JAL の興亡史


経営破綻 ( はたん ) し東京証券取引所の整理 ポストに入れられていた日本航空の株が、 2 月 19 日に最終売買日を迎え、 翌 20 日に上場廃止となりました。昭和 36 年 ( 1961 年 ) に東証 2 部 ( 後に東証 1 部に変更 ) に上場して以来、49 年間上場会社としての地位に留まりましたが、今回 証券市場から退場させられて市場での歴史に幕を閉じました。

ところで ローマ帝国が滅んだ理由については、 イギリスの歴史家である エドワード ・ ギボン ( Gibbon、1737〜1794 年 ) が ローマ帝国衰亡史 ( すいぼうし、全 6巻、ローマ帝国最盛期であった 5 賢帝時代の西暦 96 年から、東 ローマ帝国滅亡の 1453 年まで ) に詳しく書きましたが、今回それから ヒントを得て内容の件はさて置き、題名だけは JAL の興亡史 とすることに決めました。

[ 1: JAL の発足 ]

昭和 26 年 ( 1951 年 )9 月 8 日に、日本と連合諸国との間で サンフランシスコ講和条約が締結され、翌年の 4 月 28 日に発効して日本の独立が回復されましたが、敗戦からそれまでは昭和 20 年 ( 1945 年 )11 月 18 日付 連合国軍最高司令部訓令 ・ 301 、( 民間航空活動の全面禁止に関する訓令 ) 、略称 スキャピン ( SCAPIN ) 、( Supreme Command for Allied Powers Instruction Note ) 301 により、日本人が空を飛ぶことはもちろん、航空科学、航空力学その他航空機 ・ 気球に関する指導 ・ 研究 ・ 実験に至るまですべて禁止していました。その当時 翼をもがれた日本人 パイロットが詠んだ句があります。

この空は、我が空ならず秋の空
講和条約調印に先立つ 1 ヶ月前の昭和 26 年 8 月 1 日に 日本航空 ( 株 ) が資本金 1 億円で設立されました。会長は藤山財閥 ( コンツエルン ) の 2 代目で、 43 才で東京商工会議所の会頭を務めた経験のある財界人の藤山愛一郎でしたが、彼は後に外務大臣 ・ 経済企画庁長官となり、自民党の総裁選挙に 3 度挑戦して 3 度敗れ、総理大臣に成りそこねました。初代社長は日銀の理事 ・ 副総裁を務めた柳田誠二郎 でした。

航空会社ができたならば最初に必要になるのは飛行機と パイロットですが、それらを占領直後から日本に乗り入れていた ノースウエスト航空から ウエット ・ リース ( Wet Lease 、機体 ・ 運航乗務員ごと リース ) 契約を結び、機体には日の丸、中は外国人パイロット ・ 航空機関士による運航で、スチュワーデスだけは自前の日本人客室乗務員にしました。

CA募集

ちなみに JAL の発足に遅れること 4 年、全日空 ( 当時の 日本ヘリコプター航空 ) が初の スチュワーデスを募集した際には、昭和 30 年 ( 1955 年 ) 9 月 22 日付、毎日新聞の夕刊によれば、

全日空本社がある飛行館のまわりを、きれいな娘さんたちの列が 二重、三重も取り巻いて通行人の目をみはらせた。その中には新聞広告を見て、東北から はせ参じたという熱心な者もあった。この日 集まったのはざっと 1,000人。採用予定人数は 5〜6 人というから、 200 人に 1 人 の激しい競争。「 初任給は 7,000 円ですけど 」、と会社側でも肩をすぼませていた。
と記していました。ちなみに当時は国家公務員上級職の初任給が 7,650 円、警察官の基本給が 6,900 円 ほどでしたので、女性としては まあまあの給料でした。

[ 2: JAL の黎明 ( れいめい ) 期 ]

昭和 26 年 ( 1951 年 )10 月 25 日に、それまで墜落事故の多かった飛行機の マーチン 202 型機 5 機を ノースウエスト航空から リースして、戦後初の民間航空輸送を開始しましたが、当時の航空運賃は、東京−−大阪、6,000 円、東京−−福岡 1 万 1,520 円、東京−−札幌 1 万 200 円でした。

ここで前述した警察官の初任給と比べてみて下さい。現在警察官の初任給は大卒で 22 万円、高卒で 19 万円前後なので、平均 20 万円と仮定すれば、現在の給与水準に換算した場合の航空運賃は、 東京−−大阪を例にとれば、約 17 万円、東京−−札幌は約 29 万円 程度になります。

これを見れば当時の航空運賃が如何に高額なものであり、庶民にとっては高嶺の花で、ほとんどの人にとっては 新婚旅行の際にも飛行機を利用できませんでした 。庶民が飛行機に乗れるようになったのは それから 10 年以上経ってからであり、当時は飛行機の乗客といえば大会社の社長、富裕層、芸能人などしか乗らず、発足当初から航空需要 ( 乗客の利用 ) が低く、コストを上回る十分な収入を得ることができず、赤字に悩むことになりました。

昭和 34 年 ( 1959 年 ) 当時のこと、北海道 ・ 札幌市に宿泊した際に地元の北海道新聞を見ると、そこには本日の飛行機搭乗者の欄があり、1 日 1 便の飛行機で東京から来る人、東京に帰る旅客の名前が新聞に載っていましたが、当時はそれほど少ない人数の客しか飛行機を利用しませんでした。

ちなみに現在では羽田−−札幌 ( 千歳 ) の間は 世界一 の多客路線ですが 、平成 19 年度 ・ 航空輸送統計の、路線別 ・ 輸送実績によれば、運んだ旅客の数は 9,691,551 人 、座席利用率は 66.6 パーセントでした。さらに平成 22 年 4 月の時刻表を見ると、全日空だけでも羽田から 札幌 ( 千歳 ) 行きが、毎日 26 便飛んでいます。

[ 3: 初めて飛行機に乗る ]

ダグラスDC−6

JAL の国際線、羽田−−サンフランシスコ線は昭和 29 年 ( 1954 年 ) に始まりましたが、私が生まれて初めて飛行機、しかも国際線の飛行機に乗ったのは昭和 32 年 ( 1957 年 ) 1 月のことでした。23 才で アメリカの海軍飛行学校に留学のために、羽田空港から JAL の 4 発 プロペラ機の DC−6 B に乗り、 サンフランシスコに向かいましたが、当時の飛行機は現代の ジェット機に比べて性能が低く、半分以下の高度を半分以下の スピードで飛びました。

ウエーク島

航続距離も短く羽田から ハワイの ホノルルさえも直行できずに、今では倒産し消滅した パン ・ アメリカン航空の運航事務所があった アメリカ領で、 中部太平洋にある ウエーキ島 ( 北緯 19 度 11 分、東経 166 度 38 分 ) に着陸し、そこで燃料補給をしてから ハワイの ホノルルに向かいました。

機長 ・ 副操縦士 ・ 航空機関士は アメリカ人で、航空士 ( ナビゲーター ) だけが日本人でした。飛行中に機長の アナウンスで、操縦室に招待するので希望者はおいでくださいと言っていました。羽田と ホノルルの間は ハワイに住む日系人の里帰りなどで乗客がありましたが、そこから サンフランシスコまでは ガラ空きで、スチュワーデスの数も 4 名から 3 名に減らしていました。

中古の飛行機を使用していたために機体の故障が多く、ハワイ在住の日系人からは日航ではなくて 「 欠航 」 だと悪口をいわれていましたが、これが 53 年前の JAL の姿でした。飛行時間はサンフランシスコまで 24 時間以上かかりましたが、今では 9 時間半前後で行けます。

その当時は太平洋横断の主役が客船から飛行機に代わる過渡期であり、1953 年 ( 昭和 28 年 )に皇太子殿下( 現天皇 ) が英国の エリザベス女王の戴冠式に出席した際には、横浜から米国の船会社 A P L ( アメリカン ・ プレジデント ・ ラインズ ) の客船である プレジデント ・ ウイルソン号に乗り、 ホノルル経由で サンフランシスコに向かいました。発足したばかりのJAL の国内線も国際線も前述したように高額の運賃のため乗客があまり乗らずに、フルブライト留学生 ( 注参照 ) などは客船の 3 等室に乗り、2 週間掛けて北米西海岸に向かいました。

注:)
アメリカの政治家 フルブライトの提案により アメリカと世界各国との間で、教授 ・ 学生を交換することにより相互理解を高めるための フルブライト法が 1946 年 ( 昭和 21 年 ) に成立しましたが、 貧しかった敗戦後の日本から フルブライト法による奨学金を アメリカから得て、 アメリカの大学に留学した学士、修士の数は、 5 千人以上にのぼりました。

[ 4:経済発展がもたらした JAL の成長 ]

日本経済は 1959 年 ( 昭和 34 年 ) 頃から急速に成長し、下表の ピンク欄で示すように 1960 年( 昭和 35 年 ) 以降は毎年のように、 年率 10 パーセント を超える 飛躍的な経済成長 ・ 発展を遂げ、国際収支も大幅な黒字を示す 高度経済成長期 を迎えました。それまで外貨不足から禁止されていた海外への観光旅行なども、昭和 39 年 ( 1964 年 ) からは解禁され、昭和 46 年 ( 1971 年 ) には 外貨準備高が 100 億 ドル を超えました 。その間の実質経済成長率を表に示しますと、

年度別、実質経済成長率 ( G D P、パーセント )

年 次成長率年 次成長率
1954年 ( 昭和29 )5.81963年 ( 昭和38年 )10.5
1955年 ( 昭和30年 )8.81964年 ( 昭和39年 )13.1
1956年 ( 昭和31年 )7.31965年 ( 昭和40年 )5.1
1957年 ( 昭和32年 )7.51966年 ( 昭和41年 )10.5
1958年 ( 昭和33年 )5.61967年 ( 昭和42年 )10.4
1959年 ( 昭和34年 )8.91968年 ( 昭和43年 )12.5
1960年 ( 昭和35年 )13.31969年 ( 昭和44年 )12.1
1961年 ( 昭和36年 )14.51970年 ( 昭和45年 )9.5
1962年 ( 昭和37年 )7.0−−−−−−

( 帝国書院、社会科教科書の データ引用 )


( 4−1、国内定期航空輸送量とその増加 )

前述したように昭和 26 年 ( 1951 年 ) に運航を開始したものの、敗戦後の経済的疲弊から解放されずにいたために、国内航空の需要が伸びるまでにはかなりの年月が掛かりました。

4−1−1国内線 ・ 旅客数の変化 ( その 1 )、( 1951 年〜1963 年 )



ちなみに表 ( その1 ) では国内線運航開始の 1951 年 ( 昭和 26 年 ) の旅客数は僅か 18,338 人でしたが、12 年後の 1963 年 ( 昭和 38 年 ) には 202 倍 の 3,707,249 人となり、 3,688,911 人の旅客増 になりました。


4−1−2国内線 ・ 旅客数の変化 ( その 2 )、( 1964 年〜1970 年 )



表 ( その2 ) についても 1964 年 ( 昭和 39 年 ) には 4,666,028 人のところ、1970 年 ( 昭和 45 年 ) には 14,675,143 人と、 1 千万人以上 も増加しました。


( 4−2、 JAL 国際線 旅客量とその増加率 )

国際線についても 1954 年( 昭和 29 年 ) 以降の、各年度ごとの乗客の増加率を示したものです。外貨不足からそれまで業務渡航と留学以外は禁止されていた海外渡航が、1964 年 ( 昭和 39 年 ) 4 月に自由化されましたが、 以後の増加を、旅客人数で見ると、1965 年 には前年よりも 12 万 2 千人 増加して 43万5千人となり、1970 年 には前年よりも 31 万 3 千人 増加して 162 万 7 千人のように飛躍的に増加しました。

しかし外貨の持ち出しは、1 人当たり僅か 500 ドル ( 当時の為替 レートは 1 ドル 360 円、現在は 90 円前後 ) に制限されました。

年 次旅客数前年比増加率

パーセント

年 次旅客数前年比増加率

パ−セント

1954年9,876−−−1963年256,77725.4
1955年21,01353.01964年

渡航自由化

313,43324.4
1956年31,34732.91965年435,84028.0
1957年45,52731.11966年602,94227.7
1958年65,24330.21967年787,99423.4 
1959年83,32321.61968年1,017,62122.5
1960年100,75217.21969年1,314,27922.5
1961年146,79431.31970年1,627,87319.2
1962年191,31823.2−−−−−−−−−

出典、日本経済統計集 ( 1946 年 〜 1970 年 )


国際線を飛ぶ航空会社は昭和 28 年 ( 1953 年 ) 8 月 1 日付の日本航空株式会社法により、 JAL 1 社に限定 されていたために、国際線の輸送実績とは JAL の実績に他なりません。

海外旅行

この数字を見ても分かるように、日本経済の成長に比例して JAL の国内線はもとより、国際線旅客の増加率も、毎年 20 〜 30 パーセントという高い増加率を示していましたが、 ここで注意すべきことは、 航空業界とは時代の景気により著しく業績が左右される点で、 水商売と同じ傾向にあります 。ところが敗戦から立ち直った日本経済の右肩上がりの発達に伴う航空産業の成長を、単に自分たちの努力の結果であると誤解したのが、JALの経営者 ・ 従業員たちのそもそもの誤りでした。

イギリスの経済学者 ヒックスによれば、

独占の素晴らしいところは、平和であることだ

と述べていましたが、この言葉を JAL に当てはめると国際線では 1 社による独占体制が長く続き、国内にも当時強力な競争相手が無く、後述する国の支援を受けて経費節減の必要性もなく、従業員の リストラも、賃金 カットも起こらず、JAL にとっては非常に恵まれた経営環境が続きました。 この ゆがんだ成功体験により 経営者も従業員も堕落し、「 親方日の丸 意識 」 に どっぷり漬かる結果になりました。


[ 5: おんぶに、だっこの JAL の過保護 ]

政府が 50 パーセントを出資する半官半民の会社であった JAL には、前述の 日本航空法 に基づき政府から手厚い保護 ・ 育成策が与えられていました。

  1. ( 補助金の交付 )
    第 8 条 政府は会社に対し、その行う定期航空運送事業のうち当該路線の性質上経営が困難なものにつき、公益上必要な最少限度の運送を確保するため、予算の範囲内において、 補助金を交付することができる

    ちなみに昭和 28 年〜昭和 40 年 ( 1955 年〜1965 年 ) までの補助金の総額は、13 億 7 千万円強でしたが、当時の貨幣価値から判断すると 100 億円近くになりました。

  2.  ( 債務保証 )
    第 9 条 政府は、法人に対する政府の財政援助の制限に関する法律 ( 昭和 21 年法律第 24 号 ) 第 3 条の規定にかかわらず、国会の議決を経た金額の範囲内において、 会社の債務について、保証契約をすることができる

    同上の時期において政府保証の付いた借入金総額は 79 億円 であり、政府保証の付いた社債は 182 億円 でした。万一の場合には政府が支払いを保証するため、金融機関から当然安い金利で借り入れができました。

  3. ( 政府所有株式の 後配
    第 10 条 会社は、法人に対する政府の財政援助の制限に関する法律第 1 条の規定にかかわらず、毎営業年度における配当することができる利益金額が政府以外の者の所有する株式に対し、年100 分の 8 の割合に達するまでは、 政府の所有する株式に対し利益を配当することを要しない

簡単にいえば JAL の一般 株主に対する利益配当が 利率 8 パーセントに達しない限り 、50 パーセントの JAL 株を持つ政府に対しては、配当をする必要がない という、他の航空会社から見れば夢のような恵まれた条件でした。

[ 6: JAL をむしばむ、シロアリ たち ]

上記の他にも JAL への支援策として事務次官会議の席上、 旧 運輸省の事務次官から下記の要請がありました。

国家公務員が海外出張をする際には、極力 JAL を利用すること

シロアリの集団

この申し合わせ事項が成立し、その結果 各省庁からの海外出張者、( 毎年 何百 〜 何千 人 ) が JAL の飛行機を利用することになり、JAL の国際線の売り上げが増加しましたが、このことが後に政界 ・ 官界と JAL との癒着、もたれ合いを招くことになりました。

( 6−1、役所に巣食う シロアリ )

友人である JAL の パイロットから 聞いた話によれば、 旧運輸省 ・ 航空局内には JAL の社員が机と電話がある席を持ち、会社には出勤せずに毎日そこで勤務していました。仕事は航空局内の情報収集 ・ 会社との連絡係でしたが、別の表現をすれば 「 ご用聞き 」 であり、運輸省の誰かが国内 ・ 海外出張を命じられると C F ( Customer's Fare、顧客割引券 ) と呼ばれる 50 % 割引きの航空券を手配し、配達したのだそうです。

たとえば成田−−ニューヨーク ( または ワシントン DC ) 間の ビジネス ・ クラスの往復料金が 80 万円だとすると、国家公務員旅費規程に従い 「 ひら 」 でも ビジネス ・ クラスの正規運賃が支給されますが、50 % 割引きの優待券を使用すれば、 半額の 40 万円が出張者の懐に入るので笑いが止まらなくなります

恥知らずの奴 になると料金を半額にしてもらっただけでは満足せずに、一般旅客の予約状況がほぼ決まる出発の数日前になり ファースト ・ クラスに空席があるのが分かると、 ビジネス ・ クラスから ファースト ・ クラスへの アップグレード ( 上位 クラスへの座席変更 ) を要求したのだそうですが、こんな シロアリ 連中に 食い荒らされた JAL も大変でした。

( 6−2、会社に巣食う シロアリ )

C F については、雑誌 「 Voice 」 の 1987 年 ( 昭和 62 年 )7 月号に下記の記事がありました。

まず日航が( 中略 ) 50 % 割引の優待券を、 ジャルパックの関連会社である U I ( ユニオン ・ インターナショナル ) に持っていく。 U I はこれを 1 枚 3,000 円 で町の金券屋に卸してしまう。本来、( 株主に ) タダで配る優待券だから、卸した分はまるまる U I の儲けになってしまう。

一方、金券屋はこれに 3,000 円の利益を載せて、 1 枚 6,000 円で客に売る。( 中略 ) U I は丸儲け、金券屋は 1 枚 3,000 円の儲けになり、客も本来の運賃の半額 プラス 6,000 円 で切符が買えるわけだ。

日航はこの C F 券を 「 ダンボールで U I に運び込む 」 ( 業界関係者 ) といわれ、U I はその大島 ( 個人名 ) の資金で 政界や マスコミ界を招待ずくめにした ものである。( 中略 ) これは日航批判を押さえるための、明らかな買収行為とみなされる。 「 大丈夫か 日本航空 」( 屋山太郎=政治評論家 ) より抜粋

中国語で 鉄飯碗 という言葉がありますが、落としても絶対に割れない鉄の茶碗のことです。半官半民の恵まれた経営環境にいれば、経営者 ・ 従業員ともに親方日の丸、絶対につぶれない航空会社という意識を持つのが当然であり、そうならない方がおかしいというものでした。次の記事もあります。

株主優待券

1999 年 ( 平成 1 1 年 ) 2 月 6 日付の地方新聞の第 1 面で、大きく日航幹部の不正行為が報道された。それによると、日航の幹部は株主にしか渡してはいけない 株主優待券 を、勝手に余分に大量に印刷し、都内の金券 ショップで 1 枚 数千円で換金して、自分たちの飲食費や小遣いにしていた。

その額は 過去 5 年分だけでも、 24 億円 に上ったとある。これは、窃盗 ・ 横領 ・ 背任そのものである。この事件は東京版の大手新聞及び有名週刊誌に、ほとんど報道されなかった。

地方紙以外の マスコミに対する日頃の C F の 「 ばらまきや招待ずくめ 」 の効果が、多分あったのかもしれません。

( 6−3、HSST の件

航空会社で SST と いえば Super Sonic Transport 、つまり コンコルドに代表される超音速機のことだと思いますが、かつて JAL では HSST ( High Speed Surface Transport、エイチ ・ エス ・ エス ・ ティ )と称する浮上式 リニア ・ モーターカーの開発を手掛けたことがありました。1971 年 ( 昭和 46 年 ) に成田空港と東京都心を結ぶための高速輸送機関としての計画が開始されましたが、J R の リニアが伝導電磁石 を使用した磁石の反発力によって浮上するのに対抗し、JALでは 常伝導電磁石 を使って車体を引っ張り上げる、つまり磁石の吸引力によって僅かに車両を浮上させるという方式なのだそうです。

羽田沖事故

しかし1972 年 6 月に ニューデリーでの着陸に失敗し墜落炎上した事故を皮切りに、同年 11 月の モスクワでの離陸直後の墜落事故、1977 年 1 月に起きた米国 アラスカ州 ・ アンカレージでの 「 酔っぱらい機長 」 による離陸直後の墜落事故、同年 9 月に マレーシアの クアラ ・ ルンプールで起きた墜落事故、1982 年 2 月に羽田で起きた精神分裂病 ( 遺伝性精神病 ) の機長による墜落事故 ( 写真 ) などの連続死亡事故の結果、 本業を おろそか にして 副業 などしているから、 5 件も大事故が起きたのだ と外部から強く批判されました。

飛行機以外の乗り物に手を出すのは問題だと社内の反対派から批判され、当時の運輸省からも開発を打ち切るように行政指導を受け、1978 年 8 月までに実験を中止することになりました。それまでに 52 億円 の資金を投資しながらものにならずに、1985年に他社に 1 億 2 千万円で売却しました。

[ 7: JAL の栄光の時代 ]

昭和 31 年 ( 1956 年 ) に経済企画庁は経済白書「 日本経済の成長と近代化 」 の結びで もはや戦後ではない と記述しましたが、この言葉は流行語になりました。それから 8 年が経ち、昭和 39 年 ( 1964 年 ) には東京 オリンピックが開催されましたが、日本経済は神武( じんむ天皇 ) 以来の好景気ということで、日本神話の神である伊邪那岐尊 ( イザナギのみこと ) から名前をとり「 いざなぎ景気」( 1966 年 〜 1970 年 ) と呼びました。

当時 ニューヨーク経由で世界一周路線を持つ航空会社は アメリカの空の王者、パン ・ アメリカン航空、B O A C ( 英国海外航空、)、オーストラリアの カンタス ( Qantas ) 航空だけでした。

世界一周路線

航空庁の初代長官から JAL に専務として天下り、昭和 36 年 ( 1961 年 ) に社長となった松尾静麿の方針で、JAL も羽田から世界 一周の路線を飛ぶことになり、多大の航空権益を米国に与える見返りに ニューヨークからの 以遠権 ( Beyond Right 、その国を経由して第 3 国に向け発着する権利 )を手に入れ、1967 年 ( 昭和 42 年 ) には世界の 一流航空会社の仲間入りを果たすこと になりました。写真は世界一周路線 ・ 就航 セレモニー。

大西洋線 ( ニューヨーク 〜 ヨーロッパ間 ) は世界でも最も輸送量の多い国際路線で、昭和 41 年 ( 1966 年 )12 月における北米−−欧州間の運航便数は 週間 495 便 もあり、太平洋線の約 9 倍もありました。この激戦区間に知名度の低かった日本航空が 僅か週 2 便の運航 を開始しても乗客がほとんどなく、したがって採算がとれないことは事前に十分予想されました。

しかし世界で僅か 4 社しかない世界 一周路線の仲間入りをようやく果たした当初は、 JAL の社員たちは プライドに満ちあふれ 肩で風を切って歩きましたが、世界の航空界はそれほど甘くないことを、やがて身にしみて味わうことになりました。元 JAL の社員でした人の ブログによれば、

( 路線は ) ニュ−ヨークから パリ、ロンドンへと運行されておりましたが旅客は極めて少なく、ひどい時は ( 旅客定員 140 人の DC−8 型機 に ) エコノミー ・ クラスのお客様が 2 名 という時さえありました。コックピットは機長、副操縦士、航空士、航空機関士と、客室乗務員が 6 名、合計 10 名の クルー編成なのにです。

まともな経営者であったなら 大西洋線を運行しないのが常識でありますが、この常識が通じないのが半官半民の会社なのです。

アメリカに対する多大の航空権益を与えたのと引き替えに入手した路線も、あまりの不採算性と後述する ニューデリー、モスクワなどで起きた DC−8 型機による 5 件の連続大事故により 、1972 年 ( 昭 47 年 ) には運休せざるを得なくなり、現在も運休が続いています。

よく考えてみてください、日本から北米の東海岸 ( ニューヨーク、ワシントン DC ) あるいは ヨーロッパ ( ロンドンや パリ ) に行く旅客がいても、そこから大西洋を横断して大陸の対岸に、 ビジネスや観光に行く日本人が どれほどいるのかを−−−。しかも現在の話ではなく、43 年も昔 ( 1967 年 ) のことで、海外旅行が解禁されてから僅か 3 年しか経ってない時期であり、 実力以上に JAL の 見栄 ( みえ ) を張ろうとした 松尾社長の無謀な選択でした。

日本経済の発展に伴う航空需要の大幅な増加に支えられて、国内線も国際線も順調に旅客、貨物の輸送量を増やしましたが、I A T A ( International Air Transport Association、 国際航空運送協会 ) の 1983 年 ( 昭和 58 年 ) の国際輸送実績で、 JAL は アメリカの パン ・ アメリカン航空を抜いて世界第 1 位になり、翌年の夏休み期間中の 8 月 20 日には、 国内線における 1 日の搭乗旅客数が 47,365 名となり、JAL 社内での新記録になりましたが、実態は急激な路線拡大で赤字路線も増え、「 収支に目をつぶった世界一 」 でした。

西洋のことわざに、

貧乏になるのは簡単だ、金持ちの 振り をすれば良い

というのがありますが、日本経済の発展と共に目覚ましい成長を続けて来た日本を代表する航空会社も、失われた 10 年〜 15 年ともいわれた経済の低成長期においても、金持ちの 「 ふり 」 をし続けたために、やがて転落の軌跡をたどることになりました。

江戸時代の元和 7 年 ( 1622 年 ) に出版された流布本 ( るふぼん ) の平家物語にある冒頭の文章に

沙羅雙樹 ( しゃらさうじゅ ) の花の色、 盛者必衰 ( じょうしゃ ・ ひっすい ) の理 ( ことわり ) を顕 ( あらわ ) す 。 驕 ( おご ) れる者久しからず、 只 ( ただ ) 春の夜の夢の如し

とありましたが、2009 年秋には 2 兆円 を超える債務超過に陥 ( おちい ) り事実上倒産しましたが、その後 裁判所に対して会社更生法の適用申請を行い、企業再生支援機構の管理下に入りました。バブル期には 2,010 円の最高値を付けた JAL の株 も、前述の如く僅か 1 円で取引終了となり、 諸行無常−−−ただの紙 クズ となり果てました。

[ 8:危険な航空会社 JAL ]

かつての JAL は世界的にも安全性の高い航空会社だったなどと自画自賛しましたが、本当に安全だったのでしょうか ? 。 航空事故統計によれば、その当時 死亡事故が起きなかった年は 1953 年 ( 昭和 28 年 ) から 1962 年 ( 昭和 37 年 ) までの 僅か 9 年間だけ のことでした。

戦後初の民間航空機墜落事故となった、マーチン 202 型の 「 もく星号 」 が伊豆大島の三原山に墜落したのは昭和 27 年 ( 1952 年 ) 4 月 9 日のことで、乗客・乗員 37 名が全員死亡しました。この事故について JAL の関係者は必ず言い訳をしました。当時運航を委託していたから ノースウエスト航空の事故であり、JAL の事故ではないなどと−−−。

乗客の立場からすればとんでもない話で、JAL の航空券を持ち、JAL の カウンターで チェックインし、JAL の マークの飛行機に乗り、JAL の スチュワーデスが機内 サービスをしたはずです。運航委託をしようがしまいが、そんなことは航空会社同士のことであり乗客にとっては関係ありません。現に旧運輸省の航空事故統計では JAL の事故として、きちんと分類されていますのでお間違いなく。

DC−8−62型

昭和 43 年 ( 1968 年 ) 11 月 22 日に サンフランシスコ湾で滑走路の手前 5 キロ メートルに JAL の DC−8 が 神業着水( かみわざ着水、松尾社長の談話 ) しましたが、浅瀬のために機体が沈まずに全員無事でした。N T S B ( アメリカ国家運輸安全委員会 ) の事故調査報告によれば、DC−8−62 型機 に装備された飛行計器が、それまでの DC−8−50 シリーズとは異なっていましたが、その使用方法を会社が パイロットに教育 ・ 訓練せず、したがって機長がよく知らずに飛んだのが原因でした。

その事故に関しては ブログの ここにも 書いてありますが、写真は クリックで拡大します。

JAL が飛び始めた 1952 年 ( 昭和 27 年 ) 以来 現在までの、日本における民間航空機の事故について、こういう データがあります。

日本の航空事故総覧

このうち、ハイジャックなどの テロによる死亡を除いた件数、および全てを含む件数 ( 右欄 ) は、下表の通りです。

会社名乗客・乗員の

死亡を伴う

事故件数

乗客・乗員の

死亡を伴わない

事故件数

インシデント

トラブル件数

ハイジャックを

含む事故異常運航

の合計件数

ANA202688
JAL1238123190


注:)
インシデント ( Incident ) とは、事故には該当しないが重大事故につながるおそれのある、運航上の出来事や飛行機の故障などのことです。

乗客 ・ 乗員の死亡を伴う事故件数についてみても JAL は ANA よりも 1.7 倍も多く、事故や異常運航などの総数については 2.1 倍も多いことが分かります 。 航空会社の国際的な安全基準である 100 万飛行回数 当たりの死亡事故件数の統計については

ここをご覧下さい

それでも貴方は JAL を安全な航空会社だと信じますか ?。

たとえば ケーキ屋の宣伝が人目を引き、売り子の容姿が良く、包装紙がいくら立派でも、ケーキを売る際に最も重要なことは商品の 品質 ( 安全性 ) です。 販売拡張や儲けをすべてに優先 させたり、ケーキ作りの 現場で仲間同士が いがみあったり、片手間に副業を始めたり すると 、 ケーキの品質 ( 安全生 ) が損なわれ、食中毒で死亡事故が起きるのは当然です


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