竹島について

[ 1 : 日本の領土に関する アンケート調査結果 ]

平成 23 年 7 月、日本青年会議所 ( 日本 J C ) が全国の高校生 400 人を対象に アンケート調査を行いましたが、調査内容は日本 J C が用意した 「 日本列島と周囲の島々の地図上に我が国の国境線を記入する 」、というものでした。その結果、 北方領土四島、竹島、尖閣諸島 をすべて日本の領土とする正解をした高校生は、 400 人中 わずか 7 人で 正答率は 1.75 パ−セントでした

これは学校教育の現場において、これまで 日本国の領土に関する教育 がおこなわれてこなかったことを、如実に表わしていました。

( 1−1、竹島 ( 独島 ) に対する政府の対応の違い )

竹島空撮

今回は韓国との間で領有権の帰属をめぐり争っている 竹島 ( 韓国では独島、ドクト と呼ぶ ) について述べることにしますが、日本がその 悪癖である 「 事なかれ主義 」 を長年とり続けた結果、つい最近まで韓国を刺激するとして、教科書に竹島のことを載せませんでした。

これに対して韓国では、彼らの気質である利益を得るためには、 声を張り上げ自国の主張を正当化しようとするだけでなく 、国際的にもあらゆる機会を捉えて独島 ( 竹島 ) の領有権についての宣伝に努めてきました。

( 1−2、子供への刷り込み )

教育現場では 1980 年代に作られた 「 独島は我が領土 } の歌まで歌わせて、 子供たちに独島 ( 竹島 ) が韓国領であることを動物行動学でいう 刷り込み、( すりこみ、Imprinting )  をしていました。下記の ユーチューブ をご覧下さい。

独島はわが領土

参考までに 「 独島はわが領土 」 の 一番の歌詞は、

鬱陵島 ( うつりょうとう ) 東南、船で 200 海里 / 寂しい島ひとつ、鳥のふるさと / 誰が何といおうが 独島は我らの地 / 慶尚北道・鬱陵郡・南面島・洞 1 番地 / 東経 132、北緯 37 / 平均気温 12 度、降水量 1300 / 独島はわれらの地、我らの地 / イカ、イイダコ、タラ、メンタイ、カメ、サケの子、水鳥の卵、海女の小屋 / 17 万平方メートル、井戸ひとつに噴火口 / 独島はわれらの地 /
かる鴨の列

刷り込み ( Imprinting ) とは生まれたばかりの カルガモの子が 12 時間以内に身近にある動くもの ( 動くものなら玩具でもよい ) を親と思いこみ、その後をついて移動するように、 動物が幼い時期に 、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象の一種で、 刻印づけ ( こくいんづけ ) ともいいます。

韓国の教育現場と冒頭に挙げた日本の国境の正答率 1.75 パ−セント と比較すると、日本人がいわゆる 平和 憲法のもとで、「 日本が平和を願ってさえいれば平和に暮らせる 」 などとする、占領軍が作り教えた 9 条 信仰 を、左翼主義者の宣伝により国民が信じ込んだ結果でした。

日本の常識は世界の 非常識 世界の常識 は日本の 非常識

といわれますが、日本の子供たちがこれまで自国領土の範囲さえも学校で教わらず、従って知らないという、如何に異常な国であるかを つくづく考えさせられます。ちなみに韓国では天気予報に必ず独島 ( 竹島 ) が入りますが、日本でも 竹島を初め 北方四島 ・ 尖閣諸島の毎日の天気予報を NHK が放送することにより、国民の領土に対する関心を高めることができると思います。


国旗も燃やす

右の写真は 2011 年 8 月に鬱陵島 ( うつりょうとう ) にある独島 ( 竹島 ) 博物館を見学の目的で、自民党の国会議員たちが韓国に入国しようとしたところ、それに反対して日の丸を燃やして気勢を上げる 民度 ( みんど、生活程度や文化水準 ) の低い愚かな連中ですが、こういう光景は 先進国 では決して見られません

現に韓国が実効支配している竹島 ( 独島 ) について、 島を盗み取られた日本側ではなく 盗み取った韓国の側が ことある毎になぜ大騒ぎする のか私には理解できませんが、自分たちの主張の 根拠に自信がなく、不安だから だと思います。

竹島の大砲

竹島の現状については韓国が島の頂上に大砲を装備し、30 人前後の武装警察官 ( ? ) を常駐させ、さらに実効支配の実績作りに役立てようと民間人の 1 家族を居住させています。

海岸には船舶の接岸施設や山頂付近の居住施設に荷揚げする ロープウエイや ヘリポートを設備しています。

竹島山頂

右は竹島山頂における警備の様子ですが、韓国は武装警官などと 例のごとく 偽っている ものの 、ライフル銃を持つ者は上から下まで ( 鉄兜から編み上げ靴まで ) 陸軍の兵士と同じ服装をしていて、 つまり国境を警備する陸軍の兵士たちなのです。 ここで皆さんに質問です。竹島は何県に属するのか、お答え下さい。

  1. : 福井県

  2. : 鳥取県

  3. : 島根県

  4. : 長崎県

正解は次の 2−1 項の最後尾 にあります。


[ 2 : ねつ造した歴史を教える、韓国の国定歴史教科書 ]

竹島の問題について、韓国の歴史 ( 国史 ) 教科書ではどのように教えているのかご存じですか?。 彼らの得意技 ( とくいわざ ) ・ 国民性である、 歴史的事実の歪曲 ( わいきょく ) と ねつ造 に満ちていました。下記において 太字の文章 は教科書の記述 、( ) の中の文言と 注 : は、管理人が記入したものです。

( 2−1、国定、韓国中学校歴史教科書 )

独島 ( 竹島のこと ) は鬱陵島 ( うつりょうとう ) に 付属する島で、 早くから 、我が国の領土として連綿として伝えられてきた。

朝鮮初期に流民を防ぐため、鬱陵島 ( うつりょうとう ) に住む人々を本土に移住させ、一時的に政府の管理が なおざりになったことがあったが ( 空島政策、注 : 参照 ) 、 我が国の漁民たちが漁をする拠点として引き続き活用してきた。

( 注 : 空島政策 )

高麗 ( こうらい ) 時代末期の 13 〜 14 世紀に倭冦 ( わこう、日本の海賊 ) が朝鮮半島の沿岸部を襲ったが、その当時倭寇 を装 ( よそお ) った朝鮮人 ( 仮倭、かりわ という ) も、朝鮮の各地を荒らしまわった。

鬱陵島( うつりょうとう ) 民も例外ではなく、歴史書である 「 太宗実録 」 の太宗 16 年 ( 1416 年 ) 9 月の条に、

ある時、倭 ( わ、日本人 ) を仮 ( か )りて ( 日本人のふりをして )、寇 ( あだ 、悪事 ) を為す。

と記されているように、鬱陵島 ( うつりょうとう ) の住民が倭寇を装い対岸の江原道、慶尚道を襲ったので、李氏朝鮮 ( りしちょうせん ) の太宗が翌年 1417 年に 、鬱陵島への渡海を全面的に禁止すると共に、島内の居住者全員に本土への移住を命じる 空島政策 をとるに至った。

その結果、鬱陵島 ( うつりょうとう ) は、それ以後 1887 年の空島政策の中止まで 465 年間にわたって 、公式には無人島となった 。

このことは、後述する江戸時代に違法に鬱陵島 ( うつりょうとう )に渡海して漁業をおこない、そこから日本漁民により鳥取に 連行された 、釜山出身の漁民、 安龍福 ( あん  りゅうふく ) の件に関係があるので、記憶しておいて下さい。

朝鮮の粛宗 ( しゅくそう、李氏朝鮮の第 19 代王、1661〜1720 年 ) のときには、東莱 ( とうらい ) に住む漁民の 安龍福 ( あん りゅうふく ) が、ここ ( 鬱陵島 ) に往来する日本漁夫を 追い払い 、日本に渡って独島 ( 竹島 ) が我が国の領土であることを確認させたこともあった。

その後も日本の漁民たちがしばしば鬱陵島付近に不法に接近して魚を捕ることがあったが、政府はここにわが国の人々の移住を奨励し、官庁を設置して同等まで管理するようにした。しかし日本は日露戦争中に独島 ( 竹島 )を強制的に彼らの領土に編入してしまった

前掲した [ 1 ] の質問の正解は 島根県 に属し 、行政区画は 隠岐 ( おき ) 郡 ・ 隠岐の島町 ・ 竹島 官有無番地です。



( 2−2、国定、韓国高等学校歴史教科書 )

一方、東海 ( 日本海 ) 沖の鬱陵島と独島 ( 竹島 ) は、 三国時代 ( 朝鮮半島の 三国時代とは、日本の歴史区分では 4 世紀〜 7 世紀のことで、神話と歴史を混同する韓国では、紀元前 1 世紀〜7 世紀のこと ) 以来わが国 ( 韓国 ) の領土であった。

しかし、日本の漁民がしばしばここを侵犯したので、粛宗の代に、東莱 ( とうらい ) の漁民 安龍福 ( あん りゅうふく ) が日本人漁民を鬱陵島から 追い出し 、日本に行って、鬱陵島が朝鮮の領土であることを確認させたこともあった。

その後、政府では鬱陵島開拓のために住民の移住を奨励し、鬱陵島を郡に昇格させ、 独島 ( 竹島 ) まで管轄させた

と記されています。なお上記の赤字の部分 「 独島 ( 竹島 ) まで管理させた 」  については、2003 年までの教科書には記載されていませんでしたが、韓国政府による 竹島領有に関する 虚偽主張 の拡大 でした。


[ 3 : 日本側の主張 ]

( 3−1、竹島は鬱陵島に付属する島、に対する反論 )

鬱陵島

右が鬱陵島 ( うつりょうとう ) の拡大図です。これを見ると東側に 竹島 ( 別名を 竹嶼、ちく しょ ) という小島がありますが、これが鬱陵島に付属する島というのであれば、教科書の記述に納得できます。

竹島

ところが現在日本と韓国との間で領有権が問題となっている竹島 ( 韓国でいう独島 ) は、鬱陵島から 南東に 92 キロメートルも離れた 日本海にある島であるにもかかわらず、鬱陵島に 付属する島である などと、 牽強付会 ( けんきょうふかい、道理に合わないことを、自分に都合のよいように無理に こじつけること ) をしているのです。

日本側からすれば竹島 ( 独島 ) は日本列島の大陸棚 ( 隠岐海嶺、おきかいれい ) の延長線上にあり、日本海における海底火山活動によりできた火山島です。

大陸棚

その一方で鬱陵島 ( うつりょうとう ) は朝鮮半島の大陸棚の延長線の近くにあり、しかも竹島 ( 独島 ) と鬱陵島 ( うつりょうとう ) との間には 水深 2,000 メートル 以上 の深い海溝 ( かいこう ) があり、 地質学的にみても 竹島 ( 独島 ) は鬱陵島に付属する島などとは、いかなる観点からもいうことはできません。


( 3−2、鬱陵島 から竹島が見えるので、付属する島 )

韓国の金柄列と日本人の内藤正中の二人の学者が共著した、 「 史的検証独島 ・ 竹島 」 や 「 竹島 = 独島問題入門 」 の中で、1950 年代の日本の外務官僚だった川上健三が 、「 鬱陵島 ( うつりょうとう ) からは竹島 ( 独島 ) が見えない。 そのために鬱陵島から竹島に行くことは難しかった 」、と書いたことに反論して、 鬱稜島 から竹島が見える 「 百聞は 一見に如 ( し ) かず 」 である、鬱陵島に見に来い。

「 日本国民が恥をかくことは避けたいと願う 」 などと主張していました。

しかしながら、彼が書いた本に掲載された写真の説明をよくみると、焦点距離 400 ミリ の望遠 レンズで撮影されたものであり、 肉眼で見えた ものではありませんでした。現在鬱陵島の山頂付近の標高 280 メートルの所に設けられた展望台には望遠鏡が設置され、運が良ければ年に数日ほど竹島 ( 独島 ) が 見える時もあるので 、竹島が鬱陵島に付属する島であると、韓国に都合の良い屁理屈 ( へりくつ ) を付けているのです。


[ 3−3、論より証拠、韓国の中央日報の記事 ]

望遠レンズの竹島

韓国の中央日報の 2008 年 7 月 21 日付の 記事によれば、

独島 ( 竹島 ) 研究者たちは、こうした論争 [ 鬱陵島 ( うつりょうとう ) から 独島 ( 竹島 ) が見えるかどうか ? ] に終止符を打とうと、ずいぶん前から鬱陵島で独島写真撮影を試みてきた。しかし、独島と鬱陵島の間には常に海霧がかかり、 成功 した事例がほとんどなかった

チェ 院長は 「 専門 カメラマンが昨年 4 回にわたり 数十日ずつ現地に泊まって撮影を試みたが、独島が姿を現わす日が 1 年に数日も なく、それさえもちょっと見えては消えてしまうことが多く、撮影に成功したのは 3 日しかなかった 」 と話した。

鬱稜島から 92 キロメートル 離れた竹島が見える証拠として、提示された写真及び関連記事から要点をまとめると、以下のとおりになります。

  1. 竹島と鬱陵島の間には常に海霧が発生しており、韓国の研究者が古くから撮影を試みているが失敗している。

  2. 竹島が姿を見せるのは、年に数日である。

  3. 500 ミリ の望遠 レンズ を使用しても、撮影には 40 日を要する。

  4. それより焦点距離が短い ( つまり倍率が低い ) 400 ミリ 望遠 レンズ の使用では、半年で 3 日間しか撮影の チャンスがない。

という結果であり、韓国側の主張である、鬱陵島 ( うつりょうとう ) から独島 ( 竹島 ) が見えるので、独島 ( 竹島 ) の存在を昔から知っていたとする 「 独島は鬱陵島に付属する島 」 説を否定することになりました。 恥を掻くべきは日本国民ではなく、  韓国人や親韓国派の学者たち でした。


[ 3−4、于山島の位置まで 改ざんする 独島博物館 ]

教科書では 「 はやくから 」 、我が国の領土として連綿として伝えられてきた。と記されていますが、朝鮮側の文献に独島 ( 日本でいう竹島 ) という名前が最初に現れたのは、1906 年 ( 明治 39 年 ) のことでした。韓国は、「 我々の先祖は独島 ( 現 ・ 竹島 ) を于山島 ( うざんとう ) と呼んでいた 」 と主張しています。

朝鮮八道図

左の地図は韓国の古文書である 「 東国與地勝覧 」 に記載された官撰地図で 1530 年の刊行とされる 八道総図 ですが、ここにはその于山島が描かれていて、これを根拠にして 「 我々は日本より先に独島の存在を認識していた 」 と主張しています。

しかし、この地図では于山島 ( うざんとう、韓国が主張する竹島のこと ) が鬱陵島 ( うつりょうとう ) の 西側にあり 、竹島 ( 独島 ) と鬱陵島の正しい位置関係である 南東側 とは正反対の位置に描かれています。

ところが、鬱陵島 ( うつりょうとう ) には サムスン ( Samsung ) 文化財団の資金提供により、1995 年に開設した 独島博物館 がありますが、そこには独島 ( 竹島 ) 関連の資料が展示されています。

ねつ造記事

そこにある 「 八道総図 」 を レリーフ にした壁画 パネルでは、この位置関係が 韓国の主張にとって有利になるように 、つまり于山島 ( うざんとう ) の位置を鬱陵島 ( うつりょうとう ) の 西側から、東側に置きかえているのです 。( 右の写真は産経新聞の記事 ) しかも日本側の指摘を受けても現在にいたるまで、ねつ造に基づく レリーフを博物館から撤去せずに 10年以上も 一般公開を続け、虚偽の主張の裏付けにしているのです。

対馬島碑

つまり韓国は自国の古文書にある地図でさえも改ざんし、 恥知らずな方法で 、自国の主張を国民に教え込んでいるのです。これが公的な機関である博物館としての態度でしょうか?。それだけではありません。日本の対馬は韓国の領土だという石碑も、独島博物館のそばに建ているのです。

碑文には 対馬島本是我国之地 ( その意味は、対馬島は元々我が国の地 ) とありますが、 ねつ造の上に ねつ造を重ねる 朝鮮人の民族性 はこれで十分理解できたと思いますが、ねつ造 ・ 歪曲はこれ外にもたくさんあります。

付け加えますと日本国が現在の竹島を日本に編入する 1905 年直前の 1903 年の時点においても、朝鮮側の官製地図や民間で描いた地図に、 独島 ( 現在の竹島 ) の記載がある地図は 1 枚も無かった のが現実です

朝鮮の地図や文献にもない島が 「 はやくから 」 、我が国の領土として連綿 ( れんめん、長く続いて絶えない ) として伝えられてきたとする教科書の記述は、 真っ赤な ウソ であることは言うまでもありません。


[ 4 : 日本人漁夫を鬱陵島から追い払ったとする作り話 ]

韓国の歴史教科書によれば鬱陵島から 日本人を追い払った とされ、日本側の数多くの記録では 1693 年に 鬱陵島から 日本に連行された  安龍福 ( あん りゅうふく、1657年 ? 〜 没年不明 ) について、その経緯 ・ 人物について説明します。

( 4−1、因府年表 )

寛永 7 年 ( 1630 年 ) から延享 4 年 ( 1747 年 ) までの鳥取藩の歴史を、藩士の岡嶋正義が編年体で表した 因府年表 [ いんぷ ねんぴょう、因 とは 因幡国 ( いなばのくに ) の意味 ] の元禄 6 年 ( 1693 年 ) 6 月 4 日の記事によれば、

米子詰 ( よなご つめ、米子に勤務 ) の加藤郷右衛門と尾関忠兵衛が、朝鮮人 アンピンシヤ [ 東莱 ( とうらい、釜山 ) の人、年 42 才、和語 ( 日本語 ) 通詞である ] と、もう一人は トラヘ [ 蔚山の人、年 34 歳、二人は最初から最後まで 筆と硯 ( すずり ) をとらなかったので 文盲 ( もんもう、無学で読み書き不能 ) に違いないとされ、名前の文字は伝わっていないという ]、 この両名を連れて鳥府 ( 鳥取城下 ) へ来た 

推察するに、この度、朝鮮人を連れて来た理由は、近年、彼の国 ( 朝鮮 ) の漁船団が、大谷 ・ 村川の船が竹島 ( 鬱陵島 ) に到着する以前に渡海して、此の方 ( 大谷 ・ 村川 ) の漁業を妨げるため、両家の者は大いに迷惑した。

前にもこれを呵禁 ( かきん、叱り禁止 ) したけれども、まったく許諾する様子はなく、以後はかえって多くの船を渡し、いよいよ狼藉 ( ろうぜき、乱暴なふるまい )の挙動が伺 ( うかが ) えるようになったので、最早、方法は無く、 強いて彼らを連れ帰り 、ことの次第を詳しく申し上げて、幕府の裁定を受けるためと聞いている。

と記されていましたが、ここでは彼ら ( 日本人 ) に竹島 ( 鬱陵島 ) の漁業権があり、日本の領土であるという認識があったからこそ、幕府の裁定を受けようとしたのでした。

因府年表の編者が記した 「 竹島考 ・ 下 」 には、安龍福の身分を示す腰牌 ( ようはい、認識票 ) の内容を書き取ったものがありますが、腰牌は軍の兵士が所持したもので、出身は東莱 ( とうらい、釜山 ) 、身分は 私奴 ( しぬ、最下層の賤民 )  とあり、連行された彼らが 朝鮮文字や漢字にも文盲 ( もんもう ) だったのは当然のことでした。

その彼が対馬経由で朝鮮に送還されると、母国での取り調べの際に  [ 2−1 ] の注、[ 空島政策 ] で述べた鬱陵島 ( うつりょうとう ) に対する渡海禁止令違反の 罪を軽くするために、虚偽の申し立て( 作り話 ) をした ことは十分想像できます。

なおこの件に関しては徳川幕府から渡海許可を受け、 70 年以上も平穏無事に鬱陵島の産物 ( アワビや ワカメなど ) を収穫していた、米子の町人大谷家の大谷九右衛門 ( おおや きゅうえもん ) が著した 竹嶋渡海由来記抜書控 ( たけしまとかい ゆらいき ぬきがき ひかえ ) にも、これを裏付ける内容が記載されていますが長くなるので省略します。

[ 4−2、粛宗実禄 に記載の作り話 ]

ここで明確にしておきますが、現・竹島 ( 独島 ) が韓国領であるとする 唯一の根拠は 、犯罪者である安龍福が ウソ八百を述べた供述書 しか無いことです。

朝鮮に送還後の安龍福 ( あんりゅうふく ) の取調べにおける供述については 、李氏朝鮮 ( りしちょうせん ) の第 19 代粛宗 ( しゅくそう )の記録にありますが、その要点を箇条書きにして引用します。( ) 内は管理人が記入。

  1. ( 安龍福の乗った船が鬱陵島に近づくと ) 日本船がまた鬱陵島に来泊していたので船人は皆恐れた。彼 ( 安龍福 ) は先に 「 鬱陵島 ( うつりょうとう ) は本来我領域だ。倭人 ( わじん、日本人 )は何故敢えて越境侵犯するのだ。おまえら皆縛り上げるぞ。 」 と言って、進み寄り船頭を大喝 ( だいかつ、大声でしかる ) すると、倭人は 「 我らは本来松島 ( 現在の竹島 ) に住んでいる。

    偶然漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ。」 と言うので、「 松島はすなわち子山島 ( 安龍福だけが于山島 ( うざんとう )のことを子山島と呼んだ )で、これもまた我国の地だ。おまえらは何故敢えてそこに住むのだ。」と言った。

    安龍福は松島 ( 現在の竹島 )が人が住めるような島でないことを知らずに、口からでまかせを述べたのでした。さらに 鬱陵島だけでなく、竹島 ( 独島 ) も我が国 ( 朝鮮 ) の領土であることを日本の将軍に確認させた と述べましたが、その事実などまったくありませんでした。

  2. 鬱陵島で捕らえられて日本に連行された朝鮮人に、将軍どころか鳥取藩主が彼に鬱陵島と于山島 ( 現在の竹島と韓国が主張する ) が朝鮮に属することを認めた証拠の書類など渡すはずがなく、朝鮮に帰った彼はその書類の件を聞かれると、対馬の役人に没収されたと答えるなど、 大 ウソ を並べ立てました

  3. 2 回目 ( 1696 年 ) に今度は自ら隠岐の島経由で来日の際には朝鮮の役人のように装い、同伴した僧侶の雷憲が書いた ( 鬱陵島は朝鮮領であるとする ) 訴えの書状を日本側に手渡したとされます。

この件については1697 年 2 月 14 日に対馬藩が安龍福のことを朝鮮の東莱( とうらい ) 府使に質 ( ただ ) しましたが、

昨秋、貴国の者( 安龍福 ) が書類を呈 ( てい、差し出す ) したことがあるが、あれは朝鮮朝廷の命令によるのか?。

という問いに対して、朝鮮の公式回答は、

至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知

[ その意味 ]
「 漂風 ( ひょうふう ) の愚民 ( ぐみん ) に至りては、設 ( しつら ) い作為 ( さくな ) する所あるも ( 各地をさすらう愚かな浦民 ( 漁民 ) が勝手に作り事などすることがあったとしても )、朝家 ( 朝鮮国 ) の知る所に非 ( あら ) ず、

と答え、さらに 弁 ( べん ) ずること ( 説明すること ) があれば朝廷の訳官 ( 通訳 ) を江戸に送る。

と口答で回答をおこなった。また 1697 年 3 月には 、

若其呈書誠有妄作之罪

[ その意味 ]
その呈書 ( ていしょ、書類提出 ) 、まことに妄作 ( もうさく、 公文書偽造行使 ) の罪あり。

として 安龍福を 流罪 ( るざい ) に処した事 を文書にて日本に通知してきました


( 4−3、竹島一件 )

竹島一件 ( たけしま いっけん ) とは、元禄 5 年 ( 1692 年 ) から元禄 9 年 ( 1696 年 ) まで、日本と朝鮮との間で争われた鬱陵島の領有問題のことですが、当初は朝鮮の [ 空島政策 ] により無人島であったが故に 1618〜1696 年まで徳川幕府は日本領としましたが、前述の大谷 ・ 村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから問題になり、交渉の結果、 徳川幕府が朝鮮国の鬱陵島へ領有権を 潔く認め 、日本人の渡航を禁止する事により決着しました。

ここで注意すべきことは、朝鮮と領有権について問題となったのは鬱陵島 ( うつりょうとう ) についてだけであり、 現 ・ 竹島 ( 独島 ) に関しては李氏朝鮮 (1392〜1910 年 ) との間で問題となったことは、歴史上 ただの 一度も ありませんでした 。領有権争いの発端は、後の 1952 年に大統領の李承晩 ( りしょうばん ) が竹島 ( 独島 ) を一方的に自国領に囲い込む、 李承晩 ライン ( 後述 ) を設定してからでした。


[ 5 : 近代的歴史学が存在しない韓国と、安龍福 ]

安龍福像

前述の如く韓国では自国の歴史書に記されている安龍福を 流罪にした事実さえも歪曲し 、違法渡海犯として取り調べをした際に安龍福が述べた 作り話 だけを根拠にして、 鬱陵島から 日本人を追い払い 、竹島 ( 独島 ) の領有権を日本に認めさせた英雄に仕立て上げて、教科書で教えていました

さらに 私奴 ( しぬ、最下層の賤民 ) の身分であった文盲 ( もんもう ) の彼を将軍に昇格させ、安龍福将軍祠堂 ( しどう、祀るお堂 ) や安龍福将軍の銅像まで建てているのです。銅像にある文字は 「 安龍福将軍像 」 と書かれています。

自国の歴史書に記されている事実を否定した内容を国定の歴史教科書で教える別の例に、中国の元 ( げん ) と共に 二度も  日本を侵略した元寇 ( げんこう ) がありますが、加害者である高麗 ( こうらい ) が、国定歴史教科書ではいつの間にか被害者の立場に変わって記されていました。

韓国は表面上は一応民主主義国のようではありますが、 今でも国が言論統制をしています 。歴史について公平な立場から、自国の学者が韓国に不利な意見を少しでも述べれば、マスコミがすぐに 親日派 とみなして騒ぎ立て 、そのために 一般大衆からは 反道徳性や許しがたい犯罪者 とみなされて袋叩きに遭い、社会的に抹殺されるという 言論の自由が無きに等しい 偏狭な民族主義国家なのです。

つまり韓国は建国から既に 60 年以上経つというのに 近代的学問としての歴史学  が今に至るまで  存在せず 、国の歴史が 政治目的や反日 イデオロギーの道具 としての存在価値しか持たない点で、哀れなことに金正恩 ( キム ・ ジョンウン ) 大将の独裁国 ( 北朝鮮 ) と同じ レベルなのです。

( 5−1、歴史は道具 )

アメリカの歴史学者で、マサチューセッツ工科大学 ( M I T ) 教授、ジョン ・ ダワーに依れば、

注意すべきことは 歴史とは何か よりも、人々が歴史をどう 政治的に 使うかである。

と述べていましたが、中国の明朝 ( みんちょう )、清朝 ( しんちょう ) の下で 400 年以上属国としての地位に甘んじ、その後 36 年間の日本の支配により初めて国土や京城 ( 現 ・ ソウル ) 帝国大学を初めとする教育の近代化かおこなわれました。

日本からの独立も、みずからの努力によって達成したのではなく、 棚から ボタ餅 式に与えられた韓国 にとっては、 国民が誇るべき過去の歴史が存在せず 、したがって愛国主義教育や国家観を涵養 ( かんよう、教え養い育てること ) するためには、歴史のねつ造 ・ 歪曲 ( わいきょく ) など至極 当たり前のことでなのです。

そのために韓国では歴史といえば国家の政治目的に合致 ( がっち ) し、体制に迎合するための産物に過ぎず、本当の歴史学 や、それを重んじる歴史家が 育つ土壌風土 すら、気の毒なことに存在しないのです 。

ちなみに別の歴史書では、我が国 ( 朝鮮 ) が日本に仏教を 教えてあげた 、文字を 教えてあげた などと、 教えてあげた の羅列 ( られつ、ずらりと並べること ) が記されていましたが、1965 年以降、日本からあれほど受けた 資金援助 ・ 技術協力 については 外国から とするだけで、 日本の国名 などは絶対に記しませんでした。日本に対する劣等感を克服し、優越感を造成する意図からでした。

日本から見れば仏教の教えや教典、漢字などは 朝鮮を起源とするものはひとつもなく 、単に朝鮮を 経由した のに過ぎず、遣隋使 ( けんずいし、600 年を含めて前後 3 回程度派遣 ) や 、遣唐使 ( 630〜897 年まで 16 回派遣 ) の制度ができてから文物 ( ぶんぶつ、学問、芸術、宗教など文化に関する物事 ) は、中国から直輸入するようになりました。


( 5−2、日韓の歴史教科書の違い )

日本と韓国の歴史教科書の記述について研究した、スタンフォード大学 アジア太平洋研究 センター副所長の スナイダー( Sneider ) によれば、

今回比較した中では日本の教科書が 最も愛国的記述がなく 、戦争の賛美などは全くしていない 。日本の中国進出についてのくだりは全く事実をそのまま伝えており、当時の軍と政府の リーダーたちの責任だとしている 。 非常に平板な スタイルでの事実の羅列であり、感情的なものがない

これに対して韓国の教科書は特に ナショナル ・ アイデンティティー ( National Identity 、国民としての主体性、自己認識 ) の 意識の形成に強く焦点を当てている 。自分たち韓国人に起こったことを、詳細かつ念入りに記述している。韓国の教科書は、中国で起きた戦争に関する記述が希薄だ 。韓国は日本の中国に対する行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある 。

私が驚愕 ( きょうがく、非常に驚くこと ) した 一つの例は、主要な韓国の教科書には 広島 ・ 長崎の原爆投下の記述がないことだ 。それほどまでに 彼らは 自己中心的 にしか歴史を見ていない

と述べましたが、歴史に限らず韓国人 ( 朝鮮民族 ) は全ての面で、 「 ジコチュー 」 ( 自己中心的 ) であり、日本人にとっては付き合いにくい 異質な民族 であることは間違いありません。



[ 6 : 明治新政府の対応 ]

( 6−1、佐田白茅の報告書 )

明治時代初期の外交官で、朝鮮との国交交渉に関与した佐田白茅 ( さだ はくぼう ) が朝鮮の視察から戻った明治 3 年 ( 1870 年 ) に、「 竹島松島朝鮮付属に相成候始末 」 と題する下記の報告をおこないました。

此儀ハ、松島 ハ竹島 ( 鬱陵島 ) ノ隣島ニテ松島ノ儀ニ付、 是迄掲載セシ書留モ無之 。竹島 ( 鬱陵島 ) ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ しばらく ノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候−−−。

この報告書を読む限り竹島 ( 鬱陵島 ) と松島 ( 現在の竹島の古名 ) が、朝鮮の付属になったとしていますが、松島については 「 是迄掲載セシ書留モ無之 」 つまりこれまで書かれた書類が無いとするだけで、朝鮮に付属するという 根拠が示されていませんでした

( 6−2、日本側の古文書の存在 )

それまで日本と朝鮮との間では前述した 竹島 一件 で モメ たのは竹島 ( 鬱陵島 ) に関してだけであり、現在の竹島 ( 古名の松島 ) について問題になったことは 一度もありませんでした。

さらに松島に関して書類が無いどころか、日本には数百年も間から竹島 ( 古名の松島 ) を記載した古文書がいくつも存在します。出雲藩の斎藤豊仙が 1667 年に刊行した隠州 ( 隠岐島 ) 視聴合記には、

二日一夜を行く、松島 ( 現在の竹島 ) あり、また 一日ほど竹島 ( 現 ・鬱陵島 ) あり、俗に磯竹島という、竹 ・ 魚 ・ アシカ多し、この二島無人の地なり。

と記されていました。さらに松平伯耆守が 1696 年に記した磯竹島 ( 鬱陵島のこと ) 覚書によれば、

( 隠岐島の ) 福浦より松島 ( 現 ・ 竹島 ) まで 八拾里ほど−−−、松島より竹島 ( 現 ・ 鬱陵島 ) へ四拾里ほど、

とありました。宝暦年間 ( 1751〜1763 年 ) に刊行された 「 竹島図説 」 では 「 隠岐国松島 」 や 「 隠岐の松島 」 と記され、享和年間 ( 1801〜1803 年 ) に出された矢田高当の 「 長生竹島記 」 の中で、松島は本朝西海のはて ( 果て ) 也と記すなど、松島 ( 現 ・ 竹島 ) を日本領とする史料はいくつもあったのを、佐田白茅が知らなかっただけでした。

( 6−3、竹島の領土編入 )

明治 37 年 ( 1904 年 ) に島根県民の中井養三郎が 「 リャンコ岩 ( リアンクール岩礁、現 ・ 竹島のこと ) 領土編入並に貸下願 」 を政府に提出したので、日本政府は竹島が国際法上の 無主の島 であることを確認のうえ、1905 年 1 月 28 日に日本領とすることを閣議決定しました。

( 6−4、太政官布告 )

明治 9 年 ( 1876 年 ) に内務省地理寮が地積編纂のため、島根県に対して竹島 ( 鬱陵島 ) について照会したところ、島根県は 「 日本海内竹島外 一島地積編纂方伺 」 ( ちせきへんさんかた うかがい ) を内務省に提出し、竹島 ( 鬱陵島 ) と 外( ほか ) 一島は朝鮮領であるとの認識を示しましたが、これに基づき太政官 ( だじょうかん ) は、

本邦関係コレ無き義 ( ぎ ) ト相心得 ( あいこころえ ) ベキ事

つまり我が国は 「 竹島 ( 鬱陵島 ) と外 一島 」 とは関係がない、すなわち日本領ではないので、そのように心得よ。

という結論が下されました。

[ 7 : 実在しない島 ]

竹島外一島

しかし問題は 外 ( ほか ) 一島 が、どこの島のことか明示していないことで、左図は イギリスの測量地図を基にして1857年に ロシアが実測した地図を日本の海軍省水路局が翻訳編集して、明治 9 年 ( 1876 年 ) に作成した 朝鮮東海岸図 ですが、「 図 」 の左側には朝鮮半島の東海岸が描かれ、竹島、松島、それに現在の竹島である リアンクール岩礁が描かれています。

太政官布告が下された 1870 年代、世界の海図には、実在しない竹島 ( アルゴノート 島、注 :1 参照 ) と、松島 ( ダジュレー島、注2 :参照、 欝陵島のこと ) の外に、現在の竹島 ( リアンクール岩礁、注:3 参照 ) が描かれ、それが地図としても通用していました

つまり話が複雑になりますが、鬱陵島 ( うつりょうとう ) のことを 竹島だけでなく、松島とも呼んだ時代があった ことが分かります。

今注目を浴びている 「 坂の上の雲 」 に描かれた、日本と ロシアとの日本海海戦 ( 1905 年 ) の 29 年前には、この程度の海図を使用していたのでした。

注 :1 )
1789 年に、イギリスの探検家 コルネットが島を発見したとされ、彼はこの島を 「 アルゴノート( Argonaut )島 」 と名付けたが、後に実在しないことが判明した。

注 :2 )
1787 年に、フランスの航海家 ラ ・ ペルーズが鬱陵島 ( うつりょうとう ) に来て、これを 「 ダジュレー( Dagelet ) 島 」 と命名した。

注 :3 )
1849 年に、 フランスの捕鯨船 リアンクール ( Liancourt ) 号が現在の竹島を発見し、リアンクール( Liancourt Rocks )岩礁と命名した。そのため日本の漁師の中では、竹島のことを、「 りゃんこ岩 ( いわ ) 」 と呼ぶ者もいた。

太政官布告の 「 竹島外一島の儀、本邦関係これなし 」とあるのは、海軍省の海図にあった 実在しない竹島 ( アルゴノート島 ) と、松島 ( ダジュレー島 ・ 欝陵島 ) の ことであり 、リアンクール岩礁である 現 ・ 竹島が含まれない ことは当然でした。

さらに海図と共に製作された海軍の朝鮮水路誌 [ 明治 27 年 ( 1849 年 )刊行 ] で、朝鮮の疆域 ( きょういき、境界、領域 ) を 「 北緯 33 度 15 分より同 42 度 25 分、東経 124 度 30 分より 同 130 度 35 分に至る 」 、と明記しているので、その中に 東経 131 度 5 5分にある現在の竹島 が ( 朝鮮領 ) に含まれていないことは明らかです。

韓国側では 「 朝鮮水路誌 」 に リアンクール岩礁 ( 現 ・ 竹島 ) が記されていので、それを竹島が朝鮮領であった証拠としていますが、それは日本海の中の岩礁を列挙したに過ぎず、海図にある岩礁と領有権とは無関係であることはいうまでもありません。

ちなみに日本と朝鮮国との間で領有権が問題となったのは鬱陵島についてだけであり、「 現在の竹島 」 については朝鮮国との間で領有権が議論されたことがなく、なによりも 1903 年以前の朝鮮の地図には、 独島 ( 現 ・ 竹島 ) など記載されていませんでした


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