排泄 の 文化 ( 続 き )
京 おんな、 立って 垂 れるが すこ し 「 きず 」とありま したが、それは 清 水 寺 から 三条の宿へ急 いで帰る途中 の話 で した。ところで 『 南 総 里 見 八 犬 伝 』 ( なんそう さとみ はっけんでん ) を書いた 曲 亭 馬 琴 ( きょくて い ばきん、1767~1848年、戯作者 ) の 『 羇 旅 漫 録 』 ( きりょ まんろく ) によれば、 京 の 家 々、厠 ( かわや、便所 ) の 前 に 小 便 擔 担 桶 ( たご おけ ) ありて、女 も それ へ 小便をする。故 に、富 家 ( ふ か、財産が豊かな家 ) の 女房 も 小便は 悉 ( ことごと ) く 立 て 居 ( い ) て するなり。 但 し、良 賤 ( 良家の女性、賤 しい家の女性 ) とも 紙 を 用 ( もちい ) ず ( つまり 拭 かない )。 妓女 ( ぎ じょ、芸 妓 や 遊 女 ) ばかり ふところ 紙 ( 懐紙 ) を持 ち て 便所 へ 行 くなり。 月 々 六 斎 ( ろく さい、六回 ) ほど ず つ こ の 小便桶を汲 みに來るなり。 或は 供 ( とも、従 者 ) 二、三人つれたる女、道 ばた の 小 便 たご ( 桶 ) へ、立ちながら 尻 の 方を むけて、小便 をする に、 恥 ( は じ ) る い ろ ( 気 色 ) なく、笑ふ 人 な し 。とありま した。 なお 当時 の江戸 の 町では、女 性の 立ち小便はほとんど無 く、曲亭馬琴は 驚 嘆 ( きょうたん ) の 目で記録 していま したが、この話 は、京都以外の人々にはよほど珍 し かったとみえて、 西沢 一鳳 ( に しざわ いっぽう ) 作 の 『 皇 都 午 睡 』 ( みやこの ひるね ) の なかで も 扨 ( さて ) も 小便を 寵 愛 ( ちょうあい ) するは京 の 事 也。矢 ( 八 ) 瀬 ・ 小原など遠方 へ持ちか へ る( 帰る ) は、( 集めた小便を桶 から ) 樽 詰 に し、日 々 菜でせう ( 菜 と交換 しよう )。蕪で せう ( カ ブ ラ と 交換 しよう ) などと、野菜の物 と替て、値切 小切 する悪口は、十 辺 舎 が 膝 栗 毛 に書き た れ ば、世間 に 名高 し。 ( 小便所 の ) 小便が 野菜 と化ける京 の 町と書 いていま した。 ( 5-2、江戸の長屋 ) 長屋はた いてい建物が向か い合うように建てられていま したが、 そこには 共 同 井 戸 があり道 の 真 ん 中には下水が流れて いて、炊事や洗 濯 の 水を流 しま した。その上が板で覆われていま したが、その板を 「 ドブ 板 」 と呼びま した。 今日 「 ド ブ 板 政治家 」 とは選挙 が近 くなると、場末の長屋まで く まな く 訪れる政治家 の ことですが、その語源 はここから来ま した。図は長屋 の 共同便所ですが、半分 しか 扉 がないのが 大便用 で、左は 小 用 です。一番右 の 箱 は ゴ ミ 捨て箱 です。 江戸 でも 糞 尿 が カ ネ になることに目を付けた大家 ( おおや、長屋の所有者 ) が、 農家 と 契約 して 糞 尿を売り渡 し、代金はすべて大家 の 収入 となりま した。従って 店 子( たなこ、長屋の 借家人 )を多 く持っ大家 ほど、糞 尿 代 金 の 額も 多 いもので した。幕末の 嘉 永 年 間 ( 1848~1854年 ) の 調 べ では、 江戸には 大家 が 2 万 1 1 7 人 い た と いわれてい ます。 江戸の 近 郷 だけでなく、現在 の 東京都 足 立 区 ・ 葛 飾 区、埼玉県の 草 加 市 ・ 八 潮 市 ( や し お し ) あたりからも、船を利用 して 江戸 の 町まで 糞 尿 の 汲み取りに来 て いま したが、江戸では江戸川を 行き 来する 「 葛 西 の 肥 舟 」 が有名で した。 ( 5-3、羞 恥 の 基 準 の 変 化 ) 右 写真の 乳房を露 出 している女たち は、1 8 世紀 以後の 朝鮮人女性です。 朝鮮では女性 の 地位 が低 く、 結婚 しても 夫 婦 別 姓 で 夫 の籍 に 入 れ ず 、女性 は 永 久 に 婚 家 の人間ではないこと を 明確 に するための 措置 だそうです。 しか し 生まれた子供 だけは、夫 の 籍 に 入ります。 家の 跡 取り である 長男 を出産 した女性 に 限 り 乳 房 の 露出が許されま したが、朝鮮人社会で、「 乳 出 し 」 は 嫁 にとっては 婚家 に対する責任を果 た したとされ 誇 りで した。 この風習は、朝鮮戦争 ( 1950 ~1953 年 ) 頃まで続きま した。 「 羞 恥 」 ( しゅうち、はずか しさ ) の 対象となる行為 が 時代と共 に変化する点については、 私が子供の頃 ( 昭和 2 0 年 = 1 9 4 5 年 当時 ) の栃木県 の 僻 地 の村では 、田 畑で農作業中に 中年以上の女性が 排尿する際 には しゃがまずに、 京都の女性と同様 に 腰を折って 「 前 傾 姿 勢 」 を取 り、立ち ション を して いま した。 ちなみ に女性 の 「 立ち ション 」 は こ の 地方 に限らず各地でおこなわれ、当時は 「 野 ション 」 の 際に 「 しゃがんで 」 する の は 若 い 女性だけであ り、しかも事後は京都 の 女性同様に 拭 きませんで した。 ところで 公 共 交 通 機 関 内 における 授 乳 についても、 「 羞 恥 の 基 準 」 が変化 しています。 昭和 2 7 年 ( 1952 年 ) から 昭和 3 1 年 ( 1956 年 ) までの 4 年間、私は 東京 と 広島県の 呉市 の 間を当時 の 急行列車 呉線 経由 の 安 芸 ( あ き ) に乗り、 片道 1 8 時間 掛けて年に 3 回 ( 春休み ・ 夏休み ・ 冬休み ) 往復 しま した。 その際 に 四人掛け の 客席で若 い母親が 赤ちゃんに 乳を含ませる光景を何度も目に しま したが、6 0 年前 は 車 中 で ボ ロ ン と 乳房 を出 して の 授 乳 は 当 たり前 の 行為 で した 。 外国では 昔も今も 公衆 の 面前で化粧 する女 は 売春婦 に決まって いますが 、 日本では 公共交通機関内 で 周囲 の 視線 など まった く気にせず に、化 粧 や「 付 けまつげ 」 の装着 に 専念する 売 春 婦 たち (?) の 姿 を 日常 的に見るように なりま した。以前であれば、とても 「 は したない 」 ( 見苦 しい ) 行為 とされて いた の に---。 [ 6 : 嫌われる ウ ン 命 ( めい ) にある ウ ン コ ]洋 の 東西を問わず排泄物 の 中でも ウ ン コ はどの民族からも 忌 み 嫌 われていますが、ウ ン コ とは何で しょうか。人間 の ウ ン コ は健康状態 等によって 左右されますが、おおむね 水 分 70 ~ 80 % ・ 腸 内 細 菌 の 死 骸 10 ~ 25 % ・ 食物 の 食 べ カ ス 10 ~ 15 % ・ その他 8 % であると いわれて います。( 6-1、古事記 に 記された ウ ン コ 騒動 ) 日本最古 の 歴史書であり 奈良時代 の 初期、 712 年に 成立 した 古事記 がありますが、 その 上 巻 には、神 代 ( かみよ ) の 物語 が 収められ います。それによれば 天安原( あまのやすがわら ) の 両岸に 立ち、姉 の アマテラス ( 天照大神 ) と 弟 の スサノオ ( 須佐之男命 ) が 占 いを競 い、弟 が勝ちま した。 宇 気 比 ( うけひ、古代 日本 の 占 い ) に 勝った スサノオ は、大変 に おごり 高ぶり 種 々 の 暴行 ・ 悪行を働 く ようになっ た。 アマテラス ( オオミカミ、天照大御神 ) の 常田 ( つ くだ ) の畔 ( あぜ ) を切 り、溝を埋め、大御神 ( オオミカミ、 アマテラス ) の 聞 こ し 召す( 行 われる ) 大嘗 ( おおにえ、注 参照 ) の 殿 ( でん、大きな建物 ) に 屎 ( ク ソ ) を 撒 き散 ら す などの 悪 行 をおこなった。 さらに 天 ( あ め ) の 斑 馬 ( ふちこま ) を 逆 さ 剥 ぎ ( 尾から 剥 ぎ ) した 皮を 機 織 ( はたおり ) 小屋に投げ込んだ ため、服 織 女 ( はたおりめ ) を 驚 死 ( きょう し、驚 いて 死 ぬ ) させた。 さすが の アマテラス もこ の 行為 に怒 り、天 の 岩戸 ( あまの いわと ) の 内に 隠 れて し まった。 そのため天地は暗闇 ( くらやみ ) となった。と ありま したが、 困った 神 々 が 岩 戸 の 前に集まり 芸能 の 女神 アメノ ウ ズ メ が アマテラス を 呼 び 戻 すために、夢中で踊ってい る う ち に 衣 の 紐 がほどけて 胸 乳 ( むなち ) や ホ ト ( 女 陰 部 ) まで 現 れたので、八 百 万 ( やおよろず、数 が 非常に多 いこ と ) の 神 々 は 笑 い ころげ ま した。 アマテラス が外 の 騒ぎ の 様子を見るために扉を 少 し 開けると、そこをすかさず ア メ ノ タ ヂ カ ラ オ ( 天手力男 神 ) が 岩戸 を大き く 開 いて アマテラス を外に引き出 した の で、世 の 中が再び明る く なったという、日本最古 の ウ ン コ と ス ト リ ッ プ の 物語 で した。 [ 注 : 大 嘗 ( お お にえ、だ い じょう ) とは ] その年 の 新 穀 を献 じて、天皇自ら が 天照大神 と 天 神 地 祇 ( てん じん ちぎ、天の神 と 地 の 神 ) を 祀ることをいう。 私が小学生 の 頃は 11 月 23 日 は、「 新 嘗 祭、に い な め さ い 」 と 呼 ばれた 祝 祭 日の 一つで した。 しか し 敗戦後 の 昭和 22 年 ( 1947 年 ) に 「 勤 労 感 謝 の 日 」 と 改 称 され、現在 に至って います。 ( 6-2、ウ ン コ に 対する 嫌 悪 感 は、人間 の 本 能 ) 口 から食べた食物 は胃から 十二指腸 ( 指 を 1 2 本横 に並べ た長さ の 約 2 5 センチ ある ) に入 り消化され、長さが約 6 メートル もある 小 腸 で養分が吸収され、長さが 約 1.5 メートル ある大 腸 に 達 します。 大 腸は、水を含 んで ど ろ ど ろ した状態 の食物 の 残 滓 ( ざん し、残 り カ ス ) から水分を 次第 に 吸収 し、 内容物を 濃 縮 して ウ ン コ を形成する働きを しま すが、そこでは 1 兆個も の バクテリア という 微 生 物 や 細 菌 が住みつ いて います。 彼ら の エ サ となる の が、食べ物 の 残 滓 ( ざん し、残 り カ ス ) である ウ ン コ です。 細 菌 類 は タンパク 質 脂 質 を分 解 し、発 酵 させて アンモニア、インドール、スカ トール、硫 化 水 素 などの ガ ス を発生 させ、腸 で繁 殖 した悪玉菌 と呼 ばれる ウエルシュ 菌 や 大 腸 菌 が、 いわゆる 腐った 食 べ 物 の 臭 いや ウ ン コ 特有 の 臭 いを 発生させます。 動物 は自分 の 排 泄 物 で 自己 の 縄 張 り や 存 在を主張 しま すが、人間は集団生活 をするようになる と、その必要 がな く なり、自分 の 安全を守るため、 腐 敗 臭 を含 む ウン コ の 臭 を 本 能 的 に 嫌 う ようになりま した。 ちなみに生まれたばかり の 赤ちゃん の 腸 には 大 腸 菌 などが 未 だ 生息 していないので、そ の ウ ン コ が いわゆる ウ ン コ 臭 く な い ことは、子育て の 経験 の ある方は 御存 じ の はずです。 ( 6-3、楠木 正成 ) 敗戦前 の 学校教育を受けた人であれば、鎌倉時代末期 から南北朝時代 にかけて の 武将である 楠木 正成 ( くすのき まさしげ ) の ことを御存 じ の はずです。 彼は第 9 6 代、後醍醐天皇 ( ごだいご てんのう ) が 武力により鎌倉幕府を打倒 して建武 の 中興( けんむ の ちゅうこう ) と 呼ばれる 天 皇 親 政 復 活 ( 1333 年 ) を した際 に、貢献 した 武将 と して有名です。 皇居外苑 には、 大 楠 公 ( だ いなんこう ) と呼ばれた彼の銅 像 が 今も 建って います。 彼 は 大阪府 南河内郡 千早赤阪村 にあった 千早城 ( ちはや じょう ) に立てこも り、押 し寄せた 足 利 尊 氏 ( あ しかが たかう じ ) の 幕府軍 に 対 して、岩石を落 と したり、城 内 に 溜 めておいた 兵士の 糞 尿 を大釜 に入れて 加 熱 したも の を上から浴びせて 攻 め 寄せる相手 の 戦意を 喪失 させま した。 「 ヤ ケ く そ 」 の 語源 はこれだという説もありま したが、実際は ヤ ケ ( 自棄 ) に なること に、意味 を 強めるため に 糞 ( ク ソ ) をつけた言葉で あり、ボ ロ ク ソ、下 手 ク ソ など の 用法と同 じです。 ( 6-4、ここで 一休み、 英語 の 発音 ) ウ ン コ や 糞 ( ク ソ ) は そ の 汚 さから言葉 を 聞 くだけで相手 に 不快感 を与えますが、それを利用 して相手を 罵 倒 したりする際 に 使われてきま した。例えば ク ソ 野郎 ・ ク ソッタ レ ・ ク ソ ミ ソ などですが、アメリカ 英語 の 俗語 で 「 糞 」 は 「 シ ッ ト 」 Shit と い い ます。 さらに フィースィーズ ( Feces、糞 便、排 泄 物 ) の 語 もあります。 ところで 「 腰 を掛ける 」 ことを英語では 御存 じ のように Sit down と い いますが、問題 はそ の 発音 です。 多 く の 日本人 は 「 ス ィ ト ダ ウ ン 」 ではな く、 「 シ ッ ト ダ ウ ン 」 、 と発音 しますが、これでは 「 ウ ン コ し ろ 」 、 Shit down の 意味に 聞こえる ので、 外国人を驚 かせます。 ちなみに Bull shit ( ブ ル シ ッ ト 、雄 牛 の 糞 ) と いう言葉 があ りますが、そ の 意味 は ふざける な ・ ウ ソ つき野郎 め ・ 糞 喰 らえ、 など の意味 にな ります。発音は 舌を立て気味 に して 「 ボ ー シ ェ 」 とい い ます。 [ 7 : 人はなぜ お尻を拭 く ようになった か ]こ の 世に存在する無数 の 動物 の なかで、排 便 の 後 にお尻を拭 く の は 我々人間だけ しか いません。 もっとも 四十数年前に我が家 で飼 い 、忠 実 な番 犬 だった 柴犬 の 「 ゲ ン コ 」 は、ときどき 庭 の 芝生 に尻をこすり付ける動作を しま したが、肛門 に 蟯 虫 ( ぎょうちゅう ) で も いたのかも知 れません。 人間がお尻を拭 くようになった原因 は数百万年前 にさかのぼり、我 々 の 祖先 が 四本足 歩行 から立ち上がり、二本足 歩行に移行 したこと と 深 く 関わっていま した。人類学者で立教大学名誉教授 香原志勢 ( こうはら ゆきなり、1928 ~ 2014 年 ) の 著作 、「 人間はなぜ 紙 頼みするか 」 によれば、人間 以外 の 哺 乳 動 物 は 自 然 脱 肛 といって、排便 の 際に 肛 門 関 連 の 器 官 の 一 部 を 出 したり 引っ込 めたりできるので、肛 門 周 囲 に 糞 は 付かないが、犬 の 排 便 の 様子を見ればよくわかる。 背を丸めた姿勢 になって 排 便 動 作 を始めると、 直 腸 粘 膜 が 少 し ばかり外 へ 出 るので 、糞 は肛門 の まわ りに 触れず に 下に落ちて行 く。もちろん 排 便 が 終 わると 突き出 て いた 直 腸 粘 膜 が も と の サ ヤ に 収まるようになっているとありま した。 これを簡単に言えば 排 便 用 の 粘 膜 製 の 筒 が 肛 門 に 内 蔵 して あり、それを出 し入れすることに より 肛門を糞 の 汚染から防 いで いま した。 人間 の 場合 に は 肛 門 科 の 病気 に 脱 肛 ( だっこう ) という の がありますが、排 便など の 際に 肛 門 や 直 腸 下 部 の 粘 膜が 肛 門 外 に 出 て しまう 病気で、 肛 門 粘 膜 脱 ( こうもん ねんまくだつ ) とも い います。 最初 の 内 は 肛 門 から出てきた 粘 膜 を 指 で肛 門 内部 へ 押 し込み 戻 すことができます が、悪 化 す る と 痛みが強 く なり指では戻せなくなり、嵌 頓 ( かんとん、注参照 ) した状態になります。 注 : 嵌 頓 ( かんとん )とは 腸 や 子宮 などの 内 蔵 諸 器 官 が 組 織 の 隙 間 からとび 出 し、そのまま腫 ( は ) れて、 もとに戻らなくなった 状態 をいう。 ( 7-1、尻を拭 くようになったのは、二 足 歩 行 が 原 因 ) 人間が 二足歩行 を するようになると、臀 部 ( でんぶ、しり の 部分 ) が 発 達 し て ふっく らとするようになり、直立 するため に 肛 門 は お尻 の 奥 深 く に 隠 されて しまい、外からは見えなくなりま した。 股 関 節 の 直 上 部 に 肛 門が来るように なったため に、脱糞 の 際 には それまで体に 付 着 せずに下に落ちた 糞 が、肛 門 付 近 に 付 着 す る ようになりま した。それが 臭 うため、自分 も 周囲 の 人も 不 快 に 感 じるようになり、そ の ため に人間は長い時間を掛けてお尻 を 拭 く、あるいは 水 で洗うなど の 習慣を 持 つようになったと考えられて います。 ( 7-2、尻 を 拭 く 道 具 ) 古代 ロ ー マ で は 棒 の 先に 「 海 綿 」 を 付けて尻を拭き、使用後は 流 水で 「 海 綿 棒 」 を洗ったといわれています。ところで 私 は 昭和 8 年 ( 1933 年 ) から、敗戦 の 前年である 昭和 19 年 ( 1944 年 ) に 長野県 の 山奥 の 寺 へ 学童集団疎開 に行 く まで、東京都 ・ 豊島区 ・ 巣鴨 ( 旧 ) 五丁目 で育ちま した。 統計 によれば 昭和 10 年 ( 1935 年 ) 当時 の 東京市 ( 当時 )の 区部 では下水道があったも の の、糞 尿 が 浄 化 処 理 されていたのは僅 か 3 パーセント に 過ぎませんで した。 そ の 当時便所で使用 した 紙 といえば、江戸時代から使われていた 粗 悪 な 薄 い 灰 色 ( 薄い墨 色 ) を した 四角 い 浅 草 紙 ( 注参照 ) か、太平洋戦争末期 にそれ の 入手が困難になると、新聞紙 を手頃 な四角形 の 大きさに切った も の で した。 [ 浅 草 紙 と は ] 習字 の 手習い紙 や商店 の 大福帳など の 不要になった古紙 を材料 に して、 再生紙 を作ることを 漉 ( す ) き 返 し と いう。 つまり 「 落 と し 紙 」 ( 便所紙 ) や 鼻紙 など の 下等 の 紙 は、古紙を再生 した 浅 草 紙 と呼ばれる紙を用 いた。 名前 の 由来は 元禄年間 (1688~170 年 ) に 浅 草 の 山谷 ( さんや、現 ・ 東京都 台東区 浅草の 北東部にあった地名で、江戸時代から木賃宿が集まった場所 ) 辺りで 多 く 製造されたところから 浅草紙 と呼ばれた。私 の 人生における最大 の 失敗 が こ こ に あるので 、お読み下さい。 [ 8 : 糞 尿 の 行 方 ]昭和 10 年代 (1935年~) 当時、我が家を含めて巣鴨 の 現在 「 お婆ちゃん の 原宿 」 と呼ばれる地域には、 水洗便所のある家など 1 軒もなく、小学校を含めて便所は 全て ボットン 便所 の 人 力 による汲み取り で した。 そ の 際には写真 の 汲み取り用 「 肥 ( こえ ) ひしゃく 」 を使 いま したが、「 肥担桶 」 ( たごおけ ) には 糞 尿 が昔の単位で 二 斗 ( 約 3 6 リットル ) 入り、これを 一 荷( いっか ) と呼びま した。各戸で汲み取った糞 尿 は 牛 車 に 肥 担 桶 を積 んで運ばれて行きま したが、最終的には 汲み取った 糞 尿 は 糞 尿 船 に 流 し込 んで、平成 11 年 ( 1999 年 ) まで 東 京 湾 外 へ の 海 洋 投 棄 に頼っていま した。 いずれ の 時代にも世 の 中には 「 ずるい 奴 」 が必 ず いるも の で、図 の 房総半島 西南西 にある 糞 尿 投 棄 海 域 ( 北緯 3 4 度 5 4 分、東経 1 3 9 度 3 7 分、図 の 青い点 ) まで行かずに、東京湾内 や 湾 口 で船底 の 弁を開 いて 糞 尿 を投棄 して戻 る 船 もありま した。 昭和 45 年 ( 1970 年 ) 頃 の こと、羽田空港を離陸 し 西に向かう場合 に東京湾上を上昇する際 に、海面 に 黄色 い 航跡を引きながら走る船をよ く 見かけま した。 |