慶 長 、遣 欧 使 節 の こ と ( 続 き )


[ 7 : ロ ー マ に 向 か う ]

支倉常長 ら 遣欧使節 は、ス ペ イ ン 国王 フ ェ リ ペ 三 世 からの、
     
  1. : 奥 州 伊 達 領 へ の 、宣 教 師 派 遣 。

     
  2. : メ キ シ コ の ア カ プ ル コ と、奥 州 伊 達 領 の 港 と の、貿 易 通 商 協 定 の 締 結。

の 二 項目 に 関 する 返事 を 長期間 待 って いたが 、文書 による 回 答 が 得 られないので、ロ ー マ 法王 に 直接 嘆 願 するこ と に した。 そこで 1615 年 8 月 2 2 日 に マ ド リ ー ド を 立 ち、船 便 のある 地中海 沿岸 の 都市 バ ル セ ロ ナ ( B a r c e l o n a ) に 向 けて 出発 した。

マ ド リ ー ド から バ ル セ ロ ナ までは 6 2 0 K m の 距 離 があるが、カ ス テ ィ リ ャ ( C a s t i l l a ) を 出 て ア ラ ゴ ン ( A r a g o n ) を 通 り、カ タ ル ー ニ ャ ( C a t a l u n y a ) へ と 三 つ の 地方 を 横断 した。使節 一 行 に 与 えた 行 程 案 内 書 が 、バ チ カ ン 市 国 の 図書館 に 残 っているが、それには

各 地 の 名所案内、税 金、チ ッ プ のほかに、各地方 を 通 過 するたびに それぞれの 首 府 に 先 触 れの 使 者 を 送 り、旅行 の 安 全 のための 護 衛 を 頼 むようにと いう、親 切 な 注 意 が 記 載 されて いた。

一 行 が バ ル セ ロ ナ に 着 いたのは 、1615 年 1 0 月 3 日 であった。 数日間 ここに 滞在 し、丁度 ジ ェ ノ バ  ( G e n o v a 、イタリア 北西部 の 港町 ) 船 籍 の 船 二 隻 と 、バ ル セ ロ ナ 船 籍 の 船 一 隻 が 停泊中 だったので、一 行 は 三 隻 に 分 乗 して バ ル セ ロ ナ を 出港 した。

コスト未亡人館

ところが 地中海 を 航行中 に 嵐 に 遭 遇 したので、 南 フ ラ ン ス の サ ン ・ ト ロ ペ ( S a i n t - T r o p e z ) 港 に 緊 急 避 難 入 港 した。彼 らは 地元 の コ ス ト 未亡人 の 館 に 二 泊 したが、彼らの 日常生活 が 最 も リ ア ル な 姿 で 浮 き 彫 り に 記 述 されたのは 、サン ・ ト ロ ペ にお いて であった。

彼 らは 常 に 大 小 二本 の 刀 を 差 して いた。ヨ ー ロ ッ パ の 剣 のように 直線状 で 上 から 下 に 下 げるのではな く 、腰 のところで 前後 に 横 吊 りするので、刀 身 が 反 っていた。刃 は すこぶる 鋭 敏 で、一 枚 の 紙 を 刃 の 上 に のせて 息 を 吹 き 掛ければ、たちまち 切 れるほどである。

支倉大使 と 一 緒 に 食卓 を 囲 むのは、いつも 聖職者 たちだけであった。大使 は 食事 をするときは、刀 を 刀 掛 けに 置 いた。時には 大使 の 背後 に 、太刀 持 ちの 小姓 が、刀 を 捧 げ 持 って 控 えて いた。

給仕係 の 小姓 は 一 品 ずつ、食 べ 終 わるごとに 、別 の 皿 を 運 んできた。

サ ン ・ ト ロ ペ 公爵 夫人 から 見 た 一 行 の 印象 を 綴 った 記録 では、女性 の 目 による 観察 な の で、髪 型 や 服 装 はさらに 詳 細 に 記 述 されて いた。な か で も 興 味 深 いのは、

鼻 紙

日本人 は 皆 胸 に た く さ ん チ リ 紙 を 入 れて いて、鼻 を かんだ 後 そ の 紙 を 通 りに 捨 て て いた。それが 当時 の 日本 での 習慣 だった の だろう。

ところ が 彼 らが か ん で 捨 てた チ リ 紙 を 、 見物 に 集 まった 人 たちが 我先 に 争 って 拾 う 光景 を、一 行 は 面白 がって 見 て いた。

随員 の 中 には 見物人 を 喜 ばせようと 茶目 っ 気 を 出 し、わざと 鼻 をかんで、捨 てた 者 もいたと いう。当時 の ヨ ー ロ ッ パ では、鼻 を か む の に 布 切 れ ( 後 の ハ ン カ チ ) し か 使 って いな い ので、よほど 珍 しかったのである。

ちなみに ハ ン カ チ を 正方形 の 形 に 統 一 したのは 、3 8 歳 で ギ ロ チ ン ( 断 頭 台 ) で 処 刑 された フ ラ ン ス の ル イ 1 6 世 の 王 妃 マ リー ・ ア ン ト ワ ネ ッ ト ( 1755 ~ 1793 年 ) であ り 、 慶長 ・ 遣欧使節 の 派遣 から 約 160 年 後 の ことで あった。

さらに、 一 行 の 日本人 が 裸 で 寝 るのにも 驚 いて いたが、これは 日本 の 東北地方 の 雪 国 に 伝 わる 習 慣 で、日本 でも 珍 し い ので、フ ラ ン ス 人 が 奇異 に 感 じても 不思議 では なかった。

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私 は 昭和 3 3 年 ( 1958 年 ) から 5 年間 青 森 県 八戸市 に 住 ん だ が、地 元 の 人 は 寝 る 際 には 冬 でも 肌 着 を 着 な いで 裸 で 寝 る 習 慣 で あ っ た。友 人 の 中 には 、交 際 相 手 から 勧 め られて 同 じ よ う に して 寝 た ところ 、風 邪 を 引 い た り 、寝 冷 え して 腹 を こわ した 者 が い た が、6 0 年前 の 話 で あった。

さらに 、当時 雪 が 降 る 日 に 傘 を 差 したら 、地元 の 人 から 笑 われた。少 し ぐ らい の 雪 に 傘 など いらな い 、帽子 や フ ー ド で 頭 が 濡 れな いようにすればよ い。 かな り 降 る 場合 には 、カ ッ パ ( 合 羽 ) を 着 るも の だ---と。

ミノ傘

今考 えると 、降 雪 は しば しば 強 風 を 伴 うこと。青森県 の 太平洋岸 に 降 る 雪 は サ ラ サ ラ して いるので 、払 えばすぐ に 落 ちること。雪 道 は 滑 って 転 び 易 いので、手 をなるべ く 空 けてお く 方 が 安全上 好 ま し いこと。

以上 の 理由 から 、生 まれた 習 慣 だと 想像 する。写真 は その 頃 、農家 の 人 の 定 番 雨 具 だった 、ミ ノ ( 蓑 ) と ス ゲ 傘

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  ( 7-1、ジ ェ ノ バ 、 へ の 旅 )

サ ン ・ ト ロ ペ を 出航 した 使節 の 一 行 は 、その後 順調 に 船旅 を 続 け 、イ タ リ ア 領 の サ ボ ナ ( S a v o n a ) に 寄港 したが、これは ジ ェ ノ バ ( G e n o v a )に 上陸 の 許可 を 求 めるための 寄港 であった。

続 いて 1615 年 1 0 月 1 1 日 に 、4 0 K m 先 の ジ ェ ノ バ に 入港 し 、港 に 近 い 聖 フ ラ ン シ ス コ 僧院 に 宿泊 した。一 行 を 先導 する ソ テ ロ 神父 が フ ラ ン シ ス コ 派 会士 な ので 、彼 の 顔 で、行 く 先 々 の 同派 の 僧院 にお 世話 になることが 多 かった。

コ ロ ン ブ ス の 出身地 でもある ジ ェ ノ バ は 、ベ ネ チ ア ( V e n e z i a ) や ナ ポ リ ( N a p o l i ) と 共 に 、古 く から 地中海貿易 の 港 と して 栄 えた 港町 で あった。 一 行 は 翌日 一 同 揃 って セ ナ ー ト ( S e n a t o 、議 会 )を 訪 れ た。ここで 支倉 は ロ ー マ へ 遣 わされた 主旨 を 説明 した 後 、ソ テ ロ が そ れ を ス ペ イ ン 語 に 通訳 した。

相手 の 言 葉 ( イタリア 語 ) は 、イ タ リ ア 人 の ア マ テ ィ が ス ペ イ ン 語 に 訳 して ソ テ ロ に 伝 え 、ソ テ ロ がそれを 日本語 に 直 して 支倉 に 伝 えるという、リ レ ー 方式 であった。

  一 行 はその 後 、ジ ェ ノ バ の 総督 を 表敬訪問 して、ロ ー マ 行 きの 目的 を 丹念 に 説明 したうえ、法王庁 へ の とりな しなどを 依頼 した。総督 は 「 尽力 しよう 」 と 答 え 、「 急 な 寄港 なので もてな しの 準備 も して いないが、ロ ー マ の 帰途 には ぜひ 立 ち 寄 って ほ し い 」 と 支倉 に 伝 えて いた。


[ 8 : ロ ー マ 到 着 と、反 対 勢 力 ]

  1615 年 10 月 18 日 に 使節 一 行 は、ロ ー マ の 外 港 である チ ビ タ ベ ッ キ ア ( C i v i t a v e c c h i a ) に 到着 した。彼ら 一 行 に とって、二 年 という 歳月 を 要 した 旅路 の 果 てに 、ようや く 最終目的地 に 降 り 立 ったが、そこには 意外 な 反対勢力 が 待 ち 構 え て いた。

ス ペ イ ン 国王 の フ ェ リ ペ 三 世 は、ロ ー マ 駐在 の ス ペ イ ン 大使 に 対 して、以下 のような 書簡 を すでに 送 っていた。

  • 支倉使節 一 行 に 対 して 、便 宜 を はかること。

  • 使節 一 行 は 日本皇帝 ( 徳 川 家 康 ? ) の 使 節 ではな く 、その 臣 下 の 一 人 である 奥 州 王 ( 伊 達 政 宗 ) の 使 節 であることを 特 記 する。

  • 神 父 ソ テ ロ や 支倉常長 が 、当 地 ( ス ペ イ ン ) において 拒 否 された 彼 らの 要 望 を、法 王 パ ウ ロ 五世 に 許可 するように 彼 らが 依 頼 し、もし 法 王 がこれを 許可 するようなことがあれば、大変 な 不都合 が 生 じる。

  • その 請 願 の 各項目 に 対 する ( ス ペ イ ン 政 府 ) の 返答 を 添 えて 貴下 ( ロ ー マ 駐在 の スペイン 大使 ) に 送付 するので、彼 らが 法 王 に 請 願 するようなことがあったら、 こ れ を 妨 害 せ よ。


( 8-1、ロ ー マ へ の 入 市 式 )

1615 年 10 月 29 日 に 、入 市 式 の 行進 が 行 われることになった。行列 は 近 衛 騎 兵 隊 の ラ ッ パ 手 を 先頭 に 、総 勢 百数十 人 に 及 ぶ 壮 観 なもので あった。その 中 に 支倉 と 共 に ローマ までやってきた 、15 人 の 日本人 も 含 まれて いた。

行進

ロ ー マ 市 を あげての 大歓迎 を 受 けて、右手 に 帽子 を 掲 げて 応 える 支 倉 の 心中 には 、交渉 へ の 期 待 が 膨 らんだと し ても 不思議 ではなかった であろう。


[ 9 : ロ ー マ 法 王 と の 謁 見 ]

ローマ での 盛大 な 入 市 式 から 五日後 の 1615 年 11 月 3 日 、支倉常長 は ローマ 法 王 パ ウ ロ 五 世 との 謁見 の 日 を 迎 えた。法 王 は 支倉使節 を 優 遇 するために、多 数 の 枢 機 卿 ( すう き き ょ う、C a r d i n a l 、カト リック 教会 における 法 王 の 最高顧問 ) を 列 席 させて 引見 した。

使節 一 行 が 訪問 した 当時 の ローマ の 様子 につ いて、フランス の 思想家 モ ン テ ー ニ ュ ( Michel- Eyquem- de- M o n t a i g n e ) によれば、

当時 の ローマ は カ ト リ ッ ク 信徒 であれば 、外国人 でも ロ ー マ 人 と 同様 に 扱 われる 万人 共有 の 都 であった。従 って ロ ー マ 法 王 に 謁見 するために、はるばる 東洋 の 果 ての 国 からやってきた カ ト リ ッ ク 教徒 の 支倉常長 と その 随行員 に 対 する 待遇 は 、いうまでもなく かなり 特別 なものであった。

ところで バ チ カ ン ( V a t i c a n- C i t y 、世界最小 の 国 で カ ト リック の 総本山 がある ) 図書館 に、ロ ー マ 人 が 見 た 支倉常長 自身 の 特徴 や 使節 一 行 の 行動 などについて 言及 している 観察記録 が 残 されて いた。これによると、

大使 ( 支倉常長 ) は、ほかの 日本人随員 と 同 じ く 背 が 低 く、顔 は げっそ り と 痩 せて いて 浅黒 い。そ して 大使以下 、日本人全員 の 顔 つきや 背丈 が 似 たりよったりで、区別 がつかな い 。

また 誰 一 人 、自国 の 言葉 ( 日本語 ) 以外 は 話 せな いので 理解 することができな いが、ただ 日本 に 住 んだことのある ベ ネ チ ア 人 ( ドン ・ グ レ ゴ リ オ ・ ア テ ィ ア ス ) の 通訳 で 、通 じあうことができた。

食事 の 際 には、食卓 のすべての 食物 は 二 本 の 木 の 棒 ( 箸 のこと ) でつかんで 食 べ 、当時 貴重 であった 氷 を 入 れた 冷 たい 飲 み 物 を 好 んだ。 また 日本人 全員 が 五 枚 一 組 の 木 の 皮 で 作った 紙 ( 和 紙 ) を 持 って いて 、その 一枚 で 洟( は な )をかんでは それを 棄 てる 習慣 がある。
と 興味深 い 記録 を 残 して いた。


( 9-1、謁 見 )

支倉 は 随員 と 共 に ボ ル ゲ ー ゼ 枢機卿 ( す う き き ょ う )   差 し 回 しの 二 台 の 馬車 で 宿泊先 の 修道院 から 法王庁 の 宮殿 に 向 かい 、 門前 で 下車 し 、階段 を 上 って ク レ メ ン ス の 広間 の 右 にある 小部屋 に 入った。支倉 はこの 部屋 で 衣服 を 着替 えた 後 、 ク レ メ ン ス の 広間 から 謁見室 に 入 った。

正装

この 時 の 支倉常長 の 服装 は 、先 の セ ビ リ ア 入 市 式 に も 着 た、絹 の 白 地 に 金 と 銀 の 糸 で 草 花 鳥 獣 を 刺 繍 し た 派手 な 陣 羽 織 を まと い、二 本 の 刀 を 差 して いた。左 の 絵 は ローマ で 常長 の 世話役 だった ボ ル ゲ ー ゼ 枢 機 卿 の 指 示 で 、当時 アルキータ ・ リッチ により 制作 されたものである。

ひざまずく

支 倉 ( 刀 を 差 している ) は まず 入 り 口 で 跪 ( ひ ざ ま づ ) き 、さらに 中央 に 進 んで 深 く お 辞儀 を してから、「 服 従 の 作 法 」 通 り に 法王 の 足 下 に 進 んで 足 に 接 吻 し 、ソ テ ロ も 彼 に 次 い 法 王 の 足 に 接 吻 した。

このあと 支倉 は 日本語 で 言上 ( ごん じょう、目上 の 人 に 申 し 上 げる ) し、ソ テ ロ がこれを ラ テ ン 語 に 訳 した。続 いて 支倉 は 伊達政宗 の 書簡 を 法王 に 奉 呈 した。

世界 において、高大 な 尊 き 御親 であられる パ ッ パ ・ パ ウ ロ 様 に 謹 んで 申 し 上 げる。余 は 奥州 の 王 、 伊達政宗 の 名代 と して 光 りを 求 めんがために、当地 よ り 最 も 遠 隔 なる 地 よ り 来 た り し、フ ェ リ ペ ・ フ ラ ン シ ス コ 支倉 と 申 す 者 な り。

我 が 主人 伊達政宗 は 、奥州 の 強大 な 王 な り。政宗 、尊 き デ ウ ス の 御法 を 広 めんがため、余 を 派遣 せ り。願 わ く ば 宣教師 を 派遣 して 福音 を 伝 え、正義 を 行 わ しめんことを 願 い 奉 る。

この 時、支倉常長 は 四十五 歳。月 ノ 浦 を 出 てから 二 年 一 ヶ 月、洗礼 を 受 けてから 八ヶ月 が 過 ぎて いた。法王 への 親書 の 中 で 政宗 は、

  • 法王 の 保護下 に 置 いて 欲 しいとの 請 願。

  • フ ラ ン シ ス コ 会 宣教師 の 奥州 への 派遣 依頼。

  • ス ペ イ ン 国王 フ リ ペ 三 世 と 会見 できるように、取 り 計 らいを 請 願。

  • メキシコ との 貿易 ができるように、力 添 えを 賜 りた い。

と 書 いて いた。見方 によっては、スペイン の 後 ろ 盾 を 得 ることで、徳川家康 による 天 下 を 狙 おう と した 伊達政宗 の 野望 が 隠 されている、とも 見 てとれる 親書 であった。これに 対 して ロ ー マ 法 王 は 、

日本 の 一 地方 の 王 が、信仰 の 道 には 未 だ 日 が 浅 いのに 布教 に 熱心 で、使節 を 送 って 来 たのは 結構 なことである。このうえは 神 の ご 慈 悲 にすが り、伊達政宗 が 一日 も 早 く 洗礼 を 受 けるように 望 む。

と 答 えた だけで、メ キ シ コ との 貿易 や 宣教師 の 派遣 と いった 政 宗 の 要 請 に 対 する 返 事 は 、 ス ペ イ ン 国 王 に 一 任 す る と あ り 、ゼ ロ 回 答 で あ っ た。 前述 した ロ ー マ 駐在 ス ペ イ ン 大 使 の 妨 害 工 作 が、 功 を 奏 し た こと と 、二代将軍 徳川秀忠 ( 在位、1605 ~ 1623 年 ) による 切支丹 弾圧 の 情報 が マ ニ ラ 経由 で 欧 州 に 届 き、 イ エ ズ ス 会員 の 反対 があったからに 違 い な い。


[ 1 0 : ロ ー マ を 去 り、経 済 的 な 困 難 に 直 面 ]

 1616 年 の 1 月 7 日 に 使節 一 行 は ロ ー マ の 外港 チ ビ タ ベ ッ キ ア から 船 に 乗 り、リ ボ ル ノ に 向 かった。ここで 随員 を 待 たせておき、ソ テ ロ と 支倉常長 ら 数 名 だけが フ ィ レ ン ツ ェ ( F i r e n z e ) に 向 かった。フィレンツェ には 1 月 18 日 に 到着 し 、五 日 ほど 滞在 して、ル ネ サ ン ス 時代 の 数多 く の 建築物 や 芸術作品 を 鑑賞 したに 違 いな い。


( 10-1、支 倉 、マ ラ リ ア に 感 染 )

マラリア

フ ィ レ ン ツ ェ を 出発 して ジ ェ ノ バ に 到着 した 四日 後 の 1616 年 2 月 3 日、支倉常長 は 病床 に 臥 した。 病名 は 三 日 熱 マ ラ リ ア とも いわれている。 寿 命 が 50 年時代 の 4 6 ~ 4 7 歳 頃 であ り、長旅 の 疲 れと 当初 の 目的 が 思 い 通 り に 達 せられなかったことへの 心 労 が、病気 をもたら した 可能性 もあった。

ロ ー マ の マ ラ リ ア は 、こ こ を 参 考 の こ と

  ソテロ が ジ ェ ノ バ から ス ペ イ ン 国王 に 送 った 書簡 が、カ ス テ ィ ー リ ャ 西北部 にある シ マ ン カ ス の 王室 古文書館 に 残 って いる。1616 年 2 月 8 日 付 ( 支 倉 の 発 病 五 日 目 )。

日本 の 大使 、間 歇 熱 ( か ん け つ ね つ、三日熱 マ ラ リ ア ) に 罹 り、若 ( も )し このまま 滞在長引 くにおいては、費用 にも 窮 し 、旅行 を 継続 する 能 ( あ た ) はざる 恐 れあ り。

故 にやむをえず 之 を 陛下 に 報 じ、当地駐在 の 大使 あるいは 然 るべき 人 に 命 じ、治療 ならびに ス ペ イ ン へ の 旅行 に 必要 なる 補助 を 与 え 給 はんことを 請願 す。

若 し こ の 補助 な く ん ば、た だ 死 を 待 つ の み 。( 以 下 省 略 )
支倉 の 病気 は 二週間 で 治 り、ジ ェ ノ バ に 四十 日 も 長逗留 して、三月十日 に スペイン の 首都 マ ド リー ド に 向 けて 船 で 地中海 を 移動 した。 シ マ ン カ ス 古文書館 の 記録 には、 ス ペ イ ン 国王 に 対 する ソ テ ロ の 感謝 の 書簡 が 無 いので、あるいは 補助金 は 届 かなかったのかも しれな い。


[ 1 1 : 使 節 団 に 対 す る、 国 外 退 去 命 令 ]

支倉使節団 一 行 は、1616 年 4 月 17 日 に ス ペ イ ン の 首都 マ ド リー ド に 到着 した。しか し この 頃 には 日本在住 の イ エ ズ ス 会 の 宣教師 から 、日本国内 での 本格的 な 切支丹 弾圧 の 様子 が、ル ソ ン ( フ ィ リ ピ ン ) 経由 で 広 く 知 られるようになってお り、スペ イ ン 政府 関係者 の 使節 一行 に 対 する 態度 は 、以前 にも 増 して 冷 淡 になって いた。

そ して 6 月 に セ ビ リ ア を 出港 する 艦隊 の 「 サン ・ ファン ・ バ ウ チ ス タ 号 」 に 乗船 し、メキシコ 経由 で 帰国するように 支倉使節団 に 命 じた。つまり、 強 制 国 外 退 去 命 令 であった。

ところが 支倉 に してみれば 、フ ェ リ ペ 三 世 から 通商 に 関 する 何 の 文 書 回 答 も 受 け 取 れずに 帰国 したのでは 、主君 に 顔 向 けができないと 判 断 し、帰国命令 を 拒否 し 、一 行 2 1 名 中 随員 1 5 名 のみを ホ ア ン ・ デ ・ ラ ・ ク ル ス 神父 の 引率 で 先 に 帰国 させることに した。自分 は 随員 5 名 と ソ テ ロ と 共 に、自分 の 病気 と ソ テ ロ の 足 の 骨折 を 理由 に して、セ ビ リ ア から 1 7 キロ 離 れた フランシスコ 会 の ロ レ ト 修道院 に 居座 ることに した。

慶長遣欧

支倉常長 と ソ テ ロ は 1 年間 頑張 って スペイン 政府 と 交渉 したものの、やはり 駄目 なことを 悟 った。そこで 1 年 1 ヶ 月 後 の 1617 年 7 月 4 日 、支倉 と ソ テ ロ は セ ビ リ ア を 船で 立 ち 帰国 の 途 につ いた。彼らは 1617 年 9 月 中頃 に メキシコ 市 に 到着 した。

ここからは 陸路 メキシコ の 太平洋岸 にある アカプルコ に 移動 し 、翌年 まで 船便 待 ちを して 1618 年 4 月 2 日、「 サ ン ・ フ ァ ン ・ バ ウ チ ス タ 号 」 に 乗船 し た。

太平洋環流

船 は 北 赤 道 海 流 ( 亜熱帯高圧帯 から 赤道低圧帯 へ 向 けて 恒常的 に 吹 き 、北半球 では 北東 からの 貿易風 、t r a d e - w i n d とな り、これによって 生 じる 吹 送 流 ) に 乗 り 太平洋 を 横断 し 、元和 4 年 ( 1618 年 ) 6 月 下旬 に フィ リ ピ ン の マ ニ ラ 港 に 到着 した。


( 11-1、キ リ シ タ ン に 対 する 迫 害 )

当時 の 日本 では、 初代将軍 の 家康 の 時代 とは 異 な り 、第 二 代 将軍 となった 徳川秀忠 ( 在任、1605 ~ 1623 年 ) は 、 キ リ シ タ ン に 対 する 弾圧政策 を 行 って いた。

  • 直轄地 に 対 する 禁 教 令 の 布 告
    慶長 17 年 3 月 21 日 ( 1612 年 4 月 2 1 日 ) に、幕府 の 直轄地 ( 江戸 ・ 京都 ・ 伏見 ・ 奈良 ・ 長崎 ) に 対 して 教 会 の 破 壊 と 、布 教 の 禁 止 を 命 じた 禁 教 令 を 布 告 した。これは 江戸幕府 による 最初 の 公式 な キ リ ス ト 教 禁止 の 法令 であった。

  • バ テ レ ン 追放令 の 公 布
    1587 年 豊臣秀吉 による 発 令 に 次 いで、慶長18 年 2 月 19 日( 1613 年 1 月 2 8 日 ) に 、幕府は 直轄地 へ 出 していた 禁教令 を 全国 に 拡大 した。

    既 に 引退 した 家康 は、臨済宗 の 僧 以心 崇伝 ( い しん すうでん ) に 命 じて 伴 天 連 追 放 之 文 ( バ テ レ ン 追 放 令 ) を 起草 させ、秀忠 の 名 で公布 させた。以後、これが 幕府 の キ リ ス ト 教 に 対 する 基本法 となった。

  • 京 都 の 大 殉 教
    秀忠 は 元和 5 年 ( 1619 年 ) に 再度 禁教令 を 出 し 、逮捕 された キ リ シ タ ン の 処刑 ( 火 あぶ り ) を 命 じた。そ して 同年 10 月 6 日、京都 の 市中 引 き 回 し の 上 、 六条河原 で 52 名 が 処刑 された 。

    火刑

    この 中 には 11 人 の 子供 と 、妊婦 1 人 が 含 まれて いた。 絵図 は 橋本太兵衛 の 妻 ・ テ ク ラ ( 洗 礼 名 ) とその 子 どもたちである。 テ ク ラ は、5 人 の 子 どもと 共 に 焼 かれた。

    テクラ は 左 胸 に 3 歳 の 幼 い 女 の 子 を 抱 き、右下 には 1 2 歳 の 男 の 子 、左下 には 女 の 子 が 縛 られていたという。あとの 2 人 の 子 どもは、それぞれ 別 の 火 刑 柱 に 縛 られていたとされる。


[ 1 2 : 日 本 へ 、そ し て 仙 台 へ ]

支倉 は マ ニ ラ に 到着 すると、 直 ぐ に 息子 の 勘三郎 に 手紙 を 書 いた。( 現代文 に 変更 )

我 々 は 3 月 に メ キ シ コ を 出発 し、6 月 2 0 日 に 無事 に ル ソ ン に 着 いたので 安心 して く れ。今年 は 帰 れな いが、来年 の 6 月 には 必 ず 帰 り た い。お 婆 さまや 母上 を く れ ぐ れも 大事 に して、奉公 し てやって く れ、再々見舞 っ て やって ほ し い。急 ぎの 手紙 なので、これ 以上 書 けな いので よろ し く 。

結局 支倉常長 ら 遣欧使節 一 行 は 、マ ニ ラ の 修道院 に 1 年半 滞在 したが 、その 正確 な 理由 は 不明 である。一 説 によれば、伊達政宗 の サ バ イ バ ル ( S u r v i v a l 、生 残 り ) 戦略 の 一 端 であ り、支倉常長 ら 使節団 が 海外 に いることで 、いつか ス ペ イ ン 艦隊 を 引 き 連 れて 日本 に 上陸 するのではないかと、幕府 に 圧力 を 掛 け 続 けることができた と い う 説 が あ る 。

元和 6 年 ( 1620 年 ) 8 月 2 6 日 、マ ニ ラ に 残留 する ソ テ ロ ( 彼 の 行動 については 、前述 し た [ 2-1、家康の意図 ] を 参照 のこと )と 別 れ、支倉 率 いる 遣欧使節 一行 は マ ニ ラ を 出発 し、同年 9 月 に 長崎港 に 戻 った。

その 後 元和 6 年 8 月 2 6 日 ( 1620 年 9 月 2 2 日 ) に 仙台 に 帰着 し、伊達政宗 から 幕府 に 対 して 入国許可 が 斡旋 されて いた。なお 同年 9 月 2 3 日 ( 10 月 1 8 日 ) に 、伊達政宗 から 老中 の 土井利勝 に 送 った 書簡 によれば 、

公方様 ( 徳川家康 )よ り 南蛮 へ 、御音物 ( ご い ん も つ 、贈 り 物 ) と して 御具足 、御屏風 など 遣 わされ 候 。

と 記 し、使節 は 徳川幕府 が 派遣 したものであ り、仙台藩 には 何 のかかわ りがないものであったと 述 べた。つまりこの 使節 はすべて 幕府 の 指示 と了解 のもので 派遣 されたものであ り、伊達政宗 はただ 仲介 の 労 をとったに 過 ぎないと 主張 し 、 問題 をうやむやにした 政治決着 と いうことになった。


[ 1 3 : 最 後 に ]

帰国後 の 支倉常長 は、主君 伊達政宗 に 迷惑 を 掛 けぬように 、蟄 居 ( ちっきょ 、自宅 の 一室 で 謹慎 すること ) 同然 の 生活 を 送 っていたが、約 二 年後 の 元和 8 年 7 月 1 日 ( 1622 年 8 月 7 日 ) に 5 2 歳 で 病死 した。なお 彼 の 死 から 18 年後 に 、息子 の 支倉常頼 は 、キ リ シ タ ン 禁制 を 破 った 罪 で 逮捕され 、領地没収 の 上 切腹 を 命 じられ 、寛永 17 年 ( 1640 年 ) 4 2 歳 で 死亡 した。

この 遣欧使節 は 、支倉 の 努力 にも 関 わらず 、ス ペ イ ン 政府 との 外交交渉 において、 何 の 収穫 も 得 られなかった 。ス ペ イ ン 政府当局 からすれば 、メ キ シ コ と 仙台藩 との 通商開始 は 、フ ィ リ ピ ン 貿易 の 妨 げとな り、また 日本 の 皇帝 ( 徳川幕府 の 将軍 ) が 、もはや キ リ ス ト 教 の 布教 を 許可 する 余地 の 無 いことが 明確 になった。

そのために 政宗 の 提 案 は すべて 拒 否 され 、その 野 望 はことごとく 砕 かれて しまった。この 結果 を もたらした 最大 の 原 因 は 、外交文書 の 作 成 から 外 交 交 渉 に 至 るまで 、すべてを フ ラ ン シ ス コ 会 神父 の ソ テ ロ に 任 せて いた 、当時 の 伊 達 政 宗 の 他 力 本 願 の 外 交 姿 勢 にあった。

政宗 は、たった 一 人 の 外国人 宣教師 ソ テ ロ に 全 てを 託 して、メ キ シ コ との 貿 易 で 、一 攫 千 金 ( いっか く せ ん き ん ) を 夢 見 たのであった。支倉使節 の 一 行 も、自 ら ス ペ イ ン 語 ・ イ タ リ ア 語 を 習得 して 外 交 手 腕 を 発 揮 しよう とする 意欲 を 持 たず 、他 国 人 の 書 いた 外 交 文 書 に 内 容 を 確 認 する 事 も 無 く 署 名 し 、ソ テ ロ に 言 われるが ま ま に 行 動 したのであった。

ソ テ ロ 自身 も あ わよ く ば、東日本 を 管 轄 する 司 祭 に 任 命 される と いう 宗 教 上 の 欲 望 を 抱 いて いた の に 違 いな い 。端的 に 言 えば 聖職者 が 善 人 ばか り と は 限 らず、痴 漢 も いれば 悪 人 も い た。

慶 長 ・ 遣 欧 使 派 遣 の 出 来 事 は 、野 心 家 の ソ テ ロ の 口 車 ( く ち ぐ る ま ) に 政 宗 が うま く 乗 せ ら れ た 結 果 、と いう べ き で あった。( 終 わ り )


カ ト リ ッ ク 教 会 の 性 的 虐 待 事 件


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