葬送とお墓について


[ 1 : 人間の寿命 ]

厚生労働省が発表した 「 簡易生命表 」 によれば、2013 年の日本人の平均寿命は 男性 が初めて 80 歳を超えて 80.21歳 となり、1 位の香港 80.87 歳、2 位 アイスランド、3 位 スイスに次いで世界第 4 位でした。

その一方で日本人 女性 は、前年より 0.2 歳 寿命が延びて過去最高の 86.61 歳 となり、2 年連続の世界一 となりました。

人類史上で 確実な記録があり 最も長生きした人は、 フランス人女性の ジャンヌ ・ カルマン ( Jeanne Calment )で、1875 年 ( 明治 8 年 ) に生まれ 1997 年 ( 平成 9 年 )に死亡しましたが、 122 歳と164 日間生きました

世界最長寿記録者

しかも彼女は 100 歳まで自転車に乗り、 117 歳まで喫煙を続けていました。 120 歳 のいわば 「 大還暦 」 を越えた、史上唯一の人物でしたが、写真は 121 歳の誕生日を祝った時のものです。

現在 ギネスの長寿記録保持者 は大阪市 東住吉区に住む 大川 ミサヲ さんで、1898 年 ( 明治 31 年 ) 3 月 5 日 に生まれ、今年 ( 2015 年 ) 3 月 5 日に 117 歳の誕生日 を迎えました。 

公的記録という確実な証拠がある中で 117 歳になった人は、人類史上 5 人目であり、また日本では史上初めてでした。 ところが この H P を書いている最中の今日 ( 2015 年 4 月 1 日 ) 、大川 ミサヲ さんは 117 歳と 27 日 で亡くなりました。ご冥福を祈ります。( 合掌 )


[ 2 : 人類の進化と石器時代 ]

猿人進化

約 6 千 5 百万年前の白亜紀 ( はくあき、地球の地質時代の一つで約 1 億 4 千 3 百万年前から 6 千 5 百万年前まで ) の末期頃に、地球上に最初の霊長類である 動物 ・ 脊椎動物 ・ 哺乳 ・ 霊長 ( サル 目 ) が現れました。

それ以後非常に長い時をかけて進化を続け、600 万年前に最も原初的な人類であり 直立二足歩行を 行う 猿人 が出現し、 原人 ・ 旧人類 ・ 新人類 ( 現生人類 ) へと進化していきました。

前頭葉

それに伴い、頭蓋骨の形状も変化すると共に、大脳における感情 ・ 意思 ・ 人格などに関連する 前頭葉 も進化 ・ 発達して、生活のために必要なさまざまなものを加工して利用するようになり、道具や武器を作り 「 火 」 を使用することが、「 ヒ ト 」 の特徴のひとつにもなりました。

考古学上で 「 石器時代 」 という時代区分は、 デンマークの考古学者 クリスチャン ・ トムセン ( Christian Thomsen、1788~1865 年 ) によって、当時人類が利用していた道具の材料に基づきその時代を区分しました。 

彼は 1836 年に 「 北方古物学の手引き 」 を書きましたが、その中で人類が、石以外に金属を知らず、道具や武器に石器、たとえば石鏃 ( せきぞく、いしのやじり ) 石斧 ( せきふ、いしの おの )、石包丁 ( いしほうちょう ) などを使用していた時代を 「 石器時代 」 と名付け、青銅器を使っていた頃を 「 青銅器時代 」 「 鉄器時代 」 の順に発達したと述べました。

打製石斧

右絵図は打製石器 ( だせいせっき ) を木に固縛して作った石斧 ( せきふ、おの ) ですが、日本では主に旧石器時代後期から縄文時代にかけて使われており、弥生時代に入って金属器が使われるようになると次第に減少しました。

なお 旧石器時代は 「 ヒト 」 の進化の段階に従い、三時代に区分されています。

  1. 前期 ( 約 250 万年前 ~ 15 万年前 )、猿人や原人の段階

  2. 中期 (15 万年前 ~ 3 万 5 千年前 )、旧人類の段階

  3. 後期 ( 3 万 5 千年前 ~ 1 万年前 )、新人類の段階

にそれぞれ当てられています。


[ 3 : 人類最初の埋葬と献花 ]

約 20 万年前に出現し 2 万数千年前に絶滅した旧人類に属する ネアンデルタール人 ( Neanderthal ) がいましたが、ヨーロッパの石灰岩の洞窟内で 1856 年にその骨格化石が発見されました。その後 アフリカ ・ ヨーロッパ ・ 西 アジアなどの各地で、骨の化石が出土しました。

1951 年から調査が始まった イラク北部にある シャニダール 遺跡 では、発掘された ネアンデルタール人類の第 4 号骨格化石の周辺の土を アメリカの人類学者 ラルフ ・ ソレッキが調査したところ、少なくとも 8 種類の花の花粉や花弁 が含まれるとの結果が出ました。

ネアンデルタール人

ネアンデルタール人の前述した前頭葉の発達により、 仲間の死を悼 ( いた ) む気持ちが現れ 、人類初の 埋葬行為 がおこなわれるようになりましたが、10 万年前のことでした。

しかし生活の場と埋葬の場を分けるということをしていなかったと言われ、 遺体を屈葬 ( くっそう ) の形で埋葬していました。

人類最初の献花

しかもその草花は今も遺跡の周囲に見られるものであり、ソレッキ はこの結果から、 遺体に献花 されたものであると解釈し、ネアンデルタール人を 「 人類で最初に花を愛 ( め ) でた人々 」 、あるいは 「 最初に花を添えて 埋葬 した人々 」 であるとしました。 ( 図は想像画 )

しかしこれに対しては異論も出されており、ネアンデルタール人が仲間の遺体を土に埋めたのは、それを狙う 野獣から隠すため であったなどの意見もあり、明確な結論は出されていません。


[ 4 : 日本における遺跡 ]

日本列島における人類の遺跡は 9 ~ 8 万年前の 岩手県 遠野市 金取遺跡 ( かねどり いせき ) に遡るとされますが、日本では噴火による火山灰が積もってできた ローム( Loam ) 層の 酸性土壌 および気候 ・ 地形など人骨の残りにくい条件がそろっていたため、旧石器時代の人骨化石の出土例は希です。

金取遺跡についても遺体が何万年もの間、酸性土壌に埋もれていたために、旧石器時代の 人骨が溶解してしまい 、 「 化石化された人骨 」 の出土はありませんでした。

そのため日本における旧石器時代の研究といえば、もっぱら石器 ( 旧石器 ) や副葬品を発掘し研究することにより、当時の人々の生活を推測することでした。


[ 4-1、土坑墓 ( どこうぼ ) ]

中国では墓穴のことを 「 壙 」 ( こう ) といいますが、日本では墓に限らず人が掘った穴を 「 坑 」 ( こう ) と呼びます、 例えば坑道のように。

土坑墓とは土中に小規模な竪穴を掘り何の設備もせず、しかも遺体を棺などに入れずに布などで包んで直接埋める埋葬様式ですが、土墓 ( どこうぼ ) とも書きます。

墓の形は 屈葬 ( くっそう、4-2 の写真参照 ) なら不整円形が多く、 伸展葬 ( しんてんそう、左下の写真 ) の場合は楕円形や長方形となります。

伸展葬

土中に穴を掘って死者を葬る習俗は、旧石器時代の前述した ネアンデルタール人に既に認められていますが、これは世界的に ポピュラーな方法であり、日本では 縄文時代 ( 1 万 4 千年前 ~ 3 千年前 )から 弥生時代 ( 2 千 300 年前 ~ 紀元 300 年 ) に多い墓の形式です。


( 4-2、屈葬 )

日本列島では前述したように屈葬は 旧石器時代からすでにおこなわれていましたが、集落の中の一定の場所に複数の屈葬墓坑 ( 墓穴 ) からなる 集団埋葬墓地 が作られるようになったのは、およそ 6 千年前の縄文時代前期からでした。屈葬の理由としては、

    屈葬

  1. 満足な道具が無い状態で、墓穴を掘る労力の節約のため。

  2. 死者に休息の姿勢を取らせるため。

  3. 胎児の姿を真似ることにより、死者の再生を祈るため。

  4. 「 C 」 とは逆に、死者の脚を強く折り曲げて埋葬したのは、死者が蘇 ( よみがえ ) ることを恐れた爲とする説もあり、死者や死霊 ( しりょう ) に対する恐れの観念の存在からでした。


( 4-3、縄文時代と、弥生時代の墓 )

縄文時代 ( 1 万 4 千年前 ~ 3000 年前 ) は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としては ストーンサークル( Stone circle 、環状配石 ) が知られていますが、弥生時代 ( 紀元前 3 世紀 ~ 紀元後 3 世紀 ) になると集落の近隣に共同墓地を営むことが 一般的となりました。

また、縄文時代には前述したように遺体を直接埋める 土坑墓 ( どこうぼ ) が中心でしたが、弥生時代になると甕棺 ( かめかん ) ・ 石棺 ( せっかん、主に古墳時代に使用 ) ・ 木棺など埋葬用の棺 ( かん、ひつぎ ) の使用が中心となっていきました。


[ 4-4、甕棺墓 ( かめかん ぼ ) について ]

東北 ~ 近畿 ~ 九州の各地で縄文晩期以降の遺跡から、甕棺墓 ( かめかんぼ ) の風習があったことが判明していますが、その後、弥生時代の前期 ~ 中期の北部 九州において甕棺墓は最盛期を迎えました。

合口式甕棺

甕棺 ( かめかん ) には 1 個の甕 ( かめ ) に土器などの蓋をする 「 単式甕棺 」 ( たんしき かめかん ) と、2 個の甕 ( かめ ) を開口部で合わせた 「 合口式甕棺 」  ( ごうこうしき かめかん ) があり、気密性を確保するため、蓋や合口部を粘土などで固定することもあります。

甕棺弥生時代

死者が大人の場合には 大型の素焼きの土器 ( 甕、かめ ) に遺体を屈葬 ( くっそう ) の姿勢をとらせて入れ、土の中に埋める埋葬方法であり、屈葬及び甕棺の採用には、 「 死者の魂を遺体に留めようとする思想があった 」 、と考える研究者もいますが、乳幼児の棺として甕棺 ( かめかん ) が用いられた例が数多くあります。

甕棺墓 ( かめかんぼ ) は弥生時代中頃のおよそ 200 年の間、盛んに作られましたが、弥生時代とは水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が、 日本列島外から 北部九州に移住することによって始まったとされます。

そのために弥生時代の墓は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があり、社会階層の分化に伴い、階層による墓の差異も生じるようになりました。


[ 5 : 古墳時代と、その終了 ]

3 世紀中葉から、日本の各地で、土を盛り上げた大きな墓が作られるようになりましたが、この土を盛られた大きな墓のことを古墳 ( こふん ) といいます。これら古墳は、各地の国や地域を支配していた王や豪族の墓ですが、その大きさを権威の象徴と考えるようになりました。

仁徳天皇陵

その中で最大なものが、大阪府 堺市 堺区 大仙町 ( だいせんちょう ) にある前方後円墳で、古墳の長さは日本最大、墓域面積は世界最大であるとされる第 16 代、仁徳天皇陵、 別名 「 大仙陵 古墳 」 ( だいせんりょう こふん ) です。

全長約 486 m / 後円部径約 249 m / 高さ約 35 m / 前方部幅約 305 m / 高さ約 33 m の日本最大規模の前方後円墳であり、927 年に完成した律令の施行細則である 『 延喜式 』 には、この古墳を 「 百舌鳥耳原中陵 」 ( もずの みみはらの なかの みささぎ ) と命名しています。


( 5-1、 仁徳天皇陵の陪塚 )

陪塚

仁徳天皇陵とされる前方後円墳の周囲には、「 陪塚 」 ( ばいちょう、ばいづか ) と呼ばれる、小型古墳 15 基が確認されていますが、考古学的には、大仙陵古墳が 5 世紀半ば ~ 後半に造営された可能性が高く、仁徳天皇 ( 在位 313 ? ~ 399 年 ? ) の陵 ( みささぎ ) であるとすることに、否定的な見解が 考古学の主流です

陪塚 ( ばいちょう )とは日本の古墳時代に建設された古墳の様式で、大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳のことです。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあると考えられています。

ちなみに古墳がさかんに作られた時代は、3 世紀半ばから 7 世紀末頃までの 400 年間続きましたが、この時代を 古墳時代 ( こふん じだい ) といいます。

中でも 3 世紀半ば過ぎから 6 世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、 前方後円墳の時代 と呼ぶこともあります。


( 5-2、 仁徳天皇といえば )

1945 年 ( 昭和 20 年 ) の 敗戦当時 小学 6 年生 だった私は、骨の髄 ( ずい ) まで皇国民教育を受けて育ちましたが、仁徳天皇という諡号 ( しごう、おくりな ) が示すように、 慈悲深い天皇 として国史の時間に習いました。

人々の貧しい暮らしを救うために租税を 3 年間免除し、民が富めるのを御覧になった 仁徳天皇が、

高殿

高き屋 ( や ) に のぼりて見れば煙 ( けぶり ) 立つ 民のかまどは賑わいにけり ( 新古今集、707 )

[ その意味 ]

高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは炊煙 ( すいえん、炊事の煙 ) がたちのぼっている。民のかまど ( 生活 ) も豊かになり、国も栄えているのだなあ。

ちなみに新古今集 ( しんこきんしゅう ) とは、皇位継承の正統な 「 しるし 」 である 「 ( 三種の ) 神器なき即位 」 で有名な後鳥羽天皇 / 上皇の命で、鎌倉時代初期 ( 1205 年 ) に編纂された第八番目の勅撰和歌集、全二十巻のことで、正式名称は 「 新古今和歌集 」。

という歌を詠まれましたが、その経緯は 仁徳天皇の 四年 ( 316 年 ? )、天皇が難波高津宮の高殿から遠く ( 大阪平野 ) を見渡すと、どの民家からも炊煙が立ちのぼっていませんでした。これは民に食べるものがなく生活が苦しい状態なのだと察知し、以後 三年間は租税を免除しました。

租税が入らないため天皇の宮殿は傷んでも修理ができずに雨漏りしていましたが、三年後にまた高殿に上がって見渡すと、多くの民家から竃 ( カマド ) の煙が立ち登っていました。そこで天皇は、前掲の歌を詠み さらに 三年間 租税を免除しました

合計六年が経過した後にやっと租税を課して、宮殿の修理をお許しになりました。すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿ができあがったとされます。

それ以来、人々は仁徳天皇を 聖帝 ( ひじりの みかど ) と 崇 ( あが ) めるようになりましたとさ 。目出度し ・ めでたし。


( 5-3、 仁徳天皇 陵の工事見積もり )

一社で年間の売り上げが 1 兆円以上ある ゼネコン( 総合建設会社 ) を、 スーパー ・ ゼネコンと呼びますが、それらは 鹿島建設 ・ 清水 ・ 大成 ・ 竹中工務店 ・ 大林組の 5 社です。

昭和 60 年 ( 1985 年 ) に大林組が発行した、季刊社報の 大林 20 号 には 「 王 陵 」 の頁があり、そこには仁徳天皇 陵の建設についての 「 工事見積もり内容 」 が掲載されていました。

これは考古学者の間で 「 大林組 プロジェクト 」 として知られており、多くの考古学関係資料でも取り上げられています。

その施工条件としては、

  1. 建設用工具は鉄製または木製の スキ、モッコ、コロ を使用する。

  2. 労働者は ピーク時で 1 日 2,000 人とし、牛馬は使用しない。

  3. 作業時間は 1 日 8 時間、ひと月 25 日間とする。

この条件で 仁徳天皇陵の建設工事の見積もりをした場合、

  1. 必要な総労働者数 ( 労働工数 ) は 延べ 680 万 7 千人 ( ただし、 1 日あたり ピーク 時で 2 千人を使用 )

  2. 工期は 15 年 8 ヵ 月 必要でした。


前述した 慈悲深いはず の仁徳天皇が 生前から 自分が葬られる予定の巨大な陵 ( みささぎ、墓 ) の建設を開始し、そのために多くの人民を十数年間も労働させ多額の国費を費やしました。

ギザのピラミッド

これでは兵馬俑 ( へいばよう ) で知られる秦の巨大な始皇帝陵 ( 紀元前 3 世紀、工期 40 年以上 ) や、 ギーザ ( Giza ) の 三大 ピラミッドのうち最大の大きさを誇る、いわゆる ク フ ( Khufu ) 王の ピラミッドの建設 ( 紀元前 2,540 年、工期 20 年以上、完成時の高さ 146.6 m ) と同様に、中国や エジプトの古代の専制君主が、人民や奴隷たちを強制労働に駆り立てたのと同じ行為でした。

これでは 仁徳 の 諡号 ( しごう、おくりな ) や 聖帝 ( ひじりの みかど ) の尊称 が 泣くというものであり、古事記 ・ 日本書紀において、歴史の改ざんがおこなわれた証拠でした。

生前に陵や墓を造営し 長寿を願う習慣 はこのように古くからあり、これを 「 寿陵 」 ( じゅりょう ) あるいは 「 寿蔵 」 ( じゅぞう、生前に自分用の墓を作ること ) と呼んでいました。


[ 6 : 律令時代の墓 ]

6 世紀末に前方後円墳が消滅し、円墳や方墳が主となると共に大規模な墳丘はつくられなくなりました。そして 7 世紀になると 古墳は、急速に終末を迎えました 。約 400 年にわたってあれだけ盛んに築造された古墳は、なぜ姿を消すのでしょうか。そして巨大な古墳にとってかわる 「 墓 」 とはどのようなものだったのでしょうか。


( 6-1、大化改新と、 薄葬令 )

645 年 6 月 12 日、三韓 ( 新羅、百済、高句麗 ) から貢 ( みつぎもの ) を献上する使者が来日し、大極殿で儀式が行われた際に 「 乙巳の変 」 ( いっしのへん ) の クーデターが起きました。

乙巳の変

中大兄皇子 ( なかの おおえの みこ ) と中臣鎌足 ( なかとみの かまたり ) が蘇我入鹿 ( そがの いるか ) を殺害し、蘇我 一族から政権を奪還しました。右図で現場から逃げ出すのが第 35 代、皇極 ( こうぎょく )女帝、首を切られたのは蘇我入鹿 ( そがの いるか ) です。

翌年 ( 646 年 ) 大化 2 年の 1 月に、改新の詔 ( みことのり、しょう ) が出され 「 大化の改新 」 が始まりましたが、その 一環として 薄葬令 ( はくそうれい ) つまり葬儀を質素にせよ、との規則が公布されました。

天皇や官人の葬送儀礼を規定する文言としては、

およそ 三位以上、および別祖 ・ 氏宗は、並びに墓を営することを得。 以外はすべからず 。墓を営することを得といえども、もし大蔵せんと欲すればゆるせ。

[ 意味 ]

三位以上の貴族と、分立した氏の始祖だけは墓を営むことを許すが、 それ以外は墓を持つことを禁止する 。墓を営むことのできる階層の人間でも 「 大蔵 」= 散骨を希望すれば許可する。

  1. 身分に応じて墳墓の規模などを制限した。

  2. それまで天皇や王族の陵墓は 非常に大きなものが自由に建設されていたが、中国の故事 ( 205 年に 魏の 武帝 が 薄葬令 を出したこと ) に習い、 民衆の犠牲 ・ 負担を軽減するため 身分に応じて墳墓の大きさを定めた。

  3. 天皇陵の建設期間も 7 日以内 に制限されたので墳墓は小型化し、簡素化されていき、いわゆる前方後円墳が造られなくなった。そのため飛鳥時代になっても続いていた古墳の建設は、不可能となった。

  4. 人や馬の殉死、殉葬を禁止した。

  5. 畿内をはじめ諸国ではそれぞれ埋葬地を定め、すべての死体はそこに埋めて、汚 ( きたな ) らしく散乱させてはならない。

  6. 庶民の死に際しては、粗末な帷子 ( かたびら ) を着せただけで地面に埋めよ、死者を 一日もそのまま放置してはならない。

  7. 王以下 庶民に至るまで、殯 ( もがり、注参照 ) を営むことは禁止する。

    注:殯( もがり ) とは

    日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗 ・ 白骨化などの物理的変化を確認することにより、 死者の最終的な 「 死 」 を確認すること。

    一説によれば、現代に 一般的である 通夜は殯( もがり ) の風習の名残で 、殯の期間が 1 日だけ、あるいは数日だけに短縮されたものとされる。

    沖縄でかつては広く行われ、現代でも一部の離島に残る 風葬と洗骨の風習 ( 後述 ) は、殯 ( もがり ) の 一種の形態と考えられる。


[ 7 : 火葬について ]

諸民族の間でおこなわれている遺体処理には、土葬 ・ 火葬 ・ 水葬 ・ 風葬などがありますが、このうち 火葬は仏教国で広く行われてきた方法です。仏教では火葬にすることを 「 荼毘 ( だび ) に付す 」 ともいいますが、これは インドの パーリ語の音訳で 「 燃やす 」 の意味だそうです。

インドの アーリア 族古来の習俗であった火葬が仏教と共に日本に伝わり、もともと遺体を河原 ・ 野原 ・ 谷間 ・ 林間などに 捨てていた 「 遺棄葬 」、 あるいは 「 風葬 」や 「 土葬 」 であった日本の葬法に、大きな変化をもたらしました。

火葬は主として僧侶により採用された葬法であり、記録上は 「 続日本紀 」 ( しょく にほんぎ ) の文武 ( もんむ ) 4 年 ( 700 年 ) の条にある、元興寺 ( がんこうじ ) の僧 道昭 ( どうしょう ) の火葬をもって日本最初としました。

しかし実際は 6 世紀 7 世紀の火葬墳墓 ( 例えば 神戸市 垂水区の高塚山古墳群の横穴式石室から、火葬跡 4 ヶ所と焼骨 ) が発見されたことなどから、火葬の起源は前述の 700 年よりも遡 ( さかのぼ ) るとされます。


( 7-1、挽歌 )

奈良時代 ( 710 ~ 794 年 ) 末期に編纂された万葉集に、女性の火葬を詠んだ挽歌 ( ばんか、注参照 ) があることから、火葬にされたのは僧侶や男性だけとは限りませんでした。

ちなみに挽歌とは古代中国で葬送の際に、柩 ( ひつぎ ) を乗せた車を挽 ( ひ ) く者が歌った歌のことですが、そこから人の死を悼 ( いた ) む詩歌 ( しいか ) ・ 哀悼歌 ( あいとうか ) をいいます。

万葉集では恋人同士の間で詠みかわされた相聞歌 ( そうもんか ) ・ 種々雑多な内容の歌である雑歌 ( ぞうか ) とともに、挽歌は 三大区分の一つであり、人の死を悲しみ悼 ( いた ) む歌のことです。


[ 注 : 火葬を詠んだ挽歌 ( ばんか ) ]

土形娘子 ( ひじかたの おとめ ) を泊瀬山 ( はつせのやま ) に火葬 ( やきはぶ ) る時に、柿本朝臣人麻呂 ( かきのもとの あそみ ひとまろ ) の作る歌 一首  ( 巻 3-428 )

[ 原文 ]

隠口能 泊瀬山之山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟

[ 読み方 ]

隠口 ( こもりく ) の泊瀬 ( はつせ ) の山の山際 ( やまのま ) に いさよふ雲は妹 ( いも ) にかもあらむ

[ その意味 ]

隠口 ( こもりく ) とは泊瀬 ( はつせ ) に掛かる枕詞で、泊瀬の山々のあたりに いつまでも 去りやらずにいる雲は あれは妹 ( いも、恋人 ? ) のかわった姿 ( 火葬の煙 ) でもあろうか。

土形娘子 ( ひじかたの おとめ ) とは、土形氏の女性とも遠江 ( とおとうみ ) ( 静岡県 ) 城飼 ( きこう ) 郡 土形 ( ひじかた ) 出身の 采女 ( うねめ、天皇の食事に奉仕した後宮の女官職 )で、容姿の美しい女性であった ともいわれる。

死後大和 ( やまと、奈良県 ) の 泊瀬 ( はつせ ) の山で火葬にされましたが、後世に歌聖と呼ばれ 三十六歌仙の一人でした柿本人麻呂との関係 ( 恋人、後妻 ? ) は不明です。



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