[ 6 : インド独立への協力 ]

日本では殆ど知られていませんが、インド独立のきっかけも太平洋戦争にありました。 英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授の エリック ・ ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著 「 過激な世紀 」 の中で、

インドの独立は、ガンジーや ネールが率いた国民会議派による 非暴力の独立運動 によってではなく、 日本軍と チャンドラ ・ ボース率いるインド国民軍 ( I N A 、注 2 参照 ) が協同して ビルマ ( 現 ミャンマー ) 経由 インドへ進攻した インパール作戦によってもたらされた。
と述べました。

注 : 1 、インパール

インパールとは インドの東北部、アッサム州 マニプール土侯国の首府で、昭和 19 年に当時第 15 軍司令官の 悪名高い 牟田口 ( むたぐち ) 中将が部下の師団長らの反対を押し切り、ビルマから険しい アラカン山脈を越えて インパールを攻略する無謀な作戦を進めた結果補給が途絶え、万単位の餓死者、戦死者を出して撤退した作戦として有名です。

注 : 2 、インド国民軍
インド国民軍とは インドの英雄 スバス ・ チャンドラ ・ ボースによる自由インド仮政府の下で結成されたインド解放軍のことで、日本軍のインパール作戦には、 2 万人 の インド国民軍が チャロ ・ デリー ( 首都 デリーへ ) を合い言葉に参加しました。インド国民軍の進軍歌とは

( 一番 )
征( ゆ )け征け デリーへ、母の大地へ / いざや征かん、いざ祖国目指して

[ 上記を繰り返す ]
進軍の歌ぞ高鳴る / 我らの勇士よ靴上げて / 見よ翻る独立の旗

注 : 3 、反英運動
インド国民軍の善戦にもかかわらず インパール作戦そのものは悲惨な敗戦に終わり、戦後英国は国民軍幹部を英国に対する反逆罪で裁こうとしましたが、インド独立運動の愛国者を何故反逆者にするのかという反英運動が広がり大暴動になりました。

反英運動は英国に忠誠を誓った インド陸軍、海軍にも飛び火し、全 インドで独立運動の武装蜂起も予想されたため、英国は 200 年に及ぶ植民地支配を断念し、昭和 22 年 ( 1947 年 ) に インドは独立しました。

注 : 4 、日本がもたらした影響

平成 9 年 ( 1997 年 ) 8 月に インド独立 50 周年の式典が行われましたが、挨拶に立った ラビ ・ レイ元下院議長は
「 このよき日を祝うに当たって、1905 年を忘れることはできない。日本が日露戦争に勝ったことによって、インド国民が勇気づけられて独立運動に立ち上がったからである 」

と述べました。 独立運動の闘士として知られ、インド法曹界の重鎮でもある レイキ博士も インパール作戦にふれ、

「太陽が空を輝かし、月光が天地を潤(うるお)し、満天に星がまたたく限り、インド国民は日本の恩義を忘れない」、と日本への感謝の意を表しています。

戦時中、インパール作戦を戦った インド国民軍の戦友会 ( I N A 委員会 ) も日本に感謝を示すために、同じ年に靖国神社に感謝状を奉納しました。

インドが日本のお陰を蒙っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国は インドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何 10 万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。

インド国民軍は日本帝国陸軍が インドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。 インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します。


[ 7 : ミャンマーの不幸 ]

ビルマ ( ミャンマー ) は英国の侵略に対して最後まで独立を守ろうとして抵抗したために、インドよりもはるかに過酷な統治を受けました。インド人は軍隊に募集され、インド人連隊もありましたが、ビルマでは イギリス植民地軍は インド出身の パンジャブ族と少数部族が中心となり、 ビルマ族出身者は僅か 2.5 パーセント に過ぎませんでした。

ビルマ族は イギリス植民地軍とはほとんど無縁の生活を送り、武器の使い方を教えられず、刃物の所持さえ規制されて いました。

英国の植民地となった後の ビルマ( ミャンマー )は昭和 23 年 ( 1948 年 ) にイギリスから独立しましたが、その際に誘いを拒否し英国の女王を統合の象徴に頂く イギリス連邦には加盟しませんでした

英国がどこよりも過酷な植民地支配をおこない、支配の狡猾な手法として長年にわたり 分割統治 ( Divide & Rule ) をして、ビルマ族 ・ シャン族 ・ カレン族などの 135 の部族を互いに反目させてきたからでした。

例えば仏教国にもかかわらず第 2 の人口勢力を持つ カレン族には キリスト教を布教し、ヒンズー教徒である インド人を ビルマに移住させては 一時的にその地方を インドの州にしました。

支配階級の最上位を イギリス人が占め、その下の中間支配層に インド人や中国人華僑を置き、更にその下の郵便局員や巡査などの下級官吏には ビルマの少数部族の者を採用しました。

人口の 69 パーセント を占める ビルマ族を社会の最下層の労働者や農民に押し込め抑圧する 一方で、少数部族に対して優遇政策を採るなど、部族対立、内紛の原因を意図的に作り、 ドラゴンの歯 ( Dragon's Teeth )を巧みに ビルマの民衆の間に埋め込みました。

注 : ドラゴンの歯
もともとは ギリシア神話から出た言葉で、テバイの伝説上の王 カドモスが退治した竜 ( りゅう、邪悪の象徴とされる ) の歯を地に蒔いたら戦士が生えてきて、お互いに争いを始めました。最後に残った 5 人を家来にしたというものです。つまり竜の歯とは、将来民族間に 「 対立や混乱 」 をもたらす 災いの種子 のことをいいます。

ミャンマーの ウイン ・ アウン外務大臣は植民地時代を回想して

我々は互いに敵視するよう、それぞれ別な色の ペンキを塗られて、殺し合いにかり立てられた闘鶏 ( とうけい、しゃも ) の如く扱われた。

と述懐していました。


[ 8 : アウンサン将軍とその娘 ]

アウン・将軍サン その当時英国からの独立運動を指導した アウンサン ( Aung Sang) 将軍は、昭和 15 年 ( 1940 年 ) 8 月と、戦時中の昭和 18 年 ( 1943 年 ) 3 月に東京を訪れています。日本の支援により ビルマは同年 8 月 1 日に バーモウを首相として臨時政府を樹立して独立を果たし、アウンサンは陸軍大臣となりました。

しかし日本が太平洋戦争の末期に連合軍に対して形勢不利になると、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 3 月 27 日に突如、日本に対して敵対行動を取り日本軍を攻撃しました。

彼は政治の主導権争いから昭和 22 年 ( 1947 年 ) 7 月 19 日に、32 才で反対派により暗殺されましたが、暗殺者に銃を提供したのは アウンサンの政治方針 ( イギリス植民地からの ビルマの独立 ) を嫌った イギリス だといわれています。彼の未亡人 キン ・ チーはその後 「 インド駐在、ビルマ大使 」 を務めました。その娘が インドで大学教育を受け イギリスに行き、イギリス人と結婚し、 1991 年に ノーベル平和賞をもらった アウンサン ・ スー ・ チー でした。

( 8−1、 表と裏から見ることの必要性 )

アウンサン将軍の例を引くまでもなく歴史を見て感じることは、他国民が 一筋縄 ( ひとすじなわ ) ではいかずに、日本人にはみられない、 したたかさ を持つということです。

相手を利用する場合には主義や思想にこだわらず、誰とでも手を結び何でも利用するが、不要となればすぐに離反するだけでなく、自分の利益になると思えば 裏切り は当然のことで、 「 昨日の友は今日の敵 」 として攻撃することも当たり前です。

冷徹な打算 に基づく国際関係においては、日本人が好む 信義 など、全く存在せず、中国や インドネシアを初め アジア諸国が、日本からあれほど多額の O D A 経済援助を受けながら、日本の安保理常任理事国入りに 反対票を投じた事実 からも裏付けられます。

つまり自国の 国益確保 だけが目的であり、国家間に 信義や恩義 などは、爪の アカ ほども 存在しない 現実を、日本人は胸に刻み込まなければなりません。

アウンサン ・ スー ・ チー について日本では マスコミの報道から、民主主義の闘士、正義の味方のように思われていますが、別の見方や事実もあります。英国から ミャンマーへの帰国後の初演説を、昭和 63 年 ( 1988 年 ) 8 月 26 日に首都 ヤンゴン ( ラングーン ) にある有名な シュエダゴン ・ パゴダの西側広場でおこないましたが、壇上に並んだ 11 名の代表者のうち 9 名は、ビルマ ( ミャンマー ) では誰もが知っている著名な共産主義者でした。

共産主義と西欧民主主義は共存できるのでしょうか?。彼女を知る人達によれば、彼女は独立運動の著名な将軍の娘として 気位が非常に高く、高慢で自己主張をするのみで他人の言葉を聴かない。

その政治姿勢については自分の言うことは全て正しいとして、軍事政権のすることに何でも反対するがその対案が全くない、あるいは 一部の政治家の リモコンにすぎないなどの、厳しい見方をする外国の ジャーナリストもいます。

この点について彼女自身も、

さまざまな政治色をもった ベテラン政治家が数多くいて、私の実際の行動を助けてくれているのは確かである。
と述べていました。

彼女のことに限らず何事につけても 一方の面だけから見たり、一つの情報に基づき判断をする、いわゆる 素朴な材料論者 の手法を採るのではなく、少なくとも表と裏の両面から見ることが、正しい評価をするために必要です。

その観点からすれば、かつて中国には 「 泥棒や ハエがいない 」 とか、北朝鮮を 「 地上の楽園 」 であるとの、虚偽の宣伝に熱心に荷担した日本の多くの マスコミは失格ですが、その行為を反省することもなく今も偏向した情報、正しくない情報を送り続けています。

[ 9 : 日本が果たした役割の再評価 ]

敗戦後 57 年が経ちその間太平洋戦争についての日本の功罪のうち、 罪(?)についてはこれまで内外の歴史家、評論家により十分過ぎるほど議論されてきましたが、その基本姿勢は、 勝てば官軍、力は正義なり ( Might is right ) の東京裁判史観に沿ったもの、あるいは 自虐史観や マルクス主義の イデオロギー に色濃く染まった観点からのものが大部分でした。そして彼等にとって不利になるの部分 については、意図的に 無視され続けて きました

( 9−1、 公平な評価の必要性 )

戦争終了後 アジアは勿論のこと アフリカなど殆どの植民地が白人の過酷な支配から解放され、次々に 100 を越える植民地が独立の道を歩みましたが、その契機を作ったのは他ならぬ日本であったという 歴史の事実、果たした役割の大きさ について、公平に評価しなければなりません。

英国 サッセックス大学の クリストファー ・ ソーン教授は著書 「 太平洋戦争とは何だったのか 」 において、

日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉 ( しゅうえん ) を早めた。

帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、当時は ( 西欧人にとって ) 苦痛に満ちた劇的なものだったが、結局は ヨーロッパに各国にとって利益だと考えられるようになった。

と述べ、日本の太平洋戦争 ( 大東亜戦争 ) において果たした役割を 評価しています。同様にある ヨーロッパの歴史家によれば、

太平洋戦争は ヨーロッパ人が、アジアで 傲慢 ( ごうまん ) に振る舞うことができた時代の終り という、アジアの歴史における大変化をもたらした、
とありました。

無知無能、怠惰、貧困、不潔などと白人支配者から蔑まれ、卑しめられた植民地における有色人種の間から、戦後に民族主義が台頭し、白人支配を打破し てアジア、アフリカで多数の植民地が独立しましたが、これは太平洋戦争なくしては決して起こり得なかったことです

もし日本が日露戦争に勝利せず、太平洋戦争も戦わなかったとしたならば、アジア、アフリカ地域の民族はいまだに欧米列強の植民地支配で虐げられていたに違いありません。

現に日本が戦に敗れると、従来の植民地支配を継続しようとして イギリス、フランス、オランダ軍が アジア地域に舞い戻り、インドネシアから マレー半島、インド、ベトナムに至るまで独立戦争の戦火が長期間絶えなかった、という事実からもそれはうかがえます。

イギリスの歴史家によれば、アジア、アフリカ諸国の独立は太平洋戦争により、国によっては 百年も早く訪れたと述べました。さらに日本は 一般的な意味では戦争に敗れましたが、

アジアの全植民地が欧米諸国による支配から解放され、独立を果たした事実を見るとき、前述の クラウゼビッツの戦争論に従えば、日本は疑うことなくアジア人の 「 植民地からの解放 」 という戦争目的を達成した。つまり結果的には 戦争に勝った のだ

という見方すらあります。前述の東京裁判の オランダ代表判事を勤めた レーリンクは、著書でつぎの様に述べています。

日本は 西洋諸国の植民地を解放した罪 によって罰せられたが、その後 四半世紀 ( 25 年 ) も経たないうちに、昭和 35 年 ( 1960 年 ) に国連が植民地を保有することを 不法行為 であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を 犯罪として 規定すらした。

参考までに 国連で 植民地主義が と見なされるようになったのは 、太平洋戦争開戦当時 ( 1941 年 ) 、アジア と アフリカの独立国は日本を含めて 僅か 5 箇国 しかなく、あとは欧米の植民地でしたが、有色人種国の日本が白人国家に敢然と戦いを挑んだ姿を見て民族主義が台頭し、旧宗主国と独立戦争を戦うことができたからでした。

その結果旧宗主国も戦後の時代の流れに抗しきれず、ほとんどの植民地が独立し、 国連に 百 を超える議席 を得たため、それら新興国の発言力が増大したからでした。



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