風呂の話


[ 1:風呂の歴史 ]

古代西 アジアで初めて 沐浴 ( もくよく ) 施設 を作ったのは、世界四大文明 ( ナイル、インダス、黄河、ティグリス ・ ユーフラテスなどの大河のほとりに誕生したので、四つの 大河文明 ともいう ) の 一つである メソポタミア文明を作った シュメール人でした。

紀元前 4 千年頃に存在した都市国家 ウルク ( Uruk ) 王朝の遺跡である神殿群の中に、 2 メートル 四方の給排水設備を持つ、二つの沐浴室が遺跡から発見されましたが、ウルクは平成 21 年 2 月まで イラクに 6 年間派遣された陸上自衛隊の駐留基地があった、 サマーワの近くにありました。

ホメロス

文字の記録に残る 世界最古の風呂 といえば、紀元前 8 世紀の ギリシャの詩人 ホメロス ( Homeros ) が書いた、ヨーロッパ文学史上、最古 ・ 最大の叙事詩である 「 オデュッセイア 」 ( Odysseia ) の第 10 書の最後に、以下の記述があります。

それから磨きあげた 湯槽 ( ゆぶね ) に入って風呂を使い 、身体を清めた。さて二人は風呂から出て、ゆたかな オリーブ油を身体に塗ると昼餉 ( ひるげ ) の座に着き、みちみちた混酒瓶 ( さけあえがめ ) から アテーネ女神に献げまつると、密の甘さの葡萄酒 ( ぶどうしゅ )を汲んでは濯 ( そそ ) いだ。

とありましたが、古代 ギリシャでは食事の前に手を洗い、また宗教儀式を執り行うには沐浴 ( もくよく、髪や身体を水などで洗い清めること ) が必要とされました。水は清めの儀式には不可欠な要素でした。

紀元前 5 世紀 に生きた古代 ギリシャの歴史家 ヘロドトス ( Herodotos ) は オリエント各地を旅行し、その間に得た見聞を紀元前 484 年頃に著書 「 歴史 」 に書き 、「 歴史の父 」 とも称されましたが、「 歴史 ・ 第 4 巻 ・75 」 によれば、

スキティア人 ( Scythia 、イラン系遊牧民で スキタイ と もいう ) は大麻の種を手に毛織りの幕に入りこみ、その種を赤熱した石の上に投げる。すると種は芳香のある煙を出してくすぶり始め、やがて 通常ではとうてい得ることができないような 蒸気 を発する。

スキティア人は蒸し風呂の中で 至福の境地に至り 大声でうなり出すが、スキティア人にとっては、これが入浴の代わりなのである。

女性は きめの粗い石の上で 糸杉や 西洋杉、香木などを水を掛けながらすりつぶし、ペースト状にしたものを顔も含めて全身に塗りつける。こうすることによって芳香が浸みこみ、翌朝塗りつけたものを落とすと、肌はすべすべと艶やかになっている。

と記していましたが、この大麻の種が発する蒸気には、麻薬としての陶酔 ( とうすい、酔わせる ) 作用をもたらす物質が、含まれていたのに違いありません。

美肌の女

スキティアの女性たちの行為は現代の美肌法である ボディー ・ パック や フェイス ・ パック の元祖に当たるものでしたが、古代 ローマの女性が用いた パックについては、第 5 代 ローマ皇帝で残虐な暴君といわれた ネロ ( Nero 、37〜68 年 ) の妃で、これも性悪女 ( しょうわるおんな ) でした サビナ ・ ポッパエア ( Sabina Poppaea ) のものが有名です。

それは脂肪 ・ 蜂蜜 ・ 穀粉または パンをすりつぶしたものに、軟膏を混ぜ合わせて顔や体に塗り、翌朝それを ロバの ミルクで洗い落としましたが、そのおかげで彼女の肌は、 真珠や絹のごとく 美しく輝いていたそうです。お肌に自信のない女性は、お試し下さい、美しく輝くお肌になるそうですから−−−。

[ 2:トルコ風呂 ]

昭和 40 年 ( 1965 年 )10 月 29 日付けの読売新聞の記事によれば、

警視庁が 8 月、9 月の両月におこなった トルコ風呂全国一斉取り締まりの結果、全国 544 店の 28 パーセントに当たる 154 店を、児童福祉法、売春防止法、風俗営業法などの違反で検挙した。
とありました。

日本では昭和 59 年 ( 1984 年 ) まで 「 トルコ風呂 」 といえば、売春を伴う特殊浴場のことでしたが、一時は日本中いたるところに 「 0 0 トルコ 」、「 X X トルコ 」 などの看板が乱立し、ついには 「 トルコ大使館 」 などという名前の風俗店まで出現し、電話帳にも記載されたそうです。

そのため本物の トルコ大使館に料金の問い合わせ ・ 予約などの間違い電話が多数かかるようになり、たまりかねた大使館や トルコ人留学生が日本の外務省に、トルコ風呂の ネーミングについて抗議をしました。その結果今では ソープランドと名前に変えましたが、日本人は他国の風俗習慣を取り入れるのが巧みでした。

15〜16世紀の ヨーロッパでは オスマン帝国 ( オスマン ・ トルコ ) による領土拡大の最盛期でしたが、 スルタン ( イスラム圈での政治的支配者 ) の宮殿の奥深くには ハレム ( Harem 、ハーレムとも言い王室の後宮 ) があり、千夜 一夜物語 ( 注参照 ) にあるように、禁男の園では スルタンだけが 数多くの美女たちを侍らせていると想像されていました。

注:)
千夜 一夜物語 ( アラビアン ・ ナイト ) とは 9 世紀頃にできた、アラビア ・ ペルシャ ・ インドなどの民話約 250 を集めた説話集のことで、大臣の娘の シェヘラザードが王様に 千 一夜かかって、物語をする形式をとっています。

本場トルコ風呂

ハレムでは 女性 に身体を洗ってもらい、マッサージを受けたであろうと イメージを膨らませたことから、日本では入浴し マッサージをする特殊浴場を、トルコ風呂と名前を付けました。ところで今でも トルコには トルコ風呂がありますが、本場のそれは日本とは似ても似つかぬ、毛むくじゃらの プロレスラーのような男が マッサージをし、身体を洗ってくれるのだそうです。

トルコ風呂の歴史は前述した オスマン ・ トルコと共に始まりましたが、体を清潔に保つ イスラム教の伝統と、東 ローマ帝国 ( 別名 Byzantine 、ビザンティン帝国 ) 以来の ローマ風呂の伝統が重なり、現地の言葉では ハマーム という トルコ風呂が オスマン帝国全土に広がりました。16 世紀に オスマン朝の宮廷に仕えた イタリア人の手記によれば、

ハマームに入って来た者は、まず ハマームの番人に声をかけ、ついで高い所 ( 番台 ) に座って入場料を徴収する係に立ち寄り、それから服を脱ぐのである。ただし脱いだ時に素っ裸になって腰巻きをつけずに人前に出ていくようなことのないように,、さもなければつまみ出されてしまう。客は脱いだ衣服を積み重ね、その上に ターバンを乗せるが、盗人から 服を見張ってもらう人 を雇わねばならない。

上着を脱ぐ前に ハマームの方から客に大型の布が渡され、客はこれを身にまとう。これでいよいよ ハマームの 最初の コーナー に入るのである。ここには ハマームの規模にもよるが 15 人ほどの世話係がいる。彼らは毛を剃ったり、マッサージをしたり、洗ったりする係でもある。

とありましたが、次は 「 温かい コーナー 」、その次は 「 熱い コーナー 」 へと進み、異なる マッサージなどの サービスを受けるのだそうです。17世紀の記録によれば、イスタンブール ( 旧 ビザンティンの首都 コンスタンティノープル ) 市内には 14,838 箇所の ハマーム がありました。

[ 3:蒸し風呂について ]

風呂は大別して 蒸し風呂 ( 蒸気風呂 ) と 温湯風呂 に分けられますが、前述の ハマーム ( トルコ風呂 ) は蒸し風呂の部類に属します。もうもうと蒸気のたちこめた ホールの中央に大理石の台があり、人々はその上に横たわります。石は下から薪を焚くなどして暖められているので、しばらくすると全身ぐっしょりと汗をかきます。そこで身体を洗ってもらい、ついでに マッサージもしてもらいます。

( 3−1、竈 ( かま ) 風呂 )

飛鳥時代 ( 592〜710 年 ) 以前の入浴方法については明らかではありませんが、672 年に起きた天智天皇の実弟の大海人皇子 ( おおあまのみこ ) と天皇の嫡子 [ ちゃくし、跡つぎをする ( はず ) の子、大友皇子 ] との間で起きた、皇位継承を巡る 壬申の乱 ( じんしんのらん、みずのえ ・ さるの年に起きた乱 ) の戦いで、後に第 40 代 天武天皇 ( ?〜686 年 ) になった ( 実弟の ) 大海人皇子が 背中に矢を受けました。

竈風呂展示

その傷の治療 ( 湯治 ) に使ったのが、当時から 京都市左京区 ・ 八瀬 ( やせ ) にあった竈 ( かま ) 風呂だと伝えられています。矢が背中に当たった矢背 ( やせ ) の由来から、地名が八瀬 ( やせ ) になったとされますが、写真の竈 ( かま ) 風呂は八瀬の旅館にある展示用のものです。

古くから伝わる竈 ( かま )風呂については、荒壁 ( 土の壁 ) で写真にあるような人が入れる炭焼窯 ( すみやきがま ) 状の竈 ( かま )を作り、その中で青い松葉 ・ 青木を長時間焚きます。

竈風呂展示

内部の土壁や土の床 全体が充分に熱せられてから灰を掻き出し、床の上に塩水を散布したり塩俵や、塩水を掛けて湿らせた荒むしろを敷き、その上に横たわって蒸気浴をするもので、医療的効果があるとされていました。絵は かま風呂の準備をしているところと、それを待つお客です。

ある閉所恐怖症 (?) の人の体験談を紹介しますと、
高さ 2 メートルほどの赤土で固めたまんじゅう型の竈 ( かま ) があり竈の下の方は 60 センチほどの高さまで石が積んであって、一方に入り口の穴が作ってある。裸になって内部に入ると、床は石が敷きつめられた上に、塩水を掛けた 「 荒むしろ 」 が敷かれている。

その上に木枕をしてあおむけに寝ると、入り口が閉じられて竈が焚かれた。むしろから蒸気が上がって次第に発汗してくるのだが、心細い。

このまま出られなくなったらどうなるのかと思うと、のんびり寝ている気がしない。まるで自分 1 人、棺桶に入れられて火葬場に送られたような気分である。
30 分ほどすると熱くて入っていられなくなったので、外へ出て隣接した浴槽で蒸された体の汗を流し垢を落とした。
とありました。私もあるとき 「 閉所恐怖症 」 を経験しましたが、それについては ここをご覧下さい

焚き火で土壁や石を加熱した後に、水を掛けて蒸気を発生させるという形式の 「 蒸し風呂 」 は、岩風呂 ・ 穴 ( あな ) 風呂 ・ 釜風呂 ・ 塩風呂などの名称で日本各地に見られ、天然の洞窟などでも簡単に蒸気浴ができるので、日本人の間では古くから行われていました。

[ 4:風呂と宗教 ]

( 4−1、神道の場合 )

私と同じ喜寿 ( 77 才 ) 前後の高齢者であれば、敗戦後は 「 勤労感謝の日 」 と名前が変わったものの、それまでは 11 月 23 日が 新嘗祭 ( にいなめさい ) という祭日であり、天皇が新穀を天神地祇 ( てんじんちぎ、天の神と地の神 ) に捧げ、自らも食する儀式をすることをご存じと思います。

天皇が即位の礼の後に、初めて行う新嘗祭 ( にいなめさい ) のことを 大嘗祭 ( だいじょうさい 、おおにえのまつり ) とも呼びますが、1 代で 1 回限りの大祭であり、皇太子が実質的に天皇の位を継ぐ践祚 ( せんそ ) の儀式になります。現天皇の場合には、平成 2 年 ( 1990 年 ) におこなわれました。

まずは廻立殿 ( かいりゅうでん ) の儀式から始まりますが、神道の伝統に従い暗くなってから深夜にかけておこなわれ、天皇が宮中にある廻立殿 ( かいりゅうでん ) に行き、 温湯浴 による禊ぎ ( みそぎ、注参照 ) を行います。

その際に廻立殿の湯槽には、別の釜屋 ( かまや ) で沸かした湯を汲んで入れる 「 取り湯 」 方式により湯を入れます。神事において天皇が禊ぎ ( みそぎ ) をする際に着る 浴衣 を 天羽衣 ( あまのはごろも ) と呼ぶのだそうですが、私には 「 三保の松原 」 の伝説を連想させました。

新嘗祭 ( にいなめさい ) の最古の記録については、日本書記の第 35 代 皇極 ( こうぎょく ) 天皇 ( 在位 642〜645 年 ) の元年 ( 642 年 ) の条に、

11 月 16 日に、天皇は新嘗祭 ( にいなえ ) を行われた。

と記されていました。

皇極天皇についても大嘗祭 ( だいじょうさい ) の際に 「 禊ぎ( みそぎ ) 」 が必ず行われたであろうことから、飛鳥時代 ( 592〜710 年 ) の豪族 ( 貴族 ) の間では 、 日常生活において 「 取り湯 」 方式による入浴がおこなわれていた ことが想像されます。

注:)
禊ぎ ( みそぎ ) とは 「 身そそぎ 」 のことですが、 辞書の大辞林によれば、「 そそぎ 」 とは水などで、汚れを除き、清めること であり、もろもろの穢れ ( けがれ ) や身の不浄、心の罪障 ( ざいしょう 、悟りや極楽往生の妨げとなる悪い行い ) などを洗い流し、心身の清浄を目的としておこなう洗浴のことです。

それをおこなう機会としては信仰上の参拝儀式として ・ 祈願にあたっての心構えとして ・ または大事に臨んでの心得として、する場合があります。

( 4−2、仏教の場合 )

仏教は、6 世紀 ( 538 年 、別の説では 552 年 ) に百済 ( くだら ) の聖明王から仏像と教典が日本に送られて伝えられましたが、入浴も仏教の伝来と共に日本へ入ってきたといわれています。 釈迦が生まれた インドでは気温が高く、現地では水浴の習慣が普及していましたが、仏教ではそれとは別に、仏像をお湯で洗い浄めたことから、温湯浴が始まったといわれています。

仏典には 浴仏功徳教 ( よくぶつ ・ くどくきょう )や 温室教 などがあり、入浴を重視し、一般大衆にも入浴をすすめましたが、それによれば、

  1. 入浴は 七 病を除き 七 福を得る。

  2. 汚れを落とすことは、仏に仕える者の大切な仕事。

  3. 入浴は大切な( ぎょう ) の 一つ。

と説かれていたので、 「 体を洗い清める 」 ための浴堂殿が、あちこちの寺院に作られ、これを浴堂院と名付け、その住職を 湯維那 ( ゆいな ) といいました。江戸時代の銭湯や温泉宿にいて客の接待に当たり売春もした 「 湯女 」 ( ゆな ) の名称は、これにちなんだともいわれています。大仏で有名な奈良の東大寺や興福寺にも大湯屋 ( おおゆや、浴堂 ) が残っていますが、入浴は僧侶に対してのみ施したのではなく、 一般庶民に対して入浴を施す 施浴救済 ( せよく ・ きゅうさい ) が、寺院の施薬救済事業と共におこなわれました。

( 4−3、千人風呂の願 )

ところで夫である第 45 代 聖武 ( しょうむ ) 天皇の遺品を収蔵した正倉院でお馴染みの光明 ( こうみょう ) 皇后 ( 701〜760 年 ) は、悲田院 ( ひでんいん、注参照 )、施薬院 ( せやくいん ) を設けるなどして社会事業をおこなった 日本の歴史上、極めて希な皇后 でしたが、王族以外の出自 ( しゅつじ 、出どころ )を持つ女性 ( 藤原氏出身 )で皇后になったのは、彼女が最初でした。

あるとき彼女は 千人に風呂を施す大願 を立てて実行しましたが、その縁起 ( えんぎ、社寺の起源 ・ 由来 ) によると、

破風 ( はふ ) 造りの浴室を営み、千人の 垢を清め たまわんと誓いて、自ら往来 ( 道を行きかう ) 凡下 ( ぼんげ、平凡な人 ) の俗人貴賤 ( きせん、身分の高い人と低い人 ) を分かたず( 分けへだてせずに身体を ) 流しさり給うぞ、かしこくも かたじけなき。−−−以下省略。

法華寺

多くの人々に入浴を施す 「 施浴供養 」 をしましたが、皇后自身も ハンセン病で血膿 ( ちうみ ) が流れ、耐え難い臭気を発する乞食の身体を洗い、垢 ( あか ) を流したとされます。

この時の風呂に関しては、「 蒸し風呂 」 だったとされますが、写真は光明皇后が創建した奈良の 総 ・ 国分寺 ( そう ・ こくぶんじ、かつては門跡寺院の あま寺 ) である法華寺 ( ほっけじ ) の境内にある、 「 から風呂 」( 蒸し風呂 ) の建物で、江戸時代の明和 3 年 ( 1766 年 ) に再建されたものです。

注 :)
悲田 ( ひでん ) とは仏教の言葉で福田 ( ふくでん ) の 一つ、 「 恵みを施すことで福徳を生じる 」 という意味で、悲田院とは貧しい人 ・ 病人 ・ 孤児などを救済した施設であり、723 年に奈良の興福寺に置かれたのが最初とされます。

730 年に光明皇后の事務を司る 「 皇后 宮職 」 に施薬院 ( せやくいん、貧乏人に薬を与え、病気の治療をした所 ) が置かれた際に、平城京 ( 奈良の都 ) に役所が設置されました。

( 4−4、枕草子 )

清少納言

古典文学の作者である清少納言が紀元 千 年頃に書いた日本最古の随筆集に、ご存じの枕草子がありますが、それには約 300 の 章 ・ 段 があり、その中に風呂に関して以下の文章が記されています。

きびよきもの、 たち風呂 へ入りたるも きびはよし。

「 きび 」 とは気味 ( きみ ) から転化した、気持ち ・ 感じ ・ 味わいのことですが、「 立ち風呂 」 の 「 立ち 」 については、私が敗戦 ( 昭和 20 年、1945 年 ) 後に子供時代を過ごした 栃木県の片田舎では、風呂を沸かすことを風呂を 立てる といっていました。

辞書の大辞林を見ると、「 立てる 」 には 「 湯を沸かす、風呂の湯を沸かして入浴できるようにする 」 とあったので、枕草紙の場合は詳しくは分かりませんが、沸かした湯に身を浸す、あるいは沸かし湯を使っての ( 掛け湯 ) による行水 ( ぎょうずい ) や洗浴をする意味ではないかと思います。ちなみに茶道では湯を沸かして飲料の茶を入れることを、ご存じのように茶を た( 点 )てる といいます。

[ 5:銭湯について ]

入浴料を支払って入る銭湯の始まりは、「 日蓮御書録 」 の中に登場する 「 湯銭 」 の文字から、鎌倉時代 ( 1192〜1333 年 ) の 文永 3 年 ( 1266 年 ) であるといわれていますが、その中にある 「 四條金吾に贈られし書 」 には、

御弟どもには常に不便のよし有べし 常に 湯銭 草履 の價なんどあるべしとあり、斯云はれしは文永 三年也。當時早く 銭湯風呂 ありしなるべし、但是は寺に立たる風呂にや。
と記されています。概略の意味は、弟子どもは常に不自由していたので、風呂代や草履 ( ぞうり ) 代に事欠くこともあったでしょうが、これは文永 3 年当時の話です。その当時は既に銭湯があったはずですが、これは寺で沸かした風呂であったかもしれません。

康永 ( こうえい ) 2 年 ( 1343 年 )から 応安 5 年 ( 1372 年 ) までの、京都 ・八坂神社の記録である 「 祇園執行日記 」 によれば、

雲居寺 の社内において、元亨( げんこう ) 年間 ( 1321〜1323 年 ) に、すでに銭湯あり

という記録があります。雲居寺 ( うんごうじ ) とは、京都市 ・ 東山区の、高台寺附近にあった天台宗の寺院でした。

室町時代 ( 1336〜1573 年 ) には公家たちもや町風呂 を利用していましたが 、もちろん庶民とは別に時間を限って貸し切っていました。これを 「 留め風呂 」 と呼んでいました。江戸における銭湯の始まりについては、「 慶長見聞録 」 によれば天正 19 年 ( 1591 年 ) 頃のことでしたが、蒸気で蒸す 「 蒸し風呂 」 だったといわれています。

ここで注意しなければならないのは、と風呂の違いです 。現代社会では入浴施設のことを フ ロ ( 風呂 ) といいますが、この語源は壁に囲まれた部屋を意味する ム ロ ( 室 ) からきたとする説があります。古代から近代 の前半まで、入浴施設は、前述した 「 かま風呂 」 のように、密閉した部屋にこもらせた蒸気で蒸す 「 蒸し風呂 」 でしたが、これが現在のように湯槽 ( ゆぶね ) にお湯を満たして入る温湯風呂 ( おんとうぶろ ) になったのは、江戸時代 ( 1603〜1867 年 ) の中頃以後のことでした。

その過渡期においては 、湯槽を持つ 「 湯屋 」 ( ゆや / ゆうや ) と蒸し風呂の 「 風呂屋 」 とは、はっきり区別していました。

[ 6:男女混浴 ( 入れ込み ) ]

ぬか袋と女性

江戸に銭湯ができた当時は男たちは入浴に行ったものの、女性は銭湯には行かずに、自宅で行水 ( ぎょうずい ) 程度の入浴をしていたといわれています。その後女性もじょじょに銭湯に行くようになりましたが、浴槽 ・ 洗い場が一つしかないので当然に男女混浴になりました。

男女ふんどし着用

そのためでしょうか嘉永 4 年 5 月に、江戸の湯屋仲間が出した 洗湯手引草 の記述によれば、慶安 ( 1648〜1652 年 ) 、承応 ( じょうおう、1652〜1655 年 ) 時代には、男女とも風呂に行く際には男は 褌 ( ふんどし ) 、女性は湯具 ( ゆぐ、湯文字/腰巻き ) を持参し それを着けて入浴した とありました。

汚れた肌着で入るのではなく男女とも全裸で入浴したのではありませんでした。絵では見にくいのですが、ふんどしを締めています。濡れた下着を包んで持ち帰るのに使い、あるいは脱衣所で着替えや身づくろいの際に床に敷いた布を 風呂敷 と呼びましたが、現代にも 「 ふろしき 」 にその名が残っています。

洗い場

しかし当時の風呂は前述したように最初は 「 蒸し風呂 」 で後に浴槽に湯を張る 「 温湯風呂 」 方式になりましたが、蒸気を発生させ室内に蒸気を満たす部屋と、洗い場とは 「 ざくろ口 」 により仕切られていて、蒸し風呂の蒸気が逃げないように、また浴槽の湯が冷めないように、部屋の仕切りを低くして、腰をかがめて出入りする造作でした。

右の絵は洗い場で起きた女性同士の ケンカを描いたものですが、この頃はすでに全裸で入浴していました。仕切りの赤い部分が 「 ざくろ口 」 です。

ざくろ口のために浴室内は湯気がもうもうと立ちこめ、窓が無いので暗く、男女が混浴のために現代風にいえば 痴漢 ・ 痴女 が横行し、商売女がなじみ客と顔を会わせると人目もはばからず風紀を乱すこともありました。そこで風呂屋の営業日を男女別に定めて、今日は男性専用日に、翌日は女性専用日にすることにしましたが、この制度はやがて崩れてしまい、元の 「 男女混浴の入れ込み風呂 」 になりました。

混浴風呂

江戸時代中期に老中松平定信により寛政の改革 ( 1787〜1793 年 ) がおこなわれましたが、その際の寛政 3 年 ( 1791 年 ) 正月に 男女入込禁止令 ( 混浴禁止令 ) が出されるまでは、 江戸の銭湯はすべて 男女混浴だった といわれています

潜水

その後も男女混浴 ( 入れ込み ) は何度も禁止されましたが、必ずしも守られずに継続し、天保 13 年 ( 1842 年 ) には、幕府が 一つしかない浴槽に仕切りを作り、男湯、女湯の分離を設けさせましたが、仕切りは表面に近い部分だけで底の方は共通していたので、潜水して隣の浴槽に移る不心得者がいたそうです。

日本では昔から男女混浴についてはおおらかであり明治になってからも何度も混浴禁止令が出されましたが、実際に都市部の公衆浴場での男女混浴が減少したのは、明治 23 年 ( 1890 年 ) からで、 7 歳以上の男女の混浴は禁止 という内務省令が出されて以降のことでした。

これでも長年の混浴習慣はなかなか変えられずにいたので 、明治 33 年 ( 1900 年 ) にも混浴禁止令が出されましたが、昭和 34 年 ( 1959 年 ) に私が北海道を旅行した当時は、脱衣所は別でも中では混浴の温泉風呂が数多くありました。その習慣は現在も各地のひなびた温泉宿に残り、混浴風呂があります。

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