白瀬中尉と南極探検

[ 1:南極探検の歴史 ]

白瀬中尉 ( 1861〜1946年 ) の名前を聞いて理解できる人は、最近の厚生労働省の定義でいうところの 後期高齢者と呼ばれる 七十五才以上の人 か、あるいは南極について興味のある人だと思います。

アムンゼン

二十世紀のはじめに、残された地球最後の人類未踏の地であった南極点を目指して、 イギリスの スコット ( 1868〜1912 年 ) 率いる探検隊と、 ノルウェー の アムンゼン ( 1872〜1928 年 ) 隊が互いに一番乗りを競 いました。

南極点への到達に52 頭の 「 犬ゾリ 」 を使った アムンゼン隊五名 は、 ソ リを引く犬のうち途中で弱った犬を次々に射殺 し、犬と人の食糧 ( ? ) に しながら南極点に進み、18 頭の ソ リ犬と共に ロ ス 海の基地から 1,500 キロ 離れた南極点に到達 しま した。写真は隊長のアムンゼンです。

これに対して馬で引く 「 馬ソ リ 」 八台 ( 馬 8 頭 ) を主に使用 した スコット 隊は、馬の足が雪に潜るので 「 馬ソ リ 」 があまり役に立たず、馬ソ リ が クレバス ( 氷河の割れ目 ) に落ちたり して、後には人力で一台の 「 ソ リ 」 の曳行を続けま したが、アムンゼン隊に遅れること 三十三日後 にようやく南極点に到達 しま した。

しか し帰途に食糧と燃料が尽きて しまい、五名全員が凍死 しま した。 アムンゼン 自身も後年に、飛行船で北極点を目指 した イタリア の ノビレ 探検隊の救援に赴き、北極で消息を絶ちま した。

白瀬中尉

同じ頃に日本でも探検隊を組織して、南極に向かった白瀬・矗 ( しらせ・のぶ ) 中尉がいま したが、私が子供の頃は白瀬中尉や、千島列島の開拓をおこなった 郡司成忠 ( しげただ ) 大尉のことを、ほとんどの男の子は本で読み知っていま した。

白瀬中尉について知らない現代人でも、南極観測船 しらせ のことを聞いたことがあると思いますが、 その船名は日本人と して初めて 南極圏 に足を踏み入れた白瀬中尉にちなんだもので した。しか し海上自衛隊の公式見解によれば、 自衛艦である南極観測船に個人名を付けることは しない とのことなので、白瀬 の 名を持つ自然物からとったことになります。

私も今回南極の地図を調べてみて初めて 白瀬氷河 の存在を知りま したが、彼の名前から付けられた 白瀬海岸 白瀬氷河 ( 昭和基地南方100 キ ロ にある幅 9 キ ロ、末端部の氷厚 400メートル ) のことなど、いったい国民の何 パーセントが知っていると海上自衛隊は思っているので しょうか?。

船名の しらせ は、白瀬中尉の名前からとった となぜ言えないので しょうか?。太平洋戦争に敗れてから 6 3 年が経つというのに、未だに コ ケ の生えた旧帝国海軍の因習にこだわる海上自衛隊の態度には 、 国民の常識や理解とは隔絶 した 唯 我 独 尊 的 体 質 を感 じま したが、それは私だけでしょうか?。

ところで彼が到達 し命名 した南緯 80度付近にある 大和雪原 ( やまとゆきはら ) も南極の地図に記載されていますが、奇妙なことに彼は海軍ではなく陸軍の出身で した。


[ 2 : 少年時代からの夢は北極 ]

白瀬・矗 ( しらせ ・ のぶ ) は文久元年 ( 1861 年 )に秋田県 由利 ( ゆり )郡、金浦 ( このうら ) で寺の長男に生まれ、幼名を知教 ( ちきょう ) といいました。九才で近所にあった塾に入りましたが、あるとき先生から コロンブス、マゼランや、二隻の イギリス 探検船が北極の氷海に閉 じ込められ、飢えと寒さで 105 名全員が死亡 した フランクリン 北 極 探 検 隊 の話を聞きま した。

この話に感動した白瀬は北極探検を試みようと決心 しま したが、十二 才の時で した。その後、極地 ( 北極 )探検家になるために必要な体力、精神力を養う方法について先生に尋ねたところ、次の五ヶ条の心得を教えてくれま した。

  1. 酒 を飲んではならない。

  2. タバコ を吸ってはならない。

  3. お茶 も飲んではならない。

  4. お湯 も飲んではならない。

  5. 寒中にも絶対に、火に当たらぬようにすること。

も しこれが確実に実行できるようになれば、極地に耐えうる強靱な肉体や精神力も得られて北極に行けるようになる、と教えられた白瀬少年は、その日から苦行僧のような戒律を守ることに しま した。彼は成人になってからもその戒律を守り続け、禁酒、禁煙はもちろんのこと、来客には茶や火鉢を勧めても自分は冷たい水を飲んで火鉢から離れて座り、食事の際には炊きたての御飯を食べずに、冷や飯と冷えた味噌汁で済ませま した。


[ 3 : 千島列島で経験を積む ]

彼は陸軍に入り仙台の第二師団に配属になり下士官に進級 し、結婚 して合計 十一 年間仙台に居住 しま したが、その当時少将の階級にあった児玉源太郎 ( 1852〜1906 年、後の陸相、参謀総長 ) と偶然話す機会がありま した。その際に北極へ行きたい旨を話すと、それならばまず千島列島 ( ちしま ) や樺太 ( からふと、現 ・ サハリン ) に行き、極寒の地での生活経験を積むことの必要性を教えられま した。

彼は明治 25 年 ( 1892 年 ) に予備役に編入 ( 軍人を 解雇 ) されたのを機会に、来るべき北極探検に備えて千島列島へ探検に行くことに しま したが、当時は日清戦争 ( 1894〜1895 年 ) や、日露戦争 (1904〜1905 年 ) の起きる以前であり、千島列島は政府や国民にとっては忘れられた存在、地域で した。

郡司大尉

皆さんは前述した海軍大尉 郡司成忠 ( しげただ、1860〜1924 年 ) という人をご存じですか?。明治時代の小説、随筆家、幸田露伴 ( こうだろはん、1867〜1947年 ) の兄に当たる人ですが、日露戦争開始前の千島列島の防備、拓殖 ( たくしょく、つまり未開の土地を開拓 しそこに人が移り住むこと ) を目的と して 報效義会 ( ほ う こ う ぎ か い ) を組織 しま した。

東京船出

千島へ赴く為に会 一行は明治 26 年 ( 1893 年 ) に、東京湾を短艇 五隻 ( ピンネース 2 隻、カッター 1 隻、和船 2 隻 ) に乗り出航 しま したが、ずさんな計画から海難事故などで会員多数の死者を出 しま した。白瀬も報效義会 ( ほうこうぎかい ) に加入 して、カムチャツカ 半島南端の ロパトカ 岬から 11 キロ 南に位置する千島列島最北端の 占守島 ( しゅむしゅとう ) に郡司大尉と共に赴き、千島探検のために明治 2 6 年 ( 1893 年 ) 8 月から足かけ 三年間 そこに暮ら しま した。

千島列島図

ところが彼等を襲ったのはその地方の風土病ともいわれた 水腫病 ( すいしゅびょう ) でしたが、千島列島に限らず蝦夷地 ( えぞち、北海道 ) に 越冬する和人 ( アイヌに対する本州人の呼称 ) が、 水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦 しみ死ぬ という奇病は、水腫病といわれ、寒気が原因であるとか、野菜の 欠 乏からくるとかいって恐れられま した。

越冬小屋

症状からすると ビタミン B1 の 欠乏 からくる 脚 気 ( かっけ )で したが、ビタミン B 1 は、米 ヌ カ ・ 小麦 胚芽 ( はいが ) ・ 玄 米 といった植物性食品や、豚肉 ・ 牛肉 ・ 魚などの動物性食品に多く含まれていますが、さらに、ほとんどの野菜や果物も ビタミン B1 が多く含まれています。

写真は明治 26 年 ( 1893 年 ) に 占 守 島 ( しゅむ しゅとう ) において、白瀬たちが最初の越冬を した時の小屋です。脚気については随筆集の ここにありますが 、白瀬の千島探検録によれば、

果実ハ 三年全ク食セズ。桃、梨、柿、栗、杏 ( あんず )葡 萄 ( ぶどう )。密柑、林檎 ( りんご )、瓜、西瓜 ( すいか )。喰 イ度(タ)キ 一念火ノ如シ

とあったので、ビタミン C の欠乏がもたらす壊血病も患っていたのかも知れません。彼は日清戦争も知らずに 占守島 ( しゅむしゅとう )に留まりま したが、越冬隊員 六 名のうち 三 名が水腫病 ( かっけ ) で死亡 し、明治 28 年 ( 1895 年 ) 10 月に仙台に帰りま した。

白瀬たちの越冬経験をもとに翌年から、61 名が 占 守 島 ( しゅむしゅとう )に入植 し、その後 隣りにある 幌 筵 島 ( パラムシル 島 ) にも入植 し、北洋の漁業と ラッコ の毛皮を採取 し、日本の領土であることを示 しま した。


[ 4 : 北極探検から南極探検に変更 ]

明治 42 年 ( 1909 年 ) 9 月 8 日の東京朝日新聞によれば、タイムス 社発の ニューヨーク からの電報と して、

アメリカ人 ペアリー 中佐率いる探検隊が 八度目の挑戦で、同年4月6日に北極点に到達 した。

という ニュース を伝えま した。これを聞いた白瀬は子供の頃から抱き続けてきた北極点到達の夢を失い、大きく落胆 しま したが、以後は北極とは正反対の南極探検を目指すことを決心 しま した。ところが南極点到達を狙う外国の探検隊が編成されたという ニュース を聞き彼は焦りま したが、まずは探検隊用の資金集めが必要でした。

そこで政治家の力を借りて国会に 「 南極探検 ニ 要 ス ル 経費 下付 相 成 度 義 ( かふあいなりたきぎ ) ニ 付 請 願 」 という「 請 願 書 」を 提出 し 十万円の下付を願いま したが、貴族院で 三万円 に 削減 されたものの、無事に両院を通過 しま した。ところが結局政府からは 一銭も下 付されなかったために、 南 極 探 検 後 援 会 を設立 し、民間からの寄付に頼ることに しま した。


[ 5 :探検船の確保 ]

当初の出港予定日である明治 43 年 ( 1910 年 ) 8 月 5 日を過ぎても資金難から探検船が入手できませんで したが、10 月になるとその年の 3 月に進水 したばかりの中古ではない新古の第二報效丸 ( ほうこうまる ) を運良く購入できま した。この船は海軍大将東郷平八郎により 開南丸 と改名されま したが、購入後は南極探検に備えて エンジン を取り付けま した。

船出

船は スクーナー 型、三本 マスト の帆船で、長さ 百 フィート ( 30 メートル )、幅 25 フィート ( 7.6 メートル )、深さ 12 フィート ( 3.6 メートル )、 総 トン 数僅か 204 トン で した。

この船に船長以下船員 18 名と、学術部員や、カラフト 犬飼育係の アイヌ 2 名を含む合計 27 名に、カラフト 犬 29 頭、ネコ 1 匹を乗せて明治 43 年 ( 1910年 ) 11 月 29 日に東京の芝浦桟橋を出航 しました。

七十日後の明治 44 年 2 月 8 日に、補給港である ニュージーランド の ウエリントン 港に無事に到着 しましたが、ここへ来るまでに赤道越えの暑さと病気のために、カラフト 犬は 1 頭を残して全て死亡 し ネコ も死にま した。ウエリントン で南極探検用の食糧、水など物資の最終補給をおこない、三日後に出航 しましたが、南極探検後援会の南極記によれば、その際に ヨット や汽船などが、

春の野の胡蝶 ( こちょう ) の群れが、花を目がけて集うが如く

開南丸を取り囲み帆走を続けながら見送りま した。24 日後の 3 月 6 日に初めて雪と氷に覆われた南極大陸を遠望 したので隊員は喜びま したが、船が現在の ロス 海に向け航海をつづけたところ、地磁気の南極に近いために磁石が正 しい方位を示さなくなり、船は南に向いているのに羅針盤 ( 船の コンパス ) は北東を指すという奇妙な現象を経験 しま した。

海氷

やがて海氷 ( Sea Ice ) 地帯に入り、最初は海に浮かぶ小さな氷の板が次第に大きな板になり海面を覆い、厚さも五、六寸 ( 15〜18 センチ ) になり、ついに海上 一面が大氷盤で覆われ船体から、ゴリゴリ、メリメリという音が伝わって来る危険な状態になりました。

白瀬は緊急幹部会を開いた結果、海氷の状態が悪く砕氷能力が無い開南丸では、目的地の マクマード ( McMurdo ) 湾 ( 南緯 78 度付近 ) までは行けそうもないので、南緯75 度付近を上陸予定地と 一旦決めま した。ところが日本出発の遅れがここにきて禍し、冬の到来のために海氷の状況が更に悪化 し、船が結氷 した海に閉じ込められる危険が生 じたため、オーストラリアの シドニー に引き返し、そこで解氷期の訪れを待つことに決めま した。

後で判明したことですがその同じ時に、イギリスの スコット 隊は ロス 海奥の マクマード 湾の棚氷 ( Ice Shelf、別の表現では氷床 ) 上で、アムンゼン 隊は後に極地法 ( Polar Method ) といわれ、 エベレスト 登山などで採用されるようになった補給方法により、緯度 1 度 ( 約 60 マイル、110 キロ 毎の 南緯 80 度、81 度、82 度の地点に、食糧、燃料を予め運び込み、十月の解氷期を待っていたので した。

ところで明治政府は外国からの技術、新知識の導入には非常に積極的で したが、未知の大陸に挑む冒険 ( 探検 ) には 一銭も資金を出そうとはせず、その点 国を挙げて南極探検を支援 した イギリス、ノルウェー 政府とは大きな差がありま した。資金が無い白瀬たちは シドニー 港に到着後は船員だけが船に泊まり、それ以外の者は シドニー港外の高台に、日本から用意 してきた探検用の小屋を組み立てて野営 し、解氷期を待つことに しま した。


[ 6:二度目の南極行き ]

開南丸 明治 44 年 ( 1911 年 ) 11 月 19 日、白瀬隊長以下 二十七名の隊員は十分な食糧を積み、前回 1 頭を残して全滅 した カラフト 犬を補給 して 30 頭に して、開南丸は シドニー港を出発 しま した。それから約二ヶ月後の明治 45 年 ( 1912 年 ) 1 月 16 日に、開南丸は無事に南極の ロス 海に入ることができま したが、そこには ( 南極点に到達 した ) ノルウェー の アムンゼン 隊を収容するためにやってきた、フラム 号がいま した。

探検隊員

右上と左の写真は フラム 号の隊員が撮影 した開南丸と日本人隊員の姿ですが、白瀬は野村船長と シドニー で採用した 三宅三等運転士 ( 航海士 )を通訳 と して フラム号に派遣 し、儀礼訪問をさせ ましたが、後刻 フラム 号の船長も答礼に開南丸を訪れました。ニールセン 船長いわく、

こんな小さい船でよくここまで来たものだ。自分達では南極はおろか、途中までさえ覚束ない。
と開南丸船員の勇気に驚き、航海技術を称揚 していま した。開南丸はそこから西方へ三十 マイル ( 45 キロ ) 離れた地点を上陸地点と定めま したが、そこを 「 白瀬海岸 」 ( 南緯 78 度 17 分、西経 162 度 50 分 ) と名付けま した。

ロス海

陸上に第 一根拠地を設けそこに犬ゾ リ、カラフト犬 30 頭、食糧、テント などを運び込み、陸上隊員のうちから突撃隊 五名と天候気象観測隊 二名を選び、犬ゾ リ は 二隊に分けて1月20日に、行けるところまで行く予定で南極点へと進みました。

しかしブリザード ( 暴風雪 ) に遭遇 し、24 日になると糧食係からそろそろ携行 した糧食が欠乏を告げている旨の報告があったので、白瀬はあと二日だけ行ける所まで前進することに しま した。二日間走りそこでに天測した結果は、 南緯 80 度 05 分、西経 156 度 37 分 で したが、明治 4 5年 ( 大正元年、1912 年 ) 1 月 26 日のことで した。

目印の国旗

そこに テントを張り深さ三尺の穴を掘り、南極探検後援会に寄付金を寄せた者の芳名簿を銅製の箱に入れて埋め、その上に日の丸の旗を立て下部には目印に赤ペンキを塗った三角形 ブリキ製の回転旗を立てま したが、写真では白瀬隊長は右端です。

彼は付近一帯を前述した如く大和雪原 ( やまとゆきはら ) と命名 しま したが、後世の科学技術の発達による測定の結果、この付近の雪の下は南極大陸の大地ではなく、海であり厚さが数百 メートルにも及ぶ棚氷 ( Ice Shelf 、氷床ともいう ) の上であることが判明 しま した。

ノルウェー の アムンゼン 隊が世界で初めて南極点に到達 したのは明治 44 年 ( 1911 年 ) 12 月 14 日であり、イギリス の スコット 隊が到達 したのは明治 45 年 ( 1912 年 ) 1 月 17 日で した。このことから明らかなように、白瀬隊は世界の探検隊に伍 してほぼ同時期に南極点近くまで到達 し、南極探検の歴史に名を残 しま した。


[ 7 : 置き去りにされた カラフト 犬 ]

白瀬と犬

写真は白瀬隊長と カラフト 犬ですが、探検を終え基地に戻った白瀬隊が氷の海から開南丸に乗り移り ニュージーランド へ向かう際には、天候急変のため船に収容できた カラフト犬 は僅か 6 頭で、 残りの 21 頭 は見殺 しにせざるをえませんで した。カラフト 犬飼育担当の二人の アイヌ は、当座の エサ として数俵の干 し鱒を氷上に残 してきま したが、船が離れるにつれて犬たちは尾を振って鳴きながら氷の上を船の後を追い、二人の アイヌも泣き出 しました。

カラフト犬

それから 46 年後の昭和 3 3年 ( 1958 年 ) 年 2 月のこと、前年に続き二回目の越冬を行う予定だった第二次南極越冬隊は、海氷の状況が悪く観測船 「 宗谷 」 が昭和基地に接岸できず、物資の陸揚げが不可能な為に越冬を中止 し、前年越冬 した隊員だけを ヘリ で収容 したものの、カラフト 犬 15 頭を置き去り に して帰国 しました。

基地は 一年間無人になりま したが、翌年の昭和 34 年 ( 1959 年 ) 1 月 14 日に第 三次越冬隊員が南極の昭和基地に上陸すると、前年に置き去りにした 15 頭のうちの 2 頭、 タロー と ジロー だけが生存 していて、元気に隊員のもとに駆け寄って来たので劇的な対面を しました。写真は死後剥製になった タロー と ジロー ですが、どちらが タロー か分かりません。

ところで南極会議で南極条約議定書が制定されましたが、日本では昭和 36 年 ( 1961 年 ) に批准 しま した。その後平成 10 年に条約の付属書の中に環境保護に関する規定ができた為に、 生きた動物や植物等の南極への持ち込みが禁止されたため 、今では 「 カラフト 犬置き去りの悲劇 」 など 起こりようもありません。


[ 8 : 白瀬隊長に対する、毀誉褒貶 ( きよほうへん )]

1775 年に イギリスの探検航海家 クック 船長により南極大陸が世界の人々の関心を呼ぶようになってから、明治 45 年 ( 1912 年 ) までの 137 年間に、南極探検は 二十二 回行われましたが、その中で 南緯 80 度よりも南の地点 に到達できたのは、南極点に到達した ノルウェー の アムンゼン、イギリス の スコット、同じく南極点近くの南緯 88 度 23 分まで行った シャックルトン の 三隊だけであり、 白瀬隊は 四番目で した 。これは国際的基準からみても、立派な業績で した。

参考までに 20 世紀初頭に、イギリス の探検家で Sir ( サー )の称号を持つ アーネスト ・ シャックルトン ( 1874〜1922 年 ) が、南極探検隊員を募集 したときの新聞広告を紹介 しますと、

求む男子。至難の旅。わずかな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証な し。成功の暁には名誉と称賛を得る。

で したが、白瀬隊の場合はどうだったので しょうか?。実は寄せ集めの人員からなる探検隊内部にはいろりろな不平不満や、軋轢 ( あつれき ) があり、必ずしも人の和が保たれたわけではなく、白瀬隊長の統率力不足や人間性にもやや疑問視される部分もありました。

その一例を挙げますと、南緯 80 度まで到達 し探検の任務を終了 して ニュージーランド に引き揚げた白瀬隊は、そこから開南丸で全員 一緒に日本に帰国するのが当然で したが、白瀬隊長は生死を共に誓いあった部下を残 して、自分だけ 一足先に船会社の汽船に 一等船客と して乗船 し 、日本へ帰国 して しまいま した。

帰国後の白瀬は当初は大歓迎を受けたものの、開南丸に乗り 一ヶ月遅れて帰国 した部下が やがて南極探検私録などを出 して彼のことを厳 しく批判 したこともあり、人気は凋落 し 秋田県の田舎で以後 ひっそりと人生を送りま した。

ちなみに現在の越冬観測隊員の輸送については、成田から 西 オーストラリア 州の州都 パース まで飛行機に乗り、市の南西 19 キロにある フリーマントル ( Fremantle ) 港に着くと、日本から先発 し待機 していた南極観測船 「 しらせ 」 に乗船 します。南極の昭和基地に近づ くと、 「 しらせ 」 に搭載の大型 ヘ リ 2 機、小型 ヘ リ 1 機で人員、物資を空輸する方法を採っています。


[ 9 : 南極の領有権問題 ]

敗戦後の日本が連合国と締結 し 昭和 27 年 ( 1952 年 ) 4 月 28 日に発効した、 日本国との平和条約 ( サンフランシスコ 条約 ) の第二章、領域、第二条の( e ) によれば、

日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、 南極地域のいずれの部分に対する権利 若 しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、 すべての請求権 を放棄する。
と規定されていま したが、 白瀬隊による南極探検の実績が 、国際的には南極地域の領有権を主張する際の要素である、先占 ( Occupation、所有者が存在 しない土地を所有の意思をもって占有することをいう ) に重要な関係があったことを、日本人は改めて知らされま した。

しかし昭和 34 年 ( 1959 年 ) に当時南極における調査研究に協力体制を築いていた日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦 ( 現 ロシア )等 12 ヶ国が南極条約を採択 した結果、南極に対する軍事的利用の禁止とともに、領土主権、請求権は 凍結されま した

南極領有権主張

ところが領土主権は凍結されただけで 否定や放棄されたわけではなく、たとえば オーストラリアは、 自国の南極領土 ( A A T 、Australian Antarctic Territory ) であるとして、右図の二つの扇形部分を主張 しています。

それは南極点から放射線状に広がる東経 44度38分から東経 136度までと、東経 142度02分から東経 160度までの二つの扇形の部分からなり、それを地図上に明記 して学校教育の現場でも教えていますが、その面積は南極全体の 実に 42 パーセント ( 580万 平方 キロメートル )を占めています

カンガルー や ディンゴ ( Dingo 、オーストラリア産の野生の犬 ) を目の仇に して大量殺戮 しながら、 鯨だけは 「 かわいそう 」 などと捕鯨に反対 し 、生態系保護や環境保護などの キレイゴト だけを主張する表の顔だけでなく、南極大陸に途方もなく広大な領土権を主張 してはばからない オーストラリアの 強欲で恥知らずな 裏の顔 きっちり見極める必要があります。

オーストラリア 以外の国々、たとえば ノルウェー ・ イギリス ・ チ リ ・ アルゼンチン ・ ニュージーランド ・ フランス なども、南極点から勝手に自国の領土であると経度線を引き、扇形に囲まれた部分を地図上に明記 して、領土権を主張 しています。

その狙いは雪と氷に覆われた南極大陸に隣接する海洋の 経済水域設定 および、地下資源の確保にある といわれていますが、世界戦略が欠落 し、国益音痴 ( ? ) でお人好しの ( 換言すれば国益に無知、間抜けな ) 日本は、多額の税金、たとえば 平成 17 年度予算では南極観測に 64 億 8 千万円 を使い 、50 年以上も毎年南極に出かけて行き、オゾン ・ホールの変化や、オーロラ などの観測を しているだけで、将来の国益を守るための布石などとは全く無縁です。

赤字財政の折、カ ネ のムダ 遣いを防ぐ為には、南極行きは 一年おきでも良く、あるいは観測機器だけ設置 し、越冬 しなくてもよいのではありませんか?。

地下資源、エネルギー 資源を含む領土、国益を守る為には、何時の時代でも 強引さと、政治的狡猾さ ( ズルさ ) が必要 です。

これまで官民合わせて 6 兆円にも及ぶ 対中国経済支援を しておきながら、 中国との東支那海油田開発や、尖閣列島問題 、人道支援と称して何億もの カネ を出 したにもかかわらず、ロシア 側に カ ネ を巻き上げられただけで何の進展もなかった北方四島問題など、外交交渉における 失敗から 日本は何も教訓を学びませんで した


[ 10 : イギリスの報復で始まった南極探検 ]

現在の南極は観光客でも訪れることができる場所ですが、それまでの南極は 白瀬中尉 による南極探検 ( 1910 〜 1912 年 ) 以降 45 年間、日本人が足を踏み入れたことがなく情報の無い危険な場所であり、南極 観 測 で は な く 南 極 探 検 という言葉が使われていま した。

昭和 32 年 ( 1957 年 ) 7 月から翌年の 12 月まで 18 ヶ月間にかけて、国際地球観測年 ( IGY: International Geophysical Year ) が実施されま したが、これに先立ち昭和 30 年 ( 1955 年 )7 月に国際地球観測年特別委員会の下に設けられた第 1 回南極会議において、日本に対 して南極地域での観測について参加勧告がなされま した。

エンダービー地域


( 10−1、下手を打たせる )

どこかの社会の 隠 語 ( い ん ご ) に 下手 ( へ た ) を打たせる ( 物事に失敗させ、恥を掻かせる ) というのがありま したが、南極観測 基地の割り当てに際 して、イギリス は後述する恨みを晴らすため、日本に 「 下手を打たせよう 」 と しま した。

日本に割り当てられた地域は、気候が厳 しく過去に アメリカ隊が 七度上陸を試みて失敗 し 接岸不能とまでいわれ、 南極の中でも 最 悪 の 地 域 といわれた エンダービー・ランド ( Enderby Land  ) の 西側の地域で した。

そこは 東経 44 度 38 分から ウイリアム ・ スコビー 湾がある東経 56 度 25 分
までの間の、北方に突出 した陸地で 1831 年に イギリス の捕鯨船の船長 ビスコー ( Biscoe ) が発見 し、船主である ロンドン の捕鯨 ・ 海豹 ( あざらし ) 猟会社の エンダービー 兄弟商会にちなんで命名 した土地で した。 しかも 南極点からは 三千 キロ も遠く離れた場所で した

なぜそのような 最悪の場所 が日本に割り当てられたのでしょうか?。それには、 いわく因縁がありました 。太平洋戦争の緒戦、敗れるはずがないと思われていた白人種の イギリス 軍が、有色人種の日本軍の攻撃によって不沈と称された東洋艦隊( 戦艦 Prince of Wales、プリンスオブウエールズ、巡洋戦艦の Repulse、レパルス ) が開戦直後に撃滅され、陸上 戦闘でも短期間で敗北 し、一時的にせよ アジア から イギリス の植民地勢力が 一掃されま した。

それにより アジア 人に独立に対する自信と民族主義が芽生え、戦後には インド、ビルマ、バングラデシュ、パキスタン、マレーシア、シンガポール など、ホンコン 以外の全ての植民地が イギリス の支配から独立 しま した。

そのために イギリス は植民地からの富と アジア での 覇権 を失い、国の経済も北海原油を掘り当てるまでは疲弊 し続け、 イギリス 帝国の国威も失墜させられま したが、それ以来 イギリス 人は、日本憎 しの感情を抱き続け報復の機会を狙っていたので した。

一説によれば イギリスが南極会議の メンバー であり英連邦に属する オーストラリア、ニュージーランド と図り、戦後初の日本の南極観測を 失敗させると共に、末永く日本の 国際的評価を失墜させる為に 、故意に仕組んだ報復であったともいわれま した

アングロサクソンの 復 讐 ( ふ く し ゅ う )心の強さ 、執念深さを見せつけられま した。


[ 11: 南極観測船 ]

宗谷

昭和 31 年(1956 年 )11月8日に、戦後初の第 一次南極観測隊を乗せた観測船 「 宗 谷 ( そうや )」 が乗組員 77 名、隊員 53 名と共に東京 ・ 晴海ふ頭を出航 しま したが、幸運にも宗 谷は オングル 島の接岸に成功 し 11 名の隊員の越冬に必要な物資の陸揚げをおこない、昭和 32 年 1 月 29 日に昭和基地を開設することができま した。しか し帰路に砕氷能力が乏 しい宗 谷は氷海に閉 じ込められて しまい、ソ連の砕氷船 オ ビ 号に救出されま した。

日本の南極観測事業が始まった昭和 31 年 ( 1956年 ) 以来 五十年以上が過ぎましたが、その間に南極観測船は、

  1. 砕氷能力 40 センチ、総 トン 数 2,600 トン の、「 宗 谷 」

  2. 砕氷能力 80 センチ、 5,250 トン の、「 ふ じ 」

  3. 砕氷能力 1.5 メートル、 11,600 トン の、初代 「 しらせ 」

    二代目しらせ

  4. 砕氷能力 1.5 メートル、二代目 「 しらせ 」 2009 年( 平成 21 年 ) に新造 就役、総 トン 数 12,650 トン 、乗船定員 259 名、乗組員 179 名、観測隊員 80 名、速力 15 ノット

と代替わり してきま した。

「 しらせ 」 悪 場 の 昭和基地 に到達するために不可欠な、世界でも トップクラス の高い砕氷能力 と ヘリコプター 輸送能力を備え、毎年 数百 トン の物資を運びま したが、氷に閉じ込められた オーストラリアの南極観測船を 二度にわたり救出 しま した。

昭和 60 年 ( 1985 年 )10 月末、オーストラリア の観測船 「 ネラ ・ ダン 」 ( Nella Dan ) が 海氷に閉じ込められま したが、その際に オーストラリア の南極用貨物船、「 アイス ・ バード 」 が救援に向かったものの、厚さ 4 メートル 以上の厚い氷に阻まれて、「 ネラ ・ ダン 」 に近づけませんで した。

しらせの救出劇

そこで オーストラリア 政府からの要請に基づいて、西 オーストラリア 州の 州都 パース 郊外の港 フリーマントル に寄港中の 「 しらせ 」 が救援に向かうことになりま した。「 しらせ 」 は 「 ネラ ・ ダン 」 が 閉 じ込めらている現場に到着 して、さっそく砕氷による救援を開始 し、氷海から無事に離脱させることに成功 しま した。写真で、氷の海で動けない船に、氷を割りながら接近する手前の船が 「 しらせ 」 です。

その時の 「 しらせ 」 艦長の 倉田 篤 ( あつし ) さんは海上保安大学時代に私の 一年後輩で、しかも同じ栃木県出身、同じ頃に青森県にある海上自衛隊の八戸航空基地に勤務 しま したが、後に船に乗った 旧知の間柄で した。

彼は南極観測船 「 ふじ 」 の副長 ( 昭和 55年 )、退役する 「 ふじ 」 の最後の艦長 ( 昭和 57 年 )、新造された 「 しらせ 」 の艦長で 二回 ( 昭和 60 年〜 62 年 ) と、南極には合計 四 回行くという指揮官 クラス では珍 しい経験の持ち主で したが、「 ネラ ・ ダン 」 救出の際には 厚さ 4 メートル 以上の氷 を割って救助するために、 1 7 6 回 の チャージング ( 注参照 ) を したそうです。

注:) チャージング( Charging )

「 しらせ 」 は 3 ノット ( 毎秒 1.5メートル = 時速 5.4 キロメートル ) で航行 しながら 厚さ 1.5 メートル の氷を 連 続 砕 氷 が可能 です。

チャージング ( Charging、突進の意味、ラミング = Ramming、激突 とも いう ) とは、砕氷船の能力以上の海氷を割る為に助走付きの砕氷方法で、船の長さ ( しらせの場合 134 メートル ) の 2〜3 倍の助走距離から全力で前進 して 氷盤に突進 し、船首を氷盤に乗り上げて 重量と衝撃 で氷を圧 砕 ( あっ さ い ) し 、次いで後進 して 氷盤から離脱 し、再度前進するという、前 ・ 後進運動を繰り返 して厚い氷を砕き 航路を開く方法です。

倉田艦長

写真の左端は南極観測隊に参加し、うち 3 回は越冬隊長を務め、昭和 42 年 ( 1967 年 )に世界で 9 番目に南極点への往復旅行に成功 した 村山雅美氏、中央が倉田 艦長、右は 1989 年に南極ではなく北極点に、徒歩で到達 した世界初の女性である女優の和泉雅子さんです。

「 しらせ 」 も老朽化 したために今年で退役 しますが、平成 20 年秋の南極観測には代船として民間の砕氷船 オーロラ ・ オーストラリス を チャーター して観測隊の輸送に当てることになりま した。この船は 1998 年に南極海で氷に閉じ込められ、動けなくなったところを 「 しらせ 」 に救助されたことがある船で した。

砕氷船の船首

日本では現在 「 しらせ 」 の代わりの船を 380 億円の予算で舞鶴の造船所で建造中ですが、平成 21 年 5 月に完成予定で 次の船名も しらせ の予定です 。写真は ロシア の砕氷船ですが、船首の喫水線 マーク 最高 11 メートルの下方には、氷との苦闘を物語る船体の傷や ペンキ の剥げた跡が見られます。

南極記念碑

東京の J R 田町駅から海側に約 15 分歩くと、首都高速 一号羽田線のそばに 港区立の 「 埠頭 ( ふとう ) 公園 」 がありますが、ここは明治 43 年 ( 1910年 ) に南極探検隊が近くの芝浦桟橋 ( さんばし、現、芝浦埠頭 ) から出発 したのを記念して作られた公園で、園内には隊員を乗せた開南丸の レリーフ や ペンギン 像のある記念碑が建っていました。

砕氷能力皆無の僅か 204 トン の エンジン 付き帆船 開南丸で、白瀬中尉が南極探検に赴いてから今年で 九十八 年になりますが、資金や物資不足の中で、白瀬中尉をは じめ当時の探検隊員が南極探検にかけた情熱、冒険心には脱帽 しま した。


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