(2)足りない教室
疎開した村の国民学校 ( 小学校 ) から割り当てられた教室は、75 名の疎開児童に対して 一つでした。そして東京から派遣されて来た教師が 1 人だったこともあり、全員を 二つのクラスに分けて、学校での授業の組と、寺での自習組と交互に学習をおこないました。 私達はまだ恵まれていた方で、同じ学校から郡内の温泉旅館に疎開した 6 年生の男女、5 年、4 年の女子、3 年の男女の グループは人数が多過ぎたため村の学校の教室借用もままならず、ほとんど旅館の座敷で寺子屋 スタイルの不自由な授業を受けていました。 児童も不便な思いをしましたが、疎開児童を受け入れた側の寺、旅館、地元の学校、村民もさぞかし迷惑なことであったに違いありません。しかし「 戦争に勝つために 」、それを受け入れてくれたのです。当時は国民全部が我慢の生活を送らなければなりませんでした。
注 : ) (3)にわか床屋
先生が慣れない手つきで児童の頭を坊主刈りに して見本を示 し、それからは見よう見まねで子供同士が頭の刈りあいを しましたが、もちろん大 トラ刈りで した。 トラ 刈りは普通で 3 日、よほどひどくても 1 週間も経てば分からなくなりま した。 女性の髪の パーマ は当時の言葉で 「 電髪 」と呼ばれていま したが、大東亜戦争 ( 第 2 次大戦 ) 勃発と共に、電髪は電気を使う贅沢とみなされるようになり ぜいたくは敵だ の標語のもとに、振り袖の着物とならんで国防婦人会のおばさん達から電髪を した女性は白眼視されま した。 その後昭和 18 年 ( 1943 年 ) 10 月 1 日からの電力消費規制実施により、パーマネント などの調髪用電熱器の使用が禁止された結果、電髪を した女性は姿を消 しま した。
村の学校では集団疎開の子供は自分達だけでまとまって遊び、村の子供達との一緒の遊びや、交流はまったくありませんで した。一人でいると村の子供にい じめられるので、自然と集団になって行動 したのです。 登校、下校の際もよくいじめられま したが、口喧嘩の際に村の子供からは 腹 ペコ 疎開は芋ばかり と囃 し立てられま したが、それに対する仕返 しは ざいご ( 在郷 )っ ぺー は、田舎っ ぺー で した。 食料難が深刻となり、最初は量を増やすために ご飯にさつま芋を炊き込んだもので したが、しまいには芋の周囲に ご飯粒が付く程度になりま した。芋を おかゆに入れたりご飯の代わりに、さつま芋や じゃが芋を代用食にするなど、常に空腹状態にあったのを馬鹿に したので した。 彼らに してみると、言葉や服装の違う連中が招かざる客と して自分達の縄張りに突然侵入 してきたので、不快感と敵意を抱いたのも無理からぬ事だと思います。 衣料 キップ 制度 ( 年間に決められた点数の衣料品 しか購入できない点数切符制度 ) のもとで衣料品は入手難で したが、当時の山村の子供達は、我々から見ても貧 しい身なりを していま した。写真の左が疎開の児童、裸でいるのが村の児童です。
昭和 20 年の 1 月に皇后陛下の 「 おぼしめし 」 で集団疎開児童に、小さな紙の袋に入った ビスケット 1 袋ずつが下賜 ( かし ) されま した。 今の商品価値でいえば 1 袋 50 円か 100 円で買えるような品物ですが、その当時は久しぶりのお菓子に、空腹を抱えた皆が喜んで食べたので、すぐに無くなりま した。 それと共に那須ご用邸に疎開中の皇太子明仁殿下 ( 現在の天皇陛下)の誕生日 ( 12 月 23 日 )に、疎開児童を思って詠まれた皇后陛下の御製 ( ぎょせい、歌のこと )も、同時に先生から伝えられま した。
次の世を、背負うべき身ぞたくま しく、正 しくのびよ里に移りて。
歌を詠まれた 尊いお方 は先年老衰でお亡くなりになり、 宣戦も、終戦も告げた同じ顔 の最も尊いお方 ( 昭和天皇 ) は、敗戦後は平和日本の象徴へと お見事に 変身なされま した。
このお方につきましては戦時中は皇国主義から現人神 ( あらひとがみ )、つまり人の形をした神
であるとして全国民から崇め奉 ( たてまつ ) られ、小学校 における 毎日 の 朝 礼 の 際 には、 「 宮 城 ( 皇 居 のこと ) 遙 拝 ( よ う は い )、最 敬 礼 」 という 号令 で 全国 の 小学生 から 崇 め 奉 ( たてまつ ) られた お方 でございます。明治憲法 には、
第 4 条に 「 天皇 ハ 国 ノ 元首 ニシテ 統治権 ヲ 総攬 シ ( そうらん、一 手 に 握 る )−−」 とあり 第 11 条に 「 天皇 ハ 陸海軍 ヲ 統帥 ス ( とうすい、軍隊 を 指揮、統率 する )」 と 規定 され、 第 13 条 には、「 天皇 ハ 戦 ヲ 宣 シ 和 ヲ 講 シ−−−」 とあ りま した。 かつては 大日本帝国 における 唯一絶対 の 支配者 と して 君臨 し、陸海軍 を 統率 なされ、そのお方 の 最終権限 で 始 めた 戦争 が、たとえ侵略戦争 であろうと 自衛 の 為の 戦争 であろうと、戦 争 に対する 責任 を 負うことは、そのお方 が 平和主義者 である 無 しの 問題 とは 別 の 次元 の 話 でございます。 同じく第 55 条 には 「 国務各大臣 ハ 天皇 ヲ 補弼 ( ほ ひ つ ) シソ ノ 責 ニ 任 ス 」 とあ りま したが、内閣 による補弼 ( ほひつ、天皇が政治を行うのを 助 ける ) うんぬん、あるいは 立憲君主国 の 君主 は 統治上 の 責任 を 負 わないとする 「 無 答 責 」 の 法律論 や 憲法解釈上 の 問題、つまり 法的責任 につきま しては、長 く なるのでここでは差 し控 えさせて頂 きます。 しか し日本国の最高支配者 と して 朕( ちん、天皇の一人称 ) 茲 ( ここ ) ニ 米国及英国 ニ 対 シテ 戦 ヲ 宣 スという 宣戦の詔勅 に自ら署名捺印 した 結果日本が開戦 し、そのために 3 0 0 万 人 以 上 もの軍人、一般人 が 犠牲 とな り、国土の 荒廃 を もたら した 道 義 的 責 任 は、決 して免れるものではありません。 戦災で家を失い都会の焼け跡の 「 掘 っ建 て 小屋 」 に住 み、あるいは空襲で家を焼かれた 後 に 田舎 に 避難 した 戦災者 や、最愛の我が子、わが 夫 を戦争 で失 い、戦中戦後 の 生活苦 と 飢 え にさいなまれた 哀 れな 戦争被害者 の 「 民 草、たみくさ、当時の言葉 で 国民 の 意味 」 に 対 する 道 義 的 責 任 を 果 た す た め に 、退位 はともかくとして 日本国 の 象徴 の立場 から 国民 に 対 して お 詫 び の 一言 も 無 かったことは、戦争 の 苦 しみを 味 わった 者 と して、返 すがえすも 残念 でなりませぬ。
注 : 1 ) お上 ( 天皇 ) は 単 にご 退位 ばかりでなく、仁和寺 ( に ん な じ、京都市右京区 御室 にある 真言宗御室派 総本山 )あるいは 大覚寺 ( だ い か く じ、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派 大本山 ) にお 入 り 遊ばされ ( 出家する意味 )、 戦没将兵 の 英霊 を 供養 なさる のも 一 法 ( いっぽう、ひとつ の 方法 )、僕 も 勿論 お 供 す る( 出家 する )
注 : 2 )
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