも穏やかになり神道の祭祀者 ・ 125 代も続く伝統文化財的意義から、天皇制は存続してもよいと思うようになりました。

ところが次期天皇 ・ 皇后に予定されている 「 あの方たち 」 の振るまいを見ると、126 代天皇や皇后になる 自覚が少しも感じられず 、 国民のことよりも 雅子のこと あるいは 愛子が第 一、小和田家が 第 二、国民については 第 三のこと とする態度のように感じられます。

このままの状態がもし続くようであれば、いっそのこと 皇太子には前述した ウインザー公のように、愛する妻のために 皇位継承の順序を 秋篠宮に譲って 東宮御所から出て行ってもらい 、京都御所か あるいは大好きな オランダや イギリス などの外国にでも自由に住んでもらいたいと思います。これは皇后になってからでは遅すぎます。

そうすれば雅子さんの ( 環境 ) 適応障害にも特効薬的な治療効果をもたらし、しかも国民にとっては皇太子ご夫妻の行啓 ( ぎょうけい、外出すること ) スケジュールの ドタキャン も無くなり、 非常に スッキリするし、皇室に対する国民の信頼も増して天皇家も より安泰になり、やがて 126 代天皇の御世 ( みよ ) も繁栄することを期待しています。


管理人のブログ、雅子さんが両親に会いに


以下の ブログは私の考えとは異なる部分もありますが、参考までに掲載します。

親も親なら子も子


小和田家の謎


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