阪神大震災のこと
人生で 二度の大地震を体験した人 は滅多にいないと思いますが、私は 「 サンデー毎日 」 の第 13 項目で既に述べた サンフランシスコ 大地震 の他に、阪神大震災も体験しました。
[ 1:夢の中から ]なんの夢か忘れましたが明け方に夢を見ていた最中に、突然ものすごい突き上げる衝撃を感じ目を覚ましました。地震と気が付いたものの、物が落ちる音、倒れる音がしたので、とっさに頭から布団を被りました。それがマグニチュード 7.3 の阪神大地震の起きた瞬間で、忘れもしない平成 7 年( 1995 年 ) 1 月 17 日の朝 5 時 46 分のことでした。揺れが納まったのでいつも枕元の布団の下に置いておく懐中電灯を点灯してみると、布団、畳や床の上に光る物が点々とありました。落下した テレビの ブラウン管や ガラス食器などの破片でした。懐中電灯で照らして見た範囲では家の構造的破損は無いようでしたが、驚いて外に飛び出した近所の人々の話声が聞こえてきました。
[ 2:水の確保 ]地震と同時に停電になったので 直ぐに 断水を予想し 、水を確保することにしましたが 、懐中電灯を頼りに風呂場に行き浴槽の水栓をひねると、停電でも水道管に圧力が残っているいる間は水が出ました。ヤカン、ナベなどにも同時に飲み水を貯めることにしましたが、最初は普通の水が出たものの、後になると地震で上流の水道管が破損したらしく泥水が出てきましたが、女房には泥はやがて沈殿するので心配ない、浴槽に水を貯めておくように言いました。このようにして貯めた 350 リットルの水が 、その後に 5 日間続いた断水生活では非常に役立ちました。[ 3:電話の通話規制 ]6 時過ぎに電話が鳴りましたが、停電でも電話は使用可能でした。札幌に転勤していた息子からの電話で、早起きの彼が テレビ を点けたら関西に地震の テロップが流れたので電話をかけてきたのでした。後になって分かりましたが、この電話が肉親との唯 一の電話連絡になりました。それ以後は地震の被害の様子が テレビで放送されると電話が殺到したために通話規制がかかり、使用できなくなりました。息子が親戚の者に私達の無事を連絡してくれたので助かりました。電話は何日間も不通になりました。一般家庭用電話の通話規制をしても、しばらくの間、公衆電話は通じました。しかし カードは使えずに、大勢の人が硬貨で電話をかけたので中の料金箱が 一杯になり、使えなくなりました。それでも電話が通じる所がありました。郵便局、学校、市役所などの公共機関の電話、防災関係の電話だけは通話規制がかかっても、未だ使用できました。現在は携帯電話がありますが、直ぐに通話規制の対象になることでしょう。
[ 4:電気 ]明るくなってから室内の片づけをしましたが、ガラスの破片が散乱しているので、畳や布団の上でも スリッパを履きましたが、停電のため、電気掃除機は使えなくなりました。昔は座敷を掃く箒( ほうき ) がありましたが、今では庭や道路を掃くほうきはあっても、部屋の中を掃く箒がないので困りましたが、ガラスなどの大きな破片を拾うだけにしました。停電のためその夜から照明には、登山用の テントの中で使用する太い ロウソクと ランタン ( 照明器具 ) があったので、それと懐中電灯を使い、昔の人のように暗くなったら直ぐ寝ることにしました。私の地域では停電は 4 日間続きましたが、電気が復旧すると家庭にあるガス漏れ警報機が、ガスを感知して ピコピコ鳴ったままなので スイッチを切りました。
[ 5:ガス ]地震により道路や家の敷地に亀裂が走り、地面の亀裂からは ガスの臭いが漂いました。ガス会社は直ぐに ガスの本管を閉めたそうですが、ガス漏れが止まるまで時間が掛かりました。そして地中の ガス管の継ぎ手が地震で外れたり、管に ヒビが入った箇所を探し出し、ガス管の中に入った泥や水を取り除くので、ガスの復旧には 3 週間かかりました。
[ 6:炊事 ]電気も ガスも無いので近くの スーパー や商店の カセット ・ ガス 「 コンロ 」 と ガス ・ ボンベは直ぐに売り切れましたが、ここで私の趣味の登山の道具が役に立ちました。登山用の E P I の ガス ・ コンロと ガス ・ 缶 ( カートリッジ ) を使い炊事をしましたが、家の中で野外用の炊事器具を使うのは最初は変な気がしました。一般 コンロ用の ガス ・ ボンベは直ぐに品切れとなりましたが、登山人口が少ないので、登山用の ガス ・ 缶は空になっても容易に補給できました。 電気が来るまでの 4 日間は、全て登山用の炊事 コンロで炊事の煮炊きをしましたが、電気が来てからも ガスが来るまでの 3 週間は もっぱら炊事の主役は登山用の ガス ・ コンロで、洗面や食器洗いには電気 ポットで沸かした湯を使いました。
[ 7:入浴 ]最初の 4 日間は風呂に入れず、その後は ガスが復旧するまで、1 日おきに遠く郊外まで入浴に行きました。家の近くの銭湯は地震の被害で営業できないため、13 キロ離れた所にある温泉宿は地震の被害が殆ど無いので、車で入浴に行きましたが、入浴料は 700 円でした。[ 8:便所 ]地震の際に重要になるのは、ガス、水道、電気の ライフラインの他に、「 トイレの問題 」 です。人は 2 時間おきに 「 小用 」 の排泄が必要になりますから。私の家は前述の地震発生直後に浴槽に貯めた水があったので、水洗便所はその水を使用しましたが、「 小用 」 の場合はなるべく水を流さずに節水に努めました。一部の人は空き地や庭に穴を掘って周囲を シートで囲い仮設便所にしたり、下水の マンホールの蓋を外し、板を 二本渡して便所代わりにしました。
[ 9:避難 ]家の被害が少なかったので避難所には行きませんでした。しかし市の避難所に避難した友人の話によれば、最初の 12 時間の間に、おにぎり 1 個が支給されただけだそうで、避難の際にはある程度の食べ物、飲み物の用意が必要とのことでした。
[ 10:ガソリン、暖房 ]停電のため信号機が作動せず、道路は大渋滞でした。地震の被害が少ない遠方の商店に買い物に行く際には、バイクが役立ちました。ガソリンスタンドも停電のため ガソリン補給ができず、新潟中越地震では ガソリンを手回しの ポンプで補給していましたが、阪神大震災ではそのようなことはありませんでした。運よく車には満 タンに近い ガソリンがあったので、郊外に入浴に行くには支障がありませんでした。停電のため我が家では強制吸排気式の暖房器具が使えなくなりましたが、1 月の寒さでは暖房が必要です。そこで電気を使用しない古い石油 ストーブを押入から取り出して、我が家の灯油 タンクから灯油を抜き取り暖房をしました。
[ 11:現金の引き出し ]地震発生は給料前の 17 日でしたので、停電中は キャッシュ ・ カードでの現金の引きおろしができずに、困った人もいましたが、印鑑と預金通帳があれば、預け入れた銀行からは 「 引き出し 」 ができました。ある程度の 「 非常用現金 」 の予備が必要になります。
[ 12:地面の亀裂 ]地震の際には前述のように道路や家の敷地に 100 メートルも続く長い亀裂が走りましたが、亀裂が通過した家々では大きな被害を受けました。石垣が崩れ、家の基礎に コンクリート にはひび割れができ、家が傾き、壁も崩れました。活断層の動きにより周辺に限らず遠くでも亀裂が何本も走りましたが、不思議なことに割れ目は自然と閉じてしまいました。
[ 13:避難所貯金 ]
阪神大震災では 42 万戸の家が被災し、6 千人の死者がでましたが、被災者を 一時的に、地区の公民館、学校の庭、公園などの仮設 テントに収容しました。避難所に避難する間は 3 食とも市が支給しましたが、仮設住宅を建ててもそこに住もうとしない人達がいました。避難所にいる限り食事を支給され生活費が掛かりませんが、仮設住宅に住むと生活費が必要になるからでした。 近隣の市では ガス、水道、電気代も不要の公民館に最後まで残り、8 ヶ月間も住み続けた 3 家族がいましたが、市がとうとう食事の支給を中止したところ、ようやく付近の仮設住宅に移り住みました。一説によると、避難所暮らしをすると生活費がかからず、その分だけ 一家で 毎月 20 万円の貯金 ができるので、 「 できるだけ長く住んだ方が得や 」 と称していたそうですが、それを避難所貯金と呼ぶのだそうです。 その 3 家族達は 160 万円ずつを貯金ができたはずでした。震災による死者は 6 千数百人といわれますが、地震による直接の死者は 8 割ほどで、残りは前述の溺死、肺炎、老人などの生活環境悪化による間接的原因による死亡です。
[ 14:震災 ルック ]被災家屋の片づけや取り壊し作業のため街中に土 ホコリが立ちこめていて、被災地を歩く人は マスクをして、髪が汚れるので帽子を被る人が大勢いました。電車の不通区間を歩くため ズック靴を履き、防寒着を着た背中には、買いだし用の リュクサックを背負いました。この格好で デパートでもどこでも行くようになりましたが、住民たちは震災 ルックと呼んでいました。
[ 15:感謝心と道徳の欠落 ]家屋の被害認定については 「 全壊 」、「 半壊 」、「 一部損壊 」と 3 段階に分けられますが、私の家は 「 一部損壊 」 と認定され、市から 3 万円の 「 見舞い金 」 をもらいましたが、ありがたいことと思っています。避難所に住む人達の中には市が毎回支給する食事について不平不満を言い、幕の内弁当だけでなく、たまには刺身ぐらい食わせろと要求する人達もいたそうです。鉄道や市内の復旧も進み、食べたければ町の食堂でも自費で食べられる状態なのに、感謝心が欠落していて俺達は被災者だから、食事の支給を受ける権利があるとでも思っていたのです。仮設住宅に住むある被災者が大酒を飲んで入浴し、浴槽の中で死にましたが、死因は溺死でした。ところが彼の家族は震災による死者には 5 百万円の弔慰金が貰える話を聞くと、災害死亡認定の申請を市役所にしましたが事情が事情だけに拒否されるました。すると 例の 「 左翼主義団体 」 に話を持って行き、大勢で市役所に押し掛け災害死亡認定を迫りました。 「 震災がなければ仮設住宅には住まなかった、従って溺死もしなかった。」、溺死するほど大酒を飲んだことには触れず、地震と溺死には因果関係があるとする、 「 屁理屈 」 を並べました。 屁理屈と 「 こう薬 」 はどこにでも貼り付く という 「 ことわざ 」 がありますが、地震発生から 5 ヵ月後に死亡したにもかかわらず家族は 5 百万円 をせしめました。この例だけではなく、仮設住宅で肺炎にかかり死亡した者にも 「 屁理屈 」 から、「 災害関連死亡者 」 として給付金を貰ったのだそうです。
[ 16:避難所における盗難 ]ある地域では市の体育館や仮設 テントに住み、そこから出勤、通学する人にとっての大きな悩みは 盗難の被害でした 。家から折角持ち出した物 ・ 支給された衣類 ・ 品物などが仕事を終えて、あるいは学校から避難所に帰ると無くなっていたことでした。体育館で 3 ヵ月暮らした友人は、まるで ドロボー と一緒に暮らすようなものだった と感想を述べていました。中越地震で新潟県の山古志村 ( やまこしむら ) 住民が集団で避難した場合のように、地域住民が顔見知りの場合には互いに助け合うこともありますが、生き馬の目を抜く 都会砂漠の避難所では 、被災者同士が盗難に注意しなければならなかったのは悲しいことでした。
[ 17:家の建て替え ]市役所による家屋の地震被害認定の結果、前述の如く我が家は 「 一部損壊 」 でしたが、コンクリートの基礎には ヒビが入り、家が歪み。壁のいたる所に ヒビ割れができて、二階へ通じる階段が床と 5 センチも隙間ができました。建築後 20 年しか経っていない家でしたが子供達は既に独立し、夫婦 二人で住む今後の生活のことを考えて再び建て替えることにしました。すると震災で被害を受けた家屋の取り壊しは、公費でしてくれることになったので助かりましたが、解体の順番待ちが 3 ヵ月かかりました。その期間を含め家を建て替える間の 9 ヵ月間は近くの貸家に住みましたが、避難所暮らしに似た不便を味わいました。新しい家に住むのは快適ですが、その結果老後の生活資金に当てる予定でした 貴重な退職金が ゼロ になりました。
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