キリシタンと、支倉常長


[ 1 : はじめに ]

東京博物館

2014 年春に東京上野にある国立博物館において 2 月 11 日から 3 月 23 日まで、 [ 支倉 ( はせくら ) 常長像と南蛮美術・・・( 400 年前の日欧交流 )・・・] の特別展が催されました。兵庫県に住む私は、毎年彼岸の時期になると関東にある先祖の墓参りのために上京しますが、日頃の教養の無さを少しでも補うために、この機会を利用して早速国立博物館を訪れました。


( 1-1、日本人初の ヨーロッパ 留学生 ベルナルド )

日本で初めて キリスト教を布教したのは 1549 年 8 月に鹿児島に上陸した イエズス ( Iesus ) 会士の フランシスコ ・ ザビエル ( Francisco Xavier ) でした。彼は通訳兼案内人として鹿児島出身の元海賊で殺人犯の ヤジロー ( または アンジロー )を伴いましたが、ヤジローは東西交通の要衝 ( ようしょう、大切な地点 ) マラッカ海峡に面した港町 マラッカ ( Malacca ) で、ザビエルにより洗礼を受けた日本人初の キリスト教徒でした。

ザビエルと弟子像

日本における布教で ザビエルから最初に キリスト教徒としての洗礼を受けたのは、本名は不明ですが、洗礼名を 「 ベルナルド 」 ( Bernardo ) という鹿児島出身の男でした。 鹿児島市の ザビエル公園には 三人の銅像がありますが、左側が ヤジロー ・ 中央が ザビエル ・ 右側が ベルナルドです。( 台座の高さが、それぞれ違うことに注目 )

2 年 3 ヶ月間の布教を終えた ザビエルが、 1551 年 11 月に 日本を離れる際に 五人の日本人青年を外国に伴いましたが、ベルナルドもその中の一人に選ばれました。 五人は インドの西岸にあり アラビア海に面した港町、 ポルトガルの植民地 ゴア ( Goa ) まで ザビエルと共に旅をしましたが、ゴアにある イエズス会の セミナリオ( seminario、初等教育神学校 ) で キリスト教を学びました。

その後ある者は日本に引き返し、あるいは ザビエルと中国に行く途中に広東付近で船が沈没し ザビエルと共に行方不明になり、あるいは病死した者もいて、ベルナルドだけが更に キリスト教を学ぶために ポルトガルの首都 リスボンに向けて旅を続けました。

リスボンから イタリアの ローマへ行き、 ローマ教皇庁で イエズス会創立者の イグナティウス ・ デ ・ ロヨラ ( Ignatius de Loyola 、1491~1556 年 ) に会い、さらに ローマ教皇に謁見を許されました。

彼 ( 鹿児島の ベルナルド ) は日本人初の ヨーロッパ留学生であり、また ローマ教皇 ( パウルス、 Paulus 4 世 ) に拝謁した最初の日本人でしたが、1557 年に ポルトガルで病死しました。


( 1-2、天正 遣欧少年使節 )

ヴァリニアノ

日本から ヨーロッパへ キリスト教徒の 使節を派遣 した件については、安土 ( あづち ) ・ 桃山時代 の天正 10 年 ( 1582 年 ) に、イエズス会 東 インド管区の巡察師で イタリア人司祭の ヴァリニャーノ ( Valignano ) が実施した例がありました。

巡察記

彼は日本を 3 回も訪れ 「日本巡察記 」 を記しましたが、その中で日本人を絶賛し、他の諸外国民よりも抜きん出た存在であるという記述が全編を通じて書かれていました。第 一章 日本の風習、性格、その他の記述では、

( 日本 ) の国民は有能で秀でた理解力を有し、子供たちは我らの学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供たちよりも はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で読み書きすることを覚える。

また下層の人々の間にも、我ら ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。( 以下省略 )

日本の イエズス会信者を ヨーロッパに派遣することについては、彼が 一人で計画しましたが、 イエズス会による極東での 布教の成果を ヨーロッパに宣伝するための道具 として、信者の少年 4 人を派遣したものでした。

派遣の前年である天正 9 年 ( 1581 年 ) 当時、 日本における キリシタン ( 切支丹 = ローマ ・ カトリック教の信者 ) の数は 15 万人 といわれ、そのうち 11 万 5 千人 が鎮西 ( ちんぜい、西九州 ) にいました。さらにそのうちの 7 万人 が大村領 ( 長崎 ) にいたといわれています。

なお大友宗麟 ( そうりん ) が治める豊後 ( ぶんご、大分 ) には約 1 万人 、京都を中心にした 五畿内 [ きない、大和 ( やまと ) ・ 山城 ( 山背、やましろ ) ・ 河内 ( かわち ) ・ 和泉 ( いずみ ) ・ 摂津の五箇国のこと ] には 2 万 5 千人 の キリシタンがいました。

そこで九州の キリシタン 大名 ( 洗礼を受け信徒となった大名 ) の 大友宗麟 ( 豊後国 大分 ) ・ 大村純忠 ( 肥前国 大村 ) ・ 有馬晴信 ( 肥前国 日野江 )などは、名代 ( みょうだい、代理 ) として 13~14 歳の 武家出身の少年 4 名 を選び ローマへ派遣しましたが、彼らは 天正遣欧 ( てんしょう けんおう ) 少年使節 と呼ばれました。

ちなみにその後の キリシタン 信徒の数は、天正 15 年 ( 1587 年 ) には 20 万人 ・ 慶長 10 年 ( 1605 年 ) には 75 万人 に達したといわれています。

少年使節

絵図の中央は通訳の ディエゴ ・ デ ・ メスキータ ( Diego de Mesquita ) 神父で、右上が伊東 マンショ ( 洗礼名 ) ・ 左上が 中浦 ジュリアン ・ 右下が千々石 ( ちぢわ ) ミゲル ・ 左下が原 マルチノ で、 4 名は日本から西回りの コースで出発し、 8 年後の天正 18 年 ( 1590 年 ) に帰国しました。

しかし彼らの帰国から 十数年が経つと、世の中は安土 ( あづち ) ・ 桃山時代から徳川時代 ( 1603~1867 年 ) へと変わり、キリスト教を取り巻く政治情勢も大きく変化しました。伊東 マンショ は司祭に昇格したものの 1612 年に長崎で病死し、原 マルチノ は 1614 年に日本から マカオ に追放され、そこで 1629 年に死亡しました。

本名、小佐々甚吾 ( こさざ じんご、1570~1633 年 ) の中浦 ジュリアン は後年 「 司祭 」 に昇格しましたが、キリシタンに対する弾圧を受けて逮捕され、 1633 年に、現 ・ J R 長崎駅近くの西坂の刑場で 二日 二晩の 「 穴吊り 」 の拷問 ( 注参照 ) により殉教 ( じゅんきょう、信仰する宗教のために我が命を捨てること ) しました。

その際に刑場に引き出された 64 歳の老司祭は、誇らしげに大声で叫びました。 「 私は ローマ を見た、中浦 ジュリアンである!」

[ 穴吊りとは ]

穴吊り

地面に直径 1 メートル 深さ 2 メートルほどの穴を掘り、恥辱を与えるために中に糞尿等を入れる。そのなかに体をぐるぐる巻きに縛った キリシタン信徒 ・ 神父を頭を下にして吊るすが、外側からは足しか見えない。予め 「 こめかみ 」 に血抜き用の穴を開けておき、頭に血が下がっても容易に絶命しないように処置をしておく。

あとは キリスト教を棄教する意志を示すか、あるいは死ぬまで吊したままにするが、中浦 ジュリアンは苦痛に耐え棄教せずに死を選んだ。

彼らを 36 年前に同じ刑場で処刑した 二十六聖人 のように磔 ( はりつけ ) にしなかった理由は、もし磔にすれば イエス ・ キリストが十字架上で昇天したように、間違いなく 天国へ往く 栄光 に輝く姿 を見物人に印象付けるからでした。
参考までに 千々石 ( ちぢわ ) ミゲル だけは ローマから帰国後 3~4 年も経たないうちに キリスト教を棄教しましたが、それだけでなく 「 キリスト教国は キリスト教を広めると共に、日本への侵略を計画している 」 などと、肥前国大村藩主、大村純忠 ( すみただ、1587 年に死亡 ) の長男の大村喜前 ( よしあき ) に告げるなど、キリスト教に反対する立場に転向しました。

一説によればその理由は、南蛮人によって日本から奴隷として売られた多数の日本人奴隷の存在を見聞し、また スペインや ポルトガルの植民地で虐 ( しいた ) げられた現地住民を見るなど、キリスト教がもたらした 暗部 ・ 恥部を ヨーロッパへの往復の旅で見たため ともいわれています。

ローマ教皇

「 天正遣欧少年使節 」 の ローマ教皇及び スペイン国王 フェリペ 二世への表敬訪問によって、 ヨーロッパ の人々は日本の存在を初めて知ることになりましたが、絵は跪 ( ひざまづ ) いて ローマ教皇 グレゴリウス 13 世の足に、作法に従い服従の意を示すための 「 キス 」 をする少年使節です。


[ 2 : サン ・ フェリペ 号事件]

信長の後継者 豊臣秀吉の時代 ( 1585 年 関白任命 ~ 1598 年 ) になると、貿易のために来航した ポルトガル船の南蛮人たちは宣教師と グルになり、神の教えを説き キリスト教を布教しながら、その 一方で彼らの仲間の奴隷商人たちが日本で多数の男女や子供を安い値段で買い取り、 外国に奴隷として売却し巨利を得ていていました

この事実を知った秀吉は 1587 年に、伴天連 ( バテレン、ポルトガル語の Padre パードレ、宣教師 ・ 司祭 ) を国外追放処分とし、京坂 ( 阪 ) 地域の南蛮寺 ( 教会 ) の破壊を命じました。

サン・フェリペ号

1596 年 10 月 18 日のこと、 フィリピンの マニラから スペインの植民地である メキシコの アカプルコ ( Acapulco )へ向かう スペインの サン ・ フェリペ ( San Felipe ) 号が、台風のために土佐の浦戸湾の砂州に漂着しましたが、その ガレオン船には積荷が満載されていました。

「 国史眼 」 という書物によれば、豊臣秀吉は 「 積荷をすべて没収し、代わりに 米 ・ 酒 ・ 鶏 ・ 豚 ・ 雑貨を給し、船を修復して放還す 」 とありました。その際に水先案内人 ( 航海士 ) の フランシスコ ・ デ ・ オランディア が下記の話しをしたと言われています。

我らが王 ( スペイン ) は、まず宣教師を派遣してその土地の住人を キリスト教徒にする。そして信者が増えたら後から軍隊を送って、その土地の キリスト教徒と結託して国を奪うのだ。

つまり キリスト教を道具にした宣教師の軍事的 ( 先兵的 ) 役割を話しましたが、これが引き金となって 秀吉は スペインに武力侵攻の意図ありと考えて、 1596 年 12 月 8 日に再び禁教令を公布し キリスト教に対する弾圧をおこない、日本における初の殉教者を出す事態になりました。

はりつけ

京都奉行の石田三成に命じて、京都に住む フランシスコ会員と キリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じ、徒歩で長崎に移動させ 1597 年 2 月に フランシスコ会宣教師 6 人 ・ 日本人信徒 17 人 ・ 日本人の イエズス会士 3 人の 合計 26 人を、 現 ・ J R 長崎駅の北側すぐ近くの西坂の丘で磔 ( はりつけ ) に処しました。

ちなみに殉教した彼らは 266 年後の 1862 年 ( 文久 2 年 ) に、 ローマ教皇 ピオ 九世により 26 人全員が聖人に列せられ 「 二十六 聖人 」 と呼ばれるようになりました。


[ 3 : リーフデ号の漂着 ]

リーフデ号

慶長 5 年 ( 1600 年 ) 4 月のこと、豊後国 ( 大分県 ) 臼杵 ( うすき ) 湾の北部にある佐志生 ( さしう ) の海岸に、 オランダの商船 デ ・ リーフデ 号 ( De Liefde 、慈愛号、300 トン ) が漂着しました。

この船は 2 年前の 1598 年に オランダの会社が 当時東洋でしか生産されない 貴重品の香辛料 ( こうしんりょう ) を求めて、オランダの港湾都市 ロッテルダム ( Rotterdam ) から新航路を開拓し、東洋との貿易を発展させようとして派遣した船団のうちの一隻でした。写真は オランダの造船所で復元され、長崎県の ハウステンボスに停泊する リーフデ号の レプリカです。

最初は ホープ ( 希望 ) 号の航海士として雇われた イギリス人の ウイリアム ・ アダムスは、5 隻からなる オランダ船団の 一員として航海の途につきましたが、西 インド諸島で ポルトガルや スペインに 2 隻が拿捕され、仲間の船から はぐれた 1 隻は東洋への航海を断念して母港の ロッテルダムに引き返しました。

嵐の海

残った 2 隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、アダムスは リーフデ号に乗り移り航海士を務めましたが、結局 5 隻の船団のうち極東に到達したのは リーフデ号ただ 1 隻でした。

110 名いた船団の乗組員のうち日本に漂着した時の生存者は僅かに 24 名 であり、その中にも栄養不良者や病人が多く、立って歩ける者は僅か 6 名 に過ぎず翌日に 3 人が死亡しました。

当時、キリスト教の新教 ( プロテスタント ) を信じ新興貿易国として勢力を伸ばしてきた オランダに対して、敵意を抱く旧教 ( カトリック ) の国 スペイン ( イスパニア ) ・ ポルトガルの イエズス 会 ( Society of Jesus ) の宣教師たちは、「 リーフデ号は海賊船 」 であると徳川家康に告げ口をしました。

そのために乗組員は、船を現 ・ 大阪府 ・ 堺市に回航させられ取り調べを受けましたが、乗組員を引見した家康は、ヤン ・ ヨーステンと航海士の ウィリアム ・ アダムス から、キリスト教国における プロテスタント ( 新教 )と カトリック ( 旧教 ) の対立などの欧州事情や、科学 ・ 数学 ・ 技術について詳しい説明を受けた結果 海賊船の嫌疑が晴れ、彼らを厚遇することにしました。

家康は ウイリアム ・ アダムス ( 後に日本名を、三浦按針とした、あんじん = 水先案内人、1564~1620 年 ) に 三浦半島に知行地 250 石を与えましたが、場所は現在の横須賀市 ・ 逸見 ( へみ ) 町の辺りとされ、京浜急行電鉄の駅に 「 按針塚 」 がありますが、その近くに 三浦按針の墓があるとされました。

平戸の按針墓

しかし実は墓ではなく アダムスと彼の日本人妻の二人が江戸から逸見村に移住したのを祀る供養塔でした。1620 年に死んだ彼の本当の墓は長崎県平戸にあり、平戸の イギリス商館長をしていた リチャード ・ コックスの日記によれば、平戸には別の日本人妻がいて彼の最後を看取りました。写真は平戸にある本当の墓で十字架の 「 印 」 が刻まれています。

ちなみに リーフデ 号は日本に到着した初めての オランダ 船であり、ウィリアム ・ アダムス は日本を訪れた最初の イギリス人でした。 江戸幕府の外交顧問になった ヤン ・ ヨーステン ( Jan Joosten、1556?~1623 年 ) は土地 ・ 屋敷を与えられ、日本人女性と結婚し日本名を耶楊子 ( やようす ) と称しました。

八重洲口

彼が与えられた海辺の土地は、ヤン ・ ヨーステンの名前から八代州 ( やよす ) と呼ばれ、現在は東京都 ・ 中央区 ・ 八重洲 ( やえす ) となり、東京駅の東側一帯の地名として残っています。


[ 4 : 対 キリシタン政策の変遷と海外貿易 ]

1573 年 織田信長 ( 1534~1582 年 ) は室町幕府の将軍、足利義昭を京都から追放し天下統一を目指しましたが、彼の キリシタン政策は、後の豊臣秀吉 ・ 徳川家康に比べてはるかに寛容でした。

その理由は彼と敵対した 一向宗や比叡山焼き討ちなどに見られる仏教武装勢力 ( 僧兵など )との抗争があったからであり、1569 年に信長は、ポルトガル人の イエズス会宣教師 ルイス ・ フロイス ( Luis Frois ) に キリスト教の布教を許す代わりに、海外の情報を提供する情報源として使いました。

これにより西日本各地、特に九州に大友宗麟 ( そうりん、豊後国 大分 ) ・ 細川忠興 ( ただおき、豊前国 小倉 ) などの キリシタン大名が生まれましたが、信長はあくまでも キリスト教を政治的に利用したのであって、他の キリシタン大名のように教義に夢中になり入信することはありませんでした。


( 4-1、キリシタン布教容認と貿易の兼ね合い )

ところで関ヶ原の戦い ( 1600 年 ) に勝利した徳川家康は、その後の 大阪 冬の陣 ( 1614 年 11 月 ) ・ 夏の陣 ( 1615 年 5 月 ) の戦いにより大阪城に立て籠もる豊臣秀頼を滅ぼしましたが、 当初は秀吉とは異なり キリスト教の布教を容認 しましたが、その意図は織田信長と同様に、対外貿易を発展させるために宣教師を利用するためでした。

外国貿易については基本的に豊臣秀吉のおこなった政策を踏襲 ( とうしゅう、前人のやり方を受け継ぐこと ) し、秀吉が定めた 朱印船貿易 ( 注 参照 ) を制度化すると共に、貿易を幕府の認可制にし、貿易港の長崎を直轄領として奉行所を設け対外貿易を保護奨励して利益を上げました。

注 : 朱印船 とは

朱印船

近世初期 から 1635 年の鎖国令 ( 日本人の海外渡航全面禁止 ) までの 一時期に行われた 官許の海外貿易船 のことで、豊臣秀吉 ・ 徳川家康など日本の為政者が東南 アジア諸国の支配者宛に発行する 「 海外貿易許可証 」 に相当する 異国渡海 朱印状 を持っ者に限って、海外貿易に従事することを許可した。

1606 年 ( 慶長 14 年 ) に大船禁止令を公布し、御朱印船貿易は幕府の直轄地である 京 ・ 堺 ・ 長崎の豪商に限り許可し、諸大名と外国との交易を禁止し幕府がその利益を独占した。

二代将軍 秀忠の時に スペイン ( イスパニア ) 船の来航を禁止し、貿易港を長崎の平戸 ・ 長崎の 2 港にし、1637 年に起きた 島原の乱 の際に幕府に荷担した オランダ を除き、1639 年に キリスト教国 ( 当時は ポルトガル ) の来航を禁止する鎖国令を出した。

朱印状による貿易先としては、ルソン ( フィリピン ) ・ アンナン ( 安南、ベトナム ) ・ トンキン ( 東京、ベトナム北部の ハノイ 付近 ) ・ カンボジャ ・ シャム ( タイ ) などが主であり、朱印船貿易により扱う商品は、輸入品としては 生糸 ・ 絹織物 ・ 綿織物 が主体であり、これに鹿皮 ・ 鮫皮 ・ 錫 ( すず ) ・ 鉛 ・ 砂糖 ・ 香木などが加わり、日本からの輸出品としては、銀 ・ 銅 ・ 銅銭 ・ 硫黄 ・ 樟脳 ( しょうのう ) ・ 小麦粉 ・ 刀剣などでした。

江戸時代の日本が生糸や絹織物を外国から輸入した件に疑問を持たれる方は、 ここを御覧下さい


( 4-2、 キリシタンの教え )

キリシタンとは前述したように室町時代後期 ( 1549 年 ) に スペイン人の フランシスコ ・ ザビエルによって ヨーロッパから伝えられた ローマ ・ カトリック系 キリスト教に対する呼び名ですが、ポルトガル語の Christ`ao が語源とされ、 宗教に対してだけでなく その信者、教会 についても キリシタンの呼称が用いられました。その 「 教え 」 によれば、

  1. 天地創造の神 「 デウス、Deus 」 を唯一の神とし、日本古来の神道 ・ 仏教を偶像崇拝する邪教 ・ 異端とし排除した。

  2. 男女とも結婚前から純潔 ・ 貞操の観念を持つべし。
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  3. 婚姻については 一夫 一婦制を守り、離婚を禁止する。しかし 一夫 一婦制では大名 ・ 武家において、幕府の法による 「 世嗣断絶 」 ( せいし だんぜつ、後述 ) の危険が高い。
  4. 育児の義務を教えた。

  5. 封建社会においては主君のために身命を捧げることは武士の美徳とされたが、 神への信仰が主君への忠誠よりも 優先し 、殉死 ・ 自殺 を禁止 すると共に、自らの体を傷つける血書 ・ 血判や神仏の名による起請 ( きしょう、神仏に誓いを立てそれに背かぬことを誓う。またはその旨を記した文書 ) も否定した。  ところで下記の 「 辞世の歌 」 がある。

    散りぬべき 時 知りてこそ世の中の、花も花なれ 人も人なれ

    [ その意味 ]
    花も人も散るべき時を心得ているからこそ美しい、私も花が散るように人生の終わりを心得えて見事に散ろう。

    この歌は細川忠興 ( ただおき ) の妻で、 キリシタンの ガラシャ ( 洗礼名  G r a t i a 、神の恩恵、本名は 玉、明智光秀の 三女、1563~1600 年 ) が詠んだ歌で、関ヶ原の戦いの際に夫が東軍 ( 徳川家康 方 ) に属したため、西軍の石田三成から人質として大阪城に入ることを命じられた。その文書によれば、

    秀頼公への真の忠順を致す爲には、夫人ならびに子女を城中へ差出さるべく、もし此の公命に違背 ( いはい、そむく ) これ有るに於いては、兵力を以てしても引き立つべし云々( うんぬん )--。

    しかし ガラシャ は、夫 忠興の許可がないことを理由にこれを拒否した。三成の軍勢が大阪  玉造 ( たまつくり ) にある細川邸に ガラシャ捕縛に押し寄せると、 自殺を禁じる キリシタンの教え を守り、 「 奥方様と共に 」 と殉死 ( じゅんし、主君の後を追い臣下が自殺すること )を願う侍女たちに、

    キリシタン たる者が殉死などとは、もってのほかの僻事 ( ひがごと、道理に合わないこと ) である。さようなことは断じて許されませぬ。

    細川ガラシャ

    と厳しく戒めて子供や女性を 一人残らず屋敷から退去させ、女では ガラシャ だけが邸内に残った。最後は屋敷を守る実家の明智 ( 光秀 ) 家から、結婚の際に当時の習慣から伴って細川家に来た家臣に槍で胸を突かせ、 [ 細川家の記録では明智家出身の家老の小笠原少齋 ( しょうさい ) に命じて、長刀 ( なぎなた ) で首を刎 ( は ) ねさせ ] て死に、ガラシャ および自刃 ( じじん、刃物で自らの生命を絶つ ) した家臣の遺体は、屋敷もろとも火炎に包まれた。( 享年 38 歳 )

    写真は大阪市 ・ 中央区 ・ 玉造 ( たまつくり ) にある 細川 ガラシャ の屋敷跡、とされる付近に建てられた カトリック 玉造教会と ガラシャ 像。

キリシタンの教えではこの世を作ったのは デウス  [ Deus、 キリシタン用語で 天主 ・ 創造主 ( 神 ) ] であり、「 デウス 」 を崇 ( あが ) めることが [ 上は大名から、下は貧しい農民に至るまで ] 人としての正しい道であり、 人は 創造主 ( 神 ) の前で平等 であると説きました。

しかしこのことが我が国の士農工商という 封建的身分制度に合致せず 、また男子相続制を取る大名 ・ 武家にとって、家督 ( かとく ) 相続に必要な男子の世継ぎを得ることは、家の取りつぶしを免れるために重要であり、当時は側室 ・ 妾を持つのは当然のこととされました。

キリシタン大名のなかには 「 教え 」 に従い神社仏閣を破壊するなど 国政にとって有害なことから、徳川幕府は 1612 年 ( 慶長 17 年 ) に直轄領の キリスト教を禁止する政策に転じ、翌年 ( 慶長 18 年 ) には全国に拡大しました。


[ 5 : スペイン船の座礁 ]

慶長 14 年 ( 1609 年 ) 9 月のこと、ルソン ( フィリピン ) の マニラから当時 スペイン ( イスパニア ) の植民地だった ノ ビスパニア ( ラテン語の Nova Hispania、新しい イスパニアの意味で メキシコ のこと ) へ向かっていた スペインの ガレオン ( Galleon ) 船 サン ・ フランシスコ号が、嵐のため房総半島の御宿 ( おんじゅく ) 沖で遭難し漂着しました。

その船から スペインの フィリピン臨時総督だった、 ドン ・ ロドリゴ ( Don Rodrigo ) 以下 373 名 が救出されました。徳川家康は ノ ビスパニア ( メキシコ ) との貿易の交渉を行うため、ロドリゴを引見しましたが、その際に通訳を務めたのが スペイン人で フランシスコ会 宣教師の ソテロ ( Luis Sotelo、1574~1624 年 ) でした。彼については後述するので名前を記憶しておいてください。

ロドリゴは自らを含む スペイン人乗客 ・ 乗組員全員を ノ ビスパニア ( メキシコ ) に送るよう要望したので、徳川家康は彼らの願いを叶えるために日本で ウイリアム ・ アダムスが建造した帆船で、彼らを メキシコ南部の太平洋岸の港町 アカプルコ ( Acapulco ) に送り届けました。 ロドリゴ 一行は メキシコの陸路を歩き カリブ海沿岸の港 ベラクルスから スペインの船に乗り、無事に祖国へ帰ることができました。

それに対するお礼の意味から、慶長 16 年 ( 1611 年 ) に、 イスパニア ( スペイン ) から 探検家の セバスチャン ・ ビスカイノ ( Sebastian Vizcaino ) が答礼大使という名目で日本を訪れました。

慶長 16 年 ( 1611 年 ) ビスカイノが江戸から仙台にやってきましたが、目的は マルコポーロ ( Marco Polo 、1254~1324 年 ) が記した 東方見聞録 ( イタリア語で百万という意味の本のタイトル、注参照 ) にある黄金の国 ジパング伝説から、 金銀島 という金や銀のたくさん出る島があると信じていたため、それを探し当てようとしたのでした。そのためこの目的を秘密にしたまま、家康や伊達政宗から日本東海岸の測量や探検の許可をもらいました。

注 : 百万 ( イル ミリオーネ )とは
東方見聞録の本の題名が イタリア語で 「 百万 」 になったのは、マルコポーロが東方の国々の話をするときに、 イル ミリオーネ、( Il Milione、 百万 ) という言葉をよく使ったからとか、彼自身が イタリア北東部にある  ベネチア( Venezia ) の百万長者であったからとも言われています。 

家康は日本訪問を終えた スペイン答礼大使の帰国船を利用して ノ ビスパニア ( メキシコ ) と交易する意図を持ちましたが、同じ目的を持つ奥州 62 万石の 大名 伊達政宗もこの機会を利用して家臣の支倉常長を スペイン船に同乗させました。ところが日本から出港直後に不運にも暴風に遭い、江戸に戻る際に浦賀沖で座礁し破損してしまいました。

その結果徳川幕府は、 キリスト教 ( プロテスタント ) の布教を日本に求めず、もっぱら貿易通商のみに専念する オランダとの関係を深めるようになり、距離的にも ルソン ( フィリピン ) へ行くよりも 四倍も遠く離れた ノ ビスパニア ( メキシコ )へ、太平洋を横断する航海をしてまで貿易する意義や意欲が、徳川幕府にとって薄れていきました。


[ 6 : ガレオン船の建造 ]

そこで伊達政宗は幕府に代わって、答礼大使 ビスカイノ を ノ ビスパニア ( メキシコ ) へ送り返すことになり、必要な大型帆船 ( ガレオン船 ) を仙台藩で造ることにしましたが、もちろん幕府の許可を得てのことでした。

慶長 18 年 ( 1613 年 ) 3 月 初めに、仙台領内の陸奥国 ・ 桃生郡 ・ 十五浜村 ・ 呉壺 ( 現 ・ 宮城県石巻市 ・ 雄勝町 ・ 水浜 ) で大型帆船の建造を始めましたが、この造船工事には幕府からの船出頭 ( 船手奉行 ) の向井忠勝が ウィリアム ・ アダムスと共に石巻まで出向いて指導に当たりました。

船大工 800 人、金具職人 700 人、下働き人夫 延べ 3 千人を動員し、帰国する船を座礁で失った スペイン答礼大使の セバスティアン ・ ビスカイノにも協力させて建造しました。この船は日本初の 500 トン級の ガレオン船で完成に 5 ヶ月を要しましたが、横幅 5 間半( 約 10 m )、長さ 18 間 ( 約 33 m ) あり、船の名前は 「 サン ・ ファン ・ バプチスタ号 」 ( San Juan Bautista 、聖 ヨハネ 洗礼号 ) と名付けられました。

船名の由来については スペイン人 ビスカイノ 一行と伊達政宗の江戸市中での出会いの日 ( 1611 年 6 月 24 日 ) が、古代 ユダヤの宗教家 ・ 予言者で、ヨルダン川で イエスらに洗礼を授け た 、「 洗礼者 聖 ヨハネ 」 の祭日に当たっていたことから命名されたともいわれています。


( 6-1、ソテロと政宗の出会い )

慶長遣欧使一行が スペインを訪れた際に イタリア人の歴史学者 シピオーネ ・ アマティが、通訳兼交渉係として首都 マドリード出発時から ローマまで使節に付き添いましたが、彼は 1615 年に 「 伊達政宗遣使録 」 を イタリア語で記し出版しました。その中には政宗と ソテロの出会いから、使節の派遣に至る経過、スペイン国王 フェリペ( Felipe ) 三世や ローマ教皇 パウロ ( Paulus ) 五世との謁見とその後まで、たいへん詳しく記されています。

ソテロ

それによれば、江戸に伊達政宗が滞在していた時に 白人の侍女 ( 愛人 ) が病気になり、前述した宣教師 ソテロ ( 左図 ) の紹介で スペイン人の ブルギリョ という医師に診察してもらったところ、 二人は言葉が通じ ( ということは スペイン人か、ポルトガル人 ? ) すぐに病気が治ったことから、 政宗が フランシスコ会宣教師の ソテロにお礼として金銀 ・ 衣服 ・ 絹の反物の贈り物をしました。

すると ソテロは利益を得るために治療したのではなく、神のためであるとして受け取りませんでした。

そこで政宗は ソテロと医師を歓待の宴に招待しましたが、その席で ソテロの祖国 スペインや キリスト教のことなどを聞き、世界の知識を広め世界情勢を得ることができました。このことが遣欧使節の派遣先を ノ ビスパニア ( メキシコ ) だけに留まらずに、さらに大西洋を横断して スペインや ローマを訪問させる計画へとつながりました。


H 26、Jun. 20


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