参勤交代と 大名行列

鞠と殿様


[ はじめに ]

参勤交代の大名行列を歌った童謡に 「 鞠 ( まり ) と殿様 」 がありますが、その歌詞の二番には

表の行列 何じゃいな 紀州の殿様お国入り、 金紋 先箱 供揃い ( きんもん さきばこ ともぞろい )、 お駕籠 ( かご ) のそばには ヒゲ やっこ、毛槍を振りふり ヤッコラサ の ヤッコラサ

とありました。子供の頃は 金紋 ・ 先箱 ( さきばこ ) ・ ヒゲ やっこ ・ 毛槍の意味も ・ なぜ振るのかも、 知らずに歌っていました。

童謡を聴きたい方は ここをクリック


[ 1 : 参勤交代の起源 ]

参勤はもともと 「 参観 」 ( さんかん ) と書きましたが、「 観 」 の本来の意味は 「 ま ( 目 ) 見える 」 = 会うの謙譲語 ( けんじょうご ) 、 すなわち拝謁 ( はいえつ ) の意味であり、中国では諸侯が天子に拝謁することでした。

日本においては、源 頼朝が鎌倉に武家政権を樹立し鎌倉幕府 ( 1192~1333 年 ) を開いて征夷大将軍になると、幕府の御家人 ( ごけにん、将軍直属の家臣 ) に対して、 幕府の政所 ( まんどころ、政務 ・ 財政を司る役所 ) や侍所 ( さぶらい / さむらいどころ ) などの警備、諸門の警固を交代でおこなう 鎌倉大番役 ( おおばんやく ) を命じました。

これは鎌倉幕府に所領を安堵 ( あんど、承認 ) してもらう 恩恵 と、それに対する 奉仕 をするという 封建的主従関係 において、当然の職務とされました。

源 頼朝以来の慣習法や先例などを基にして 1232 年に鎌倉幕府の武家法である 御成敗式目 ( ごせいばい しきもく ) が成文化されると、その第 3 条において守護が果たすべき義務を定めました。

その中で各国の御家人に対し、京都御所などの警護を 「 地方の武士に命じる 」 と共に、それを指揮 ・ 監督する職務を命じました。

古くは平安時代から京都の御所 ( 皇居 ) や院 [ 上皇 ・ 法皇 ( 出家した上皇 ) ・ 女院の御所 ] などの警備に当たる職務を京都大番役 ( おおばんやく ) といいましたが、その職務は地方の武士が 三年間 の派遣勤務により務めました。

そのために上京勤務する地方の武士にとっては負担が大きく、源 頼朝が政権をとると 六ヶ月勤務 に短縮され、公家に対して武家の優位が確定する鎌倉時代中期になると、 三ヶ月勤務 と大幅に短縮されました。


( 1-1、室町幕府の守護大名統制策 )

ところで 1333 年に第 96 代、後醍醐天皇 ( ごだいご、在位 1318 ~ 1339 年 ) が鎌倉幕府を滅ぼして 「 建武の中興 」 ( けんむの ちゅうこう ) と呼ばれる復古的政権を樹立しました。

その際に、一説によれば 下野国 ( しもつけのくに、現 ・ 栃木県 ) にある足利荘 ( あしかがのしょう ) 出身の豪族だった 足利 高氏 ( あしかが たかうじ ) が大きく貢献しました。

そこで後醍醐天皇は自らの諱 ( いみな、本名 ) 尊治 ( たかはる ) の 一字 「 尊 」 ( たか ) を彼に賜ったので、足利 高氏はそれ以後 「 尊氏 」 ( たかうじ ) と改名しました。しかし後に天皇から離反し、京都に足利幕府 ( 別名、室町幕府 1336~1573 年 ) を創設し初代将軍になりました。

室町幕府

足利幕府が室町幕府とも呼ばれた理由は、京都の室町 ( 現 ・ 京都市 上京区の今出川通と室町通の交差点付近 ) に将軍の邸宅 ( 左 絵図 ) を造営したためで、庭には各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したことから、「 花の御所 」 ・ 「 室町殿 ( どの ) 」 とも呼ばれました。

室町幕府は 将軍の直接支配下にある守護大名 ( 封建領主化した地頭 ) に対して 京都に屋敷を構えて居住する ことを要求し、将軍の許可を得ずに勝手に領国へ帰る行為を 謀反 ( むほん ) とみなすなどして、領国への帰国や 領地における居住を容易に許しませんでした。


( 1-2、下 克 上 と、本城勤務の法 )

下克上 ( げこくじょう ) とは下位の者が上位の者をしのぎ倒すことで、特に室町時代中期から戦国時代にかけて、伝統的権威 ・ 価値体系を否定し、下位の者が軍事力によって権力を奪い取り、既存の身分的秩序 ( 上下関係 ) を破壊する社会の風潮が盛んになりました。

これを身分の下のものが上に 克 ( か ) つ ことから、 下 克 上 ( げこくじょう ) と呼びましたが、これにより守護 ・ 地頭が武力を持つ武士 ・ 豪族などに土地を奪われ没落し、代わりに戦国大名の出現となりました。

各地の戦国大名はその家臣統制策の一つとして、「 本城勤務の法 」 ( ほんじょう きんむのほう ) を定めて本城の大名 ( 領主 ) に対する支城の城主や知行主らの主従関係の明確化、およびその 確認行為としての拝謁 ・ 勤役を前提とした、 本城伺候 ( ほんじょう しこう、本城の大名に対するご機嫌伺い ) を求めるようになりました。

この伺候を契機として、 領内限りの言わば参勤交代を常習化し 、それによって下克上を未然に防ぎ、当事者間の主従関係を明確 ・ 強固なものにして支配を強化しました。


[ 2 : 織田 ・ 豊臣政権下での大名統制策 ]

織田信長は服従した大名を 岐阜城 ・ 安土 ( あづち ) 城に 伺候 ( しこう ) させ、権力者とそれに服従する者の立場を明確にしました。信長の次に天下を取った豊臣秀吉も服従する者には所領を安堵 ( あんど、承認 ) し、従わない者を武力で滅ぼしましたが最初は対立した徳川家康も、後には秀吉に服従する道を選びました。

伏見城

秀吉は1592 年に現 ・ 京都市 伏見区 桃山町付近に伏見城を築き、城の周辺に諸大名の邸宅を造らせ 京都と領国とを往復させる 一方、諸大名が上洛の際には、在京中の費用を賄うために 在京賄料 ( まかないりょう ) を支給しました。

これは豊臣政権による諸大名への上洛催促に対応していることから、諸大名統制の一環であると考えられ、在京の大名には上洛費や生活費の補填 ( ほてん ) として 、五千石 ~ 一万石の領地を支給しました。

秀吉は大名の妻子の京都居住、ならびに家臣とその妻子の城下集中を全国規模で強制して、参勤交代の一つの雛形 ( ひながた ) である 服属儀礼を完成させました


[ 3 : 徳川政権下における大名統制 ]

徳川家康は関ヶ原の戦いの後に、外様大名の江戸参勤や江戸居住を奨励しましたが、慶長 7 年 (1602 年 ) に 前田利長 がそれまで人質として徳川家康に差し出し、江戸に居住していた母の芳春院を尋ねて、江戸を訪れたのが 江戸参勤の最初 といわれています。

徳川幕府がとった大名統制策は参勤交代に加えて、 改易 ( かいえき ) と転封 ( てんぽう ) がありました。改易とは大名の所領 ・ 屋敷を没収することでしたが、蟄居 ( ちっきょ ) より重く切腹より軽い処分でした。

改易 ( かいえき ) については関ヶ原の戦いに徳川方が勝利すると、翌年の 1601 年 から幕府は 大名 廃絶政策 をとりました。それにより、

  1.  徳川家康の時代には 41 家

  2.  二代将軍秀忠の時代に 38 家

  3.  三代将軍家光の時代に 47 家

の大名が改易されましたが、それらの多くは 例えば安芸 広島藩 50 万石の 福島正則 、肥後 熊本藩 52万石の 加藤清正の息子、 加藤忠広 などのように、かつては豊臣秀吉に長年仕えたことのある豊臣系の外様 ( とざま、徳川家と譜代の主従関係の無い ) 大名でした。

しかしそれだけでなく、時には徳川譜代 ( ふだい、代々徳川家に仕えていた ) の大名や、第三代将軍 家光の実弟である 駿河大納言 忠長 55 万石も、不行跡 (?) を理由に改易され 28 歳で切腹を命じられました。

彼は子供の頃から 「 どもり 」 であった兄の 徳川家光 より 「 才気煥発 眉目秀麗 」 ( さいき かんぱつ = 頭脳の働きが鋭く活発、びもく しゅうれい = 容貌が端正 ) だったため、兄にとっては将軍の地位を危うくする 「 危険人物視 」 され、そのために暗君 ( あんくん、愚かな君主 ) の風評 ( うわさ ) を立てられ、排除されたとする説もありました。

その事件より 38 年前のこと、人生僅か 50 年といわれた当時、 57 歳だった豊臣秀吉の愛妾 淀君 ( よどぎみ、24 歳 ) に 秀頼 が誕生したことから、それまで秀吉が姉の子を養子にしていた 関白 ( 豊臣 ) 秀次 が邪魔になり 2 年後に高野山に追放し、 謀反の罪を着せて 28 歳で切腹させた件を思い出しました。

転封 ( てんぽう ) とは大名の領地を他に替えることで、国替え ・ 移封 ( いほう ) とも呼ばれました。江戸中期の儒学者 ( じゅがくしゃ ) 荻生徂徠 ( おぎゅう そらい ) によれば、大名は文字通り 「 鉢植え 」 のように 簡単に転封させられました。


( 3-1、三方領地替え )

その良い例が天保 11 年 ( 1840 年 ) に起きた 「 天保義民事件 」 でした。それは幕府が「 荘内藩 」 を長岡に、「 長岡藩 」 を川越に、「 川越藩 」 を荘内に移すという、 三方領地替え を突如命じたことに端を発し、庄内藩の領民が庄内藩主 酒井忠器 ( さかい ただかた ) の転封に反対運動を展開した事件でした。

そもそもの発端は、7 万石の川越藩主 松平斉典 ( なりつね ) が財政難に陥り、 裕福な藩の領地へ転封を計画しました 。そこで後述する精力絶倫の第 11 代将軍 家斉 ( いえなり ) の 55 人の子供のうち、51 番目の子である徳川斉省 ( なりやす ) を養子に迎えたり、その斉省の生母で将軍 家斉の側室であった以登 ( いと ) の方や老中の水野 忠邦 ( ただくに ) に、せっせと金品を贈って根回しをしました。

一方藩の財政立て直しに成功し公称 14 万石のところ実質 20 万石の庄内藩は農民との仲も良好でした。ところが川越から庄内藩主になる予定の藩主は年貢や税の取り立てが苛斂誅求 ( かれん ちゅうきゅう、むごく、厳しく取り立てる ) との噂があり、そうなれば餓死者続出は必至と農民は判断し、江戸に行き駕籠訴 ( かごそ、幕府の高官などが駕籠で通行するのを待ち受け、訴状を差し出し訴え出ること ) を含む命がけの抵抗で、幕府に藩主を転封させないように訴えました。

結果としてはこの訴えが成功し、大御所政治をしていた将軍 家斉 ( いえなり ) の死去もあって、三方領地替えの件は取り消され、直訴をした領民に対する処罰もありませんでした。

徳川家康が実施した参勤交代制では、諸大名が 一定の時期を限って 江戸の徳川将軍に伺候 ( しこう 、ご機嫌伺い ) することを 「 参勤 」 といい、江戸から領国に戻るのを 「 交代 」 といいました。

前述したようにその根本的考えは、権力者である幕府の将軍に所領を安堵 ( あんど、承認 ) してもらった見返りに、臣下である大名に課せられた義務のひとつが参勤であり、それは臨戦的な行軍形式で始まった 軍役 ( ぐんやく )に 初期の形態がありました。


( 3-2、参勤交代制の目的 )

徳川幕府が完成させたこの制度の目的については、さまざまな説がありますが、

  1. 徳川家康 本人が、6 歳で尾張国 ( 愛知県 ) の守護代 ( しゅごだい、= 任命されても地方の任国に赴かずに京に留まる守護に代わり、任国の行政を担当した者 ) だった織田信秀 ( 織田信長の父 ) の人質となり 2 年間過ごしたが、その後は 19 歳まで 11 年間も 現・静岡県 ( 駿河国 ・ 遠江国 ) の守護大名であった今川義元の人質となった辛い体験があった。

    そのため大名の妻子を人質に取り、江戸に住まわせることが、 大名を幕府に服従させるのに最適な方法 であることを、体験的に知っていたとする説。

  2. 諸大名に対して毎年多数の家臣を率いて領国と江戸との間の旅をさせることにより、 藩の経済的出費を増大させ 、幕府に対する勢力対抗に必要な 軍資金の蓄積を阻止し、謀反 ( むほん ) を抑止 するためとする説。

  3. 諸大名の江戸在府中は、贅沢 ・ 安逸 ( あんいつ、何もせずのん気に過ごす ) な日々を送らせ、 怠惰な気風の醸成 ( じょうせい、作り出す ) により、幕府に対する反抗心を喪失させるためとする説。

  4. 参勤交代により大名の威厳を、沿道の庶民に知らしめるための制度であるとする説。

などでした。


[ 3-3、武家諸法度 ( 参勤交代の成文化 ) ]

武家諸法度 ( ぶけ しょはっと ) は慶長 20 年 ( 1615 年 ) 5 月に、 「 大坂( 阪 ) 夏の陣 」 で豊臣家が滅亡すると年号を慶長から元和に改め、7 月に 二代将軍 徳川秀忠が伏見城で諸大名に 13 ヶ条 から成る 「 元和令 」 を発布したのが最初でした。

その後 三代将軍家光が寛永 12 年 ( 1635 年 ) に、 19 ヶ条 から成る武家諸法度 「 寛永令 」 を布告しましたが、その中で大名を 「 国主 ・ 城主 ・ 1 万石以上 」 と規定すると共に、参勤交代を初めて成文化しました。それによれば、

第 2 条
大名 ・ 小名、在江戸交代、相定むる所なり。毎年夏四月中 参勤致すべし 。従者の員数近来甚だ多く、且つ国郡の費、且つ人民の労なり。向後、其の相応を以て之を減少すべし。但し、上洛の節は教令に任せ、公役は分限に従ふべき事。

[ その意味 ]

大名と小名については自分の領国と江戸との交代勤務を定める。毎年 4 月 ( 旧暦 ) に参勤する ( 江戸に到着する ) こと。供の数が最近非常に多く、領国や領民にとって負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛 ( じょうらく、京都へ赴く ) の際は規則の通りにし、役目は身分にふさわしい者がすること。

これによって西国大名が 三月の末から 四月にかけて江戸に参勤し、江戸にいた東国大名が暇 ( ひま ) を与えられて国元に帰り、次の年の 三月末から 四月にかけて東国大名が江戸に戻って来ると、西国大名に暇が与えられるという形式が成立しましたが、これが二百数十年に及ぶ徳川幕府の支配を支えた、参勤交代の制度化でした。


[ 4 : 大名行列の小道具 ]

大名が参勤交代で江戸と国元とを往復する際には幕府の定める規則に従い行列を組みましたが、規模は時代や家格 ・ 石高などにより異なったものの、当初は出陣の隊形をとりました。

しかし後には実用性が薄れて形式的になり、その様相も質実剛健から華美な様式へと変化し、藩の武威を示すために行列の人数を積極的に増やすと共に 次第に華美になり 、ヒゲ奴 ( 髭 やっこ ) を筆頭に 金紋 先箱 ・ 槍持ち などが 観衆の目を引くための演技 ( パーフォーマンス ) をするようになりました。

たとえば戦闘の際に使用する 「 有効な武器である槍 」 を 衆人の目を引くための道具に使用し、槍持ちの片腕は 「 張臂 」 ( はりひじ ) といって掌を腰につけ臂 ( ひじ ) を張り、片手で槍を立てて持ち、足は独特の踏み足で拍子をとって歩き、「 見せ場 」 では二人 一組で槍の投げ渡しをしました。

史実とは 非常にかけ離れていますが 、まずは大名行列の様子や ヒゲやっこ の パーフォーマンス ( 身振り 歩き方 ) を、下記の

箱根の大名行列

を クリックして御覧下さい。


( 4-1、金紋、きんもん )

三つ葉葵

金紋 とは行列の先頭付近に位置する挟み箱 [ はさみばこ、別名を 先箱 ( さきばこ とも言う ) ] の蓋に、家紋を左右に 二つ並べて文字通り金箔 ( きんぱく ) を貼って、あるいは金漆 ( きん しつ 、きん色のうるし ) で描いた家紋のことです。

上図は将軍家の家紋、「 三つ葉 葵 ( あおい )」ですが、これを描いた先箱を見れば、将軍家の行列であることがすぐに分かる広告塔の役目をしました。

江戸時代には全国に約 260 程度あった大名家のうち、御三家 ( 尾張 ・ 紀伊 ・ 水戸の徳川家 ) 、御三卿 ( ごさんきょう、徳川家の親族である田安 ・ 一橋 ・ 清水家 ) を含む僅か 20 家の大 ・ 大名 ( たとえば加賀 ・ 能登 ・ 越中国を合わせ持つ 103 万石の前田家、 薩摩 ・ 大隅の二国を領有する 77 万石の島津家、 陸奥 63 万石の伊達家、 肥後 54 万石の細川家 、 福岡 47 万 石の黒田家など ) のみに 金紋の使用 が許されました。それ以外の大名は、金色以外の色で家紋を表示しました。


[ 4-2、先箱 ( さきばこ ) ]

先箱

先箱 とは行列の殿様より先を行く挟み箱 ( はさみばこ ) のことですが、その中には 「 殿様の着替えの衣類 」 などが入っていました。長い行列の先頭を行くことで主人 ( 大名家 ) の 格式を誇示する道具 でもありました。

一般大名の先箱

金紋が許されない家格の大名は、それぞれの家紋を金色以外の好みの色で先箱に描くことにより、家紋を誇示しました。大名家の識別にはそれ以外にも、遠くから見える別の道具がありましたが、それは毛槍でした。


[ 4-3、毛槍 ( けやり、別名 見通し ) ]

大名行列にとって毛槍は最も重要な道具の一つでした。毛槍とは長柄の槍の 「 さやの部分 」 に鳥の羽や動物の毛などを付けて装飾とした儀仗用の槍のことですが、大名行列の先頭などで振り回し、二人一組の槍持ち 「 ヒゲやっこ 」 が互いに毛槍を投げ渡す動作をして観衆の目を引きました。

槍の先端部分の装飾には、白熊 ・ 黒熊 ・ 白鳥 ・ 猿毛 ・ 小鳥毛 ・ 黄なめし ・ などがあり、幕府から各大名家ごとに許可された特徴的な装飾形式があったので、毛槍は遠方から大名家の識別に役立ち「 見通し 」 とも呼ばれ、ました。

見通し

絵図は歌川広重が描いた 「 日本橋 朝之景 」 ですが、早朝江戸を立って西へ向かう大名行列の先頭には ヒゲ 奴 二人が先箱を担ぎ、後には毛槍が見え、後方には何やら白いのが見えますが馬印 ( うまじるし ) です。

日本橋のたもとの右側には犬が二匹いて、左側には魚河岸で仕入れた魚を売りに行く 4 ~ 5 人の行商人が見えますが、大名行列を避けるだけで、土下座をする気配もありません。その理由は、 ( 7-1、下にー、下にー の制止声 ) で後述します。

毛槍に使われた材料としては中国や チベット高原に住む ヤクの尻尾の毛が、白くて艶があることから槍の飾りとしてよく使われてきました。なお毛槍の本数は小名 クラスの 1 本から、御三家 クラスの 3 本まで大名家の格式により異なりました。

鳥毛

毛槍の他に棒の先端に鳥毛を付けたものもありましたが、これは 「 鳥毛 」 ( とりげ ) と呼ばれた行列の装飾道具で、 使用本数に制限の無いことから、10 本以上も立てて行列した大名もありました。


下記の動画は福岡県 唐津市 相知町 ( おうち ちょう ) に伝わる

羽熊行列の様子です

江戸時代末期の安政年間 (1854~1859年) から、毛槍や先箱 ( 挟み箱 )を持ち、大名行列を模して唐津神社の神輿 ( しんよ、みこし ) を供奉 ( ぐぶ ) する行列が、唐津くんち( 現在、国指定重要無形民俗文化財 )の祭りの中で行われるようになりました。

羽熊(はぐま)

明治 6 年 ( 1873 年 ) に唐津神社から、当時の相知 ( おうち ) 村の村社であった熊野神社に毛槍や先箱が譲られたことにより、相知 ( おうち ) において大名行列が行われるようになり、現在に至っています。

「 羽熊 」 ( はぐま ) とは別名を白熊 ( はぐま ) とも書き、このため、いつしか大名行列の毛槍のことも 「 羽熊 」 と呼ばれるようになり、ヒゲやっこが毛槍を互いに投げ渡しながら行進するという、往時の行列の様式が踏襲 ( とうしゅう、それまでのやり方を受け継ぐ )されています。


( 4-4、馬印 )

馬印

馬印

馬印とは戦場で武将が敵味方の識別や、自らの存在を誇示するために用いた目印のことで、豊臣秀吉の 金の軍配に朱の吹き流し がついた大馬印 や 逆さ瓢箪 ( ひょうたん ) の小馬印、徳川家康の 七本骨の金の開扇 ( かいせん )などが有名です。


[ 5 : 江戸の ガイドブック、 武鑑 ]

徳川幕府の下で参勤交代が制度化されると、江戸には多数の大名やその妻子 ・ 江戸詰めの家臣が集まり居住するようになりましたが、武家と日用品の取引 ( 当時は代金支払いは掛売り、ツケでの取引が一般的 )を行う商人達にはそれらの家を識別する必要がありました。

大名武鑑

そのための手引き書 ・ 案内書として小型本 サイズの大名武鑑 ・ 旗本武鑑が毎年発行され、その役目を果たすようになりました。図の場合上の段が大名家の家紋で、先箱に描く文様、次の段には諸大名の氏名 ・ 本国 ・ 居城 ・ 石高 ・ 参勤交代の期日、下の段が毛槍や棒 ( 鳥毛 ) の先端装飾で、慣れた人であれば遠方から行列の毛槍を見て、大名家の識別が可能であったといわれています。

遠い地方から江戸を訪れる参勤の武士を含む人々にとって、武鑑は 一種の 「 江戸 ガイドブック 」 の役割を果たしました。


( 5-1、行列を組むのは限られた場所のみ )

大名行列の先頭を行く先箱 ( さきばこ ) を担ぐ 「 ヒゲやっこ 」 の身振りや、長柄の毛槍の投げ渡しを見る限り、これで参勤交代の長丁場を行列を組んで歩けるのか心配になりますが、実際に行列を整然と組んで歩くのは、自分の城や宿泊先の本陣から出発する時 ・ 宿場を通過時 ・ 本陣到着時 ・ 江戸市街に入る時などの 限られた場所から出発 ・ 到着 ・ 通過する場合 だけでした。

それ以外の場所では荷物を持って( 担いで )体裁が悪くならない程度に旅支度に替え、1 日当たり 10 里 ( 40 Km ) 前後の速度で、行列の間合いをとって気ままに歩きました。

後述しますが江戸から最も遠い距離にある薩摩藩 ( 77 万石 ) 島津家の場合は、江戸までの距離は 1,700 キロメートルありますが、全行程を歩いたのではなく、瀬戸内海を船で旅をしました。


( 5-2、主要大名に関する参勤交代の資料 )

前述したように参勤交代の大きな目的の一つは、諸大名に毎年経済的負担を掛けさせることにより軍資金の蓄積を防ぎ、幕府に対する 謀反( むほん ) を未然に防止する ことにありました。

外様大名のうち最大の禄高 ( 103 万石 ) を有する加賀の前田家が文化 5 年 ( 1808 年 ) に江戸から帰国した際の支出帳によれば、旅費として支払った銀の支出総額は 332 貫 466 匁 ( もんめ ) であり、小判 ( 金貨 ) に換算すると 5,541 両 となりました。

これを現代の貨幣価値に換算した場合、尺度の取り方により大きな差が生じます。

  1. 精米を基準にした場合------4億2千664万円

  2. 利息を基準にした場合------5億3千万円

  3. 手間賃 ・ 労賃を基準にした場合--6億9千万円

いずれにしても毎年の参勤交代にはこの金額が必要でした。大藩である加賀藩の供人数は通常 1,500人~2,500 人 、最大で 4,000 人 でしたが、多くの大名家では通常 150人 ~ 300 人前後 の規模でした。

下表を見れば島津家の薩摩藩が毎年の参勤交代に伴う出費で、経済的に苦労したのが理解できます。


藩 名石 高
( 単位:万石 )
道 程
(単位:Km)
日 数行列規模
( 単位:人 )
経 費
( 単位:両 )
伊達家
仙台藩
6 33 6 88~92 千~3 千3 千~5 千
前田家
加賀藩
1 0 34 8 01 32 千~4 千5,333
池田家
鳥取藩
3 37 2 02 27 0 05, 5 0 0
伊達家
宇和島藩
1 01, 0 2 03 03 0 0~5 0 09 8 6
島津家
薩摩藩
7 71, 7 0 04 0~6 01, 8 601 万 7 千


[ 6 : 行列は大名の格式を示す ]

大名行列の構成については、それを描いた浮世絵が多数存在していますし、江戸で生まれ育った大名の世嗣 ( せいし、あと継ぎ息子 ) が家督を相続して、初めて帰国する、いわゆる 初のお国入り を記念して大名行列を絵師に描かせました。

これらの絵巻の多くは、一切の背景描写なしに行列 一行の姿を静止した状態で描いていたので、動的な イメージを欠いていましたが、行列の規模や持ち運ぶ道具 ・ 武器類について基本的要素を示すものでした。

お国入り

図は江戸末期の天保 14 年 ( 1843 年 ) に、いわゆる徳川御三家 ( ごさんけ、尾張 ・ 紀伊 ・ 水戸 ) の一つである尾張の殿様が名古屋に帰国する際の大名行列の図で、( 荷物 ) 持ち組同心を先頭に、鉄砲 ・ 弓矢持つ足軽の列 ・ 長柄 ( 槍 )は高く掲げられ ・ 長持ち ・ 具足 ( ぐそく、よろいの簡略なもの ) ・ 挟箱 ( はさみばこ、先箱とも言う ) などが続いて行きました。

殿様の乗り物は大勢の家臣に堅く守られて後方にあり、行列の中には鷹匠 ( たかじょう、大名が鷹狩りに使う鷹の飼育係 ) ・ 餌差し ( えさし、鷹のえさとなる小鳥を、もち竿で捕らえるのを業とする者 ) もいたのだそうです。


( 6-1、大名行列の基本的編成 )

10 万石格式の場合

先駆( せんく )を先頭に、お先触( おさきぶれ、拍子木 )、お長柄、具足、持筒、槍持 ・ 片箱各、先騎、赤鉄砲、黒鉄砲、御弓、具足、持筒、槍持 ・ 片箱、先騎、大奴、挟箱、立傘 ・ 台傘、大鳥毛、赭熊( しゃぐま ) ・ 白熊、徒士、具足、台弓、打物、お鷹、餌差、持筒、笠、草履、床几、唄方、徒士、殿様、台傘、槍持、挟箱、葛籠馬

と続きます。

長崎にある オランダ商館に勤務した ドイツ人医師 ・ 博物学者の ケンペル ( Kaempfer、1651~1716 年 ) は 1690 年に来日し 2 年間滞在しましたが、二度江戸を訪れたことから数多くの大名行列を目にする機会を得た外国人の 一人であり、「 日本誌 」 に詳細な記録を残していました。

それによると 一般的な大名の行列と、いわゆる有力大名である薩摩藩 ( 77 万石 ) ・ 加賀藩 ( 103 万石 ) ・ 尾張藩 ( 62 万石 ) などの行列と比較した場合、基本において何ら変わるところは無く、違う点といえば 大名家の格式に応じた特別な槍飾り ・ 紋所 ・ 挟箱 ( はさみばこ ) 持ち ・ 手輿 ( てこし ) の担ぎ手 ・ 隊列の順番や行列の 人数の違い のみでした。

ケンペルの 「 江戸参府旅行日記 」 によれば、「 ヒゲやっこ 」 の パーフォーマンス( 身振り 歩き方 ) について以下のように記していました。

もっともおかしいのは近侍や飾りの付いた槍 ・ 日傘 雨傘 ・ 箱などの担い手が、人々のたくさん住んでいる街筋を通ったり、他の行列のそばを進んだりする時に、 馬鹿げた歩き方をすることである

この歩き方というのは、一歩踏み出す毎に足がほとんど尻にとどくまで上げ、そして同時に一方の腕をずっと前の方へ突きだすので、まるで空中を泳いでいるように見えることである。

こういう歩き方の時に彼らは飾り槍や笠や日傘を 2~3 回あちこちに動かし、挟み箱も肩の上でおどっている。乗り物をかつぐ人は袖口に ヒモ を通して結び、両腕をむき出しにしていた。

手輿

彼らはある時は乗り物を肩で担ぎ、ある時は頭の上の方に高く上げた 一方の手にのせ、もう一方の腕は手のひらを水平にして伸ばし、そのうえ狭い歩幅で歩いたり、膝をこわばらせたりしてこっけいな恐ろしさを装ったり用心深い振りをしたりする。( 以下省略 )つまり写真のように、手で高く担ぐ仕草をしたと思われる。


( 6-2、大名家の分類 )

大名家の分類にはいろいろ方法がありますが、領国の大きさによるのが一般的です。

  1. 国主 とは、1 国かそれ以上に相当する広大な領地を持つ大名のことで、別名を「 国持ち大名 」 とも称し、高い官位と格式が与えられた。

    例えば前述した加賀、能登、越中西部を支配した前田家 ・ 薩摩 鹿児島の島津家 ・ 陸奥 仙台の 伊達家 ・ 長門 萩の 毛利家 ・ 出羽米沢の上杉家 ・ 肥後 熊本の 細川家 ・ 筑前 福岡の 黒田家 ・ 安芸広島の 浅野家 ・ 肥前佐賀の鍋島家 ・ 因幡鳥取の池田家 ・ 備前岡山の 池田家 ・ 伊勢津の 藤堂家 ・ 阿波徳島の 蜂須賀家 ・ 土佐高知の 山内家 ・ 筑後久留米の 有馬家 ・ 出羽秋田の 佐竹家の外様大名 16 家、および越前福井の 松平家 ・ 出雲松江の 松平家の譜代大名 2 家を併せた 18 家があった。

  2. 国主に準ずる格式を与えられた大名

    準 国主 ( 準 国持ち大名 ) とは、位階が従四位下( げ ) に進むと国主の仲間入りをする大名で、筑後 11 万石を支配した 立花家、陸奥 二本松 10 万石を支配した 丹羽家、伊予宇和島 10 万石を支配した伊達家の 三家。

  3. 城主 とは、城郭に住む大名で、ほぼ 3 万石以上の領地高を有する者。近江彦根の 伊井家 ・ 播磨姫路の 酒井家 ・ 越中富山の 前田家 ・ 加賀大聖寺の 前田家など。

  4. 準城主 とは、城は持たないが、城主と同じ待遇を受ける大名。伊予宇和島の 伊達家 ・ 筑後柳川の 立花家 ・ 陸奥二本松 丹羽家の 3 家。

  5. 陣屋 とは、城を持たない上野七日市の 前田家など陣屋を持つ小大名のこと。

参勤交代などの公用で行なう大名行列は石高によって人数が定められており、時代によって多少異なるものの、享保 6 年 ( 1721 年 ) の規定によれば、

10 万石の大名では、騎馬の武士 10 騎 ・ 足軽 80 人 ・ 中間 ( ちゅうげん、人足 ) 140 人 ~ 150 人

とされましたが、詳細は後述します。


[ 7 : 大名行列 ( 行進 ) は軍事行動 ]

ここで注意すべきことは参勤交代が一種の軍事奉仕 ( 軍役 ) であり、大名はある規模の軍勢を引き連れて自国領から将軍が住む江戸へ移動することでした。その 行進 ( 行軍 ) の速さは 1 日当たり 35~ 40 キロメートル  といわれていました。

20 年近く前に不肖私が四国霊場 八十八 ヶ所を  歩いて巡る 1,200 キロの旅  をした際には、5~8 キログラムの荷物を背負い、各札所では本堂と大師堂の二ヶ所での読経 ・ 参拝の時間を含めて、1 日当たり 30 キロメートル 程度の距離を毎日歩きました。

遍路の旅は「 早立ち早着き 」 が原則で、札所が開くのは朝 7 時から夕方は 5 時まででした。

大名行列もこれと同様に 「 暮れ 六つ ( 午後 6 時 ) 泊まり、七つ ( 午前 4 時 ) 立ち 」 という言葉があるように、日の明るいうちになるべく歩く距離を稼ぎ、宿泊日数を減らす ( 従って旅費を節減する ) 思惑 ( おもわく、意図 ) がありました。


( 7-1、下に-、下にー の制止声 )

大名行列が進む場合、映画やテレビなどでは 「 下に-、下にー 」 という 「 先払い 」 の声 ・ 警蹕 ( けいひつ、貴人の通行に際して、先を払うために声を掛ける ) に合わせて庶民が道端で土下座するような場面を見掛けますが、大名行列すべてが 「 下に-、下にー 」 を庶民に命じたわけではありませんでした。

幕末に諸大名の格式などを歌に詠み込んだ 「 諸大名 似歌尽 ( にうた づくし ) 」 によれば、

御三家 ( ごさんけ ) と 御三卿 ( ごさんきょう ) の御通りは、下にー、下にー と言うと知るべし

とありましたが、将軍のお成り( 外出 ) を除き、徳川家と関係の深い御三家 ( 尾張 ・ 紀伊 ・ 水戸家 ) ・ 御三卿 ( 田安 ・ 清水 ・ 一橋家 ) の行列だけが、 江戸市中で 「 下にー、下にー 」 の制止声の使用を許されました。

幕末に江戸の木綿問屋の家に生まれ、明治 ・ 大正時代の実業家であった鹿島萬兵衛( かしま まんべえ、1849~1928年 ) が、幕末から明治初頭にかけての町人の日常生活を綴った随筆集に 「 江戸の夕栄 」 ( ゆうばえ ) があります。

その記述によれば、

御府内 諸侯方の行列は、御三家 、御三卿 のほか、路傍の者に下に居れと下座させぬなり。それゆえ

百万石も痃癖 ( けんぺき、あんま ) も 、すれ違いたる江戸の春

と何やらの本に記されしごとく、加賀様でも按摩 ( あんま ) でも同格なり。その癖、加賀候の奥方は下に居れ ( という ) なり。これは将軍様の御娘、 御守殿 ( ごしゅでん ) なればなり。

[ その意味 ]

江戸市中における大名行列は、御三家 ・ 御三卿の行列を除き、先払いの者が通行人や道端の者に 「 下にー、下にー」 と制止声を掛けることができず、 したがって 土下座する必要もない

それゆえ何かの本に記されていたように、参勤の季節である春には加賀百万石の大名も、痃癖 ( けんぺき、あんま ) と 同格なので 、道ですれ違う状態である。

注:)
日本橋と大名行列

右は歌川広重の描く日本橋の絵 ( 複数種類ある ) の中の 1 枚で、橋を渡る大名行列は 「 先箱 」 や 「 毛槍 」、「 赤い馬印 」 を立てて行進するのに対して、左側からは仕入れた魚を入れた ザルを天秤棒で担ぎながら、二人の行商人が渡っている。

百聞は一見に如( し ) かず 、行商人は大名行列に対して 土下座などせずに  すれ違う直前の様子である。背景は江戸城。

しかし加賀藩の 13 代藩主、前田斉泰 ( なりやす ) の奥方の 溶姫 ( やすひめ、1813~1868 年 ) は、前述した精力絶倫の第 11 代将軍、徳川家斉 ( いえなり ) が 40 人の側室に生ませた男女合計 55 人の子供のうち、第 21 番目の娘でした。

加賀藩本郷上屋敷

将軍の娘で 三位以上の大名に嫁した者は 御守殿 ( ごしゅでん ) の敬称で呼ばれたが、その行列には 「 下にー 下にー」 と 制止声を掛ける特権 があり、町人は下座 ( げざ、貴人に対する敬礼でひれ伏す )するきまりでした。

上図は歌川広重 ( 初代 ) が描いた本郷通りにある加賀藩の上屋敷で、朱色に塗った御守殿門 ( 赤門 ) が見えます。

それ以外の大名が通行の場合には、先払いの者が民衆に ( 道の片側に ) 、「 寄れ -、寄れー 」 、あるいは ( 道を ) 「 明けろー、明けろー 」 と声を掛けるだけで、民衆は土下座などしませんでした。

ちなみに将軍の姫君が諸大名へ嫁ぐ際には、少なくともお付きとして男女 50 人ほどが一緒に婚家に住み込みましたが、男は用人、女は乳母や女中の名目でした。

溶姫 ( やすひめ ) より以前に家斉の 第 8 番目の娘だった峰姫 が水戸藩に輿入れした際には、化粧料 1 万両が持参されたほか、文政 2 年 ( 1819 年 ) には幕府からの 9 万 2 千両に及ぶ拝借金 ( 借金 ) の棒引きが認められ、さらに文政 8 年 ( 1825 年 ) から毎年 1 万両の助成金が下賜されました。

しかし峰姫が 江戸城大奥そのままの生活 を維持するため多数の奥女中を扶養したり、 食膳には毎日 鯛 ( たい ) を供さなければなりませんでした。( 山川菊栄著 「 覚書幕末の水戸藩 」 から )

赤門

将軍家から嫁入りした場合には、江戸上屋敷の門を朱色に塗り、将軍家の娘であることをいつまでも誇示しましたが、その名残が現 ・ 東大 本郷 キャンパスの本郷通りに面する、 旧 加賀藩 上屋敷の 御守殿門 ( ごしゅでんもん、1827 年建築 )、通称 赤門 でした。


H 26、sep. 20


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