ソメイヨシノ ( 桜 )


[ 1:サイタ サイタ ]

国語読本

私が昭和 15 年 ( 1940 年 ) に東京市 ( 当時 ) ・ 豊島区 ・ 巣鴨にあった仰高北 ( ぎょうこうきた ) 尋常小学校 ( 現 ・ 大塚聾学校 ) に入学した当時、文部省発行の 国語読本 ( 国語教科書 ) 巻 一 の最初の頁には、

サイタ サイタ サクラ ガ サイタ 

国語教科書

と書いてありましたが、皆で声を合わせて読んだものです。それから今年で 丁度 70 年 になりましたが、その当時から日本全国どこの学校でも、校庭の周囲には桜の木が繁っていました。東京での ソメイヨシノ の開花は例年 4 月の初め頃ですが、入学式や 学年が進む季節に合わせて サクラ の花が咲き、子供たちの成長の節目に彩 ( いろどり ) を添えています。

( 1−1、校庭に桜が植えられるようになった経緯 )

三好学像

幕末の文久元年 ( 1861 年 ) に美濃国 ( みののくに ) 岩村藩 ( 現 ・ 岐阜県 ・ 恵那市 ・ 岩村町 ) の武士の家に生まれた三好 学 ( みよし まなぶ、1861〜1939 年 ) という人がいましたが、彼は東大植物学科を卒業後 ドイツに留学して植物分類学を学び、帰国後は東大教授になりました。その後 サクラ研究の第 1 人者といわれ、学士院会員になり、植物学者として明治 ・ 大正期における日本の植物学の基礎を築いた 1 人になりました。

後に内閣顧問になった彼は著書 「 桜 」 などで、ソメイヨシノの植栽 ( しょくさい、植え育てること ) が容易であり、 しかも咲いた姿が見事であるとして、

官衙 ( かんが、役所 ) や学校などの庭には、 サクラが最適である

として、サクラの植樹を薦めました。 江戸の昔から サクラ は花見などで日本人に親しまれていましたが、高位高官でした彼の意見が大きく影響を与え、全国の学校に サクラ しかも、 ソメイヨシノ が植えられるようになったといわれています。

( 1−2、花を愛する国民性 )

幕末に日本を訪れた スコットランド 出身の園芸家 ・ 兼 植物採集家の ロバート ・ フォーチュン ( 1812〜1880 年 ) は、著書 幕末日本探訪記 ( 江戸と北京 ) の中で、次のように述べていました。

日本探訪記

馬で郊外の小じんまりした住居や農家の小屋の傍らを通り過ぎると、家の前に日本人好みの草花を少しばかり植え込んだ小庭を作っている。

日本人の国民性の著しい特徴は、下層階級でも みな 生来の花好きなことである 。気晴らしに始終好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。

もし この花を愛する国民性が人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリス の同じ階級の人達に較べると、ずっと優れて見える。

とありました。

( 1−3、古歌における、ウメ と サクラ の数の比較 )

平安時代 ( 794〜1192 年 ) の初期に漢字の 「の 一部分 」 から 「 カタカナ 」 が作られ 、漢字の 「 草書体を更に 簡略化 」 した形から 「 ひらがな 」 が発明されましたが、それまでは日本語を表記するのに、 万葉仮名 ( まんようがな ) が使われました。

これは漢字が持つ本来の意味にとらわれずに、 漢字の音 ( おん ) や訓 ( くん ) を表音文字として使う 画期的な方法でしたが、サクラ を 「 佐久良 ( さくら ) 」 、または 「 佐区羅 ( さくら ) 」 と書きました。 「 桜 」 の文字が使われるようになったのは、奈良時代末期 ( 794 年 ) か平安時代初めになってからのことでした。

万葉集には 桜を詠んだ歌 ( 題を含む ) が 43 首 あるそうですが、梅を詠んだ歌はそれよりも 2.7 倍も多い 118 首 もあるといわれています。 一例を挙げると奈良時代前期の歌人で、万葉集に長歌 ・ 短歌が 50 首も収められていて、 三十六 歌仙 ( 注 : 参照 ) の 1 人である 山部 赤人 ( やまべの あかひと、生没年不詳 ) の歌で、詞書 ( ことばがき ) に 「 の花を折りて詠める 」 と記した歌があります。

万葉仮名 ( がな )で記された [ 原文 ]

百礒城之  大宮人者  暇有也  梅乎挿頭而  此間集有

[ 読み方 ]

百 ( もも ) しきの 大宮人は暇 ( いとま ) あれや、をかざして 此間 ( ここ ) につどへる。

ところが同じ 「 赤人 」 のこの歌が、 400 年後に編纂された新古今和歌集 ( 1205 年成立 ) になると、

百 ( もも ) しきの大宮人は暇 ( いとま ) あれや、 桜かざして 今日もくらし( 暮らし ) つ

梅から桜へと花が変化 して しまいました。 百 ( もも ) しき ( 敷き ) とは多くの石で築いた城の意味から 大宮 ( 皇居、宮中 ) にかかる枕詞 ( まくらことば ) であり、最初の歌の [ 意味 ] は、

宮仕えの人は今日は休暇であるらしい、楽しげに 梅の髪飾り をしてここ ( 春日野 ) に集っている。

ということです。 山部赤人は万葉時代の代表的歌人の柿本人麿 ( かきのもとのひとまろ、生没年不詳、天武 ・ 持統 ・ 文武朝の歌人 ) と並び、歌聖といわれたほどの優れた歌人でしたが、宮中での昇進 ・ 栄達とは無縁の下級官吏で人生を終えました。

注:) 三十六 歌仙
平安中期の歌人、藤原公任 ( きんとう、966〜1041 年 ) が編纂した 三十六 人撰 ( せん ) に選ばれた古今の優れた歌と歌人のことであり、具体的には 柿本人麻呂 ・ 小野小町 ・ 大友家持 ・ 紀貫之 ・ 山部赤人 ・ 在原業平 ・ 僧正遍昭など 36 人がいました。

ちなみに万葉集に収められている、梅と桜を題材に詠んだ 歌の数の違い について一説によれば、

  1. 文明先進国の随 ・ 唐の時代における文芸では、梅に比べて 桜に対する評価が低く、桜を詠んだ歌が かなり少なかった ので、中国からもたらされた文学的評価基準を、万葉時代の人々が 模倣したため

  2. 梅はもともと栽培植物であり、軒端梅 ( のきばうめ ) といわれるように、邸宅の庭先や人々の目につきやすい庭園に植えられたために、詩歌の題材として容易に選ばれた。

  3. 日本における当時の桜 は野生の ヤマザクラや花が小さい エドヒガンであり、場所が人目につきにくい野山で咲いたから。

  4. 梅花は蕾がほころび始めても枝が 一斉に開花することなく、1 輪 1 輪と順を追って咲き、花を楽しむ期間が 20 日前後あるのに対して、桜は咲き始めから満開まで 7 日〜10 日程度であり、散るのも早く花の賞美期間が半分しかないこと。

とありました。 菅原道真 ( 845〜903 年 ) が福岡の太宰府に左遷された際にを詠んだ、ご存じの歌があります。 [ 拾遺 ( しゅうい ) 和歌集 16 ・ 雑春 ・ 1006 年頃成立 ]

東風 ( こち ) 吹かば匂いおこせよ 梅の花 、主 ( あるじ ) なしとて春を忘 ( わす ) るな

日本において 梅と桜の文学上の地位 ( 素材価値に対する評価 ) が逆転 したのは、平安時代初期の 913 年頃に成立した日本初の勅撰和歌集である 「 古今和歌集 」 においてであり、詠まれた歌の数において桜が初めて梅を越えました。それ以後 桜の優位が続き 平安時代 ( 794〜1192 年 ) の詩歌に詠まれ、王朝文学にも記されていましたが、その当時 単に 「 花 」 といえば 「 桜花 」 のことでした。

[ 2:サクラの語源 ]

サクラの語源については、昔から種々の説がありましたが、現在に至るまで 定説とされるもの はありません 。参考までに諸説を列挙しましたが、皆さんはどれが最も確からしいと思われますか ?。

    木花咲耶姫

  1. 記紀神話によれば、伊勢神宮の祭神である天照大神 ( アマテラスオオカミ ) の孫である ニニギノミコト が地上に降り、九州の吾田 ( あた ) で、大山祗神 ( オオヤマツミノカミ ) の娘と結婚しました。

    この女性の木花咲耶姫 ( コノハナサクヤヒメ ) が非常に美しく、諸木 ( しょぼく ) の花の代表である 「 木 」 と美しさの点で競い合っていたので、姫の名前の 「 サクヤ 」 からその木を 「 サクラ 」 と呼ぶようになった。

  2. 国学者林 甕臣 ( はやし みかおみ ) によれば、花が咲く麗 ( うるわ ) しきに由来し、 咲き麗 ( サキウラ ) から 「 サクラ 」 になった。

  3. 辞書の 「 言海 」 によれば、サキウラ ( 咲き麗 ) の略で、古歌にも 「 うらうらと咲く 」 と詠われているとしている。

    桜の木肌

  4. 江戸時代前期の儒学者で 本草家 ( ほんぞうか、漢方医術で薬の原料となる動植物や鉱物の専門家 ) の貝原益軒 ( 1630〜1714 年 ) が書いた語源辞書である 「 日本釋名 ( しやくみょう )」 によれば、サクラ の語源は

    裂くる ( サクル ) 也、其木 ( そのき ) の皮 自ら立ちながら横にさくる物也。

    その樹皮が立ちながら自然に横に裂けるので、 サクル ( 裂ける )から 「 サクラ 」 に変化した。

  5. 別の説によれば、木の皮が 荒く裂けるので、「 サクアラ 」 から 「 サクラ 」 になった。

  6. 貝原益軒より丁度 100 年後に生まれた国学者の本居宣長 ( 1730〜1801 年 ) の 「 古事記伝 」 によれば、よろずの花の中で優れて咲き映 ( は ) える意味から、 咲映 ( サキハヤ ) から サクラに転化した。

  7. 民俗学者 ・ 歴史学者の和歌森 太郎 ( 1915〜1977 年 ) が書いた 「 花と日本人 」 によれば 、サクラは 「 サ 」 + 「 クラ 」 から成り、「 サ 」 とは 稲田 ( いなだ ) の神霊のことで、田植えは農事以上に、サの神の祭りの神事である。

    田植え月である 五 月にきわだって現れる 「 サ 」 は、「 サツキ、五月 」、「 サナエ、早苗 」 、「 サオトメ、早乙女 」 の 「 サ 」 であり、 「 クラ 」 とは 「 イワクラ 、磐 」 、「 タカミクラ、注参照、」 のように、 神霊が依り鎮まる所 の意味がある。春になると見事に咲く木は、春の神 ( 農耕神 ) が宿る 「 依り代、( よりしろ ) 」 であるとして、 サクラと名付けられた。

  8. 別の説によれば 、サクラとは 「 サク 」 + 「 ラ 」 のことであり、「 サク ( 咲く ) 」 に複数を意味する 「 ラ ( 等 ) 」 を付けて、花が豊かに咲くことから 「 サクラ 」 と名付けられた。

    とされます。

    注:)
    高御座

    タカミクラ ( 高御座 ) とは、朝廷での儀式の際に設ける天皇の御座所のことであり、そのことから 「 クラ 」 とは 神霊が宿ると考えられている 依り代 ( よりしろ、 つまり神聖な樹木、岩石、など ) の意味になります。

( 2−1、チェリー )

サクランボ

英語では セイヨウ ミザクラ ( 西洋 実桜 ) のように、サクランボ の収穫を目的とする木やその実を Cherry と呼び、日本で品種改良されたような 観賞用花木としての サクラ のことを、 Japanese cherry、Flowering cherry、Japanese flowering cherry などと呼びます。

さらに リンゴ、モモなどのように 果実が採れる木の花を ブロッサム といいますが、サクラ の花も フラワー ではなく Cherry blossom といいます。

( 2−2、吉野山の さくら )

御神木の桜

奈良県にある吉野山は平安時代から ヤマザクラ ( 山桜 ) の植樹がおこなわれてきたとする説がありますが、その理由は役小角 ( えんのおずぬ、注参照 ) が大和の葛城山 ( かつらぎさん、標高 959 メートル ) から熊野を経て大峰山の山上ヶ岳 ( 標高 1719 メートル ) に到着し、ここで 37 日間の修行をした際に感得した蔵王権現 ( ざおうごんげん ) の 影像を、 サクラの木に彫って山上の堂に祀ったことから、サクラ が 「 ご神木 」 とされたからです。

記録の上からは室町時代 ( 1336〜1573 年 ) の末期に、参拝する人たちが吉野山に桜の木を植えていたことが、右大臣にまで昇進した三条西 公条 ( さんじょうにし きんえだ、1487〜1536 年 ) の 「 吉野詣記 」 ( 1553 年 ) に記されています。

ほとりを見れば、立願 ( りゅうがん ) にて 花の木ども 植えてまいらせけるよし申せしに、百本の内 ( うち ) と札を付けたる木、その高 ( たけ ) 二尺余りなる木ども、いま 三年 ( みとせ ) 四年 ( よとせ ) の内に盛りの花の木たるべきことを想像 ( おもひや ) りて、( 以下省略 )

その [ 意味 ] とは
傍らを見ると ( どんな内容かは分からないが、金峰山寺の ) 蔵王権現に願をかけるため、桜の木を植えているのだと説明された。 100 本の内と札が付けられた桜の木は、高さ 2 尺 ( 約 60 センチ ) であるが、これから 3 〜 4 年もすれば、花を盛んに咲かせる木となるであろうことを想像して−−−。( 以下省略 )

ちなみに吉野では サクラ を木工の材料に使用しましたが、たとえ サクラ が枯れても、薪にはしなかったといわれています。

注:) 役小角 ( えんのおずぬ )
7〜8 世紀に大和の葛城山に籠もって修行し、神仏などの超自然的な存在に働きかけて、種々の現象を起こすとされる呪術者 ( じゅじゅつしゃ ) ですが、妖言 ( ようげん、人を迷わすあやしい言葉 ) を吐いたとの理由で伊豆に流罪に処せられました。山岳宗教である修験道の開祖とされる人物であり、役行者 ( えんのぎょうじゃ ) とも呼ばれます。

江戸時代の俳人、松尾芭蕉も古くから桜で有名な吉野山に花見に行きましたが、俳諧紀行文である 笈の小文 ( おいのこぶみ、1687 年に巡った旅の記録を、芭蕉の死後 1709 年に弟子が刊行 ) の中で、

よしのの花 に 三日とどまりて、曙 ( あけぼの )、黄昏 ( たそがれ ) のけしきにむかひ、有明の月 ( ありあけのつき、夜が明けて、なお空に残っている月 ) の哀れ ( あわれ、しみじみとした情趣 ) なるさまなど、心にせまり胸にみちて ( 以下省略 )

と吉野山に 3 泊したことを述べていました。

[ 3:サクラ の種類 ]

日本の サクラを大別すると野生種 ( 自生種 )、栽培品種 ( 園芸品種 )、自然雑種の 3 種類になりますが、園芸品種など数多く作られたので、日本における桜の種類の合計は百種類以上にもなるといわれています。 植物分類学上 サクラ は バラ 科 ・ サクラ 属に分類されますが、これには ウメ、モモ、スモモ などの亜属があり、サクラ 亜属に属するものを サクラ と呼びます。 つまり、サクラは ウメ、モモ、スモモ などと近い関係にありました。

サクラは有史以前から日本に自生していて、奈良時代 ( 710〜794 年 ) には園芸品種として既に栽培されていて、八重桜のように栽培 ( 園芸 ) 品種も多数作られました。ちなみに中国にも サクラ が存在しますが、花を観賞するよりも サクランボ を採るのが目的の中国種の桜桃 ( おうとう、シナミザクラ = 支那実桜 ) が一般的であり、詩歌にも詠まれました。

野 生 種
ヤマザクラ群ヤマザクラ、オオヤマザクラ、

オオシマザクラ、カスミザクラ

エドヒガン群エドヒガン
マメザクラ群マメザクラ、タカネザクラ
カンヒザクラカンヒザクラ
栽 培 品 種里ザクラ、八重桜

など多数の品種

自 然 雑 種ニッコウザクラ ( 日光桜 )、

チチブザクラ ( 秩父桜 )、

コヒガン ( 小彼岸 )

など多数の品種あり


ところで上記の表の中には桜の代表格である ソメイヨシノ が見当たらないことに気が付かれたと思いますが、実は ソメイヨシノ は ヤマザクラ群 に属する オオシマザクラ と エドヒガン群 に属する エドヒガン から 、江戸時代末期の安政年間 ( 1854〜1860 年 ) に江戸郊外 ・ 染井村の植木屋である伊藤某の手で開発された 新しい品種 であるといわれていました 。

ところが最近の DNA 研究の結果により、 オオシマザクラ と エドヒガン系の コマツオトメ から作られた ( または自然交配でできた ) とする説が、有力になりつつあります。

封建制度の下で普通なら賤しい身分の植木屋が名字など持てるわけがないので、伊藤家はそれなりの由緒のある家系であったに違いありません。

    大島桜

  1. オオシマザクラ ( 大島桜 ) とは、伊豆諸島・伊豆半島・房総半島に分布する木で、桜餅に用いる葉はこの サクラ の葉を塩漬けにしたもの 。 葉と 同時に 花が咲き 、白色の花の直径は大きく 4〜4.5 センチ。

    江戸彼岸桜

  2. エドヒガン ( 江戸彼岸 ) とは、日本、朝鮮半島、中国に分布し、葉より先に開花するが、直径 2.5 センチ の花を開花させる。

    染井吉野桜

  3. ソメイヨシノ ( 染井吉野 ) とは、現代の桜の代表品種であり、北は北海道南部から九州に至る各地で、気象台の開花観測の対象となっている。 葉より先に開花し 、花の大きさは 3 〜 3.5 センチ で淡い ピンク 色。

[ 4:ソメイヨシノ の人気の理由 ]

戦前に東京市 ( 当時 ) 公園課長を務めた井上清によれば ソメイヨシノ の人気の理由について、昭和 11 年 ( 1936 年 ) に以下の点を挙げています。

  1. 樹形の美しさ、均整のとれた扁平型で老木となれば枝は垂下して、短く太い幹を覆う姿は美しい。

  2. 成長は極めて早く、10 年にして立派に花として観られ、20 年にして壮観を呈し、30 年にして名木の姿を作る。

  3. 花は 一重であるが淡紅大輪にて花梗 ( かこう、ガク 筒 ) 長く、蕾は濃紅で花梗も紅色を帯びるので咲き始めは色濃く、満開に至って淡色となり、散り際に至って花底より更に紅を差し始める。

  4. 若葉を混 ( まじ ) えず、全く花のみが密生して樹枝を覆う壮観は 八重桜に優るものがある。

  5. 繁殖は接ぎ木であるが活着容易 ( かっちゃく、接ぎ木の成功率高く、簡単 )で価 ( あたい、価格 ) は他の サクラ よりも低廉 ( ていれん、安い )

  6. 吉野桜の名と明治初年における宣伝が良かったこと。



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