古代史と天皇


[ 1 : 歴史は書きかえられる ]

「 歴史は書き換えられるもの 」 という言葉がありますが、国 ・ 政治組織 ・ 宗教などの指導者や機関が、それぞれの利益 ・ 支配の正統性 ( または正当性 ) を主張するために歴史を書き換えることは、洋の東西を問わず昔からよく行われて来たことでした。現代においても中国と韓国が尖閣諸島 ・ 竹島に関する歴史を 「 ねつ造し 」 、領有権を主張する事実を見れば容易に理解できます。

昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時、小学校 6 年生だった私は、8 月 15 日の太平洋戦争の敗戦を境にして、それまでの天皇制国家主義に基づく歴史が 全て否定され 書き換えられる事態を体験しましたが、子供心に世の中に対する不信感を持ちました。

それまで鬼畜 ( きちく ) 米英撃滅 ( げきめつ ) を唱え国民を戦争遂行に駆り立てていた マスコミは、敗戦後から論調をがらりと変え、 アジアを長年植民地として支配してきた連合国を正義の味方(?)とし、その アジア諸国を植民地から解放した日本は、世界の平和を乱す悪の侵略国になりました。

米英撃滅

写真は太平洋戦争の開戦直後に東京の後楽園球場で開催された、報知 ・ 東京日日( 現・毎日 )・ 同盟通信 ・ 読売 ・ 朝日 ・ 都 ・ 国民 ・ 中外商業の各新聞社主催による、米英撃滅国民決起大会の様子です。


( 1-1、名誉の戦死者から、犬死にした人へ )

お国のために 「 名誉の戦死 」 をした人々は 「 護国の英霊 」 ( えいれい、戦死者の魂を敬っていういう言葉 ) として靖国神社に祀られてきましたが、敗戦を境にして侵略戦争の手先とされ、犬死に ( いぬじに、無駄な死に方 ) をした哀れな人間へと変わり、戦没者の遺族に対する恩給 ( 遺族年金 ) も廃止されました。

英霊の帰郷

それが再び支給されるようになったのは、日本が 1952 年に アメリカ占領軍の支配から独立してからでした。写真は戦時中に戦死者の遺骨が郷里に帰る際の様子ですが、国のために命を捧げた人の遺骨 ( 敗戦間際になると、その多くは空の箱 ) を多くの人々が出迎えました。

敗戦後はそれまで教科書で習って来た 「 忠君愛国 」 や 「 修身の時間 」 に先生から教えられた 「 君 ( きみ、天皇 ) に ( ちゅう、忠義 ) ・ 親に ( こう、孝行 ) 」 などの徳目 ( とくもく、道徳の基本とされた 仁 ・ 義 ・ 忠 ・ 孝 ) はすべて 間違いだった ということになりました。

私が通った栃木県の村にある小学校の校庭には、薪を背負って本を読む 「 勤勉節約の手本 」 であった 二宮金次郎 ( にのみや きんじろう、注 参照 ) の石像がありましたが、農民の膏血 ( こうけつ、人が苦労して得たもの ) を絞りとって藩の借金返済に充てた、支配階級の走狗 ( そうく、他人の手先 ) とされ、敗戦後に撤去されました。

注 : 二宮金次郎

金次郎像

相模国 ( 神奈川県 ) の出身で通称 金治郎といい、後に 尊徳 ( そんとく、1758~1859年 ) と称した江戸後期の農政家。貧農の家に生まれ豊富な農業知識を持つ農政家として知られ、小田原藩 ・ 相馬藩 ・ 日光神領 ( 栃木県 ) などの財政再建や復興にもあたった。

勤倹節約を旨とし明治以後 国定教科書や 唱歌にも登場したが、全国のほとんどの小学校の校庭には銅像や石像が建っていたので、敗戦当時に小学生以上だった人には馴染 ( なじ ) みの人物であった。

当時の小学生は 二宮金次郎の歌 を、学校で唱歌 ( 音楽 ) の時間に習いました。


( 1-2、皇国史観から、敗戦後の マルクス史観へ )

戦時中の生活について、詳しくは ここにあります が、明治維新から太平洋戦争に敗れるまでの日本では神道を国の宗教 ( 国教 ) と定め、いわゆる天皇制国家主義に基づく皇国史観 ( こうこく しかん、日本の歴史が万世 一系の天皇を中心として展開されてきたと考える歴史観 ) 一辺倒で、明治憲法 ( 大日本帝国憲法 ) 第 3 条には 「 天皇は神聖にして侵すべからず 」 とあり、 天皇が主権者であり 国家を統治しました。

その天皇は同じく第 1 条によれば 大日本帝国は万世一系 ( ばんせい いっけい、永遠に 一つの皇統が続く ) の天皇之 ( これ ) を統治す とあり、天皇の統治は永久不変であるとされました。

建国神話の主人公である神武天皇の即位は日本書紀の紀年に基づき西暦前 660 年とされ、日本書紀 ・ 古事記の 神話や伝承 が国の方針によって 史実となり 、学校教育の現場ではその方針に基づき教育がおこなわれました。

今考えれば 西暦前 660 年 は考古学上 縄文時代晩期 に当たり、人々は 「 石器 」 を使用して狩猟採集 ( しゅりょう さいしゅう ) の生活をしていました。

神武東征

その時代に神武天皇が鉄製の武器 ( 刀 ) を持ち ( 注 : 鉄器の使用は弥生時代中期の紀元前後から 3 世紀頃に開始 ) 、九州から軍勢を率いて船に乗り大和の地へ東征したとは とうてい信じられない話でした。右図の左に見える鳥は、険しい山中で神武天皇一行の道案内をしとされる八咫烏 ( やたがらす、やたとは大きいの意味 )です。

注 : 神武天皇 ( じんむ てんのう )

古事記 ・ 日本書紀に記された神話 ・ 伝承によれば、九州の日向 ( ひむか ) から東進して大和地方を平定し、紀元前 660 年 ( 皇紀元年 ) に奈良盆地の南部にある橿原 ( かしはら ) の宮 ( 橿原神宮 ) で天皇に即位したとされる人物である。

即位の日 2 月 11 日を前述の紀元節 ( 現在は建国記念日 ) の式日と定め、小学校では登校して 紀元節の歌 を歌い、紅白の まんじゅう か落雁を貰って帰宅した。 しかし太平洋戦争が勃発すると、紅白まんじゅうなどの配給は廃止された。

近年作家の 百田尚樹 ( ひゃくた なおき ) の書いた小説 「 永遠の ゼロ 」 が有名になり映画化されましたが、「 ゼロ 戦 」 とは海軍の零 ( レイ ) 式艦上戦闘機のことであり、当時の年号は全て 皇紀 が使用されていました。その皇紀 2600 年 ( 昭和 15 年 = 西暦 1940 年 ) に制式化されたので、ゼロ 戦 / 零戦 ( レイ戦 ) と呼ばれました。


官製の歴史に反する説を唱えた歴史学者に、早大教授 津田左右吉 ( つだ そうきち、1873~1961年 ) がいましたが、彼は 「 神代 ( じんだい ) 史の新しい研究 」 ( 1913 年出版 ) で記紀 ( きき、古事記 ・ 日本書紀 ) について文献的批判をおこなったところ、彼の著作は発売禁止になりました。

天皇機関説

さらに天皇は 「 法人である国家 」 の機関であり、従って 統治権は天皇には無く国家にある とした、 「 天皇機関説 」 を唱えた東大名誉教授で憲法学者の美濃部達吉は、軍部や右翼の反対に遭い貴族院議員を辞職しましたが、右翼の男に銃撃され重傷を負いました。

このように敗戦までは天皇制国家主義に基づく皇国史観や軍国主義が隆盛を極めましたが、戦後になるとそれまでの軍国主義 ・ 右翼主義を打破するために占領軍が一時的に 左翼主義を支援した こともあり 、以後は 「 マルクス主義による唯物史観 」 ( ゆいぶつしかん ) が 日本の教育界 ・ 歴史学会 ・ マスコミ業界を支配しました 。

戦後左翼

その分野では長年 「 左翼主義者にあらざれば人に非 ( あら ) ず 」 の状態が続き、いわば 「 歴史研究者村 ・ マスコミ村に仲間入りし ・ 就職するための 身分証 」、あるいは社会の不満に対する「 はけ口 」 としての左翼主義が横行しました。


[ 1-3、戦後左翼主義の終焉 ( しゅうえん ) ]

しかし 1991 年に マルクス主義総本山であった 旧 ソ連 ( 現 ・ ロシア ) の崩壊が起き、 1989 年に中国で天安門事件が起き、2002 年に北朝鮮の 「 金正日 」 が日本人の拉致 (4人生存、8人死亡など )を公式に認めると、共産主義 ・ 社会主義社会の 矛盾や国家犯罪が暴露 された結果、日本における左翼主義は支持者からの支持を失い 戦後左翼主義は終焉 ( しゅうえん、命の終わり ) の道をたどりました。

ちなみに平成 2 年 ( 1990 年 ) の衆院選で 136 名 もいた旧社会党 ( 現 ・ 社民党 ) の国会議員の数は、平成 25 年 ( 2013 年 ) の参院選の結果、衆 ・ 参両院議員合わせても僅か 5 名 に激減しました。朝鮮労働党と友党関係にあり、横田めぐみさんの拉致 を長年否定し続けた報いでした。


[ 2 : 古代日本について ]

古代日本の様子を知るためには考古学上の資料 ( たとえば発掘により出土した 土器 ・ 人骨 ・ やじり ・ 鏡 ・ 古墳など ) を調べることが必要ですが、それだけでは当時の政治情勢や社会の状態などを知ることができません。

そのためにはこの時代における文字資料 ( 史料 ・ 記録文書 ) などが必要ですが、 弥生時代の日本 には中国伝来の漢字の読み書きができる者が極めて少なく 、従って中国の歴史書や八世紀初頭に日本で完成した古事記 ・ 日本書紀などを手掛かりにする以外に方法がありませんでした。

ちなみに中国には 史記 ( 後述 ) を初め 、秦 ( しん ) ・ 漢王朝 ( 前漢 ・ 後漢 ) などの各王朝が作成した官撰の史書が存在したので、それにより弥生時代中期から 五世紀頃までの日本の状態を知ることができます。

班固

中国の正史の一つであり漢王朝 ( 別名 前漢 ぜんかん、紀元前 202 年 ~ 後 8 年 ) の歴史を、後漢 ( ごかん、25 ~ 220 年 ) の班固 ( はんこ、32 ~ 92 年 ) が記し 82 年頃成立した、 漢書 ( かんじょ ) 「 地理志 」 には次のように記されています。

夫( そ )れ楽浪 ( らくろう ) 海中 倭人 あり、 分かれて百余国となす 歳時 ( さいじ ) を以て来たり献じ見(まみ)ゆ

楽浪 ( らくろう ) とは漢の武帝が紀元前 108 年に初めて朝鮮半島を漢の領土とし、四つの郡に分けて支配しましたが、現在の平壌 ( ピョンヤン ) 付近にあった 一つの郡のことでした。そこへ日本人の先祖が海を渡って定期的に朝貢に来ましたが、当時の日本は 部族制の国が数多く存在 した状態でした。

日本列島の住人である 「 倭人 」 が中国の正史に登場 したのはこれが最初でしたが、 「 漢書 」 のできた時期などからみて、およそ 紀元 1 世紀頃 の日本の状態を記したものと思われます。

ちなみに魏 ( ぎ ) ・ 呉 ( ご ) ・ 蜀 ( しょく ) 三国の歴史を記した三国志 ・ 魏巻 30 ・ 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがん せんぴ とういでん ) ・ 倭人条 ) 、通称 魏志倭人伝 ( ぎし わじんでん ) により、 邪馬台国 ( やまたいこく ) や 卑弥呼 ( ひみこ ) など 三世紀の日本の政情 ・ 風俗などを知ることができます。

烏丸( うがん ) ・ 鮮卑 ( せんぴ ) とは、現在の中国東北部や内 モンゴルに住んでいた遊牧民の 東胡 ( とうこ ) から分かれた部族が建てた国です。魏志倭人伝が記す当時の日本とは、

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

( その意味 )

倭人は帯方郡の東南の大海の中におり、山の多い島の上に国や邑 ( むら ) をつくっている。もとは 百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは 三十国である

と記されていました。各地で部族制社会の首長から発展した 「 王 」 が建てた国は存在しても 、それらを広範囲に束ねた政治的 ・ 軍事的権力の トップの地位である 「 大王 ( おおきみ ) 」 は未だ存在していませんでした。


五世紀、 中国における南北朝時代の南朝 宋 ( そう ) の時代 432 年に、范曄 ( はんよう ) が書いた 後漢書 列伝 巻 85( 東夷列伝 ) には

建武中元二年 ( 西暦 57 年 ) 倭奴国 ( わのなのくに ) 貢 ( みつぎもの ) を奉じて朝貢す 使人 ( しじん ) 自ら大夫 ( たいふ ) と称す倭国 ( わこく ) の極南界なり。光武 ( こうぶ 帝 ) 賜うに印綬 ( いんじゅ、印とそれを下げる組み紐 ) を以てす

とありました。 倭奴国 ( わのなのくに ) の位置については日本書紀にある儺県 ( なのあがた )、那津 ( なのつ ) と記された地であるところの、現在の北部九州 ・ 福岡市 ・ 博多 の辺りとする説が有力です。その際に賜った 「 金印 」 については後述します。


[ 3 : 倭人と、カンガルー ]

前述した 魏志倭人伝 や宋書 卷 97 夷蛮伝 ( いばんでん ) ・ 倭國条 には日本列島人 ( 原住民 ) のことを 倭人 ( わじん ) と書き、倭人が住む国を倭国 ( わこく / わのくに ) と記していましたが、なぜ日本が ( わ ) と呼ばれるのかについては、下記の説があります。

  1. 日本列島人 ( 原住民 ) が中国人に国の名を問われて 「 我らの国 」 と答えた。 つまり 「 ワ 」 と言ったので、 「 倭 」 の漢字を当てた。 [ 鎌倉時代末期の 卜部兼方 ( うらべ かねかた ) ・ 一条兼良 ( かねら ) ・ 松下見林 ( けんりん ) の説 ]

    クック船長

    同じような例が他にもある。 イギリス人の J. クック船長以下の探検隊が 1770 年に オーストラリア大陸を発見した時のこと、カンガルーを初めて見た クック船長が原住民 ( アボリジニ ) に動物の名前を聞いたところ、初めて英語を聞いた彼は 「 カンガルー 」 と答えた。

    カンガルー

    アボリジニの言葉で 「 私は知らない 」 の意味であったが、それを聞いた船長は動物の名前だと思い、以後 その動物を英語で 「 カンガルー 」 ( Kangaroo ) と呼ぶようになった。

  2. その当時、日本の原住民が従順な性質を持っていたので、中国人がその意味の 「 倭 」 を当てた。( 江戸時代 本居宣長の説 )

  3. 原住民の体つきから見て 「 背が丸く曲がって低い 」 という意味で 「 倭 」 を当てた。 [ 藤堂明保( あきやす ) ・ 金関丈夫 ( たけお ) の説 ]

  4. 日本列島は中国本土から遠い、そこで 「 はるか遠いところ 」 という意味で、「 倭 」 を当てた。 ( 岸俊男の説 )

倭という漢字の意味について辞書の 「 大辞林 」 によれば、中国 ・ 朝鮮で用いられた日本の古称、または日本の自称とあります。( 上記の A に該当 )。

広漢和辞典によれば、「 倭 」 とは、

  1. したがう ( 順う )

  2. うねって遠い

  3. みにくい

以上の意味がありますが、中国ではその中華思想から周囲の異民族を蔑視 ( べっし、さげすんで見る ) する悪癖 ( あくへき ) があり、 悪い意味を持つ漢字 を当てて蔑称 ( べっしょう、さげすむ呼び方 ) としました。

それによれば東の異民族を東夷 ( とうい、東方の野蛮人、倭人も含まれる ) ・ 西方の異民族を西戎 ( せいじゅう、西方のえびす ) ・ 南の異民族を南蛮 ( なんばん、南方の野蛮人 ) ・ 北のそれを 北狄 ( ほくてき、 ) と呼び、秦 ・ 漢の時代に モンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族のことを 匈奴 ( きょうど ) という悪い意味の字を当てて 蔑称 ( べっしょう ) としました。

小日本

倭 ( ワ ) も日本の原住民が自称する発音の 「 ワ 」 「 みにくい、小さい意味がある 」 漢字の 「 倭 」 を当てた もので、現在も中国人が使う日本に対する蔑称は、 「 小日本 」 ですが、中国における反日 デモの際の プラカードをご覧下さい。ちなみに韓国でも日本人に対する蔑称は、 倭奴  「 わど 」 の 意味を持つ  「 ウェノム 」 です


[ 4 : 史記について ]

漢の武帝

古代中国における統一王朝、である漢 ( 前漢 ) ( ぜんかん、紀元前 202 ~ 後 8 年 ) の第 7 代皇帝であった武帝 ( 左図、紀元前 156 年 ~ 前 87 年 ) の時代に、歴史家の司馬 遷 ( しば せん、注 参照 ) が 史記 を編纂しましたが、これは太古の神話伝説の黄帝に始まり、前漢の武帝までの 二千数百年の歴代帝王の事業功績を記したものでした。

注 : 司馬 遷 ( しば せん )

歴史家の司馬 遷 ( 紀元前 145 年 ? ~ ? ) は、父の司馬 談 ( しば だん ) による歴史編纂の志 ( こころざし ) を受け継いだが、少数の兵力をもって匈奴 ( きょうど ) の大軍とよく戦い、遂に捕虜となった漢の武将 李陵 ( りりょう ) を弁護したために武帝の怒りに触れ、死刑に次ぐ重罪であった宮刑 ( 珍宝を切除 ・ 去勢する刑罰 ) に処せられた。

しかし彼は男性として耐えがたい屈辱に耐えながら修史 ( しゅうし、歴史書の編集 ) の志を貫 ( つらぬ ) き、本紀 ( ほんぎ ) 12 巻 ・ 年表 10 巻 ・ 部門別の文化史である書 8 巻 ・ 列国史である世家 ( せいか ) 30 巻 ・ 個人の伝記集である列伝 ( れつでん ) 70 巻からなる歴史書 「 史記 」 を完成させた。彼は中国最初の歴史学者であり、中国史の父と称された。

司馬遷

ところで後漢の蔡倫 ( さいりん、107 年 ? 頃 ) が紙を発明する以前には、一般の書物は 竹筒 ・ 竹簡 ・ 木簡が使用されていた。

それらの長さは漢代の尺で 1 尺 ( 約 22 センチメートル ) 幅は 5 分 ( 11 ミリメートル )、その 一片に 20 字前後の文字を記すのが普通であり、書体は隷書であった。上図の司馬 遷が書く、竹筒の束に注目。

彼が創始した本紀 ・ 年表 ・ 世家 ・ 列伝などのように、性質の異なる歴史記述の方法を併用した総合史の記述形式を 「 紀伝体 」 ( きでんたい ) と呼ぶが、この形式は後漢 ( ごかん、25 ~ 220 年 ) 王朝の班固 ( はんこ、32 ~ 91 年 ) が編纂し 82 年頃成立た漢書 ( かんじょ ) に受け継がれ、以後 各王朝の官撰正史の標準形式となった。


( 4-1、皇帝の称号、史記によれば )

始皇帝

初めて中国全土を統一 し自ら皇帝と称した秦の始皇帝 ( 左図、しこうてい、在位、紀元前 221 ~ 前 210 年 ) について、史記の秦始皇本紀 ( しん しこう ほんぎ ) には 皇帝の称号 を決める際の様子が記されています。

重臣たちは、天皇 ( てんこう )・ 地皇 ( ちこ う) ・ 泰皇 ( たいこう ) の三皇 ( さんこう ) のうち、最も貴い 「 泰皇 ( たいこう ) 」 とするように提案しましたが、秦王 ( しんおう ) の 「 政 」 ( 固有名詞 ) は、

泰 ( たい ) を去りて皇を著 ( つ ) け、上古の帝位の号をとり、号して 皇帝 と白 ( い ) はん

つまり泰皇 ( たいこう ) の泰を取り去ってとし、帝号のと組み合わせて皇帝にしようと秦王の政 ( 始皇帝 ) が言ったと記されていました。その称号を定める文脈で 三皇 ( さんこう ) についても触れていました。

秦始皇帝 ( しん しこうてい ) は自分がこの 三皇五帝 ( さんこう ごてい、 三人の 神、五人の 帝王 )より尊い存在であるとする考えから皇帝と言う言葉を造語し、自分に対する称号として使わせましたが、以降中国の支配者は皇帝を名乗ることになりました。

一般に 天皇 ( てんこう ) とは道教 ( どうきょう、注 参照 ) 系の 神名 であり、 北極星を神格化した神 をいう言葉でした。

注 : 道教とは

中国固有の宗教で、蓬莱 ( ほうらい ) など超自然的な楽園と、そこに住む神通力を持った神や仙人の存在を信じ、不老不死を目指す 「 神仙思想 」 と原始的民間宗教が結合した古代からの宗教である。

後に春秋戦国時代 ( 紀元前 722 ~ 前 221 年 ) の楚 ( そ ) の思想家であった老子 ( ろうし ) や 同じ時代の宋 ( そう ) の思想家の荘子 ( そうし ) の思想と、更に仏教を取り入れて形成されたところの、言わば 「 ごった煮 」 宗教であり、中国の民間習俗 ( しゅうぞく、習慣となった生活様式 ) に影響力を持った宗教のひとつになった。


[ 5 : 王と、大王 ( おおきみ ) ]

部族社会の大王

天皇という称号が成立する以前の日本では、 部族制社会の中で最大の権力を持つ者を 「 王 」 と呼びましたが、数ある王の中で政治的 ・ 軍事的権力の頂点に立つ者、英語でいうところの 「 King of Kings 、 王たち の 中 の 王 」 を、 大王 ( おおきみ ) と呼びました。

古代日本で 「 大王という称号 」 が使われたことを示す物的証拠が、古墳からの出土品の鏡 ・ 鉄剣にあります。


( 5-1、隅 田 八 幡 銅 鏡 )

隅 田 八 幡 銅 鏡

和歌山県 ・ 橋本市にある 隅田八幡神社が所蔵する隅田八幡 人物画像鏡 ( すみだはちまん じんぶつ がぞうきょう ) の背面の円周部分に記された 48 字の 金石文 ( きんせきぶん、金属器や石などに鋳刻または彫刻された文字 ・ 文章 ) は、日本古代史 ・ 考古学 ・ 日本語史上の貴重な資料であり 国宝 に指定されています。古い時代に発掘されたものといわれていますが、いつ頃発掘されたのかは不明です。

その銘文の一部には、

癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意柴沙加宮時斯麻念長寿( 以下省略 )

( その意味 )
( えとの ) 癸未 ( きび、みずのと ・ ひつじ ) の年 八月十日 大王年 男弟王 が意柴沙加 ( おしさか ) の宮におられる時、斯麻 ( しま、人名 ) が長寿を念じて---以下省略。

とありました。それでは 「 えと 」 でいう癸未 ( きび、みずのと ・ ひつじ ) の年とは西暦何年のことかといえば、 諸説あるものの 443 年、または 503 年に該当します 。

443 年とすると、この大王は、 第 19 代、允恭 ( いんぎょう ) 天皇 ( 在位 412 ~ 453 年 ) を指すものと解釈できます。


( 5-2、稲荷山古墳の鉄剣 )

埼玉古墳

1968 年 ( 昭和 43 年 ) に埼玉県 ・ 行田市 ( ぎょうだし ) 大字 埼玉 ( さきたま ) にある稲荷山古墳から鉄剣が出土しましたが、全長 73.5 センチ メートル、中央の身幅 3.15 センチメートルでした。

鉄剣の表裏に タガネ で文字を刻み、そこに 「 金線 」 を埋め込む 「 金象嵌 」 ( きん ぞうがん ) の手法で表に 57 字、裏に 58 字の合計 115 字の銘文が記されていました。その一部を下記に示しますが、当時から優れた彫金 ( ちょうきん ) 技術者の存在が推測されます。

( 銘文 )

獲加多支鹵 大王 寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

( その読み方 )

ワカタケル 大王の寺 ( じ、政庁 )、斯鬼 ( しき ) の宮に在る時、吾天下を左治 ( さじ、たすけ治め ) し此の百練の利刀を作らしめ、吾が捧事 ( ほうじ ) の根原を記す也

( その意味 )

ワカタケル 大王 が シキの宮にいた時、私は天下の政治を補佐した。そこでこの いわれを伝えようと、ここに刀を鍛えに鍛えて銘文を刻ませたのである。

稲荷山古墳の年代は考古学によれば 5 世紀後半 ~ 6 世紀前半とされるので、銘文の冒頭にある 「 えと 」 の 辛亥 ( しんがい、かのと い ) の歳とは 471 年か 531 年であり、大王とは雄略天皇に最も近いことになります。


( 5-3、江田船山古墳の鉄剣 )

江田船山古墳大刀

1873 年 ( 明治 6 年 ) に熊本県 ・ 玉名郡 ・ 和水町 ( たまなぐん なごみまち、旧 ・ 菊水町 ) の船山古墳から刃渡り 85.3 センチメートルの大刀 ( 直刀、ちょくとう、奈良時代までは刀身に反りが無い、まっすぐな刀を使用 ) が出土しましたが、その峰には 「 金象眼 」 ではなく、 「 銀象嵌 」( ぎん ぞうがん ) の銘文が刻まれていました。字数は約 75 字で、剥落した部分が かなりありました。

注 : 
X X X とは、「 銀象嵌 」 ( ぎん ぞうがん ) の銀が剥げ落ちて 「 解読不能の文字 」 を表します。

( 銘文 )

治天下 獲 X X X 鹵大王 世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

  ( 読み方 )

天 ( あめ ) の下 治 ( し ) ろしめし 獲 X X X 鹵大王 の世、典曹 ( てんそう ) に奉事せし人、名は无利弖 ( ムリテ )、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并 ( あわ ) す。八十たび練り、九十たび振 ( う ) つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、恩を得る也。其の統 ( す ) ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。

( その意味 )

獲 X X X 鹵大王 の時代に ムリテ が典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られた めでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったのは伊太 ( ワ ) で、銘文を書いたのが張安である。

と刻まれていました。この大刀の銘文の欠落箇所は、94 年もの長い間 獲 X X X 鹵大王 の読みが不明のままでした。ところが前述したように、1968 年に埼玉県行田市の 稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌 ( きんぞうがん ) の文字に、 獲 加 多 支 鹵 大 王 ( ワカタケル 大王 )と刻まれていたことから、欠落箇所が赤字で示す 獲 ( ワ ) 加 多 支 ( カ タ ケ ) 鹵 ( ル ) 大 王 であることが判明し、ここに大王の名前が確定しました。

以上の出土品から 五世紀 には漢字が日本で確実に使用されていると考えられています。ところが 636 年に成立 した随 ( ずい ) の史書である 隋書 卷 81 ・ 列伝 46・ 東夷には次のように記されています。

無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字

( その意味 )

( 倭国では ) 文字はなく 、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで ( 通信 ) する。仏法を敬 ( うやま ) い、百済 ( くだら ) で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。

金銅仏

538 年に百済の聖明王 ( 在位 523 ~ 554 年 ) が日本に初めて仏教 ( 金銅仏 ・ 仏具 ・ 教典 ) をもたらしたことは事実ですが、だからといって六世紀中頃までの日本に文字がなかったとは、前述の 五世紀の大王名 が銘文に刻まれた鉄剣や鏡の存在とは大きく矛盾する記述であり、信頼性に欠けます。




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