風呂の話 ( 続き )


[ 7:男女混浴に対する外国人の見方 ]

( その 1 )
前述した ホメロスの 「 オデュッセイア 」 に並ぶ彼の長編叙事詩、 「 イリアス 」 ( Ilias ) に書かれた 10 年に及ぶ 「 トロイ 包囲戦争 」 の舞台となった トロイの遺跡を、 ドイツ人の シュリーマンが 1871 年に発掘し、「 トロイ戦争 」 が神話や伝説ではなく、歴史上の事実であったことが判明しました。

その彼が慶応元年 ( 1865 年 ) に来日して 1 ヶ月間滞在しましたが、後に彼が書いた 「 旅行記、清国 ・ 日本 」 によれば、

夜明けから日暮れまで、禁断の林檎 ( りんご ) を齧 ( かじ )る以前の我々の先祖 ( アダム と イブ ) と同じ姿 ( 全裸 ) になった老若男女が、いっしょに湯をつかっている。彼らはそれぞれの手桶で湯を汲み、ていねいに体を洗い、また着物を身に着けて出て行く。
なんと清らかな素朴さだろう!
公衆浴場の前を通り 30〜40 人の全裸の男女を初めて目にした時、私はこう叫んだものである。

自国の習慣に従って生きているかぎり、間違った行為をしていると感じないものだからだ。そこでは 淫らな意識が生まれようがない 。父母、夫婦、兄妹、すべてのものが男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。  

と述べていました。

( その 2 )
10 年間 マカオに滞在してそこで日本語を覚え、通訳として ペリー艦隊に同行して来日した 、 サミュエル ・ ウィリアムズが書いた、「 ペリー日本遠征 随行記 」 によれば、

私が見聞した異教徒諸国の中では、この国 ( 日本 ) が 一番淫らかと思われた 。体験したところから判断すると、 慎みを知らないといっても過言ではない 。婦人達は胸を隠そうとしないし、歩くたびに太股まで覗かせる。

男は男で、前をほんの半端な ぼろ ( ふんどし ) で隠しただけで出歩き、その着装具合を気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯に通っている。 

男女混浴図

絵は ペリーの 2 度目の来航の際に結んだ日米和親条約 ( 横浜条約 ) に基づき、日本で最初に アメリカ領事館が置かれた伊豆半島下田 ( しもだ ) にある、公衆浴場の 混浴風景です 。脱衣所と洗い場には仕切りがなく、洗い場にある貯湯槽から湯を汲んで身体を洗い、左端の 「 ざくろ口 」 を潜り、浴槽がある隣室に行きます。

( その 3 )
グリフィス先生

お雇い外国人教師として明治 4 年 ( 1871 年 ) から明治 8 年 ( 1875 年 ) まで、福井藩校や東京の大学南校 ( 東京大学の前身 ) で物理 ・ 化学を教えた アメリカ人の ウィリアム ・ グリフィスによれば、

男たちは誰 一人として女の裸を じろじろ見たりはせず、 何の興味も示さなかった 。それが普通で、女性の顔か手を見るぐらいの気持ちしか起こらぬものらしい。

裸を恥ずかしがらぬ日本人に対してより、それを見ようと しげしげと銭湯の前に通い、 好色な視線で眺めては、 日本人を淫らだと 恥知らずに非難している外国人 こそ非難すべきだ 。同時に日本で女性を買う上得意は、キリスト教国から来た人たちだ 

とも指摘しています。

( その 4 )
ウエストン

明治 21 年 ( 1888 年 ) から大正 4 年 ( 1915 年 ) まで 3 度にわたり来日し、合計 14 年間日本に滞在した イギリス人宣教師で日本 アルプスを初めて海外に紹介した登山家の、ウオルター ・ ウエストンによれば、「 知られざる日本を旅して 」 の著書の中で、

日本人が伝統的な 男女混浴 をやめたのは、 外国人による偏見のせいである 。日本では ( 女性の ) 裸体は 見てもよいが、見つめてはならない
と記していました。

( その 5 )
明治 25 年 ( 1892 年 ) 発行の 「 庚寅新誌 ( こういん ・ しんし ) 」、( 第 53 号 ) に掲載された、 アメリカ人の エドウイン ・ アーノルド の見聞談 「 日本人の潔癖 」 によれば、

日本人は世界でもっとも清潔な人民で、入浴は主に彼らの欲望の 一つである。東京には湯屋の数が 1,500 軒を下らず、ここで身体を洗うのである。彼らはまた しばしば温泉の出る山地へ湯治に行く。日本人の湯を好むや、むしろ驚くべし
と述べられていました。

[ 8:宮中の御湯殿 ]

大正天皇 ( 1879〜1926 年 ) や貞明皇后 ( 1884〜1951 年 ) の側に仕えた小川金男の著書、「 宮廷 」 によれば、

お湯殿は畳の上に 「 御たたみ 」 といって 2 畳敷きくらいの厚い敷物の敷いてある脱衣所の奥の、 8 畳ほどの広さの流し場 であるが、その中央に釜のない円形の檜の湯舟が置いてある。お湯殿の準備は 輿丁 ( よてい、注参照 ) の役目であるが、輿丁は別の場所に備えてある釜で湯を沸かしておき、手桶に汲んでお湯殿に運ぶのである。

その際の装束は白袖の着物に白の袴をはく。手桶に汲んで運んだ湯は、もちろん湯舟に入れるわけであるが、そのほかにも沢山の手桶に熱湯を汲んで置き、湯をうめるときの用意をしておく。

このようにして ( ご入浴の ) 準備ができると、女官が湯加減を見て ( 高貴なお方を ) ご案内するのであった。

つまり 「 湯沸かし釜 」 と湯舟の場所が異なる 「 取り湯 」 方式 による入浴でしたが、宮中だけでなく昔の大名家の殿様などの入浴も、これに似た形式でおこなわれていました。

ちなみに高貴な身分の女性は素肌では入浴しないのだそうです。 女礼備忘随筆 によれば、

「 女中方 」 は 「 男中方 」 のように 素肌にて湯に入るものにあらず 。まず肌に湯具 ( ゆぐ、湯文字/腰巻き ) を召し、その上に明衣 ( あかは ) と称する浴衣を召してそのまま風呂に入らせられて後、「 女中方 」 右の浴衣をとり、湯具 ばかりにて流せらるる也。

またあがり給う時にも、風呂の中にて明衣 ( あかは ) を召して腰掛けに寄り給う。

と記されていました。

天皇の輿

注 :)
輿丁 ( よてい ) の輿 ( よ ) とは高貴な人が乗る 「 こし 」 のことであり、輿丁 ( よてい ) とはそれをかつぐ人、駕輿丁 ( かよちょう ) ともいいます。つまり天皇のお側で、下働きをする者のことです。

絵は天皇専用の乗りものである 鳳輦 ( ほうれん ) と、それを担ぐ輿丁 ( よてい ) たちで、鳳輦 は晴れの儀式の行幸 ( ぎようこう、天皇のお出まし ) の際に用いました。

[ 9:入浴に対する考え方の違い ]

我が家の女房は大の風呂好きで、近くにある鄙 ( ひな ) びた温泉に友人と行くと、風呂に入ったり出たりして 2 時間半も楽しむのだそうです。私など温泉地に行っても 15 分で身体を洗って出てきますが、浴槽の中で のんびり時間を過ごし、 ストレスの解消や健康増進をはかるなどという気には到底なれません。多分私が日本人として、例外的で変わり者なのかしれません。

( 9−1、迷信 )
冬の寒さが厳しく過酷なため、元々入浴という習慣がなかった ヨーロッパの人々の間では、健康に関するある迷信がありました。病気というものは皮膚の気孔を通して感染する。したがって病気予防には、体を垢 ( あか ) まみれにして、皮膚の穴を埋めることが健康に良いというものでした。

スペインの イサベル女王( Isabel、または イサベラ、1451〜1504 年 ) は、生涯にわずか 2 度しか入浴しなかったことを誇りにしていましたが、 1 度は生まれたとき、もう 1 度は結婚のときでした 。イギリスの エリザベス 1 世女王 ( 1533〜1603 年 ) は 3 ヶ月に 1 度入浴するだけでしたが、それでも当時としては、 清潔好きな女王 といわれました。英国では、エリザベス 1 世 の治世に、一生に 1 度は入浴するようにといった法令が出たといわれています。

フランスの国王 ルイ 13 世 ( 1601〜1643 年 ) の成長記録が残っていますが、 彼が初めて入浴したのが 7 才の時 であり、顔を洗ったのが 9 才の時でした。ルイ 13 世の側に仕えた女性によると、王に近づくと 「 腐った肉のような臭い 」 がしたそうですが、その女性自身も当時は入浴の風習がないので、臭かったに違いありません。

地下鉄の車内

フランスでは第 2 次世界大戦が終了 した ( 1945 年 ) 以後も 、風呂や シャワー設備のない家が多く、昔ながらの地下室や台所の片隅での行水が普通でした。その為にご存じのように香水と ビデ ( Bidet ) が発達したといわれますが、夏場に パリの地下鉄に乗ってご覧なさい、今でも冷房装置がないので車内には汗くさい臭いと、安香水の ミックスした臭いが充満していますから。

それだけでなく ヨーロッパには昔から

フランス人と握手したら手を洗え、
握手

という 「 ことわざ 」 がありましたが、女性も男性も トイレで 「 大 」 をしても、手を洗う習慣が無かったからでした。その理由は日本では考えられませんが、昭和 25 年 ( 1950 年 ) 当時でさえ、小学校の トイレに手洗い設備の無い学校が珍しくありませんでした。

入浴の目的には 衛生、病気 ・ ケガなどの治療、娯楽、宗教上の理由 ( 潔斎、清め ) などがありますが、北海道 ・ 東北地方を除き日本各地が高温多湿の気候であり、そのうえ水に恵まれ、温泉が数多く出るせいもあり、日本人には古くから入浴が好まれていました。

露天風呂

今でも温泉地や銭湯で湯舟にどっぷり浸かった客が、 「 あーいい湯だ、極楽、極楽と思うのも、日本人にとって入浴という行為が、単に体の汚れを落とすことだけでなく 心をいやすことも目的とする点で 、 シャワーに頼る欧米諸国の入浴方法とは大きく異なっています。写真は露天風呂で混浴する風景ですが、男女ともかなり昔に若者や娘さんだった人たちでした。

ちなみに私は現役時代に、年間に 120 日から 最多で 135 日 国内 ・ 海外の ホテルに宿泊しましたが、ホテルの浴槽にお湯を貯めて入浴したことは何十年もの間 ただの 1 度もなく、全て シャワーだけで済ませました。その理由は生来風呂が嫌いなことと、浴槽に湯を貯めている間に シャワーならほとんど洗い終わってしまうからでした。

[ 10:風呂屋 の数と、風呂代 ]

銭湯

ある外国人によれば、風呂屋の建物はお寺のような形をしているそうですが、そういわれてみると確かにそのような屋根の形をしていました。これは恐らく前述した 寺院などによる 施浴 の行事 ・ 習慣に、関連がある のかもしれません。

いわゆる風呂屋とよばれているものの数については、平成 20 年度、厚労省 ・ 保険 衛生業務報告に基づく資料から、都道府県別、トップ 10 位 までを示すと下表の通りになります。現在家庭における風呂の普及 ( 保有 ) 率は 92 パーセント といわれていますが、大都市では風呂屋の数が年々減少しているものの、依然として全国には 5 千軒以上の 公衆浴場が営業を続けていることが分かります。

注:)
私営 の公衆浴場には 個室付き浴場 ・ ヘルスセンター ・ サウナ ・ スポーツ施設 ・ その他がありますが、それらは下表の 一般公衆浴場 には含まれません

順 位都道府県私営 一般公衆浴場公営公衆浴場
大阪93850
東京870
北海道39454
兵庫261
神奈川240
愛知185
千葉83
福岡79
長野54
10静岡19
−−全国合計5,326396


( 10−1、風呂の代金 )

江戸の昔から 銭湯の代金は豆腐 1 丁の値と同じである と長年いわれてきましたが、最近ではどうなったのでしょうか ?。

小さい豆腐

東京都豆腐商工組合の話によれば、豆腐の大きさについては組合としての決まりがなく、昔ながらの 1 丁 が 300〜350 グラム のものから、少人数用の 150 グラム ( 左の写真の豆腐 )、単身者用には極小の 50 グラム の豆腐まで売られています。

最近では 「 1 丁 」 の単位に代わって 「 1 パック 」 が使われ、個々の店が売れ易い大きさにして売っているのだそうです。つまり豆腐の大きさが地域や店により異なるために値段が一定ではなく、風呂代との関連付けがもはや不可能になりました。

参考までに風呂代を調べてみると、最高が 東京都 ・ 神奈川県で大人が 450 円 、大阪市が 410 円 で、最低は佐賀県の 290 円 でした。

私は 11 才まで東京都 ・ 豊島区 ・ 巣鴨で育ちましたが、70 年以上昔の昭和 10 年代の巣鴨では 自宅に風呂のある家庭などめったになく、ほとんどの人が近くの銭湯に行きました。当時の社会習慣では小学校に入るまでは男の子でも母親と 一緒に女湯に入る場合がありましたが、明治 23 年 ( 1890 年 ) にできた混浴禁止令については知らなかったものの、幼いので自分では身体をよく洗えなかったからだと思っていました。

女性が髪を洗う場合には番台で追加の洗髪代を支払と、小判形をした洗髪用の風呂桶 ( 普通は円形 ) を貸してくれましたが、これが支払いの証明書の役をしていました。

( 10−2、三助の由来 )

三助

風呂屋には背中などを洗う有料の サービスもありましたが、番台で追加料金を払うと木の札を渡していました。そこには 三助 ( さんすけ ) と呼ばれる男がいて、依頼した客の身体を洗い、ついでに肩などに軽い マッサージをしていましたが、 三助用の大きな桶に湯を汲んで手際よく客の背中などを流し、ついでに両手を合掌する時のように合わせて中央を膨らませ、その形のままで肩を叩き、ポンポンとする音を高い天井に響かせていました。

三助の服装は祭の 「 みこし 」 を担ぐ時に履くような短い白の パッチ ( 短い パンツ ) をはき、胸の辺まで白い 「 さらし 」 の腹巻きを巻いていましたが、女性 でも上図のように 三助 ( 黒い服装の男 ) に背中を流してもらう人がいました。

三助の語源については、前述した光明皇后の 千人風呂施浴の際に 三人の典侍 ( ないしのすけ 、別名 「 てんじ 」 ともいい、明治以後は宮中における 最高位の女官 ) が皇后を補佐しましたが、彼女たち 3 名が 三典 ( さんすけ ) と呼ばれたので、これが後に風呂を沸かし、背中を流す仕事をする 「 三助 」 の由来になったとする説があります。

[ 11:石鹸 ]

まだ石鹸がなかった昔は 身体を洗うのに何を使用したのか、ごぞんじですか?。その答は 「 米ぬか 」 を木綿の袋にいれた 「 ぬか袋 」 です。女性は洗顔などに必ず 「 ぬか袋 」 を使用しましたが、男性で 「 ぬか袋 」 を使用した者は 2〜3 割だったといわれています。

ちなみに 「 ぬか 」 とは玄米を 臼 ( うす ) と杵 ( きね )で搗 ( つ ) いて精白 ( せいはく、白米に ) する際に出る、米の胚芽 ( はいが ) と種皮 ( しゅひ ) が混ざった粉のことですが、前述した第 6 項男女混浴 ( 入れ込み ) にある 「 たらい 」 で行水する絵で、 たらいの縁に掛けてある 赤い袋 が 「 ぬか袋 」 です。

私が子供の頃は石鹸よりも 「 シャボン 」 という言葉を使用していましたが、元は ポルトガル語の 「 サボーネ 」 から来た言葉といわれています。シャボンが日本に初めて伝えられたのは、織田信長/豊臣秀吉時代 ( 1574〜1598 年 ) の南蛮 ( なんばん、ポルトガル ・ スペイン との ) 貿易によるといわれています。

しかし シャボン ( 石鹸 ) を使用したのは武家や キリシタン信徒の一部だけで、一般の人々の 洗濯 には在来からの洗剤である、石灰 ・ 滑石 ( かっせき )・ 無患子 ( ムクロジの木の実 ) ・ 灰汁 ( あくじる ) ・ 粘土類を使用していました。

石鹸は動物性あるいは植物性油脂に苛性 ソーダを加えて作りますが、明治 5 年 ( 1872 年 ) 当時の日本では石鹸が国産できずに、その輸入代金として 20 万円を外国に支払っていました。

横浜で ランプの油、機械油の販売に従事していた堤 磯右衛門 ( つつみ ・ いそえもん ) が私財を投じて独力で石鹸製造に着手し、苦労の末に製品化して、明治 6 年 ( 1873 年 ) 7 月には洗濯石鹸を 1 本 10 銭で洗濯屋に販売するまでになりました。

石鹸作りに企業として成功したのは洋物屋 ( 舶来の品物を販売 ) をしていた長瀬富郎でした。明治 22 年 ( 1880 年 ) から石鹸製造を試み、翌 23 年の秋に 花王石鹸 の第 1 号を 1 個 12 銭、桐箱入り 35 銭で売り出しましたが、「 顔洗い 」 の「 顔 」から 「 花王石鹸 」 と命名したものです。( 花王石鹸 70 年史より )

石鹸の広告

絵は明治 45 年 ( 1912 年 ) 3 月 26 日付の東京日々新聞に掲載された石鹸の広告ですが、右側の一見 奥様風の女性 が石鹸を手に持つのに対して、左側の 下女風の女性 は 「 ぬか袋 」 を使用していました。この広告を見た上品な奥様方は、文明開化がもたらした 石鹸に対する購買力をそそられた ことでしょう。

ちなみに明治維新 ( 1867 年の大政奉還 ) 以前の女性は髪型 ・ 服装 ・ 化粧の仕方 ( お歯ぐろ、引き眉 ) などから既婚 ・ 未婚の区別や、 社会的身分 ・ 職業などが分かるような仕組みでした。

東京日々新聞とは明治 5 年 ( 1872 年 ) に創刊された日刊紙で、毎日新聞の前身です。


目次へ 表紙へ