葬送とお墓について ( 続き )
大宝 2 年 ( 702 年 ) に持統天皇が亡くなると、大宝 3 年 ( 703 年 )12 月癸酉( みずのと とり ) に飛鳥岡 ( あすかのおか ) にて火葬され、同月壬午( みずのえ うま ) に 「 大内山陵に合葬 」 された。とありました。死後 持統天皇の陵 ( みささぎ ) は作らずに焼骨は銀製の骨壺に入れられ、明日香村 野口にあり、先に亡くなった夫である第 40 代、天武天皇陵に、後から一緒に葬られました。 その後 42 代 文武 ( もんむ ) ・ 43 代 元明 ( げんめい ) ・ 44 代 元正 ( げんしょう ) 天皇も火葬にされ、奈良時代には仏教の隆盛と共に貴族 ・ 僧侶の間でも火葬が普及しましたが、庶民の間では遺体を骨になるまで焼くには火葬用の薪を大量に使用するため費用が掛かるので 一般的ではなく、 死体を捨てる遺棄葬 か 良くて土葬でした。 第 45 代、聖武天皇以降は もとの伝統的な土葬が復活しましたが、天皇に対する火葬が再開されたのは 1011 年に、第 66 代、一条天皇の遺体を荼毘 ( だび ) に付して、その遺骨を円城寺に安置したのが最初で、以後歴代天皇の多くが火葬されるようになりました。 歴史上 火葬にされた最後の天皇 は 1617 年に崩御した第 107 代、後陽成 ( ごようぜい ) 天皇でしたが、それ以後の江戸時代には後述する 儒教の教えに基づき 天皇に限らず将軍 ・ 大名 ・ 武士などの間で 火葬に対する拒否反応 が起きて、土葬が盛んになりました。 庶民の間で墓石のあるお墓を作るようになったのは江戸時代 ( 1603 ~ 1867 年 ) の中期以降ですが、それも 個人墓 であり、現在伝統的とされる家単位のお墓 ( 〇〇 家の墓 ) などの 家墓 ( いえはか ) が登場したのは江戸時代の末期からで、日本中に広まったのは明治時代 ( 1868 ~ 1912 年 ) になってからでした。 第二次大戦後の昭和 22 年 ( 1947 年 ) には 皇室喪儀令が廃止 され、天皇 ・ 皇后 ・ 皇太后は土葬に、皇族は火葬にされることが決まりました。 しかし、2012 年 4 月、今上天皇 ( 現在の天皇 ) が、葬儀の際は火葬を希望するとの意向を述べられました。宮内庁はそれを受けて 2013 年 11 月 14 日、 天皇の葬儀は火葬 とすると発表しました。 ( 7-3、天武天皇陵の盗掘 ) 前述した天武天皇と妻の持統天皇を祀る天武天皇陵が、埋葬から五百年後の鎌倉時代の文暦 2 年 ( 1235 年 ) に何者かにより 盗掘に遭い 、副葬品の大部分が盗まれました。 『 新古今和歌集 』の選者である 藤原定家 ( ふじわらの ていか、1162~1241 年 ) もこのことを、自身の日記である 『 明月記 』 に記していますが、その内容はいささか衝撃的です。 嘉禎 ( かてい ) 元年 ( 1235 年 ) 6 月 6 日には、人づてに聞いた話として、「 持統天皇の遺骨を納めていた骨蔵器が銀製であったため、盗賊がこれを墓の外へ持ち出し、持統天皇の遺骨を路上に捨てて銀製骨蔵器だけを持ち去った 」と記している。 天武天皇の遺体は棺の中に白骨となって残っていたのが確認されているが、火葬された持統天皇の遺骨は路上に捨てられ、その後どうなったか分からない。なお、盗掘者は 2 年後に逮捕され京の街を引き回されたそうだ。実はその際に天武天皇の棺まで暴 ( あば ) かれて、遺体を外部に引出されたたため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたといわれます。 [ 8 : 遺体は魂の 「 抜け殻 」 ]古代から日本の庶民は遺体の埋葬や葬送をせずに、河原 ・ 海辺 ・ 野原 ・ 林間 ・ 山の谷間などの特定の地に 遺体を捨てていました 。 古代人の死生観によれば、死後の遺体は 魂の抜けた 「 抜け殻 」 に過ぎないとみなされていたからで、「 死体捨て場 」 で朽ち果てるままにされました。 平安時代前期の 869 年に成立した勅撰の史書である 「 続日本後記 」 ( しょくにほんこうき ) の第 54 代、仁明天皇 ( にんみょう てんのう、 在位 833 ~ 850 年 ) の承和 ( じょうわ ) 9 年 ( 842 年 ) 10 月の条によれば、天皇が左右 京職 および東西 悲田院 に命じて 嶋田および 鴨河原等の髑髏 ( ドクロ ) 5 千 5 百余頭 を焼き、埋葬した。 [ その意味 ]とありました。 鴨河原に死体が数多く捨てられていたのは、平安時代 ( 794 ~ 1192 年 ) の初期からで、 庶民が捨てた遺体の他に京中に誰も葬送しない死体があると、 京中の非違を検察する 検非違使 ( けびいし、検察官 ) の配下が運び出して、鴨河原などに捨てていたからでした。 ( 8-1、九相図のこと ) 九相図 ( くそうず ) とは、屋外にうち捨てられた死体が腐敗し朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画のことです。名前の通り、死体の変遷を九の場面にわけて描くもので、死後まもないものに始まり、次第に腐乱膨張し 死肉が獣や鳥に食い荒らされ、九つ目にはばらばらの白骨ないし埋葬された様子が描かれています。 死体が変貌する様子を見て観想することを 九相観 ( 九想観 ) と言いますが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの ・ そして無常なものと知るための修行です。 九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作されました。 仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる女性の死体は、彼らの煩悩の対象となる美女でした。 それらの人物には 檀林皇后 ( だんりんこうごう )や絶世の美女といわれた 小野小町 が対象となりました。 檀林皇后 ( 注参照 ) は信仰心が強く、実際に自身の遺体を町中に放置させ九相図を描かせたといわれています。
[ 9 : 江戸時代の葬送 ]日本では平安時代以降、皇族、貴族、僧侶、浄土宗門徒などに火葬がある程度広まった後も、江戸時代になると葬送は土葬が主流になりましたが、そこには仏教徒を含めて儒教との関係がありました。 儒教が中国で盛んになった最大の理由は、 孝を道徳の中心に据えてきたから だと言われていますが、それは中国社会における家父長的な大家族制度に最も適合した イデオロギー だったからでした。 孝を説いた儒教の経典には 『 孝経 』 がありますが、その中の有名な言葉に、「身体髪膚 ( しんたい ぱっぷ )、これを父母に受く。敢えて毀傷 ( きしょう ) せざるは、孝の始めなり。 [ その意味 ] 人の身体はすべて父母から恵まれたものであるから、傷つけないようにするのが孝行の始めである。儒教の価値観では身体を傷つけるのは大きな罪でしたが、その毀損行為の対象は 死後の遺体の火葬にまで 拡大適用されました。そのために中国の歴代王朝の法典においても、火葬禁止が明記されていました。 江戸時代になると儒教が最も盛んになりましたが、そのために将軍や大名をはじめ武士 ・ 儒学者などは 火葬を忌避しもっぱら土葬をする ようになりました。庶民にとっても遺体を骨と灰になるまで焼き尽くす強い火力が必要なため、生活必需品としても貴重だった薪を大量に用いる必要があり、火葬は費用面から敬遠されました。 ( 9-1、寺請制度 ) 庶民の間で仏式の葬儀がおこなわれるようになったのは、江戸時代になってからでした。幕藩体制のもとで キリスト 教 を禁制にした徳川幕府がその摘発のために、 寺請制度 ( てらうけせいど ) を定めました。 これは 「 宗門改め役 」 の指導監督のもと、村役人が各家の各人ごとに宗旨を調べ 檀那寺 ( だんなでら ) に信者であることを証明させる 「 宗門改め 」 をおこない、その結果から地域の住民全員に対して地域にある寺院へ檀家として登録させました。 これは従来からあった宗旨の記録である 宗門帳 ( しゅうもんちょう ) と、戸籍にあたる 人別帳 ( にんべつちょう ) を合体した 宗門人別帳 ( しゅうもん にんべつちょう、 ) の作成であり、毎年 村ごとにおこなわれました。 この制度が徹底されるようになったのは 17 世紀の末 ( 1671 年 ) でしたが、後には寺請制度 に基づく 寺請証文 ・ 宗旨手形 ・ ・ 通行手形 ・ 寺証文などが 庶民の移動 ・ 旅行 ・ 就業 ・ 婚姻に際して提出を要求される一種の身分証明書となりました。 この制度により 葬式仏教 は日本中に勢力を拡大しましたが、後には僧侶たちの腐敗 ・ 堕落を生みました。1816 年に記された 「 世間見聞録 」 によれば、僧侶が自分のいうことを聞かない ( 布施を出し惜しみする ) 檀家に対して、
[ 10 : 明治以後の火葬 ]明治新政府発足後 、人家近くでの火葬による悪臭問題が発生したため、および神道による挙国一致を目指した神仏分離令に関連して、明治 6 年 ( 1873 年 ) 7 月18 日に明治新政府は 火葬禁止令 ( 太政官布告第 253 号 ) を布告しました。 しかし仏教徒からの反発や都市部における土葬用地 ( 墓地 ) の枯渇、ひいては埋葬料の高騰という経済上 ・ 公衆衛生上の理由、および火葬技術が進歩したこともあり、2 年後の明治 8 年 ( 1875 年 ) 5 月 23 日には火葬禁止令を廃止しました。( 10-1、火葬率の増加 ) その後明治政府は火葬場問題から 「 神道では土葬、仏教では火葬 」 という 宗教的視点を排して、公衆衛生的観点から火葬を扱うようになり、伝染病死体の火葬義務化、土葬用墓地の新設や拡張に厳しい規制を掛け、人口密集度の高い地域には土葬禁止区域を設定するなどの政策を取りました。 また、大正時代頃より地方自治体が火葬場設営に積極的になり、土葬より火葬の方が費用や人手が少なくて済むようになったこともあり、現代の日本では火葬が飛躍的に普及して、います。 死者の火葬率については 1896 年 ( 明治 29 ) が 26.8%、1915 年 ( 大正 4 年 )が 36.2 % でしたが、1955 年 ( 昭和 30 年 ) が 54.0 %、と五割を越え、1984 年 ( 昭和 59 年 ) が 94 %、となり、2005 年 ( 平成 17 年 ) には 99.7 % となりました。 ( 10-2、世界の火葬率、平成 22 年度 )
( 10-3、平成 25 年度日本 衛生行政報告 )
[ 11 : 自然葬 ]( 11-1、淳和天皇 ) 124 人の歴代天皇の中でただ一人、 散骨によって最期を飾った天皇 がいましたが、平安時代 初期の第 53 代、淳和天皇 ( じゅんな てんのう 、786 ~ 840 年 ) でした。 続日本後紀 ( しょく にほん こうき ) の巻 九 承和 七 年 五 月辛未 ( かのと、ひつじ )(六)、( 840 年 5 月 6 日 ) の条によれば、亡くなる 二日前に、淳和天皇は以下の遺詔 ( いしょう、天皇の遺言 ) を告げました。( 前略 ) 葬送に用いる品はすべて簡素にし、葬儀が終わればすぐに喪服を脱ぎ、国民を煩 ( わずら ) わせてはならない。( 略 ) 人目につかぬよう、葬儀は夜間に行い、仏事は簡略にせよ。 ( 前略 ) 原文かくして、火葬された淳和天皇の遺骨は粉末にされ、死後七日目に京都 大原野 西院 の山で散骨されました。 ( 11-2、葬送いろいろ、自由葬 ) 戦前の葬式は家が単位で先祖代々の墓があり、家を継ぐ者やその家族は当然のことながらその墓に入りました。しかし少子化あるいは未婚者の増加、家の後継ぎのいない夫婦の場合など、家の墓を守る人がいなくなる、いわゆる 絶家の墓 や 墓持たず の人が次第に増えています。 そこで従来の遺骨を墓に納める考えに代わり、遺骨を細かく砕き粉末にして海 ・ 山への 散 骨 葬 や、公苑墓地や里山などへ骨灰を撒く 樹木葬 、遺骨を身近に置いておき、遺骨 ペンダントなどに少量の骨粉を入れ、肌身離さず持ち歩く 手元供養 をする人が最近増えました。 散骨について一時は、 「 墓地 ・ 埋葬等に関する法律違反 」 ・ 「 刑法 190 条違反 」 ・ 「 海洋汚染防止法 10 条違反 」 という マイナスの イメージがありましたが、法務省の見解によれば、 刑法 190 条の遺骨遺棄罪の規定は、社会習俗としての宗教的感情を保護するのが目的だから、葬送のための祭祀のひとつとして節度をもって行われる限り、遺骨遺棄罪にはあたらない。 また厚生省(当時)も以前から 墓地 ・ 埋葬等に関する法律 ( 別称、墓埋法、ぼまいほう ) はもともと土葬を対象にしていて、遺灰を海や山に撒く葬法は想定しておらず対象外で、自然葬を禁じた規定ではない 海洋汚染防止法の対象は 「 日常生活に伴い生ずる ゴ ミ 又はこれに類する廃棄物 」 は適用しないとあり、大量にまく場合を除き、普通に撒く場合には該当しないとするのが基本的考え方である。と表明していました。そもそも墓埋法 ( ぼまいほう ) ができたのは敗戦直後の昭和 23 年 ( 1948 年 ) であり、伝染病防止など公衆衛生上の必要性から生まれたものでした。前述のように火葬率 100 % の現代において最早時代遅れの法律でしかありませんでした。 以上から分かるように散骨が既存の法律に触れることはなく、また散骨を対象とした法律も現時点では存在しないため、どこかに届け出る必要はまったくなく、誰かに頼む必要も必ずしもないのです。 つまり節度を持ち他人に迷惑や不快感を与えなければ、個人が自由に行ってかまわないということです。 ( 11-3、我が家の 場合、西行法師に あやかりたい ? ) では最後に畏れ多くも 今上天皇 ( きんじょうてんのう、現在の天皇 ) と同じ歳であるお前の葬送はどうするのかと聞かれたら、先祖が昭和 6 年 ( 1931 年 ) に購入した、東京都 府中市にある多磨霊園 ( 都立霊園で面積最大の 128 万平方 メートル『 40 万坪 』 )にある家の墓 ( 写真 ) に入るつもりです。 ところが今年 77 歳になる老妻は 「 墓苑の テレビ ・ コマーシャル 」 や新聞の「 折り込み チラシ広告 」 の見過ぎから、縁の薄い人と一緒の墓に入るより、 桜の木の下で眠りたい それに永代供養だし---。などというようになりました。 そこで世事 ( せじ ) に疎 ( うと ) い老妻に 「 永代供養 」 とは 永久供養ではない ことを説明し、( 西行法師のように ? ) 桜の下で永遠の眠りにつきたいのであれば、左上写真の墓のすぐ裏側に枝を広げた桜の大木があり、毎年我が家の墓に花を散らすので、その根元に私が散骨するからと言いました。 もしその場所が不満であれば、多磨霊園内には約 1,600 本の桜があり、同じ霊園内に眠る老妻の両親の墓に行く途中に桜並木 ( 写真 ) がありますが、そこに西行法師のような 気分に浸れる場所 ( ? ) があれば 、根元に散骨することも可能である旨を話しました。( 樹木葬というべきか ? ) ところで老妻の家は長生きの家系で、父親は 93 歳まで入院したことがなく、元気で ある日 ポックリ逝った人でしたので、体質が似ている老妻もその程度までは十分長生き しそうです 。 となると現在 82 歳で 老妻より 5 歳年上、しかも軽い脳梗塞病歴者の私が、先に逝く可能性は大でも、老妻から後に残される場合のことなど、 考えるだけ無駄 というものです。 西行法師 ( 1118 ~ 1190 年、俗名 佐藤義清 ) の歌に御存じの、 願はくは花のしたにて春死なん、そのきさらきの望月の頃がありますが、老妻には五十五年間食事の世話になったことでもあり、私の死後 西行法師に あやかること ができますように (?) 、今のうちから老妻の 悲願達成 を祈っております、はい。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-* [ 大失敗の巻 ] この H P 更新用の文章 「 葬送とお墓について 」 を八割方 書き終えたところで、小生の失敗から文章 ファイルを削除してしまいました。パソコン屋に自宅に来てもらい 1 時間作業しても文章 ファイルを発見できませんでした。 そのため更新用の文章を最初から書き始めたのがこれです。大事な ファイルを その都度 バックアップを取っておかなかったために、H P の更新が遅れましたが、そろそろ私も 認知症が始まった のかも知れません。
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