(5)、六 ・ 三、制の教育改革

昭和 20 年 ( 1945 年 ) 10 月に アメリカ占領軍は、日本政府に対して 「 教育制度に対する管理政策 」 の指令を出しましたが、それにより軍国主義 ・ 超国家主義教育の排除と平和主義的民主教育の確立を図るために、不適格教員の教職追放、 修身 ・ 日本史 ・ 地理の授業の禁止 、社会科の新設などの措置が次々にとられました。

さらに昭和 21 年 ( 1946 年 ) 3 月に来日した アメリカ教育使節団の報告書中で、「 六 ・ 三 ・ 三 制の実施 」 特に 六 ・ 三 制の義務教育化と男女共学が勧告されました。これを受けて昭和 22 年 ( 1947 年 ) 3 月には教育基本法と学校教育法が、昭和 23 年 ( 1948 年 ) 7 月には教育委員会法が公布されました。

敗戦の翌年である昭和 21年 ( 1946 年 ) の春に私は戦前から続く旧制中学 ( 現在の高校に相当 ) に入学しましたが、前述の教育基本法と学校教育法が翌 22 年 4 月 1 日から施行されて、六、三制と呼ばれた戦後の教育改革がおこなわれました。

六、三制の名前の由来は、国民学校 ( 小学校 ) 6 年の義務教育終了後は就学率の低かった 2 年制の 国民学校高等科 ・ 定時制の青年学校 ・ 実修女学校 を、 3 年制の義務教育である 新制中学 に制度変更するものでした

その結果これまで高等科が設置されていなかった村々の学校にも、新たに新制中学校が設置されました。国民学校 ( 小学校 ) 6 年卒業後、更に 3 年間の義務教育が実質的に制度化され、現在のように合計 9 年間の義務教育が実施されることになりました。

それと共に、私達の学校は旧制中学 ( 現在の高校 ) に併設した中学校の意味で 併設中学 と呼ばれるようになりました。

従来の義務教育終了後の上級学校には、男子のための中学校、女子のための高等女学校、それと商業、工業、農業などの技術を教える実業学校の 3 種類がありましたが、今後は全て 3 年制の高等学校に名称を変更する ( 例えば商業高等学校 ) と共に、普通科高校も含めてそれまでの男女別々の教育から、多くの高校で男女共学が実施されるようになりました。

教育改革当時には、 六、三 制、野球ばかりがうまくなり という川柳が流行りましたが、戦災による教室の不足も深刻なうえ教材も教師の質も不足したために、体育だけが盛んにおこなわれました。

敗戦の翌年 ( 1946 年 ) 4 月に併設中学校に入学した私たちが受け取った新しい教科書は、新聞用紙に印刷したもので、しかも製本する以前の折り畳まれた用紙のままで生徒に配給されました。

そのため教科書を読む為には、まず折り目にそって用紙の頁を順序よく切り離して、それを自分で綴じることから始めなければならず、紙質も粗悪で ページ数も極端に少なく、敗戦後の新しい教科書には ガッカリさせられました。

[ 大学進学率の増加 ]

高等教育についても戦前は 3 年制の旧制大学、 年制の大学予科、3 年制の旧制高等学校、専門学校、高等師範学校、女子高等師範学校など多彩な コース、教育機関がありましたが、教育改革により 一括して 4 年制の新制大学にまとめられました。 エリート養成のための戦前の数少ない高等教育機関から、全国各地に大学と名の付く教育機関が数多く設置されるようになりました。

評論家の大宅壮一 ( 現在の評論家、大宅映子の父 ) は J R の急行列車停車駅のうち駅弁を売っている地方都市には、ほとんど大学が設置された粗製濫造現象をとらえて、それらの大学を 駅弁大学 と呼びましたが、それが流行語になりました。

それまで大学進学については特に地方の家庭にとって、かなりの経済的負担を必要とし、それが障害となっていましたが、教育の量的拡大に伴う機会均等政策により、本人の努力と能力次第で教育を受ける機会が飛躍的に増加し、高校生にとって大学教育が身近なものになりました。しかし喜んでばかりはいられず、これが後に激しい受験競争を産むことにもなりました。

ちなみに文部省年報によれば、 昭和 10 年度 ( 1935 年 ) の大学進学率は僅か 3 パーセント でしたが、昭和 25 年 ( 1950 年 )には 6.5 パーセント と倍増し、平成 14 年度における 4年制大学への進学率は全国平均で 36.2 パーセント になりました。都道府県別では東京が最高の 45.2 パーセント で、最低は沖縄、岩手県の 25.0 パーセント でした。( 平成 14 年度文部科学省、学校基本調査、参照 )

[ ゴバンメント ]

敗戦後の中学校の英語の教科書には、リンカーンの有名な演説の中にある、 Government of the people,by the people ,for the people. という文章が載っていましたが、英語の教師が私達に教えた読み方とは、ゴバンメント オブ ザ ピープル、バイ ザ ピープル、−−−−という発音でした。

私達は教えられた通り声をそろえて、ゴバンメント オブ ザ ピープル−−−と教科書を読みましたが、ガヴァメントが正しい発音であると知ったのは、数年後のことでした。英語については戦時中は敵性言語として学校での教育が禁止されたこともあって、当時の英語教師の発音とはその程度のものでした。

占領軍 ( 進駐軍 ) の係官が授業内容の検査に来校した際も、英語教師の会話力はほとんど役に立ちませんでした。

注 :)
リンカーンの有名な演説 ( Gettysburg Address ) とは、米国 ペンシルベニア州南部にある南北戦争の激戦地 ゲティスバーグにおいて、1863 年 11 月に戦死者の追悼式典をおこないましたが、その際の演説で人民の、人民による、人民の為の政治を説いたものです。

教科書の配給でさえも前述の如き状態でしたので、敗戦後は英語を学ぶのに必需品の英和辞典さえも手に入りませんでした。戦時中から戦後にかけて紙巻 タバコ ( シガレット ) の配給がなくなり、男の人達はやむなく配給された刻み タバコの葉を自分で紙に巻いて吸いましたが、その紙には、コンサイス英和辞典の紙が薄く、白く、丈夫で最適でした。そのために多くの家庭から不要となった英和辞典が失われてしまい、古本屋からも中古の辞書が買えない状態でした。

二部授業 階段教室

空襲の被害が激しかった東京では、国民学校( 小学校 ) 840 校のうち 381 校、率にして 45 パーセント の学校が被災しました。

そのため都市部の学校では焼け跡の ビルや工場跡などを教室に利用していました。

また元の学校の敷地に戻ろうとしても、校庭には焼け出された人々が焼けた トタン板や焼け残りの材木で バラックの家を建てて住んでいたため、廃車となった バスや電車を校庭に運び込んで教室代わりにする学校もありました。

敗戦後は 70 人学級というのも珍しくはなく 、教科書さえ満足にない状態のすし詰め教室で、午前、午後の 2 部授業もするという状態でした。

上の写真は 2 部授業 のために、午前の クラスの授業が終わるのを廊下で待つ午後の クラスの児童の様子と、その右は 2 階に通じる階段を利用して授業をしているもので、 「 階段教室 」 と呼ばれていましたが、机が無いのでもちろん字が書けませんでした。各学校とも教室不足はそれほど深刻なものでした。

私達の世代はこのような 困苦欠乏に耐え、困難を乗り越えてながら育ち、、祖父母、両親共々みんなで努力した結果、空襲で焼け野原となり、食べ物も満足に得られなかった敗戦後の日本、狭い国土で地下資源の乏しい貧しかった日本を、現在のような科学技術の発達した豊かな国に再建したのです。

世界では未だに貧困から抜け出せず、飢えに苦しむ多数の人達がいる中で、「 ひもじさ 」 や 「 ひだるさ=飢えから来るだるさ 」 を体験することもなく豊かな生活を送れるのは、先人達の たゆまぬ努力と勤勉のお陰であることを、忘れてはなりません。

[ 35 年続く、小学校の クラス会 ]

さいわい親の庇護の元で飢えることなく育ちましたが、子供心に学童集団疎開当時の生活が強く印象に残り、やがて、かつての仲間と互いに連絡を取り合い、戦後の混乱期が過ぎた頃から 東京の母校である小学校 の近くに皆が集まり、クラス会をするようになりました。

クラスの仲間
それ以来 40 年以上も、毎年 1 月の 最終土曜日の夜 に クラス会を開いています。それと共に定年後には健康な間は旅行をすることになり、毎年 1 回 クラス会の旅行をしています。学童集団疎開当時の苦しかった体験が、その後の人間形成に大きな影響を与え、人生において苦しい時、辛い事態に直面する度ごとに、当時の事を思い出しては、各自が困難を克服してきたこと。

また苦楽を共にした当時の体験から、級友が 心のきずな で強く結ばれていたこと。それらが小学校の クラス会をこれほど長く、しかも毎年、定期的に催すことができた理由だと思います。

クラス会の閉会のまえには、11 歳〜12 歳の頃に戻って長野県の山奥の、とうの昔に廃校となった室賀小学校の校歌を合唱するのが、恒例となっています。

巡りて立てる群山 ( むらやま ) の/中に聳える氷澤山( ひざわやま )/流れて出ずる谷水を集めてなれる室賀川/山水 ( やまみず ) 清き我が里は/人の心もすなおなり。以下省略

かつては創立百周年を祝った 室賀小学校 も僻地の山村の例に漏れず過疎化が進み廃校となり、この校歌も村では、もはや歌われなくなりました。しかし遠く離れた東京の地で、白髪頭の老人達により毎年歌い続けられてきたのです。

学童集団疎開の期間は僅か 1 年でしたが、それが少年期に与えた印象は 10 倍にも匹敵しました。自分の歩んだ人生、学童疎開当時の印象のひと コマづつを回想しながら校歌を合唱するのでした。

おわりに

駅での出迎え

寺での記念写真

学童集団疎開から 60 年以上が過ぎましたが、その間に当時お世話になった地元の寮母さんやお寺の人達を、泊まりがけで東京見物に招待したり、皆で疎開先の寺を 3 回訪れましたが、写真はその時のものです。

しかし引率の先生をはじめ、地元の寮母さん方も数年まえには全員亡くなり、当時お世話になった村人や部落の人達も孫の世代となり、疎開当時のことを知る人もごく僅かになりました。

太平洋戦争末期 ( 昭和 19 年、1944 年 ) に学童集団疎開という出来事があり、都市部に住む 40 万人の児童が米軍機による空襲の危険を避けるため、親元を離れて飢えに苦しみながら、終戦まで地方で不自由な集団生活を送りました

その出来事を含めて当時の社会の状態や日本が歩んだ道を、老い先短い歴史の体験者として若い人達にぜひ知って頂きたく、ホームページの作成を思い付きました。
そこで慣れぬ手つきで キーボードを操作し老眼鏡の汗を拭いつつ、老化の進む脳 ミソから無い知恵をふり絞って、ようやく完成させた次第です。


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