佐原の偉人


[ 1:佐原にある記念館 ]

現役の頃、大阪 ( 伊丹 ) 空港所属の パイロットが成田発の国際線 ( 午前発の便 ) に乗務する場合には、前日の午前中に大阪から成田に移動しましたが、昼間から成田空港近くにある ホテルの部屋に閉じこもって休養するのもつまらないので、「 なんでも見てみよう、行ってみよう 」 の好奇心が旺盛でした私は、その機会を利用して近隣各地の観光をすることに決めました。

千葉県内の名所旧跡はもちろんのこと、千葉 ・ 茨城両県にまたがる水郷地帯を初め、当時存続が危ぶまれていた銚子電鉄の古びた電車に乗り、銚子の外れにある犬吠埼も訪れました。

茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮と千葉県香取市にある香取神宮は共に歴史の古い神社ですが、平安中期の 927 年にできた律令施行細則である 延喜式 ( えんぎしき ) の神名帳 ( じんみょうちょう、神社名簿 ) に名前が載っています。

鹿島神宮

それに記された 2,861 社 のことを延喜式の内に記載された社 ( やしろ ) の意味から、一般に 式内社 ( しきないしゃ ) といいますが、そのうちで 「 神宮 」 と記された社 は、伊勢神宮 ・ 鹿島神宮 ・ 香取神宮の僅か 3 社しかありません。その鹿島 ・ 香取の二つの神宮にも生まれて初めて参拝しました。( 写真は鹿島神宮本殿 )

忠敬の旧宅

ある時成田に前泊した際に、例によって 好奇心から千葉県内にある 佐原市 ( さわらし、平成 18 年から香取市に合併 ) に行きましたが、目的は市内にある 伊能忠敬 ( いのう ・ ただたか / ちゅうけい と呼ぶことが多い ) の旧宅や、近くの記念館を訪れることでした。佐原は利根川の右岸にあり、かつては舟運による物資の集散地として栄えたところでしたが、伊能忠敬の旧宅前にも利根川に通じる小野川が流れていました。

( 1−1、偉人に対する評価の変化 )

皇国史観や皇国民教育が盛んだった戦前 ・ 戦中には 「 勤皇 」、「 忠君愛国 」 という基準 ・ 価値判断で偉人とされた人物がたくさんいて、その中には国民学校 ( 小学校のこと ) の国史 ( 歴史 ) や修身 ( 倫理 ・ 道徳 ) の教科書に記載された人々もいましたが、楠木正成、吉田松陰、乃木希典 ( まれすけ ) 、旅順港封鎖作戦の際に船内の部下を捜して戦死した広瀬武夫などでした。

広瀬中佐

今では若者の街になった、 東京の電気街 アキバ ( 秋葉原 ) の南を流れる神田川には万世橋 ( まんせいばし、千代田区 ・ 神田須田町 ) が架かっていますが、そのそばには第 2 次大戦まで広瀬中佐と部下の杉野兵曹長の銅像があり、子供の頃には すぐそばにあった鉄道博物館を訪れる度に、 大きな銅像を見たのを覚えています。( 写真は多分、大正時代のもの )

ところが敗戦を契機に歴史上の人物に対する評価が 180 度変わったので、ほとんどの偉人はその座から滑り落ちてしまい、その後は社会から顧みられなくなりましたが、伊能忠敬だけは例外で、現在もその評価が変わらずにいます。

正確な地図

その理由は人生僅か 50 年といわれた時代に、 49 才で家業を息子に譲り隠居しましたが、その後のいわゆる第 2 の人生では、上総 ( かずさ、千葉県 ) からわざわざ江戸に出て来て天文学 ・ 測量学を学び、それまで誰も試みなかった日本全国の沿岸をくまなく測量してまわり、その結果から 正確な 日本地図を作成するという偉業 を達成したためでした。( 図で内陸の白い部分は、測量が未実施の部分です )

昔の地図

彼の行為は 今流行の 生涯学習の手本 とも称すべきものでしたが、17 年間にわたる努力の結晶が それまでの不正確だった日本地図の形を大きく変えました。左の地図は、伊能忠敬以前に描かれていた日本地図です。


[ 2:地図の歴史 ]

「 後漢書 」 の東夷伝によると、

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等、獻生口百六十人、願請見。

と記載されていますが、その要点は

金印

中元 2 年 ( 紀元 57 年 ) に倭奴国王が朝貢したので、後漢 ( 25〜220 年 ) の初代皇帝である光武帝が、例の 漢委奴国王 ( かんのわのなのこくおう ) の印綬 ( 金印、身分を示す官印とそれを結び下げる組紐、くみひも ) を授けました。 その後 安帝の治世である永初元年 (107 年 )には、倭国王の 帥升等 ( シシト / 又は スシト ) が生口 ( 奴隷 ) 160 人を献じ、安帝へのお目通 ( どお ) りを願った。

ということでした。

つまりその当時から倭 ( わ ) 国の航海者には中国との航路に関するかなりの知識があり、仲間と情報を共有し伝えるために板などに初歩の海図を記録していたことが想像されます。

余談ですが、江戸時代の 1784 年になって、福岡県志賀島で光武帝が授けたとされる金印が、農民によって偶然発掘されました。

最古の地図

ところで現存する最古の地図らしきものは、鳥取件倉吉市にある上神 ( かずわ )48 号古墳の壁画 ( 260 センチ X 224 センチ ) にありますが、6 世紀頃のものと推定されます。朱を塗った平たい巨石の表面の、中央に家屋 ・ 道路 ・ 橋 ・ 鳥居 (?)・ 樹木などが線刻されています。

地図を意味する言葉が文献に最初に現れたのは、「 日本書紀 」 巻 9 の仲哀天皇 ( ちゅうあいてんのう、391 年 ? ) 10 月の条ですが、新羅王が降伏のしるしとして 図籍 ( しるし へふむた )、すなわち地図と戸籍を差し出したとありました。当時は地図のみを指して呼ぶ特定の言葉がなく、「 しるし 」 という語で代用していました。 しかし後に地図のことを 「 かた 」 という名前で呼ぶようになりました。

みことのり

日本書紀 ・ 巻 25 の大化 2 年 ( 646 年 ) 8 月 14 日の条には詔 ( みことのり ) が記されていますが、その文言が右図にあります。その読み方は、

宜 ( ヨロ ) シク国々ノ彊堺 ( サカヒ ) ヲ観 ( ミ ) テ、或 ( アル ) イハ書 ( フミシル ) シ、或イハ図 ( カタヲカ ) キ−−−云々

として、国単位の地誌と 地図の提出 を命じていましたが、これは地図を天皇に奉じる命令( 詔 ) としては初めてのものでした。

[ 3:生い立ち ]

伊能忠敬は延享 2 年 ( 1745 年 ) に、上総 ( かずさ ) 国山辺郡小関村 [ 現、千葉県山武 ( さんぶ ) 郡 九十九 里町小関 ] の網元小関家の婿 ( むこ ) 貞恒 ( さだつね ) の第 3 子として生まれましたが、6 才の時に母が死亡し、父が離縁になったので、酒造家でした父の実家に引き取られ、17 才で佐原村 ( 現、佐原市 ) の酒造家伊能家に入り婿 ( むこ ) しました。

その当時傾きかけていた伊能家の酒造 ・ 米穀販売 ・ 川船運送 ・ 貸し金業の商売は忠敬の努力によって発展し、天明 8 年 ( 1788 年 ) には酒造高は年間 1,480 石に達し、35 軒あった佐原周辺の酒造家の中でも 1 、2 位を争うまでに繁盛しましたが、彼は計算が得意であり人並み外れた商才があったからでした。

関東地方の北にある 浅間山の大噴火 によって生じた天明 3 年 ( 1783 年 )と、天候不順がもたらした天明 6 年の大飢饉の際には、伊能忠敬は米の炊き出しをして多数の人々を飢えから救ったので、その地域の支配者( 地頭 ) でした津田山城守から名字帯刀を許されるようになり、寛政 6 年 ( 1794 年 ) に 49 才で隠居する際には、長男が相続した財産は 3 万両 ( 約 12 億円 ) だったといわれています。

( 3−1、50 才からの勉学 )

忠敬は隠居してからの名前を 勘解由 ( かげゆ ) と名乗りましたが、寛政 7 年 ( 1795 年 ) 50 才の時に江戸に出て、念願の暦や天文などの勉強をすることにしました。当時江戸には関西から幕府に招かれた二人の優秀な暦学者である、高橋至時 ( よしとき ) と 間 重富 ( はざま しげとみ ) がいましたが、共に幕府の天文方 ( てんもんかた ) でした。伊能忠敬は高橋至時 ( よしとき ) の門に入り、門下生として 西洋天文学 ・ 西洋数学 ・ 天文観測学 ・ 暦学 等を学びました。

( 3−2、暦のずれ )

江戸時代の初め頃までは、平安時代に中国からもたらされた 宣明暦 ( せんみょうれき、注参照 ) という暦 ( こよみ ) と中国の暦学を基本にして、幕府が作った暦である 官暦 ( かんれき ) を使用していました。

注:)
宣明暦とは、唐の徐昂 ( じょこう ) が作成した太陰太陽暦のことで、中国では 822 年から 71 年間使用したのに対して、日本では 862 年から 1684 年まで 823 年間 の長期にわたり使用しました。

13夜の月

しかし修正もせずに長年同じ暦を使用していたために、暦の 二十四 節気 ( せっき、大寒 ・ 大暑 ・ 立秋 ・ 秋分 ・ 白露など ) や月の 朔望 ( さくぼう、新月と満月 ) などの天体の運行が、次第に暦とずれるようになりました。

その結果官暦にある ( 陰暦 ) 8 月 15 日の 仲秋 ( ちゅうしゅう ) に月見をしても、満月 ( 十五夜 ) が見られないという不具合が生じ、幕府が作る暦に対する信頼性が失われました。( 写真は 十三夜の月 )

そこで 8 代将軍吉宗 ( 1684〜1751 年 ) がそれまで全面禁止していた洋書の輸入を一部解除して、天文学や暦の作成に必要な外国の書物に限り許可しましたが、そこまで念入りに準備をして幕府が作成した宝暦 5 年 ( 1755 年 ) の宝暦暦 ( ほうれきのこよみ ) は、計算の誤りから 8 年後の宝暦 13 年 ( 1763 年 ) 9 月 1 日に起きるはずの 日食について 、記載していませんでした。

その誤りを前述の暦学者、高橋至時 ( よしとき ) の更に恩師に当たる麻田剛立 ( あさだ ・ ごうりゅう ) が指摘し、彼の計算通りに日食が起きたので、幕府も西洋暦について関心を持つようになり、暦の改正作業をおこなう 改暦御用所 を京都に設けることにして、ここで天体の実地観測がおこなわれました。

しかしこの仕事の公式代表者は、先祖代々 中国伝来の古い暦の知識を受け継ぐ 京都の土御門家 ( つちみかどけ ) という、格式や家柄の高さのみを誇る公家であり、実際に観測や計算をしたのは幕府の天文方 ( 注参照 ) でした。

注:)
天文方 とは江戸時代に天文、暦算、洋書の翻訳、測量に従事した幕府の職名で、司天官 ( してんかん ) ともいいました。1684 年に創設されましたが、編暦の推算 ( 計算 ) をおこなって、その データを平安時代以来編暦にかかわってきた土御門家 ( つちみかどけ ) に 送る仕事をしてきました。天文方の職務は世襲で、渋川、猪飼、西川、山路、吉田( 後に佐々木 )、高橋の 6 家が有名でしたが、後に奥村、足立の 2 家も天文方に任ぜられ 8 家になりました。

参考までに明治 5 年 ( 1872 年 ) まで日本で使われていた暦は、月の公転周期を基本としていた太陰暦に、季節変化など太陽暦の要素を取り入れて作った 太陰太陽暦 なので、ひと月の長さが 29 日または 30 日でした。 さらに明治維新まで、編暦の仕事は前述のように 800 年以上もの間、特定の家の 家業でしたが 、明治維新以後はそれまでの 太陰太陽暦を止めて太陽暦を採用しましたが、遍暦の仕事も土御門家から天文暦局へ、その後星学局へ、さらに東京天文台へと移りました。

( 3−3、測量の必要性 )

地球

正確な暦を作るには地球の大きさを正確に知ることが不可欠ですが、外国から輸入された書物の翻訳によれば、60 里を以て緯度 1 度とするとあり、別の書物では 15 里となっていて一定しませんでした。そこで高橋至時 ( よしとき ) は日本でこれまで 1 度も実測された事が無かった、地球の子午線 1 度の長さを確認する必要性を感じていました。地球を球形であると仮定すれば全周は 360 度なので、 緯度 1 度の距離を実測し、それを 360 倍すれば 、全周つまり地球の大きさを正確に知ることができると考えました。

折も折、帝政 ロシアが東に向けて次第に領土を拡大し シベリア、アラスカ、カムチャツカを自国の領土にすると共に、不凍港 ( 冬でも凍らない港 ) を求めて ロシア船が蝦夷 ( えぞ、北海道 ) に接近しました。特に寛政 4 年 ( 1792 年 ) には ロシアの特使、アダム ・ ラックスマンが エカテリーナ号で根室に入港し、大黒屋光太夫ら 3 人の漂流民を遭難から 9 年半後に日本に送り届けるとともに、通商を要求しました。

幕府は国防上の見地から蝦夷地方の地形を正確に知る必要に迫られ、以前に堀田仁助を派遣して沿海測量を行わせましたが、略図程度のものでした。そこで天文方の高橋至時 ( よしとき ) はこの機会を利用して幕府に蝦夷地の精密測量を申請し、同時に蝦夷への往復旅行の際に子午線 1 度の長さを実測しようと計画しました。伊能忠敬がその任に当たることになりましたが、彼にとっては願ったり叶ったりのことでした。

[ 4:測量の開始 ]

蝦夷地

伊能忠敬は幕府蝦夷掛 ( えぞかかり ) の松平信濃守からの測量許可書を、寛政 12 年 ( 1800 年 ) 閏 4 月 14 日付けで受領しましたが、その正式文書の内容とは、

高橋作エ門弟子、[ 高橋作エ門 至時 ( よしとき ) の弟子 ]
西丸小姓番頭津田山城守知行所 、( 佐原村の領主である津田山城守の江戸城における職名、)
下総国香取郡佐原村元百姓、( もとは佐原村の百姓の出 )
浪人 伊能勘解由 、( 現在は 幕府からではなく、領主の津田から 名字帯刀を許された士分、しかし浪人 )

その方、かねがね心願のとおり、 測量試みのため 、蝦夷地へ差しつかわされるので、入念に努力せよ。
右につき、御用中、1 日につき 銀 7 匁 5 分 ずつ下される

というものでした。これを読むとお前が測量をしたいと願い出たから、許可してやるのだ。一生懸命努力せよ。さらに測量という言葉を使用せずに、 測量試みのため ということで、幕府が忠敬の測量技術を信用していなかったことが分かります。さらに支給される旅費の少なさでした。彼の測量隊は蝦夷地の測量や測量機器の運搬のために、 助手 3 名、人夫 2 名の合計 6 名 の編成でしたが、それに対する全員の旅費が 1 日当たり銀 7 匁 5 分 ( 約 7,000 円 ) ということでした。

伊能忠敬は寛政12 年 ( 1800 年 ) 4 月 19 日に蝦夷地 ( 北海道 ) に向けて出発しましたが、これが全国地図を作るための測量の始まりになりました。その途中で地球の大きさを知るために必要な緯度 1 度の距離を実測する作業もおこないましたが、蝦夷地では大変な苦労と労力を使い東側の測量を終えて、 10 月 21 日に半年ぶりに江戸に帰りました。

伊能忠敬はその際の測量に要した経費の不足分を、すべて 自費 でまかないましたが、 その額は 10 両盗めば首が飛ぶ ( 死罪になる ) 時代に、 80 両 ( 約 297 万円 ) にも及びました

その後も彼は幕府の命令で各地の測量をおこない地図を作り幕府に納めましたが、文化元年 ( 1804 年 ) 60 才の時に幕府はようやく伊能忠敬の測量技術のすばらしさを認め、 10 人扶持 ( ぶち、注参照 )を支給し、小普請組に所属させ、天文方の高橋至時の元で働くことになりました。これにより薄給ながらも 一応 幕府の役人 となり、全国の大名の領地を測量する際には何かと便利になりましたが、その後も 71 才まで弟子を連れて全国の沿岸や陸地を測量して回りました。

注:)
扶持 ( ふち ) とは武家の主君が家臣に与えた給与の一種ですが、江戸時代には 1 日につき 玄米 5 合を 1 日扶持 として、これを基準に何人扶持と称して 1 年分の米や金を 下級武士 に支給しました。忠敬のように 10 人扶持であれば、1 日につき玄米 5 升に相当する現物、あるいは現金が支給される意味です。もっとも忠敬は最初の頃から、かなり自費で測量したほどの裕福な酒造家の隠居でしたので、扶持の多少など問題にしなかったはずです。

( 4−1、緯度を測る方法 )

六分儀

50 年以上昔のこと海上保安大学の学生時代に習った天文航法の知識によれば、自分がいる場所の緯度を最も簡単に知る方法は、六分儀 ( Sextant、セックスタント ) で北極星の高度を測る 北極星緯度法 ( Latitude by Polaris )でした。

一等航海士

北極星は天空の真北にあるので、北極では真上の高度 90 度になり、赤道では逆に北極星の高度は ゼロ になります。図形による説明は煩雑 ( はんざつ ) になるので省略しますが、北極星の高度を水平線から測り、その値が仮に 35 度であれば、 大気による光の屈折補正などの件はさて置き、 自分がいる位置は北緯 35 度 の線上にいることになります。写真は六分儀で昼間に、 太陽高度を測定中の学生です。

北極星緯度法

星の高度を測って船の位置を算出するす天測 ( Star Sight ) では、北極星や航法に使用する 45 個ある恒星のうちから適当な星を 2〜3 個選んで高度を測り、地図上に位置の線 ( Position Line ) を引き、その交点を出して位置決定をしますが、 当然のことながら水平線と星の両方が見える薄暮 ( はくぼ、夕暮れ時 ) や 黎明 ( れいめい、夜明け ) 時に限られます。

星座が見える晴天の場合には目的の星を探すのは簡単ですが、曇り空の隙間からところどこに星が見える場合には、どの星が分からないので、事前に索星計算をおこない目的の星の概略の高度、方位を算出し、星を探し出して測定します。

象限儀

伊能忠敬がおこなった沿岸測量の場合には常時水平線が見えるとは限らず、山のために地平線が得られない場合がありましたが、そのため陸上の測量ではそれに代わる、鉛直方向を基準にして、そこからの天体高度を測る 象限儀 ( しょうげんぎ ) という装置を使用しました。彼は 蝦夷干役志 の中で、

北緯については泊まり泊まりで象限儀を用い、恒星中の大星を選んで、天気が曇って見難い時は 5 〜 6 星、晴天の夜には 20〜30 星もその地の高度を測量し、−−。

と書きましたが、ひと晩に 30 回も星の高度を測定したならば、寝る時間も少なくなったはずです。象限儀の現物は伊能忠敬記念館にありました。

( 4−2、緯度 1 度の距離の測り方 )

緯度 1 度の長さ ( 距離 )を測るには、基準となる地点から磁石を参考にして 北に向かって歩き 、北極星の高度が 1 度だけ高くなった所までの距離を正確に測ることでした。その方法とは

  1. 歩測 の実施。歩幅を一定にして歩いた歩数で距離を測る方法ですが、伊能忠敬は事前にそのための訓練をして、1歩が約 70 センチの歩幅で歩きました。

    間縄

  2. 間縄 ( けんなわ ) の使用。昔からの長さの単位で 1 間 ( けん ) というのがありましたが、明治 24 年 ( 1891 年 ) に尺貫法が制定され、それ以降、1 間を 6 尺 = 1.818 メートル とする単位になりましたが、昭和 33 年 ( 1958 年 ) に廃止されました。

    間縄とは、いわば 長い巻尺 の役目をするものでしたが、材質については麻、しゅろなどに漆 ( ウルシ ) や柿渋 ( カキシブ )を塗った縄、竹縄 ( 竹の繊維から作るもの ) などいろいろありましたが、欠点は俗に 「 朝縄、夕縄 」 と呼ばれるくらいに 湿度の差 によって縄が伸び縮みしたことでした。

    伊能忠敬が最初に蝦夷に測量に行った際に持参したのは、からむし ( 苧麻、ちょま ) の繊維で作った長さ 60 間 ( 108 メートル ) 重さ 750 匁 ( もんめ、約 2.8 キロ ) の間縄 2 筋 ( すじ ) でした。

    鉄鎖

  3. 鉄鎖 ( てっさ ) の使用。間縄 ( けんなわ ) の欠点を補うために、鉄のハリガネを長さ 1 尺 4 〜 5 寸 ( 約 45.5 センチ )ほどに切って両端を鐶 ( かん ) 状にしてその内法 ( うちのり )を長さ 1 尺( 30.3 センチ ) に定めたものを 60 本つないで 1 間 ( 1.8 メートル ) ごとに印を付け、10 間 ( 18 メートル ) の鉄鎖縄にしました。鉄鎖は地面が概ね平らなところで使用しました。

  4. 量程車 ( りょうていしゃ ) について。人が引いて距離を測る歯車式箱車でしたが、現代のような舗装道路ではなく、石ころの でこぼこ道や砂浜のために役に立たず、結局使われませんでした。

  5. 間竿 ( けんざお ) の使用。間竿 ( けんざお ) とは上質の檜材 ( ひのきざい ) の長さ 1 間 = 1.8 メートルの竿で、短い距離の間数 ( けんすう ) を測るのに使用されました。豊臣秀吉が全国的におこなった検地 ( いわゆる太閤検地 ) にも類似の竹竿が使用されましたが、その際には検地竿 ( けんちざお ) とも呼ばれました。

    伊能忠敬は毎朝測量開始前に、間縄 ( けんなわ ) や鉄鎖 ( てっさ ) の長さに狂いが無いことを間竿 ( けんざお ) で確認すると共に、使い易いように釣り竿のように 2 本つないで 2 間 = 3.6 メートルの長さにして、縄や鎖が足りない時や岩場など、間縄 ( けんなわ ) や鉄鎖 ( てっさ ) が使用しにくい所で使用しました。

蝦夷地の測量を終えた時点で、緯度 1 度の距離を 27 里 ( 3.927X27= 106.02 キロメートル ) という実測結果を出しましたが、その翌年になって日本の東海岸、奥州街道を測量して、1 度を 28 里 2 分 ( ぶ )、( 3.927 X 28.2 = 110.741 キロメートル ) に訂正しました。

理科年表によれば、緯度 35 度 ( ほぼ 東京付近 ) における 子午線 ( 緯度 ) 1 秒の長さ ( 距離 ) は 30.8 m ですので、緯度 1 度の距離は 30.8 ( m )X 60 ( 秒 )X 60 ( 分 ) = 110.880 キロメートル になります。この値と伊能忠敬の測定結果を比較すると距離の誤差は僅か 0.139 キロメートル ( つまり 139 メートル )であり、比率に直すと 0.125 パーセント にしか過ぎませんでした。

忠敬の値が出てから 2 年後に師匠の高橋至時 ( よしとき ) が オランダ語で書かれた 「 ラランド暦書 」 を入手しましたが、原本は フランスの天文学者で、パリ天文台長を勤めた ラランデ ( Lalande、1732〜1807 年 ) が書いた本を、 オランダで自国語に翻訳したものでした。そこに記載されている緯度 1 度の距離と比較したところ、ほとんど一致したので、高橋至時は弟子である伊能忠敬の測量技術の正確さ、計算能力が ヨーロッパの 一流天文学者と同じ程度であり 、彼の仕事に対する熱心さ誠実さを改めて認識しました。

[ 5:伊能図の種類 ]

伊能忠敬がほぼ 17 年かけて作成した日本地図 [ 大日本沿海輿 (よ) 地 全図 ] は 3 種類ありますが、詳しい内容を示す地図の順に
  1. 214 枚が 1 組で 3 寸 6 分を 1 里とする、 ( 3 万 6 千分の 1 ) の 大図 ( おおず )。経度線の記入が無く、遠望した山の側面形が絵画風に書き込まれているだけのもの。
  2. 8 枚が 1 組で 6 分 ( ぶ ) を 1 里とする、 ( 21 万 6 千分の 1 ) の 中図 ( ちゅうず )

  3. 3 枚が 1 組で 3 分を 1 厘 ( りん ) とする、( 43 万 2 千分の 1 ) の 小図 ( しょうず )

がありました。なお伊能図 ( 大日本沿海輿(よ)地全図 ) の前書きには、

経度線ハ 京師ヲ以テ 中度 ( チュウド ) トシ 東西ニ分ツ
経度中央

とありましたが、京師 ( 京都 ) を通る経度線 ( 子午線 ) を 「 中度 ( ちゅうど、中央の基準 )」 と定め、これから東西に経度線を引くという意味でした。これは イギリスで グリニッジ天文台を通る経度線 ( 子午線 )を、 本初子午線 ( ほんしょ しごせん、Prime Meridian、基準となる子午線 ) に定めたのと同じ考えでしたが、その理由は平安時代から続く暦の本家である土御門家 ( つちみかどけ ) が、京都にあったからでした。

[ 6:測量図の正確さ ]

日本が開国 ( 1853 年 ) した後の文久元年 ( 1861 年 ) に、イギリス海軍の測量艦隊の アクテオン号 ( Actaeon ) を旗艦とする、ドーブ、エルジン、レフェンなど 4 隻の測量艦が来航し、日本の沿岸の測量を計画しましたが、それに対して幕府は 「 攘夷派を刺激しない方が良い 」 として測量の中止を勧告しました。

しかし イギリスの軍艦はそれを無視して日本沿岸の測量を強行しようとしましたが、連絡士官として同乗していた 幕府の役人 ( 注参照 )がたまたま所持していた伊能 (小) 図の写しを艦長が見て、自分たちが始めた江戸湾付近の測量の結果と一致したことから日本の測量技術の優秀さに大いに驚き、ただちに測量を中止して幕府から測量図の写しを入手することで、引き下がったといわれています。

しかしこの話はすべてが事実というわけではなく、忠敬が測量した 「 伊能図 」 は地図であり海岸線の形状は詳細に記載されていたものの、 海図 ではないので 水深や海中の暗礁の位置 などは全く記入されていませんでした。イギリスの測量艦は商船の安全航行に必要な データについては、可能な限り測量したというのが事実のようでした。この件について外国奉行下役 ( したやく、〜 の部下 ) の荒木済三郎の日記によれば、

注:)
通訳など合計 6 名と一緒に アクテオン号に同乗していましたが、文久元年 ( 1861 年 )7 月 12 日、アクテオン艦上で 港 ・ 浦などの地名 ・ 領主名などを艦長から聞かれてもろくに答えられませんでした。そこで持参していた伊能勘解由 ( かげゆ、隠居後の忠敬の名前 ) の地図の写しを広げて見ていると、その地図が艦長の目に止まりました。

これほど正確な地図が入手できれば、我々が改めて海岸測量をする必要もないというので、幕府の御軍艦方にある測量絵図を回してくれるようにと、御用状をしたため幕府へ差し出しました。

なお、このとき イギリス側に渡された伊能 (小) 図の写しを元に、1863 年に イギリスで 「 日本と朝鮮近傍の沿海図 」 として刊行され、海図の大改訂をおこないました。それが日本に逆輸入されて、勝海舟 ( 1823 〜1899 年 ) の手によって慶応 3 年 ( 1867 年 ) に 「 大日本国沿海略図 」 として木版刊行されました。これにより伊能図を秘匿する意味がなくなったため、同年には幕府開成所からも伊能(小)図を元にした 「 官版実測日本地図 」 が発行され、小図のみとはいえようやく一般の目に供されるようになりました。

( 6−1、朝鮮人学校における教科書の記述 )

伊能図の正確さについて イギリスの測量艦の艦長から高い評価を受けた点について、日本が朝鮮半島を統治した時代に朝鮮総督府が編集し、普通学校 ( 朝鮮人用の学校 )で使用した修身の教科書には、以下のように記述されていました。

徳川幕府ノ末、イギリス人我ガ国ニ来たりテ、近海ヲ測量センコトヲ乞ヒシコトアリ。其ノ時、幕府コレニ忠敬ノ製シタル地図ヲ与ヘシカバ、イギリス人ハ之ニヨリテ測量ヲ試ミシニ、其ノ里数 ・ 位置ナド少シモ違ハザリキ。ヨリテ直チニ測量ヲ中止シ、我ガ国ノ既ニカカル精密ナル地図ヲ有セルコトヲ驚嘆セリトイフ。

忠敬人トナリ正直ニシテ、外見ヲ飾ラズ。気力盛ンニシテ、カツテ仕事ヲ廃セシコトナシ。年 70 ヲ越エ、髪コトゴトク 白クナルニ至リテモ−−−以下省略。

ちなみに明治 43 年 ( 1910 年 ) の日韓併合当時の朝鮮半島には、近代的な学校教育の制度は全く存在せず、庶民階級は 教育とは無縁でほとんどが文盲 でした。合併当時の朝鮮の教育について詳しくは ここをクリック

その当時の

[ 7:シーボルト事件 ]

伊能忠敬が師と仰いだ幕府天文方の高橋至時 ( よしとき ) が 41 才の若さで病死した後、長男の景保 ( かげやす、1785〜1829 年 ) が世襲により天文方に勤め、地図測量に従事し、天文方筆頭になり書物奉行も兼務しました。伊能忠敬の死後、その測量に基づいて大日本沿海輿地全図 ( よちぜんず ) の完成に協力しました。

当時長崎にあった オランダ商館に医官として来日した ドイツ人の医師で、博物学者の フィリップ ・ シーボルト ( 1796〜1866 年 ) がいましたが、彼は日本人に医学を教え、また 1824 年には長崎の鳴滝に診療所兼、学塾の 鳴滝塾 を開き蘭学の講義をしました。日本人の中で西欧の進んだ学問に興味を持つ者が自然に シーボルトの周囲に集まりましたが、のちの蘭学者 ・ 蘭方医の高野長英、蘭方医の伊東玄朴なども塾生となり、さらに前述した天文方の高橋景保 ( かげやす ) も シーボルトが江戸を訪れた際には、新知識を求めて彼と交際するようになりました。

( 7−1:地図に関する幕府の基本方針 )

伊能忠敬が測量した、精巧な地図の取り扱いに関する幕府の基本方針は、

  1. 写しを作成し、それを諸大名や国内の関係者に贈与することは、黙認する

  2. 写しを含め地図の国外への持ち出しは、 厳禁とする

でしたが、文政 12 年 ( 1829 年 ) に シーボルトが任期を終えて帰国する際に高橋景保 ( かげやす ) は、シーボルトの求めに応じて伊能忠敬が測量した、日本全国図、蝦夷( 北海道 )図などの写しを 国禁を犯して彼に渡しましたが 、外国の地図や書籍などを シーボルトから入手する約束だったともいわれています。

間宮林蔵

シーボルトによる伊能図の海外持ち出しが発覚したのは、伝えられていた暴風による オランダ船の難破がきっかけではなく、 カラフト ( サハリン ) が島であることを発見し、 間宮海峡 ( タタール海峡、Tatar Straight ) に名前を残した、幕府の 隠密兼 北方探検家 でした 間宮林蔵 ( 倫宗 ) の、 密告 が原因であったとする説が有力です

実際に彼は隠密の仕事をしていて、シーボルト事件から 7 年後の天保 7 年 ( 1836 年 ) には、石見国 ( 島根県 ) 浜田藩による朝鮮半島、中国などとの密貿易の証拠をつかみ、その結果浜田藩の当主は強制隠居させられ、跡取りは左遷大名の封ぜられる地として名高い、 陸奥国の棚倉藩 へ懲罰的な転封となった経緯がありました。高橋景保 ( かげやす ) は国禁を犯した罪で逮捕投獄され獄中で死亡しましたが、死後に死罪を宣告され塩漬けの遺体を打ち首にされました。

隠密行動は間宮林蔵だけではなく、シーボルトも医師の仕事をしながら、極東における地図や文物に関する情報収集の仕事をしました。彼は測量図の受け取りがもたらす逮捕の事態を予め予想して、入手した地図を徹夜で コピーし、それを別の方法で オランダの植民地 バタビア( Batavia、インドネシアの首都 ジャカルタのことで、1602 年から オランダ東 インド会社の拠点 ) 経由で既に海外に送り出しましたが、それらの地図が後に ヨーロッパの地図学者の間で高く評価されました。一度は国外退去させられた シーボルトは、30 年後の安政 6 年 ( 1859 年)に再度来日し、今度は医師や スパイではなく幕府の外交顧問に就任しましたが、世の中とは皮肉なものです。

[ 8:伊能地図のその後 ]

忠敬像

伊能忠敬は寛政 12 年 ( 1800 年 ) の蝦夷地測量以来、文化 13 年 ( 1816 年 ) の江戸府内の実測を終了するまで、通算 3,737 日間測量に当たり、1,203 箇所の地点で天体観測をおこない、測量した距離は地球一周の 88 パーセントに相当する約 3 万 5 千 キロメートル に及びました。

ところで私は 「 もの好き 」 から退職後に四国霊場 八十八カ所を歩いて巡りましたが、忠敬に比べて僅か 1,200 キロメートルの距離を ただ歩くだけでも辛くて大変なことでしたので、測量機材を持ち運びしながら 29 倍の距離を歩いた彼の苦労は考えただけでも頭が下がります。

忠敬が老齢のため直接測量に従事しなかった伊豆七島、伊豆、箱根、富士、などの測量を加えて、彼と弟子たちが日本全国の測量をようやく完了したのは、文化 13 年の 10 月 23 日のことでした。

駿河湾

忠敬はそれから 1 年半後の文政元年 ( 1818 年 ) 4 月に江戸八丁堀の自宅で病気により数えで 74 才の生涯を閉じましたが、彼の死が世間に知らされたのは、息子の秀蔵や弟子たちの手によりこれまでの測量図から色付きの美しい地図に製図され、 大日本沿海輿地全図 ( よち ぜんず、大 ・ 中 ・ 小図の合計 225 枚 ) と、 輿地実測録 ( よち じっそくろく、14 巻 ) が完成し幕府に提出を終えた 3 年 5 ヶ 月後の、文政 4 年 ( 1821 年 ) 9 月のことでした。

彼の墓は遺言どおりに、東京都台東区東上野にある源空寺の墓地にある、恩師の高橋至時 ( よしとき ) の墓のそばに並んであります。地図は伊豆半島と伊豆大島です。

ところで伊能忠敬が 17 年かかって日本中を測量し作成した地図は将軍家に献上され、江戸城の奥深く納められたままで、人々の目に触れることも役立つこともありませんでした。その地図の コピーが日の目を見たのは、前述したように イギリスの測量艦隊が、江戸湾の測量を始めた時でした。

その後、明治時代になると明治 10 年 ( 1877 年 ) に起きた 西南戦争 の際に、陸軍は伊能図から 「 西海道全図 」、「 九州全図 」 などを編修して地図を作り使用しました。戦争が終わると参謀本部の下に地図作成機関を設置し、地図の作成を統一して行うことにしましたが、のちの測量局、陸地測量部でした。

忠敬像

明治 17 年 ( 1884 年 ) に 陸軍省参謀本部測量局 が伊能 (中) 図を主体として、未測量の部分は他の資料で補い 「 20 万分の 1 図 」 という日本全土を カバーする地図を作成しましたが、明治時代の代表的地図として 一般社会に広く利用されただけでなく、伊能忠敬の測量から 100 年近く経った大正時代まで使用され続けました。


[ 9:測量時の幸運 ]

伊能忠敬の地図測量が成功した理由のひとつには、当時の日本における 地図上の北極と、磁気の北極との角度の差 ( 偏角、偏差ともいう ) が ほとんど無かった という地磁気に関する幸運もありましたが、やや専門的な話なので興味の無い方は スキップしてください。

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地球磁気の見地からいえば地球全体が極と極を持つ大きな棒磁石 としての性質を持つているために、それによって生じる磁場により磁気コンパスの極の針が常に北を指します。ということは北極付近に地磁気の極に相当する磁極があり、南極付近には極に相当する磁極があることになりますが、 便宜上北にある磁極を極 ( North Magnetic Pole ) と呼んでいます

地磁気の 3 要素という言葉がありますが、磁気 コンパスの針 ( 磁針 ) に働く地球磁力のことで、偏角、伏角、水平分力のことです。

磁気コンパス

このうち 偏角 について説明しますと、磁気 コンパスの針の極 ( 赤や青色に塗ってある部分 ) はご存じのように常に北を指しますが、正確に言えば地図上の北 ( 真北 ) を指すのではなく、 地球の北極付近にある磁極 ( 磁北 を指します。

上図で真北と磁北との角度の差を偏角 ( または偏差 ) といいますが、 関西付近ではその差は約 7 度 W 、 [ W とは West、西、(−)で表示 ] 、であり、磁石の針は真北より 7 度 西寄りを指します。

磁北極の移動

偏角は場所によって異なり、たとえば アメリカの北太平洋に面した アラスカ州 アンカレージ ( Anchorage ) では、真北に対して磁北は 24 度 E [ East 、東、(+) ] を指し 、東海岸にある マサチューセッツ州 ボストン ( Boston ) では逆に 16 度 W [ West 、西 、(−) ] を指します

その原因は磁北極の位置にありますが、2009 年におけるその位置は 北緯 84.9 度、西経 131.0 度 で、これは カナダ北部の 北極海であり、 地理上の北極点には無い ことに注意してください。

等偏差図

左図は 2010 年における国土地理院の 磁気偏角図 ( 等しい偏角点を結ぶ線図 ) ですが、日本付近の偏角は現在 7 度 W から 9 度 W 、つまり磁北が真北の西を指しています。しかも磁北極の位置は年々少しずつ移動するために偏角も変わり、 そのために国土地理院では 10 年ごとに、日本周辺における偏角の測定をおこなっています。

京大大学院理学研究科の データによれば、偏角の変化する割合は 年平均 0.01 〜 0.05 度の割合で、西寄りに変化 しています。

( 9−1、1800 年当時の偏角 ? )

前述したように伊能忠敬が測量をした 1800 年当時には、真北と磁北との 「 偏角、偏差 」 の値が、日本の広い地域にかけて 1 度以内の値だったと推定されます。その結果彼が緯度 1 度の距離を測るために、磁石を見ながら北へ進んだ軌跡がほぼ真北に向かい、あるいは測量における方位測定の際には、真方位と磁方位の差( 偏角 )がほとんど無く、測定誤差を最小に納めることができたといわれています。

それを検証しますと、前述した年平均変化の 0.01 度 〜 0.05 度 ( 西向きは、マイナスで表す ) の平均値である 0.03 度 を使用すると、1800 年から 2010 年までの 210 年間 における偏角の変化量は、 0.03 度 X 210年 = 6.3 度 になります。

この値が210年間に変化した偏角の量ですが、現在の偏角値にそれを加減すると ( ー )7.0 度 + 6.3度 = ( ー ) 0.7 度 になり、210 年前に伊能忠敬が測量した当時の偏角、つまり真北と磁北との差 ( ずれ ) は、日本列島の広い範囲で1 度以内であったことが分かります。

天の配剤というべきか、はたまたま偶然の産物というべきか、1745 年に千葉県で生まれた 1 人の男の子が数学に興味を持ち、しかも隠居後に測量学、天文学を学び、1800 年から全国を測量して回った際に、偏角が 1 度以内であったという幸運に恵まれましたが、現在のように 7 度〜 9 度もあったのでは、多分精度の高い測量は困難であったに違いありません。

ところで若い頃に アメリカ海軍飛行学校で飛行訓練や航法の座学を受けましたが、その際に習った 磁気コンパスを見ながら飛ぶ針路と、地図上で測った真 コースとの関係を示す言葉を思い出しました。

Can Dead Man Vote Twice ?. ( 死んだ男は、 2 度投票できるか?。)

ということですが、上の文章の頭文字の意味とは、

C : は コンパス ・ コース、 パイロットが飛行計器の コンパスの示度を見て飛ぶ針路。

D : は Deviation     自差、飛行機の機体が持つ磁性により生じる、 コンパスの誤差。

M : は Magnetic course. マグネティック ・ コース、磁針路。

V :  Variation  偏差 ( 磁角のこと )

T : は True Course    トルー ・ コース、 真針路 ( 地図上の コース ) のことでした。

出発地から 目的地までの コースを飛行するには、地図上で測った 真針路 に飛行地域の 磁角 ( 偏差のこと、プラス、マイナス )を加減して 磁針路 を求め、磁気を帯びた機体の影響である 自差 ( プラス、マイナス ) を修正して 、磁気コンパスで 飛ぶべき針路 を決める手順を示したものでしたが、もちろんそれ以外に上空の風に対する針路の修正も必要でした。

昔の プロペラ飛行機には機内の圧力を高めて酸素の欠乏 ( 高山病 ) を防ぐ与圧装置 が無かったので、 「 パイロットの 六分頭 ( あたま )」 という言葉がありましたが、上空での酸素不足から、パイロットや航法士の計算能力が 地上の 6 割 程度に低下するともいわれ、 プラス、マイナスの修正を間違え易く、飛行機があさっての方向に向かうので要注意でした。

[ 10:叙位 ]

ところで明治政府は、伊能忠敬が実測により日本全土の正確な地図を作成したという偉大な業績に対して、明治 16 年 ( 1889 年 ) に 正 4 位を贈り 彼の功績に報いましたが、忠敬の死去から 71 年目のことでした。なお現在 彼の銅像が建てられているのは、

  1. 東京都 ・江東区 ・富岡にある富岡八幡宮内。当時近くの深川 ・ 黒江町 ( 現、門前仲町1丁目 ) に住んでいた忠敬が、測量の旅に出発の際には毎回無事を祈って参詣したといわれています。

  2. 旧宅のあった、千葉県 ・ 香取市 ( 平成 18 年までは佐原市 ) の南にある佐原公園内。

  3. 千葉県 ・ 山武郡 ・ 九十九里町 ・ 小関にあった生家跡の公園内。

以上の 3 箇所でした。

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