喜望峰から、ホーン 岬まで ( 続き )

( 4-2、 ガ マ 二度目の インド 派遣 )
ところで カブラル ( Cabral ) が帰国 した翌年の 1502 年 1 月に、 バスコ ・ ダ ・ ガ マ は マヌエル 王の代理である 「 副王 」 と して、 インド へ 二度目の派遣を命じられることになりま した。

20 隻からなる船団 ( うち 5 隻は現地常駐 予定 ) を率いて 1502 年 2 月 10 日に首都 リスボン ( Lisbon ) を出発 し、5 月 22 日ごろ喜望峰を通過 し、 インド 大陸の西岸では敵対する カリカット 王国を 11 月初めに砲撃 し、友好的な コ チ ン および カナノール 国で交易品を積込み 1503 年 3 月 22 日に帰途につきま したが、帰国する船団に積載 した香辛料 ( 交易品 ) は下記の通りで した。
- 胡椒 ( コショウ ) 871.7 トン
- 肉柱 ( シナモン ) 90.8 トン
- 蘇木 ( そぼく、生薬 ) 36.3 トン
- 丁字 ( クローブ ) 18.2 トン
- 生姜 ( しょうが ) 10.9 トン
- 肉づく( ナツメグ ) 5.5 トン
ところで ガ マ の 二回目の航海からは毎年船団を アラビア 海 に派遣する政策を変更 し、
武装船団の 一部 ( 5 隻の戦隊 ) を アラビア 海に 常駐させて 軍事力を背景に イスラム 商人の交易活動を妨害 し、コチン と カナノール に設けられた ポルトガル の商館を保護する政策に変更 しま した。
そ して敵対 した カリカット王国 に対 しては、徹底的に砲撃 し町を破壊 しま した。これが ヨーロッパ 諸国による、
アジア に対する植民地支配の出発点となりま した。
ペリーは なぜ日本に来たのか をお読み下さい。
帰国 した ガ マ は国王から 40 万 レアル の年金が与えられ、1519 年には伯爵 ( はく しゃく ) の称号を授けられま した。
( 4-3、 ガ マ 三度目の インド 派遣と その 死 )
62 歳の彼は 1522 年に ジョアン 3 世から 三度目の インド 派遣を命 じられ 14 隻の船団で出発 しま したが、10 隻は インド からの交易品積載用の大型船で 4 隻は軽快な小型船で した。
派遣の目的は インド 植民地における
腐敗堕落 した ポルトガル 人総督以下の 役人 ・ 軍人 ・ インド 常駐艦船 乗組員の
綱紀粛正 ( こうきしゅくせい、権力を持つ者の態度を正すこと ) と、
王室の歳入を増加させる ことで した。 しか し任務半ばの 1524 年 12 月 25 日に 大航海時代における ポルトガル を代表する 探検家 ・ 航海者 の バスコ ・ ダ ・ ガ マ は、 インド の コチン において病気により 64 歳で その生涯を閉 じま した。
[ 5 : マゼラン海峡 ]
ここでまた 質問です、
「 南米大陸の 最南端 は ホーン 岬 ( Cape Hor n ) である 」 と思っていませんか?。

も しそうであればこれは 間違 いであり、右図にあるように南米大陸の 最南端 は
マゼラン 海峡 に面 した
フ ロ ワード 岬 ( Cape Froward、南緯 53 度 53 分 57 秒 ) が 正解です。

ホーン 岬は フエゴ 島 ( 火の大地、Ti era del Fuego ) の南にある オルノ ス ( Hor nos )島 にありますが、 フエゴ 島では気温が低過ぎて農業や牧畜が出来ず、魚以外の食料は全て暖かい 北から輸送 しなければな りません。写真は ホーン 岬 灯台付近の 様子。

ホーン 岬の灯台 ( 右の拡大写真 ) は 南緯 55 度 58 分 38.3 秒、西経 67 度 15 分 45.5 秒にありますが、住人は チ リ 海軍の灯台管理員の 4 人 のみです。

左図にあるように 「 ホーン岬 」 の北西 56 キロメートルの場所に、
「 偽の ホーン 岬 」 ( False Cape Hor n ) があります。
帆船時代に西側からこの場所に近づく際 には、 ホーン 岬と同 じような位置関係でこの岬を見ることになります。そ して ホーン 岬を通過 したと思い込み 東へ向かうと ウォ ラ ス ト ン 諸島 ( Wollaston Islands ) が出現 し、この間違いが原因で難破 した船が過去に何隻もありま した。
( 5-1、 船乗りの墓場 )
ホーン 岬 付近の海域は、年中吹き荒れる 西寄 りの強風 ・ 大きな波 ・ 西から東に流れる強い南極環流の ホーン 岬 海流 ・ 南極から流れ出る 氷山のために、帆船時代には悪名高い
「 船乗りの墓場 」 と言われてきま した。
学生時代に習った言葉に、
「 The roaring forties, the furious fifties, and the screaming sixties 」、 吠える
( 南緯 ) 4 0 度 、荒れ狂う
5 0 度 、絶叫する
6 0 度 という表現がありま した。
南極観測船について
ホーン 岬は前述したように
南緯 5 5 度 5 8 分 3 8.3 秒ですので、帆船時代に ホーン 岬を通過する際には、荒れ狂う嵐の危険に船乗りたちは必死に立ち向かう必要がありま した。
昔読んだ本によれば、帆船時代に前述 した アフリカの 「 喜望峰 ( 嵐の岬 )」 か、南米の 「 ホーン 岬 」 を通過 した経験を持つ水夫は、港の酒場の
テーブル に片足を乗せて ( つまり大きな顔を して ) 酒を飲んでも良く、両方の岬を通過 した経験を持つ水夫は、
両足を乗せても良い と言われていま した。

写真は アメ リカ の大統領執務室ですが、
デスク に両足を乗せるのは オバマ 大統領です。ケニア 出身の黒人の父と
キャンザス ( Kansas、カンサス ) 州出身の白人の母との間で 「 できちゃった 婚 」 と して ハワイ で生まれま したが、三歳の時に両親が離婚 したので、幼少の頃の 「 躾 ( しつ ) け教育 」 が不足 していたのかも知れません。
あるいは大統領の地位は、
両方の岬 通過者 以上の特権があるとでも思っているのかも知れませんが、日本人の常識からすれば、 も し総理大臣が部下に対 して同じ態度をとったと したら、 その
不作法な 態度 を国民から非難されるに違 いありません。
キャンザス について
ところで第 五 管区海上保安本部 ( 神戸 ) の発表によれば、 2016 年 1 月 27 日、ヨット で無寄港の世界 一周を目指 していた大阪市 住之江区の浜口純一さん ( 67 歳 ) が、南米の チ リ 沖で遭難 し 民間の船舶に救助されたことを明らかに した。激 しい波で ヨット に浸水 したとみられるが、ケガ はなかったとのことで した。
浜口さんは日本時間の 1 月 26 日午後 6 時 35 分ごろ、南米最南端の ホーン 岬から約 550 キロ の沖合 を航行中に、日本在住の知人男性を通 じて 海の 110 番に当たる 118 番に連絡 した。そこで海上保安庁が チリ 側に救助を要請 し、1 月 27 日午後 2 時ごろ、付近を航行 していた民間の貨物船に救出された。
なお浜口さんは 2015 年 10 月 8 日に、大阪府 泉北郡 忠岡町の係留場所から出発 したもので、小型 ヨット( 全長約 11.5 メートル )に乗 り ニュージーランド まで南下 した後、ホーン 岬に向けて東向きに航行 していま した。浜口さんは近く チリ 海軍によって同国内に移送される見通 しとのことで した。
帆船にとって ホーン 岬 周辺は、現在も最大の難所 であることは変わっていません。
( 5-2、バッド ・ セイラー )
バッド ・ セイラー( bad sailor 、悪い水夫 ) という言葉があるのを御存 じですか?。
研究社の新和英大辞典によれば、「 船に弱い人 」 のことを
bad ( poor ) sailor というのだそうですが、荒れた海を経験 したことの無 い人は、
この動画を御覧下さい。
私は陸上の列車や 車 ・ バス で乗り物酔 い したことはありませんが、 海上保安大学の練習船で揺れに遭うと船酔 い しま した。私の
「 船酔 い、空酔い 」 については、下記をお読み下さい。
乗り物酔 い体験記 (1)
乗り物酔 い体験記 (2)
[ 初飛行で、初酔 い ]
[ 6 : マゼラン のこと ]

世界 一周の大航海に出ながら、途中の フィリピン で
戦死 した フェルディナンド ・ マゼラン ( Ferdinand Magellan 、1480 ~ 1521 年 ) は、
ポルトガル の下級貴族の 三男と して 北部の港町 ポルト ( Porto ) で生まれま した。
彼が 12 歳の時に イタリア 生まれの探検家で航海者の コロンブス が スペイン ( カスティーリャ 女王 ) の イザベル 1 世の支援を受けて 1492 年に大西洋を インド に向け航海 し、サン ・ サルバドル 島 ( 現 ・ バハマ 諸島の ワトリング 島 と推定される ) などの
いわゆる 「 インド の島々 (?)」 を発見 しま した。
その後 マゼラン は ホルトガル の王室に 小姓 ( こしょう ) と して出仕 することになり、王族や貴族に仕えると共に 礼儀作法 ・ 音楽 ・ 馬術 ・ 航海術などの勉強を しま した。国王 マヌエル 1 世は前述 した バスコ ・ ダ ・ ガ マ や カブラル が開拓 した アフリカ 東岸経由の インド 航路により、貴重品だった 胡椒 ( コショウ ) などを大量に入手できるようになりま した。
マヌエル 1 世は 1505 年に アルメイダ ( Almeida、1450 ~ 1510 年 ) を インド 総督に任命 して、数十隻からなる大船団に総勢 二千名が乗組んで インド へ大遠征をおこないま したが、それに 25 歳の マゼラン も参加 しま した。彼は 1507 年の インド 遠征にも参加 しま した。
当時、コロンブスが
「 西回り航路 」 を、ガ マ が ( 東回りで )
「 アフリカ 喜望峰 経由の インド 航路 」 を開拓するなど 新 しい航路の発見が相次ぎ、ヨーロッパ 中が新 しい航路の発見に熱心になっていま した。
マゼラン は ポルトガル の天文学者 ルイ ・ デ ・ ファ レイロ と友人になり、西回りで航海すれば コロンブス が発見 した
「 偽の インド 諸島 」 ( West Indies ) ではなく 本当の インド へ到達できるに違いないと思うようになりま した。
スペイン で貿易事業を営む ディエゴ ・ バルボサ ( Diego Barboza ) に誘われ、ポルトガル から
スペイン に移住 しま した が、 バルボサ の政治力で スペイン 国王 カルロス 1 世( 後の 神聖 ローマ 皇帝 、カール 5 世 ) に拝謁することができま した。そこで マゼラン は国王に、
西へ航海すれば インド へ到達が可能であり、アフ リカ を回るよりも 「 香料の産地 」 である モルッカ 諸島へは近いと思われる。
と進言 し、さらに世界を 一周することにより
「 地球の 球体説 」 を証明 したい 旨を述べま した。
カルロス 1 世の許可を得た マゼラン は早速航海の準備に入りましたが、食料は 二年分を用意 しま した。それらは、
- 主食である航海用 ビスケット ( 堅 パン ) を、 21 万 3 千 8 百 ポンド ( 約 100 トン )
- 塩漬牛肉、 7 万 2 千 ポンド ( 30 トン強 )
- 塩漬豚肉、 5 万 7 千 ポンド ( 約 25 トン )
- エジプト 豆、 1 万 80 ポンド ( 5 トン 弱 )
- 他に 塩漬魚、アンチョビー、干 し 豆、干 し ぶどう、干 し イチジク、米、蜂蜜、ナッツ など。
- ワイン は、乗組員 1 人当たり 一日に 1 パイント ( P i n t = 0.568 リットル ) の割り当てで、 二年分の用意を しま した。写真は パイント ・ グラス です。
それまでの香料貿易の 「 う ま 味 」 ( 莫大な利益 ) を、 スペイン に横取りされまいとする ポルトガル による脅迫や、船の破壊などの嫌がらせを受けたものの、1519 年 8 月 10 日に スペイン の アンダルシア 州の州都
セ ビ リャ ( Sev i l l a ) 港を 五隻の船で出港 し、グアダルキビル ( Guadalquivir ) 川を下り河口の港
サン ・ ルーカル ( San Lucar ) へ着きま した。彼らはそこで 五週間滞在 して最後の補給 ・ 点検をおこない、1519 年 9 月 20 日に サンルーカル 港を出港 しま した。
船隊は指揮官の マゼラン が乗る トリニダード ( 110 トン )、サン ・ アントニオ ( 120 トン )、コンセプシオン ( 90 トン )、ビクトリア ( 85 トン ) 、サンティアゴ ( 74 トン ) で、約 270 人、九ヶ国の人々が乗組んでいま した。
同年 12 月に南米 ブラジル の リオ ・ デ ・ ジャネイロ ( Rio de Janeiro、1 月の川の意味 ) 湾に到着 し、以後 南の海 ( 太平洋 ) を求めて南下を続け 1520 年 3 月からは、 パタゴニア 地方の サン ・ フリアン ( San Julian ) 港 ( 南緯 49 度 ) で越冬 しま した。
ポルトガル 人司令官の マゼラン に対して スペイン 人船長らは最初から敵意を持ち、数人がここで反乱を起こ しま したが マゼラン は断固たる態度で鎮圧 し、船長の一人を処刑 し、一人を海岸に放置 して 1520 年 8 月 24 日に寒さもゆるんだ港を出港 しま した。
その後 サンチャゴ 号は嵐で難破 し、10 月 2 1日に 「 海峡らしい水路 」 に進入 しま したが、サンアントニオ 号は行方不明 (
実は スペイン へ無断で逃げ帰った ) となり、残りの 三隻だけで航海を続け 1520 年 11 月 28 日に、 ティエラ ・ デル ・ フエゴ ( Tierra del Fuego 、フエゴ島 ) との間の水路 ( つまり、マゼラン 海峡 ) を通過 して大海原に出ま した。
マゼラン は嵐が過ぎ去り波の収まった静かな海を ラテン 語で
Mare Pacificum ( マーレ ・ パシフィクム、平穏な海 )と命名 し、日本で は太平洋と呼ばれています。
その後も西に向けて航海を続けま したが飲料水の不足、食料不足、壊血病に苦 しめられ、
九十九 日間の航海の末に 1521 年 3 月 6 日に マリアナ 諸島の 現 ・ グアム 島 (?) に到着 し、初めて新鮮な食料や水を手に入れることができま した。
( 6-1、マゼラン の 戦死 )
さらに西に向けて航海を続けて フィリピン 諸島の マッサワ 島 (?)に到達 しま したが、そこで 乗組んでいた奴隷の エンリケ と島民との間で言葉が通 じたことから、西回りで世界を半周 したことが確認されま した。
マゼラン 一行は カルロス 1 世との約束である未開の地における キリスト 教の布教活動をおこなった結果、この島の族長も近くの セブ 島の族長も キリスト 教徒になりま した。族長がキリスト教徒になったことで大勢が洗礼を受け、フィリピン は アジア では数少ない キリスト 教国になりま したが、マゼラン の布教が契機になりま した。

しか し マクタン 島の族長だけは例外で、布教に反対 しました。そこで マゼラン は武力で制圧することに し、500 人の敵に対 して僅か 60 人で戦闘を開始 しま した。
優秀な武器や甲冑 ( かっちゅう、よろいかぶと ) で武装 していましたが多勢に無勢で、マゼラン と彼の多数の部下は
マクタン 島民との戦闘で 死亡 して しまいま したが、
1521 年 4 月 27 日 のことで した。
ちなみに マクタン 島には マゼラン の侵略から島の独立を守った 族長
ラプ ・ ラプ ( Lap-Lap ) の銅像 があります。
[ 7 : モルッカ 諸島へ ]
マゼラン と二人の船長を含む多数の人員を失った 三隻の船団は、その後 香料 ( 香辛料 ) で有名な
モルッカ 諸島 ( 別名、スパイス の島、Spice Islands ) に向かいま したが、 セビリャ 出港時には 二百七十 名 いた乗組員も今では 百十五 名 しか残って いませんで した。
さらに今後の長期の航海に備え 古くなった船体を補強するために、三隻のうち浸水の著 しい コンセプシオン 号 を犠牲に して、釘 や 帆綱 1 本まで使用できるものは全て剥ぎ取り他の 二隻に移 し、残った船体を放火焼却 しま した。その結果残った船は マゼラン のかつての乗船の トリニダード 号 ( 110 トン ) と、小さくて見栄えの しない ビクトリア 号 ( 85 トン ) の 二隻になりま した。
船隊は 1521 年 11 月 8 日に、夢にまで見た 五つの香料諸島のうちの一つに上陸 しま したが、この島では スペイン 人が欲 しいもの、即ち 「 コショウ ( 当時は 原産地の インド のみ ) 」 を除く貴重な香辛料 ・ 食料品 ・ 砂金などは いくらでも手に入りま した。親切な王は自分の島にないものは、近くの島々から調達 してくれま した。
( 7-1、喜望峰回りの航海 )
大量の香辛料を積込むと旗艦の トリニダード 号は老朽化による船体浸水が著 しく、航海の安全性に疑問を生 じたため、修理が済むまで 五十名以上の乗組員は島に残留 し、その後は太平洋を逆方向 ( 東向きの針路 ) に横断 して パナマ 付近にある スペイン の植民地に行くことと しました。
デル ・ カーノ ( Del Cano ) 船長が指揮する ビクトリア 号 だけが アフ リカ 大陸の喜望峰を経由 して帰国することになり、 四十九 名の乗組員と 七 万 ポンド ( 31 トン ) もの貴重な香辛料を搭載 して出航 しま した。
出発前に デル ・ カーノ は部下に 五ヶ月分の食料を用意させま したが、ティモール 島では食肉保存用の塩が十分に入手できなかったため、その後は インド 洋の灼熱の太陽の下で食肉がたちまち腐り始め投棄せざるを得なくなり、食料としては米と水だけになりま した。さらに
死神 である例の壊血病 も出始めま した。
マゼラン の世界 一周航海を阻止 しようとする ポルトガル の行動が予想されていたので、ポルトガル 船のいる港には立ち寄ることなく 五ヶ月にわたる航海を続けま したが、食料の残りが数日となったため、アフリカ 西岸にある ポルトガル 植民地の ベルデ 岬 ( Cabo Verde、現 ・ セネガル 領内 ) に入港 し、ポルトガル 船のふりを して水や食料の補給を受け、スペイン に向けて航海を続けま した。
( 7-2、ピガフェッタ の発見 )
ベルデ 岬での滞留はごく短い時間で したが、最初は マゼラン の トリニダード 号に乗り 香料諸島で ビクトリア 号に移動 した
記録係の アントニオ ・ ピガフェッタ ( Antonio Pigafetta、1491~1534 年 ) は、ベルデ 岬で人類初の貴重な体験を しま した。
船ではその日は
水 曜日のはずで したが、食料を買いに ボート で上陸 した水夫が帰って来て言うには、陸では
木 曜日だと知らされま した。

ピガヘッタ はひどく驚きま した。なぜなら彼は 三年近くの航海の間、毎日毎日正確に日記を付けていたからであり、彼は水先案内人の フランシスコ ・ アルポ ( Francisco Alvo ) に尋ねると彼もまた航海日誌に 一日 一日を書き記 していま したが、その日は水曜日で した。このことから、
西回りに地球を 一周すると、 曜日が翌日になった。
という事実を発見 しま した。
現代風に言えば、日付変更線 ( International Date Line ) を東から西に通過 したので、翌日になったということですが、ここで質問です。 ピガフェッタ や アルポ たちにとって
水曜日の夜 はどうなったので しょうか?。
失われた夜
[ 8 : 帰国 ]
古くなった船体外板の継ぎ目からは絶え間なく浸水 し、乗組員たちは昼夜交代で 二台の排水 ポンプ を動か しながら スペイン の港へと航海を続けま したが、1522 年 9 月 6 日に、出発 した時と同じ グアダルキビル 川の河口の港町 サン ・ ルーカル に
今にも沈みそうな ボロ 船 ビクトリア 号 はようやく帰港 しま した。
デル ・ カーノ 船長が最初に したことは世界 一周に成功 したとする重大な知らせを、手紙に書いて カルロス 1 世 ( = 神聖 ローマ 皇帝 カール 5 世 ) に送ることで した。翌朝 ビクトリア 号には川をさかのぼる 「 力 」 はなく、別の ボート が ビクトリア 号を曳航 して上流にある セ ビ リャ に向かいま した。三年前に セ ビ リャ を出港 した際には 五隻の船に 二百七十 名が乗組んでいま したが、生きて帰国できたのは僅か 一隻に 衰弱 しきった
十八名 の乗組員 だけで した。
( 8-1、その成果 )

「 マゼラン 船団の生き残り 」 が地球を 一周 して スペイン の セ ビ リャ に帰国 したという知らせは、すぐに全 ヨーロッパ に広がり驚きと称賛をもたら しま した。地球は回転する円 い球体であり、すべての海はつながっていることを証明 したことで、それまでの 宇宙論 ・ 天動説 ・ キリスト教会の説は大きな ショック を受けま した。
さらに ビクトリア 号の積荷であった 七 万 ポンド ( 31 トン ) の香辛料の売却代金は、他の 四隻の船体喪失を完全に補 い、その上 更に巨額な金銭的利益を スペイン にもたら しま した。--- 二百五十名 以上の人命損失を除外すれば---。
マゼラン の功績は ピガフェッタ の正確な記録により、後世に伝えられて いますが、ポルトガル 人の マゼラン が スペイン の船団を指揮 して世界 一周航海を途中までおこなったことは、祖国 ポルトガル の権益拡大に対する
「 裏切行為 」 であると して、また スペイン では
「 莫大な量の 香辛料 」 を初めて スペイン にもたら したのは マゼラン ではなく、 スペイン 人の デル ・ カーノ 船長であると して、
両国とも意図的に 、マゼラン の功績を 過小評価 して いま した 。( 終わり )
since H 28、Apr. 20