排泄の文化


題名から想像されるように内容に 嫌 悪 感 をもよおすような記述があるので、それを 承知の上で 読まれた し


[ 1 : は じめに ]

11 月 10 日 は何 の日か御存 じですか ?。正解は い い ( 11 )  ト イ レ ( 10 ) という ゴ ロ 合わせで、ト イ レ を快適な空間 に しようと提唱する民間団体の 「 日本 ト イ レ 協会 」 が、昭和 6 1 年 ( 1986 年 ) に ト イ レ の 日 に 決めま した。

現在 地球上に住む 四割強 の人たちが ト イ レ の 無 い生活を していて、十 億人以上の人々が 毎日 汚染された水を飲 んでいるそうですが、今回は 排泄の問題 について述べることに します。

世界最初の ト イ レ と思われるものが発見されたのは、 スコットランド 北部の 沖 にある オークニー ( Orkney ) 諸島 ・ ス カ ラ ブ レ ( Skara Brae ) 村 の 後期石器時代 遺跡 ( 紀元 前 2 千 8 百 年頃 ) からで した。

ほぼ 同時代 に別の地域、中東にある古代 メソポタミア の エシュヌンナ( Eshnunna ) 遺跡( 現 ・ イラク共和国 ) から アッカド 王朝時代( 紀元前 2 千 2 百年頃 ) の宮殿に残る水洗便所跡 が発見されま した。

更に パキスタン を流れる インダス 川 流域で、インダス 文明 ( Indus Valley Civilization、紀元前 2 千 6 百年 ~ 紀元前 1 千 8 百年頃まで ) が 栄えま した。

レンガ積みトイレ

その流域にある大都市 モヘンジョダロ ( Moenjodaro ) で発見された トイレ は、家の壁の外側に造られま した。この最初の洋式 スタイル の ト イ レ はきちんと レンガ で造られ、上部には椅子があり、 汚物を処理する下水道 まで作られていた 水洗 ト イ レ で した。

ところで 人が 排 泄 のために 「 大 」 と 「 小 」 合わせて 一日 に 3 0 分を ト イ レ で過ごすとすれば、男性の平均寿命である 8 0 年間では 約 6 0 0 日 ( 1 年半以上 ) を排泄作業に従事することになります。この排泄行為や排泄物 への 「 対処の仕方 」 については、それぞれの民族 や 文化によって異なりますが、今回はこれについて述べることに します。

まずは手始めに、中国の ト イ レ


( 1-1、排 泄に対する考え は 、国 や 民族 により異 なる )

便座 の 周囲 に 囲 いがない ト イ レ は中国 だけではなく世界各地にありますが、私は今から 5 9 年前の 1957 年 ( 昭和 3 2 年 ) に アメリカ の フロリダ 州 ペンサコラ にある 海軍飛行学校でそれを経験 しま した。

私たち海上自衛隊 ・ 幹部候補生学校 の候補生 5 名は 学校を 仮卒業 のままで 留学 しま したが、アメリカ では海軍 の キャデット( Cadet 、士官候補生 )の クラス に入れられて、机を並 べ て勉強 し 生活を共 に しま した。

バラックス ( Barracks 、居住兵舎 ) の 大 便 用 トイ レ には両側 に仕切り板がありま したが、扉 はありませんで した。ところが食堂 の 隣 にある広 い ト イ レ 室では片側 の壁 に沿って 大便器 が 10 個 ほど並び、反対側 の 壁 には 小便器 が同様 に 10 個並 んでいま した。

軍隊の便所

ここからが面白 いところで、アメリカ の 学生たちは 排便 しながら 「 隣 席 の者 」 と会話を したり、互 いに新聞の貸 し借りを したり、あるいは 小便を しに来た級友たちと 排便の最中に おなら を出 しながら会話を していま した。

一説によれば、彼らは排便する際に 日本人のようにあまり 力 ( り き ) む こ と はせずに 、時間を掛けて出るのを待つ のだそうです。しかも排便する姿を他人に見られても、少 しも恥 ず か しさを感 じない のです。

それだけでなく自室から シャワー を浴びるために廊下を往復する際にも、時には 男性器を露出 したままで 闊 歩 ( かっぽ、ゆったりと歩 く ) するので した。ここで注意すべき ことは、「 は じらい 」 や 羞 恥 心 ( しゅうち しん ) は 「 文明度 」 に比例 して 発達するものではなく 、それぞれの文化圏 において 独 自に 展 開 し、考 え 方 の 基本 となり、しかも 時代 と共 に変化するもの なのです。

フランス の例を挙げると 国王の ル イ 13 世 ( 1601~1643 年 ) は、豪華な装飾をほどこ した 「 オ マ ル 椅子 の 王 座 に腰掛 けて、 排 便 しながら 臣下を接見 しま した

オマル椅子

金 メッキ した鋲で高級生地の ベルベット を 「 穴 の 空 いた オマル 椅子 」 に張り、肘 掛 けには豪華な飾りを付けて いま したが、穴 の 下には 銀 製 の 糞 尿 受 け 容 器 が設置 されて いま した。彼の息子の ル イ 1 4 世も同 じように振る舞った といわれています。

写真は彼の椅子ではなく、 ル イ 15 世 ( 1710 ~ 1774 年 ) が使用 した 単なる オマル 椅子です。

ちなみに ル イ 1 4 世時代の ベルサイユ 宮殿 の財産目録には 2 7 4 脚 の 「 オマル 椅子 」 が記載され、そのうちの 2 0 8 脚 は 下に受け皿を持っただけの簡単なもので、 6 6 脚 が引き出 し付きで、受け皿は密閉された引き出 しの中に格納されま した。

宮殿の 一つ ひとつ の寝室 に この 「 オマル 椅子 」 が 1 脚 ずつ備 えられ、附属 した小部屋 ( 衣装部屋 ) に収納されるように なったのは、かなり後になって からのことで した。


[ 2 : ト イ レ が 無 い 平安貴族 の 家 ]

平安時代 ( 794 ~ 1192 年 ) に は天皇の住む御所 や 貴族 の住む 寝 殿 造 り の家 には、基本的に 便 所 がありませんで した 。こ の場合 の 便 所 とは、 便 壺 ( べ ん こ、糞 つ ぼ ) を備 えた 建物 や 小屋 の意味 で す。

間仕切り

そのため 屋 内 にある特定 の 空間 を 御 簾 ( みす、すだれ ) ・ 屏 風 ( びょうぶ ) ・ 衝 立 ( つ いたて ) ・ 几 張 ( きちょう、柱に 薄 絹 を下 げた 間仕切りの 一種 ) などを使 い 、 樋 殿 ( ひど の、排泄場所 ) と して 私 的 空 間 を 確保 して いま した。


紫式部

源氏物語 の作者でお 馴 染 み の 紫式部 ( 973 年頃 ~ 1014 年頃 ) や 枕草子を書 いた 清少納言 ( 生没年不明、平安 中期 )、当時 浮かれ 女 ( め ) と評判 だった 和泉式部 ( 生没年不明、平安 中期 の 情熱 の 歌人 ) たちは、ポータブル ・ トイ レ である 樋 箱 / 樋 筥 ( ひばこ、今で いう おまる ) に、大 ・ 小 便 を しながら暮ら して いま した。

しの箱

女 房 装 束 である 十二 単 ( じゅうに ひとえ ) を着た彼女たちが 排 泄する際 には、着物を 汚さずにするため に気を遣 い ま したが、そのために 衣 の腰 から 裾 ( すそ ) の部分を 鳥 居 状 の 衣 掛 け に掛けて 排 泄 用 の 空 間 を確保する 衣 掛 け 付き 樋 箱 ( ひばこ、おまる ) を使用 しま した。

樋殿

もちろん 排泄 した 「 も の 」 などは本人が始末するわけでは決 してな く、 樋 洗 童 ( ひすま し わらべ ) と称する女童 ( めのわらべ ) がその役目を担当 しま した。 左図で 排 便 する女性 の後に控 えている少女が、それかも知れません。排泄物は屋敷外に捨てられ 容器 は水流のある溝で洗われま した。

樋 箱の 使用法は 衣掛けを背 に して 樋 箱 をまたぎ ますが、衣を掛けるためのものは 「 き ぬ 掛 け 」 と呼ばれま した。現代でも 「 しゃがんで 」 排泄する 和式便器 には 「 き ん か く し 」 がありますが、その語源は 一説によれば 「 金 の 玉 隠 し 」 ではなく、 「 衣 ( き ぬ ) 隠 し 」 に由来する と いわれて います。

ちなみに当時は 排 便することを 樋 箱 ( ひばこ ) の 名 称 から は こ す る 」 と言 いま した。なお日本で貴族 や 武士 の 家屋 内 に 便 所 が作られるようになったのは、鎌倉時代 ( 1192 年 ~ ) からと いわれて います。では 平安京における庶民の 排泄 事情 は、どうなっていたので しょうか?。


[ 3 : 庶民の 排泄 事情 ]

平安時代末の作とされる、地獄の 餓 鬼 道 世 界 を主題 と した 絵巻 に 「 餓 鬼 草 紙 」  ( が き そ う し ) があります。その中に生前 貪 欲 ( どんよく ) で 物を惜 しみ 布施 を しなかった者や、あるいは 僧 に対 して不浄 の食べ物を与えた者などがその 報 いで、 「 食 糞 餓 鬼 」 ( じ き ふん が き ) になり、人の 排 泄 した 糞 便 を 食うように 宿命付けられた様子が描 かれていま した。

絵 巻は平安京 の 路上 で 老 若 男 女 ( ろうにゃく なんにょ ) が 排 泄する姿を描 いた、「 餓 鬼 草 紙 」 の 一場面ですが、昔の ト イ レ 研究にかけがえのない 絵画史料 であるといわれています。画面に描かれた場所は碁盤の目のように仕切られた、京の 小 路 ( こう じ ) と 小 路 の交差点 ( 辻 )の左側 です。

ちゅうぎ

縦方向の 小 路 ( こう じ ) や 辻 は 糞 便 で汚されて いな い し、誰も 排 便 していません。左 右 方向の 小路 では 4 人の 老 若 男 女 「 1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 」 が、しゃがんだ 姿で排便 しています。左端の 杖を右手に した老人 「 1 」 と思われる男は、これから排便するのか、終 わって立ち上がって いるところで しょうか!。 図 の 赤 い 印 は「 食 糞 餓 鬼 」 です。

高下駄

道路クソ

「 餓 鬼 草 紙 」 の絵から いえることは京の庶民 にとって 道 路が 排 泄 の 場 所 であった こと、しかも 排泄 する道路が決まっていて、そこで排泄 する際には 高下駄 「 1 ・ 3 ・ 4 」 ( 赤 印 ) を履 いていたことが分かります。

その目的は言わずと知れた 道 路 の 「 糞 尿 」 汚 染 から足を保護するためで した。ではその 「 人 糞 」 を片付けるのは誰かといえ ば、絵 巻 にある「 食 糞 餓 鬼 」 ( じき ふん がき ) ではなく、京の町に多かった 野 良 犬 で し た。


( 3-1、古代 の ト イ レット ペーパー )

「 餓 鬼 草 紙 」の 図で脇見 ( わきみ ) を している中央の裸の子供 「 2 」 は、なにやら細 い 棒 ら し いものを右手に持っていますが、この棒は 籌木 ( ちゅうぎ、 ク ソ ヘ ラ ) と呼ばれる 木の ヘ ラ です。

糞ヘラ

これは 紙 が貴重品であった時代 に、 用便 の際 に ト イ レット ペーパー の 代 わ り に 「 尻 ぬ ぐ い 」 に用いた 木 片 のことで、古代から 1 9 世紀はおろか、私 の故郷である 栃木県 の 僻 地 の 村 ( 小学校 は 本校 の他 に、分教場 が 二 箇所 も あった ) では、 大正時代 ( 1912 ~ 1926 年 ) の 末 か 昭和 ( 1926 ~ 1988 年 ) の 初 期 まで使用 して いま した。

私が知 る限 り 7 1 年前 ( 1945 年 = 昭和 20 年 当時 ) の こ の 地 方 では、農 民 は 小 学 校 卒 の 学 歴 者 が ほとんどであり、 新聞 が満足 に読 めないので 購 読 せず、従って 尻を拭 く 紙 を 購 入 するか、代用品 ( 木片 や ワ ラ ) で間 に 合 わせるか いずれかで した。

ここで 以前 私 の ブ ロ グ に 寄せられた、 太平洋戦争中 に 大阪 から 長野県 に 一時 疎開された方 の 体験 に 基 づ く コ メ ン ト を無断借用 しますと、

わずか 半世紀 前、( 島 崎 藤 村 の 小説 ) 「 夜明 け 前 」 の 舞台 に 近 い 木 曽 の 開 拓 農 家で、伊 那 出身の 一家 のお爺さんは 猟 師 ( マ タ ギ ? )、木箱 二つ に ク サ ビ 様 の 木 片 ( 尻 拭 い 用、籌木 ) を多数 保 管 し、木箱 は交互に 雨で自然洗浄、硬 い 木片 には驚 き 絶句。

兄 は別 の お宅 で、股 下 の高さに 張られた ト イ レ 入 り 口 の ワ ラ 縄 を 跨 ( ま た ) ぎ 少 し 移 動 する と 聞 き、こ こ で も 絶句 したそうです。


( 3-2、木 の ヘ ラ の 使用法 )

「 木 の ヘ ラ 」 で 水戸黄門 様 ( 肛門 ) に 付着 した 「 も の 」 を 拭 う 際に、痛 くない の か ?、その場合 前から 拭 う の か 後 からか ?。 かつて 太平洋戦争中 に 新聞紙 を 揉 み ほ ぐ し、軟 らか く して 「 ボ ッ ト ン 便所 」 で 使用 した経験 の ある 私 は、疑問を感 じま した。

そこで いろ いろ調 べ て みると 鎌倉時代 初期 の 禅僧 で、日本 の 曹 洞 宗 ( そうとう しゅう ) の 開 祖 である 道 元 の 書 いた 仏教思想書 の 正 法 眼 蔵 ( しょうぼう げんぞう ) の中 に、籌 木 ( ちゅうぎ、く そ ヘ ラ ) に ついての使用法があることが分かりま した。

興味のある方は 下記 を クリック し、更 に 左 表 の 5 4 番 の「 洗 浄 」 を クリック して 読 まれた し。但 し 「 籌 ( ちゆう ) 」 とあるのは 籌 木 ( ちゅうぎ ) の こ とです。

文章 の 中頃 より も 少 し 下方に、

屎 退 後 ( あ し つ い ご )、すべから く 使 籌 ( し ちゅう ) す べ し 」

[ そ の 意 味 ]

ク ソ を したら、当然 なすべきことと して、籌 木 ( ちゅうぎ )を 使 う べ し

の あたり以下 に 書 い てある と 思 い ますが、私には 詳 し く は分かりません。なお この場合の 「 あ 」 と は、原 文 では 尸 ( しかばね ) の下 に 阿 を 書 い た パソコ ン に は無 い 文字です。


こ こ に あ り


[ 4 : 外国の場合 ]

家 の中に ト イ レ があることは、紀元前 の エジプ ト 人 や ローマ 人 にとっては当然のことで したが、 古代 ローマ には 公 設 の ト イ レ が 1 4 4 箇 所 あり、また市の 境界壁 沿いには 1 1 6 の 男子用 小便所 が設けられていたと いわれて います。

しか し古代文明の 衰 退 と共 にこ の習慣は 消滅 し、やがて ヨーロッパ では 人々 は 家を建てる際 に ト イ レ を作 らな くなり ま した。

フランス 国王 アン リ 4 世 ( 1553 ~ 1610 年 ) は 歴代の王と同様に現 ・ ル ー ブ ル 美術館になっている ルーブ ル 宮殿に住んでいま したが、その宮殿は後に造られた ベルサイユ 宮殿と同様に ト イ レ がありませんで した 。 その結果 宮殿内は 長い間 排泄物 で 汚 染 されていま した。

そこで アンリ 4 世は 1606 年に ルーブ ル 宮殿内を 排泄物で 汚 すことを禁 じ、違反者に は 四分の 一 エキュ の 罰金を科 すこと に しま した。 ところがまさにその規則 の 発効 当日に、将来 王位を継 ぐ べき 王子 が 自分の部屋 の 壁に向かって用を足 しているところを、 ア グ ル 嬢に取り押さえられま した。

さあ 殿下、つ かまえま したよ。四分の 一 エキュ を支払わなければいけません。

ル イ 1 3 世の 次男 で ル イ 1 4 世の弟である オ ル レ ア ン 公 ( 1640 ~ 1701 年 ) の 妃 で イングラン ド から 嫁入り した リ ー ゼ ロ ッ テ が書 いた 叔母 への 手紙 によっても、フォンテーヌ ブロー の宮殿 ( 注 参照 ) にも ト イ レ が無かったことが分かります。

[ 注 : フォンテーヌ ブロー 宮殿 とは  ]

フランス 最大の宮殿で、フォンテーヌ ブロー 城 とも呼ばれる。宮殿の現在の姿は 歴代 の フランス 王たちによる 築城 ・ 改築 された 結果であり、基本的な建築構造は フランソワ 1 世 ( 1497 ~ 1547 年 ) による。建物は中庭を囲むように広がり、かつて 王 の 狩猟場 だった フォンテーヌ ブロー の森 に 囲 まれて いた。

リーゼ ロッテ が 書 いた 叔母 への 手紙

  あの方たちはお幸せです。行きたい時に ( トイ レ に ) お いでになれるのですから ( つまり 排泄 したい時にはすぐに出せた )。こちら ( フォンテーヌ ブロー の宮殿 ) では私どもそのような状況 にはございません の。こ こ ( の宮殿 ) では 糞 便 の山 を夕方までそのままに しておかざるを得ない のです。

なぜって、森 側 の家には どこにも 簡易 ト イ レ ( おまる 椅子 ) がございません。運悪 く そのような家に住んで困っておりますのよ。排泄 の たびに屋外に出なければ ( 野 グ ソ、野 ション しなければ ) ならないのですも の。 心地よ く 済ませた い のに、腹立た し いことですわ。

それに ( おまる 椅子に ) 腰を下ろさずに 排 泄 するなんて、心地 よ い など と、 とても言えたものではありませんも の。

とありま した。


( 4-1、ヨーロッパ 市民 の ト イ レ 事情 )

近代初頭の ヨーロッパ でも、家を建てる時に便所を作 りませんで した。田舎であれば畑 や 野原で 排泄 を済ますことができま したが、都会ではそうは いきません。そこで パ リ では 1513 年に 市 の法律で、家に必ず便所を作るように命 じま したが、1700 年 の時点でも この法律は守られませんで した。

ト イ レ の無 い家に住む都市 の人々は屋外に 排泄 の場を求め、夜は 「 おまる 」 を使うようになりま した。 14 世紀 の パ リ では、「 水 に ご 注意 」 と 三回 叫 びさえすれば、窓から何を捨ててもよかった の で した。この場合 「 水 」 とはもちろん、「 おまる 」 の 中身で した。

この 習慣は 1395 年 に法で禁止されま したが、すぐになくなったとは とても思えません。イギリス の エ デ イ ン バ ラ ではこの習慣が 18 世紀 にも残っていて、道を行 く 紳士は召使を先 に 行かせて頭上を注意させながら、 「 水 」 を捨てる気配 が見えたら召使 いが、 「 Hold your hand 」 ( チョット 待ってくれ ) と 上 の 住民 に 汚水 を捨 てるのを 待ってもらう状態 で した。


( 4-2、臭 かった ヨーロッパ 市 内 )

汚水投棄

ロンドン では 市民が自分たちで 決 めた 場所で用を足 しま したが、その結果 公共の場である 教会 ・ 市場 ・ 道路 が 17 世紀 になっても 巨大な 汚物 の 山 が堆積 する事態 になりま した。

当時は 排 泄 物 を投 げ 捨 て る習慣 があ り、早朝 に 二 階 や 三 階 の 窓 から 「 おまる 」 の 中 味 を道路に捨てる行為 がおこなわれ、道路をひど く汚染 しま した。図は 二階 の 窓から 「 おまる 」 の中味を、道路 に捨てる様子を描 いたものです。

泥はね

通りに糞 便が散乱 して 泥水 に近いような状態の中で 汚 染 被 害 を少 な くするために ハ イ ヒ ー ル が 考案 され、 上から捨てられる 汚 水 を 浴びた 際 に 被害を最少 にするため に マ ン ト が作られたとする 説 もありま した 。図は通 りで泥 し ぶ き を浴 びた夫婦。

産業革命 や 政治革命の時代 になっても、 ロ ンド ン や ベ ル リ ン 、あるいは パ リ の市民たちはそのような生活 を して いま した。ド イ ツ の都市 ブ レ ー メ ン につ いて 1852 年 ( ペリー 率 いる黒船 が浦賀に来航 した 翌年 ) の風刺雑誌 の記事によれば、

毎日 正午 に 「 進 歩 が 」 ブ レ ー メ ン 市 街を支 配 して いる。街中 のすべての 夜間用 便器 ( おまる ) が家の前に置かれて、( 中 味 を ) 回収の車が取りに来るのを待って いる。「 進 歩 」 のほどは、市民がそこを足早に通り過ぎて い く 様 ( さま ) を見れば分かる。

ブランデンブルク門

とありま したが、糞 尿 の 臭 いが 耐え難 かったの に違 いありません。ちなみに 明治 の 文 豪 といわれた 森 鴎外 ( もり おうがい、本名 森 林太郎 、後の陸軍 軍医総監 ) が ド イ ツ に留学 した 当時 ( 1884 ~ 1888 年 ) で も、ベ ル リ ン の 都市門 と して 唯一 現存する ブランデンブルク 門 周辺 の 糞 尿 による 悪 臭 について、

ブランデンブルク 門 の 天使 の 像 も、嗅 覚 ( きゅうか く ) があれば、 剣 を握る代 わりに 鼻を つまんで いただろう。

と 揶 揄 ( やゆ、からかう ) して いま した。この門 は 現在 東西 ドイ ツ 統合 の象 徴 となって います。


( 4-3、移動 貸 し ト イ レ 屋 )

その当時 街中で ト イ レ に行きたい 時、人 々はどう したので しょうか ?。そこに野原や森があれば簡単ですが、金持ちならば馬車を呼び止めて街 をひとまわりさせ、どこかで 排 泄 を済ませられます。 しか し 一 般市民はそう した贅沢 はできません。そこで考えられたのが、移 動する 「 貸 し ト イ レ 屋 」 で した。

街中で  「 ここで用を足すことは 体罰をもって禁 じられる 」  と 掲示された場所 こそが、一番 忙 しい人が集まる場所や 繁華街であり、 「 貸 し ト イ レ 屋 」 にとって 最 も利用客の 多 い場所で した。貸 し ト イ レ を提供する者には男も女もいま したが、下図は女性 の貸 し ト イ レ 屋です。

貸しトイレ屋

彼 や 彼女 たちは市場 や例えば フランクフルト の メ ッ セ ( 見 本 市 ) に出かけ、大声で人を誘 います。「 私 どもの 桶 に 座ってみませんか ? 」 ・ 「 我慢すると身体に悪 いですよ 」 。 用を足 したい 者が料金を支払うと、頭だけが出る 長 い革製 の マ ン ト ( 外 套 ) に包まれますが、マ ン ト の 下には 「 オマル 桶 」 が 隠 してあり、その 臭 いで使 い 道が分かりま した。

スコットランド の 首都 エディンバラ で も こういう サービス があ り、「 肥え桶 」 を 天 秤 棒 ( てんびんぼう ) に 担 い で 、「 1 ボービー ( 通貨単位 ) で ( おまるが ) 使えるよ 」 が 「 うたい 文 句 」 で し た。

フ ラ ン ス の 「 貸 し ト イ レ 屋 」 の スローガン は、 「 今 やるべきことは 唯 ひとつ。それも たったの 2 スー( 通貨単位 ) で できるよ 」 で した。

オーストリア ・ ハンガリー 帝国の首都 ウ イー ン には 帝国から特権を与えられた貸 し ト イ レ 業 がありま したが、それは 樽 に似た 桶 で、1 9 世紀半 ば まで 「 貸 し ト イ レ 業 」 を営む た くま し い 女性 たち により 運営 されていま した。


( 4-4、コ レ ラ が 都 市 の 衛生環境を変 えた )

このような 劣悪 な都市 の 衛生環境 が 改善される契機 となったのは、 1831 年 に イ ン ド から 船 で イギリス 国内にもたらされ、 広範囲 に 広がった 伝 染 病 の コ レ ラ で した。

コ レ ラ は昔 から イ ン ド の 風 土 病 であり、 糞 便 によ る 汚 染 が コ レ ラ 菌 の 経 口 伝 染 をもたらす 原因 で し たが、 コ レ ラ によ る そ の 年 の 死者 が、ロンド ン では 6 千 5 百 3 6 人 に達 しま した。

1848 年から 1849 年 にかけて ロンド ン だけで も 1 万 4 千人 が コ レ ラ で 死亡 し、イギリス 国内で 5 万人 が 死亡 しま した。

コ レ ラ に悩まされたのは イギリス だけでなく、1 9 世紀には 四 度にわたって ヨーロッパ 中 に コ レ ラ が 大流行 し、人口 10 万 の フランス 最大 の 港湾都市 マルセイユ では、1835 年 の 7 月 と 8 月 の 二ヶ月間で 2,189 人 が 死亡 しま した。

こ のことが契機となり、1848 年に ロンド ン では水洗便所を設け、排泄物 を下水道 へ流 す の を義務 とする規則 ができま した。 しか し 何 も 処理されない 「 生 の 」 大量 の 糞 尿を含む下水 の行 き 先は、近 くを流 れる テ ム ズ 川 で した。

ウエストミンスター寺院

テ ム ズ 川 は やがて 糞 尿 の 川 となり 、 悪 臭 は耐えがた く、岸辺にある ウエスト ミンスター 宮殿内にある英国議会は 1857 ~ 1858 年 の 間、 審議が中断される事態 になりま した。左 の写真で、「 ビッグ ・ ベン 」 ( Big Ben ) と呼ばれる時計台 の 左 が 宮殿 です。当時 の テムズ 川 を ロンドン ・ シティ ・ プレス は、次のように報 じて います。

上品に言っても、以下の言葉に 尽きる。

一度 嗅 ぐ と 二度 と忘れないほど の 臭 さで、そのことを忘れない限 り あなたは幸運である。


( 4-5、朝鮮半島 )

日本が韓国を併合する ( 1910 年 ) 前 の 、1894 年 ( 明治 27 年 ) から 1897 年 ( 明治 30 年 ) にかけて 、四 回 も 朝鮮を旅行 した イギリス 人女性 の イザベラ バード が いま した。 彼女が書いた朝鮮紀行によれば、ソ ウ ル について、

都会であり首都であるに しては、そ の お 粗 末 さは じつに 形容 しがた い。 礼節上 二階建て の 家は建てられず 、したがって推定 2 5 万人 の 住民は主 に 迷路 のような道 の「 地べた 」で暮ら して いる。

路地 の 多くは荷物を積んだ 牛 同士 が擦れ 違えず、荷 牛 と人間ならかろう じ て擦 れ違える程度 の 幅 しかない。おまけに、その幅 は 家 々 から出 た 糞 尿 の 汚物を受ける 穴か 溝 で 狭 められて いる。

ひどい 悪臭 のするそ の 穴や溝 の 横 に 好んで集まる の が、土 ぼこり にまみれた 半裸 の 子供たちと 疥癬 ( かいせん ) もちで かすみ目 の 大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向で まばたき して いる。

小川で洗濯

ソウル の 景色の ひとつは 小川 というか 下 水 という か 水路である。蓋 の ない広 い水路を黒 くよどんだ 水 が、 かつては 砂利 だった 川床 に堆積 した 排泄物 や 塵 の 間を、 悪 臭を 漂 わせながら ゆっくりと流れてい く。

水ならぬ混合物を手桶に くんだり、小川 ならぬ 水たまりで洗濯 している女達 の 姿。 ソ ウ ル には芸術品がまったくなく、公園 もなければ見るべき 催 し物も劇場 もない。他の都会ならある魅力が ソ ウ ル にはことごと く欠けている。


[ 5 : 日本 の ト イ レ 事 情、江戸 と 京都 の 違 い ]

江戸時代 の こと、当時文化 の 中心地であった京都では、町 の あちこちに、小便桶 の ある 「 小 便 所 」 が設けられて いま した。やはり 当時 と しても、文化 の 中心都市と して の 備 えができて いま し た。ちなみに 当時 の 江戸 では 、庶民 は 路上 や 溝 に小便をする の が普通 で、たまに 「 小 便 所 」 があっても、

辻 々に 小 便 所 稀 にあれど も 、只 ( た だ ) は じき ( 弾 き ) の 板 ばかりにて、地 内 ( 地 面 ) へ しみこます( 浸み込ます ) なれば、その辺 に ( 小便 ) 散乱 して臭気 はなはだ し。

という有様 で したから、京 の 文化水準 の 高さ ( ? ) が うかがえます。 路 上 に 小便を しないという、今から思えばご く あたりまえ の ことが、地方から京 へ上って来た者には、よほど珍 しいも の に思えたに違いありません。

実 は こ れ に は 「 裏 」 が あ り 、化学肥料 が無 かった 当時 人 の 糞 尿 は 肥料 と して使用されま したが、とりわけ 尿 は 即 効 性 があるので 農民 に とって 貴重品 とされま した。

万事に 「 しまつ ( 節 約 ) 」 を 心掛ける京 の 人たち が これを見逃すはず がな く、家族はもちろん の こと 通行人 が利用 し易 いように 道端 に 小 便 桶 を設置 し、中味を農民に売るか野菜 と交換 した の で した。


since H 28、Oct. 20

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