埋蔵金の伝説


[ 1: 世界最大の金貨 ]

日本には数多くの埋蔵金伝説がありますが、作家で埋蔵金研究の第 1 人者でした 故 ・ 畠山清行 ( せいこう ) によれば、その数は 日本中に 150 件 〜 200 件 もあり、詳細に調べれば 数千件はあるとしていました。

また戦国史の権威で國學院大學の教授をしていた 故 ・ 桑田忠親によれば、埋蔵金関係の著書の中で、まだ発見されていない埋蔵金の総額は、昭和 52 年 ( 1977 年 ) 当時の時価で 150 兆円 に達すると述べていました。この金額は 骨董的な価値 ( 注 1 、参照 ) に基づくものであり、実際の評価額としてはかなり下回ると考えられます。

注:)1
天正大判

たとえば豊臣秀吉が天正 16 年 ( 1588 年 ) に初めて鋳造させた、 天正 ( てんしょう ) 大判 ( 10 両 ) という金貨がありますが、縦 5 寸 6 分 ( 約 17 センチ )、横 3 寸 3分( 約 10 センチ )、重さ 44 匁 ( 約 165 グラム )です。 表面の上部に 菱形の極印 ( ごくいん、刻印 ) が 1 個、下部に 2 個ありますが記憶しておいて下さい、あとで説明しますから。

通常の大きさの天正大判と、それよりも縦に長い 天正 長 ( なが ) 大判 などがありますが、 この金貨は 2004 年に 「 ウィーン金貨 ・ フィル ハーモニー 1000 オンス 」 が 発行されるまでは、世界最大の金貨といわれていました。

天正大判は貨幣として使われたものではなく、贈答用 ・ 賞賜 ( しょうし、ごほうび ) 用に使われました。金の地金 ( じがね ) の価値としては 40 万円以下ですが、古い貨幣の価値はその 希少価値 ( 骨董価値 ) によって決まり、金や銀の含有量などは 二の次です。

現存する古銭で 最も値段が高い のは前述した天正大判で、特に表に菱形の中に 五三の桐 ( ごさんのきり、注 2 、参照 ) の極印 ( ごくいん ) が押された 天正菱大判 ( てんしょう ひし おおばん ) ( 上の写真 ) と呼ばれるものです。

これは豊臣秀吉が足利幕府に仕えた彫金師 「 後藤家 」 に命じて作らせた最初の大判で、表面に 「 天正十六 」、「 拾両 」、「 後藤 」 および花押 ( かおう、自署に代わる図案化した サイン ) の墨書きがあり、 保存状態がよいものでは 1 枚 1 億円 もするといわれています。

注:)2
五三の桐

五三 の桐とは紋所の名前で、3 枚の桐の葉の上に桐の花が中央の花柄に 5 個、左右の花柄にそれぞれ 3 個配したものです。

注:)3
ハーモニー金貨

ところで 「 ウイーン金貨 ・ フィルハーモニー 1000 オンス 」 は、 オーストリア政府の造幣局が平成 16 年に世界で 15 枚限定で発売したもので、重量 31.103 キログラムの純金製 ( 純度 99.99 パーセント ) で、直径約 37 センチ、厚さ約 2 センチ 時価 6,000 万円 〜 7,700 万円 するそうです。

[ 2:埋蔵金の種類 ]

埋蔵金といわれるものには、大きく分けて 5 種類がありますが、ある目的をもって隠したものであり、その方法としては当時最も安全とされた地下に埋めることでした。盗難 ・ 火災 ・ 敵による強奪などから財宝を守るために地下に埋めていたものが、なんらかの理由により、そのままになってしまったものです。

  1. 敗軍の将の埋宝 : お家の再興 ・ 再起のための軍資金として埋蔵したもの。

  2. 武将や豪族の隠し財産 : 子孫に残す目的で埋蔵したもの。

  3. 山賊 ・ 海賊の埋宝 : 奪った財宝を一時的に隠したもの。

  4. 豪商の隠し財産 : 保存の目的で埋蔵したものが、何らかの理由でそのままになった。あるいは子孫のために埋蔵したもの。

  5. 事故や天災 ・ 船の沈没などにより、事実上 地中/海中に埋没してしまったもの。

[ 3:日本の埋蔵金 ・ 沈船伝説 ]

日本で有名な埋蔵金 ・ 財宝を積んでいたとされる沈船伝説を三つ挙げますと

  1. 群馬県の赤城山−−−−徳川幕府の滅亡間近に大老 ・ 井伊直弼 ( いいなおすけ )らが計画し、江戸城の御金蔵から 360 万両 の軍資金を船で運び出し、かつての勘定奉行 ・ 小栗上野介 忠順( おぐり こうずけのすけ ただまさ ) の所領である赤城山麓や、幕府の直轄領の甲州 ( 山梨県 ) に運び込んで埋めたとされるもの。

  2. 対馬沖の日本海−−−−日本海海戦の際に自沈した帝政 ロシアの巡洋艦 ナヒモフ号に積んでいたとされる、時価 数千億円 ともいわれる金貨。

  3. 兵庫県の多田銀山−−−−豊臣政権の財政をまかなっていた摂津国 ・ 川辺郡 ・ 多田 ( 現 ・ 兵庫県 ・ 川辺郡 ・猪名川町 ) 周辺にあった多田銀山の坑道に、息子秀頼が成人するまでの極秘資金として、秀吉が 4 億 5 千万両 を隠したとされるもの。

がありました。

[ 4:赤城山の埋蔵金伝説 ]

慶応 4 年 ( 1866 年 ) 4 月 11 日に 260 年以上続いた徳川幕府が崩壊し、江戸城は無血開城されました。薩摩 ・ 長州 ・ 土佐 ・ 肥前の藩兵を主力とする官軍は、幕府軍との戦闘 ・ 東征で戦費を消耗し軍資金不足に悩む状態でしたので、早速江戸城内に入り 10 棟近くあった全ての御金蔵を開けたところ、予想もしなかった事態に遭遇し唖然としました。 御金蔵 の中はすべて空で 、小判が 1 枚も残っていなかったからでした。

他の役所の金蔵については、東京日々新聞 ( 現 ・ 毎日新聞 ) が明治維新前後の出来事を古老から取材した話を編集し、昭和 3 年( 1928 年 ) に出版した 「 戊辰物語 」 ( ぼしん ものがたり ) という本がありますが、それによれば江戸の町奉行所を官軍に引き渡す際には、塵金 ( ちりがね ) と称する現金が御金蔵に 1 万両 以上ありました。

別の記録によると、新政府が幕府直轄の貨幣鋳造所であった江戸の 金座 ・ 銀座から押収した貨幣は、大判 ・ 小判 ・ 真鍮銭 ・ 鉄銭 ・ 金 ・ 銀 ・ 銅の地金 ( じがね ) などを合計すると 20 万両 にも及びました。

小栗上野介

このことから江戸城の御金蔵から莫大な御用金 が開城以前に持ち出されたことは間違いなく、その責任者としては、幕府の勘定奉行を過去に 4 回も務め、第 1 次遣米使節の目付役として渡米の経歴を持ち、官軍と戦う主戦論を強硬に主張した、 小栗上野介 ・ 忠順 ( おぐり ・ こうずけのすけ ・ ただまさ ) の仕業ではないかと疑われました。

幕府崩壊後、彼は赤城山麓にある所領地の上州 ・ 権田村 ( ごんだむら、現 ・ 群馬県群馬郡 ・ 倉淵村 ・ 権田 ) に引退しましたが、兵を進めた官軍に捕らえられると 「 謀反の意あり 」 として、逮捕の翌日に近くの河原で斬首されました。 カネ の怨み (?) と、主戦論者だった彼に対する憎しみからでした。

( 4−1、江戸城に御用金はあったのか ? )

その間の事情について種々の説 ・ 反論があります。

  1. 江戸城の御金蔵が空であったのは、幕府の財政が 逼迫 ( ひっぱく ) していたからである。

  2. それに対する反論は前述のように、江戸の造幣局だった金座 ・ 銀座には 20 万両 もあり、さらに大阪城の御金蔵にも当時幕府の御用金が 18 万両 もあったこと。

    慶応 4 年 ( 1868 年 ) に起きた鳥羽伏見の戦いの後に、榎本武揚がそれを運び出して幕府の軍艦 富士山丸に積み、エゾ地を開拓して独立国を作るために函館に航海した事実もあった。それ故に幕府の財政逼迫のせいで、江戸城の御金蔵が カラになったなどの説はあり得ない話である。

  3. 無血開城の際には城内が 無政府状態 になり、それまで江戸城内に居住していた約 千人 の者たちが御金蔵を勝手に開き、今後の生活資金にするために多額の御用金を持ち去った可能性がある。

  4. その可能性は否定しないが、伝えられているように御金蔵にあった現金が 360 万両 だったとすれば、千両箱で 3,600 箱にもなり、1 箱の重量が 10 キログラムとしても、合計 36 トン にもなる 。それだけの量の御用金が、小判 1 枚残さずに全て持ち去られたとするのは、江戸城内居住者の犯行としてはあまりにも不自然であり、より大規模で計画的な移転作業の存在を感じさせる。

  5. 小栗上野介が最後まで主戦論を唱えたのは、勘定奉行の経験豊富な者として戦争に必要な 軍資金の用意が既にできていた からである。幕府崩壊に至るある時期まで、御用金は江戸城内に必ずあったはずだ。

  6. 大政奉還し幕府崩壊後には不要になった軍資金を、幕府を倒した憎き相手である官軍には渡さずに、 徳川家の再興を期して どこかに隠したのだ。

ということでしたが、貴方はどのように思いますか?。

井伊直弼像

別の説によれば、安政 6 年 ( 1859 年 ) 10 月に江戸城本丸御殿が失火により全焼し翌年再建されましたが、その際に時の大老 ・ 井伊直弼 ( いいなおすけ ) が桜田門近くにあった御金蔵への延焼を恐れ、千両箱に入った 360 万両 桜田門の井伊家の土蔵屋敷に避難させました。写真は彦根城公園にある井伊直弼像。

この時に小栗は井伊直弼に、急迫した内外の政治情勢、徳川家の将来を勘案して、運び出した御用金を江戸城の御金蔵には戻さずに軍資金としてどこかへ隠すことを提案し、幕閣内で協議のうえ井伊大老が決断して、第 14 代将軍家茂 ( いえもち、皇女和宮の夫 ) の許可を得たといわれています。

井伊と小栗の 2 人が相談のうえ軍資金を 2 分し、一方は小栗上野介の領地であり前述した、上州 ( 群馬県 )・ 群馬郡 ・ 権田 ( ごんだ ) 村に、他方は幕府の直轄地である甲州 ( 山梨県 )・ 巨摩 ( こま ) 郡 増穂 ( ますほ ) 村に埋蔵したといわれていますが、いざという場合にどちらの場所も江戸から 36 里以内にあり、早馬を使えば 1 日で往復できるからといわれています。

じつは小栗上野介の子孫と称する者が昭和 11 年 ( 1936 年 ) から甲州の埋蔵金を探し求めて発掘を始め、50 年以上も地面を掘り続け、90 メートルの深さの穴 まで掘りましたが何も出てこずに遂に中止する事態になりました。

( 4−2、赤城山麓の財宝発掘 )

明治 6 年 ( 1873 年 ) の夏のこと、赤城山西麓の敷島村 ( 現 ・ 群馬県 ・ 勢多郡 ・ 赤城村 ) で 一つの騒動が起きました。原野に高い櫓(やぐら)が立ち、村人が見たこともないような大型の機械が運び込まれ、突然大地を揺るがす轟音と共に穴掘りが始まりました。 10 数人の人夫を指揮していたのは長身で紅毛碧眼の外国人でした。

1 団はひとつの穴が 10 メートル以上の深さに達すると、場所を変えて次の穴を掘り始めました。その年の冬の初めまでに 4〜5 箇所の穴を掘り目的を達したのかあるいは断念したのか、穴掘り機械を片付けると現場から去って行きかしたが、これが赤城山の埋蔵金を発掘した最初でした。このことが日本最初の日刊紙 横浜毎日新聞 の記事にありましたが、

幕府の御家人 ( ごけにん、将軍直属の家臣のうち、将軍へのお目どおりが許されない低い身分の者 ) だった中島という男が横浜の異人館を訪れ、アメリカ人に徳川の御用金およそ 400 万両 が上州の赤城山麓に埋めてある。私がその発掘の権利を持っているがってもよいと持ちかけ 、アメリカ人はこの話を信用し、 5 万円という大金 を払って発掘の権利を中島から買い取りました。

中島が指定した場所を蒸気 エンジンを動力とする アメリカ製の掘削機械を運び込んで掘ったが、半年あまり掘っても埋蔵金は発見されなかったので、中島を詐欺で訴えたということでした。

以上はよくある埋蔵金詐欺の手口で、欲深い アメリカ人が 400 万両という大金の話に コロリと騙された話でした。

[ 5:日本海、海戦 ]

世界の海戦史上で 規模の大きさと結果の重大さから 、1905 年に起きた日本海 海戦に匹敵するものは、他に 三つしかないといわれていました。

  1. 紀元前 480 年に ギリシャ南部、アテネの外港 ピレウスの西方にある小島 サラミス( Salamis )の近海で起きた、テミストクレスが指揮する劣勢の ギリシャ艦隊が、クセルクセス王の ペルシャ大艦隊を撃破した サラミスの海戦

  2. 1571 年にギリシャ西海岸のレパント( Lepanto )沖で、スペイン ・ ローマ教皇 ・ ベネチアの キリスト教連合艦隊と オスマン ・ トルコ帝国海軍 との海戦で、キリスト教連合艦隊が勝利し、イスラム教国である トルコの地中海制覇の野望が消えた レパントの海戦

  3. 1805 年に ジブラルタル海峡の トラファルガル岬沖で起きた、ネルソン率いる イギリス艦隊と、 フランス ・ スペインの連合艦隊が戦い、イギリスが勝利した トラファルガルの海戦 ( the Battle of Trafalgar )

  4. そして日露戦争中の明治 38 年 ( 190 5年 ) 5 月 27 日 に、長崎県対馬沖で東郷平八郎提督率いる日本の連合艦隊が、はるばる ヨーロッパから遠征してきた帝政 ロシアの バルチック艦隊を打ち破った 日本海 海戦でした。 この日は昭和 20 年 ( 1945 年 ) の敗戦までは、 海軍記念日 でした 。

    三笠の艦橋

    海戦の際には旗艦三笠の マストに、有名な アルファベット信号旗の Z 旗 ( ゼット き、左上方 ) を掲げましたが、その意味は、

    皇国の興廃 ( こうはい ) この一戦にあり、各員 一層奮励 ( ふんれい ) 努力せよ。
    でした。後に海戦史を読むと 1805 年 10 月 21 日に起きた前述の トラファルガル海戦の開始に先立ち、ネルソン提督が旗艦 ビクトリー 号上から発した信号である、
    England expects every man will do his duty.( 英国は各人がその義務を果たすことを期待する )

    練習船ウースター

    と内容がよく似ていました。
    東郷平八郎は 1871 年に英国に留学した際には、 ダートマス ( Dartmouth ) にある海軍兵学校への入学を希望しましたが、有色人種のせいで海軍当局から拒否されたので、校舎も宿舎も陸上にはなく、 ウースター ( Worcester ) という テムズ川に浮かぶ練習帆船で起居する水夫の養成所 ( 海員学校 ?、The Thames Nautical Training College, H.M.S. Worcester ) に入所しました。

    東郷平八郎

    そこへ入所した日本人は明治元年 ( 1868 年 ) の長門 ・ 長府藩士の服部潜蔵 ( せんぞう、1850〜1886 年、36才で死亡した、大尉の間違いではない海軍大佐 ) に次いで 2 人目でしたが、そこでも東洋人に対する蔑視 ・ 人種差別を受けました。

    東郷平八郎は日本海海戦の 100 年前に ネルソンが発した信号の件を、たぶん知っていたのでしよう。

( 海戦の結果 )
ロシアの バルチック艦隊は、 38 隻の軍艦 のうち撃沈 19 隻、捕獲 5 隻、逃走中沈没または 自沈 2 隻 、抑留 8 隻、 被害艦の合計 34 隻という大損害 を受けて全滅状態でした。

これに対して、日本艦隊の損害は 90 トン以下の水雷艇 3 隻 が沈没しただけでしたが、人的被害についても、バルチック艦隊の戦死者 4,545 名、捕虜になった者は海軍中将 ロジェストウエンスキイ ( Rozhdestvensky ) 司令長官以下 6,106 名 に対して、日本側は 戦死 107 名 だけでした。

海戦は史上に類のない日本海軍の 大勝利に終わりましたが、日露戦争における最大の陸上戦闘でした 奉天の会戦 ( 1905 年 3 月 10 日、後の 陸軍記念日 ) の勝利と共に、 不凍港を求めて朝鮮半島にまで南下し、 侵略行動を取った ロシアは、日本により アジア侵略の意図 を完全に阻止されました。

[ 6:巡洋艦、ナヒモフ号の金貨 ]

日本海 海戦の前年である1904 年に、日本政府は駐 フランス公使の林 権助 ( はやし ごんすけ ) と、駐 ドイツ公使の牧野伸顕 ( まきの のぶあき ) から暗号電報を受け取りました。それによれば、

バルチック艦隊は、帝政 ロシア政府が パリと ベルリンで募集した 国債 7 億 フランと 8 億 マルク を、イギリス金貨に替えて 4 隻の艦 に分けて搭載した。

という内容で、後になって ロイター通信社も同様な内容を ニュースとしてこれを世界中に配信したので、信頼性の高い情報に間違いありませんでした。問題はどの艦に財宝 ( 金貨 ) を積んでいたかですが、当初からその可能性が高いといわれていたのは巡洋艦 ナヒモフ ( 8,524 排水 トン )でした。

巡洋艦ナヒモフ

前述の自沈した 2 隻の軍艦のうちの 1 隻が装甲巡洋艦 ( Armor cruiser ) ナヒモフ ( Nakhimov ) でしたが、実はこの艦には バルチック艦隊の遠征費用に当てるための金貨や プラチナなどを積んでいたと言われていました。

艦長の ロジオノフ大佐は、無傷だった巡洋艦 ナヒモフが日本軍に拿捕 ( だほ ) されるのを避けるために、 艦底弁 ( キングストン ・ バルブ、注参照 ) を開いて自沈させたこと。他の乗組員と共に ボートで対馬に上陸し、村民に助けられたときに、

我が艦は日本軍によって沈められたのではない。ある 貴重なもの を積んでいたので自沈したのだ
と語っていたことでした。さらに帰国後に ロシア皇帝に提出した報告書にも、

陛下より お預かりした品 は敵に利用されぬよう、水深 110 メートルの海底に沈めました。

と書かれていたそうですが、 皇帝から預かった品とは 巡洋艦 ナヒモスの意味なのか、あるいは搭載したとされる金貨などの財宝を示すのか不明でした。

沈没艦

その他に財宝を搭載していそうな軍艦とは、福岡県宗像 ( むなかた ) 市 に所属し、海の正倉院とも呼ばれる 「 沖の島 」 の北東 10 数 キロに沈む バルチック艦隊の旗艦で戦艦の スワロフ ( 13,515 排水 トン )、対馬近海で沈没した装甲海防艦 ウラジミール ・ モノマフ ( 5,593 排水 トン )、戦艦 アレクサンドル 3 世 ( 13,516 排水 トン)、1 等巡洋艦 リューリック ( 11,700 排水 トン ) などでした。

海戦の際に沈没する軍艦から逃れて最寄りの沿岸の日本人漁師に救助された ロシア兵が、

艦には 大量の金塊 が積んである 、回収できないだろうか

と相談したことから財宝の引き揚げが計画され、最初の引揚げ調査は大正 4 年 ( 1915 年 ) におこなわれましたが、当時の技術では水深 110 メートルでの作業は不可能でした。その後多くの人が引揚げに挑戦しましたが、潮流が早い対馬沖のため誰も成功しませんでした。

( キングストン ・ バルブの用途 )
50 年以上昔、海上保安大学の学生時代に習った船の知識によれば、 キングストン ・ バルブ ( Kingston Valve、弁 ) とは船底に装備された バルブ ( 弁 )で、船が整備のために ドック入り ( 入渠、陸揚げ ) した際には、船底に溜まった ビルジ ・ ウォーター ( Bilge Water、汚水、あか、ドレイン ) を完全に排出するために使う バルブ ( 弁 )の代名詞でした。

さらに、いざという場合にはこの バルブ ( 弁 ) を開けば船底から水が入り、自沈するためにも使用可能な弁でした。船の主機関 ( メイン ・ エンジン ) や発電機などの補助 エンジンを冷却するには海水を使いますが、船外から冷却循環用の海水を取り入れる弁や、使用後の熱せられた海水を排水する弁が、海水による耐腐食性に優れ性能の良い 米国の キングストン社製の弁 ( バルブ ) であっても 、キングストン ・ バルブとは呼びませんでした。この弁は エンジンの冷却水系統を整備する場合を除き、通常は開いたままでした。

戦艦オリヨール

ところが日本海海戦に関する最近の本や ウエブ記事を見ると、キングストン ・ バルブ ( 弁 )について 自沈用に使用できる バルブ ( 弁 ) とするのは、 誤りである とありましたが、それで良いのでしょうか?。

海戦の際に日本海軍の砲撃により損傷を受け、降伏した戦艦 オリョール ( 右上の写真 ) に水兵として乗り組んでいた ノブコフ ・ プリボイの著書 「 ツシマ 」 、副題 「 バルチック艦隊の壊滅 」 の記述を調べると、ハード ・ カバー ( Hard cover ) 本の 338 頁には、

ここでも ニコライ 1 世 ( 戦艦、9,672 排水 トン ) 同様、本艦を爆沈した方がいいとか、あるいは キングストン (弁) を開いて沈没させたらどうかとか ( 以下省略 )

と書かれていましたが、論より証拠 巡洋艦 ナヒモフ ( 1885 年建造 ) はそれにより自沈しました。

摂津丸

軍艦以外の日本船の例では、昭和 28 年 ( 1953 年 ) 3 月 7 日に日本水産 ( 株 ) の捕鯨母船、図南丸船団に所属する 冷凍工船 摂津丸 ( 9,329 トン ) が、南氷洋で機関室の バルブ ( 弁 ) を修理中に、見習い機関員が誤って キングストン弁を開放 してしまいました。

水圧により猛烈な勢いで海水が船内に噴出し始めたので、あらゆる方法で海水流入を止めようとしたが成功せず、6 日後の 3 月 13 日に摂津丸は沈没しました。その際に見習い機関員は責任を感じて、沈み行く本船と運命を共にしようと退船を拒否しましたが、皆に引きずり降ろされたという事実がありました。

最近の船のことは知りませんが 50 年近く前までは、意図的に あるいは過失により キングストン ・ バルブ ( 弁 ) を操作すれば、船の自沈が可能だったことは確かでした。

[ 7:笹川良一の出番 ]

かつて笹川良一に関しては政財界の黒幕、元衆議院議員、日本の首領 ( ドン ) といわれていましたが、 ある ブログによれば 日本における 自己宣伝の最たる人物 は、政治家を除くと、

1 : 創価学会の池田大作、

2 : 笹川良一 ( 故人 ) というのが業界の常識だ

とありました。

笹川良一

皆さんどうかこの姿を見てやってください、 競艇の総元締め が大きな勲章を胸一杯に飾り、稚気 ( ちき ) 溢れる嬉しそうな顔を−−−。

佩用 ( はいよう ) した勲章は、勲 1 等瑞宝章 をはじめ、韓国の勲 1 等修交勲章光化章 、 中国の大綬景星勲章 、 それに 国連平和賞 の メダルもありました。

ところで笹川良一だけでなく創価学会の池田大作も 国連平和賞 を受賞していますが、 この賞 は国連が公式に授与する賞では 決してなく、あたかも国連機関であるかのように装った寄付金集めの インチキ団体が、 国連平和賞の名前を勝手に付けて 授けたものです。

ちなみに 1999 年までの データによれば、国連平和賞の受賞者 26 名中 なんと 16 名、 率にして 60 パーセント が日本人でした

稲荷神社

国際社会では この賞など何の価値も認められていない にもかかわらず、敗戦後の教育により自国の 権益獲大 ・ 駆け引きの場 にしか過ぎない国連を、何か 崇高なもの ・ 特別なもの のように勘違い ・ 過大評価し、 お稲荷さま や 国連神社 のように信心する一部の日本人が、国連平和賞の名前を エサに多額の寄付金を出す いい カモ にされたのでした。

競艇場

笹川は昭和 37 年 ( 1962 年 ) に日本船舶振興会 ( 競艇協会 ) を設立しその会長に納まると、当時全国に 20 箇所以上あり 1 兆円産業といわれた競艇場 ( モーターボート ・ レース場 ) の利権に眼をつけ、 総売上額 の 3.3 パーセント ( 2007 年以降は儲け過ぎを指摘され、 2.6 パーセントに変更 )を日本船舶振興会へ手数料として納入させる制度を作りました。

日本財団

毎年得られる 300 億円 にも及ぶ バクチ ( 競艇 ) の テラ ( 寺 ) 銭を元手にして、いろいろな事業、笹川財団の経営をおこない強い自己顕示欲から、前述した頻繁な テレビ ・ コマーシャル放映、自己宣伝などをおこないました。

しかし財団の私物化が指摘され彼の死後に日本財団と改称しましたが、現在の理事長は三男の笹川陽平であり、依然として笹川家が競艇からの 「 あがり 」 と財団を取り仕切っています。写真は財団からの寄付金で購入した、地方自治体の車に貼られた 競艇に感謝 の ステッカー。

親孝行

自分の親孝行の宣伝もその一例でしたが、 バクチの手数料で得た カネで、 親孝行の自己宣伝 をすることに疑問を感じないのか?、などと批判されましたが、それにひるむほどの気弱な人間ではありませんでした。

船には興味があったので、東京都の臨海副都心である品川区東八潮に作られた 船の科学館 を何度も訪れましたが、そこには若き日の彼が母親を背負って宮参りの階段を登り親孝行する姿を銅像にした 孝子 ( こうし ) の像が 、館内の敷地の表と裏になんと 二つもありました

同じ銅像が都内の笹川関連施設にいくつもあるそうですが、自分を親孝行な息子 と宣伝する為に、いくつも銅像を建てて 恥じない ところが常人の神経とは非常に異なる点で、日本船舶振興会や 笹川  ( 現 ・ 日本 ) 財団などの顕著な私物化でした。 

[ 8:ナヒモフの引き揚げ ]

ところで昭和 55 年 ( 1980 年 ) に日本海洋開発のある男が、沈没した宝船である巡洋艦 ナヒモフの引き揚げ話を笹川良一に持ち込んだことから、彼が 資金面での スポンサーになり最新の サルベージ技術を駆使して、財宝の引き揚げ作業に挑みました。

インゴット

深海作業船が作業訓練を開始して間もない昭和 55 年 ( 1980 年 ) 9 月 18 日に、後部船室付近から 1 本の インゴット ( Ingot、精錬後に鋳型に流し込んで固化させた金属塊 ) が引き揚げられましたが、長さ 29 センチ、幅 8 センチ、高さ 4 センチ、重さ約 10 キロ、 極めて純度の高い プラチナで 、船室には同じものが少なくとも 1,000 本はある と発表されたので、マスコミも大騒ぎしました。

これに対し、当時の ソ連政府は帝政 ロシアの権益を継承した国家として所有権を主張しましたが、いつも弱腰の外務省にしては珍しく、戦勝国の戦利品であるとして突っぱねましたが、1 兆円の財宝だけに外交問題に発展しそうになりました。結局 インゴットは 16 本 引き揚げられましたが、実はその本体は プラチナではなく、船の安定性を保つために船底に積んだ バラスト( Ballast 、底荷 )の 鉛の塊 でした

その後も笹川は 30 億円 をかけて新しい サルベージ船を用意し、調査は続けられましたが成果はなく、ナヒモフの財宝騒動は尻すぼみに終わりました。詳しい内容については発表されていないので、財宝引き揚げの有無に関しては不明です。

注:)
ナヒモフ ( 1803 〜 1855 年 ) とは帝政 ロシアの提督の名前ですが、クリミア戦争では黒海艦隊 ・ 分艦隊司令官として トルコの艦隊をシノペの海戦で撃破し有名になりました。後に クリミア半島にある黒海に面した都市 セバストポール要塞の防禦司令官になりましたが、攻防戦の際に頭部に銃弾を受けて戦死しました。

その後 アドミラル ・ ナヒモフの名前は バルチック艦隊の巡洋艦 ナヒモフに付けられただけでなく、時代の変遷と共に現代に至るまで ロシア海軍の軍艦に命名されています。

[ 9:多田銀山の埋蔵金 ]

兵庫県内に住む私の家の近くには多田銀山跡 ( 川辺郡 ・ 猪名川町 ) があったので、20 年前に 1 度訪れましたが、今回この随筆を書くに当たり再び車で訪れたところ、町起こしのために、駐車場付きの 悠久の館 ( ゆうきゅうの やかた ) という多田銀山の観光資料館も建てられていました。交通に不便な山間の集落なので、ご多分に漏れずに廃屋が目につきました。

奈良時代にはこの鉱山から産出された銅が朝廷に献上され、東大寺の大仏建立に使用されたと伝えられていますが、天禄元年 ( 970 年 ) には初めて銀が発見され、翌年に採掘を開始してから、昭和 48 年 ( 1973 年 ) に日本鉱業 ( 株 ) が閉山するまで、約 1,000 年の間、銀 ・ 銅の鉱山として存続しました。

鉱山の全盛期の 一つは豊臣秀吉により開発された天正 〜 慶長年間でしたが、産出された金 ・ 銀 ・ 銅の量は天正 3 年 ( 1575 年 ) から慶長 3 年 ( 1598 年 ) までの 23 年間に 7 億 2 千 3 百万両 にも及び、豊臣秀吉はあり余る財源を使用して、1583 年から大阪城の築城を始めました。

天正 17 年 ( 1589 年 ) 5 月に、秀吉は京都に造営した城郭風の邸宅である 聚楽第 ( じゅらくだい ) で宴会を催しました。その際に引き出物として、 金 6 千枚と、銀 2 万 5 千枚 を公卿 ( くげ ) ・ 豊臣一族 ・ 諸大名に配りましたが、戦国武士の台頭により荘園を奪われ貧乏生活にあえいでいた公卿たちの中には、嬉し泣きする者までいました。

ポルトガル人で イエズス会宣教師の ルイス ・ フロイス ( 1532〜1597 年 ) は秀吉に招かれて大阪城を見物しましたが、本国に送った手紙 ( 報告書 ) によれば、

この室には金が充満し、別の部屋には銀が溢れ、またことごとく黄金で作られた一室がある

と報告していました。キリシタン大名の大伴宗麟 ( そうりん、1530〜1587 年 ) が見た 黄金の部屋 の様子とは

三畳敷、天井 ・ 壁 ・ その他 みな金 ・ 明かり障子の骨までも黄金である。

飛雲閣

と記していましたが、多田銀山から産出した金や銀 が使われたのに違いありません。写真は京都 ・ 西本願寺境内にある 飛雲閣 ですが、4 百年以上前に前述した 聚楽第 ( じゅらくだい ) から、その一部を移設したものといわれています。

秀吉が天下を取ると、これまで日本には無かった鉱山の新しい 採掘 ・ 排水技術を各地の鉱山に導入し、南蛮吹き といわれる新しい精錬技術を外国から導入した結果、鉱山の生産量は飛躍的に増大しました。

秀吉公 御出世よりこのかた、日本国中に金銀湧き出( い ) ず

とものの本に記されているように、当時の世界の銀産出量 40 万 キロ ( トン ではない ) のうち、その 三分の 一に当たる 1 5万 〜 20 万 キロが日本で産出されました。

[ 10:突然の銀山閉鎖 ]

慶長 3 年 ( 1598 年 ) 5 月から秀吉は病に伏せるようになり病状は悪化していきましたが、 自分の死が近いことを悟った秀吉は同年 7 月 4 日に、居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して我が子の 6 才になった秀頼 の後見人になるように依頼しました。

さらに徳川家康 ・ 前田利家 ・ 宇喜多秀家 ・ 上杉景勝 ・ 毛利輝元ら五大老とその嫡男である徳川秀忠 ・ 前田利長らに 豊臣秀頼に対して 忠誠を誓う 起請文 を書かせましたが、それは全く無駄な結果に終わりました。

同じ年の 6 月に秀吉は順調に金 ・ 銀 ・ 銅を産出していた多田銀山に突然閉鎖を命じましたが、 戸数 3 千戸 、山師、金掘り師など鉱山関係者 5 千人 が居住して賑わっていた多田銀山も、秀吉の鶴の ひと声で閉山になると、さらに秀吉は住民に 銀山払 ( ばら ) い を申し渡しました。それにより銀山の住民たちは、期限内に銀山から 一斉に強制退去することになりました。

秀吉は多田銀山を無住の地域にすると、腹心の石田三成に対して大阪城御金蔵にあった財宝のうち 4 億 5 千万両 、および 金塊 3 万貫 ( 112.5 トン ) を、銀山周辺にあった 21 箇所の坑道内に埋蔵することを命じ、1598 年 8 月に死亡しました。

石田三成は勘定奉行の 幡野三郎光照 と銀山奉行の 今川賀蔵 に、財宝の埋蔵に際しては必要に応じて後日掘り出す際の目印 ・ 方法をも記録しておくように命じました。そこで幡野と今川は極秘のうちに大坂 ( 大阪 ) 周辺から多数の死罪人 ( 死刑囚 ) を集め、彼等を多田銀山の 「 牢 ヶ 谷 」 に竹矢来を組んだ牢屋を作り収容しました。

死罪

( 目的は死罪人 間歩の、写真撮影 )
死罪人を労働力に使って1598 年 6 月から 11 月まで 150 日間 におよぶ極秘の埋蔵作業をおこない、秀吉の命令通りに銀山の廃坑内に大量の財宝を埋蔵しました。

その作業が終了すると従事した数百の死罪人を 城山 のはずれにある 獄山 ( 陀華山 ) 観音寺の観音様を拝ませた後に全員処刑し、死体を大竪坑 ( たてこう、垂直坑 ) に投げ入れて秘密漏洩の口を塞ぎましたが、図で 牢屋敷跡 ・ 死罪人間歩 ( まぶ、坑道 ) とあるのがそれです。

なお埋蔵作業は大量の土砂を坑内に埋めて鉱脈を隠蔽し、坑道の入り口は火雷 ( 爆薬 ) で破壊し、さらに土砂を被せて外から分からないようにしましたが、その際に数名の験者 ( げんざ、修験者、加持祈祷をする者 ) が財宝守護のために人柱となって共に埋められたともいわれています。

私が今回銀山を訪れた目的の一つは牢屋敷跡 ・ 死罪人間歩 ( まぶ ) を写真に撮ることでしたが、 牢 ヶ 谷 までは行ったものの、そこから先には案内標識も無いので近くに住む老人に聞くと、

昔は牢屋敷があったらしいが今では何も無く、樹木が生い茂っているだけだ。死罪人間歩など誰も行かないので道も無く、 ヤブが茂っていて行けない

城山

とのことでした。若い頃の登山では道の無い山での ヤブ漕ぎ を何度も経験しましたが、後期高齢者になって 1 人で里山に分け入り、 そこで心筋梗塞や 脳梗塞でも起こしたら、遺体を発見してもらえないので写真撮影を諦めました。写真の城山 ( 標高 404 メートル ) のどこかに、秀吉の財宝埋蔵に従事させられたあげくに、411 年前に処刑された 大勢の死刑囚たちを埋めた 死罪人間歩 ( まぶ、坑道 ) があるはずです。

[ 11:埋蔵金の掘り出し ]

大阪夏の陣で落城した大阪城の焼け跡から、徳川家康は 黄金 2 万 8 千枚、銀 2 万 4 千枚 を入手したといわれていましたが、秀吉はあり余る財宝をなぜ多田銀山に埋蔵させたのでしょうか?。それについては、秀吉の埋蔵金に関する古文書 4 巻のうちの 1 巻である、 [ 清水心竜の巻 ] に理由が記されています。

秀頼 十五歳迄日本国政事徳川家康江預申起証文連判書取秀頼 十五歳限日本政事受取 諸国治金入用節 瓢箪間歩並 四ヶ所共弐度堀立−−−云々

( その意味 )
瓢箪間歩

息子の秀頼が 15 才になるまでは、国政を徳川家康に預けることにし、起請文や連判状も取った。秀頼が 15 才になって国政を家康から受け取り、諸国を治めるのに カネ が必要になった節は 、財宝が埋めてある 瓢箪 ( ひょうたん ) 間歩 ( 写真の坑道 ) ならびに他の 4 ヶ所の間歩 ( 坑道 ) から掘り出し−−−云々。

とありました。しかし秀吉と徳川家康との間の 起請文 ( 神仏に願いを立てて、それに背かぬ旨を記した誓約書 ) は秀吉が死ぬとたちまち反古にされ、秀頼が 15 才になるのを待つどころか、2 年後 ( 秀頼 8 才の時 ) には関ヶ原の戦いが起きて 豊臣氏は覇権を失いましたが 、古今東西を問わず 覇権獲得 こそが全てに優先する パワー ・ ポリテックス ( 政治権力 ) の原則を、秀吉も地下で思い知らされたはずです。

千成瓢箪

瓢箪 ( ひょうたん ) 間歩 ( まぶ、坑道 )とは、豊臣時代に莫大な量の金 ・ 銀 ・ 銅を産出した代表的な間歩ですが、山先 ( やまさき、鉱山師 ) の原 丹波 ( はら たんば ) ・ 原 淡路 ( はら あわじ ) の親子がこの鉱脈を発見したので、豊臣秀吉が褒美としてみずからの馬印 ( うまじるし、注参照 ) である千成瓢箪 ( せんなり ひょうたん ) を与え、これを坑道入り口に掲げることを許したことから名付けられました。

注:)
馬印とは戦場で、武将が敵味方の識別や自らの存在を誇示するために用いた目印で、秀吉のそれは瓢箪 ( ひょうたん ) に金の切裂きを垂らしたものですが、戦に勝つ度に瓢箪の数を増やしたので、千成瓢箪 ( せんなりひょうたん ) といわれました。

その後、多田銀山の埋蔵金は豊臣氏の下で 何度も掘り出されていましたが、

  1. 天下分け目の関ヶ原の戦 ( 1600 年 ) の前年 ( 1599 年 ) に、石田三成が軍資金に使用するために 2 万 3 千両 掘り出し

  2. 慶長14年 ( 1609 年 ) には方広寺 ・ 大仏殿の建設資金用に埋蔵金を掘り出しましたが、鐘の銘に 国家安康 ・ 君臣豊楽 の文字を刻んだことから、家康の名を 2 つに分けて呪うものであり、豊臣を君主として繁栄を願うものである、と家康が因縁を付けて、豊臣家滅亡に至る大阪の陣の引き金になりました。

  3. 最後の埋蔵金掘り出しは豊臣氏が滅亡した 大阪冬 ・ 夏の陣の決戦 ( 1614〜15 年 ) に備えて、真田幸村が軍資金にするために銀山の 3 箇所から 金貨大判 2 万 4 千枚 を掘り出しました。

それでは多田銀山の埋蔵金は豊臣方の軍資金として全て掘り出されてしまい、無くなったのでしょうか?。ちなみに豊臣家滅亡後に徳川家康は多田銀山をくまなく捜索させましたが、埋蔵金はひとつも見つかりませんでした。

青木間歩

埋蔵金の隠し場所は前述の如く銀山内部の 21 箇所の坑道とされますが、写真は現在の多田銀山で唯 1 箇所、 観光客が坑道内部に入ることができる照明設備された青木間歩( あおきまぶ ) です。坑道に隠すのは簡単ですがそこは手入れをしないと坑木が腐り落盤、出水の被害を受けやすく、後年になって掘り出すのは必ずしも容易ではありません。

秀吉の埋蔵金を求めてこれまで数多くの人々が、中には 20 年以上も発掘を試みた人もいましたが、現在まで多田銀山から埋蔵金が掘り出された記録はありません。坑道以外の別の場所に 埋めた 可能性も捨てきれないといわれています。

埋蔵金探しには、地面を掘るよりも資料を掘れ

と説く埋蔵金研究の権威者がいましたが、正確な情報の必要性を指摘したものでした。

明治以後 個人の家の解体現場、あるいは鉄筋 コンクリート ・ ビル の基礎掘削工事の現場などから、 個人が埋蔵した 財宝 が偶然発見されたことはあっても、昔から世間に伝えられた権力者 ・ 武将などの 埋蔵金伝説に基づく莫大な財宝 が発見された例は、これまで 1 度もありませんでした

[ 12:埋蔵物などに関する法律の規定 ]

運良く埋蔵された財宝の発掘に成功した場合には、その所有権はどうなるのかご存じですが?。

民法第 241 条 ( 埋蔵物の発見 )

埋蔵物ハ特別法 ( 下記の遺失物法のこと ) ノ定ムル所ニ従ヒ公告ヲ為シタル後、六 ヶ月 ( 現在ハ 三 ヶ月 ) 内ニ其ノ所有者ノ知レサルトキハ発見者其ノ所有権ヲ取得ス、 但シ他人ノ物 ( たとえば他人の土地 ) ノ中ニ於イテ発見シタル埋蔵物ハ、発見者及ビ其の物ノ所有者 折半シテ 、其ノ所有権ヲ取得ス

遺失物法の第 4 条 ( 報労金、一 ) によれば、
物件ノ返還ヲ受クル者ハ物件ノ価格 百分ノ 五 ヨリ少カラス、 二十 ヨリ多カラサル報労金 ヲ拾得者ニ給スヘシ ( 以下省略 )

平成 19 年 12 月 10 日から 改正遺失物法 が施行されましたが、その改正点の主なものは、これまで警察での保管期間が 6 ヶ月でしたが、それを 3 ヶ月に短縮したこと、警察の ホームページから 遺失物を インターネットで検索可能になったことなどで、 たとえば路上で財布を拾った者 ( 拾得者 ) に対する報労金の支給比率の、最小 5 パーセント 〜 最大 20 パーセント に関しては変わりませんでした

以前から言われていたことですが、日本では法律の不備から せっかく多額の費用を掛けて埋蔵金を発掘し、あるいは海底から財宝を引き揚げても、法律上は単なる拾得物扱いであり、 道ばたで財布を拾った場合と同様 の扱いにしかならないのです。

そのため報労金は埋蔵財宝の所有者が不明の場合でも、土地の所有者と折半で最大でも 50 パーセント にしかならないのです。先祖が埋めたという確実な証拠がある所有者が現れた場合には、拾得物と同様に 最高でも 2 割の報労金 しか受け取れず、法律上の争いとなった場合の請求権としては 最低の 5 パーセント しか認められないのです。外国の例を挙げると

米国では長年放置された沈船などの財宝は、 遺棄された財産 とみなす連邦最高裁判所の判例 ( 沈船から引き揚げた財宝は、すべて発見者のもの ) により、すべて発見者が所有できることになっています。

ココス島

中米 コスタリカの太平洋岸の沖合 380 キロメートルには ココス島 ( Cocos Island )がありますが、ココ椰子 ( やし ) が生えていることから名前を取った同じ名前の リゾート島が、 グアムの南と オーストラリア領にもあります。コスタリカの ココス島は 1684 年から 1821 年まで海賊が財宝を隠したとされる島で、1997 年からは ユネスコの世界自然遺産 に指定されました。

隠された財宝を求めて世界中から トレジャー ・ ハンター ( Treasure Hunter 、宝探し屋 ) が訪れますが、コスタリカの法律によれば発見した財宝の 3 分の 2 は発見者のものだそうです

日本では多額の費用を掛けて財宝の発掘、引揚げにたとえ成功しても、所有可能割合の低さから拾得物の届け出をせずに財宝が闇から闇に葬られてしまい、表に出ることは滅多にないといわれています。前述の巡洋艦 ナヒモフから引き揚げたとされる プラチナの インゴットが、いつの間にか 鉛に化けて しまったのも 、あるいはこのせいかも ( ? ) 知れません。

[ 13 : 山師 ・ 千三つ屋 ・ サギ師の登場 ]

昔から 山師 ( ヤマシ ) という言葉がありましたが、辞書の大辞林によれば
鉱山の 発掘 や鉱脈の発見 ・ 鑑定をする人。  投機的な事業 で金儲けをたくらむ人。  儲け話 を持ちかけて他人をあざむく人

とあり、良い意味に使われる言葉ではありませんでした。埋蔵金伝説を探るとそこにはかならず山師のような怪しげな人物がいて、誰かが遺したとかいう古文書 ( こもんじょ ) や怪しい絵図面などを持ち込み、莫大な埋蔵金が容易に手にすることができると説得し、資金を集めて発掘作業をしてもその資金の多くはどこかに消えてしまい、肝心の財宝を掘り当てることはありませんでした。

世の中には 1 本 50 万円も払い 開運印鑑 なるものを口車に乗せられて買わされる人がいるように、沈船の引き揚げや埋蔵金の発掘の世界では、昔から前述した 山師 ( ヤマシ ) と呼ばれた連中や、千のうち、本当のことは 三つしかないような、いい加減な話を基本にして カネを稼ぐ 千三つ屋 ( せんみつや ) と呼ばれる者など、 いかがわしい連中 が大勢いるのです。

欲に眼が眩んで口車に乗せられ易い カモ を見つけては、埋蔵金発掘、沈船からの財宝引き揚げに成功の暁には、多額の分け前を出すことを条件にして出資金を騙し取る 発掘詐欺師や沈船詐欺師 が今でも横行しています。

[1]、徳川の埋蔵金詐欺については、ここをクリック

[2]、宝船の引き揚げと称する、 500 億円 の詐欺事件に関しては、ここをクリック

( まんじゅうを喰わされる )

ところで巷 ( ちまた ) の ウワサによれば笹川良一は 1980 年に 、ある男が持ち込んだ ナヒモフの財宝引揚げ計画について事前に十分な調査もせずに、 1 千億円 ともいわれる旨い儲け話に釣られて、一般人では用意できない多額の資金を注ぎ込みました。その結果、

笹川の爺さんも モウロクしたものだ ナヒモフの財宝 などという沈船詐欺に引っかかって、 何十億円という莫大な カネを だまし取られた

と一部ではささやかれていたのです。

まんじゅう

それによれば 30 億円 もする深海作業船の建造費を含めて、ナヒモフの財宝引き揚げに使った費用は 90 億円 ともいわれていますが、最初に引き揚げられた プラチナの インゴットについては 詐欺師の手口 によると、

まんじゅう と呼ばれるもので、外皮 ( 側 ) と中味 ( あんこ ) が異なる品物なのだそうです。

外側を覆う薄い板だけは本物の プラチナ ( 溶解点 2,000 度 C ) で作り、その中に溶解点の低い 鉛 ( 326 度 C ) を流し込んで穴を密閉するという、手のこんだ細工をした プラチナ ・ インゴットの まんじゅうで 、財宝引き揚げにより多くの期待感を抱かせ、さらに資金を出させるための オトリ の品 だったらしいのです。

それ以外の インゴットは前述のように、全て鉛製でしたが、いずれにしても彼にとっては 沈船詐欺の被害 は汗の結晶とはほど遠い、 バクチ ( 競艇 ) の テラ ( 寺 ) 銭から得た いわば アブクゼニ なので、 毎年上がる 300 億円 の みいり ( 実入り、収入 ) からすれば、大した被害とは感じなかったことでしょう。

沈船からの財宝引き揚げや、埋蔵金掘り出しにからむ出資者を募る詐欺の話に乗せられた被害者は、昔から後を断ちませんが、 カネが有る人も無い人も、何事につけても 欲で目を曇らせる ことのないよう  ウマイ話 には、くれぐれも ご用心下さい。

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