キリシタンと、支倉常長( 続き )


( 6-2、フランシスコ会と、イエズス会の対立 )

慶長遣欧 ( けいちょう けんおう ) 使節関係の記録を読むと、 オランダ ・ イギリスなどの キリスト教の新教 ( プロテスタント ) を信仰する国の人々と、15 世紀に始まった大航海時代の先駆けとなった ポルトガル ・ イスパニア ( スペイン ) などの 旧教 ( カトリック ) を信仰する国の人々との間で、互いに反目し対立する場面がありました。

それだけでなく カトリックの内部には上記の他にもいろいろな宗派 ・ 会派 ( たとえば ドミニコ 派 ・ アウグスティノ 派 ) などが存在し、互いに信者を獲得し勢力を拡大するために、宣教師の間においても他宗派 ・ 他会派に属する宣教師を貶 ( おとし ) め、それを後世に記録する者までいて、宗教者としての在るべき姿にはほど遠く、見苦しいことでした。

フランシスコ会とは

フランシスコ ( Francisco ) とは イタリアの聖人 フランチェスコ ( Francesco、1181~1226 年 ) の スペイン語読みで、彼は ローマの北 130 キロメートルにある アッシジ ( Assisi ) で生まれ、清貧 ・ 愛 ・ 勤労を旨とし、所有権の放棄、奉仕の生活を実践した。

1209 年に ローマ教皇 インノケンティウス ( Innocentius ) 三世の許可を得て  フランシスコ / フランチェスコ 托鉢 ( たくはつ ) 修道会を設立し、海外布教をおこない カトリック布教の主流をなした時代もあった。

イエズス会 とは

1517 年に ドイツ人の マルチン ・ ルター( Martin Luther、1483~1546 年 ) が 95 ヶ条の意見書を発表し、 「 信仰の規範は 免罪符販売という 堕落した ローマ 教皇 レオ 十 世 ( Leo、在位 1513~1521 年 ) にあるのではなく、聖書にあり、それが義である 」 とする宗教改革を主張した。

更に カトリックの教理 ・ 伝承に反対し 聖書を重視する新教 ( プロテスタンティズム、Protestantism ) が誕生した。

これに対抗するため カトリック側では、 1534 年に スペインの貴族 ・ 軍人であった イグナチオ ・ デ ・ ロヨラ ( Ignatius de Loyola 、1491~1556 年 ) が イエズス 会 ( Society of Jesus ) という カトリックの司祭修道会を設立したが、清貧 ・ 貞潔 ・ 教皇への絶対服従を旨とし、海外布教に積極的にあたり、カトリックの復興に寄与した。

その軍隊的組織により急激に勢力を拡大し、かつての布教の主流であった フランシスコ会派を圧倒しその主導権を得た。同会士の ザビエルは日本へ初めて キリスト教を伝えた。

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しかし残念なことに両会派は同じ カトリック教徒として互いに協力するよりも、互いに勢力争いをして仲が悪く、支倉常長の遣欧使節についても互いに足の引っ張り合いをし、悪口を記録にとどめていました。

イエズス会司祭の アンジェリス ( Angelis 、1568~1623 年 江戸で殉教 ) が 1619 年 11 月 30 日付で ローマの イエズス会総長に宛てた手紙によれば、

彼 ( か ) の使節 ( 支倉常長の遣欧使節 ) は ( フランシスコ会派の ) ルイス ・ ソテロの虚構であり、 ソテロが東日本の司教になることを死ぬほど熱望し 、( スペイン人の ソテロ は ) ポルトガル人に我慢がならないのです。

と誹謗中傷していました。ちなみに 「 司教 」 の ビショップ ( Bishop ) とは ローマ ・ カトリック教会の聖職位の一つであり、 「 司祭 」 の プリースト( Priest ) よりも上の階級で司教区 ( この場合 東日本管轄教区 ) を監督する聖務職のことでした。


[ 7 : 幕府による外様 ( とざま ) 大名の 改易 ]

改易 ( かいえき ) とは大名 ・ 武士からその身分を剥奪し、所領と城 ・ 屋敷を没収することをいいますが、徳川家康と二代目将軍の秀忠は 1600 年におこなわれた天下分け目の 「 関ヶ原の合戦 」 に勝利すると、 徳川氏 ( 東軍 ) に味方した 旧 ・ 豊臣秀吉の臣下だった いわゆる外様大名 28 人 を、将来裏切る可能性がある危険人物として徐々に改易することにしました 。

大名の改易は、軍事的理由 ・ 法律的理由 ・ 族姓的理由の三つに大別できますが、

  1. 軍事的理由 とは、関ヶ原の戦い ・ 大阪の陣において敗者となった、豊臣秀頼方 ( 西軍 ) の石田三成 ( 斬首 ) を初めとする 88 人 の大名に対しての処分 ( 死罪 ・ 流刑 ・ 改易 ・ 預け ) がその典型であった。

  2. 法律的理由 とは幕府の定めた法に違反した意味で、豊臣秀吉の 子飼い ( こがい、未熟なうちから面倒を見て一人前にした ) の大名で安芸国 ( 広島 ) 49 万石の藩主 福島正則 ( まさのり ) が大雨による広島城の石垣の崩れの修理をしたところ、城の無断修築をしたとして 1602 年に、信州 ・ 川中島の 4 万 5 千石へ移封されたが、そこで彼は憤怒 ( ふんぬ、いきどおること )のあまり自刃 ( じじん、彼の場合切腹 ) した。

    一説によれば城の修築願いを提出したにもかかわらず、徳川幕府が旧 ・ 豊臣系大名を淘汰 ( とうた、不適当なものを取り除くこと ) するために仕組んだ謀略であるとされた。同じく豊臣秀吉の子飼いの大名で 肥後 ( 熊本 ) 52 万石の加藤清正の息子 加藤忠広も幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて 1632 年に改易された。

  3. 族姓的理由 とは、主に大名の世嗣 ( せいし、家のあとを継ぐ男子 ) が無いことによる改易 ( 無嗣断絶 = むし だんぜつ ) のことで、特に 当主が病気で危篤状態になり、養子を願い出る 「 末期 ( まつご ) 養子、あるいは 「 急養子 」 は厳禁とされた。

    豊臣秀吉の妻 高台院の兄に当たる木下家定の子 小早川 ( こばやかわ ) 秀秋は、関ヶ原の戦いでは豊臣家を合戦当日に戦場で裏切り徳川方勝利の一因となったが、その功で備前 備中( 岡山 ) 50 万石の大名になった。しかし 2 年後 ( 1602 年 ) に秀秋が病死した際には世継ぎがなく、小早川家は改易された。

武家の相続というのは 一代ごとに主君に跡目相続を願い、それを許されることで新たな主従関係が発生すると考えられましたが、世嗣 ( せいし、後継ぎ ) がいないということは、相続に対しての責任を忘れ主君に対しての奉公を怠った結果とみなされました。


[ 8 : 伊達政宗の野望 ]

いわゆる 「 外様 ( とざま ) 大名 」 の多くが、幕府の意図により次々と改易 ( かいえき ) つまり お家取り潰しの憂き目に遭う中、奥州の伊達政宗は度々謀反 ( むほん ) の疑いを掛けられたものの決定的な証拠がなく、家の取り潰しを免れました。

徳川家にとっても奥州の王者 62 万石の伊達政宗は領内に黄金を産出することから軍資金が豊富でしかも勇猛な武将であり、敵に回すことは地理的にも厄介であるというのも改易を免れた理由の一つでした。

伊達政宗が自費で ガレオン船を造り、家臣の支倉常長を ヨーロッパに派遣したのには下記の目的がありました。

  1. イスパニア ( スペイン ) と 国交を結んで植民地である メキシコと直接交易をおこない 、利益を得ようとした。

  2. 幕府による 外様大名取り潰し政策に対抗するため 、あわよくば スペインと 軍事同盟を結び 、植民地獲得に使用した スペイン船の武力 ( 大砲 ) を有事の際に使用し、又は幕府に対する軍事的威嚇 ( いかく ) に使おうとした。

伊達家の参謀でもあり側近として仕えた伊達成実( しげざね )、片倉小十郎、茂庭綱元 ( もにわ つなもと ) は、以前 伊達政宗と酒を酌み交わした際にその野心を聞かされました。それによれば、

徳川幕府による キリシタン禁教実施以後も 政宗が領内で キリシタンの布教を認め ( フランシスコ会 宣教師 ) ソテロ らに厚遇を与えているのは、もちろん南蛮の最新技術である製鉄技術、新型鉄砲の技術を盗むためである。あの船 ( サン ・ ファン ・ バプチスタ号 ) は政宗の夢を載せているのだ。

支倉常長の遣欧使節がうまくいった暁には南蛮との貿易による富を独占し、その富を鉄砲増産に注ぎ込み、 家康の六男で伊達政宗の娘婿である 松平忠輝 ( 越後国高田、75万石 ) と手を組み、幕府と 一戦を交えるのだ。その時には イスパニア ( スペイン ) の艦隊が怒涛の群れをなして応援に訪れることになるぞ。

これを聞いた側近の者たちは政宗のとてつもない志の大きさに度肝を抜かれるとともに、権謀術数 ( けんぼう じゅっすう、巧みに人をあざむく策略 ) とも言えるその智将ぶりに舌を巻きました。しかし家康の三男で 二代将軍の 秀忠と六男の松平忠輝とは仲が悪く、この発言後の 1616 年に松平忠輝は改易されました。


[ 9 : 支倉常長 ( はせくらつねなが )のこと ]

岩倉使節

支倉六右衛門常長らによる 慶長遣欧使節 の存在が 日本人に初めて知られる契機 となったのは、明治 4 年 ( 1871 年 ) 12 月 23 日から 1 年 10 ヶ月の長期間、明治新政府が欧米に派遣した岩倉具視 ( ともみ ) を特命全権大使とする視察団によってでした。

その内訳は薩摩 ・ 長州出身者を中心とする使節 46 名、随員 18 名、留学生 43 名の合計 107 名でしたが、イタリア北東部の都市 ヴェネツィア ( Venezia ) を訪れた時のことでした。

同市の古文書館に保存されていた支倉常長の書状によって、岩倉らは 258 年前の事実を初めて知りましたが、同古文書館には支倉よりも更に 30 年も前 に訪欧していた 天正遣欧少年使節 の文書も残されていて、彼らはそのことも知って更に驚きました。


( 9-1、支倉常長 一行の船出 )

帆船

慶長 18 年 ( 1613 年 10 月 28 日 ) のこと、伊達家の家臣で対外的には遣欧使節の副使を務める支倉常長を筆頭に、常長の家臣 12 人 ・ 幕府 船手奉行 向井忠勝の家臣 10 人 ・ 水夫 ・ 貿易商人からなる 140 人の日本人と、イスパニア答礼大使の ビスカイノ、正使の宣教師 ソテロ ら 40 人の外国人など総勢 180 人が乗った新造船 サン ・ ファン ・ バプチスタ号 ( San Juan Bautista 、聖 ヨハネ 洗礼号 ) が、 陸奥国 ・ 牡鹿郡 ・ 月浦 ( つきのうら、現 ・ 宮城県 ・ 石巻市 ・ 月浦 ) から船出しました。

目的地は太平洋の対岸にあり当時 ノ ビスパニア ( 新 イスパニア ) と呼ばれていた 、 スペイン ( イスパニア ) の植民地 メキシコにある港町 アカプルコでした。

そして 90 日間の航海の末に慶長 19 年 ( 1614 年 ) 1 月 25 日に、 バプチスタ号は目的地の アカプルコに無事に到着しました。支倉常長たちの旅はそこで終えたわけではなく、日本人 ・ ソテロら スペイン人 4 人 ・ イタリア人神父からなる支倉使節団 ・ 一部の交易商人は、総督府のある メキシコ ・ シティーに陸路向かいました。

同地の教会堂で支倉常長を除く日本人 78 人が洗礼を受けましたが、そのうちの大部分は常長とは同道せず メキシコの地に残り、常長らの使節は東海岸 ( メキシコ湾側 ) の ベラクルス ( Vera Cruz ) 港から スペイン船 サン ・ ホセ ( San Jos`e 、聖 ヨセフ ) 号に乗り、 キューバ を経由して ヨーロッパへ向かいました。

大西洋上で大きな嵐による被害を受けながら サン ・ ホセ 号は メキシコから 4 ヶ月間の航海を終えて、 1614 年 10 月に スペインの、アンダルシア州 ・ カディス県 ・ グアダルキビール川の河口にある港町、 サンルーカル ・ デ ・ バラメダ ( Sanlucar de Barrameda ) に到着しましたが、石巻の 月浦港を出発してから 1 年後のことでした。


[ 10 : スペイン国王に謁見 ]

正装した支倉常長

ここから スペインの首都 マドリード ( Madrid ) へ旅を続け、ここで 1615 年 1 月 30 日に 支倉常長は念願かなって スペインの国王 フェリペ ( Felipe ) 三世に謁見しましたが、挨拶が終わってから国王と大勢の スペイン高官の前で政宗からの親書を読み上げるのではなく、彼は自分の言葉で堂々と演説をおこないました。

以下は支倉の言葉を日本から彼と共にやってきた慶長遣欧使節の正使である ソテロが イスパニア ( スペイン ) 語に通訳し、それを前述した アマティが イタリア語で記述した 「 伊達政宗遣使録 」 ( 1615 年に ローマで出版 ) にあります。

およそ 光 ( キリスト 教 ) を求むるもの、これを得たるときは多くの苦難を忘れて喜ぶべし。自分もまた光を求めんがため、天の光なき国 ( 日本 ) よりこの キリスト教国に来たれり。 世界を照らす太陽のごとき ( フェリペ 三世 ) 陛下の前に出て、光栄と喜びに満ち海陸の長き ( 旅の ) 労苦を忘れ、我が国民中もっとも名誉を得たるものなり ( 中間省略 )。

我が君 奥州の王 ( 伊達政宗 ) は、陛下の強大なること、その保護を請 ( こ ) うものに対して寛容なることを聞き予 ( よ ) を遣わし、 その位とその領土を陛下に献じ 親交と奉仕 を申し出 ( い )で、今後如何なる時においても陛下の望みに応じて喜びて全力を尽くす所存なり。

このように演説をした後に伊達政宗の親書と協定書を国王に手渡しました。今から四百年近く前に仙台藩の高い身分ではない知行 600 石の侍が、大航海時代の頂点に立つ世界最強の海洋国家である イスパニア ( スペイン ) の国王の前で堂々と演説をしたこと自体、空前の出来事でした。

ここで支倉は伊達政宗の遣欧使節を送る目的である国交樹立および、それに伴う通商条約締結の意思を明確に国王に伝えましたが、しかし何のために奥州の王 ( 伊達政宗 ) の地位と領土を イスパニア( スペイン ) 国王に献上する (?) のかといえば、それを 「 エサ 」 にして イスパニア艦隊を味方に付け徳川幕府を倒すことでした。


( 10-1 : 協定書の案文 )

国王宛の親書と協定書の現物は現存していませんが、協定書については仙台藩の重臣 石母田 ( いしもだ ) 家には案文が残されていました。それによれば 「 申合条々 」 の タイトルで 九箇条から成り立っていましたが、その内容は下記の通りです。

  1. フランシスコ派の バテレン ( ポルトガル語の パードレ、Padre に由来する司祭職にある聖職者をいう ) 衆を( 仙台に ) 送られたい。

  2. 毎年当方より、ノ ビスパニア ( メキシコ ) まで船を遣 ( つか ) わす。

  3. 航海士 ・ 水夫を遣わされたい。

  4. ルソン ( フィリピン ) より ノ ビスパニア に向かう船は当方 ( 仙台藩 ) のいずれの港にも寄港でき、必需品については便宜供与する。

  5. 貴国の船を我が領内で建造する場合は、必要資材を時価にて供与する。

  6. 貴国の船が来航するときは厚遇し、自由に商いでき、課税も免除する。

  7. イスパニア ( スペイン ) 人が当領内の滞在を望む場合は、土地を与える。万一 イスパニア人と日本人との間に争いが生じた場合には、 イスパニア( スペイン ) の法に従い裁判する

    ( つまり仙台藩の領内では、スペインの治外法権を認めるということ )

  8. イスパニアと敵対関係にある オランダ、イギリスより来たるもの ( 新教、プロテスタント ) は、我らの国にては崇敬 ( あがめうやまうこと ) 申すまじく候。その他の事項については、バテレンの ルイス ・ ソテロより申し上げる。

  9. イスパニアの ドン ・ フェリペ 三世帝王と奥州伊達政宗との間のこの和平協定、および 「 覚え書き 」 は、双方において永久に遵守され、履行される。

    慶長 1 8年 ( 1613 年 ) 9 月 4 日

    伊達政宗 ( 花押 )

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

1615 年 2 月 17 日に常長は国王臨席の下で キリスト教徒になるための洗礼を受け、ドン ・ フィリッポ ・ フランシスコ ( Don Filippo Francisco ) の洗礼名を授けられました。

これにより、それまでの 「 はるか遠い 異教徒の国からきた異教徒の大使 」 から、「 はるか遠くから キリスト教の宣教師を求めにきて スペイン国王隣席のもとで、 最高の形式で洗礼を受けた大使 」 へと大使 ・ 使節の性質を大きく転化させる重大な意義をもたらしました。

支倉常長 一行は マドリードから イタリアの ローマへと旅を続けましたが、おもしろいのは遣欧使一行が皆胸にたくさん チリ紙を入れていて、鼻をかんだ後その紙を通りに捨てると、見物に集まった人々がそれを争って拾ったという記述です。

随員の中には見物人を喜ばそうと、わざと鼻をかんで捨てていた者もいまし。ヨーロッパ では当時鼻をかむのに ハンカチしか用いないので、よほどめずらしかったのに違いありません。

1615 年 10 月に ローマ市への 入市式をおこない 、ローマ 中心部で外国使節として華やかな パレードに臨みました。

そして 1615 年 11 月 3 日、支倉常長はついに ヴァチカン宮殿 ( Palazzi Vaticani ) で ローマ教皇パウルス ( Paulus ) 五世に拝謁し、日本への宣教師派遣とイスパニア領国との通商を要請しました。

祈りの常長

ローマ市は支倉に ローマ公民権を贈り、支倉を貴族に列しましたが 、伊達家に伝えられた支倉常長の 二枚の肖像画 ( うち一枚の全身像は前掲 ) は、 ローマ教皇庁が フランス人画家 クラウジオに画かせたものです。

左の絵図は、常長の帰国後に支倉家に伝えられましたが、同家が後述する理由により改易となった際に、他の資料とともに仙台藩に没収されました。画面中央、縦に入れられた折り跡が痛々しく無数の横皺も認められ、ある時期に折りたたまれ、巻かれて収納されていたと考えられます。


[ 11 : ハポン ( 日本 ) 姓の人々 ]

ハポン ( Jap`on もしくは Xap`on ) とは、スペイン語で、 日本 を意味しますが、スペイン人の中に 「 日本 」 という姓を持つ人が実は千人近くもいるのです。この姓の由来はどこから来ているのでしょうか ? 。

今まであまり世間に知られていませんでしたが、慶長遣欧使節の一員として支倉常長と一緒に ヨーロッパに行った者の中には、役目を終えてから常長と共に日本に帰国せずに、現地 スペインの アンダルシア地方を流れる グァダルキビル( Guadalquivir ) 川の河口の町 コリア ・ デル ・ リオ ( Coria del Rio ) に残留した者が、 7~9 名いました

カルメン

社会制度や掟 ( おきて ) の厳しい カトリックの国の首都 マドリード ( Madrid ) とは異なり、歌劇 カルメンに出てくる 情熱の女 カルメン ( Carmen ) の町 セリビアや アンダルシアの町には、 日本の若者を惹きつける華やかさがあったに違いありません。

下記は ビゼー作曲の有名な 歌劇 カルメンの中の アリア ( Aria 、詠唱 ) ハバネラ 「 Habanera 、恋は野の鳥です 」。

 
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去年の朝日新聞 Digital ( 2013 年 6 月 15 日付け ) の報道によれば、

2013 年 6 月14 日 スペインを公式訪問中の日本の皇太子様が、セビーリャ ( Sevilla ) で 400 年前の 「 慶長遣欧使節団 」 の子孫とされる Jap`on ( ハポン ) 姓を持つ人達と懇談した。

皇太子様は、セビーリャから グアダルキビル川 ( Guadalquivir )を約16 km 南西に下った所にある彼らの住む コリア ・ デル ・ リオ ( Coria del Rio ) を訪れ、1992 年に宮城県が寄贈した支倉常長像の近くに桜を植樹した。

人口 3 万人の コリア ・ デル ・ リオ には、スペイン語で日本を意味する 「 ハポン 」 姓の人々が今でも 600 名近く住んでおり、皇太子様が現地に到着した時には 「 ハポン 」 姓の人々を中心に 1 万人近くが出迎えた。

とありました。

コリア・デル・リオ

遣欧使節団は1616 年、セビリア近郊の市 コリア ・ デル ・ リオとそこから北へ 12 キロ離れた ロレト 修道院に分散して宿泊し、国王から政宗宛の返書を待つ間 滞在しましたが、 その後日本人 7~9 人前後が帰国しなかったことが分かっていて 、現地の郷土史家らは 「 子孫らが 祖国の ハポン( Jap`on、日本 ) を名乗るようになった 」 という説を唱えています。

コリア ・ デル ・ リオ 町役場の広報室長によれば、

通常 スペイン人は誰でも、姓を 二つ持っています。第一姓は父親、第二姓は 母方の父親の姓 が付きます。名前も カトリック教徒なら 二つあるから、全部で 四つです。

私 ( 広報室長 ) の フル ・ ネーム は マヌエル ・ へスース ・ ルイス ・ ハポン ですが、
  1. マヌエル ( Manuel ) は、生まれた時に親が名付けた名。

  2. ヘスース ( Jesus 、英語でイエス ・ キリストを意味する ジーザスの スペイン語読み )は、教会で洗礼を受けた時に神父から貰った名 ( 洗礼名 )。

  3. ルイス ( Ruiz ) は、父方の姓 ( 第一 姓 )。

  4. ハポン ( Jap`on ) は、母方の姓 ( 第二 姓 ) で、 母の父親の系統 、つまり父親の父親、その父親の父親---と四百年近く前まで遡る ハポン姓 だったということです。

と述べました。

スアレス

日本人の末裔説を決定的にしたのは、1996 年の美人 コンテストで ミス ・ スペインに輝いた美人、 「 マリア ・ ホセ ・ スアレス 」 ( Maria Jose Suarez ) さんが、スペインの有名週刊誌の インタビューで、

私は、セビジャーナ ( セビリアの女性 ) と、ハポネース ( 日本人男性 ) との混血です。

と発言したことで、彼女の祖父も ハポン姓 でした。さらに別の証拠もあります。某 テレビ番組で、ハポン姓についての特集をしていましたが、現地のある母親の インダビュ-で、自分の子供についてこう言っていました。

 この子は小さい頃、 モウコ 斑 ( Mongolian Spot ) があったのよ。

蒙古 ( モウコ ) 斑とは、黄色人種の乳幼児の尻などに見られる「 青い アザ 」 で、皮下に メラニン 色素が沈着するために起こり、幼年期の終わりまでに自然消失します。

スペイン人は、混血の人種ですが、もともとの原住民に ケルト( Celt )、フェニキア (Phoenicia )、ロ-マ( Roman )、 西 ゴ-ト( Visigoth )、モ-ロ ( ムーア 人、 Moor、711 年に スペインに侵入し、 800 年間支配した イスラム教徒 ) など、さまざまな人種と混じあって来ましたが、しかしこれまで 蒙古系人種 ( モンゴロイド、Mongoloid ) と混血した事はありませんでした。

1236 年に始まった蒙古軍による ヨーロッパ侵攻においても、ヨーロッパ大陸と イベリア半島を分ける ピレネー山脈 ( スペイン語、Los Pirineos 、最高峰 アネト山 3404 m ) を越えることはなく、イベリア半島は侵略されずにいました。


[ 12 : 態度の急変 ]

ノ ビスパニア ( メキシコ ) との直接通商交渉をするという表面上の理由の裏に、伊達政宗から スペインとの国交を樹立し、あわよくば軍事同盟締結という困難な任務を命じられた支倉六右衛門常長 ( はせくら ろくえもん つねなが ) は、遣欧大使となった フランシスコ派宣教師 ソテロ と日本から同じ船で帰国する スペイン ( イスパニア ) 答礼大使の ビスカイノ との主導権争い、さらに同じ カトリック教徒でありながら、フランシスコ会と イエズス ( Iesus ) 会との勢力争いによっても妨害されました。

訪問先で受けた対応については、当初は イスパニア ( スペイン ) 国王 フェリペ 三世や ローマ教皇との拝謁を許され、ローマの公民権を与えられ、 ローマの貴族に列せられるという厚遇を受けました。ローマ教皇から宣教師派遣について前向きな返答を得た支倉使節は、ふたたび スペインと貿易の交渉をするために首都 マドリードに戻りました。

ところがこの時すでに日本国内では徳川幕府による キリスト教への弾圧が始まっていて 、宣教師 ・ 信徒の国外追放 ( キリシタン大名 高山右近を マニラへ追放、少年使節の一員だった 原 マルチノを マカオへ追放など ) の情報が イエズス会宣教師から手紙を通じて スペイン政府に伝えられました。

その結果彼らの態度が急に冷淡になり、支倉常長 一行への扱い方も  キリスト教に対する弾圧国からやって来た 厄介者 へと様変わりしました。


[ 13 : むなしい結末、計画も人も ]

彼らは首都 マドリードに留まることも許されず、帰国のために港に近い セビリア ( Sevilla ) へと移されました。常長と ソテロは国王 フェリペ 三世の返書を得るために セビリアに留まり、交渉を続けましたが、期待した内容の返書を得ることもできず、1617 年 7 月 4 日に ヨーロッパを離れ、メキシコに向かいました。

そして アカプルコに迎えにきた日本船の サン ・ フアン ・ バウティスタ号に乗り、フィリピンの マニラに到着しました。ところが マニラ駐在の スペイン総督は オランダ軍による マニラ来襲が予想されたため、防衛艦隊を編成すると共に 日本船 バウチスタ号の性能のよさに着目し、支倉常長らの強い反対にもかかわらず バウチスタ号を強制的に買い上げ、1619 年 9 月の オランダ軍との戦争に投入しました。

この戦争で敗北を喫した スペイン側は 一時的に制海権を オランダに奪われ、日本への安全な航海が難しくなりました。常長は マニラに 2 年間滞在した後、1620 年にようやく便船で マニラを出発し、長崎経由で石巻の 「 月の浦 」 港に帰りました。

伊達政宗の記録 ( 貞山公治家 巻二十八 ) によれば、

元和六年 ( 1620 年 ) 庚甲 ( かのえ ・ きのえ ) 八 月乙酉 ( きのと ・ とり )二十六日 辛未 ( かのと ・ ひつじ )、今日 支倉六右衛門常長等 南蛮国ヨリ帰朝ス。是去ル慶長18 年 ( 1613 年 ) ニ 向井将監殿忠勝 ( 幕府の御船手奉行 ) ト御談合有テ渡海セシメラル ( 以下省略 ) 。

とありました。 支倉常長は メキシコ ( スペイン領 ) との直接貿易開始という当初の目的を 7 年の努力にもかかわらず果たすことができず、失意のうちに帰国しましたが、日本では 1616 年に徳川家康が死ぬと キリシタンに対する弾圧が強まりました。

京都大殉教

二代将軍秀忠は常長の帰国前年の 元和 5 年 ( 1619 年) 10 月に京都の六条河原で、子供 11 人と妊婦 1 人を含む 52 名の キリシタン に火刑 ( かけい、火あぶり ) を命じたので 、いわゆる 「 元和 ( 別名 京都 ) の大殉教 」 が起きました。

上図は十字柱に縛り付けられて火刑に処せられる、 テクラ ( 洗礼名 ) 橋本とその子供たちです。

伊達藩においても幕府の キリシタン禁教令に従わざるを得ず、支倉常長の帰国直後から禁教令が施行され、常長は失意のうちに 2 年後 ( 1622 年 ) に死亡しました。さらに嫡子 支倉常頼の代に家臣および常頼の弟が キリシタンであることが発覚し、1640 年 に常頼が処刑され、支倉家は 「 改易 」 という悲劇に見舞われました。

しかし 28 年後 ( 1668 年 ) に常頼の子の常信の代になると、支倉家は許されて家名を再興しました。 その一方で 支倉常長と マニラで別れた宣教師の ソテロ ( 1574~1624 年 ) は、 2 年後に商人に変装して中国船で日本に密入国しました。

その後 薩摩藩内で捕らえられて長崎へ送られましたが、伊達政宗の助命嘆願も虚しく 1624 年 ( 寛永元年 ) 8 月に他の宣教師 3 名と 共に大村の刑場で火刑に処せられ殉教しました。( 50 歳 )

ソテロは 1867 年に、ローマ教皇 ピウス ( Pius ) 9 世により、聖人 ( Saint ) に次ぐ福者 ( ふくしゃ、ラテン語で ベアト、Beato ) の地位に列せられました。


( 13-1 : 人類の祖 アダム の 原罪 が、拒否反応の原因 )

1871 年 ( 明治 4 年 ) に明治新政府が 前述した岩倉使節団を欧米諸国に派遣した際に、日本政府の キリスト教に対する 「 禁教令 」 について諸外国から激しい抗議を受けたため、新政府は江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止令 ( 1612 年 ) 以来 261 年続いた キリスト教禁止令を、明治 6 年 ( 1873 年 ) に廃止しました。

それ以来今日まで 141 年が経過しましたが、 キリスト教関係者の布教努力や、太平洋戦争の敗戦後は アメリカ占領軍が多くの宣教師を日本に招くなど、占領軍による支援にもかかわらず、 キリスト教の信者は増えませんでした 。これについて占領中に日本に駐在した アメリカ人記者によれば、日本人の知能程度が低いからだとする記事を書いていました。

彼によればある民族の知能程度は、キリスト教信者の占める割合により示されるとする実に愚かな考え方でした。

平成 23 年版 宗教年鑑 の データ ( 下表 ) によれば、キリスト教信者の数は国民の 僅か 1.4 パーセント に過ぎないという、布教面での 不毛の状態 が明治初期以来 現在まで続いています。

日本の宗教別信者数と、その割合

平成 2 3 年版 宗教年鑑、( 文化庁編 ) から引用

順位宗教名信者数国民に占める
割合 (%)
1神道系102,756,32651.5
仏教系84,652,53942.4
キリスト教系2,773,0961.4
諸 教9,435,3174.7
信者総数
(重複を含む)
199,617,278100


注 : 韓国の キリスト教信者の割合

参考までに 1593 年の豊臣秀吉による朝鮮征伐 ( 文禄 ・ 慶長の役 ) の際に、 キリシタン大名の 小西行長の求めに応じて、日本から イエズス会宣教師 セスペデス( Sespedes ) が朝鮮に渡ったのが キリスト教 布教の最初であった。

平成 17 年 ( 2005 年 ) の データ によれば、韓国における国民に占める キリスト教徒の割合は、 29.2 パーセント

日本における キリスト教の布教面での不毛や信仰拒否の原因として最初に挙げられるのは、

人は生まれながらにして罪人 ( つみびと )である

とする教理の 原罪 、つまり 「 人類の祖先の アダムが犯した罪で、人は生まれながらにその罪を負う 」 ことにある といわれています。

この教理が日本人の 肌に合わず 拒否反応を起こしている のだそうです。 生まれたばかりの 赤ん坊 が 「 罪びと 」 だと ?。---そんな アホ ( 阿呆 ) らしい宗教など、誰が信じるものか!---。


( 13-2 : 私の場合 )

私は 新潟県にある寺の娘 を母として東京で生まれ育ちましたが、親とは異なり宗教心など全くありませんし、 昭和 20 年 ( 1945 年 ) の日本の敗戦以降 神仏に願い事をするのを止めました。

81 歳の今日まで 先祖の墓の 「 有料清掃および 供花 」 の確認を兼ねての墓参を除き、宗教とは無縁の生活をして来ました。

飛行機の火災

あと 1~2 年でお迎えが来る予定ですが、3 6 年間の現役時代を振り返ると 一瞬の判断 ミスや操縦操作の 失敗により、最悪の事態には 数百個の棺桶 が地上に並ぶ おそれ がありました。

その パイロット生活で、長年培 ( つちか ) った人生哲学によれば、

制服

いざという場合に頼れるものは 宗教 を含めた他人ではなく、機長である 自分の腕 ( 操縦技量 ) と頭 ( 判断力 ) だけ 。自分で決断し、 自分が全責任を負う

ということでした。そこには宗教が入り込む余地など、全くありませんが、これまで宗教に 「 助け、救いを求めた 」 ことなど 一度もありませんし 、今後も無いと確信しています。

  もちろん 有りもしない天国 ( 地獄 ) に行くことなど、考えたこともありません

( 終わり )


H 26、Jun. 20


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